「近代日本に於ける思想と文学の社会性の起源についての考察」再掲に当たっての弁明

2013年に友人のラッコ君(twitterID: @rakkoannex)、に「根源」というテーマで何か書いてくれと言われ、『概念迷路』という雑誌に「近代日本に於ける思想と文学の社会性の起源についての考察――人生相渉論争を基準にした思想と文藝の存在意義について――」という論文のようなエッセイを書きました。

 

 

当時私は25歳、宝達揉由(ほうだつモミュ)を名乗り、大学を出て無職、先の目標もない、メンタルも完全に病んでいるという中で、そろそろ真剣に社会復帰をしなければならないということと、そのために自分が20代前半まで抱きながらもその暴力性ゆえに離れることにしたマルクスレーニン主義毛沢東思想との訣別を言葉にして残さなければならないと考えていたところだったので、ラッコ君のお誘いを受けて渡りに船とばかりこのテーマで物を書くことにしました。以下は2013年に書いた本稿について、その後思想的な変化を遂げた2021年の私が感じたことについての弁明となります。

 

「近代日本に於ける思想と文学の社会性の起源についての考察」の最後の方にて、私は以下のように記述しました。

 

“明治大帝の治世は大韓帝国を併合するという失政を含むものであったが、だからといって近代日本を実現した明治時代を全否定するのは誤りであるように、毛主席もその治世に於いて様々な過ちを犯したが、それでも中国の統一を為した毛主席時代を全否定するのは誤りである。”

 

白状すると、当時の私には、明治国家による朝鮮と台湾への侵略政策をどう考えるかについての定見がありませんでした。また、これは現在も考えが変わらない点なのですが、「思えば明治以後今日までの外交交渉に於て対外硬論は必ず民間から出ていることも示唆的である」(丸山眞男超国家主義の論理と真理」『丸山眞男セレクション』平凡社、2010年、77頁より引用)ということに思いを馳せると、1873年明治6年)の「征韓論」政変の際に強硬に「征韓論」の実践を唱えた不平士族達やこれに続いた後の自由民権壮士達(大井憲太郎や中江兆民など)と、少なくとも慎重派ではあった木戸孝允大久保利通といった明治政府の最高指導者達を比べた際に、どちらが「より小さな悪」であったかは、一方が国家権力の最高指導者であり、他方がそれに反対する不平士族や自由民権壮士であったという属性からは直ちに引き出すことができないものだと考えています。

 

参考までに挙げると、自由民権運動の理論的指導者であり、現在も誤って「小国主義」の理論家として知られる中江兆民は、1891年4月に発表した「凡派の豪傑非凡派の豪傑」という政論を発表しています。この政論で中江兆民は、

 

“南洲翁は非凡派の豪傑なり、曩きに翁の志伸び、数万精鋭の兵を率いて、朝鮮に入り、更に深く入らしめしならば、亜細亜の大勢今如何、南洲翁非凡の業を打消して、翁の八千子弟をして禹域の蛟龍と成らしめずして、内地の蝘蜒と為らしめて、我日本を凡殺して、今日の日本をして今日の如くならしめたるは誰れの罪否功ぞや、農、工、商、会社、国会、政党、新聞記事、詩、文、官、民、善事、悪事、日本国、都て是れ造化陶鋳の物、都て是れ凡、都て是れ庸、都て是れ聖人、都て是れ燐、都て是れ窒素、都て是れ蛆虫、糞塵、幻影、泡沫”

 

(中江兆民「凡派の豪傑非凡派の豪傑」『自由平等経綸』1891年4月15日に発表されたものを小林瑞乃『中江兆民の国家構想――資本主義と民衆・アジア』明石書店、2008年9月30日初版第1刷発行、116頁より重引)

 

 

と述べて、西郷隆盛の曩き(さき)の「征韓論」が実施されていたら今のアジアが如何に良くなっていたかという文脈から、征韓論を阻止した木戸孝允大久保利通らの政府要人を非難しています。ここから読み取るに、自由民権運動の理論的指導者にして、侵略される朝鮮王朝の人々への視点が全く存在しなかった点においては、明治政府の指導者とほとんど変わりがなかったことは明らかでしょう。中江兆民は後に大逆事件で処刑される日本初のアナキスト幸徳秋水の師でしたが、幸徳が伝えるほど優れた人物であったかについては改めての検討が必要だと私は感じています。

 

“ もしバクーニンが強調したように、国家が「悪」の領域であるならば、政治的手腕の「技法」は本質的に、より小さな悪とより大きな悪のどちらかを選ぶという領域であり、倫理的な正と不正にかかわる領域ではない。”

(マレイ・ブクチン/藤堂麻理子、戸田清、萩原なつ子訳『エコロジーと社会』白水社、東京、1996年7月10日発行[原著1990年]、213頁より引用。)

 

果して自由民権運動は明治国家の指導者と比較した際に、より小さな悪であったのでしょうか。自由民権運動および日本の自由主義運動が結局のところ、日本帝国主義を肯定する点において大日本帝国とほとんど変わらないのならば、我々は自由主義よりももっと根本的な反帝国主義の発想を、外来思想の受け売りではなく、江戸時代までの我々自身の思想から学ばねばならないのではないでしょうか。そしてそれは今日にあっては、近代自由主義社会を通過しなければ未来に社会主義社会を実現できないとするマルクス主義よりも、アナキズムに近いものだと私は考えています。

 

そしてもう一点、ここで私が明治天皇のことを「明治大帝」と書いた理由について少しだけ触れることにします。現在、成田空港となっている千葉県の三里塚の地には、元々、明治時代に天皇家により宮内省下総御料牧場が作られており、戦後の高度経済成長の中で中村寅太運輸大臣自民党の川島正次郎氏により下総御料牧場を移転させ、440万町歩(132万坪)の土地を空港の建設用地とする案が出されました(吉田司『宗教ニッポン狂騒曲』文藝春秋、1990年9月25日第1刷、19-20頁より)。最初期の成田空港建設反対闘争は、この御料牧場を空港に変えようという「世が世なら不敬罪ものの悪知恵」(吉田司)を提出した政府自民党案に対する農民の反対運動であり、勢いそれは愛国的・尊皇的なものになったのです。吉田司は当時80歳を超えていた空港反対同盟老人決死隊の隊長、菅沢一利についてこのように書いています。

 

“「蒼生の安寧と幸福を旨とせられる天皇陛下の御仁徳にすがり奉り、不敬を憚らず冀わくは政府をして新国際空港建設地選定を再調査せしめ賜らんことを」

 

 昭和天皇への上奏文をたずさえて、菅沢以下代表十五名が宮内庁への直訴を敢行したのは、一九六八年四月、奇しくも明治百年目の桜が皇居の庭に咲きにおい始めた頃のことである。

 その日宇佐美宮内庁長官は不在。代って瓜生次長が会談し、「用地内で一人でも反対者のあるときは、政府公団といえども、牧場内に一歩も足を踏み入れさせない」との“固い約束”を取り交わしたという。更に翌年の七月には五十六人の老人決死隊が、「明治大帝偉業達成せし発祥の地・下総御料牧場の存続を訴える」という横断幕を張って、真夏の太陽の照りつける二重橋前に坐りこんだ。結果はどうなったか?

 三里塚闘争を二十五年にわたって支援しつづけ、今は現地でラッキョウ工場を経営している佐山忠(46)は、当時の想い出をこう語る。

「政府決定をくつがえせるのは天皇さんしかいないと思って、爺さんたちは天皇のところに行くんだよ。そら、戦後の天皇に政府決定を変更させる力なんかあるわけないよ。だけど理屈じゃないんだ。菅沢さんたちはホントにそう信じ込んでいたんだよ。おまけに瓜生のヤツが、『みなさんの気持は良くわかる』とか、『必ずお上に伝える』とか返事したもんで、爺さんたちはすっかり良い気分になる。それが、どうだ。二回目に行った時には手の裏を返したような扱いだった。

 夏の暑っつい中をバス一台で行ったんだよ。皇居の内にも入れないんだよ。そこで仕方ねえから皇居前で坐り込んでたら、宮内庁の方も困りはてたわけ。また瓜生のヤツが出てきて、『御料牧場は栃木県の高根沢に移転します』ナンテ、ぬかしやがったんだ。爺さんたちは、それでダァーッと落胆しちまってな……。

 だって、三里塚の年寄りはみんな御料牧場を自分たちの土地同様に思って育ててきたんだ。皇室が秋のきのこ刈りしたり狩したりする林野の管理も、馬や牛や豚飼ってハム作ったり、羊の肉を皇室の台所に送り届けたりするのも、全部近くの百姓たちの労働奉仕で成りたっていたんじゃないか。安い賃金で、文句も言わず精一杯奉仕してきたのは、そら、みんな牧場を愛していたからなんだ。

 八十歳の菅沢さんが機動隊とぶつかって逮捕された時、なんて言ってたと思う? 

『明治大帝になりかわって、征伐するッ』って叫びながら、機動隊に『天誅!』の糞を、肥桶の糞ぶっかけながら、一人突っ込んで行ったんだぜ。そういうね、日本で最後の、最良の天皇の赤子たちを、天皇家は見棄てたんだよ。裏切ったんだ」”

吉田司『宗教ニッポン狂騒曲』文藝春秋、1990年9月25日第1刷、23-24頁より引用)

 

 

右翼思想家の北一輝には「明治大皇帝は生れながらなる奈翁(引用者註:ナポレオン)なりき」と論じた著作があるそうです(私は北一輝著作集第2巻146頁のその文言がある箇所を引用で知り、直接参照したのではないのですが、非常に示唆的なので言及します)。日本マルクス主義史にあって最高の理論家である講座派の山田盛太郎が『日本資本主義分析』(岩波書店、1934年)を書いた時に、戦前日本の農民が大日本帝国のあり方(その植民地確保=侵略政策も含めて)を支持する理由として、「家長的家族制度」と共に「ナポレオン的観念」(山田盛太郎『日本資本主義分析』)の存在を挙げていましたが、当時も今も明治天皇をナポレオンと対比する発想を表現する際に、この「明治大帝」という表現が的確かと私は考えています。明治天皇が「明治大帝」として見られていた時代があり、それが民衆の世界でも生きていたからこそ、大日本帝国において天皇制に反対することは困難を極めた。福永操氏も『共産党員の転向と天皇制』(三一書房、1978年)で似たようなことを述べていましたが、この点が余り左翼運動圏の人々にもそうでない人々にも認識されていないのではないか。だからこそ、当時私は、「明治大帝」という表記を用いたのでした。

 

 

 

ただ、今になって心残りな点として、この書き方だと私自身が「明治大帝」を肯定しているような書き方だと読めてしまうと再読して感じました。そういう書き方になった理由について、当時の私は、反対派への凄惨な粛清や対外強硬論を重ねつつも、国民国家を実現した明治時代の日本と毛沢東時代の中国について、両者ともに一定の成功を見ていたからだと言えます。現在の私は、日本にせよ中国にせよ、あのような対内的対外的な犠牲を出す形での国民国家形成は誤りであり、取り得べき路線ではなかったのではないかと思うようになりましたが、この文章を書いた際にはまだそこまで強くそうは思えていませんでした。また、本格的に日本思想史の本を読み始めてからは、それまで朝鮮や中国に対する侵略政策の思想家だと認識していた吉田松陰や、近代の国体論・天皇崇拝の源流となったのだとばかり思っていた平田派の国学者の中の生田万、相楽総三、青山半蔵といった人々にこそ、世直しを裏切られた江戸時代の人々の願望が反映されていたのではないかと思いを抱くようになったのです。もしそれが正しい形で実現していれば、明治国家とは異なる形での近代日本を実現し得たでしょうし、21世紀初頭を生きる我々が次の時代の理想を目指す際の参照点になるとも考えています。ただ、今も私はそれをまとめることはできていません。吉田松陰や平田派国学者の著作は反天皇制反日帝国主義、そして自由と正義の文脈から読み直すことができると私は考えており、それは今日の日本アナキズム思想の一つのテーマになり得ると考えていますが、残念ながら今の私には荷が重いテーマとなっています。

 

 

 

また、一点だけ発見できた事実についての訂正があります。マルクス主義労働貴族論について論じた部分で当時の私は、

 

「むしろマルクスエンゲルスが革命的にならないイギリスの工場労働者を「労働貴族」と呼んで批判したのが現実であったのだ。」

 

と書きましたが、この点は私の調査不足であり、マルクス労働貴族論についての本格的な展開を行っておりませんでした。したがって、この部分は以下のように訂正しなければなりません。

 

「むしろエンゲルスが革命的にならないイギリスの工場労働者を「労働貴族」と呼んで批判したのが現実であったのだ。」

 

 

以上、長い前置きとなりましたが今回のブログへのアップロードに際して、上記の労働貴族論の部分に関する修正と、引用時にミスをして旧字を新字に直して引用していた箇所の修正以外は、全て当時のまま掲載することにしました。上述の明治時代の日本と毛沢東時代の中国を対比しつつ、両者に一定の成功を見る部分や、初期マルクスについて何もわからずにただ書かなければならないという思いで書いた三木清についての記述や、日本の帝国主義思想に対する甘めの筆致や、全体を通してぎこちない文体など、個人的に書き改めたい部分は山のようにあるのですが、それを改めるともはや2013年に25歳でこの文章で書いた時に言いたかったことが根本的に変わってしまう気がするため、当時のまま残すことにします。この文章の背景になっているのは保守派の学者、坂本多加雄氏の日本近代思想史研究と、レーニンの研究者、太田仁樹氏のマルクス主義思想史研究ですが、山路愛山毛沢東を繋げるという25歳の自分の無理のある試みの中に、この両者を総合しつつ、山路愛山の如くに日中関係を「中国脅威論」以外のあり方で捉えて現実を文章で作り上げようとする努力を見てもらえたら、それに勝る喜びはありません。

 

いずれ思想的に変化した部分について、しっかりと言語化できる日が来ることを望みつつ。