トゥハチェフスキー粛清事件に見られる民衆のスターリン支持について――クロンシュタット叛乱を偲ぶ

「赤いナポレオン」こと、ソ連赤軍元帥ミハイル・トゥハチェフスキーが1937年6月にスターリンに粛清(処刑)された際に、当時の日本の左翼文学者たちはこの事件を以下のように捉えたとのことである。

 

“ 昭和十年代の初頭において、左翼的あるいは同伴者的知識人の間に政治にたいするアパシーを増大させたのは、たんに運動にたいするあい重なる弾圧と、運動内部から巨頭の続々とした転向だけがきっかけとなったのではなかった。そこにはトータルな「理論」によって裁断され、余り切れとして下意識の世界に埋積した非合理な情動が、運動の下降によって急激に意識化(←90頁91頁→)され、それが「理論」と等式に置かれた「政治」にさまざまの形で復讐したという要因があった。とくに転向し脱落しながらも依然として心の底にコンミュニズムという「信条」の炎を燃やしつづけて来た作家に深い衝撃をあたえたのはソ連におけるトハチェフスキー事件の報道であった。一部の旧プロ作家(引用者註:「プロレタリア作家」の略)がもともと反政治的な「文学主義」の旗をかかげていた小林秀雄ら『文学界』の主流の路線に思想的に一層接近するようになった少なからぬ動機はこの報道にあった。けれども彼等の衝撃の核心は、たんに実際政治の生々しいリアリティをあらためて思い知らされたための嫌悪と恐怖だけにあったのではなく、昨日までの同志にたいするあの大粛清が自他ともに許すマルクス・レーニン主義の最高の理論家の決断として行われたという問題に否応なくつきあたったところにあった。”

丸山真男『日本の思想』岩波書店、1961年11月20日第1刷発行、90-91頁より引用)

 

要するに、トゥハチェフスキーやその他のボルシェヴィキに対する大粛清が、「自他ともに許すマルクス・レーニン主義の最高の理論家」、同志スターリンによって行われたことがきっかけで、当時の日本の左翼文学者は否応なしにマルクス主義の理論そのものを懐疑し、小林秀雄らの当時のメインストリームの文学路線に走ったとのことである。

 

ちなみに旧プロレタリア作家たちが接近した小林秀雄はトゥハチェフスキーが粛清(処刑)されてから1月後の1937年7月7日に盧溝橋事件が勃発し、日中全面戦争に突入する世相の中で、このように述べている。

“ 戰爭に對する文學者としての覺悟を、或る雑誌から問はれた。僕には戰爭に對する文學者の覺悟といふ樣な特別な覺悟を考へる事が出來ない。銃をとらねばならぬ時が來たら、喜んで國の爲に死ぬであらう。僕にはこれ以上の覺悟が考へられないし、又必要だとも思はない。一體文學者として銃をとるなどといふ事がそもそも意味をなさない。誰だつて戦ふ時は兵の身分で戦ふのである。

小林秀雄「戰爭について」『新訂小林秀雄全集第四巻――作家の顔』新潮社、1982年10月30日4刷、288頁より引用。)

 

「一体文学者として銃をとるなどという事がそもそも意味をなさない。誰だって戦う時は兵の身分で戦うのである」(新字新仮名に修正)と小林秀雄が断言している通り、文学者として眼前の中国との全面戦争にどう向き合うかという発想は、当時日本学のメインストリームだった『文学界』にあってはほとんど考えられなかったことなのであろう。トゥハチェフスキー粛清事件に衝撃を受けて小林秀雄路線に接近した当時の左翼文学者が、小林秀雄のように兵の身分で戦争に臨もうという発想に至ったのは想像に難くない。

 

さて、以上のようにトゥハチェフスキー粛清事件は、日本共産党の壊滅後にも心の奥底で共産主義を堅持していた日本の左翼文学者の中で、その奥底を揺るがせるに足る破滅的な事件として捉えられたが、他方、ソ連本国ではまた違った見方がなされていた。当時のソ連社会の雰囲気について、以下のような研究が存在する。

 

“ このトハチェフスキー事件は、ソ連邦国内はもちろん諸外国にも深刻な影響を与えた。国内では、各労働組合が一斉にソ連軍将星の驚くべき裏切り行為に非難の声をあげ、続々と職場会議を開いて銃殺に賛成の決議をスターリンにおくった。パリ・コミューン工場の労働者や、オルジョニキッゼ記念工場労働者たちが、その先頭にたっていた。”

(菊地昌典『増補・歴史としてのスターリン時代』筑摩書房、1972年3月25日初版第1刷発行。)

 

トゥハチェフスキー粛清事件によって、日本の左翼知識人が自らが心の奥底に抱いていたマルクス主義への信条を揺るがせたのに対し、ソ連国内ではむしろトゥハチェフスキーへの情状酌量や真相調査を求める声よりも、裏切り者を処刑せよという反応が一般的であり、しかもそれがプロレタリア(近代的産業労働者)階級の支持の下に行われたということである。

 

これは完全に私の予想で資料上の根拠はないけれども、恐らくは、トゥハチェフスキーのみならず、ブハーリンやクン・ベーラ等の大物共産主義者に対するスターリンの大粛清について、1930年代のソ連社会内にはそれを歓迎する雰囲気があったのではないか。私自身には大粛清に際するソ連の労働者の心性について、詳しい史料的な事実を調査した経験もその予定もないが、そのような印象を抱かせるに足るのは、以下に示すソ連崩壊後の2000年代のロシアの労働者のスターリン観である。

 

" 一九九一年以降、大半の人にとってレーニンはもはや羨望の対象ではなく、ソ連末期でさえボリシェヴィキ革命の神話全編がその正体をあばかれていた。十年一日の如く、レーニン廟は赤の広場に――ロック・コンサートが開かれ、軍人風の刺青が目につき、冬には大勢の一般客がスケートを滑っているようなところで――場違いなまでに佇んでいる。対照的に、スターリン本人や現在のロシアの政権による彼の評価に対する民衆の態度は、非常に興味深く、いろいろ考えさせられる。両者ともに典型的なボリシェヴィキであったが、レーニンが帝国の破壊に従事した一方、スターリンは帝国の建設者となった。

 ソ連解体後、スターリンの人格や役割をめぐるロシア人の評価は真っ二つに分かれている。二〇〇九年八月の世論調査では、一二%が彼を国家的な犯罪者として断罪するとし、二六%がどちらかといえばこの意見に近いとしている。しかし、回答者の一二%が有罪という判断に反対であるとし、概してこの見方に近いとする人々も三二%にのぼる。

 これと一対の、ロシアの歴史に対するスターリンの貢献の評価に関する調査では、四九%が彼の貢献を肯定的と捉えたのにたいし、四二%が否定的に考えていた。二〇〇三年の五三% 対 三三%という数値から若干の変動があったということになる。スターリンの名は、大祖国戦争独ソ戦〕、そして大半のロシア人によって共有され、いまなお語り継がれる国民的神話である一九四五年の対ナチス・ドイツ戦勝と密接(←349頁350頁→)に結びついている。

 一部の人々が疑念を抱いたように、ロシアのテレビ局による視聴者投票の操作がなかったとすれば、実際にはスターリンがおそらく史上最も人気のあるロシアの指導者となっていたであろう。「大衆」は、秩序の回復――人気漫画の台詞に「彼ならその『悪(テロ)』とうまく戦う方法を知っている」とある――、汚職の撲滅、上司の横暴阻止を願って、スターリンの方を向いているのである。多くの一般人は、それぞれの立場で、スターリンをまずもって帝国の建設者、そして戦時指導者と見ているのである。彼らにとって、スターリンとは強い国家、完璧に近い秩序、さらには畏怖の念を抱くような帝国の象徴でもある。

 興味深くかつ印象的なことなのだが、新時代の識者による歴史論争でレーニンは目立つ存在ではなかった。トロツキーにいたっては言うまでもなく、存命中に成し遂げたことよりも、どんな死に方であったかに注目が集まっている。共産主義や革命にかかわったエリートや指導部は、ますます見向きもされなくなる。全人口中、二九%がボリシェヴィキ革命について社会・経済の発展の方向性を決めた事件と考えているが、二六%はそれを発展の障害ないし破滅とさえ見做している(同じくらい優勢なグループが、革命を「新しい時代」の先行きを示したものとしている)。破壊者としての革命家とは一線を画し、スターリンや彼のもとで働いた閣僚、科学者、将軍たちは国家や帝国の建設者として見られている。スターリンの犯した罪は白日の下にさらされているが、多くの人にとって、それらは彼の成し遂げたとされる事業を帳消しにするものではない。時間の経過とともに、スターリンの業績を評価するのが妥当であり、彼の罪状は当時の残虐性全般に帰するものとされるようになった。

(ドミートリー・トレーニン/河東哲夫、湯浅剛、小泉悠『ロシア新戦略――ユーラシアの大変動を読み解く』作品社、2012年3月15日第1刷発行、349-350頁)

 

ドミートリー・トレーニンが報告する通り、2000年代のロシアの民衆はスターリンを肯定する声と否定する声がほぼ半々に分かれており、スターリンを肯定する半数の人々は、スターリンが行った大粛清や農業集団化の事実を知った上で「当時の残虐性全般」(いうまでもなくナチス・ドイツによる大虐殺であろう)の中にそれを位置付け、事実上免責しているのである。とりわけ、「汚職の撲滅、上司の横暴阻止を願って」スターリンの方を向いているロシアの民衆の中には、トゥハチェフスキーを「横暴な上司」として捉えた上でそれを阻止したという点で、スターリンを評価するという視点も存在するのではないかと考えた方が自然だと思うのだ。

 

事実としての大粛清が多数の死者を出した凄惨な事件であったことは疑いないものの、その大粛清をして近代的産業労働者=プロレタリアート自身が「(自ら指導者による)汚職の撲滅、上司の横暴阻止(の実現)」と解釈する場合、恐らくこれはマルクス主義の枠組みの中では批判できないと私は考えている。というのも、マルクスエンゲルスの『共産党宣言』には、

 

“ 現在ブルジョア階級に対立しているすべての階級のうちで、プロレタリア階級のみがほんとうに革命的な階級である。その他の階級は、大工業が起るとともに衰退し、滅亡する。プロレタリア階級は大工業のもっとも独自な生産物である。

 中産階級、すなわち小工業者、小商人、手工業者、農民、これらはすべて、自分たち中産階級としての存在を破滅から守るために、ブルジョア階級と闘う。したがってかれらは革命的ではなく、保守的である。なおそれ以上に、かれらは反動的である。なぜなら、かれらは歴史の車輪を逆にまわそうとするからである。かれらが革命的であるばあい、それは自分の身に迫っているプロレタリア階級への移行を顧慮してのことであり、かれらの現在の利益をではなく、未来の利益を守るためであり、かれら自身の立場を捨ててプロレタリア階級の立場に立つのである。

 ルンペン・プロレタリア階級、旧社会の最下層から出てくる消極的なこの腐敗物は、プロレタリア革命によって時には運動に投げこまれるが、その全生活状態から見れば、反動的策謀によろこんで買収されがちである。

マルクスエンゲルス/大内兵衛向坂逸郎訳『共産党宣言岩波書店岩波文庫〉1971年改訳、53頁より引用)

 

という記述により、「プロレタリア階級」には、「その他の階級」(小工業者、小商人、手工業者、農民、ルンペン・プロレタリア)に比べて格段に高い地位を与えられているが、プロレタリア階級に「労働者の敵を粛清することこそが革命だ!」と開き直られた場合(21世紀になっても続いているロシアの民衆のスターリン崇拝はそういうことだと私は考えている)、この『共産党宣言』の原則的立場に忠実なマルクス主義者なら「労働者の意志」に引き摺られざるを得ないと、私は考えるからである。少しだけ寄り道すると、1848年の『共産党宣言』刊行から50年以上経った1902年の時点では、すでに先進資本主義国となり、労働者が経済成長の恩恵を受けて生活条件を向上させていたドイツやイギリスや北アメリカでは、この「プロレタリア階級のみがほんとうに革命的な階級である」という『共産党宣言』の断言は成立しなくなっていた。ロシアのレーニンはこの事態に際し、カウツキーに依拠して「階階級的・政治的意識は、外部からしか、つまり経済闘争の外部から、労働者と雇い主との関係の圏外からしか、労働者にもたらすことができない」(ヴェ・イ・レーニン村田陽一訳『なにをなすべきか?』大月書店〈国民文庫110〉、1971年7月30日第1刷発行、121頁より引用)と述べ、現実の労働者の意識が『共産党宣言』にあるような革命的な意識ではない場合、革命的な階級的・政治的意識を外部の前衛党(共産党)から労働者に持ち込むことを主張したが、後述するようにこれはさらに大きな問題をもたらすものであった。

 

以上でスターリンによるトゥハチェフスキー粛清事件に対しての受け止められ方がソ連の内外でかなり異なったことと、近代的産業労働者=プロレタリア階級に対して、「プロレタリア階級のみがほんとうに革命的な階級である」(『共産党宣言』)という評価を与え、その評価の延長線上に「国家の死滅」(エンゲルス『反デューリング論』)までの一時的な状態として「プロレタリア独裁」を肯定するマルクス主義の枠組みの中でそれを否定するのは困難なのではないかという私の議論は終わりだが、全体の文脈の中で内戦中に「赤いナポレオン」として軍功を立てていた時期のトゥハチェフスキーについて述べたいことがもう一つある。

 

1921年3月1日、レーニン率いる共産党ボルシェヴィキ党が「プロレタリア独裁」の名の下に旧帝政派の白軍や社会革命党(エス・エル)、メンシェヴィキ(西欧型マルクス主義者)、アナーキストウクライナのマフノ軍団)といった諸党派に対する攻撃を繰り広げていた最中、ソ連北方のクロンシュタット軍港にて、アナーキズムに影響された水兵達が共産党政権に対する反乱を開始した。勝田吉太郎氏はこの様子をこのように描いている。

 

“……三月一日に全軍艦と要塞守備兵から集った一万六〇〇〇人の水兵が大会を開いた。秘密投票によるソヴェトの即時改選、一切の労働者と農民に対する、またアナーキストと左翼エス・エル党に対する言論出版の自由、労働組合および農民団体への集合の自由、全政治犯の釈放とその調査委員会の設置、「政治局の廃止」、――「けだしいかなる政党もその理念の宣伝に特権をもつべきでなく、かつその目的で国家から資金を受けとるべきではないからである」――、軍隊内における共産党選抜隊および工場内における共産党(←237頁238頁→)守備隊の廃止などを含む十五の要求が決議された。水兵たちが掲げた要求は、当初からアナーキスト的傾向を帯び、大会の議長ペトリチェンコはじめ多くの指導者たちは、アナーキストのシンパであった。”

勝田吉太郎アナーキスト筑摩書房、1966年11月30日初版第1刷発行、237-238頁より引用)

 

3月7日にクロンシュタットの叛乱水兵は軍港新聞「イズヴェスチヤ」第5号にて「第三革命」(1905年、1917年の革命に続く第三のロシア革命の含意)を宣言し、彼らが共産党赤軍に鎮圧される前に発行した新聞の最後の号となった1921年3月16日発行の「イズヴェスチヤ」第14号には、レーニン共産党政権に対する体系的な批判が述べられている。興味深いので以下に引用する。

 

 

“ 「十月革命をなしとげるにあたり、赤軍の水兵と兵士たち、労働者と農民たちは、ソヴェトの権力樹立のため、労働者の共和国建設のため、血を流した。共産党は、大衆の希求に注意を注いだ。党は、労働者たちの熱意を喚起させる魅力的なスローガンを旗印に記して大衆を闘争に引き入れ、ボリシェヴィキだけが建設できる美しい社会主義の王国へと導くであろうと、大衆に約束した。……

 巧妙な宣伝にあやつられて、労働者階級の息子たちは党の陣列へ引き入れられ、厳格な規律に服することになった。次いで、共産党は十分に強大となったと感じはじめるや、まずはじめに他の諸傾向の社会主義者たちを権力から斥け、その後労働者と農民を国家の多くの職務から逐い出し、しかも今なお労働者・農民の名において統治しつづけている。……あらゆる理性に違反し、労働者たちの意志を無視して、自由な労働にもとづく社会を建設する代りに、彼らは(←241頁242頁→)奴隷制に基礎をおく国家社会主義を頑固に築こうとしはじめた。

 産業が、いわゆる《労働者管理制》の導入にもかかわらず、完璧に解体させられるや、ボリシェヴィキは工場施設の国有化をうち立てた。かくして労働者は、資本家の奴隷から国営企業の奴隷へと転化した。やがて事態はこれだけですまず、彼らはテイラー・システムの適用さえ計画するようになったのだ。

 全農民大衆は人民の敵と宣言され、《クラーク》(富農)と同一視された。ついで共産主義者たちは進んで農民を破滅に導き、ソヴェト型搾取を導入した。つまり、新しい農業の高利搾取者たる国家の所有地を生み出したのだ。農民が多年待望してきたところの解放された土地における自由な労働の代りに、彼らがボリシェヴィキ社会主義から得たものは、これだけでしかなかった。パンと家畜はほとんど残りなく徴発され、その代償に農民が得たのはチェカの襲撃と大量射殺であった。パンの代りに弾丸と銃剣――これが労働者の国家における、ありがたい交換制度であった!

 市民の生活は、当局の規制にがんじがらみにしばりつけられ、死ぬほど単調かつ凡庸なものに転化してしまった。確認の自由な労働と自由な発展によって活気づけられた生活の代りに、未曽有の、かつ信じられないほどの隷従が発生した。一切の自由な思考、犯罪的支配者たちの行為に対するすべての正しい批判が犯罪とみなされ、投獄に、しばしば死刑にさえ処せられる結果となった。実際、この人間性に対する恥辱である死刑は、《社会主義の祖国》において広(←242頁243頁→)範に拡がった。

 これこそが共産党の独裁によってもたらされた社会主義の美しい王国の真相なのだ。われわれが得たものは、当局とその絶対不可謬を自称する人民委員たちが命令するままにおとなしく票を投じる官僚的ソヴェトを従える国家社会主義なのである。《働かざるものは食うべからず》というスローガンは、このうるわしい《ソヴェト》政権の下で、《あらゆるものを人民委員へ》というスローガンに修正されてしまった。労働者、農民、知識労働者の運命は、牢獄のなかで与えられた仕事を履行することでしかないのだ。

 これは、もはや堪え難いものとなった。革命的クロンシタットこそは、この牢獄の鎖と鉄格子とを打破せんとする最初のものとなった。それ(革命的クロンシタット)は、生産者自身が自己の労働生産物の所有者となり、彼の欲するままにそれを処分しうる、労働者の真のソヴェト共和制を実現すべく闘争するものである。”

勝田吉太郎アナーキスト筑摩書房、1966年11月30日初版第1刷発行、241-243頁より引用)

                

既に赤軍の指導者であったトロツキーは3月6日にラジオでクロンシュタットの叛乱水兵への投降を呼びかけていたが、この「イズヴェスチヤ」第14号が発行されたのと同じ1921年3月16日に、第7軍司令官トゥハチェフスキー率いる赤軍のクロンシュタット総攻撃が開始された。

 

“ こうした事実(引用者註:クロンシュタットの新聞「イズヴェスチヤ」紙が攻撃側である赤軍将兵に広く読まれていたという事実)を知りぬき、また、編制、補給、士気向上にかんしてすべての必要な措置をとった後で、第七軍司令官トゥハチェフスキーは、三月一五日、その有名な命令を発した。彼は、三月一六日夜から一七日にかけての一斉総攻撃よってクロンシュタットを占領すべし、と命令したのである。第七軍の全連隊が、手榴弾、白い上着、有刺鉄線切断用の剪断機、それに機関銃運搬用の小橇で装備された。

 トゥハチェフスキーの作戦は、南面より決定的な攻撃を開始し、そののちほかの三面より、同時に大兵力を投入した突撃を慣行してクロンシュタットを占領する、というものであった。

(中略)

 市街戦は恐るべきものであった。赤軍兵士はその将校を失い、赤軍兵士と防衛軍は形容しがたい混乱のうちに、まじり合ってしまった。敵味方の区別がまったくつかなくなってしまったのである。市内の一般住民は、銃撃にもかかわらず政府軍部隊と親しく交歓しようと試みた。臨時革命委員会のビラは、依然として撒かれていた。水兵たちは、最後にいたるまで、兄弟的な交歓を求め続けたのであった。

(イダ・メット/蒼野和人、秦洋一訳『クロンシュタット叛乱』風塵社、2017年12月31日第1刷発行[鹿砦社より1971年に刊行された書の復刊]、70頁、71頁より引用。)

 

攻撃の結果、3月21日までに黒色水兵達の叛乱はソヴィエト赤軍によって鎮圧された。後年スターリンによって粛清されることになるトゥハチェフスキーとトロツキーは、自らの勇名を輝かせた内戦時に、レーニンの掲げる「プロレタリア独裁」の下でクロンシュタットのアナーキスト水兵を虐殺・追放してソヴィエト権力の確立に寄与したのであった。ちなみにトロツキースターリンによってソ連を追放された後、1938年1月15日に亡命地のメキシコのコヨアカンでこのように述べて自己の立場を正当化している。

 

“ クロンシュタット蜂起が、何故にアナキストメンシェヴィキ、そして《自由主義的》反革命派に、まったく同時に痛みを感じさせることができるのだろうか? 答えは簡単だ――こうした連中は皆、その旗を決して見捨てたことがなく、敵と決して妥協したことがなく、未来を代表する、唯一の純粋に革命的な潮流(引用者註:トロツキー自身が結成した第四インターナショナルのことか)を貶めることに関心を抱いているのだ。私のクロンシュタットにかんする《犯罪》を今頃になって非難する連中のなかに、かつての革命家もしくは半革命家――綱領も原則も喪失し、第二インタナショナルの堕落やスペインのアナキストの裏切りから目をそらさせることが必要だと考えている人びと――が、かくも多いのはこのためなのである。

(中略)

 クロンシュタットをめぐる現在の論争は、水兵の反動分子がプロレタリア独裁を転覆しようとした、かのクロンシュタット蜂起そのものと同様の階級軸のまわりを回っている。小ブルジョア的俗物や折衷主義者は、こんにちの革命的政治の領域では無能であることを自覚しているので、古ぼけたクロンシュタットのエピソードを第四インタナショナル、すなわちプロレタリア革命の党にたいする闘争に利用しようというのである。この当世風の《クロンシュタット一派》もまた粉砕されるであろう――実に幸いなことに彼らは要塞をもっていないので、武器を使用することもなく……”

(レオン・トロツキー/秦洋一訳「クロンシュタットをめぐる非難・弾劾」イダ・メット/蒼野和人、秦洋一訳『クロンシュタット叛乱』風塵社、2017年12月31日第1刷発行[鹿砦社より1971年に刊行された書の復刊]、152頁、169頁より引用。)

 

 

 

1971年の時点でトロツキー主義を擁護する立場に立っていた湯浅赳男氏(はこの件について、1921年にあって、ロシア労働者国家を防衛できたのはレーニンボルシェヴィキだけだったとして、これを苦渋の立場から肯定している。

 

“ しかしながら私は、こうした見解(引用者註:クロンシュタットで共産主義政権に叛乱した水兵を擁護するアナーキストやイダ・メットらの見解)が一九二一年に勝利を占めたならば、ロシア労働者国家はおそらく崩壊していたであろうと判断する。なぜならば、クロンシュタットの叛乱の根は決して局地的なものではなく、まさしくそれは全国的な危機であったであろうからであり、しかも、叛乱者はロシア労働者国家の指導を引き受ける用意がまったくなかったと判断されるからである。すでにアナキストも、エス・エルも、メンシェヴィキも大衆によってテストされ、その正体を暴露したのが一九一七年より二〇年に至るまでの歴史ではなかったか。反革命の攻撃よりソヴィエト政権を防衛しえたのはボリシェヴィキ党ただ一つであったことも、歴史が明確に示しているところではないか。したがって、二一年の危機の段階において彼らが進出したとしても、それがロシア労働者国家を防衛しえたとは想像することさえ不可能である。この意味で、レーニンの次の言葉はおそらく正しいものであったろう。すなわち、「彼らは確かに白軍を欲してはいない。しかし、彼らはわれわれの政権をもまた欲していないのだ。」「われわれは商業(←183頁184頁→)の自由を要求し、プロレタリアートの独裁に抗議する民主主義的小ブルジョアのデモに直面しているのだ。しかし無意識に、彼らは白軍の踏み段、椅子、架け橋として役立とうとしているのだ。」”

(湯浅赳男「ロシア革命における《一九二一年》」イダ・メット/蒼野和人、秦洋一訳『クロンシュタット叛乱』風塵社、2017年12月31日第1刷発行[鹿砦社より1971年に刊行された書の復刊]、183-184頁より引用。)

 

同時代の大杉栄はクロンシュタット叛乱の鎮圧の翌年に当たる1922年に、「労農政府すなわち労働者と農民との政府それ自体が革命の進行を妨げる最も有力な反革命的要素であることすらわかった…(中略)……ロシアの革命は誰でも助ける。が、そんなボルシェヴィキ政府を誰が助けるもんか」(大杉栄「生死生に答える」初出『労働新聞』1922年9月号、飛鳥井雅道編『大杉栄評論集』岩波書店岩波文庫〉、1996年8月20日第1刷発行、255頁より引用)と述べ、レーニントロツキーらが「プロレタリア独裁」の下で行った行為の権力性を批判している。湯浅氏自身は大杉について直接は言及していないが、上記の引用部で湯浅氏が「こうした見解」と呼んで否定する見解の一部であろう。私として湯浅氏の見解について思うことは、「ロシア労働者国家の指導」における優位性を共産党のみが有しているという判断から、「プロレタリア独裁」の名の下に、レーニントロツキーやトゥハチェフスキーによるクロンシュタット叛乱の大弾圧を容認するならば、同じ「ロシア労働者国家の指導」を理由に「レーニンの弟子」ことスターリンがトゥハチェフスキーやトロツキーを粛清したことについても、根源的な部分での批判はできないのではなかろうかということである。

 

「階級的・政治的意識は、外部からしか、つまり経済闘争の外部から、労働者と雇い主との関係の圏外からしか、労働者にもたらすことができない」(レーニン『何をなすべきか?』)というレーニンの規定を「科学的社会主義」の前提とする限り、クロンシュタットで労働者や農民出身の水兵達が共産党政府に対して自由の拡大を求めて叛乱しようとも、その叛乱を弾圧する側の共産党が「階級的・政治的意識」を労働者に対して「外部から」もたらす存在である以上、仮に現実の労働者の叛乱を暴力で抑え込もうとも、共産党の主観的には労働者階級の意識の貫徹ということになってしまう。労働者としての適切な階級的・政治的意識は、労働者の外部からしかもちこめないのだから、労働者の主観は却って不必要なものになるという驚くべきエリート主義の表現なのである。レーニンも主観的には「労働者階級の利益」について考えてはいただろうけれども、その主観が現実の労働者が見聞する事実を交えないでも成立する性質である以上、「労働者階級の利益」の名の下に、知識人出身の革命家によるどこまででも独善的な党利党略の追及が、主観的には労働者階級へのパターナリズムの実現として可能になってしまうという恐るべき事態が生起する。

 

そしてさらに言えば、既に引用した通りドミートリー・トレーニンによれば、2000年代のロシアにおいて、”多くの一般人は、それぞれの立場で、スターリンをまずもって帝国の建設者、そして戦時指導者と見ているのである。彼らにとって、スターリンとは強い国家、完璧に近い秩序、さらには畏怖の念を抱くような帝国の象徴でもある”とスターリンを認識しているという事実が存在する。湯浅氏のように、「ロシア労働者国家の防衛」を評価するならば、1930年代にスターリンが農業集団化により農民を犠牲しながら重工業化を推進したことによって、ナチス・ドイツから「ロシア労働者国家を防衛」する基盤を築き上げ、ファシズムを打倒したことについて、スターリンの実績を疑うことはできないのではないかと、ロシアの民衆の中でスターリンを高く評価する人々と同様に、考えざるを得ないと思うからである。スターリンは生前、ドイツの作家のインタビューに答えて「私はレーニンのでしにすぎません。私の生涯の目的は彼のりっぱなでしになることです。」(スターリン全集第13巻、124頁)と述べていたが、スターリンの行ったことはクロンシュタットの叛乱水兵の武力鎮圧を決断した師レーニンの継承であり、マルクスレーニンの弟子としての立場に忠実だった結果が、スターリンの大粛清だったのではないか。

 

スターリンが「階級的・政治的意識は、外部からしか、つまり経済闘争の外部から、労働者と雇い主との関係の圏外からしか、労働者にもたらすことができない」(レーニン『何をなすべきか?』)という前提の下で、大粛清や農業集団化などで多くの犠牲を出しながらも重工業化を実現してロシア労働者国家を防衛し、適切な階級意識共産党から持ち込まれるに至ったロシアの労働者がそれを肯定する。これこそがマルクス主義が行き着くべくして行き着いてしまった地点ではなかったであろうか。

 

トゥハチェフスキーは決して無垢で善良な軍人ではなかった。「赤いナポレオン」になる過程で「プロレタリア独裁」の名の下に多くの人々を殺傷し、自身も「プロレタリア独裁」の名の下でスターリンに粛清されてしまった。もしこのことを悲劇だと思い、かつ現在のグローバル資本主義の世界に対して自由主義・リベラル思想の枠組みの中ではそれは解決し得ないと考えるのであるならば、『共産党宣言』にある「現在ブルジョア階級に対立しているすべての階級のうちで、プロレタリア階級のみがほんとうに革命的な階級である」という規定そのものから疑わなければならない。私は現在の日本社会と日本国家のあり方にも、グローバル資本主義に対しても、それが真に人間らしい生き方を実現するに足りないと感じているし、自由主義・リベラル思想の枠組みの中ではそれは解決し得ないと考えるためマルクス主義者ではない社会主義者を称しているが、現在の閉塞感を打ち破るための思想としてマルクスルネッサンスを進めるべきだと考える人にとっても、出発点はこの地点であって欲しいと思っている。