【読書録】勝田吉太郎『人類の知的遺産49――バクーニン』講談社、1979年12月10日第1刷発行。

勝田吉太郎『人類の知的遺産49――バクーニン講談社、1979年12月10日第1刷発行。

 

保守派の思想史家によるバクーニンの研究書。1968年に白井厚氏がウドコックの『アナキズム』(原著1962年)を翻訳刊行した際には、まだ日本にはバクーニンの専門の研究書は存在しなかったらしいので、1979年に刊行された本書は恐らく日本初のアカデミックなバクーニン研究の書となる。

 

  1. バクーニンの思想
  2. バクーニンの生涯
  3. バクーニンの著作
  4. バクーニンと現代

 

の四章から成り、思想と伝記的事実を追うことができる正統派の研究書となっている。内容としては、同著者による『アナーキスト――ロシヤ革命の先駆』(筑摩書房、1966年)や猪木正道勝田吉太郎編『世界の名著42――プルードン バクーニン クロポトキン』(中央公論社、1967年)と重複する点も多いが、著者のバクーニンへの特別な思い入れを感じることができる上に、1979年の時点での最新の伝記研究と、主要著作を概観できるので、アナキズムに興味のある人なら是非読むべき一冊となっている。例えば、伝記研究に関して言えば、それまで多くの論者がバクーニンの作品としていた『革命家の教理問答(カテキズム)』が、実はバクーニンによるものではなくネチャーエフ単独によるものであったことが、本書186-191頁にて述べられている。も勝田吉太郎氏は、ニヒリズムと破壊に満ちた『革命家の教理問答(カテキズム)』について、この文書の内容を知りながらネチャーエフを支援していた時期があった以上はバクーニンも「道徳的な連帯責任を免れることはできないのではなかろうか」(本書187-188頁より引用)と述べているのだが。

 

ネチャーエフ問題はバクーニンのその後も心に残っていたようで、勝田吉太郎氏は最晩年のバクーニンは道徳の問題に心を寄せていたことについて触れている。

 

“ 旧い同志や知識人の革命家たちに見放され廃残の日々を送る老闘士は、こうして額に汗して働く名もない庶民のなかに新しい友を見出したのであった。この頃、最晩年の彼が最も重要な事柄とみなすようになったのは、道徳の問題であった。革命のためには一切が許されるとみて、しばしばテロに訴えようとする弟子たちの行動や、ネチャーエフ主義への彼自身のかかわり方に対す(←216頁217頁→)る反省が、死に臨んだ老革命家の心をはなれなかったのであろうか。彼はロスにこう書いた。「ジェスイット的詐欺行為の上に、生きたものや確乎たるものは何一つ築くことはできない。革命活動は、自己自身の成功のためには、卑俗で低級な情熱に助けを求めてはならない、けだかく、もちろん、人間的な理想がなくては、どんな革命も勝利を博することはできないのだ。」(Лисьма М.А. Бакунина и А.И.Герцну ц Н.П. Огареву, стр.455)”

(本書216-217頁より引用)

 

 

著者はバクーニンの絶筆となった『国家性とアナーキイ』に対し、前著作の『アナーキスト』から引き続き、反ユダヤ主義と反ドイツ主義を見ている(本書305-306頁)。反ドイツ主義については本書に採録されている部分からでも伺えるが、反ユダヤ主義については、果して「反」という言葉で呼ぶべき程のものであろうか。確かに本書で伺える部分にて、マルクスやラッサールを批判する際に、「マルクス氏は、出身がユダヤ人である。彼はこの有能な種族がもつ一切の特性と欠陥とを一身にそなえているといってよい」(本書314頁より引用)とそのユダヤ人の出自について論じている辺り、ユダヤ人への偏見は見られるであろう。しかし、本書でバクーニンの反ドイツ主義について、

 

“『国家性とアナーキイ』の全篇いたるところに浸透しているのは、かつて聖ペトロパウロフスク要塞の薄暗い獄舎で書かれ、ニコライ一世に提出された『告白』のなかでひそかに吐露されていたのと同じ反ドイツ感情である。そうした民族的偏見によって歪められたイマジネーションの不鮮明な鏡面に、不思議にもヒットラー主義の面貌が、あの『わが闘争』のなかで露骨に描かれた“民族社会主義”の世界制覇の野望、わけてもソ連社会主義絶滅の企図が、先取りされて映じだされているかのようである。”(本書306頁より引用)

 

とまで述べているのには、やはり疑問が残る。バクーニンについてユダヤ人への偏見や反ドイツ主義は見られ、それは今日のアナキストバクーニンを継承する際に批判しなければならない部分であるが、ショア―(いわゆるホロコースト)を行ったヒットラーと同列に論じるのは反共主義者であった勝田吉太郎氏の読み込みすぎではなかろうか。尤も、私は『国家性とアナーキイ』を通読したわけではないので、いずれ通読して自身の目で確かめることにしたい。

 

本書の最後の節である「アナーキズムと現代新左翼」にて、勝田吉太郎氏は、1950年代以降のマルクーゼ、ルフェーブル、フランツ・ファノンオクタビオ・パスといった新左翼の理論家たちが、一見マルクス的なレトリックを用いながらも実はバクーニンの思想の影響が濃厚であることを論じている(本書353頁)。この点こそ、戦後の新左翼運動がトロツキー主義や毛沢東思想などのマルクスレーニン主義諸派の理論によりつつも、前衛党理論以外の面において実はバクーニン的だったことを考えるうえで示唆深いのではないかと思った。

 

最後に、本書で最も感銘を受けたバクーニンの論述を、『国家性とアナーキイ』より引用して述べる。同時期に読んだ星野源さんの『そして生活は続く』(文藝春秋、2013年)で、生活を大事にしなかったのが良くなかったと似たようなことを言っていたのが非常に印象深かった。ミハイル・バクーニン星野源さんの間には特に共通点はないが、抜きんでた人間の考えることは似るということなのだろう。(詳しくはこちらhttps://booklog.jp/users/2a5b6358bb54e0dc/archives/1/4167838389?type=post_social&ref=twitter&state=reviewを参照)

 

“ われわれ革命的アナーキストは、全人民の教育、社会生活解放とその広範な発展の擁護者であり、したがって国家とあらゆる国家化への敵対者であって、すべての形而上学者、実証主義者、学識の有無を問わずあらゆる科学の女神の跪拝者とはちがって、自然生活ならびに社会生活こそが思想に先行するも(←311頁312頁→)のであり、思想は生活の一機能にすぎず、けっしてこの結果ではないことを確認する。生活は一連の抽象的な内省によってではなく、一連の種々な事実によって、自己の内部の涸渇することのない深部から発展してくること、また抽象的内省はつねに生が生みだすものであって、逆に生を生みだすものではなく、ただ道標として生の方向やその自立自生の発展のさまざまな局面を指示するにすぎないことを、われわれは確認するのである。”(バクーニン勝田吉太郎訳『国家性とアナーキイ』勝田吉太郎『人類の知的遺産49――バクーニン講談社、1979年12月10日第1刷発行、311-312頁より引用)