反ユダヤ主義を克服できなかったユダヤ人国家イスラエル(パレスチナとイスラエルの戦争に関する時事解説)

はじめに

2023年10月7日、パレスチナ武装勢力の攻撃により、イスラエルパレスチナの武力衝突が始まりました。真に残念ながら双方に多数の死傷者が出ており、これ以上の犠牲者が出る前に、双方が早期に戦闘を終えることを強く望みます。

本稿は、なぜ西アジアユダヤ人の国民国家イスラエルが建国されたのか、そしてイスラエルが建国されたことが、ユダヤ人にとってどのような歪みをもたらしているのかについて論じるものです。その意味で、本稿は「パレスチナ抜きのパレスチナ問題」の解説となります。不十分であることを恥じつつ、このような方向からの時事解説は余りないと思うため、空隙を埋めることに寄与すれば望外の幸いです。

 

 

本稿の概要

イスラエルはヨーロッパのユダヤ人差別への反差別運動の結果として生まれた
・ヨーロッパのユダヤ人差別にはキリスト教、右翼陰謀論、左翼社会主義によるものがある
・現在のイスラエルはアラブ系イスラエル人を筆頭とする非ユダヤ人の法的権利を制限しているきわめて差別的な国家であり、また、戦時体制が慢性化しているため、右派政権に対して懐疑的なユダヤイスラエル人にとっても息苦しい社会となっている。
・しかし、現在のイスラエルは、ヨーロッパの右派反ユダヤ主義政権との友好関係を拡大し、これらの諸国に住むユダヤ人を事実上見捨てている。
・民族差別に対してナショナリズムを掲げ、国民国家を建設することは、差別を解決しない。むしろナショナリズムは差別や暴力、隷属を強化する。

 

1.ユダヤ人差別に反対する思想としてのシオニズム

1894年、フランスにて、ユダヤ人でフランス陸軍の将校であったアレフレド・ドレフュス大尉がスパイ容疑で逮捕されました。しかしながら逮捕の根拠は極めて薄弱であり、スパイ行為の真犯人は他にいるのではないかとの疑惑が出る中で、次第にドレフュス大尉がユダヤ人であることを理由にした不当な逮捕なのではないかとの主張が国内の左派から生じ、フランス国内を二分する大論争に発展しました。後述の通り、ヨーロッパにあっては、長らくユダヤ人は差別的な地位に置かれており、各国で自由主義的な憲法が制定され、キリスト教徒とユダヤ人の形式的な平等が実現した後も差別意識は続きました。

当時、オーストリア・ハンガリー帝国ユダヤ人ジャーナリストであった、テオドール・ヘルツルは、この事件を取材する中で、フランス国内に強く残るユダヤ人差別に強い衝撃を受けました。1789年に勃発したフランス革命により、自由・平等・友愛の人権宣言の下で、ユダヤ人を解放したフランスにあって、革命から100年以上経ってもなおユダヤ人差別が残っていることに、現在のハンガリー出身のユダヤ人、ヘルツルは驚きを隠せなかったのです。

フランス革命のような自由主義革命による各国の国民への「同化」がユダヤ人差別を解決しないと思い至ったヘルツルは、1896年2月に帝都ウィーンでユダヤ人による国民国家建設を訴える『ユダヤ人国家』を出版します。初版3000部ほどのパンフレットだったこの書物はたちまち欧州内の(中国のユダヤ人社会には影響は及ばなかったようです)ユダヤ人社会に影響を及ぼし、ユダヤ人社会内部での賛成派と反対派に分かれます。以下、ヘルツル自身が語ることを見てみましょう。

“ 私がこの書物のなかで述べるのは、きわめて古い思想である。それは、ユダヤ人国家の創設の問題である。
 世界には、反ユダヤ人の叫びがこだましている。そしてこの叫びが、まどろんでいたこの思想を呼び覚ますのだ。”
(テオドール・ヘルツル/佐藤康彦〔訳〕「ユダヤ人国家――ユダヤ人問題の現代的解決の試み」『ユダヤ人国家』法政大学出版局〈叢書・ウニベルシタス330〉、1991年5月30日初版第1刷発行、1頁より引用)

“ ところでいま、これは手間ひまかかる事柄のように思われるかもしれない。どんなに好都合の場合でも、国家創建の開始ともなれば、なお長い歳月をまたねばならないように思われるだろう。その〈←101頁102頁→〉間にユダヤ人たちは幾千もの地点でなぶり物にされ、痛めつけられ、非難され、鞭打たれ、略奪され、殴り殺されるのだ。いや、我々がこの計画の着手にかかるだけで、反ユダヤ主義は至るところでただちに鎮静するのだ。なぜならば、これは平和条約の締結なのだから。……”
(テオドール・ヘルツル/佐藤康彦〔訳〕「ユダヤ人国家――ユダヤ人問題の現代的解決の試み」『ユダヤ人国家』法政大学出版局〈叢書・ウニベルシタス330〉、1991年5月30日初版第1刷発行、101-102頁より引用)

 

ヘルツルはユダヤ人が主に欧州で差別され、迫害され、暴力の犠牲になっていることを強く受け止め、その解決策として、欧州からユダヤ人がどこかに移住してユダヤ人の国民国家を作りあげることを主張しました。ここで注意しておきたいのは、この時点ではヘルツルはユダヤ人国家の建設候補地として中東のパレスチナと南米のアルゼンチンを挙げており、彼個人としては必ずしもパレスチナにこだわる意図がなかったことと、ヘルツル自身がパレスチナやアルゼンチンに元から住んでいる人との軋轢について全く考えていなかったこと、そして、ヨーロッパを離れる身でありながら、ユダヤ人を、ヨーロッパ文明を体現する存在として捉えていたことです。ヘルツルの『ユダヤ人国家』を翻訳した佐藤康彦氏は、ヘルツルのこの姿勢について、以下のように述べています。

“ しかしなんといってもこの書の持つ最大の問題点は、パレスチナあるいはアルゼンチンについての無知と、そこに現に住む人々への配慮の欠如である。たしかに、もっぱらヨーロッパ的な教養の中で育ち、十九世紀のヨーロッパ諸国に澎湃として起こったナショナリズム思想に強い影響を受けていた一人のユダヤ知識人にたいして、これを求めるのはおそらく酷なのかもしれない。しかし、この問題は、すでに出版後まもなく何人かの親しい同志から批判されたところでもあった。……(中略)……
 いずれにしても、アラブ軽視のこの欠陥の背後には、当時のヨーロッパ知識人たちの発想の根底にあった、ヨーロッパ至上の優越感が潜んでいたことは疑いない。この書においても、聖地イエルサレムを訪れるキリスト教徒への丁重な配慮は示されても、この地にはるかに多数現に住んでいるイスラム教徒への言及はまったく見られず、民族協和――これは初めてのパレスチナ旅行ののちに書かれた長編小説『古き新国家』のなかで一層ユートピア的に展開される――の短い提唱はあっても、「ヨーロッパのために我々はその地でアジアに対する防壁の一部を作るであろうし、野蛮に対する文化の前哨の任務を果たすであろう」とヘルツルは〈←194頁195頁→〉記すのである。”
(テオドール・ヘルツル/佐藤康彦〔訳〕「訳者あとがき――ヘルツルと『ユダヤ人国家』」『ユダヤ人国家』法政大学出版局〈叢書・ウニベルシタス330〉、1991年5月30日初版第1刷発行、194-195頁より引用)

こうして、極めて楽観的な見通しの下でユダヤ人の国民国家を作りあげるシオニズム運動が始まりました。この発想は一つの民族が自らの国民国家を作りあげるべきだとするナショナリズム思想のユダヤ人版であり、この当時欧州で極めて強力な思潮であった各国のナショナリズムの影響抜きには成立しなかったでしょう。その意味でシオニズムは右翼的な思想運動であり、実際、後述するように、シオニズム運動が出来る前も出来た後も、左翼的なユダヤ人はシオニズムを選ばず、自らを解放するためにマルクス主義アナーキズムといった左翼思想を選んだのでした(尤も、後述の通りアナーキズムにせよマルクス主義にせよ、左翼社会主義思想は決して反ユダヤ主義は無縁ではなく、この点は現在の左翼人士が自己批判しなければならない点となっています)。反ユダヤ主義に対抗する思想運動は、ヨーロッパ大陸部の自由主義の中心であったフランスにあって、自由主義による同化政策が失敗したとの前提から始まる運動であるがゆえに、政治的に中央にある自由主義を乗り越えるために右に行けばシオニズムナショナリズム)に、左に行けば社会主義アナーキズムマルクス主義)となったのです。尤も、次節で述べるように、特に強い政治思想を持たずに、社会の反ユダヤ主義に内心で反対しつつ、同化政策の中で経歴を重ねた人も数多くいました。そのような人の中に、フランスのシトロエンオーストリアフロイトや名を挙げることができます。

(2023年11月5日追記:厳密にはシオニズム運動を立ち上げたのは、ロシア帝国における1881年ポグロムに対応したロシア帝国ユダヤ人であり、その中から生まれた現ウクライナオデッサのレオン・ピンスケルが書いたドイツ語の小冊子、『自力解放、ロシアの同胞への警告』(1882年)であり、執筆者は本稿執筆時にこのことを詳しく知りませんでした(参照:上田和夫『イディッシュ文化――東欧ユダヤ人のこころの遺産』三省堂、東京、1996年12月10日第1刷発行、88-89頁。)しかし、本稿では「自由主義による同化が反ユダヤ主義を克服できず破綻したこと」にユダヤ人のナショナリズム運動の元祖を見たいので、本稿全体の記述を損なうものではないと思い、この追記をするに留めます。)

 

さて、このようにして始まったシオニズム思想ですが、上述の通り、肝心のユダヤ人内部でさえ、ユダヤ人が国民国家を建設する主体である「民族」であるのか、それともフランスやイギリスなど、各国の国民の中での「少数宗教者」なのかについては一致することがありませんでした。たとえば、ユダヤ人差別が最も過酷で、現地のロシア人、ウクライナ人、ポーランド人といった主流民族による自然発生的な反ユダヤ暴動(ポグロム)が発生したロシア帝国ユダヤ人は、自らをユダヤ「民族」と捉えることが多かったのに対して、イギリス、フランス、ドイツなど、各国の国民に同化した西欧や中央では「ユダヤ教徒であるフランス人(あるいはイギリス人、ドイツ人)」であると捉える傾向が多かったと、現在の研究は示しています。一例だけ挙げると、1919年の第一次世界大戦パリ講和会議に際して、西欧の主流社会に同化したユダヤ人と、東欧のイディッシュ語〈引用者註:東欧系ユダヤ人が母語として話した言葉〉を話すユダヤ人の差異が大きすぎたため、ユダヤ人を少数民族であると規定して自治権や国会での比例代表権を要求するシオニストと、単なる宗教的マイノリティであるとする英仏の同化ユダヤ人の間で議論が噛み合いませんでした*1

このようなユダヤ人内部の緊張を孕みつつ、ユダヤ人右派であるシオニストは、東欧の旧ロシア帝国領(現在のロシア、ウクライナベラルーシポーランド等)の出身のユダヤ人が中心となり、次第に既にアラブ人が住んでいたパレスチナの地に入植地を作りあげ、現地のアラブ人との軋轢を起こすことになります。このことは、パレスチナの帰属が第一次世界大戦の結果として、1920年オスマン帝国領からイギリス領となった後にも変わりませんでした。その後、第二次世界大戦中にユダヤ人問題の「最終的解決」を目ざしたナチスファシスト枢軸によるショアー(いわゆるホロコースト)の結果、欧州各地やソ連で600万人ものユダヤ人が殺害されました。戦後、イギリス領パレスチナに入植していたユダヤ人の武装闘争の結果、1948年にユダヤ国家イスラエルが建国されます。

 

2.欧州における反ユダヤ主義の歴史 なぜ右翼のシオニズムが勝利したか

第一章ではシオニズムが、ユダヤ人差別に反対するナショナリズム思想として生まれ、拡大し、イスラエル建国に至ったことを略述しました。しかし、既述の通り、シオニズムユダヤ人内部でも右翼の運動であり、フランス革命以後の自由主義ユダヤ人差別を解決しなかったという感覚は持たれつつも、決してユダヤ人差別に反対する全てのユダヤ人を巻き込んだ訳ではありませんでした。前述の通り、左翼の社会主義運動には、ユダヤ人国家の建設によらずに人類の普遍的な解放を求める多くのユダヤ人が参加してきたのです。カール・マルクスフェルディナント・ラッサールローザ・ルクセンブルクエマ・ゴールドマン、アレクサンダー・バークマン、グスタフ・ランダウアー、レフ・トロツキー、マクシム・リトヴィノフ、マレイ・ブクチン、ノーム・チョムスキー、イマニュエル・ウォーラーステイン……ざっと列挙しましたが、この中で一人ぐらいは名前を聞いたことのある人も多いのではないでしょうか。

第二章では、シオニズム思想が勝利するに至った要因として、欧州社会内の反ユダヤ主義の歴史について概略します。その時点で生活の基盤が欧州やロシアにあったユダヤ人達が、現在住んでいる場所とその地で築いた文化や財産を投げ捨てて、遠くパレスチナに移住して国民国家を作り上げるという、一見すると不可解な思想が実現するに当たって大きな役割を果たしたのがユダヤ人差別でした。


2-1.キリスト教における反ユダヤ主義

本節を述べるについて最初に断っておきたいこととして、私はキリスト教という宗教の存在自体に反対するものではありません。キリスト教は人類史の発展の中で大きな役割を果たし、日本でも特に近代以降は学校や病院の建設に大きな役割を果たしています。また、キリスト教に限らず、全ての宗教について、それが無くなるとも思っていません。宗教を無くそうとした中国のプロレタリア文化大革命(1966年-1976年)は、社会に大きな爪痕を残したまま、結局宗教を無くすことはできませんでした。あれ以上の大きな革命が今後起きることは予想し難い上に、そういった反宗教革命が起きたとしても、中国や旧ソ連・東欧の共産圏で宗教が復活している状況には抗えないのではないかと私は考えています。どのような宗教にも長所と短所があり、佛教の輪廻転生思想が部落差別を肯定することになったとの同じような短所として、キリスト教においては反ユダヤ思考を挙げることができるでしょう。以上を断った上で、本節をご覧いただけますと幸甚です。

イギリスのユダヤ人思想史家、ノーマン・コーンは、近代的な反ユダヤ主義について以下のように述べています。

“ 中世、人々はユダヤ人を魔王の使徒悪魔崇拝者、人間の皮を被った魔物、と見なしていた。近代反ユダヤ主義の偉業の一つはこのアルカイックな迷信を一九世紀末に蘇らせたことである。……”
(ノーマン・コーン/内田樹〔訳〕『シオン賢者の議定書――ユダヤ人世界征服陰謀の神話』KKダイナミックセラーズ、東京、1986年、37頁より引用)

つまり、キリスト教世界であるヨーロッパにおけるユダヤ人の悪魔化は、既に中世に始まっていたということです。さらに、コーンは、この西洋における反ユダヤ主義の言説の誕生を、ローマ帝国の国教となる(392年)前のキリスト教神学の中で形成された考えであるとしています。

“……『テサロニケ人への第二書簡』〈引用者註:パウロによる手紙で、キリスト教の聖書を構成する書簡の一つ〉の第二章の預言によると、キリストの再臨と最後の審判の直前に反キリスト《罪の人、破滅の息子》が出現することになっている。反キリストは神として崇拝されることを要求し、彼が悪魔の力を借りて行なう奇蹟は欺かれたいと願っている者たちの心を欺くのである。反キリストは全世界を支配下に収め、キリストが再臨し、その息の一吹きで打ち砕くまで地上に君臨する。
 さて、紀元二、三世紀頃、キリスト教ユダヤ教が激しくその勢力を張り合っていた時、キリスト教神学はこの預言に新しい解釈を施した。すなわち反キリストはユダヤ人であり、したがってユダヤ人たちの上にとりわけ強烈な魅力を発揮する。ユダヤ人たちは反キリストの最も熱烈な信奉者となり、彼をメシアとして迎え容れる、というのである。それからのちどうなるのか、については神学者たちの意見は二分する。ある者は奇蹟の介入によってユダヤ人全員がキリスト教に改宗することを期待し、ある者は、ユダヤ人は最後まで反キリストに従い、キリストの再臨ののち、反キリストと共に永劫の責苦を受けるであろうと予言している。”
(ノーマン・コーン/内田樹〔訳〕『シオン賢者の議定書――ユダヤ人世界征服陰謀の神話』KKダイナミックセラーズ、東京、1986年、39頁より引用)

さて、西ローマ帝国が崩壊し(476年)、キリスト教カトリック教会がヨーロッパに侵入して来たゲルマン人の中にも受け入れられ、キリスト教ヨーロッパ世界が成立した後、イメージの中でユダヤ人は悪魔化されることになります。やがてイスラーム教徒のトルコ人によって聖地イェルサレム支配下に置かれると、1095年に時のローマ教皇ウルバヌス2世が十字軍を提唱します。十字軍については、そのイスラーム世界で行った残忍さが批判的に見られるようになりましたが、ここではヨーロッパを出発した十字軍が、まず、ヨーロッパ内部に既に暮らしていた非キリスト教徒であるユダヤ人を襲撃したことを確認します。

“ ただ、ルーアンの迫害はつぎの点で注目に値する。というのも、当時の年代記作者のひとり、ノジャンのギベールが、十字軍士がこう叫びながら迫害をはじめたと書き記しているのである。
 「われわれは東方にいる神の敵と戦おうとしているが、そのためにははるかな道程を克服しなければならない。だが、それは見当違いの骨折りというものだ。なぜなら、われわれのすぐ目の前には、神の最悪の敵、ユダヤ人がいるからだ」。
 これは、エルサレムの場所さえさだかに知らない多くの参加者にとって魅力的な叫び声と聞こえたにちがいない。たしかに、彼らにとって聖地はあまりに遠かった。手近な敵を相手にすることで神のみ旨にかなうことができるならば、それにこしたことはなかった。しかし、それ以上に〈←32頁33頁→〉重要なのは、このとき十字軍が迫害を逃れる手段としてユダヤ人に与えた選択肢がひとつしかなかったことである。キリスト教への改宗、つまり洗礼であった。洗礼を拒む者には死が待ち受けていた。
 「洗礼か死か」――そして、これがこののちユダヤ人を襲撃する民衆十字軍の合言葉となるのであった。”
(羽田功『洗礼か死か――ルター・十字軍・ユダヤ人』林道舎、埼玉県大宮市、1993年2月20日発行、32-33頁より引用)

幸か不幸か、十字軍は数世紀をかけてイスラーム勢力によって駆逐され、その後欧州内でもキリスト教への懐疑が進み、社会を科学的に再編成しようとする意図を持った1789年のフランス革命の結果、漸進的にヨーロッパ大陸部のユダヤ人が解放されていったことは、第一章で述べたとおりです。

本節で確認しておきたいことは、20世紀のナチスによるショアー(いわゆるホロコースト)によって最も醜悪な姿を見せる、思想としての反ユダヤ主義は、キリスト教世界に特異なものであるということです。パレスチナ問題は決して現在考えられているように、ユダヤ人とアラブ人の対立に起源を持つ訳ではなく、むしろキリスト教世界の反ユダヤ主義を、キリスト教世界内にいては解決することはできないというユダヤ人の諦めから生まれたのです。第二次世界大戦後の1955年に書かれた、ユダヤ人によるユダヤ人史の序言には、このことについて次のように述べられています。

“……ただ、パレスティナ以西の状況とは裏腹に、東方世界のユダヤ人たちは、イェフダー・ハレヴィが思い描いた「諸民族の病んだ心臓」、つまり、みずから怯え、また他者をも怯えさせる素因となることは決してなかった。彼らは、その苦悩と虐殺の歴史によって世界の目を見張らせることも、人間世界のいたらなさのつけを払わされることもなかったかわりに、知的あるいは経済的活動において構成員の数に釣り合わない役割を果たしたり、ずば抜けた才覚を示したり、その他何らかの特殊な役割を引き受けたり、といったようなこともなかった。要するに、東方のユダヤ人たちは多量のインクを流させることもなかったかわりに血の川を流すこともなく、ひたすら幸福な民として生き、歴史の名に値するものをとくに持たなかったのである。中国のユダヤ人は、今から一、二世代前に姿を消した。インドのユダヤ人は、ほかに幾千とある宗教諸派のなかに紛れ、農民、職人としての慎ましい生活を送っている。”
(レオン・ポリアコフ/菅野賢治訳「序言(1955年初版)」『反ユダヤ主義の歴史Ⅰ――キリストから宮廷ユダヤ人まで』筑摩書房、東京、2005年3月25日初版第1刷発行、3頁より引用)

このキリスト教における反ユダヤ主義が、ヨーロッパで最初の反教会革命であったフランス革命以後もヨーロッパ内で残存し、ユダヤ陰謀論となります。


2-2.右翼陰謀論における反ユダヤ主義

右翼によるユダヤ陰謀論については何冊も書物を書けてしまうテーマなので、概要だけ述べることにします。1789年のフランス革命と、1917年のロシア革命に関して、それがユダヤ人の陰謀だったとするものが近代的な反ユダヤ陰謀論の主なものとなります。

1797年、フランス革命の最中に、革命を嫌悪するフランスのイエズス会士オーギュスタン・バリュエル神父は『ジャコバン主義の歴史に関する覚書』という書物を刊行し、その中で、フランス革命が起きたのはフリーメーソンによる陰謀であるという説を展開します*2。この説についてノーマン・コーンは、実際の所、フリーメーソンの多くはカトリック王党派で事実無根だとしていますが、これを書いたバリュエルは1806年にフィレンツェのシモニーニ艦長と名乗る人物から、バリュエルが著書で主張するフリーメーソンは、実はユダヤ人の秘密結社なのだという書簡を送ります*3。実際には当時のフリーメーソンユダヤ人の入会を渋っていましたが、陰謀論者にとってそのような事実は余り大きな意味を持ちませんでした。

こうしてこの時に、後の陰謀論の「定番メニュー」となる、「ユダヤ人に支配されたフリーメーソンが陰謀によって革命を起こし、キリスト教世界を破壊しようとしている」という発想が初めて姿を見せることになりました。コーンは「旧制度を懐かしむ者たちは、神が手ずからお定めになったはずの社会秩序がかくも無残に壊滅したことの説明に苦慮していた。ユダヤフリーメーソン陰謀神話こそ彼らにとって最も望ましい説明を提供してくれるのである。」*4と論じていますが、恐らくそういったところでしょう。バリュエルはこの書簡の内容を大筋で受け入れ、1820年の死の間際に、自らのフリーメーソン陰謀説の中に、ユダヤ人が関与していたことを認める草稿を書いています(尤も、心境の変化なのか、死の二日前にこの草稿を自らの手で破棄しています)。

19世紀のヨーロッパは、表向きには革命によって体制下した自由主義によるユダヤ人の解放が進む中で、裏ではユダヤフリーメーソン陰謀論が徐々に拡大していった時代でした。第一章で論じたドレフュス事件も、社会の裏側に蓄積されていた反ユダヤ陰謀論が、表に出てきてしまった事件だと捉えるべきなのではないかと私は考えています。

この後、陰謀論の歴史は変わり映えのしない陰謀論を量産した後、19世紀末に決定的な文書を生み出します。当時のロシア帝国の秘密警察によって、ユダヤ陰謀論を述べた『シオン賢者の議定書』(いわゆる『プロトコル』)というパンフレットが作られ、1903年ロシア帝国で刊行されました。このパンフレットは、フランスの皇帝ナポレオン三世に反対していた人の書いたパンフレットを加工・編集して作られた極めて杜撰なものでした。内容的にもユダヤ人が世界征服を望んでおり、フランス革命はその前哨なのだとする前述のバリュエルとシモニーニのユダヤ陰謀論とほぼ変わらないものでしたが、1917年のロシア革命と、1918年7月17日のロマノフ皇帝一家の殺害により、この杜撰な文書がロシアを始め、世界中でロシア革命に反対する人々によって支持されるようになりました。ロシア革命の革命派であるボルシェヴィキメンシェヴィキアナーキストといった諸派の中に、シオニズムに反対するユダヤ人が存在したことが原因の一つとして挙げられるでしょう。ドイツでの『シオン賢者の議定書』はナチスヒトラー反ユダヤ主義を掲げて政権を奪取する弾みとなりましたし、20世紀まで反ユダヤ主義が弱かったイギリスやアメリカ合衆国でも翻訳されて読者を得ることになりました。アメリカ合衆国では、自動車王のヘンリー・フォードがこのパンフレットの宣伝に一役買うことになりました。さらに、歴史的にユダヤ人がほぼ存在せず、キリスト教によるユダヤ人迫害の文脈を持たない日本にあっても、陸軍の四王天延孝によって翻訳・刊行され、反ソ連・反共産主義・親ナチスの右翼の人々の間に影響を及ぼしています。

嘆かわしいことに、現在でもこのような反ユダヤ陰謀論はオカルト的に取り上げられ、信奉者を持ち続けています。


2-3.左翼社会主義運動(アナーキズムマルクス主義)における反ユダヤ主義

本章ではこれまでキリスト教と右翼の陰謀論の中における反ユダヤ主義について述べましたが、遺憾なことに、ユダヤ人が解放を求めて参加した左翼の社会主義運動の中にも反ユダヤ主義は存在しました。本節ではその概要を示すことにします。

19世紀のヨーロッパで、自由主義が肯定した資本主義が、市政の人々を却って経済的に不自由にしているという発想から、体制化した自由主義を批判する文脈で多様な社会主義思想が生まれました。社会主義思想の中で、覇権を競ったのはアナーキズムマルクス主義共産主義)です。概略的に言えば、アナーキズムは近代化・資本主義的工業化によって脅かされる農民・小手工業者を革命の主体と見たのに対し、マルクス主義は近代化・資本主義的工業化によって生まれる近代的産業労働者(プロレタリアート)階級を革命の主体と見ました。なお、この階級観に関しては、アナーキストマルクス主義者の知識人がそのように考えたというだけで、実際に農民・小手工業者にアナーキズムが受容されたり、労働者にマルクス主義が思想的・哲学的に受容されたりということではありませんでした。工業化が進んだドイツでマルクス主義が強く、工業化があまり進まなかったフランスやイタリアやスペインやウクライナアナーキズムが強かったのには以上のような背景があると考えられます。

“……マルクス主義者は、素朴な人びとを、すでに過ぎ去った社会進化の一段階を表わすものとして、拒絶する。彼にとって、種族民、農民、小職人などのすべては、ブルジョアジーや貴族とともに、歴史の残物の上につみ重ねられる。共産主義者の現実政策(Realpolitik)は、現在の極東におけるように、時には農民との接近(rapprochement)を求めるだろう。しかし、そのような政策の目的は、常に農民を、農業のプロレタリアに変えることである。他方、アナキストたちは、〈←23頁24頁→〉農民のなかに、非常に大きな望みを託してきた。農民は、大地に親しみ、自然に親しみ、それゆえに、彼の反応のしかたはより“アナーキック”である。バクーニンは、百姓一揆を、革命のための彼の理想である自発的な民衆蜂起の未完成な型として見た。さらに農民は、歴史的な環境によってつくられなければならなかった協同という長い伝統の継承者である。アナキストの理論家たちは、農民の社会におけるこのような傾向を是認することによって、ますます繁栄するにつれて農民社会は――歴史において知られているかぎり他のすべての発展する社会と同じく――富農、貧農、労働者たちという階級制度の確立に至る富と地位の相違を示し始めるということを忘れる傾向がある。アナキズムはアンダルシアとウクライナの貧農たちの間で力強い大衆運動となったが、それよりも富んだ農民たちのあいだでは何らの評価しうるほどの成功を得ることができなかったということは、意味が深い。市民戦争の初期において、スペインのアナキストたちによって支持された集産主義的組織を採用するようアラゴンのぶどう栽培者に強いたのは、ドゥルティと、彼の義勇軍の恐怖のみであった。”
(ジョージ・ウドコック/白井厚〔訳〕『アナキズムI――思想篇』紀伊國屋書店、1968年6月29日第1刷発行、23-24頁より引用)

さて、本節で検討すべきはカール・マルクスの『ユダヤ人問題に寄せて』と、バクーニンの論説となります。アメリカ系ユダヤ人のシオニストによれば、アナーキズムの名祖プルードンについて、「出版物の中では穏やかな調子で、死後に出版された日記の中では過激な調子で反ユダヤ主義を表現した。われわれは、この偉大な社会主義者の日記の中でナチまがいの反ユダヤ感情に出合う。」*5と表現していますが、私の能力不足のため、本節での検討は回避します。

自らもユダヤ系(親の方針で幼少期にキリスト教に改宗したドイツ系ユダヤ人の家系)であったマルクスの『ユダヤ人問題に寄せて』については、シオニストによる批判を見ることにしましょう。アメリカ系ユダヤ人のシオニストであるデニス・プレガーとジョーゼフ・テルシュキンは、次のように書いています。

“ 『ユダヤ人問題に寄せて』ではユダヤ人とユダヤ教への嫌悪に満ちており、その論旨は非常に過激であるため、時としてナチのユダヤ人憎悪を彷彿とさせる次元のものがある。マルクスは言う。
ユダヤ人が現世で崇拝するものは何か。あくどい商売である。ユダヤ人の現世の神は何か。金〈←243頁244頁→〉である。よろしい。それでは、あくどい商売と金からの解放が、つまり、実践的な真のユダヤ教からの解放が、現代での自己解放であろう」。「金はイスラエルの妬み深い神であり、その前にどのような神の存在も許されない」
 『ユダヤ人問題に寄せて』の結語でマルクスは、人間性の解放はユダヤ教の放棄であるとまで書いている。
 ユダヤ人意識をもつユダヤ人の社会主義者たちは、『ユダヤ人問題に寄せて』に書かれたマルクスの露骨な反ユダヤ主義に常に困惑してきた。この著書が出版されてから百年以上の間に、ユダヤ人の社会主義者たちは、マルクスのほとんどすべての著作物をイディッシュ語ヘブライ語に翻訳したが、マルクス唯一のもっぱらユダヤ人問題だけをとりあげた随筆については翻訳を避けた。”
(デニス・プレガー、ジョーゼフ・テルシュキン/松宮克昌〔訳〕『ユダヤ人はなぜ迫害されたか』東京、1999年10月20日初版発行、243-244頁より引用)

さらに、プレガーとテルシュキンは、マルクスユダヤ人について書いた論説がユダヤ人社会に対して否定的な影響を及ぼしたことと、マルクス主義が究極的にはユダヤ人に対してユダヤ人であることをやめること(恐らく、無神論者としてユダヤ教を放棄することを指しています)を解放だと見なしていることを批判しています。

“ 歴史家エドマンド・シルベルナーは、マルクスの反ユダヤ著作物がもたらした二つの悪影響を認めている。一つは、キリスト教徒のマルクス主義者たちにユダヤ人に対する偏見を植えつけ、それを強化したことであり、もう一つは、ユダヤマルクス主義者をユダヤ人の大衆から引き離したことである。後者の例は、一八九一年にもっとも劇的に立証された。ブリュッセルの第二回国際社会主義者会議の代表者の一人であったアブラハム・カーンがヨーロッパで高まりつつあった反ユダヤ主義を非難するよう、この会議の席上で強く求めたときである。カーンにとって衝撃であったのは、ユダヤ人および非ユダヤ人の代表者がこぞって反ユダヤ非難決議案に反対したことであった。社会主義者たちによれば、キリスト教徒やイスラム教徒、ナチを除く歴史に登場する反ユダヤ主義者たちが異口同音に繰り返してきたように、反ユダヤ主義に対する唯一の解決方法はユダヤ人はユダヤ人であることを棄て、反ユダヤ主義者(この場合は社会主義者)たちの価値観をもつことであった。……”
(デニス・プレガー、ジョーゼフ・テルシュキン/松宮克昌〔訳〕『ユダヤ人はなぜ迫害されたか』東京、1999年10月20日初版発行、246頁より引用)

アナーキストとして第一インターナショナルマルクスに対抗したバクーニンに関しては、ユダヤ人を、ロスチャイルドに代表される貪欲な銀行家として見る視点と、共産主義の元祖マルクスの思想によって動かされる集団であると見る視点が共存しています。バクーニン自身が書いた物を参照します。

“ しかして暴利をむさぼる宗派や、蛭(ひる)のような人びとや、貪欲で他に類を見ない寄生虫によって固く親密に組織されたこのユダヤ人世界は、単に国境を越えるばかりでなく、あらゆる政治的意見をも越えているが、今日ではその大部分が一方ではマルクスによって、他方ではロスチャイルド家によって思いのままに動かされている。私はロスチャイルド家の人びとがマルクスのすぐれた点を認める一方、マルクスのほうでもロスチャイルド家に対し本能的にひかれ、大いなる尊敬を払っているものと確信している。
 このことは奇妙に見えるかも知れない。共産主義と大銀行業との間にいかなる共通点がありえようか? そうなのだ! マルクス共産主義は国家による中央集権的権力を欲する。しかして国家の中央集権のあるところ、今日では必ずや国家の中央銀行がなければならず、このような銀行が存在するところ、人民の労働の上に相場をはっている寄生虫ユダヤ民族は、つねにその存在手段を見出すことであろう……”
(外川継男〔訳〕「マルクスとの個人的関係」(1871年12月)外川継男、左近毅〔編〕『バクーニン著作集 第6巻』白水社、東京、1973年9月25日発行、390頁より引用)

この種のユダヤ人観はバクーニンに限ったものではなく、19世紀のヨーロッパの左翼には共通するものでした。アナーキズムにせよマルクス主義にせよ、生産労働をする農民や小手工業者や労働者を称える社会思想であるため、どうしても銀行家に対する評価は厳しくなり、ロスチャイルド家に代表されるユダヤ人富豪からの類推で「人民の労働の上に相場をはっている寄生虫ユダヤ民族」とまで言っています。私はバクーニンから多くを学びましたが、このような反ユダヤ主義については今日、容認してはならない彼の個人的欠点だと考えています。

このように、近代的な自由主義が生み出した資本主義社会からの解放の思想であったはずの社会主義思想の二大潮流の中にも、それ以前から存在した反ユダヤ主義は形を変えて残り続けました。そして、この社会主義の思想面における反ユダヤ主義は、ロシア帝国で、実際の反ユダヤ主義運動として実践されます。ロシア帝国ウクライナ出身のシオニストであり、社会主義シオニズムを説くベール・ボロコフは、1903年キシニョフで起きた反ユダヤ暴動(ポグロム)に、ロシアの社会主義政党に組織された労働者が参加していたことについて、次のように失望を表明しています。

“「ロシア社会民主主義〈引用者註:ロシア革命の前まで、マルクス主義のことをこう呼んだ〉の永久的な恥として、これらの労働者が社会民主党の煽動にさらされてきた事を語らねばならない。……そして最後の一人に至るまで破壊に参加した労働者たちの間に革命思想を紹介した人々がユダヤ人であった、それもユダヤ系の社会革命党員と社会民主党員であったことを付け加えねばならない。すばらしい教育的プロパガンダだ! 大成功だ! 上等な結果だ!」”
(森まり子『社会主義シオニズムとアラブ問題――ベングリオンの軌跡 1905-1939』岩波書店〈岩波アカデミック叢書〉、2002年10月30日第1刷発行、19頁より重複して引用)

ボロコフは、元来、右翼的なナショナリズム思想として始まったシオニズム思想の中で、「労働シオニズム」という左派ナショナリズムの潮流を生み出した人物の中の一人でした。1948年に建国されたイスラエルの初代首相で、75万人のパレスチナ・アラブ人を強制的に追放したダヴィッド・ベングリオンは、この労働シオニズム運動の中で育った政治活動家でした。労働シオニズム運動がボロコフのように、現実の社会主義運動が反ユダヤ主義を乗り越えていないことを目にした人物によって生み出された運動であることを考えた時、この左翼による反ユダヤ主義の害悪性は自ずと理解されるものだと私は考えます。


2-4.ナチスファシスト枢軸による反ユダヤ主義

本章では欧州で生れた反ユダヤ主義の潮流を、キリスト教陰謀論、左翼社会主義運動について見てきました。第二次世界大戦中のナチスファシスト枢軸が行ったショアー(いわゆるホロコースト)が、600万人ものユダヤ人を死に追いやりながらも、決してそれだけを単独で取り出して論じることができない事件であることについて、説明することができたかと思います。むしろそれまでの雑多な反ユダヤ主義思想を寄せ集めた結果がナチスヒトラーの勝利の原因であったと言っても良いかもしれません。ノーマン・コーンはこの点について、当時のドイツでナチスに参加した人々が、個人的には反ユダヤ主義に共感しない人もいたのにも関わらず、政権を奪取したことについて非常に興味深い説明を行なっているため、長くなりますが、以下引用します。

“ 一九三二年七月に三七・三パーセントの得票率――彼が真に自由な選挙で得た最高得票率――を獲得した理由はそこにある。ヒトラーが政権に到達した時点では、ドイツが非情な反ユダヤ主義に取憑かれ、ユダヤ人の世界的陰謀の神話という催眠術をかけられ、ユダヤ人の血を渇望していた国であったという人はまずいないだろう。確かに『プロトコル』の大衆版は一〇年余で一〇万部を売ったが、例えば平和主義的な立場で書かれたレマルクの戦争小説『西部戦線異状なし』は一九二九年の発表後一年間で二五万部以上売れている。同様の《進歩主義的》な本で成功したものは他にいくつもあった。
 ナチ党党員約一〇〇万が、全員熱狂的な反ユダヤ主義者であったということもできない。一九三四年、アメリカの大胆な社会学者テオドール・エーベルはマスコミを通じて、ナチ党員に対し、党員の個人的経歴と入党の動機を自分あてに知らせてほしいという呼びかけを行なった。六〇〇人の党員がこのアンケートに回答を寄せた。驚くべきことにこのうちの六〇パーセント〈←289頁290頁→〉が反ユダヤ主義に一言も言及していない。中にはこの立場にはっきり距離を取る者もいた。ある回答者はこう書く。
「祖国、統一、超絶的な指導者、こういった話を聞くと私の心は高鳴ります。私もまたこの人たちの仲間なのだ、と実感できるからです。しかしユダヤ人の話になると私にはピンと来ないのです。入党した後も、ユダヤ人のことに論が及ぶと頭痛がしたものです」
 さらに統計的分析は、反ユダヤ感情は中産階級(自由業を含む)出身党員の半分近くに認められるが、農民及び工場労働者の間ではわずか三〇パーセントにしか認められないことを示している。この統計が示すように、もしも反ユダヤ大義を奉ずる者が党員の中の少数派にとどまっていたのだとしたら、ナチに加盟しなかったそれ以外の一般大衆の間では、反ユダヤ主義はもっと不人気だったということになる。
 しかし、いくら留保を加えたところで、一九三三年にナチに投票した一七〇〇万有権者の大部分が、自分達の隣人のユダヤ人の市民権を少なくとも部分的には剥奪することに同意した、という事実には変わりはない。またきわめて多数の狂信的反ユダヤ主義者が――例えば学生国民運動(一九三一年ナチに統合)やSA(突撃隊)のメンバー四〇万人の中に――存在したことも確かである。何十万人かの人が、エーベルに次のような回答を寄せたナチ党員と同意見であったろうことも確かである。
「世界史は、ユダヤ主義――この悪の権化――が破壊精神によって、アドルフ・ヒトラーいう所の善にして真なる理念を圧倒し続けてきた過程として読み返されぬ限り、何の意味も持たぬ所であろう。私は確信する。我らが指導者アドルフ・ヒトラーは、ドイツの救い主となり、暗黒〈←290頁291頁→〉に光明を投じるために天から遣わされたのだ、と」
 これが、五〇年間にわたるプロパガンダの、とりわけ第一次世界大戦後の一四年若者たちの上に加えられた激烈で休みない攻勢の成果である。これは恐るべき成果であった。というのは、少数派の狂信的行為と多数派の無関心とが結びついた時にすべてが――最初の反ユダヤ立法から最終的な民族皆殺しまで――可能となったからである。”
(ノーマン・コーン/内田樹〔訳〕『シオン賢者の議定書――ユダヤ人世界征服陰謀の神話』KKダイナミックセラーズ、東京、1986年、289-291頁より引用)

かくして近代を生き延びたヨーロッパの反ユダヤ主義は最悪の形で暴発し、多数のユダヤ人の死者を出したことによって、ユダヤ人国家の必要性がヨーロッパで広く認識されることになりました。しかし、その候補地となったのは、ユダヤ人が迫害されてきたヨーロッパではなく、既にアラブ人が住んでいたイギリス領パレスチナだったのです。

3.現在のイスラエル社会:差別、監視、反ユダヤ主義

前章までで述べた通り、欧州で根強く存在した反ユダヤ主義は、ナチスファシスト枢軸のショアー(いわゆるホロコースト)で道徳的な醜悪さの極みに達しました。ハンガリー出身のユダヤ人、テオドール・ヘルツルがユダヤ人差別に対抗するためにと本格化させたユダヤ人のナショナリズムであるシオニズムは、その間にも、時に内部の極右分子がナチスと協力する傾向さえ見せつつ、イギリス領パレスチナで入植地を拡大し、イギリス植民地権力やアラブ人との武装闘争を経て、1948年にイスラエルを建国しました。この時に、初代首相であり、75万人のパレスチナ・アラブ人を追放したデヴィッド・ベングリオンが、労働シオニズム運動という、シオニズム運動内の左派の潮流から出てきたことは前述の通りです。

第一章で述べた通り、テオドール・ヘルツルはシオニズムを担うユダヤ人を、ヨーロッパ文明を体現する存在として捉えていました。イスラエルは非ヨーロッパであるアラブとイスラームに対する、ヨーロッパ文明の防波堤としての役割を引き受けることになります。元来アラブ人と同じセム系の民族であるユダヤ人は西アジアの出身であり、西欧で反ユダヤ主義が「反セム主義」と呼ばれるのもそれが理由であるからですが、現在も西欧諸国がイスラエルを支援する様子を見るに、「ヨーロッパ」の境界は極めて曖昧なものだと言えるのでしょう。

さて、周囲を敵対的な国家に包囲されたイスラエルは、周辺のアラブ諸国との4度にわたる中東戦争と、2度のレバノン戦争、そして恒常的に続いているパレスチナ武装勢力との戦闘を経ても崩壊せず、今日まで生き残ることに成功しました。そして90年代の中東和平プロセスを骨抜きにして、パレスチナの領土であるヨルダン川西岸にユダヤ人入植地を拡大し、現在「世界最大の野外刑務所」と呼ばれるガザ地区と、多くの土地がユダヤイスラエル人入植地となったヨルダン川西岸地区を軍事的に包囲しながら、今も断続的に戦闘が続いています。

このような恒常的な戦争状態にあるイスラエルでは、いつしかごく普通のユダヤ系のイスラエル市民にとってでさえ、息苦しい生活が恒常化することになりました。本章では、シルヴァン・シペル/林昌宏〔訳〕、高橋和夫〔解説〕『イスラエルvs.ユダヤ人――中東版「アパルトヘイト」とハイテク軍事産業』(明石書店、2022年1月。以下、この本を『イスラエルvs.ユダヤ人』と表記します)を参照しつつ、現在の公安国家化し、「イスラエルユダヤ人にとって害悪になった」(トニー・ジャット)とまでイギリスのユダヤ人から評されるようになったイスラエルについて概観します。

3-1.国民国家と民族差別

フランス系ユダヤ人であるシルヴァン・シペルが『イスラエルvs.ユダヤ人』で描くイスラエル社会は、一言で言って非ユダヤ人への差別が日常化した社会です。それも、社会の主流にいるごく普通の一般家庭の中に差別的な考え方が蔓延している社会となっています。

“ 二〇一九年二月、ヨルダン川西岸地区にあるユダヤ人入植地カルネイ・ショムロンの学校では、親たちのグループが校長に圧力をかけ、学校で掃除を担当するパレスチナ人女性全員を解雇させた。ある親は次のような声明文を書いた。「わが子第一。人種差別主義者と呼ばれようが構わない。われわれはユダヤ人であることを誇りに思っている」。
 マカビット・アブラムソンとアヴネル・ファイングレントによる二〇〇九年のドキュメンタリー映画『戦士』には、イスラエル空軍によるガザ地区への空爆(「鋳造された鉛」作戦)を見物しながら、近くの丘でピクニックを楽しむ複数の家族が登場する。彼らは飲み食いしながら、パレスチナの建物が崩壊する光景を眺めて歓声を上げる。「おお~、われわれの空軍は素晴らしい」。”
(『イスラエルvs.ユダヤ人』、88頁より引用)

こうした社会の変化には、2018年に通過した「ユダヤ国民国家法」の影響があるとシペルは見ています。シペルが論じる通り、この「ユダヤ国民国家法」により、それまでは建前的に認められきた人口の約20%の占めるアラブ系イスラエル人の法的権利が、建前的なレベルでさえ認められなくなってしまいました。

“ ネタニヤフはこの法律の意義を次のように明快に論じた。「イスラエルはすべての国民の国家ではなく、ユダヤ人だけの国家である」。
 このような法案が初めて登場したのは二〇一一年だった。そして七年後の二〇一八年七月一九日、国会は賛成多数で「ユダヤ国民国家」法案を可決した。すなわち、「ユダヤ人という多数派と、(イスラエルの非ユダヤ系国民の九五%を占める)パレスチナ系アラブ人という少数派では、社会的な権利が異なる」と法律によって定められたのだ。
 この法案が可決されるまで、国際世論は、イスラエル占領地区の住民に課す「アパルトヘイト」に注目していた。しかし、今日ではイスラエル国民であるパレスチナ人(イスラエル人口のおよそ二〇%)でさえ、十全たる市民権を持たないのだ。……”
(『イスラエルvs.ユダヤ人』、100頁より引用)

“……イスラエルは建国以来、ナショナリティ〔国籍、民族〕とシチズンシップ〔市民権〕を区別してきた。ユダヤ人のナショナリティは「ユダヤ人」であり、市民権は「イスラエル人」だ。一方、パレスチナ人のナショ〈←101頁102頁→〉ナリティは「アラブ人」や「ドゥルーズ派」などであり、市民権はイスラエル人だ(一九九〇年まで、イスラエルが国民に発行する身分証明書にはナショナリティの記載があった)。
 この枠組みでは、ナショナリティは民族アイデンティティであり、市民権は法的アイデンティティに相当する。したがって、「ユダヤ人国家」は「正しい」民族あるいはナショナリティのもとに生まれた人(ユダヤ人)のものであって、市民権を持つすべての人のものではないのだ。
 この法律が体現する精神はシオニズムに源泉を持ち、東欧諸国の自民族中心的なナショナリズムから強い影響を受けている。もちろん「ユダヤ人の特徴」にもこの精神を見出すことができる。”
(『イスラエルvs.ユダヤ人』、101-102頁より引用)

“ 「ユダヤ国民国家」法が施行されてもイスラエル社会には大きな変化はなかった。だが、これは大きな転換点だ。それまでは人種差別に対し、たとえ効果がないとしても法に訴えることができた。これまでイスラエルは、民主国家としての体裁に配慮しながらユダヤ人国家という自民族中心主義を追求してきた。ところが今後は、イスラエルは正式に人種分離の国となった。自国のポジティブなイメージを保つためにシオニズムの影の部分を隠してきたが、「ユダヤ国民国家」法が施行され、人種差別を隠す必要がなくなったのだ。「イスラエルが民主国家でなくなっても、まったく構わない」と豪語した富豪シェルドン・アデルソンが語った通りになったのだ。
 エルサレムヘブライ大学の元教授ダヴィッド・シュルマンによると、「ユダヤ教は普遍的な人権の概念と密接なつながりを持つ」という。一七世紀後半の啓蒙時代から第二次世界大戦まで、数多くのユダヤ人がこの密接なつながりを実践してきた。彼らはさまざまな政治状況において、社会正義、人間の尊厳、そして「進歩」を具現する価値観を追求してきた。このつながりを断ち切ったのが「ユダヤ国民国家」法だった。”
(『イスラエルvs.ユダヤ人』、104頁より引用)

つまり、シオニズム運動が育ったポーランドやロシアにおけるタカ派ナショナリズム思想の影響を強く受けた思想潮流が、現在のイスラエルを非ユダヤ人(その多くは元々パレスチナに住んでいたアラブ人)にとって、法的な権利さえ異なる国家としてしまったのです。白人と黒人で法的な権利が異なった、アパルトヘイト時代の南アフリカを想起させる状態が現出しています。現在のイスラエルは、内側に対してこのような社会であることをまずご確認下さい。

3-2.相互監視国家化

さらに、慢性化する戦時体制のため、ネタニヤフ首相(在任: 1996年6月18日 - 1999年7月6日、2009年3月31日 - 2021年6月13日、2022年12月29日 -)の右翼タカ派方針に反対する意見の表出が難しくなっている社会の雰囲気があります。再びシペルの記述を参照します。

“ 数学者ダニエル・クロンベルクによると、イスラエルの生活で最も息苦しいのは、ユダヤイスラエル人の多数派がつくり出す「閉鎖的な精神性」だという。「シオニズムという言葉は、どんな状況であってもイスラエルの政策を支持することを意味するようになった。「お前はシオニストでない」と言われた時点で敵扱いされ、意見を聞いてもらえなくなる」と嘆く。イスラエルではこうした傾向は昔からあったが、一五年ほど前からさらに強まった。最悪なのは、「「あなたは人種差別主義者だ」と非難すると、相手は「そうだよ。それがどうした?」と言い返してくることだ」と嘆く。”
(『イスラエルvs.ユダヤ人』、203頁より引用)

“ 数学者コビ・スニッツは、「今日のイスラエルでは、気に入らない人物を追い払うには濡れ衣を着せればよい。密告の時代の到来だ」と悲憤する。……”
(『イスラエルvs.ユダヤ人』、205頁より引用)

“ 教育者ヤニヴ・サギーは左派の熱心なシオニストであり、ユダヤ・アラブ友好組織「ギヴァット・ハヴァイヴァ・センター」の設立者でもある。二〇一八年、サギーは家族とともに過ごしたアメリカでの長期滞在から戻ってきたとき、自分の国では安らいだ気持になれないことを痛感したという。「イスラエルでの暮らしに生まれて初めて恐怖を覚えた。この恐怖は、イランやハマスといった外部でなく、人種差別主義者やナショナリストといった内部から生じる」。”
(『イスラエルvs.ユダヤ人』、208頁より引用)

 

戦時体制が慢性化しているため、政権の敵だと見なされる思考の持ち主にとっては迂闊に物が言えない社会が出来上がったしまったとシペルは見ています。このような社会が決して住みやすい社会ではなく、周辺の独裁体制が続くアラブ諸国と比べても、言論や思想信条においてどれほど過ごしやすい社会なのかは疑問が生じるところです。

3-3.反ユダヤ主義を容認するイスラエル

上記のように、イスラエルは非ユダヤ人のみならず、ユダヤ人にとっても政府のタカ派政策に反対する人にとっては居心地の悪い社会となってきました。しかし、驚くべきことに、21世紀に入ってから、長らくイスラエルの首相であるベンヤミン・ネタニヤフは、時折行うパレスチナへの大規模な空爆や、恒常的な衝突に対応できる自国の戦時体制を維持するため、なんと、他国の反ユダヤ主義を認めるようになっているのです。とりわけ、EU内の右派政権の筆頭であるハンガリーのオルバーン政権、及び、ポーランドの「法と正義」党の政権に対しては、両政権が国内での反ユダヤ主義政策を進めているのにもかかわらず、友好関係を強化しています。長くなりますが、シペルの記述から事実関係を確認しましょう。

“ 二〇一七年七月一八日、ネタニヤフはハンガリーに赴き、オルバーンと会談した。ハンガリーに行〈←232頁233頁→〉く数日前、ネタニヤフは駐ハンガリーイスラエル大使ヨッシ・アムラニの失策を正すために介入を余儀なくされた。その経緯は次の通りだ。
 イスラエル大使はハンガリー政府に「ハンガリー生まれのユダヤアメリカ人投資家ジョージ・ソロス氏に対する批判活動は、悲痛な記憶だけでなく憎しみと恐怖を呼び起こす」という書簡を送り、明白な反ユダヤ主義に基づく批判を中止させるように申し入れていた。しかし、オルバーンはイスラエル大使の要請を一蹴した。
 ネタニヤフはこの事態をどう裁いたのか。ネタニヤフは、なんとイスラエル大使に対して「君の仕事は、自分が大使を務める国の政治に関わることではない。内政に干渉するな」と叱責したのだ。
 イスラエル外務省は広報官を通じて、「ジョージ・ソロス氏は、イスラエルの民主的に選出された政府を常に弱体化させてきた人物であり、イスラエル大使にはソロスに対する批判を和らげようとする考えはなかった」と弁解した。
 イスラエルでは、ごく一部の人々から「ネタニヤフとその側近たちは、政治的な同盟関係を築くために反ユダヤ主義者と手を組んでいる」という批判が噴出した。今回の場合は、オルバーンとの同盟関係を強化するために、オルバーンの反ユダヤ主義は不問に付された。”
(『イスラエルvs.ユダヤ人』、232-233頁より引用)

“ 二〇一八年二月、ポーランドの第一党「法と正義」党(党首ヤロスワフ・カチンスキ)は、ポーランドの国家あるいは国民がホロコーストに加担したと示唆した者を禁固刑に処す、という法案を可決させた。イスラエルはこの「記憶法」を激しく批判した。
 愛国心に溢れる「法と正義」党は、ポーランド第二次世界大戦の犠牲者に過ぎないというイメージをつくり出そうとしていた(これは、戦後のフランスにおいてド・ゴール主義者と共産党員が、レジスタンス活動にはほとんどの国民が参加していたと流布していたのに似ている)。
 ナチスの最大の犠牲者が、ユダヤ人とジプシー〈引用者註:「ジプシー」は今日では不適切とされる用語だが、原文ママ〉に次いでポーランド人だったのは確かだ。そうはいっても、ドイツ占領軍に協力したポーランドホロコーストの責任はないと言い切れるのだろうか。ましてや今日、ポーランドでは強烈な反ユダヤ主義が吹き荒れている状況だ。
 「記憶法」成立後も、ネタニヤフがポーランド政権と協力関係を維持すると、ホロコースト研究者〈←234頁235頁→〉からは非難の声が上がった。イスラエルで最も著名な歴史家イェフダ・バウアーは、「史実に対する愚かで、無知で、非道徳な裏切り」と切り捨てた。
 一方、ポーランドでは、政府がひそかに応援する反ユダヤ主義のデモが拡大した。ネタニヤフは押し黙った。また、ネタニヤフは、戦時中のリトアニアで、地元の指導者たちが黙認する中でユダヤ人の九五%が虐殺されたのに、そうした史実が捻じ曲げられていることも黙認した。
 ネタニヤフは事態を鎮静化させるため、ポーランド首相マテウシュ・モラヴィエツキとの交渉に半年を費やし、この法律の妥協案をまとめ上げた。イスラエルの歴史家から酷評されたこの妥協案の骨子は、この法律の基本的な内容を認める一方で、この時代のポーランド人にホロコーストの嫌疑をかける者を処罰しないことだった。
 二〇一九年二月、この一件は新たな展開を見せた。当時のイスラエルの外務次官イスラエル・カッツが、元イスラエル首相イツハク・シャミルが語った有名な文句「(ポーランドは)母乳とともに反ユダヤ主義を吸って成長した」を引用したのだ。
 今度は、ポーランド政府が激怒した。ポーランド首相マテウシュ・モラヴィエツキは、ネタニヤフに公式の謝罪を要求し、イスラエルで開催される予定だったイスラエルとヴィシェグラード・グループ(ポーランドハンガリーチェコスロバキア)との首脳会談への参加を取りやめた。イスラエルにとってこの首脳会談は、EUイスラエルに課す不利な規制を阻止するための主要な窓口だった。
 これはネタニヤフにとって屈辱的な敗北だった。『ハアレツ』の論説員アンシェル・プフェッファーは、「ポーランドとの一件で、ネタニヤフは歴史を弄ぶことの限界を思い知った」と記す。プ〈←235頁236頁→〉フェッファーによると、ユダヤ人虐殺に加担した事実はないとする歴史認識を推進するポーランドハンガリーリトアニアを、ネタニヤフは容認したという。
 プフェッファーは次のように解説する。
「ネタニヤフはいずれ高い代表を支払うことになる。イスラエル政府と同様、ポーランド政府も都合よく歴史を書き換えている。ようするに、両者とも自民族中心主義者なのだ。イスラエルパレスチナ人に対する犯罪を無視して歴史を書き換え、イスラエルへの批判を反ユダヤ主義というレッテルを貼って封じ込めるなら、ポーランドも同様のやり口で自分たちの過去を都合よく書き換える。こうした状況において、イスラエルポーランドの犯罪を非難する権利はあるのだろうか」。
 結局、ネタニヤフはポーランドの要求に屈して押し黙った。”
(『イスラエルvs.ユダヤ人』、234-236頁より引用)

 

このように、ネタニヤフ政権は、反ユダヤ主義のレトリックを使ってジョージ・ソロスを批判するハンガリーの右派オルバーン政権や、自国の反ユダヤ主義者のデモを密かに支援しているポーランドの右派政権との関係を、右派政権同士の繋がりを重視する立場から強化しています。そしてこのことは、テオドール・ヘルツルが、反ユダヤ主義に対抗するために立ち上げたはずのシオニズムが、今や反ユダヤ主義と闘わなくなったことを示しています。反ユダヤ主義が吹き荒れる現在のハンガリーに住むユダヤ人を、イスラエルは最早見捨てていると、シペルは論じています。

“ ネタニヤフと彼の側近、そして入植者であるウルトラ・ナショナリストにとって、反ユダヤ主義の台頭する国の指導者との同盟関係がイスラエルの強化に寄与する限り、この同盟関係の維持は、そう〈←347頁348頁→〉した国で暮らすユダヤ人の保護よりも優先される。
 基本的に、これらのシオニストは、ディアスポラユダヤ人〈引用者註:ディアスポラとは祖国を離れ、世界各地に離散して過ごす人々を指す〉がどんな目に遭おうが関心を持たない。ディアスポラユダヤ人は、再燃する反ユダヤ主義を避けたかったのならイスラエルに移住すればよかったのだ。
 つまり今後、アメリカやヨーロッパなどで反ユダヤ主義が吹き荒れ、イスラエルがそれらの国の政権と緊密な関係を持つ場合、それらの国で暮らすユダヤ人は見放されるということだ。これこそがハンガリーで起こったことだ(ネタニヤフはイスラエルの利益を守るために、現地の反ユダヤ人運動に口出しするなとイスラエル大使に命じた)。”
(『イスラエルvs.ユダヤ人』、347-348頁より引用)

さらに、このようなあり方には、「反ユダヤ主義」の定義を必要に応じて操作する思想が投影されています。ざっくりいえば、イスラエルを批判する者は「反ユダヤ主義」と扱うけれども、明確にユダヤ人を排斥していても、イスラエル政府が認めるものは「反ユダヤ主義」ではないということです。

“ イスラエルには、(イスラム教徒、アラブ人、イラン人などの)闘うべき反ユダヤ主義者がいる一方で、同じ世界観を持つという理由から共闘する反ユダヤ主義者がいる。反ユダヤ主義者をこのように都合よく切り分けるのは、イスラエルに国際的な野望があるからだ。その目的は、反シオニズムを現代の反ユダヤ主義に仕立て上げることであり、全ての国際会議で反ユダヤ主義の「新しい定義」を採用させることだ。すなわち、イスラエルに対する批判はすべて反ユダヤ主義とみなすIHRA(国際ホロコースト想起連盟)の定義だ。
 イスラエルは、反ユダヤ主義の一例として、「ユダヤ人の自決権の否定」を挙げる。ところが、イスラエル国民国家法の中核にあるのが「ユダヤ人の自決権」なのだ。これはイスラエルユダヤ人にだけ付与された権利であり、ユダヤ人以外の国民、つまり、パレスチナ人には付与されていない。ようするに、イスラエルという同じ国で暮らすユダヤ人とパレスチナ人との間にある民族的な格差とは、まさにこの点である。
 IHRAの定義に従うと、この法律を否定することは反ユダヤ主義になる。また、アダム・シャッツが指摘するように、反シオニズムを現代の反ユダヤ主義と定義すれば、「パレスチナ人、アラブ人、イスラム教徒は、ほぼ全員が反ユダヤ主義者になってしまう」。しかしながら、これこそが「この新たな定義」の狙いなのだ。”
(『イスラエルvs.ユダヤ人』、352頁より引用)

“ イスラエルに対する敵意をナチズムの復活と見なすのは、今に始まったことではない。イスラエルは、武力行使に踏み切る際も攻撃の標的を「ナチス」に仕立て上げる。”
(『イスラエルvs.ユダヤ人』、215頁より引用)

 

第一章に戻ると、ハンガリー出身のテオドール・ヘルツルは「幾千もの地点でなぶり物にされ、痛めつけられ、非難され、鞭打たれ、略奪され、殴り殺される」*6ユダヤ人のために、シオニズム運動を立ち上げたはずでした。しかし現在、ヘルツル自身が生まれたハンガリーで、反ユダヤ主義を鼓吹するオルバーン政権をイスラエルは容認し、友好関係を強化してさえいます。もしもヘルツルが現在のイスラエルを見たならば、こんなはずではなかったと嘆くのではないでしょうか。このような地点こそがユダヤ人のナショナリズムであるシオニズム運動の行き着いたところだったのです。


4.ナショナリズムは差別を解決しない

本稿のまとめに入ります。

ヨーロッパで長く続いたユダヤ人差別は自由主義革命を経てもなくならず、キリスト教陰謀論、左翼社会主義にそれぞれ潜在しました。そして、反ユダヤ主義の行き着いた先が、ナチスファシスト枢軸によるショアー(いわゆるホロコースト)での、600万人ものユダヤ人の死でした。

他方、ユダヤ人差別への対抗として立ち上げられたユダヤ人のナショナリズムであるシオニズム運動は、イスラエルを建国したものの、21世紀に入ってからは、ヨーロッパで反ユダヤ主義を鼓吹するハンガリーポーランドも右派政権との友好関係を深め、これらの社会に住むユダヤ人を事実上見捨てています。そしてその間にも、ネタニヤフ政権と懇意だったトランプ大統領アメリカ合衆国で、2018年10月にペンシルヴェニア州ピッツバーグシナゴーグユダヤ教の礼拝堂)に乱入した白人至上主義・反ユダヤ主義の過激派による銃乱射事件が発生し、11人が死亡するという正真正銘の反ユダヤ主義事件が起きていたのでした。

そもそもなぜイスラエルが欧州の反ユダヤ主義右派政権との友好関係を保ってまで、現在のタカ派軍国路線を続けているかというと、それはパレスチナを効率的に弾圧するためなのでした。

かくして、パレスチナを弾圧するために、反ユダヤ主義に対抗するというシオニズム運動の本来の目的自体が雲散霧消し、極めて差別的で監視的で不自由な軍国社会となったイスラエルが残りました。1948年のイスラエル建国後も、アメリカ合衆国を筆頭に、世界には今もディアスポラユダヤ人社会が存在しますが、こうしたイスラエルの外にあるユダヤ人社会では、注目すべき現象が起きています。ユダヤ人のイスラエル離れが進んでいるのです。シルヴァン・シペルはこの現象について、次のように書いています。

“ マイケル・ウォルツァー、ドヴ・ワックスマン、ヘンリー・シーグマンなど、アメリカのユダヤ教文化の熱心な観察者たちによると、アメリカでは、彼らが「再生ディアスポラ」と呼ぶ現象が起きているという。これはアメリカのユダヤ人の文化と経験から生じた現象であり、ユダヤ人にはユダヤ教文化への帰属を強く要求するが、イスラエルとは距離を置く、さらにはイスラエルに対して敵意を抱くという現象だ。”
(『イスラエルvs.ユダヤ人』、313頁より引用)

 

また、アメリカ系ユダヤ人の作家、ジェイコブ・バカラックは、『ニュー・リパブリック』誌2018年9月の特集号、「分断されたディアスポラ」に、「アメリカという故郷で」を発表しました(『イスラエルvs.ユダヤ人』318頁)。その中でバカラックは、イスラエルにうんざりしていること、アメリカ合衆国ユダヤ人はシオニズムを忘れるべきであること、ユダヤ人は現在住んでいるアメリカ合衆国で持続性のある本物のユダヤ人共同体を構築することを課題とすることなどを述べた上で(『イスラエルvs.ユダヤ人』318-319頁)、次のように続けます。

“ バカラックの夢は次の通りだ。「私はユダヤ人であって、イスラエルは自分には関係ない」と宣言し、また、人種差別、とくにアメリカで再燃する反ユダヤ主義に対して、イスラエルに操作されることなく闘えるようになることだ。”
(『イスラエルvs.ユダヤ人』、319-320頁より引用)

 

もはやイスラエルは、アメリカ系ユダヤ人の少なくない部分から、反ユダヤ主義に対抗する存在ではないと見られ、見限られつつあります。20世紀の間のアメリカ系ユダヤ人で明確にイスラエルに反対していたのはイマニュエル・ウォーラーステインノーム・チョムスキーのような左翼系の人物にほぼ限られていたことを考えると、これは驚くべき変化です。希望はここにあります。

最後に、以下に引用するテオドール・ヘルツルの言い分について、アナーキストである私からの意見を述べ、本稿を閉じることにします。

“ さらにこう言う人がいるかもしれない、「我々は人間たちの間に新たな差別を持ち込むべきではない。いかなる新しい国境も設けず、むしろ古い国境を解消させるのだ」と。――そう考える人は愛すべき夢〈←98頁99頁→〉想家だと私は思う。しかし、もしも祖国理念が依然として栄えるならば、彼らの骨灰は跡かたもなく吹き散らされてしまうだろう。普遍の同胞愛などは美しい夢ですらないのだ。個性的存在の至高の努力にとって必要なのは、敵なのである。”
(テオドール・ヘルツル/佐藤康彦〔訳〕「ユダヤ人国家――ユダヤ人問題の現代的解決の試み」『ユダヤ人国家』法政大学出版局〈叢書・ウニベルシタス330〉、1991年5月30日初版第1刷発行、98-99頁より引用)

上記の通り、ヘルツルは、彼のシオニズム思想を批判して「我々は人間たちの間に新たな差別を持ち込むべきではない。いかなる新しい国境も設けず、むしろ古い国境を解消させるのだ」(98頁)と述べる人を、「愛すべき夢想家」(98-99頁)だと呼びました。しかしながら繰り返し述べるように、イスラエル国家が反ユダヤ主義を掲げる他国の右派政権を公然と認めるに至った現在にあっては、ヘルツルが唾棄したこの「愛すべき夢想家」の立場こそが、ユダヤ人問題解決のための最も現実的な手段だと私は考えています。

ユダヤ人のナショナリズム思想であるシオニズムユダヤ人差別を解決せず、むしろ容認する方向に進んでしまったことは、あらゆるナショナリズムが原理的に差別を解決できないことを示しています。だからこそ、国民国家のない世界を目指すアナーキズムは、むしろ現在にあって最も現実的な社会思想となるのです。プルードンバクーニンのようなアナーキズムの先駆者に反ユダヤ主義言説があったからといって、決してアナーキズム思想を丸ごと放棄してはならないのです。


これを書いている最中、残念なことに、イスラエル軍によるパレスチナへの報復空爆のニュースが報じられました。一刻も早く停戦が実現し、ナショナリズムというもはや肯定的な意味を持たない思想のために、双方の血が流れずに済む世界が実現することを望んで已みません。今回の戦争が一刻も早く終わることを望みつつ擱筆します。

 

追記

引用した頁に誤りがあることに気がつき、その点につき修正致しました。

イスラエルvs.ユダヤ人』、344-345頁より引用と書いていた引用部につき、正しくは347-348頁より引用の誤りでした。ご迷惑をおかけしましたことをお詫び申し上げます。

また、第4章のジェイコブ・バカラックについて引用した部分が唐突だと感じたため、『イスラエルvs.ユダヤ人』から背景について加筆しました。全体の論旨については変わりはありません。

 

(以上、2023年10月18日追記)

 

 

本稿執筆後に読んだ上田和夫『イディッシュ文化――東欧ユダヤ人のこころの遺産』(三省堂、1996年)に、シオニズム運動の先駆は、ロシア帝国における1881年ポグロムをきっかけに生まれた、ヘブライ語講座やパレスチナへの移住を説く「シオンの愛運動」、および、その運動に大きな影響を与えた現ウクライナオデッサのレオン・ピンスケルが書いたドイツ語の小冊子、『自力解放、ロシアの同胞への警告』(1882年)であることが記されていました。本稿執筆者は恥ずかしながらこの事実を知らず、本稿ではテオドール・ヘルツルをシオニズム運動の元祖として扱っています。ただし、ロシアで生まれたシオニズム運動は西欧、北米、ドイツでの影響をほとんど持たず、「自由主義による同化が反ユダヤ主義を克服できず破綻したこと」に、ユダヤ人のナショナリズム運動であるシオニズムのスタートを視る視点自体は誤っていないと感じたため、第一章に以下の語句を追記することで済ませています。ご批判をいただけますと幸甚です。

(2023年11月5日追記:厳密にはシオニズム運動を立ち上げたのは、ロシア帝国における1881年ポグロムに対応したロシア帝国ユダヤ人であり、その中から生まれた現ウクライナオデッサのレオン・ピンスケルが書いたドイツ語の小冊子、『自力解放、ロシアの同胞への警告』(1882年)であり、執筆者は本稿執筆時にこのことを詳しく知りませんでした(参照:上田和夫『イディッシュ文化――東欧ユダヤ人のこころの遺産』三省堂、東京、1996年12月10日第1刷発行、88-89頁。)しかし、本稿では「自由主義による同化が反ユダヤ主義を克服できず破綻したこと」にユダヤ人のナショナリズム運動の元祖を見たいので、本稿全体の記述を損なうものではないと思い、この追記をするに留めます。)

また、本稿第三章の初稿で私は以下のように書きました。

ハンガリー出身のユダヤ人、テオドール・ヘルツルがユダヤ人差別に対抗するためとに立ち上げたユダヤ人のナショナリズムであるシオニズムは、その間にも、時にナチスと「反イギリス」で協力しつつ、イギリス領パレスチナで入植地を拡大し、イギリス植民地権力やアラブ人との武装闘争を経て、1948年にイスラエルを建国しました。

上記の記述には幾分不正確な部分があったため、以下のように書き改めます。(太字は修正箇所)

ハンガリー出身のユダヤ人、テオドール・ヘルツルがユダヤ人差別に対抗するために本格化させたユダヤ人のナショナリズムであるシオニズムは、その間にも、時に内部の極右分子がナチスと協力する傾向さえ見せつつ、イギリス領パレスチナで入植地を拡大し、イギリス植民地権力やアラブ人との武装闘争を経て、1948年にイスラエルを建国しました。

ポイントとしては、

1.上記のロシア帝国における1881年ポグロムから生まれたシオニズム運動が存在したことに留意した記述にしたこと。

2.最初の「時にナチスと『反イギリス』で協力しつつ」という書き方だと、労働シオニストや親英的なシオニストを含む全てのシオニストナチスに協力していたように読めてしまうと思い直しました。上記の記述はレヒのようなイギリス領パレスチナシオニスト内の極右が第二次世界大戦時に反イギリスでナチスに協力を申し出ていたこと(ナチス側は黙殺)を念頭に書いたのですが、それを親英分子もいたシオニスト全体に拡大するのは誤った記述であること、この書き方だとハヴァラー協定のような「反イギリス」に限らないシオニストナチスの協力を対象にできなくなってしまうことを今回読み直して感じました。ここに、このような重大な問題に関して、不正確な記述をしていたことをお詫び申し上げます。

なお、ハヴァラー協定に関しては、前田慶穂「だれがアンネを見殺しにしたのか――ホロコーストシオニズムアメリカ」広河隆一パレスチナユダヤ人問題研究会〔編〕『ユダヤ人とは何か――「ユダヤ人」1』三友社出版、東京、1985年12月15日初版第1刷発行をご参照ください。こちらのリンクより、国会図書館デジタルコレクションにて閲覧可能です。

 


(以上、2023年11月5日追記)

 

*1:野村真理『ガリツィアのユダヤ人――ポーランド人とウクライナ人のはざまで』人文書院、京都、2008年9月30日初版第1刷発行、236-237頁、注釈21より。

*2:ノーマン・コーン/内田樹〔訳〕『シオン賢者の議定書――ユダヤ人世界征服陰謀の神話』KKダイナミックセラーズ、東京、1986年、17頁。

*3:ノーマン・コーン/内田樹〔訳〕『シオン賢者の議定書――ユダヤ人世界征服陰謀の神話』KKダイナミックセラーズ、東京、1986年、18-24頁。

*4:ノーマン・コーン/内田樹〔訳〕『シオン賢者の議定書――ユダヤ人世界征服陰謀の神話』KKダイナミックセラーズ、東京、1986年、23頁より引用。

*5:デニス・プレガー、ジョーゼフ・テルシュキン/松宮克昌訳『ユダヤ人はなぜ迫害されたか』東京、1999年10月20日初版発行、248-249頁より引用。

*6:テオドール・ヘルツル/佐藤康彦〔訳〕「ユダヤ人国家――ユダヤ人問題の現代的解決の試み」『ユダヤ人国家』法政大学出版局〈叢書・ウニベルシタス330〉、1991年5月30日初版第1刷発行、102頁より引用。