【読書録】勝田吉太郎『人類の知的遺産49――バクーニン』講談社、1979年12月10日第1刷発行。

勝田吉太郎『人類の知的遺産49――バクーニン講談社、1979年12月10日第1刷発行。

 

保守派の思想史家によるバクーニンの研究書。1968年に白井厚氏がウドコックの『アナキズム』(原著1962年)を翻訳刊行した際には、まだ日本にはバクーニンの専門の研究書は存在しなかったらしいので、1979年に刊行された本書は恐らく日本初のアカデミックなバクーニン研究の書となる。

 

  1. バクーニンの思想
  2. バクーニンの生涯
  3. バクーニンの著作
  4. バクーニンと現代

 

の四章から成り、思想と伝記的事実を追うことができる正統派の研究書となっている。内容としては、同著者による『アナーキスト――ロシヤ革命の先駆』(筑摩書房、1966年)や猪木正道勝田吉太郎編『世界の名著42――プルードン バクーニン クロポトキン』(中央公論社、1967年)と重複する点も多いが、著者のバクーニンへの特別な思い入れを感じることができる上に、1979年の時点での最新の伝記研究と、主要著作を概観できるので、アナキズムに興味のある人なら是非読むべき一冊となっている。例えば、伝記研究に関して言えば、それまで多くの論者がバクーニンの作品としていた『革命家の教理問答(カテキズム)』が、実はバクーニンによるものではなくネチャーエフ単独によるものであったことが、本書186-191頁にて述べられている。も勝田吉太郎氏は、ニヒリズムと破壊に満ちた『革命家の教理問答(カテキズム)』について、この文書の内容を知りながらネチャーエフを支援していた時期があった以上はバクーニンも「道徳的な連帯責任を免れることはできないのではなかろうか」(本書187-188頁より引用)と述べているのだが。

 

ネチャーエフ問題はバクーニンのその後も心に残っていたようで、勝田吉太郎氏は最晩年のバクーニンは道徳の問題に心を寄せていたことについて触れている。

 

“ 旧い同志や知識人の革命家たちに見放され廃残の日々を送る老闘士は、こうして額に汗して働く名もない庶民のなかに新しい友を見出したのであった。この頃、最晩年の彼が最も重要な事柄とみなすようになったのは、道徳の問題であった。革命のためには一切が許されるとみて、しばしばテロに訴えようとする弟子たちの行動や、ネチャーエフ主義への彼自身のかかわり方に対す(←216頁217頁→)る反省が、死に臨んだ老革命家の心をはなれなかったのであろうか。彼はロスにこう書いた。「ジェスイット的詐欺行為の上に、生きたものや確乎たるものは何一つ築くことはできない。革命活動は、自己自身の成功のためには、卑俗で低級な情熱に助けを求めてはならない、けだかく、もちろん、人間的な理想がなくては、どんな革命も勝利を博することはできないのだ。」(Лисьма М.А. Бакунина и А.И.Герцну ц Н.П. Огареву, стр.455)”

(本書216-217頁より引用)

 

 

著者はバクーニンの絶筆となった『国家性とアナーキイ』に対し、前著作の『アナーキスト』から引き続き、反ユダヤ主義と反ドイツ主義を見ている(本書305-306頁)。反ドイツ主義については本書に採録されている部分からでも伺えるが、反ユダヤ主義については、果して「反」という言葉で呼ぶべき程のものであろうか。確かに本書で伺える部分にて、マルクスやラッサールを批判する際に、「マルクス氏は、出身がユダヤ人である。彼はこの有能な種族がもつ一切の特性と欠陥とを一身にそなえているといってよい」(本書314頁より引用)とそのユダヤ人の出自について論じている辺り、ユダヤ人への偏見は見られるであろう。しかし、本書でバクーニンの反ドイツ主義について、

 

“『国家性とアナーキイ』の全篇いたるところに浸透しているのは、かつて聖ペトロパウロフスク要塞の薄暗い獄舎で書かれ、ニコライ一世に提出された『告白』のなかでひそかに吐露されていたのと同じ反ドイツ感情である。そうした民族的偏見によって歪められたイマジネーションの不鮮明な鏡面に、不思議にもヒットラー主義の面貌が、あの『わが闘争』のなかで露骨に描かれた“民族社会主義”の世界制覇の野望、わけてもソ連社会主義絶滅の企図が、先取りされて映じだされているかのようである。”(本書306頁より引用)

 

とまで述べているのには、やはり疑問が残る。バクーニンについてユダヤ人への偏見や反ドイツ主義は見られ、それは今日のアナキストバクーニンを継承する際に批判しなければならない部分であるが、ショア―(いわゆるホロコースト)を行ったヒットラーと同列に論じるのは反共主義者であった勝田吉太郎氏の読み込みすぎではなかろうか。尤も、私は『国家性とアナーキイ』を通読したわけではないので、いずれ通読して自身の目で確かめることにしたい。

 

本書の最後の節である「アナーキズムと現代新左翼」にて、勝田吉太郎氏は、1950年代以降のマルクーゼ、ルフェーブル、フランツ・ファノンオクタビオ・パスといった新左翼の理論家たちが、一見マルクス的なレトリックを用いながらも実はバクーニンの思想の影響が濃厚であることを論じている(本書353頁)。この点こそ、戦後の新左翼運動がトロツキー主義や毛沢東思想などのマルクスレーニン主義諸派の理論によりつつも、前衛党理論以外の面において実はバクーニン的だったことを考えるうえで示唆深いのではないかと思った。

 

最後に、本書で最も感銘を受けたバクーニンの論述を、『国家性とアナーキイ』より引用して述べる。同時期に読んだ星野源さんの『そして生活は続く』(文藝春秋、2013年)で、生活を大事にしなかったのが良くなかったと似たようなことを言っていたのが非常に印象深かった。ミハイル・バクーニン星野源さんの間には特に共通点はないが、抜きんでた人間の考えることは似るということなのだろう。(詳しくはこちらhttps://booklog.jp/users/2a5b6358bb54e0dc/archives/1/4167838389?type=post_social&ref=twitter&state=reviewを参照)

 

“ われわれ革命的アナーキストは、全人民の教育、社会生活解放とその広範な発展の擁護者であり、したがって国家とあらゆる国家化への敵対者であって、すべての形而上学者、実証主義者、学識の有無を問わずあらゆる科学の女神の跪拝者とはちがって、自然生活ならびに社会生活こそが思想に先行するも(←311頁312頁→)のであり、思想は生活の一機能にすぎず、けっしてこの結果ではないことを確認する。生活は一連の抽象的な内省によってではなく、一連の種々な事実によって、自己の内部の涸渇することのない深部から発展してくること、また抽象的内省はつねに生が生みだすものであって、逆に生を生みだすものではなく、ただ道標として生の方向やその自立自生の発展のさまざまな局面を指示するにすぎないことを、われわれは確認するのである。”(バクーニン勝田吉太郎訳『国家性とアナーキイ』勝田吉太郎『人類の知的遺産49――バクーニン講談社、1979年12月10日第1刷発行、311-312頁より引用)

 

【読書録】ジョージ・ウドコック/白井厚訳『アナキズムII――運動篇』紀伊國屋書店、1968年7月31日第1刷発行。

【読書録】ジョージ・ウドコック/白井厚訳『アナキズムII――運動篇』紀伊國屋書店、1968年7月31日第1刷発行。

 

同著者の思想篇に続く運動篇の書。アナキスト・インターナショナル、フランス、イタリア、スペイン、ロシア、その他諸国のアナキズム運動史について述べられている。初期の労働運動に大きな影響力を持っていた日本、中国、朝鮮、台湾のアナキズム運動への言及はないが、これは仕方がないところであろう。

 

気になった部分をメモ書きするに止める。

 

アナキズム運動の誕生は、1869年の第一インターナショナルバーゼル大会であり、バクーニンの指導によるものであった(本書6-7頁)。

 

“……一八七二年から一八七七年にかけて、バクーニン主義者は、マルクス主義者よりもはるかに多くの支持者を得たといって差しつかえない。”(本書11頁より引用)

 

アナキスト・インターナショナルの最後の大会となった1877年9月のヴェルヴィエ大会には、ドイツ、メキシコ、ウルグアイ、アルゼンチンといった諸国からの代表が送られている(本書19-20頁)

 

・1923年にベルリンに創設されたアナルコ・サンディカリズム系の国際組織「国際労働者協会」には、100万人を擁するスペインのCNT、50万人を擁するイタリア・サンディカ連合(UNI)、20万人を擁するアルゼンチン地域労働者連合(FOR A)、15万人を擁するポルトガルの労働総同盟(CGT)、12万人を擁するドイツの自由労働者同盟、3万人を擁するスウェーデン労働者センター(SAC)、チリ、デンマークノルウェー、メキシコ、オランダ、ポーランドブルガリア、日本といった諸国の小規模な連合もここに加盟していた(本書39-40頁)。1928年にラテンアメリカでアルゼンチン、メキシコ、ブラジル、コスタリカパラグアイグアテマラウルグアイのサンディカリストを糾合した大陸労働者協会が創立され、国際労働者協会に支部として加盟している(本書40頁)。大陸労働者協会の創設時の本部はアルゼンチンのブエノスアイレスに置かれ、後に隣国ウルグアイモンテビデオに移転している(本書40頁)。

 

“ 一方で純粋アナキストたちの国際組織がすべて短命で効果が上らなかった――創立大会だけで消滅しさえした――のに、アナルコ-サンディカリストのインタンショナルが、初期の影法師としてでもともかく生き残ってきた理由は、少なくとも一部分は、サンディカリストの組織の性格に求められよう。その最も戦闘的なメンバーは献身的な〈自由意思を強調する人たち〉であろうが、一般大衆の大部分は、今ここで獲得し得る最良の生活を求める労働者たちであろう。この理由のために、革命的組合(Syndicate)さえも、ふつうの労働組合と同様に、安全と、中央集権的構造――これは表向きは否定されるかもしれないが――をも維持しなければならない。中央集権的構造は、言論や行動による宣伝に没頭する純粋アナキストの集団の間では決して目にすることができないものなのである。(←41頁42頁→)

 純粋アナキストは、知識人であろうと直接行動派であろうと、あるいは世俗の予言者であろうと、他の個人主義者たちと共に活動する個人主義者である。サンディカリストの闘士は――アナルコ-サンディカリストと自称しようとも――大衆と共に活動する組織者である。独自のやり方で、彼は組織上の見通しを展開し、そしてこのために、彼はかなり綿密な計画を遂行し、長い期間にわたって活動する複雑な連合体を維持することが純粋アナキストよりも可能なのである。後に見るように、フランスのCGTとスペインのCNTの中にはこういった人たちがいた。国際労働者協会の場合について言えば、この組織を動かしていたドイツ、スウェーデン、オランダの知識人たちは、〈自由意志を強調する〉理想を、彼らのゲルマン文化から得た能率尊重と結合していたのである。

 アナキスト・インタナショナルの歴史をふり返って見ると、論理的に純粋アナキズムは、厳格さと中央集権の手段がなければ存続しえない国際的な――または国単位ですらも――組織を入念につくろうとする時には、それ自身の性質と矛盾することが明らかなように思える。アナキズムにおける自然な構成単位は、束縛がなく柔軟な同類集団である。そしてまた、アナキズムの思想は――歴史上適切な時期には――個人的な接触と知的影響という見えざる網状組織によって地球上遠く広がることができたのだから、国際的な性格を帯びるためにそれ以上複雑なものを必要としないだろう。アナキスト・インタナショナルがすべて失敗したのは、主にそれらが不必要であったからである。

 けれどもサンディカリズムは、その革命的形態においてさえも、比較的安定した組織を必要とするし、しかもまさにそれが、ただ部分的にのみアナキズムの理想によって支配されている世界で行われるために、またそれは常に労働者の日々の状態を考慮しそれと妥協しなければならないために、アナキズムの究極目標についてはごくおぼろげにしか意識していない労働者大衆の忠誠を維持しなけれ(←42頁43頁→)ばならないために、安定した組織をつくることに成功する。それゆえに、第二の国際労働者協会が比較的成功し永続する結果となったのは、アナキズムの真の勝利ではない、むしろそれは、アナキストたちがアナキズム以前の世界における現実と深く妥協することを学んだ時代の、記念碑なのである。” (本書41-43頁より引用)

 

著者が述べるように、「現実に大衆の支持を得たアナキズムの唯一の形態」(本書47頁)がアナルコ・サンディカリズムだったことを考えると、このアナキズムの純粋な理想にこだわって市井の人々に接する組織を持つことを断念するか(純正アナキズム)、それとも多少なりともアナキズムの理想を曲げる中央集権的な組織を作って市井の人々に接するか(アナルコ・サンディカリズム)という問題には根深いものがある。

 

【フランス】

アナルコ・サンディカリズムが最初に生まれたのはフランス(本書47頁)。

 

・フランスにおける最初期のマルクス主義者であり、第一次世界大戦勃発によって祖国支持に回るジュール・ゲードは、元々はアナキストであった(本書69頁)。

 

印象派の画家カミーユピサロと息子のルシアン・ピサロは共にアナキストであり、ジャン・グラーヴの『新時代』誌に絵や石版画を寄稿している(本書84頁)。

 

“作家や画家をアナキズムに引き付けたものが、諸団体の散文的な日常活動でないことは明白であった。それは多分、主としてアナキィの理念そのものですらなく、大胆と探究の精神であって、それをマラルメは、一八九四年の三〇人裁判で、彼の友だちのアナキストのために証言した時に敏感に表現し、その友だちを、“素晴らしい精神、新しきものすべてに対する、あくなき好奇心”と描いたのである。芸術家や知識人たちを感動させたものは、精神の独立、行動の自由についてのアナキストの努力、そのための経験であった。”(本書85頁より引用)

 

・フランスのアナキズム運動は、第一次世界大戦勃発後、戦前アナキストが主張していた反軍国主義の立場を放棄し、ジャン・グラーヴ、シャルル・マラト、ポール・ルクリュといった指導者達が祖国を支持する立場にたったため、ロシア革命以前にほぼ崩壊していた(本書107頁)。この点については先述したマルクス主義者のジュール・ゲードらも同様であったが、国家を原理原則的に否定するアナキストが戦争に際して祖国擁護を行ってしまった問題は、マルクス主義者のそれよりも一層根深いように思われる。

 

【イタリア】

アナキストが採用する「行動による宣伝(プロパガンダ)」を最初に言い出したのはイタリアのカルロ・ピザカーネ(本書119-120頁)。1876年にマラテスタとカフィエロによって他国のアナキストに伝えられる(本書131頁)。

 

・イタリアでは貧しい南部よりも豊かな北部にてアナキズムが発展した(本書128頁)。

 

・イタリア人は19世紀を通じた移住者によって、とりわけ1890年代においてラテンアメリカ諸国とアメリカ合衆国アナキズムをもたらした(本書142-143頁)。マラテスタのような指導者でさえ、1884年にアルゼンチンに亡命している(本書145-146頁)。

 

【スペイン】

・若き日のパブロ・ピカソアナキズムに惹かれていたことが記されている(本書177頁)。ピカソ第二次世界大戦中のフランス共産党レジスタンスに感動して、パリ解放の直後にフランス共産党に入党し、戦後のスターリン崇拝が最高潮に達した中でも共産党員であり続けた。本書にある通り若き日のピカソアナキズムよりだったということを思うと、スターリン主義が実に多くの要素を吸収して成長したことが伺えて興味深い。

 

スペインのアナキストの反宗教的な宗教性について。勝田吉太郎氏はバクーニンを筆頭とするロシアの無神論者について、「彼らにとって無神論は精神的欠乏でなくして、逆に精神的確信であり、信じることを止めるのでなく、いわば無神論を信じ、この一種の信仰を狂信家特有の不寛容と熱中とをもって説教するのである」(勝田吉太郎アナーキスト――ロシヤ革命の先駆』筑摩書房〈グリーンベルト・シリーズ85〉、1966年11月30日初版第1刷発行、36頁より引用)と論じていたが、本書ではスペインのアナキスト無神論について、示唆深い見解が述べられている。

 

“ アナキズムというものは、もちろろん(引用者註:この誤植は原文そのまま)普通の政治運動とは異なって、道徳的宗教的要素をもっているものだが、この要素は、スペインにおいてはどの国よりも強く発達した。この国において、アナキズムに対する鋭敏な観察者はほとんど誰でも、そこにボルケナウが“半宗教的ユートウピア運動”と呼んだものがあるという事実に、気がついてきた。そして、その宗教的情熱が教会に対してなぜかくも激しく向けられなければならなかったかということを最も納得のいくように表現したのは、再びブレナンであった。ここでは、「スペインの迷路」(The Spanish Labyrinth)の中でその問題を彼が非常に巧みに論じている部分を引用することが最も良かろう。この書は、長年にわたるスペインのアナキストとの直接の交友によって裏付けされている。

 

市民戦争の期間における教会に対するアナキストの激しい憎悪と、教会を襲うに当っての彼らの異常な暴力沙汰は、誰もが知っていることである。……それは、教会から生まれた異端者の、教会に対する憎しみとしてしか説明し得ないと思う。というのは、スペインの〈自由意志を強調する人たち〉の目には、カトリック教会は、キリスト教世界において反キリストの位置を占めているのだから。それは彼らにとって、革命の単なる障害物という以上のものであった。彼らは、教会のなかにあらゆる悪の源泉、原罪という卑しい教義をもって青年を堕落させるもの、彼らがSaludすなわち健康と呼(←191頁192頁→)ぶ自然と自然法を冒涜するものを見たのだ。それはまた、兄弟愛や互いに許し合うなどというきれい事をとなえて、人間の連帯という偉大な理想をあざける宗教でもあった。……

そこでスペインのアナキストたちの教会に対する怒りは、見捨てられあざむかれてきたと感じている極度に宗教的な人びとの怒りであると示唆したい。司祭や修道僧は、歴史上、危機が迫ると、大衆を見捨て、金持ちの側へ走った。一七世紀の偉大な神学者たちの人間的、啓蒙的な原理は、一方の側にだけ適用された。そこで人びとは、教会の言葉はすべて偽善ではないかと疑い出したのである。(自由主義によってもたらされた新しい思想がもちろん彼らを助けた。)彼らがキリスト教的ユートウピアを求めて闘争を始めた時は、従ってそれは、教会に反対して行ったのであって、教会と共にではなかった。彼らの暴力ですら宗教的と呼べるかもしれない。結局、スペインの教会はつねに戦闘的で、二〇世紀に至るまで、その敵を打ち負かせると信じていた。疑いもなくアナキストたちは、彼らに同調しない人びとを教会と同じやり方ですべて追い払いさえすれば、この世の天国を招くために教会が行った以上の良い仕事ができると思っていた。スペインでは、どんな信条も全体的であることにあこがれる。”(本書191-192頁より引用)

 

スペインのアナキスト無神論は、堕落したカトリック教会に対して真の宗教を求める人々の怒りと信仰心の反映だとする見解である。スペインにおけるカトリック教会に相当するものを日本に求めるのならば、おそらくそれは神社神道になると思われるが、日本のアナキストには堕落し国家権力と癒着した神社神道に対して、真に神を求めて反逆するという人々は、おそらく存在しなかったのではないか。天理教大本教とそこから派生した宗派(ほんみちなど)がそれに近いかもしれないが、天理教大本教も、決してアナキズムではない。しかし、ここにこそ、日本におけるアナキズムの土着化の鍵があるような気が、私にはする。本質的に敬神崇祖ということを強く信条としている日本の地方に暮らす人々が、一度、神社神道に裏切られたと感じた時、神社神道が語ることは正義でも救済でもないと感じた時、スペインのアナキストと同様の無神論に達するのではないか。この観点からもう一度、本居宣長平田篤胤らの国学は研究され直されるべきである。

 

 

・エピローグにて、著者はバクーニンによって創設されたアナキズム運動が、一世紀近く努力しても国家を破壊することはできず、運動としては失敗したと論じている(本書313-314頁)。その理由として、社会の中央集権化と画一化の中で成長した階層である、官吏、事務員(ホワイトカラー)、店主といった小ブルジョワ層を引き入れることに失敗したこと(本書316頁)や、労働条件の改善といった現実的な提案の弱さ(本書318-319頁)、共産主義マルクスレーニン主義)やファシズムといった競合思想への敗北(本書319-320頁)が挙げられている。しかし、アナキズム運動は途絶えてもアナキズム思想は生き続ける。著者が言う通りそこから何を汲み上げるかは、本書の原書刊行から50年以上経った今日にあっても現代性を持った課題である。

【読書録】ジョージ・ウドコック/白井厚訳『アナキズムI――思想篇』紀伊國屋書店、1968年6月29日第1刷発行。

ジョージ・ウドコック/白井厚訳『アナキズムI――思想篇』紀伊國屋書店、1968年6月29日第1刷発行。

 

原著は1962年。カナダ出身のイギリスの思想史家による近代アナキズム思想と運動双方の通史。

 

本書刊行の1968年の時点において、訳者の白井厚氏は日本のアナキズム研究の水準と、本書の翻訳の意義について次のように述べている。

 

“……驚くべきことに、フリエ、シュティルナー、プルドン、バクーニンらについての専門の研究書はいまだに一冊も存在せず、一九六四年の拙著「ウィリアム・ゴドウィン研究」(未来社)はゴドウィンに関する日本で最初の著書というだけではなく、大杉栄クロポトキン研究を除けば、いわゆるアナキストを扱った最初のモノグラーフであった。このような現状を打開し、アナキズム研究を前進させるためには、先ず本格的なアナキズム通史が必要であろう。ウドコックのこの書は、アナキズムの思想と運動について、国際的にも水準の高い通史であって、従来知られていなかった人物や事実についても詳しく、日本のアナキズムに関する認識がないというような欠点はあるにせよ、さらに水準の高い通史が日本人の手によって書かれるまで、なお十分にその生命を維持し、今後の研究の基盤となるものと思われる。”(本書viii頁「訳者序言」より引用)

 

バクーニンの研究書としては本書刊行後の1979年に講談社の人類の知的遺産シリーズより保守派の勝田吉太郎氏によって研究書が刊行され、プルードンについてもマルクス研究者による研究書が幾つも出たが、全体的に日本におけるアナキズム研究については、本書の「訳者序言」にある通り、ライバルのマルクス主義と比べれば活発とは言えない状況である。

 

また、「訳者序言」では、本書においてはLibertatianの語を〈自由意思を強調する(人)〉と訳したことについて述べられている(本書xii頁)。

 

本書は思想篇となり、アナキズム前史としてアナキストに言及されることの多い老子、ゼノン、ジャン・メリエといった人物を慎重に避け(本書45頁)、「最初の明瞭なアナキスティックな運動」(本書51頁)として、イギリス清教徒革命の際の清教徒の一派であるディガーズの運動とその理論的指導者ウィンスタンリを僅かに挙げるに止めている(本書50-59頁)。

 

アメリカ独立革命フランス革命については、著者は、

 

アメリカ革命においてもフランス革命においても、一六四八年と一六四九年にディガーズが創り上げたほどに予言的なアナキストの未来の細密画を示す事件や運動は存在しなかった。一九世紀の間、合衆国もフランスも、アナキストの思想と行動のヴァラエティにおいてはたしかに豊富でありえたが、しかし偉大な一八世紀の諸革命においてこの傾向が表わ(←59頁60頁→)したものは、衝動的で不完全であった。”(本書59-60頁より引用)

 

と述べ、両革命の中からアナキズムの要素が見られる人物として、政府不信を公言したトマス・ペイン(61-63頁)と、フランス革命においてロベスピエールによる恐怖政治を過激派の立場から批判したため自殺することになったジャック・ルー神父(66-69頁)と、ロベスピエール失脚後に革命政府そのものを滅ぼすことを主張したジャン・ヴァルレ(本書70-71頁)を挙げるに止めている。また、アナキズムの要素が見られる人物として言及されることもあるトマス・ジェファソン(北アメリカ独立革命の革命家、第三代アメリカ合衆国大統領)については、著者はジェファソンの領土拡張主義や奴隷所有などの権威主義を理由にアナキストの先駆者に加えることを拒否している(本書60-61頁)。

 

以上の先駆的なアナキズム思想についての検討の後、著者が近代アナキズム思想の中で検討しているのは、ウィリアム・ゴドウィン、マックス・シュティルナー、ピエール=ジョゼフ・プルドン、ミハイル・バクーニン、ピョートル・クロポトキントルストイの6人を挙げている。著者の筆致からはゴドウィン、プルードンクロポトキンの三人に好意が寄せられていることが明白であるが、この点に関しては各読者が自ら読み、ご判断いただきたい。

 

また、本書は「プロローグ」にて、アナキストが何であり、何でないのかについて、一般に通念化した誤解を解く意図を以て述べている。それも著者が長年アナキズム運動を研究し、一時イギリスの運動に関わっていた際の経験から述べられるのである。この「プロローグ」こそが本書の神髄かもしれない。特に、著者が長年のアナキズム研究から、アナキズムを「民主主義の極端な形態」(本書32頁)ではなく、むしろ「普遍化され、純粋化された貴族主義」(本書33頁)と見なしていることは非常に興味深い。あたかもアナキストの理想像はオルテガの『大衆の反逆』で描かれた非世襲の精神的貴族のようでもあり、オルテガの国スペインが欧州で最もアナキズム運動の強かった国であることを考えると意味深長であるが、マルクス主義から転向し社民化した私が、社会民主主義に飽き足らずアナキズムに惹かれたのは、ひょっとしたらアナキストのこの点にあるかもしれないからである。

 

 しばしば混同されがちなアナキストとニヒリストの違について、著者は次のように述べている。

 

“ アナキストたちが、彼らの自由な世界の輝く塔が現れるのを常に見てきたのは、支配と信仰の残がいを通してである。その見通しは素朴かもしれぬ――われわれはまだそのような言葉においてそれを判断する点に到っていない――しかし、それは明らかに、どうにもならない破壊の見通しではない。

 たしかにこのような見通しのできる人を、ニヒリストとして片づけることはできない。ニヒリストは、一般的な意味でその言葉を使うと、何らの道徳原理も、何らの自然法も信じない。ところがアナキストは、権威の破壊の後までも生き残り、なお友愛という自由自然なきずなで社会を結合させることのできる力強い道徳的な衝動というものを信じている。アナキストはまた、厳密な歴史的な意味においても、ニヒリストではない。というのは、ロシアの歴史において、やや不正確にニヒリストと呼ばれた特殊なグループは、人民の意志団(The people`s will)に属するテロリストたちであった。人民の意志団とは、一九世紀後半において、帝政ロシアの独裁的支配者たちに向けられた組織的な暗殺計画によって、立憲政府の樹立――アナキストの目的ではない――を求めた組織的な陰謀の運動である。”(本書9頁より引用)

 

また、アナキズムテロリズムの関係についても示唆に富んでいる。

 

“……バクーニンでさえ、何度もバリケイドの上で戦い、農民蜂起の残忍さを賞めたたえたけれども、悲しげな理想主義の調子で一言述べる際には、迷いをおぼえる時もあった。

   

   流血の革命は、人類の愚かさのゆえにしばしば必要である。だがそれは、それがもたらす犠牲に関してばかりでなく、その名において革命が行われる目的の純粋さと完全さのためにも、常に悪、途方もない悪であり大惨事である。

 

実際、アナキストたちが暴力を認めたところでは、大部分は彼らが、フランス、アメリカ、そして究極的にはイギリスの革命から生じた伝統に執着したためであった――これは自由の名における暴力的な民衆運動の伝統で、アナキストたちが、ジャコバン派マルクス主義者、ブランキ主義者、そしてマッツィーニとガリバルディの追随者たちのような、彼らの時代の他の運動と共通に持っていたものである。”(本書10頁より引用)

 

 

“ しかしそうは言っても、暴力、非暴力に関する態度の漠とした混乱を通して、アナキズムの暗い使者、テロリストの暗殺者たちが、まぎれもなく活動している。スペインとロシアの特別な条件を除いては、彼らは僅かな人数にすぎず、たいていは一八九〇年代の間に作戦行動をした。彼らの犠牲者が目立っているので――というのは、これら勝手に裁判官を自任する人びとによって権威という罪で処刑された人たちの中には、フランスとアメリカ合衆国の大統領や幾人かの王族たちがいた――彼らの人数とは全く不釣合いに、彼らの行動は有名となった。しかし、いかなる時においてもテロリズムの政策は、一般のアナキストによっては採用されなかった。テロリストたちは、のちに見るように、たいてい孤独の人たちであって、厳しい理想主義と天啓的な情熱の奇妙な混合によって動かされていた。これは、ピョートル・クロポトキンや、ルイズ・ミシェルのような他のアナキストたちを、現世の聖人に変えたあの同じ情熱の、暗い面なのである。

 しかしながら、最も悪名高い人たちのなかかから三人だけを示すと、ラヴァシォル、エミール・アンリ、レオン・チォルゴシュのような人によって遂行された暗殺は、アナキストの運動に極めて有害であった。(←11頁12頁→)彼らはアナキズムテロリズムは同じだという考えを、それを正当とする理由が消えた後にも長い間容易に去らないほど、民衆の心に植えつけたのである。奇妙なことに、同じ時代の他の暗殺は、アナキストたちの暗殺よりも大変容易に忘れられてしまった。ロシアの社会革命党員たちの名は、彼らに殺された犠牲者の数ははるかに多いのに、何ら戦慄をひき起こすことはない。アナキストたちを短刀や爆弾と結びつける人びとのほとんどが、アメリカの大統領を暗殺した三人のうち、アナキストだと主張したのは一人だけ(引用者註:1901年に共和党のマッキンリー大統領はレオン・チォルゴシュに暗殺された)ということを考えてみない。他の一人は、アメリカ南部同盟支持者で(引用者註:1865年の共和党リンカーン大統領暗殺事件)、三人目は、失望した共和党員(引用者註:1881年共和党ガーフィールド大統領暗殺事件)であった。”(本書11-12頁より引用)

 

 

マルクス主義者にとって理論的な難点であった農民についてのアナキストの態度も、以下の筆致で明らかになるであろう。

 

“……マルクス主義者は、素朴な人びとを、すでに過ぎ去った社会進化の一段階を表わすものとして、拒絶する。彼にとって、種族民、農民、小職人などのすべては、ブルジョアジーや貴族とともに、歴史の残物の上につみ重ねられる。共産主義者の現実政策(Realpolitik)は、現在の極東におけるように、時には農民との接近(rapprochement)を求めるだろう。しかし、そのような政策の目的は、常に農民を、農業のプロレタリアに変えることである。他方、アナキストたちは、(←23頁24頁→)農民のなかに、非常に大きな望みを託してきた。農民は、大地に親しみ、自然に親しみ、それゆえに、彼の反応のしかたはより“アナーキック”である。バクーニンは、百姓一揆を、革命のための彼の理想である自発的な民衆蜂起の未完成な型として見た。さらに農民は、歴史的な環境によってつくられなければならなかった協同という長い伝統の継承者である。アナキストの理論家たちは、農民の社会におけるこのような傾向を是認することによって、ますます繁栄するにつれて農民社会は――歴史において知られているかぎり他のすべての発展する社会と同じく――富農、貧農、労働者たちという階級制度の確立に至る富と地位の相違を示し始めるということを忘れる傾向がある。アナキズムはアンダルシアとウクライナの貧農たちの間で力強い大衆運動となったが、それよりも富んだ農民たちのあいだでは何らの評価しうるほどの成功を得ることができなかったということは、意味が深い。市民戦争の初期において、スペインのアナキストたちによって支持された集産主義的組織を採用するようアラゴンのぶどう栽培者に強いたのは、ドゥルティと、彼の義勇軍の恐怖のみであった。”(本書23-24頁より引用)

 

 

アナキストの出身階級の分析も興味深い。

 

“……有名なアナキストたちの大部分は、貴族か、地方地主出身であった。ロシアにおけるバクーニンクロポトキン、チェルケソフ、イタリアにおけるマラテスタ、カフィエーロは、典型的な例である。またゴドウィン、ドメラ・ニューエンハウス、セバスチアン・フォールのような人たちは、以前には、牧師や宣教師であった。残りの人たちのあいだでは、職人階級――伝統的な手職人――が、おそらく最も重要であった。アナキストの闘士には、驚くべき割合の靴屋と、印刷屋が含まれている。ある時代――フランスにおける一八九〇年代、イギリスと合衆国における一九四〇年代――においては、マス・ヴァリューに反逆する知識人と芸術家たちは、かなりの数がアナキズムにひきつけられた。結局、マルクスが、社会の階層化という彼のきれいな型の何処でもあてはまらないのでその大部分を軽べつした階級脱落者の要素を、アナキストたちは、自然な反逆者として歓迎する傾向があった。その結果、アナキストの運動は、反乱が犯罪行為とからみあっている暗い世界、バルザックのヴォートランと、現実の世界におけるその生き写したちの世界に、常につながりを持っていた。

 これらの要素は、主として、現代国家と、現代資本主義あるいは共産主義経済への彼らの対立において、一体となる。彼らは反乱を主張するが、それは必ずしも過去を賛美するのではなく、たしかに、彼らが生きている現在の中にはない個人の自由という理想のためなのである。この事実だけが、われわれに、注意深くアナキスト進歩主義を見させるはずだ。それが意味するものは、確かに、今日存在するような社会をそのまま進歩させるのではない。反対に、アナキストは、ある面では一つの後退――素朴化の線にそった後退――を意図している。”(本書25頁より引用)

 

 

2020年現在、19世紀末~20世紀初頭にかけて、アナキズム運動に戦士を供給した貴族、地主、手工業職人は、社会の民主化と資本主義経済の進展によりもはや活力を保っていない。聖職者にしても、キリスト教原理主義や戦闘的イスラーム主義に世界の多くの人々が惹きつけられている現実はあるにしても、それらは伝統的な聖職者の世界とは少し離れた世界での営みであろう。かつて、アナルコ・サンディカリズムの下で労働組合に組織された労働者階級は、アナルコ・サンディカリズムの不調により、今日では連合のような改良主義的な組合に組織されるのが主流である。結局、勝田吉太郎氏が述べていた通り、知識人(職業的知識人ではない知識の消費者であるインテリゲンチアを含む)と芸術家、そしてその予備軍である大学生が、現在のアナキズムに戦士を供給する主な階層になるのであろう。しかし、これでは心許ない。従来から支持層であった農民のみならず、ITエンジニアや医療職員、介護職員、倉庫で働く人々、建設作業員といった、マルクス主義的な意味での近代的産業労働者=プロレタリアートではない人々に対して、今日のアナキズムの価値を訴えられないであろうか。

 

 

 

“……しかし、もしわれわれが、社会の素朴化への衝動が、社会をもっと有効に動かそうという望みからでなく、あるいは個人の自由を破壊する権威機関を除去する願いですらも全くなく、主として、より素朴な生活の徳についての道徳的な確信から生じるという事実を無視するならば、アナキストの態度の本質を見失うであろう。

 アナキズムにおける深い道徳主義の要素は、アナキズムを単なる政治的な主義以上のものとするのだが、これまで決して十分に探究されてこなかった。これは部分的には、因襲的な道徳を拒否し、彼ら自身の哲学のこの面を強調することを嫌ったアナキスト自身のせいである。それにもかかわらず、素朴化への衝動は、アナキストの思想に浸透する禁欲的な態度の重要な部分である。アナキストは、単に富める人に対しては怒りを感じない。彼は、富自体に対して怒りを感じる。彼の目には、貧しい人が窮乏の犠牲であると同様に、富める人はぜいたくの犠牲である。すべての人たちをぜいたくに生活させるという北アメリカの民主主義をまどわせるかのヴィジョンは、決してアナキストたちに訴えるものではなかった。”(本書26頁より引用)

 

 

私は本書で、「彼の目には、貧しい人が窮乏の犠牲であると同様に、富める人はぜいたくの犠牲である」というアナキストの富に対する視線を知ったことは大きな収穫だったと思っている。有り余る金銭は人間を堕落させるからこそ、アナキストは社会における極端な富の偏在に反対するのである。

 

 

“ 人々が自由であるために十分な量――それが、物質世界に関するアナキストの要求の限度である。”(本書27頁より引用)

 

この行もとても重要で、アナキストが富の再分配を要求するのは、プルードンが主張した通り、一定の富が自由であることを保証するためである。この点で私有財産制度の否定に至るマルクス主義とは異なる。これを小ブルジョワ的と批判するのは容易いが、私自身の無職時代の実感からすれば、働き出して月にほんの数万円ほどでも自由に使えるお金が手に入った時に、自分がそれだけ自由になったということを強く感じたので、この主張にはリアリティがあると私は考えている。

 

 

 

“……アナキストにとっては、時として彼の教説の中に前後矛盾して入りこんだ科学的決定論にもかかわらず、いかなる特別な事件も必然的ではなく、また確かに、人間社会の中にはいかなる特別な事件もない。彼にとっては、歴史はマルクス主義者が考えるような弁証法的必然という鉄の軌道に沿って動くものではない。それは闘争から現われ、そして、人間の闘争は、人間の中の自由な自覚という火花にもとづき、自由への絶えざる刺激を起こさせるどのような衝撃――理性における、または本性における――にも呼応する、人間の意志の働きが産み出したものである。”(本書29頁より引用)

 

これもアナキズムの良い点で、マルクス主義史的唯物論や「歴史の必然」などについては考えなくて良いし、考えない方が良いと私は思っているので、アナキズムが自由意志を強調するということは努々忘れてはならない。

 

 

“……アナキストたちによって擁護されたあらゆる種類の戦術を結びつけ特徴づけるものは、いかにそれらが暴力と非暴力、集団行動と個人行動というように異なっていようとも、それらは直接個人の決定の上に基礎をおいているという事実である。個人は、自発的にゼネ・ストに参加し、自由意志によって共同体の一員になり、あるいは兵役を拒否し、あるいは暴動に参加する。責任について何ら強制や委任は生じない。個人は、適当だと思う時に、行ったり来たり、行動したり行動を断ったりする。革命について(←31頁32頁→)のアナキストのイメージが、人民の自発的な蜂起という形を実際最もしばしばとるということは、本当である。だが人民は、マルクス主義者の意味における大衆としてみられるのでない――彼らは、その一人一人が彼自身で行動の決定をしなければならない最高の個人の集まりとして見られる。”(本書31-32頁より引用)

 

この「一人一人が彼自身で行動の決定をしなければならない最高の個人の集まり」という人民への認識は、実際に何かの集団的な行動をするのには却って困難かもしれない。そうであっても、この個人尊重はアナキズムの美徳だと私は思う。

 

“ 個人的な選択の至高性に対する極度の関心は、革命の戦術と未来社会の構造についてのアナキストの考えを支配するばかりではない。それはまた、アナキスト独裁制と同じく民主主義を拒否することも説明する。アナキズムを民主主義の極端な形態とみなすほど、アナキズムの概念で真実から遠いものはない。民主主義は、人民の主権を擁護する。アナキズムは、個人の主権を擁護する。これは、自動的に、アナキストたちが民主主義の形式と見解の多くを否定することを意味する。議会制度は、個人が彼の主権を代表者に手渡すことによって主権を棄てるということを意味するがゆえに、拒否される。一度個人が捨ててしまえば、多くの決定は彼の名においてなされ、もはや彼は、それについていかなる統制も持たない。だからこそアナキストたちは、象徴的にも現実的にも、投票は自由を裏切る行動であるとみなす。“普通選挙反革命である”と、プルドンは叫び、彼の後継者(←32頁33頁→)たちは、誰も彼に反駁しなかった。”(本書32-33頁より引用)

 

“ 実際にアナキズムの理想は、その論理の究極にまで進められた民主主義というようなものではなく、普遍化され、純粋化された貴族主義にはるかに近い。ここで、歴史の螺旋は、完全に一回転した。そして、貴族主義が――テレームの僧院のラブレーのヴィジョンにおいてその最高点に達する――貴人たちの自由を要求した場所で、アナキズムは、常に、自由人たちの気高さを主張してきた。アナキィの究極のヴィジョンにおいて、これら自由人たちは、神のように、王者のように立つ。シェリが描いたように、君主たちの誕生である。”(本書33頁より引用)

 

 

〈ノート〉

【ゴドウィン】

“ 人間は、真理および真理の一面たる道徳に対し、義務を負う。しかし権利を持っているか? いかなる人間も、“有徳ならざる行動をとり、また真理ならざる発言をする”権利は持たない、とゴドウィンは答える。厳密に言えば、人間がまさに持っているのは権利ではなく、互恵的な正義のもとにあってその仲間たちの援助に対する要求である。良心や言論の自由のように、権利とふつう考えられている多くのものは、人間がそれらに対する権利を持っているからでなくて、道徳的真理に到達するためにはそれらが絶対必要であるからこそ、求められるべきである。”(本書102頁より引用)

 

アナキズムに限らず、「自由」について考える際に、必ず行きつくのは、「ヘイトスピーチのような特定のカテゴリの人々を害する言論に自由は認められるべきか」という難問であろう。自由は時の権力が「悪」とすることに対する自由でなければ、あまりその意味はない(基本的にはどんな政府でも「善」をなす自由を禁じたりはしないので)。だからといって、「言論の自由」の名の下に特定の人種や民族を抹殺するような言論を認めてしまっても良いのだろうか。私はヘイトスピーチを「言論の自由」だとは認めたくない立場に立つのだが、そうなると自分の掲げる「自由」は中途半端な、限られた範囲内での自由にしかならないとも考えていた。上記に引用した、ウィリアム・ゴドウィンの”いかなる人間も、“有徳ならざる行動をとり、また真理ならざる発言をする”権利は持たない、とゴドウィンは答える”という発想は、つまり良心や言論の自由を権利ではなく徳や真理から考える発想こそは、この自由のジレンマに一定の答えを与えるのではないかと、読んでいて感じた。ウィリアム・ゴドウィンに従えば、ヘイトスピーチは「言論の自由」が目標とする「道徳的真理に到達する」という目標に反しているから、「言論の自由」の目標を毀損するものとして反対されねばならないのである。尤も、この点について私はまだ考えをまとめられていない。

 

シュティルナー

著者は、暴力を称揚する過激な個人主義者として現れたマックス・シュティルナーが、その本名であるヨハン・カスパー・シュミットの日常生活とは似ても似つかない人物であることについて、このように述べている。

 

“しかも、クロポトキンのようなアナキストたちをさえその教義の烈しさによって驚かせたこの個人主義の熱狂者を考察する時、そこには理論を極端に進める者の性格に関する一つの興味ある洞察が示される。というのは、絶えざる闘争の詩人であり、犯罪と殺人を称揚したこの偉大なエゴイストは、実生活にあっては、一八四四年に「唯一者とその所有」を出版した当時、若い婦人たちのためのグロピウス夫人のベルリン・アカデミーにおける物柔らかな忍耐強い教師であったのだから。彼は、ヨハン・カスパー・シュミットと呼ばれていた。彼がこのような平凡な名前のかわりに用いたペン・ネイムは、彼の額の異常な大きさからとってきたものである。Stirneとは、ドイツ語では「額」を意味していた。それゆえMax Stirnerは、正しくはMax the Highbrow(知識人マックス)と訳されるべきかもしれない。

 シュミットは、本の出版に際して新しい名前をつけたばかりでなく、本を書くことによって新しい人格を創造したように思われる。あるいは少なくとも、激しい、未知の、そして彼の日常生活に沈潜していた自己を呼び起こしたように思われる。というのは、小心なシュミットの、不幸で、不運で、めぐりあわせの悪い生涯においては、マックス・シュティルナーの、情熱的な夢想を持つ、自由な立場のエゴイストは全く存在しなかったからである。シュティルナーという人間と彼の作品の間のこの対比は、現(←133頁134頁→)実を埋め合わせる白日夢としての文章の持つ力の古典的な例を、われわれに示しているといえよう。”(本書133-134頁より引用)

 

 

私も自分の日常における社会生活が単なるホワイトカラーの事務職にすぎないことを思うに、本稿に限らず、社会思想や歴史に関する文章を急進的な立場から書いている自分と、日常生活の自分の分裂がシュティルナーを面白く言えないほどには分裂していることを強く意識している。この懸隔は埋め合わせた方が良いのだろうけれども、他方でそれをやってしまうと必ず日常生活での影響が出るであろうから、これからも何かのきっかけで、経済状態が改善される見通しが立つなどしてペンネームを使わずに思想の話をできるようになるまで待つしかないんだろう。

 

プルードン

“……プルドンは、個人的自由に非常に価値をおくがゆえに、ほかならぬ“結社”という言葉を信じないのだが、組織化されたアナキズム運動の直接の祖となり、それが彼の信念に集団的な表現と力を与え、そして彼はそれを創った何人かの人たちの現実の教師となった。インタナショナルの創立を助けたフランスの労働者たち、一八七一年のコンミューンにおける多くの指導者たち、そして一八九〇年から一九一〇年の間におけるフランス労働組合のたいていのサンディカリストの闘士たちは、すべてプルドンから彼らの思想の大部分を得ることとなった。エリ・アレヴィがかつて述べたように、プルドンは――マルクスではなく――“真にフランス社会主義に、”あるいは、少なくとも一九三〇年代まで存続したような形のフランス社会主義に、“生気を吹き込んだ人”であった。”(本書151頁より引用)

 

フランスではドイツ人マルクスよりもフランス人プルードン社会主義思想が、労働者の中に生きていた。

 

“ 一八四八年におけるプルドンの記事の変らぬ論題の一つは、“プロレタリアートは政府の援助なしにそれ自身を解放せねばならぬ”というものであった。彼はこれを、すべての社会的疾患に対する万能薬としての普通選挙権という神話に対する公然たる非難と結びつけ、経済的変化を伴わない政治的民主主義が安易に行きつく先は、進歩よりもむしろ退歩であるということを指摘した。われわれがファシスト型の右翼運動の大衆への訴えについて多くのことを知った今日では、このような主張は特に変ったものとは思えない。しかし革命的楽観主義が最高潮に達した一八四八年四月において、一年以内に起こるであろうような情勢、すなわち共和国が自己の防衛のために作り上げた、まさにその普通選挙という手段によって王族大統領としてルイ・ナポレオンを選出したことから民主主義が葬むられるであろうような情勢を予期した点では、プルドンはほとんど唯一の人であった。”(本書175頁より引用)

 

ドイツの革命家にしてドイツ社会民主主義の祖であるフェルディナント・ラッサールが『労働者綱領』(1862年)の中で、普通選挙権を高く評価していたことを考えるに、1848年の時点で普通選挙が反動的になり得ることを見抜いていたプルードンは流石である。

 

 

バクーニン

“ ある点で、マルクスバクーニンは似ていた。二人は、ヘーゲル主義という酔いやすい泉の水を痛飲していたし、彼らの陶酔は生涯続いた。二人とも生まれつき独裁的であり、陰謀を愛した。二人とも、失敗にもめげず、圧迫された者、貧しい者の解放に誠実に貢献した。だが、その他の点で彼らはひどく違っていた。バクーニンは広い寛容な心と開放的な気持を持っていたが、その二つともマルクスには欠けており、マルクスはうぬぼれが強く、執念深く、耐えがたいほどにペダンティックであった。日常生活において、バクーニンボヘミアンと貴族の混合物であり、彼のうちとけた態度のおかげで階級のどんな障壁をも越えることができたが、マルクスは根強いブルジョアで、彼が転向しようとしたプロレタリアートとの真の人間的な接触をつくることはできなかった。疑いもなく、人間としては、バクーニンの方が賞賛に値いする。学識と知的能力についてはマルクスがすぐれているという事実にもかかわらず、バクーニンの個性の魅力と直観的な洞察力は、しばしばマルクスをしのいでいたのである。

 個性の相違は、原理の相違のうちに反映されている。マルクスは〈権威主義者〉で、バクーニンは〈自由意思を強調する者〉であった。マルクスは中央集権主義者で、バクーニンは連合主義者であった。マルクスは労働者のための政治行動を主張し、国家を獲得する計画を樹てた。バクーニンは政治行動に反対し、国家を破壊しようとした。マルクスは現在生産手段の国有化と呼ばれているものに賛成し、バクーニンは労働者による管理に賛成した。争いは、アナキストマルクス主義者との間でそれ以来ずっと行われてきたように、現存の社会秩序と未来の社会秩序との間の過渡期の問題に実際集中された。マルクス主義者は、社会主義共産主義の目標は国家の消滅でなければならないということに同意して、アナキストの理想に賛辞を呈したが、過渡期において国家はプロレタリアート独裁の形態で維(←236頁237頁→)持されねばならないと主張した。バクーニンは、今や革命的独裁という考えを放棄してしまって、一時的混乱の危険をおかしてさえ、できるだけ早い時期に国家を廃止することを要求した。一時的混乱の危険は、どんな政府の形態もそれを避けることのできない害悪よりは危険でないと彼はみた。”(本書236-237頁より引用)

 

 

“……バクーニンは、アルフレッド・ドゥリトルと同様に中産階級の道徳に欠けていたかもしれないが、良き礼儀に対する貴族的関心を持っていた。彼は、女性の面前で悪い言葉を使ったジュラ村落の若者をしかりつけるのが常であって、理論上は、彼はネチャーエフの提案を威嚇的だと喜んだかもしれないが、実際上、それらをただ下劣なものとみていたことは疑いない。”(本書240頁より引用)

 

クロポトキン

ロシアや日本のアナキズム運動は実質的に、1903年~1905年頃にかけて、クロポトキンの思想の革命家に対する影響によってその形を整えた。その意味でクロポトキンは各国のアナキズム運動の始祖であったが、ドイツの軍国主義に反対するあまり、第一次世界大戦ではドイツと交戦するイギリス、フランス、ロシアを積極的に支持し、二月革命によって帝政が倒れ、ケレンスキー政権が成立した後にロシアに帰国してからもドイツとの徹底抗戦を唱えたため、アナキストを含むロシアの左翼陣営から孤立してしまったことが記されている(本書301-303頁)。十月革命レーニンボルシェヴィキが権力を掌握した後は、ロシアに留まりながらレーニンの赤色テロルを批判する言動を続け、1921年2月8日にモスクワで死去(本書303-305頁)。

 

 

トルストイ

著者は、最も重要で比類なきトルストイの帰依者として、インドのマハトマ・ガンディーを挙げている。

 

“ しかしながら、最も重要で比類なきトルストイの帰依者といえば、疑いもなくマハトマ・ガンディーであった。ガンディーがインドの人民を目覚めさせ、外国の支配に対してほとんど無血の民族革命を行なって人民を指導した功績は、われわれの主題にとっては外面的なことであるが、しかしこの点でガンディーが何人かの偉大な〈自由意思を強調する〉思想家の影響を受けたことは、記憶に値する。彼の非暴力という方法は、トルストイおよびソローの影響の下に主として発展し、そして彼はクロポトキンを丹念に読むことによって、村落共同体の国という彼の思想の力を得た。”(本書331頁より引用)

 

“……トルストイは、世界的な名声のためにロシア人の中ではほとんどただ一人直接の迫害を免れ、そのことを利用して、ツァー政府が理性的な道徳とキリスト教の教訓にそむいていることを何度も非難したのだった。彼は恐れることなく語り、決して沈黙してしまうことはなかった。あらゆる反逆者たちは、トルストイがそこにいて正義感のおもむくままに語っているかぎり、ロシアという大警察国家の中でも自分たちは孤独ではないと感じたし、彼の痛烈な批判は、一九〇五年から一九一七年に至る運命の期間に、ロマノフ王朝の基礎を掘りくずす役割を演じたことは疑いない。ここで再び、彼はアナキストたちに貴重な教訓を与えている。すなわち、自由に生きることを主張する一人の人間の道徳的な力は、沈黙した奴隷的大衆の力よりも大きいのだということを。”(本書332頁より引用)

 

【読書録】勝田吉太郎『アナーキスト――ロシヤ革命の先駆』筑摩書房〈グリーンベルト・シリーズ85〉、1966年11月30日初版第1刷発行。

勝田吉太郎アナーキスト――ロシヤ革命の先駆』筑摩書房〈グリーンベルト・シリーズ85〉、1966年11月30日初版第1刷発行。

 

保守派の思想史家によるアナキズム史。ロシアを中心に、近代アナキズムの誕生からロシア革命後に、ライバルだったマルクス主義に敗れ、思想的活力を失うまでの様子を描き上げている。本書で際立つのは、アナキズム運動史の整理の上手さである。たとえば、バクーニンを始祖とする19世紀後半のアナキズム運動が一時は労働者階級の支持を得て強力な勢力を保ちながらも、ロシア革命後にその役割を共産主義マルクスレーニン主義)とファシズムの双方に奪われてしまったことを、以下のようにまとめている。

 

“ アナーキズムは一九世紀末から二〇世紀はじめにかけて、「アナルコ・サンジカリズム」という形で復活し、フランスを手はじめに各国の労働組合のなかへくい込んでかなり強固な足場を築くようになった。この運動を育成したのも、小ブルジョワ分子の没落とか、失業、物価騰貴とかいった資本主義機構がうみ出す慢性的な経済現象ではあったが、そのほかにもう一つ見逃しえない要因がある。すなわち、第二インタナショナルに所属した大半の社会主義者による改良主義的指導に対する革命的労働者たちの失望、幻滅、不満という特殊な歴史的要因がこれである。労働者たちのこうした失望感は、議会主義、民主主義、政党政治などに対する不信や無関心を醸成するであろう。そしてアナルコ・サンジカリストの運動は、アナーキズムから引き継いだ「非政治主義」の教説によって、これらの革命的労働者たちを自己の陣営へ惹きつけ、同時に彼らの政治不信の社会心理と欲求不満とを吸収し、表現したのであった。

 ところで、今日アナーキズムないしその思想的影響下に形成されたアナルコ・サンジカリズムは、ラテン系諸国の労働運動のなかにわずかに余命を保っているにすぎず、極左的な労働運(←14頁15頁→)動と革命思想とは、いたるところでマルクス・レーニン主義の圧倒的な影響下に立っている。バクーニンが今では死滅しつつある一革命宗派の聖徒伝にその名をとどめているにすぎないといった状況は、かつて彼の盛名がほとんどマルクスのそれを凌駕していたという事態を顧みると、奇異の感にうたれるほどであろう。その理由の一半は、工業化を完了した先進資本主義諸国において、かつてアナーキズムを醸成したような歴史的条件が今や消滅しつつあるという事情にある。しかしなおその他に、次のような理由も看過することはできまい。すなわち、アナルコ・サンジカリズムの反民主主義的・反議会主義的主張が、ソレリズム(引用者註:フランスの思想家ジョルジュ・ソレルの思想。『暴力論』が有名)の形でムッソリーニファシズムに利用された結果、二〇年代以降労働運動においてその権威を急速に失墜することになったことである、その上マルクス主義使徒たちの手でロシヤ革命が成功を収め、ソヴェト政権が樹立され、そして今日見られるような強大な社会主義国家へ発展していったという事実もまた、イデオロギーとしてのアナーキズムの衰亡に拍車をかけたであろう。なぜならば、一九世紀後半の労働運動と革命思想史上マルクス主義と覇を争ったバクーニンアナーキズムや後のアナルコ・サンジカリズムは、歴史的勝者としてのマルクス・レーニン主義者たちによって敗北者の印を押されるはめになったからである。それはちょうど、わが国で大正十年頃に頂点に達したいわゆる「アナ・ボル論争」(アナーキズムとボリシェヴィズムとの間の論争)が、ロシヤ革命の勝利とソヴェト政権の成立という歴史的事実の力によって、ボリシェヴィズム側の優勢裡に終ったのと同様である。”(本書14-15頁より引用)

 

 

要するに、第一次世界大戦までマルクス主義者の政党による「指導」や、議会主義に幻滅した労働者階級の社会思想だったアナキズムは、第一次世界大戦後により過激な反議会主義思想であるファシズム共産主義マルクスレーニン主義)が現実にイタリアやロシアで国家権力を手に入れた結果、その思想的な魅力を労働者階級の間から減じてしまったということなのだが、勝田吉太郎氏の説明は実にわかりやすい。氏が優れた思想史家であるからであろう。

 

本書はアナキズムの中でも、バクーニンの思想と、バクーニン影響下のロシアのアナキスト運動について多くを論じている。その中でも私が特に興味深いと感じた点について引用しつつ、述べることにする。

 

“ バクーニン無神論は、しかしマルクスのそれよりも一段と戦闘的であり、ここにはバクーニンの情熱的で狂信的な、マキシマリスト風なロシヤ人気質が反映している。マルクスは理智の人であり、彼にとって宗教批判は思想変革の問題であり、その前提として宗教という迷妄を一掃するような物質的条件の変革が先決問題であった。これに反してバクーニンは感情の人であり、その無神論は神の観念を虚偽であり、有害であるとして拒否するというよりは、むしろ神そのものに対する闘争であるといった印象を与えるであろう。実際、シューバルトやベルジャーエフのような精神史家は、西欧型無神論とロシヤ型無神論とを比較している。宗教に対する西欧の無神論者の態度は冷静であり、神に対する無関心によって動機づけられている。西欧文明は聖なる事物の世俗化という長い歴史の段階をへて無神論的となっていった。これに反してロシヤ精神史の特徴は、文化の世界や政治の世界においてもすべての現象が濃厚な宗教的色彩をおびていることにある。無神論でさえも、ロシヤ人の手中にあっては、宗教的情熱をおびた運動に化してしまう。彼らにとって無神論は精神的欠乏でなくして、逆に精神的確信であり、信じることを止めるのでなく、いわば無神論を信じ、この一種の信仰を狂信家特有の不寛容と熱中とをもって説教するのである。プルードンマルクス無神論と、他方バクーニンのそれとの間の差は、結局西欧精神とロシヤ精神との間の差に帰着するといえよう。” (本書36頁より引用)

 

この引用部なども、バクーニンの「神と国家」を読んだ後の、あの熱を保った爽やかな読後感を上手く説明してもらった印象がある。「無神論でさえも、ロシヤ人の手中にあっては、宗教的情熱をおびた運動に化してしまう。彼らにとって無神論は精神的欠乏でなくして、逆に精神的確信であり、信じることを止めるのでなく、いわば無神論を信じ、この一種の信仰を狂信家特有の不寛容と熱中とをもって説教するのである」というバクーニンをはじめとする19世紀のロシア人の無神論には、神を信じない人が信じる人に対して時折向ける、あのいやらしさを感じない。

 

“ 国家権力に関するバクーニンの批判は、原理上かつ実践上、ただ一つの帰結へと導くにすぎない。すなわち、「国家破壊の絶対的必要性」がこれである。アナーキストの通例として、彼も国家権力の支配暴力性の側面だけを前面に押し出し、他のあらゆる側面を捨象する。その結果、国家制度と結合する他の一切の問題は見失われてしまい、国家に対する態度としてはただ一つ、完全徹底的な反対あるのみとなってしまう。たんに君主国だけではない。最も民主的な普通選挙にもとづく共和国でさえ拒否されねばならない。プルードンは「普選は反動である」と断じた(引用者註:直接的にはプルードンの生まれたフランスにて、はじめて財産を問わず全ての男子に選挙権が認められた1848年4月の普通選挙にあって、左翼が王党派よりも200議席少ない、全体の1/9議席しか手に入れられなかったことを指している)。同じくバクーニンも、普選に依拠する共和国は、「それが全人民の意志を代表するという口実の下に各成員の意志と自由な運動とを自己の集団的権力の重圧をもって圧迫するならば、君主国よりもはるかに専制的となりうる」と批判する。”(本書41頁より引用)

 

私がバクーニンを総体として素晴らしいと思いつつも――特に普通選挙に依拠する民主主義国が時として君主国よりも遥かに専制的となりうることを19世紀後半にあって見抜いていた洞察力には舌を巻くものの――それでもなおバクーニンについて批判しなければならない点はここにある。バクーニンに限らず、アナキストは通例的に「国家権力の支配暴力性の側面だけを前面に押し出し、他のあらゆる側面を捨象する」ことが多いように思える。その結果、現在ネオリベラリズムから攻撃を受けている福祉国家による人々への医療や福祉といった社会保障や、ごく普通の人々を暴力的に支配する麻薬マフィアに対する治安維持といった側面も捨象されてしまう。バクーニンから受け継がなければならないのは、「国家権力の支配暴力性の側面」への反対である。この点に関しては帝国主義戦争への反対というその一点においても強力な現代性を有しているが、社会保障のような国家の肯定的な側面に対して徹底的な破壊を要請することは、この社会に生きるごく普通の人々にとって大きな損失だと私は考える。もちろん、バクーニンが生きていた時代に20世紀的な福祉国家はなかったのでそれは時代の限界であろうが、今日、アナキストが真に人々の間に生きる社会思想として復活するためには、この点への洞察が必要不可欠ではなかろうか。私が黒色社民/社民アナキストを名乗る所以でもある。

 

バクーニンは絶筆となった最晩年の著作『国家性とアナーキイ』(日本語訳タイトルは『国家制度とアナーキー』)にて、ライバルだったラッサールやマルクスといったドイツの社会主義者が語る人民国家について、このように批判している。

 

”「国家は、たとえそれが十回も人民国家と呼ばれようとも、またそれが最も民主主義的な形態をもって粉飾されようとも、プロレタリアートにとって必然的に牢獄となろう」(『国家性とアナーキイ』)。この確信が、彼を導いてマルクス国家社会主義イデオロギーをこう批判させるようになる。「あらゆる国家は」――とかれは同じ著書のなかで述べている――「マルクス氏によって考え出された似非人民国家といえども、人民自身よりもよりよく人民の真の利益を知っていると自称する有識の、したがってまた少数の、特権者による上から下への人民の支配以外のなにものでもないのだ」。”(本書43頁より引用)

 

このバクーニンの批判は正しい。最も良い福祉国家であっても、国家は定義上権力的な存在であるからして、そこに住む人々にとっては牢獄のように感じられるであろう。バクーニンと同じく私は国家が住む人々にとっては牢獄であることを認める。その上で、現実に国家権力を廃絶することはその肯定面を考えると困難であるとも考えている。だからこそ、ヘーゲルのように国家権力を理想視することなく、しかしバクーニンの時代には抽象的な問題であった現実のネオリベラリズムへの対抗や、キューバのような小国が外国の帝国主義に対抗するための機関としては、やはり国家に一定の意義があると考えている。だからこそ、バクーニンの死後、150年後の現在を生きるアナキストは、自らが現実に生きる国家権力に対して、どのような位置付けを与えなければならないかを答えるべきだと思う。もちろん、バクーニンと同様に国家権力を全否定するというのは、アナキストとしては全く正しいあり方だと私は思う。しかしながら、原理原則的なアナキストとして正しくあることと、現実の人々の生活からの要請との間には、時として一定の矛盾が生じることは意識した方が良いとも思う。そのような問題意識からすれば、バクーニンが否定したラッサールの社会民主主義国家社会主義から学ぶべき点があるのではないか。もちろん、ヘーゲル国家主義の流れを汲むラッサールが言うほどには国家は素晴らしいものではない。しかし、我々が当面は牢獄に生きなければならないのならば、牢獄の環境を良くすることは我々の課題の一つであろう。

 

また、本書で白眉なのは、19世紀後半のロシアのナロードニキ運動が、プルードンバクーニンの思想に依拠していたことを明らかにしている点である。ボルシェヴィキの指導者レーニンが『何をなすべきか?』(1902年)で示した前衛党理論が、ナロードニキの組織形態を継承したものであることは知られているが、この組織論がナロードニキ経由で実はアナーキズムの影響下にあったということは非常に興味深い。

 

“ ナロードニキは、バクーニンから国家権力の否定、政治闘争の否認、農民の本能的革命性への信頼――「どの農村でも即座に蜂起させうる」という固い信念――を受けとっていた。他方、彼らは、その経済綱領の構成にあたってプルードンの諸理念の影響下にあった。実際ナロードニキの社会・経済哲学は、その最初の哲学的基礎づけにあたったゲルツェンを介して、プルードン主義の諸理念の洗礼をうけていた。ゲルツェンは、その思想形成にあたって決定的な影響をヘーゲルプルードンという両思想家から蒙っていた。”(本書65頁より引用)

 

勝田吉太郎氏が本書21頁、41-42頁、48頁、187-190頁で強調するように、バクーニンの国家廃絶論はナロードニキ理論家トカチョフを通じてレーニンに継承され、その結果は『国家と革命』(1917年)に結実したが、私のような浅学菲才の者が読んでも、マルクスエンゲルスのレトリック上は革命的だが実質的には微温的な著作が、どのように過激で戦闘的なレーニンの叙述に繋がるのかがよくわからないという問題を、「レーニンに対するナロードニキ経由のアナキズムの影響」という回答によって示した点で、本書は素晴らしい思想史の作品となっている。私はレーニンナロードニキの影響を受けていたことについては知っていたけれども、ナロードニキアナーキズムの影響を受けていたことについては、恥ずかしながら本書を読むまで知らなかった。

 

以上が思想編となる。本書五章「一九〇五年革命とアナーキズム運動」(132-160頁)、第六章「一九一七年革命におけるアナーキズムとボリシェヴィズム」(161-211頁)、第七章「ロシヤ・アナーキズムの残照」(212-251頁)では、プルードンバクーニンの思想がナロードニキに結実した後に、アナキストとして独自の主張を持てなかったロシアのアナキズム運動が、クロポトキンの思想的影響下に『パンと自由』誌(1903年発刊)が発刊されたことにより再生し、そしてロシア革命後にロシアから消滅するまでを描いている。1905年頃から大別して1.無権力派‘ベズナチャーリツイ)、2.黒旗派(チェルノズナーメンツイ)、3.サンジカリスト派の三派に分かれたロシアのアナキズム運動だが、本書第五章ではロシアのアナキストが戦術として採用した強盗(彼らの用語では「収奪」)やテロリズムが、アナキスト達を国家権力の弾圧以前において、道徳的に解体させることになっていたことが論じられている。

 

 

“ アナーキストが積極的に手をかした収奪や没収行為は、他面では、彼らの道徳的腐敗をもたらすのに貢献した。ベロストクやエカチェリノスラフでも、略奪、没収、ゆすりなどの行為は単なる強盗のしわざとなんら変らないものに堕してしまい、果してどこまでがアナーキストの「革命的」行動であり、どこから強盗の犯行がはじまるのか、その境界線を引くことは事実上不可能になってしまったのである。バクーでは、無原則な収奪にコーカサスの地方色が加味され、身の代金を強奪する方途として子女誘拐の戦術まで編み出される始末であった。このような恥ずべき犯罪の一部は、警察のスパイや反動極右団体の挑発行為によるものではあった。しかしここでもまた、犯行のいずれの部分がアナーキストの手によってなされたものか、それとも挑発者の犯したものであるかを識別できない有様となった。アナーキズムの信用が、このような戦術の採用によってはなはだしく傷つけられたことはいうまでもないであろう。

 無原則な収奪やゆすりがどんなにアナーキスト自身の道徳的退廃をもたらしたかについて、「海つばめ」紙(一〇-一一合併号)は次のような報告を掲載している(引用者註:「海つばめ」紙はサンディカリスト派の一派の機関紙)。すなわち、オデッサの若干の同志たちは、「収奪」によって手に入れた巨額の金を遊興費に使用し、革命の事業を忘(←156頁157頁→)却して酒と女のため湯水のように大金を費消してしまった。こうして身をもちくずした同志の一人に対して、オデッサアナルコ・サンジカリストたちは死刑を宣告したという。シムフェロポリにおいては、アナーキストのグループが自己の同志二人を「グループの資金を私消」した廉で実際に殺害したのであった(同紙第八号)。

 アナーキストたちの運動には、崇高なまでに美しい理想主義的情熱や、わが身を犠牲にして革命の大義に殉じる勇敢な英雄主義を立証する幾多の例があった。しかしその反面、ロシヤ・アナーキズムは無節操な収奪、略奪、ゆすりなどの犯罪行為をくり返す過程で、政府の徹底的なアナーキスト狩りによって弱体化する以前に、はやくも道徳的に解体しはじめていたのである。

 「経済テロ」の戦術もまた、アナーキストたちを大衆から孤立させる結果へ導いた。なるほどストライキの途中で行使された「経済テロ」は資本家たちを畏怖させ、労働者たちの要求を貫徹する上に絶大な効果を発揮した。一般にこのような破壊主義的な闘争方式――経営者に対する物理的暴力や工場破壊など――は、発達程度が低く、原始的な水準にある労働運動においてはかなり大衆にアピールするであろう。アナーキストたちの煽動や宣伝活動が多少とも労働者大衆の間に実を結んだのは、このような意識の低い労働者層、ことに半手工業的労働者や未熟練労働者の間であった。ベロストクの労働者はその典型であり、そこでは長年にわたってポーランドユダヤマルクス主義グループ(ブント)の社会主義宣伝が続けられていたにもかか(←157頁158頁→)わらず、「経済テロ」や収奪によってアナーキストは瞬時に労働者の心を捕んだのである。

 しかし「経済テロ」の効験は、かげろうのように短命であった。テロのあと、踵を接するように容赦ない官憲の弾圧が続き、工場主はしばしば工場閉鎖をもってこれに報いた。職を失い街頭に投げ出された労働者たちは、昨日まで彼らの指導者と仰いでいたアナーキストたちを今日は恨むようになり、彼らをストライキ敗北の責任者と見なすようになったのである。こうして大衆から浮き上り、労働者から見はなされ、一般市民の同情を全く失ったアナーキストたちの頭上に、政府の弾圧は情容赦もなく浴びせられた。ワルシャワでは一九〇六年一月に、逮捕された一六人のアナーキストたちが裁判をうけることなしに処刑されたが、これと類似した地獄図は他の諸都市においてもくり返し見られたのである。”(本書156-158頁より引用)

 

といった具合である。一切の国家権力を廃する、というバクーニンの目標は、その戦術に強盗やテロリズムを採用したことにより、本来その目標に共感したかもしれないごく普通の人々からは受け入れられないような、アナキストの道徳的な退廃をもたらした。アナキストであっても、日常生活で現社会と接する限り、日常生活の常識や道徳からかけ離れたことを行えば、当然それは自らへの信頼の喪失として跳ね返ってくる。このことはアナキストを自任する者にとっては、今日も特に記憶しなければならないことであろう。

 

また、大雑把に三派に分裂したアナキスト同士の抗争、つまり内ゲバも存在した。本書151-152頁では、アナルコ・サンディカリスト派と、「黒旗派」が、同じアナキストなのにもかかわらず、お互いを不倶戴天の敵とし、1908年1月16日に「黒旗派」がサンディカリスト派の印刷所を襲撃し、印刷機を破壊した事件が報告されている。日本でも大杉栄の死後、昭和戦前の講座派、労農派双方の共産主義マルクスレーニン主義)勢力の前に、アナキストは「アナルコ・サンディカリズム」と「純正アナキズム」に分裂し、「リャク」と呼ばれるアナキストの銀行へのゆすり行為や、双方の抗争によって多くの人々がアナキズムに絶望し、共産主義に転向していったということがあるが、理論にこだわることで、本来自分たちに近い人々を近親憎悪的に憎み、暴力的な衝突に至ることは、何も共産主義者に限ったことではないのである。

 

本書第七章には、クロンシュタット叛乱やウクライナのマフノ運動など、アナキストによる反レーニン運動がトロツキーやトゥハチェフスキーによって残忍に弾圧される様子が描かれている。既にこの記事(「トゥハチェフスキー粛清事件に見られる民衆のスターリン支持について――クロンシュタット叛乱を偲ぶ」https://bemyuh.hatenablog.com/entry/2020/09/13/195106)で述べたので詳述はしないが、レーニントロツキースターリンとは異なると考えている人は、ぜひ本書第七章を読んで欲しい。

 

以上が本書にて私が興味を持った部分だったが、最後に、勝田吉太郎氏と共に、アナキズムの将来について考えることにしたい。勝田吉太郎氏は、アナキズムが20世紀半ばに元来の支持層であった農民、手工業者、労働者が資本主義の進展によってその基盤を掘り崩され、また、アナキズムに求めていたものを共産主義に求めるに至って衰退した後に、なおアナキズムを支持する人々として、以下のような人々を挙げている。

 

“ もともと一切の支配権力を嫌い、画一化に反撥して自由を愛好する個性とは、ボヘミアン的自由職業人のものであろう。アナーキスト的自由のパトスは、彼らのわがままな気質性向にぴったり適合している。その上、自由とは元来貴族主義的な価値にほかならない。近代アナーキズムの思想発展に絶大な影響力を及ぼした三人の代表的理論家――バクーニンクロポトキンおよびトルストイ――はいずれもみな、まさにこうした個性の持主であり、典型的な貴族出身のコスモポリタンなデクラセ・インテリであった。実際ロシヤのみならず、各国のアナーキズム運動における群小指導者の座は、意外と多く貴族出身のデクラセ・インテリによって占められているのだ。これらの《自由人》たちは、ブルジョワ社会のいたるところに跳梁する矮小卑賤な俗物根性と醜悪低劣なコマーシャリズムとに反撥する一方、社会主義の中央集権国家や「プロレタリアートの独裁」権力のうちに隷従と強制と偽善の体制を見出すであろう。彼らはまた、現代の大衆文明の組織され、規格化された画一主義の環境のなかで自由の精神が今や窒息しつつあると感じるであろう。おそらくは次のように結論しても、間違いあるまい。すなわち、も(←16頁17頁→)しも今日の先進資本主義国のどこかにおいて細々とながらもアナーキストの知的伝統が保存されているとすれば、それは幻滅した元マルクス主義知識人をはじめ一部の詩人、芸術家、文筆家、学者といった不羈奔放な《精神の貴族》――むろんマス・メディヤの傭兵となって「世論の形成者」と自称しつつ、その実、世論におもねるジャーナリスト化した学者や文筆家、また読者大衆の嗜好を体してせっせと大量生産にはげむ文士の類は、この限りではない――の許においてであると。”(本書16-17頁より引用)

 

私自身はマルクス主義からの転向組のホワイトカラーの草莽に過ぎないし、《精神の貴族》と自称するには程遠いところに生きているが、にもかかわらず、現代の高度に発展し官僚化した社会や、そのような社会を是とする社会思想からの知的な自由を求める人間類型というのものに私も当てはまると思うし、これは20世紀半ば以後のアナキストの一つの類型なのだろう。ただ、アナキズムに知識人の社会思想として終わって欲しくはなく、特に政治にも社会思想にも興味のないごくごく普通の人々の中に生きる思想であって欲しいという願いが、私にはある。その方途については現状の私には思いもよらないが、恐らく、以下の引用部のような問題意識を解決した先にそれはあるのではないか。勝田吉太郎氏は上述のロシアのアナキズム運動が、道徳的退廃により自己解体していたことを論じる際に、以下のように述べている。

 

“ 自由民主主義といい、マルクス・レーニン主義といい、あるいは無政府主義といい、「哲学者王」が統治するプラトン的国家といい、それらはすべてみな、それぞれの仕方で美しい理想目標を謳っている。これらの理念が完全な姿でこの世に実現を見た暁には、その理想社会は光り輝くものとなり、その名称の異なるほどに異なるものではないであろう。しかしながら、政(←153頁154頁→)治イデオロギーの真の差異は、どのような方法、手段によってそれぞれの理想を達成しようと努め、自己の目標を実現しようとするかにある。重要なことは、どのような途をたどって理想の国へ接近しようとするかでなければならない。究極目標だけを眺め、それを達成する手段に目をつぶることは許されないであろう。一たび採択された手段が、結局は「究極目標」の実体を条件づけるからである。二〇世紀初頭におけるロシヤ・アナーキズムの運動史は、こうした政治イデオロギー弁証法の作用をこの上なく明瞭に知らせている。”(本書153-154頁より引用)

 

これまでのアナキズムの歴史にはテロや強盗や内ゲバなど、市井の人々が自らの夢や希望を託すには難点となる要素が多すぎた。私はそれら全てを否定するわけではなく、ある特殊な場合にはそのような手段しか採用し得ないという場合も存在したのだろう。しかし、にもかかわらず、やはりこの点については批判的に振り返らねばならないと思う。それは、リベラル思想にもマルクス主義にも飽き足らない人々の現状変革の思想として、アナキズムが再生するための必要条件であろう。

 

保守派の思想史家である勝田吉太郎氏がアナキズムに託した願いを振り返ることで本稿を終えよう。このプルードンマルクスに返した言葉は、今日も有効性を失っていない。

 

“ 他面、幻滅の時代を生きるわれわれに対してアナーキストが訴えるのは、われわれが自分自身の未来のヴィジョンを構成する上でもう一度真に自由な探究者的精神をよび戻すことの重要性であろう。この点で、一八四六年五月五日に「思想の交換と非党派的批判」を求めたマルクスの手紙にプルードンが送った有名な返答を、今われわれはもう一度想起する必要があると思われる。「お望みなら一緒に社会の法則やそれが実現される仕方を研究しましょう」――と彼は書いている――「しかし私たちがこれらアプリオリ独断論を一掃した後、今度は私たちが人々を教義のなかでもつれさせることがぜひともないようにしましょう。カトリック神学を転覆した直後、破門と呪詛の大騒ぎのなかで早速自分のプロテスタント神学にとりかかったお国のマルティン・ルターの矛盾に陥らないようにしましょう。……私たちが運動の先陣に立つからとて、新しい不寛容のリーダーとなったり、たとえ論理の宗教、理性の宗教であるとしても、新宗教使徒のように振舞うことなどないようにいたしましょう。」”(本書18頁より引用)

 

黒色社会民主主義に向けて:【読書録】渡辺孝次『時計職人とマルクス――第一インターナショナルにおける連合主義と集権主義』同文館、東京、1994年12月19日初版発行。

渡辺孝次『時計職人とマルクス――第一インターナショナルにおける連合主義と集権主義』同文館、東京、1994年12月19日初版発行。

 

19世紀スイスの労働運動の研究者による、第一インターナショナルにおけるスイスの時計職人の役割を明らかにした書。あとがきによれば著者は良知力氏の弟子とのこと(341頁)。19世紀スイスの時計職人についての実証研究の立場から、従来、バクーニンマルクスの思想対立に焦点が当てられてきた第一インターナショナルにおけるイデオロギー闘争を再考した書。実証研究の立場から細かい事実の掘り起こしと、第一インターナショナルにおけるマルクスエンゲルスの中央集権制・権威主義性が明らかにされていて興味深いが、テーマに興味がないと読むのが大変かもしれない。

 

「おわりに」で著者は本書執筆の意図をこのように語っている。

 

 

“ 第一インターナショナルの歴史といえば、これまでの研究ではつねにマルクスバクーニンの対立・抗争が関心の中心であった。そして、ジュラ支部の活動にはあまり関心が向けられてこなかった。理念史に傾きがちであった従来の研究では、ジュラ支部の扱いはバクーニン側の理念を支持した一組織という域を出ず、その独自性に注目する観点はほとんどなかった。これに対し筆者は、一九世紀スイスの労働運動史を専門としており(「あとがき」参照)、本書で扱ったジュラ地方の運動もあくまで一九世紀スイスの労働運動史の一環とみなしている。このような立場からすると、第一インターナショナルに関する従来の研究成果にはつぎのような問題点があるように思われる。

 すなわち、これまでの第一インターナショナル史研究では、ジュラ支部がなぜバクーニンを支持したかという、素朴だが核心にふれる論点が十分解明されていないうらみがある。そのため説明は、バクーニンにすべてを帰す傾向があるという点で、マルクスの「ジュラ改宗説」を十分抜け出ていないように思われる。そうなった理由は、こ(←335頁336頁→)れまでマルクスバクーニン論争だけにスポットが当てられ、この問題を離れて、ジュラ支部それ自体に光を当てるという姿勢がなかったからである。このことは、そもそもジュラ地方とはどのような地方であるかという、地域に対する素朴な関心を欠けていたから起こったのではないだろうか。”(本書335-336頁より引用)

 

“ ところで、ジュラ支部の立場に立って問題を再構成しようと試みるなかで、地域背景が思想や運動の中身にいかに大きな影響を及ぼすかを示す事例に、筆者はなんども出会った。たとえば、バクーニンの思想を受けいれる場合でも、ジュラ支部が地元への適応可能性をいつも十分に考慮に入れていたことがそれである。さらにはまた、地域の実情と相容れない場合には、ジュラ支部のメンバーはバクーニンに反対したこと(もっとも、この点に立ち入る余裕はあまりなかったと告白しておかねばならない)もそうである。地域に固有の事情は現実的であるだけに、抽象的な理念よりも一般労働者にとって切実であることは、考えてみれば当然のことである。だから歴史家は、舞台となった地域の内情に十分注意を向けるべきであって、地域研究を介さない運動の理解は危険である(←336頁337頁→)

 ところが、このような危険な理解をマルクスその人や、さらにはヘーゲル左派一般が行っていたのである。その原因は、彼らの歴史観が、地域の個別的で具体的な事情に即すのではなく、抽象的で一般的な定式に則るものだったからである。彼らには、歴史を単線的にとらえて、「進歩的」とみなされたものだけに関心を限定する傾向が強すぎたが、それでは地域の具体的な個性は捨象されてしまう。なかでも国家の中央集権化は、進歩を促す要素のうちでももっとも重要と、彼らからは考えられたのである。

 しかしながら、歴史の進歩を単線的にとらえること自体問題であり、またなにを歴史の進歩とみなすかも当然立場によって異なってくる。このことの生きた例がジュラ支部だったのであって、ジュラ地方は、伝統的に地方分権を尊重してきたスイスの立場をもっとも鋭く体現していたのである。中央集権化を進歩と信じて疑わないマルクスをはじめとするヘーゲル左派の立場と、逆に地方分権をよしとし、できることなら中央権力などないほうがよいと考えるジュラ派のあいだには、歴史認識や進歩観に関して構造的な対立が存在したといえる。そのために、両者のあいだには第一インターナショナルの組織のあり方をめぐっても、対立が生じざるをえなかったのである。この対立は、マルクスバクーニンの個人的敵対を主要因とみなしうるような性質のものではなかった。対立の源泉は、第一インターナショナルの構成メンバーのあいだにあった、中央集権化をめぐる考え方の相違に求めるべきである。” (本書336-337頁より引用)

 

 

 

以上が本書の主張の骨子であり、このことの論証のために、第I章「時計職人の舞台」(本書13-48頁)では、16世紀に時計工業が成立してからツンフトによって強い政治力を保ち、自らを「職人」(artisan)というよりは「芸術家」(artiste)であると考え、高級時計を製作していたジュネーヴの貴族的な時計職人(本書18-20頁)に対し、ジュラ地方の時計工業は1830年代にようやく始まり、しかもジュネーヴとは異なり大衆向け時計が主であったため1850年代より急速に成長するアメリカ合衆国製の時計産業と全面的な競合関係に入るという(本書20-23頁)、バクーニンを支持・受容したジュラ地方の時計職人の姿を明らかにしている。また、興味深くも、ジュラ地方が移民の流入により、カトリックカルヴァン主義の双方が入り混じる、宗教的に多様な地域であったからこそ、バクーニンの掲げる無神論が受け入れられた可能性を著者は指摘している(本書29-30頁)。尤もこのバクーニン無神論の民衆的な受容が如何になされたかについては、本書では深められていない。また、第I章第3節「エンゲルス的世界史観とスイスの像」(本書37-46頁)では、ハプスブルク家の中央集権的支配から自治を勝ち取ってきたスイスの歴史が、エンゲルスによってドイツの中央集権化を妨害したことを理由に非難されていることが、マルクスエンゲルス全集の論説を元に論じられている。マルエン全集中のスイスへの非難はほぼエンゲルスのものであるが、著者はマルクスのスイス観をエンゲルスのそれと基本的に同様のものであるという立場に立っている(本書37-38頁)。

 

このマルクスエンゲルスのスイス非難に見られる中央集権化志向こそが、地方分権にこだわるジュラ地方の時計職人のマルクス主義への反発の原因となり、それがバクーニンの思想の受容に繋がったのだと、本書はそのような全体像を持つ作品となっている。

 

スイスのジュラで最も強力なバクーニンの信奉者となったジェイムズ・ギヨームによる、アナーキズムが実現された後のコミューン観は本書207-209頁に訳出されている。引用してみよう。

 

“ この村では、生産手段は一般に社会による共同所有のもとにおかれ、それを必要とする労働者の使用に供される。資本家はもはや存在せず、それまで資本家であった者には、一労働者として、個人的に使用する生産手段のみが所有を認められる。この、個人使用という限度を超えた彼らの資本は没収される。そして、この措置(←207頁208頁→)は正当である。なぜなら、資本とは盗みとられた他人の労働にほかならないからである。

 かつての資本家にかぎらず、個人使用という限度内であれば、生産手段の所有は誰にでも認められる。こうして、それまで自宅で家内工業に従事していた者は、望むならひきつづきそうすることが可能である。

 しかし、アトリエの所有者の場合はそうはいかない。なぜなら、彼の所有する生産手段は個人的使用の限度を超えており、要するに彼は資本家だからである。彼のアトリエは社会に接収され、彼はなんらかの労働にたずさわることを求められる。彼には、どこでも自由に他の土地へ移動することが許されるが、革命はヨーロッパ全土に及んでおりどこへ逃げても同じことである。彼には、一年間職業を選択する時間的猶予が与えられるが、それを超えることは許されない。

 この時計村には、時計工業以外に重要な産業は存在しない。時計工業にたずさわる種々の業種は、部門別アソシアシオンを形成し、労働条件などに関する協定をとり決める。

 食糧調達のような公共サーヴィスは、専門の委員会の手にまかされる。食糧委員会は、近隣の農業コミューンに呼びかけ、原価(prix de revient)交換で食糧を調達する。時計村とは別のコミューンXでは、農業が主体である。そこでは、土地や家畜類はすべてコミューンによる共同所有である。それを使用する生産者は、農業コルポラシオンを結成し、自由に経営を行う。専業農民に加え、半農半工の兼業者も存在する。彼らもまた、農業コルポラシオンとの契約に従い農地などを使用するものとする。

 富の分配は、これまでつねに論争の種であった。しかしそれは、コミューンにおいては非常に単純である。すなわち、交換における原価交換の遵守が求められるのみで、それ以外は個々の生産団体の自由裁量にまかされる。コミューンでは、誰にも生活のための必要最小限は保障されているので、利潤追求にあくせくする者はほとんどいないであろう。(←208頁209頁→)

 製品の取引は、中央取引所(Comptoire central)を通して原価交換で行われる。この取引所は、できるだけ集中され、可能ならばひとつのコミューンにひとつであることが望ましい。取引所は、さらに生産と消費に関するさまざまな統計も処理するものとする。この統計によって適正な原価が算出され、また適正な生産量も示されることで、不況を避けることが可能になるであろう。

 道路、証明、公共建築物、コミューン財政、教育などのコミューン全体に関係する公共サーヴィスは、コミューンによって選出された特別の委員会によって実施される。しかし、これらの委員は、当然報酬を得るものの専任ではなく、通常は普通の労働者であるにすぎない。彼らはいかなる権威も有さず、コミューンによっていつでも交替させることができる存在である。コミューンには、わずかに二~三名の専任公務員が存在するにすぎない。すなわち、中央取引所に勤務する簿記係である。

 コミューンには、裁判所も警察も存在しない。犯罪者は、コミューンからの追放という措置によってのみ罰せられる。しかし、ヨーロッパのすべてにコミューンが成立しているという時代においては、コミューン追放は他のどのコミューンからも受け入れられないという危険性をともない、したがって誰も犯罪を犯そうなどとは思わなくなるであろう。

 コミューンでは、小学校教育はフレーベル流の幼稚園と結合されるであろう。その教育は、コミューンの公共建築物で、老若の婦人たちによって施されるであろう。小学校を卒業したあとには、各人に適した職業教育が各生産現場で施されるであろう。また、コミューンでは礼拝は廃止される。したがって、かつての聖職者もまた、かつての資本家と同様に、なんらかの職業につくことを求められる。”

(ジェイムズ・ギヨーム「コミューン・ソシアル」、渡辺孝次『時計職人とマルクス――第一インターナショナルにおける連合主義と集権主義』[初出『人民の年報』1871年版]東京、1994年12月19日初版発行、207-209頁より引用)

 

 

パリ・コミューン成立前の1870年11月~12月に発表されたギヨームの論説は、ジュラをモデルにした時計村が資本家も警察も裁判所もなしでやっていける様子を描いたもので、これが現実的なモデルとして成り立つかについては、黒色社会民主主義者を名乗る私としては疑問である。というか厳しいだろう。にもかかわらず、著者がこのように述べることに私も注目すべきだと思う。

 

“ ギヨームのこの未来社会像が、厳密な経済学的吟味に耐えるものでないことはいうまでもないだろう。このような像は、ジュラ地方の時計村にしか通用しないだろう。しかし、そのように批判することは容易だが、筆者としては逆に、このような青写真がジュラ地方である程度の説得力をもちえたという事実にこそ注目したい。なぜならそのことに、当時まだ大資本家も大地主も存在していなかったジュラ地方の状況が、くっきりと映しだされているように思われるからである。

 経済学的吟味には耐えないとしても、ギヨームがこの社会を、いかなる権威も存在しない社会として描いていることは注目に値する。たしかに、いかに小さな時計村であろうと、わずか二~三人の専任公務員でことがたりるかは疑問であり、そこに多分にユートピア性が感じられる。また、実際にこの点(=公共サーヴィス論)をめぐっては、のちに「反権威主義」陣営内でも論争が生じることになる、しかし、ギヨームが強調する権威不在の未来社会像は、それが組織論に適用された場合には、総評議会に対する強力な反論たりえた。「インターナショナル=未来社会の萌芽」とする考え方と結びついて、それは、権限の拡大を目指す総評議会のあり方(=マルクスエンゲルスの新方針)に対する強力な武器になったのである。”(本書210頁より引用)

 

 

そして著者は、マルクスエンゲルス第一インターナショナルからバクーニンを排斥しようとしたのは、このスイスのジュラ地方の時計職人と、時計職人達に自らの地方分権へのこだわりを正統化する思想を与えたバクーニンの組織論が、マルクスエンゲルスの革命組織の中央集権化――「党」の結成――を求める志向の妨害物だと見なされたからだと論じている。

1871年9月に開催された第一インターナショナルのロンドン評議会では、マルクスエンゲルスらによって同年のパリ・コミューンの失敗の原因が、労働者階級が党によって指導されなかったことだと認識され、そこから各国の労働者階級を結集させる労働者政党の必要性が教訓として導き出された(本書214頁、225-227頁)。

 

“ ……すなわち、パリが一八七〇年九月四日にも七一年三月一八日にも、肝心な時期に機会を逸し、最後には労働者の挫折を余儀なくされたのは、運動が強力な党によって指導されなかったからである、ということが教訓の内容であった。

各国の労働者階級は、それぞれの国の労働者政党に結集しなければならない。そして、さらに国際的には総評議会(引用者註:第一インターナショナルにおけるマルクス派)がそれを指導しなければならない。そのためには、総評議会の権限がいまより強化されなければならない。これが、ロンドン決議をもってマルクスエンゲルスの打ちだした新方針であり、その実現のためにバクーニン派が撃退されねばならないと考えられた理由であった。”(本書226頁より引用)

 

著者は本書で、マルクスバクーニンの対立は、単にマルクスバクーニンに対する敵意が原因ではなかったことを強調している。第一インターナショナルにてマルクスの構想した中央集権的な労働者政党の必要性という新方針の実現のために、中央集権を拒否してバクーニンバクーニンを支持するスイスその他の支部を攻撃する必要が生まれたのである。この第一インターナショナル内の内部闘争の過程ではマルクスバクーニンに勝利しかけ、1872年のハーグ大会ではバクーニンとギヨームを除名する決議が採択された。著者はこのハーグ大会について、次のように述べている。

 

“ バクーニンらの除名は、反対派に対するマルクス派の形式的「勝利」を象徴していた。しかし、理由として委員(←305頁306頁→)会の提示した報告の「一」と「二」だけでは不十分であり、事実上、報告の「三」にあげられた、「バクーニンのおかした」恐喝だけが明確な罪状にであったことは、すでに述べたとおりである。マルクスが、インターナショナルとは直接関係がなく、さらにバクーニン本人の責任に帰すことができるかさえも確かでない個人問題を、バクーニンを組織から除名する切り札として用いたことは大いに異論の余地を残すものであり、倫理的にきわめて遺憾な行為であったといわざるをえない。ましてや、その「バクーニンの罪」がギヨームにまで適用されたことはさらに不条理なことであった。

 さらにマルクスは、この「バクーニンの罪」を証拠づけるとされたネチャーエフの手紙を手にいれるにさいしても、信義に反する行動をとった。なぜなら彼は、マルクスへの好意にもとづいて手紙を送ったリュバーヴィンが表明した懸念(それを決定的な証拠とみなすことに関する危惧の念)をいともあっさり無視し、それだけでなく、情報提供にさいしてリュバーヴィンの出した条件である、使用後に手紙をできるだけ早く返すという義務さえも守らなかったからである。このようにみれば、バクーニンらの除名問題は、マルクスにとって倫理上重大な汚点を残した事件といっても過言ではないだろう。

 倫理問題はさておき、ここでふたたび同盟委員会報告の「一」と「二」にもどって、除名が強行された真の理由にせまる作業を行っておきたい。

 報告が同盟(引用者註:バクーニンが結成した革命のための秘密結社)の現存を立証できなかったことは明白だが、報告が断言した、同盟の規約はインターナショナルの規約に反するという文言はどうか? この点はマルクスらもくり返し主張し、それどころか、同盟はインターナショナルの解体を意図する団体だとされた。しかし実際には、これも結局は立証されなかったのである。この点に関しては、かつて総評議会(引用者註:第一インターナショナルにおけるマルクス派)自身が、「同盟の綱領の当否を検討する立場にはない」と表明したことを思いだす必要があろう(本文一〇〇頁を参照)。このかなりあとになって、マルクスエンゲルスは同盟の綱領がインターナショナルの(←306頁307頁→)規約に反すると言い出したのだが、その真の理由は、ロンドン決議で彼らが打ちだした新方針にとってバクーニン=ジュラ派が障害だったからと考えられる。その意味で、立場を変えたのはマルクスらのほうであって、反対派ではなかった。

 この事情は、ハーグ大会でも同じである。どのような理由をつけようと、バクーニンとジュラ連合を協会から排除しようとマルクスエンゲルスが考えた真の理由は、ロンドン決議で彼らの打ちだした新方針(労働者階級の政党への組織化と政治権力の奪取)にとって、この反対派が最大の障害だったからにちがいないのである。筆者は、「同盟」をめぐるさまざまな非難も結局はここから生じたのであって、その逆ではないと考えている(同盟の「陰謀」をめぐるさまざまな非難は、表向きの理由づけにすぎなかった)。つまり問題は、大会中のロンゲの発言である、「ギヨームとバクーニンは、いまのような見解に固執するかぎりインターナショナルにとどまることはできない」に象徴されており、ギヨームもくり返し主張したようにイデオロギー上の対立に根ざしていたのである。

 このことはある意味で当然であろう。むしろここで問題にすべきことは、それへのマルクスエンゲルスの対応の仕方である。彼らがこの事実を受けとめたうえで反対派と正面から論争したのであれば、理解できる。しかし実際には、彼らは反対派と正面から論争することを一貫して避けている。そして、反対派を攻撃する材料として、つねに非本質的な材料にたよっているようにみえる。ハーグ大会に関しても、マルクスは「バクーニンとその仲間のギヨームとが、いわゆる連合主義を主張する党の首領であったために追放されたというのは、嘘である」(『全集』一八巻、一六一)と主張して、除名の真の理由がイデオロギー問題にあったことを否定している。しかし、まさにそのようにしてバクーニンやジュラ連合とイデオロギー上の論争をまじえるのを避けつづけたことが、マルクス派の攻勢が個人攻撃に堕さざるをえなかった理由ではないか。そして、ハーグ大会における除名の決め手も、「恐喝文書」以外に求めようがなかったのではないか。(←307頁308頁→)

 ところが現実に目を向けると、マルクスエンゲルスが自己の正しさをいかに確信していようとも、彼らの打ちだした新方針は、インターナショナルを構成する支部・連合の大部分から支持されているとはとてもいえなかったのである(vgl.BA-II,XLVII)。ハーグ大会の時点では、この新方針を支持する勢力は西ヨーロッパではむしろ少数派であった。だからこそマルクスらの「勝利」は形式的なものにすぎなかったのであり、次節で述べるように、これ以降マルクス派はじり貧状態に追いこまれていくことになるのである。これが、反対派との正面切った論争を避け、強行突破という手段にたよったマルクスが自ら招いた結果であった。なぜ彼がそのような態度をとったかと問われれば、筆者としては、当時の「マルクス主義」に、この面での論争に耐えうるだけの理論が欠けていたのだろう、と答えざるをえない。”(本書305-308頁より引用)

 

 

 

以上、本書から読み解けることとして、最終目標として「国家も階級もない社会」を目指すことについては同じである19世紀ヨーロッパの革命的社会思想、マルクス主義アナーキズムの最大の相違が、そのための組織論、つまり「中央集権的な政党を必要とするか」(マルクス主義)、あるいは「連合主義の名の下、中央集権を拒否するか」(アナーキズム)にあることは明白であろう。そして、意外に思われるかもしれないが、精緻な体系を誇るマルクス主義よりも、バクーニンのあまり体系的とは言えないアナーキズムの方が、手工業者(時計職人)や農民の実感には根ざしていたのである。少なくともスイスでは、アナーキズムバクーニン主義)の方がマルクス主義よりも現実的であり、地域に根差した社会思想と化していた。

 

マルクス主義アナーキズムよりもはるかに優勢だったドイツやオーストリアにしても、ドイツ社会民主党の労働者がちっともマルクス主義的な「革命的プロレタリアート」ではなかったのは、ハンス=ヨーゼフ・シュタインベルクの『社会主義ドイツ社会民主党――第一次世界大戦前のドイツ社会民主党イデオロギー』)(御茶の水書房、1983年)で実証的に示されている通りである。同書には19世紀後半~20世紀初頭にかけてドイツ社会民主党に所属し、ドイツの労働運動の実務を担ったイグナーツ・アウアーが、マルクス主義の革命的なレトリックが、むしろ現実の労働運動の実践を妨害しているとの見地から理論についてはあえて何も言わなかったというエピソードと、当時のドイツ社会民主党系の労働組合に組織されていたドイツの労働者の様子が紹介されている。この本を頼りに、以下その姿を見てみよう。

 

まず、イグナーツ・アウアーについて。アウアーは1875年に世界初のマルクス主義政党となったドイツ社会民主党の最高幹部の一人であったが、マルクス主義への深い理解にも関わらず、一貫して理論を遠ざける姿勢をとっていた。

 

“ イグナーツ・アウアーは、党執行部の「明らかに首位にある人物」であった。党の法律上の地位が保証されていなかったあいだは、手紙はすべて彼あてに出さざるをえなかった。クロイツベルク街三〇番地の建物のなかの彼の自室は、党事務室〔Parteibüro〕のある部屋   とつながっていた。地方の党組織や党出版部との通信の処理もまたアウアーの仕事だった。そのため、一方では、党執行部あてのあらゆる文書が彼の手を通ることになったし、他方では、彼は、執行部の通信文書を取り扱う人物として、こうした方法で自分の個人的な見解を広めることができたのであって、彼の個人的な見解は、手紙の受け取り人たちによって、多くの場合、執行部全体の見解として受け入れられたのであった。そのうえ、アウアーは、執行部と中央機関紙との連絡員だった。”

(ハンス-ヨーゼフ・シュタインベルク/時永淑、堀川哲訳『社会主義ドイツ社会民主党――第一次世界大戦前のドイツ社会民主党イデオロギー御茶の水書房、1983年10月20日第1刷発行、234頁より引用)

 

 

“ アウアーが主張してきたのは、マルクスの学問的理論は彼にとっても党にとってもどうでもよい、ということであった。彼は「マルクス主義者たち」を一つのセクト的な集団と見ていた。”

(ハンス-ヨーゼフ・シュタインベルク/時永淑、堀川哲訳『社会主義ドイツ社会民主党――第一次世界大戦前のドイツ社会民主党イデオロギー御茶の水書房、1983年10月20日第1刷発行、225頁より引用)

 

 

なぜ、マルクス主義政党の最高幹部がこのような姿勢を取ったかについて、一つには、マルクス主義の資本主義崩壊論が、現実の日常的な労働運動を軽視させる理論的な根拠になり得るという危惧が存在したからであった。

 

“……資本主義の崩壊に関する予言こそ、彼の辛辣な批判の対象であった。というのは、彼は、近い将来の崩壊を期待することのうちに、些細ではあっても重要な日常の任務を軽視する根拠がある、と考えたからであった。「『全般的な大騒動』は相変わらずなかなかやってこないのですから、われわれは、まさに、些細な手段をも、あてにしなくてはならないのです」”

(ハンス-ヨーゼフ・シュタインベルク/時永淑、堀川哲訳『社会主義ドイツ社会民主党――第一次世界大戦前のドイツ社会民主党イデオロギー御茶の水書房、1983年10月20日第1刷発行、220頁より引用)

 

そしてもう一つには、党内のマルクス主義者(左派)と改良主義者や修正主義者(右派)の思想対立が、党と労働運動の分裂をもたらしかねないことへの憂慮である。

 

“ 「アウアーの苦心と努力とは、労働運動のなかに台頭してきた諸対立を和解させ、それらの宥和をはかることであった。」この一文は、アウアーの希望で、彼の墓石に刻まれることになっていたし、また、それは、含蓄のある文体で、アウアーの政策の目標を表している。彼は、労働運動の統一が左右の理論家たちによって危険にさらされていると考えたのであって、それゆえ、理論を二義的なもの、非本質的なものとして、背後に押しやろうとしたのであった。”

(ハンス-ヨーゼフ・シュタインベルク/時永淑、堀川哲訳『社会主義ドイツ社会民主党――第一次世界大戦前のドイツ社会民主党イデオロギー御茶の水書房、1983年10月20日第1刷発行、224頁より引用)

 

以上のように、世界初のマルクス主義政党であった19世紀末のドイツ社会民主党の最高幹部には、党内の理論家同士の思想闘争が、労働運動の実践を却って阻害することを理由にマルクス主義を明示的に遠ざける人物、イグナーツ・アウアーが最高幹部に存在したが、マルクス主義政党内部でマルクス主義から遠かったのは、最高幹部だけではなかった。マルクスエンゲルスの『共産党宣言』(1848年)にて、

 

“ 現在ブルジョア階級に対立しているすべての階級のうちで、プロレタリア階級のみがほんとうに革命的な階級である。その他の階級は、大工業が起るとともに衰退し、滅亡する。プロレタリア階級は大工業のもっとも独自な生産物である。

中産階級、すなわち小工業者、小商人、手工業者、農民、これらはすべて、自分たち中産階級としての存在を破滅から守るために、ブルジョア階級と闘う。したがってかれらは革命的ではなく、保守的である。なおそれ以上に、かれらは反動的である。なぜなら、かれらは歴史の車輪を逆にまわそうとするからである。かれらが革命的であるばあい、それは自分の身に迫っているプロレタリア階級への移行を顧慮してのことであり、かれらの現在の利益をではなく、未来の利益を守るためであり、かれら自身の立場を捨ててプロレタリア階級の立場に立つのである。

ルンペン・プロレタリア階級、旧社会の最下層から出てくる消極的なこの腐敗物は、プロレタリア革命によって時には運動に投げこまれるが、その全生活状態から見れば、反動的策謀によろこんで買収されがちである。

マルクスエンゲルス大内兵衛向坂逸郎訳『共産党宣言岩波書店岩波文庫〉1971年改訳、53頁より引用)

 

 

との言明により、「現在ブルジョア階級に対立しているすべての階級のうちで、プロレタリア階級のみがほんとうに革命的な階級である」とされた近代的産業労働者=プロレタリア階級からも、マルクス主義は遠い思想であったのである。

 

“ さらに注意すべきことは、労働者のために用意されていた労働者用図書館が労働者のうちのほんのわずかな部分に(←267頁268頁→)よってしか利用されず、また社会科学と党関係文献の部門から図書を借り出した読者は、とるにも足らぬ少数だった、ということである。たとえば一九一一年には、ベルリン木工労働者連盟の二万八、〇〇〇人の組合員のうち、たったの二二八人が、彼らのために用意されていた図書館から社会科学系の図書を借り出したにすぎなかった。”

(ハンス-ヨーゼフ・シュタインベルク/時永淑、堀川哲訳『社会主義ドイツ社会民主党――第一次世界大戦前のドイツ社会民主党イデオロギー御茶の水書房、1983年10月20日第1刷発行、267-268頁より引用)

 

 

“ 学問的な内容の図書を図書館から借り出したのは勉強熱心な少数の労働者であったということを前提とするならば、現存の資料に基づいて、労働組合員や党員のなかのこうしたエリートたちであっても、科学的社会主義すなわち本質的にはマルクス主義とあまり関係はなかった、ということを確認することができる。労働者用図書館のための基準カタログは、いつも、図書館の図書整備に大きな影響を与えることがなかった。というのは、これらの図書館が労働者を引きつけておくことができたのは、ただ、それらが労働者の要望に合致したときだけだったからである。知的感受性をもった労働者の社会主義思想に具体的な形を与えるうえで決定的だった著作は、ベーベルの『婦人と社会主義』(引用者註:日本語訳題は『婦人論』。原著1883年。岩波文庫で上下巻で読むことが可能)であった。このことは、この本の版が多いことからすぐに分かることであるが、労働者用図書館の現存の統計資料によってもはっきりと確証される。同時にまた、こうした事実によって、調査結果にたいする起こりうべき異論、すなわち、労働者たちは最も重要な社会主義文献を自分で買って持っていたのであって、そのために図書館での需要はこんなふうに異常に僅かだったのだという異論も、無効にされる。最も多く買われた本こそ、同時に最も多く借り出された本だった!社会民主党にたいする同時代の一批判者がすでに見抜いていたように、未来国家に関するベーベルのロマンは、「ブルジョア経済にたいするマルクスの辛辣な批判が可能としたよりも大きな社会主義にたいする確信を、民衆のあいだにうみだし【た】、ということには疑問の余地はない。」ベーベルは、彼の「けっして迷うことのない階級本能」によって、大衆の物の見方の核心を突き、全生活領域における前進的な発展の結果としての社会主義的な未来国家にたいする確信の急所をついていた。これとの関連では、ベラミ(引用者註:エドワード・ベラミ。アメリカ合衆国社会主義者、SF作家。代表作は『顧みれば――2000年より1887年をかえりみる』)の未来像も挙げておかなければならない。これは、労働者グループのなかで、大変な人気を呼んだものであった。労働者用の図書館の資料は、この社(←269頁270頁→)会主義ユートピアの影響については、正しい印象を伝えていない。この本にたいする要望がそれほど大きくなかったことの理由は、九〇年代に社会民主党系のほとんどすべての新聞や雑誌がベラミのこの小説を連載で再掲載していた、ということから説明がつく。この本が出版されたときには大きなセンセーションをひき起こし、熱狂的に論じられたのであって、フリードリヒ・シュタンプファーも、この本によってはじめて社会主義へ心を動かされることになったのである。ベーベルの本とともに、まじめな党関係文献の中で、そのほかにはただ、マルクスの『資本論』第一巻を通俗化したカウツキーの本だけが、挙げるに値する範囲で貸し出されている。シュタンプファーの報告から明らかなように、たとえこの本の借り出された回数のほうが実際に読まれたそれよりもおそらく多かったとしても、それでも、この本は、その当時は、関心のある労働者にとってカール・マルクスの経済学説へ近づくための入口そのものだったのである。一般にマルクスの著作に近づこうとした人々は、まず最初に、カウツキーの小冊子を参照することを考えたのである。さらに言及しておくだけの価値があるのは、先に挙げた図書館のうちのいくつかでラサールの著作がしばしば請求されていた、ということである。これは、党内にラサール主義の影響が残っていたことによるものではなく、その平易な語り口によるものとされなくてはならない。”

(ハンス-ヨーゼフ・シュタインベルク/時永淑、堀川哲訳『社会主義ドイツ社会民主党――第一次世界大戦前のドイツ社会民主党イデオロギー御茶の水書房、1983年10月20日第1刷発行、269-270頁より引用)

 

“ 要約的に言えば、社会主義的な労働者層の大部分は、社会主義の理論にはまったく疎遠だったし、学問的な党関係の文献に少しも関心をもたなかったのである。図書館報告への注釈には、労働者の読書を科学的な社会主義へ引き寄せる可能性に関するあきらめの声が、繰り返し、いっぱいに書き込まれている。「労働者の大多数は、自分たちがもともとどこへ流されて行っているのかを問うことなしに、つまり社会主義に向かって進んでいるのかどうか、また、なぜ社会主義に向かって進むのか、ということをちっともはっきりとは知ることなしに、全体が群れをなしてのそのそと連れ立って歩いているのであり、運動については先頭に立つことができるのである。」"

(ハンス-ヨーゼフ・シュタインベルク/時永淑、堀川哲訳『社会主義ドイツ社会民主党――第一次世界大戦前のドイツ社会民主党イデオロギー御茶の水書房、1983年10月20日第1刷発行、277頁より引用)

 

“……社会主義的な大衆の観念のなかでは、社会民主党は、文化と文明との進歩の担い手であったが、他方、教会、貴族および大半のブルジョア層といった伝統的な諸勢力は、進歩に敵対するものと考えられていた。こうして、学問的な問題に関心を抱いていた少数の人たちの社会主義思想そのものが、一般的な進歩信仰につながっていたのである。帝制崩壊後の社会民主党系労働者層の態度についてアールトュア・ローゼンベルクが書いているように、ドイツ社会民主党の五〇年にわたる存続にもかかわらず、圧倒的多数の人々は、「社会主義について何一つはっきりと知ることが」でき「なかったのである。」党の理論家たちは、ドイツの労働者の偉大な理論的感覚の消滅を大いに嘆いたが、そうした理論的感覚は、もともと、ただ、マルクスとそのエピゴーネンとの観念のなかにだけ存在していたものである。”

(ハンス-ヨーゼフ・シュタインベルク/時永淑、堀川哲訳『社会主義ドイツ社会民主党――第一次世界大戦前のドイツ社会民主党イデオロギー御茶の水書房、1983年10月20日第1刷発行、278頁より引用)

 

“……平均的な社会民主党員は、社会主義という場合に、いったい具体的には何を思い浮かべることができただろうか?理論的感覚の萎縮や科学的社会主義への大衆の無関心さにたいする批判は、繰り返し、ただ、批判をもって迎えられることができるだけである。学問をするようにせきたてられた労働者層が、ビュヒュナー、ケーラー、(←278頁279頁→)ヘッケルの俗流唯物論のとりこになり、またコルヴィン風の疑似科学的なパンフレットのとりこになったのは、不思議なことではなかった。十分に階級意識のある、献身的な、連帯心に富んだドイツの社会主義的な労働者層は、マルクス主義的な理論家たちによって、また修正主義的な理論家たちによっても、過大な要求を突きつけられていたのである。科学として現われる社会主義がドイツの大衆に受容されず理解されなかったということは、ドイツの労働者層の「成熟度」が足りなかったことを証明するものではない。彼らが十分に成熟していたことは、労働者が実際に活動できたところでは、つまり労働組合や健康保険や工業裁判所などでは、政治上の敵対者でさえも称賛したのであった。理論的理解不足にとっての原因が不適当な諸要求のなかに求められなくてはならないかどうか、という疑問は、第一次世界大戦よりも前には、社会民主党のなかで、権威ある有力筋から提起されたことはなかったのである。”

(ハンス-ヨーゼフ・シュタインベルク/時永淑、堀川哲訳『社会主義ドイツ社会民主党――第一次世界大戦前のドイツ社会民主党イデオロギー御茶の水書房、1983年10月20日第1刷発行、278-279頁より引用)

 

 

つまり、マルクス主義は労働者の現実に根差した社会思想ではなかったのである。

 

20世紀の権力の座に就いたマルクス主義者の革命家として思い浮かぶ名前をざっと挙げていくと、レーニントロツキースターリン毛沢東、エンヴェル・ホッジャ、金日成ホーチミン胡志明)、フィデル・カストロ、アミルカル・カブラル、アゴスティーニョ・ネト、ポル・ポト、ハフィーズッラー・アミーン、トマ・サンカラ、ジョー・スローヴォといった人々が思い浮かぶが、この内の多くの人々は、欧米=西洋列強や日本の帝国主義侵略政策に対抗する過程で、自国・自民族のナショナリズムを動員するための運動論と歴史論を構築するためにマルクス主義を用いた知識人であると規定できよう。あえてここからマルクス主義を「反西洋・反帝国主義の左翼ナショナリスト知識人のための社会思想」と規定することは、可能なのではないか。

 

19世紀後半から近代的産業労働者(プロレタリアート)階級は自らの階級的利益の実現のために、先進資本主義国では、ラッサール主義や修正社会民主主義イギリス労働党フェビアン主義ドイツ社会民主党のベルンシュタイン主義)、アメリカ合衆国ニューディール・リベラル(フランクリン・ルーズヴェルト時代の米国民主党)などの実質的な改良主義路線を支持し、組織労働者がマルクス主義政党による「指導」を嫌がったフランス、スペイン、イタリア、アルゼンチンなどでは、自らの力で革命的サンディカリズムを立ち上げ、ジョルジュ・ソレルのような知識人の力を得てその理論家に努めてきたが、いずれにしてもロシア革命以前のマルクス主義が労働者自身の社会思想ではなかったことは明白であろう。本書はその事実をスイスという一地域の現実を照射することで果たした書といえるのではないか。ロシア革命以後であっても、世界各国でコミンテルン支部共産党を支持した労働者は、マルクス主義を支持したというよりは、1930年代にスターリンが運動路線として標榜した左翼ナショナリズムを支持してきたのではないかという印象がある。恐らく、トロツキー主義がスリランカボリビア以外で労働者階級の間に勢力を保てなかったのは、スターリン毛沢東が行ったような形で「民族」を語らなかったからであろうと私は考えている。

 

さて、本書について私が思うことは以上であるが、最後にもう少しだけ展望を語りたい。

 

マルクス以来、組織重視で中央集権的な〈党〉を志向してきたマルクス主義は、1902年のレーニンの『何をなすべきか?』至って前衛党理論を生み出した。理論付けとしては以下のようになる。

 

“ 階級的・政治的意識は、外部からしか、つまり経済闘争の外部から、労働者と雇い主との関係の圏外からしか、労働者にもたらすことができない。この知識を汲みとってくることのできる唯一の分野は、すべての階級および層と国家および政府との関係の分野、すべての階級の相互関係の分野である。だから、労働者に政治知識をもたらすにはなにをなすべきか、という問いにたいしては、「経済主義」に傾いている実践家はもとより、大多数の場合に実践家を満足させている回答――つまり「労働者のところにゆけ」という回答をあたえるだけではだめなのだ。労働者に政治的知識をもたらすためには社会民主主義者は、住民のすべての階級のなかにはいってゆかなければならない、自分の軍隊の部隊をあらゆる方面に派遣しなければならない。”

(ヴェ・イ・レーニン/村田陽一訳『なにをなすべきか?』大月書店〈国民文庫110〉、1971年7月30日第1刷発行、1990年6月28日第40刷発行、121頁より引用)

 

 

この文脈でアナーキストは“「経済主義」に傾いている実践家”ということになり、ロシア革命後にレーニントロツキーによってクロンシュタット叛乱やマフノ運動のように粛清・追放されることになるのだが、他方で組織を嫌うアナーキストは、現状への批判は行い得ても、どのように革命後の新しい秩序を作り上げるかという点で見事に失敗した。1920年代以降、1991年のソ連崩壊まで、アナーキズムマルクス主義に地球規模でのグローバルな世直し思想としての地位を奪われ、ソ連崩壊後も、かつてマルクス主義が担っていたある部分(反西洋帝国主義など)に関しては戦闘的イスラーム主義がそれを代替しているように私には思える。組織論がないも同然なので、アナーキズムを信条として抱く個人が具体的に何をなすべきか?を問うても、1999年のシアトルWTOのような散発的な事態を除いては、現実政治を動かすほどの強い組織的な凝縮力を持てないのである。

 

レーニンの前衛党理論がスターリン主義トロツキー主義双方で、「革命的プロレタリアートの前衛党」の名の下で革マル派中核派などの既存の党を物神化し、内ゲバ殺人に典型的なように、党の名の下なら市民社会の道徳律を外れた行為を起こしても問題ないという退廃に至ってしまったことを考えるに、このマルクスレーニンと続く〈党〉の神格化は避けねばならないと、私は考えている。もちろん、私はアナーキストに道義退廃がなかったと言いたいわけではない。19世紀末~20世紀初頭にかけてアメリカ合衆国やフランスなどで相続いた大統領や政治家を暗殺するテロ事件や、窃盗を社会への反抗として実践してきたのはアナーキストであった。私はマルクス主義に、マルクス以来の中央集権的な〈党〉を神格化する組織論がある限り、行き着くところは何らかの形でのスターリン主義でしかないのではないか、ということを主張するものである。

 

恐らく、アナーキズムがこの問題に対して、一定の解決を図ることできたのは、「世界でいちばん貧しい大統領」こと、南米のウルグアイ東方共和国ホセ・ムヒカ前大統領ではないか。アナーキスト無政府主義者を自称するムヒカはウルグアイの大統領であった際に、「無政府主義者でありながら国家元首でもあるのは難しくはないですか?」と尋ねるジャーナリストのインタビューに答えてこう述べている。

 

“「無政府主義について話しましょう。無政府主義者でありながら国家元首でもあるのは難しくはないですか?あまり理解してもらえないのではないでしょうか」

「それは、瞬間的な、歴史的な時間の問題だ。私は、昔から無政府主義者だ。一番効果的な国家改革は、国家をなくすことだ。問題は、私たち人間が国家なしでは生きられないということだ。これは私たちの短所の表れだ。人類の歴史の九割には、国家は存在しなかったのだがね。国家が存在するということは、社会に階級が存在しているということの証明だ。一部の人間が他の人間を支配するようになると登場する。防衛大臣や内務大臣、外務大臣が任命されると政府ができる。政府が最初にやるのが、まずこういうポジションを決めて、国民をコントロールすることだ。経済大臣でも教育大臣でもないんだ」

「あなたも政府にやられたということですか?」

「ああ。だが無政府主義の共和国は、戦車の下敷きになって滅びたのであって(引用者註:スペイン内戦の際にアナーキストが入閣していたスペイン共和国を指しているのだと思われる)、ソビエト連邦のように錆びついていったわけじゃない。だから今も無政府主義にはあかりが灯ったままなのさ」”

(アンドレス・ダンサ、エルネスト・トゥルボヴィッツ/大橋美帆訳『ホセ・ムヒカ――世界でいちばん貧しい大統領』KADOKAWA〈角川文庫〉、2016年3月25日初版発行、126頁より引用)

 

 

ホセ・ムヒカが大統領として実際に行ったことは、貧困層向けの住宅建設や人工妊娠中絶の合法化など、社会民主主義の政策を超えるものではない。ベネズエラチャベス革命政権が行った企業の国有化政策に反対していたことを想起すれば、その穏健性は十分に伝わると思う(私自身はベネズエラの経済を大混乱に陥らせた企業国有化政策は失敗だったし、基本的には行うべきではない政策だと考えている)。しかし、ムヒカがアナーキストでなければ、ムヒカが行ったことをウルグアイで実践することは不可能だったとも思う。ホセ・ムヒカの体現する価値を、アナーキズムの色である黒と、実際に行うべき社会民主主義政策と合わせ、「黒色社会民主主義」と呼ぶことを私はここに提唱する。

 

"『社会主義』という言葉はかなり複雑だ。単純に言うと、人間にとって最も基本的な権利を獲得することだ。人間同士の基本的な平等のために闘うことだ。政治の世界で起こっていることはとても重要なことのように見える。だが、シンプルにわかりやすく説明できないことは、実はそれほど重要ではないのだ。"

(アンドレス・ダンサ、エルネスト・トゥルボヴィッツ/大橋美帆訳『ホセ・ムヒカ――世界でいちばん貧しい大統領』KADOKAWA〈角川文庫〉、2016年3月25日初版発行、40-41頁より引用)

 

 

黒色社会民主主義社会主義だが、それはマルクスの掲げる社会主義ではなく、このような社会主義である。人間を理想的な社会の実現を目的とする組織の道具としかねない発想から、個々の人間が現実を生きることへと社会主義への視点を切り替えること。1870年頃のスイスのジュラ地方で、バクーニンを支持してマルクスの中央集権的な政治組織に反対した時計職人のアナーキズムに今日の我々が学ぶべきことはそこにある。

読書録:松田道雄『日本知識人の思想』筑摩書房〈筑摩叢書44〉、1965年7月25日発行。

討幕革命から安保闘争までの日本の知識人・インテリゲンチアに関する論考集。以前斜め読みしたものを今回改めてしっかり読むことにした。私がロシア語のинтеллигенцияのカタカナ表記を「インテリゲンチャ」でも「インテリゲンツィア」でもなく、「インテリゲンチア」と表記するのはこの本の松田道雄氏の用語法に由来している。

 

内容に入ると、日本におけるインテリゲンチアの志士仁人性をまずは認めるべきだという主張があり、その発想から、志士仁人としての日本のインテリゲンチアの思想的な弱さを論じていくという方向性から全編がまとめられている。また、著者が近代日本アナーキズム運動に関するアンソロジーを纏めている背景もあってか、マルクス主義偏重の日本反体制運動史の中で不当に低く評価されてきた大杉栄アナーキズム運動に大きな評価がなされていることも特徴(50-60頁)。本書に収録されている「青春群像――「社会科学」はなやかなりし頃」(119-132頁)、「戦争とインテリゲンチア――現代史と人間」(133-159頁)、「一市民のマルクス主義体験――日本共産党と私」(160-194頁)の三篇の論文で著者が自らとマルクス主義及び日本共産党との関係を語るところから判断すると、1908年に生まれ、20歳前後の京都大学医学部在学中に日本共産党の影響を受けるも、共産党が弾圧の中で完全敗北していったのを目にし、マルクス主義を内心に維持することで戦時中を切り抜けつつも、戦後復活した日共の運動面・思想面の双方に何か違うという印象を抱いての論考ということになるらしい。戦前日本の共産主義運動について何かを学びたいと思う人にとって本書は、福永操の『共産党員の転向と天皇制』(三一書房、1978年)、『あるおんな共産主義者の回想』(れんが書房新社、1982年)、宮内勇の『1930年代日本共産党私史』(三一書房、1976年)、神山茂雄の『日本共産党とは何であるか』(自由国民社、1972年)、『わが遺書』(現代評論社、1975年)、寺尾五郎の『対論・革命運動史の深層』(谷沢書房、1991年)などと共に必読の書であろう。

 

なお、著者が技術系・理系の専門家を念頭にして論じている「実学型インテリゲンチア」については、現時点で私は多くを語る力を持たないので保留することにする。また、以下のノートは私が共感できる部分や特に論じるべきだと感じた部分について主に論じており、そうでない部分については論じていないので、その点をご承知おき願いたい。

 

以下気になった部分を抜粋し、感想を加えていくことにする。

 

 

†「日本の知識人」(5-61頁)

“ まず第一に維新を推進したものがインテリゲンチアであったということを認めるべきである。歴史を動かすものは階級闘争であって、インテリゲンチアは独自の階級的基盤をもたない浮動層であるということは客観的には言えるだろう。だが幕府をたおして新しい政府をつくった集団の行動を指導したものが何かという問題では、彼らの代表する「階級的地盤」の多様性よりも彼らの精神における共通性のほうが重要である。

 維新の「志士」は共通してインテリゲンチアであったということを、今日われわれにすなおに受け入れさせないものは、「インテリゲンチア無力説」である。この説が発生したのはだいたい明治の末期である。それは漱石の「現代日本の開化」のなかにほぼ完成した形で示され、疎外されたインテリゲンチアの余計者の意識でかかれた自然主義小説によって情緒的に準備され、大正年代に労働者階級の成長とともに自然発生的にあらわれ、のちに日本共産党天皇制政府とのたたかいのうちに両側から悪意をもって宣伝されることによってできあがった歴史的な産物である。少なくとも明治の中期では、ロシア語のインテリゲンチアは、日本語の「志士」に対応するものとして考えられ(←7頁8頁→)ていた(拙稿「『浮雲』について」)”(本書7-8頁より引用)

 

本書を読むまで「インテリゲンチア無力説」が天皇制国家と日本共産党の双方から唱えられた説だとは思っていなかったので、初めて読んだ時、この点が衝撃だった。日本の知識人・インテリゲンチアの双方によくある、自らの無力性を嘆じて自暴自棄に至るという在り方は、てっきり自然主義以来の純文学の世界で培われたインテリゲンチアの自画像だと思っていたため、マルクスレーニン主義の下で知識人の労働者に対する指導性を肥大化させた日本の知識人が、自らの足元を掘り崩していたとは思わなかった。というよりもむしろ、アナーキスト共産主義者として革命家であった大正~昭和戦前期の革命家達が、討幕革命の志士達と自らを「革命的インテリゲンチア」という言葉の下で統一的に把握することができなかったということの表現なのだろうか?或いはマルクス主義者に多い、自分自身はちっとも労働者らしくないのに自分のことを労働者だと言いたがる悪い癖の現れか。

 

“ 「志士」が共通してサムライという職業軍人であったことも、彼らインテリゲンチアの人間形成において、肉体的にも精神的にも大きな意味をもったことは争えない。明治の変革が職業軍人によって計画され実行されたということは、明治の変革にフランス革命とのアナロジーをさがそうとするよりも、現在の「後進国」の民族独立の革命とのアナロギーをみつけることのほうが容易ではないだろうか。”(本書9頁より引用)

 

明治維新革命を明治~大正期の歴史学のように自由主義革命(マルクス主義者の言葉で言えばブルジョワ民主主義革命)と認識することへの批判だが、私はこれについては現状ではまだ明確な答えを持ち合わせていない。

 

“ 「志士」型インテリゲンチアに共通するつぎの特徴はそのエリート意識である。彼らが維新の変革を藩兵の武力によって成就したことは、彼らと人民との身分的な断層にたいして何らの反省をもたらさなかった。日本の自主独立の使命感をささえていたものが、そのエリートの意識であってみれば、彼らの権力が強まり使命達成に近づくだけ、彼らは人民から離れるのであった。

 藩閥政府にまで上昇した「志士」型インテリゲンチアにとって人民は獣と異なるものではなかった。陸羯南(一八五七-一九〇七)のいうように「朝野の政治家等は二十年来人類を動物視して肉と棒とのみを政界の道具と為した」(『原政』)のであった。

 明治九年八月の『中外評論』はこの事情をつぎのように書いた。

 「然レトモ全国頑固士民ノ多キ寸兵ヲ動カサスシテ一大変革ヲ成就セシハ国家ノ至幸ナリト雖モ亦(←11頁12頁→)以テ人心衰弱ノ一端ヲ徴スルニ足レリ政府ハ坐シテ大業ヲ奏スルヤ以為ク官吏ハ明而強人民ハ愚而弱ト」(青木文庫『自由民権思想・上』一五四頁)。

 エリート意識はそれがエリート意識である限り、一般者との区別を意味するのであるが、それが何ものかを媒介として、もう一度人民と結びつくべきものである。そうでないと動物と同じように扱われた人民はなんらかの形で自己の人間を回復しようとするから、エリートによる指導に対立する。

 人民から孤立したエリートの集団は自己防衛のためにおのずと結束して閉鎖的な世界を形づくる。” (本書11-12頁より引用)

 

討幕革命の志士の中で最も人民への愛に満ちていたのは松陰であったが(疑う向きは松陰が被差別部落出身の女性、登波を安政4年に『討賊始末』の中で烈婦と讃えたことを想起せよ)、松陰にしても安政3年頃まで武士の特権意識から民衆を動物視する向きがあり、その時期の松陰は朝鮮や中国に対する侵略的な言辞に満ちていたが、入獄後し、多くの民衆と触れ合う中で自らの考えを変え、安政5年(1858年)に討幕を決意した頃には旧武士階級の特権意識を捨て去り、『対策一道』に見られるようにそれまでの朝鮮や中国への侵略的言辞を改めるまでになっていた。松陰門下の維新志士=インテリゲンチア討幕革命家達はこの最も重要な点において松陰に学ぶことはなく、「エリート意識はそれがエリート意識である限り、一般者との区別を意味するのであるが、それが何ものかを媒介として、もう一度人民と結びつくべきものである」(本書12頁)というインテリゲンチア革命家と民衆を媒介する意識を持てなかった。ここに近代日本の出発点に於ける悲劇があった。

 

“  「吾人の眼球を一転して、吾国の歴史に於て空前絶後なる一主義の萌芽を観察せしめよ。

   即ち民権といふ名を以て起こりたる個人的精神、是なり。」

 これは北村透谷(一八六八―九四)の「明治文学管見」の中の一句である。自由民権運動ブルジョア民主主義革命として理解しようとする研究は日本のマルクス主義者によってもっぱらすすめられてきたが、「自由民権」型インテリゲンチアとしての統一したタイプを結晶としてとり出すには、まだデータが十分に出そろっていないように思う。自由民権運動をかりに『自由党史』のなかに出てくる運動と限ってみても、それらが統一した階級的基礎によって起ったものとは考えにくい。自由民権はモザイックである。すでに陸羯南は自由民権の多元性を指摘し、幽欝民権(在野征韓論の変形)、快活民権(自由主義の萌芽)、翻訳民権、折衷民権にわけている(『近時政論考』)。

 自由民権の指導者には新しい権力機構に就職できなかった「志士」型インテリもいれば、地方的利益を藩閥政府からまもろうとした村落共同体の指導者としての豪農もいれば、地方ジャーナリストもいるといったぐあいで統一した思想をそこにみつけることが困難である。だが、どんなに甘く点をつけても「地方の豪農・豪商の指導下に一般農民=中・貧農層さらに都市貧民・初期プロレ(←16頁17頁→)タリアートをふくむ広汎な反政府戦線が結成され」たというふうには思われない。その運動は、局地的には武装蜂起という深刻な形をとったものもあるが、あまりにも散発的である。そうしてもっと重大なことは、この運動が日本の精神的産物のなかに、そのあとをとどめることがあまりに少ないということである。二葉亭はなぜ自由民権を画かなかったか、自ら自由民権運動に参加した透谷がなぜ、自由民権をうたわなかったか。自由民権論の思想家植木枝盛は、日本の自由民権思想として世界民主主義思想史のなかにどれだけのオリジナルなものを加えたか。

 遺憾ながら近代日本の精神史のなかで、自由民権運動の比重はそれほど大きなものであったと考えるわけにいかない。

 それなら自由民権は日本にとって何であったのか。ここで、いちばんはじめの透谷の言葉にもどるのである。それは個人的精神の勃興である。人間精神の覚醒である。藩閥政府によって動物なみにしか扱われなかった人民の人間回復である。このゆさぶりがあったからこそ、二十年代における日本ナショナリズム運動が可能であった。日本ナショナリズム運動は少なくとも自由民権運動にくらべれば全国的な事件であった。そこには「国民の元気」があった。透谷がそれに感じてうたった「内部の生命」があった。私は自由民権運動を二十年代の日本ナショナリズム運動を準備したものとして評価したい。

 自由民権運動を日本人民の個人の精神の覚醒であるとするならば、容易にその「物質的基礎」を発見することができる。”(本書16-17頁より引用)

 

既に見たように、著者は討幕革命に勝利した後に維新官僚となった革命家たちのエリート主義によって動物並みに扱われていた「人民の人間回復」(本書17頁)として自由民権運動を位置付け、その延長線上に日本ナショナリズムの民衆化があるとして、「自由民権運動を二十年代の日本ナショナリズム運動を準備したものとして評価したい」(本書17頁)としているが、逆に言えば日本ナショナリズムの民衆化を否定する立場から自由民権運動を否定することも可能だと思う。ただし、その場合、国家から動物並み扱われていた「人民の人間回復」をナショナリズム以外の思想運動によって行う必要が生じるだろうし、そうであるならば天理教等の民衆宗教にその役目が回りそうである。いずれにせよ、松田道雄氏の言う通り、自由民権運動自由民主主義革命だとみなすのは誤りだと思う。自由民権運動の出発点が「征韓論」であったことを忘れてはならない。ただ、「征韓論」から出発し、民権壮士や後の自由党系の国会議員が日清戦争日露戦争で見せたように、中国や朝鮮やロシアに対する排外意識を持ちながらも、北村透谷のように、そこに「民権といふ名を以て起こりたる個人的精神」を発見し、国学運動が最初期に持っていた人間の回復という事業に至ったことは、これに関しては良かったと思っている。

 

 

“ 「明六社」のインテリゲンチアが「政論壇上」を退いたあとは「慷慨志士」がこれにかわるのであるが「言論出版を以て意見を公にするを得たるは実に当時印刷事業進歩の賜」(陸羯南『近時政論考』)であったが、それら言論を読むことによって人民の多数が覚醒していったのも「印刷事業進歩の賜」であったわけだ。

 それだから自由民権運動を指導したインテリゲンチアをなんらかの型にいれようとすれば新聞事業の発生とともに生まれたジャーナリスト型とでもすることができよう。

 このジャーナリスト型インテリゲンチアの系譜に明治社会主義運動があり、大正デモクラシー運動がある。”(本書18頁より引用)

 

また、自由民権運動について、板垣退助の政府による買収によって実現した外遊で西欧のデモクラシーを目の当たりにしての「転向)について、「西欧の自由平等が植民地人員の不自由不平等の上に立っていることを自分の目でみた」(本書19頁より引用)結果により西欧デモクラシーを批判視する視点を得たのだと認識し、「彼はある意味でゲルツェン Herzen(一八一二―七〇)がロシアの西欧派にたいしてふるまったのと同じ役割を果たしたのである」(本書19頁より引用)と述べている(本書19-21頁)。この日露の西欧的知識人が西欧の民主主義国の現実を目にして西洋近代的理想そのものに懐疑的になる様子の比較は非常に興味深い。

 

“……自由民権運動がもしブルジョア民主主義革命の運動であるならば、ブルジョア的発展がさらに進行する二十年代、三十年代でより大きな潮流となるべきであるのに、二十年代において「挫折」するというのは、それが人民の「個人精神」の覚醒であり、その覚醒にあたって西欧民主主義の非人間性を板垣によって指摘されたからであろう。それは日本が西欧民主主義国の帝国主義的侵略を自分の眼前に見うる位置にあったということ、しかも自らは植民地を持たない国であったということによって、理解をいっそう容易にしたにちがいない。日本人民の堕落は日本が植民地をもつことによって始まるのであった。”(本書21頁より引用)

 

「日本人民の堕落は日本が植民地をもつことによって始まるのであった」という指摘には私も全面的に首肯する。だからこそ、今日も韓国/朝鮮・台湾・中国が突き付けていることは、我々が討幕革命の後、欧米列強を真似て植民地を保有することを選び、結果として日本民族の品位を堕落せしめてしまったことを忘却しているということなのだ。既に、辛亥革命の指導者にして中華民国の建国者孫文孫中山)は、1921年朝日新聞のインタビューに答えてこのように語っていた。

 

“ 今、貴社の記者より、中国人は何故に日本を深く恨むのか、また、いかなる方法で両国の国民感情を調和させるのかとの質問を受けた。私は誠意を尽して回答し、あわせてこれを日本の旧友に伝えようと思う。

 私はこれまで最も力を入れて中日親善を主張してきたものである。ところが、近年、日本政府が事ごとにわが国の官僚を支援し、国民党を挫折させるのを見、痛恨の念を禁ずることをできない。(←303頁304頁→)

 そもそも、中国国民党は五十年前の日本の維新の志士なのである。日本は東方の一弱国であったが、幸いにして維新の志士が生まれたことにより、はじめて発奮して東方の雄となり、弱国から強国に変じることができた。わが党の志士も、また、日本の志士の後塵を拝し、中国を改造せんとした。私が日本との親善を主張したのもこのためであった。ところが、思いがけないことに、日本の軍人はその帝国主義の野心をたくましくし、あの維新の志士の抱負を忘れ、中国を最も抵抗力の少ない地域だと考えて干渉し、そうすることで、その侵略政策を進展させた。これが中国と日本の建国方針の根本的に相容れない点なのである。

 しかるに、日本人の見解では、中国はこれまで列強の侵略を受けてきたが、日本はこれらの列強に比べ、なにもひどく侵略したというわけではない。しかるに何故に日本だけをとくに深く恨むのかと言う。ああ、これは弟でありながら、強盗の仲間になり、その長兄の家を襲い、しかも居なおって、我われ二人は本来、同じ血を引くものだから、兄は強盗よりも弟を更に恨むようなことがあってはならないと言う。それとどこが違うというのだろうか。これこそ、今日の日本人の同文同種の論調なのである。”

孫文/鳥井克之訳「中国の青島回収につき朝日新聞記者に回答せる書翰」『孫文選集第三巻』社会思想社、1989年6月30日初版第1刷発行[原著『民国日報』1919年6月24日]、303-304頁より引用)

 

「そもそも、中国国民党は五十年前の日本の維新の志士なのである」と孫文が語るように、孫文は日本の維新の志士、吉田松陰ら行ったことを、20世紀に入ってから推進したのであった。松陰を朝鮮や中国に対する侵略の思想家だと考えている人は今日も多く、松陰自身にもそのように解釈される余地が多々あったので、ここで少しだけその点について述べておく。山鹿流兵学を家学とする家の当主であった、松陰の発想は武士の発想であり、「武士道といふは死ぬことと見つけたり」から始まる『葉隠』を見れば明らかなように、武士の発想とはすなわち「斬らなければ斬られる」、「弱みを見せるのは武士の恥」というものであった。ここから初期の松陰は安政2年(1855年)の時点で「……洪秀全などが清国を偽定し、朝鮮も満州も随従して、かれより先にわが関を款き候はば、大遺憾これに過ぎず候」(書簡、安政二年四月二十四日、兄宛)といった、洪秀全太平天国が朝鮮と共に攻め込んでくるという誇大妄想に至り、日本から攻めなければ外国に攻め込まれるばかりに(ペリーの黒船来寇のような砲艦外交に見られる通り、その可能性は決して白昼夢ではなかった)、「……いま急に武備を修め、艦ほぼ具はり礟ほぼ足らば、すなはちよろしく蝦夷を開墾して諸侯を封建し、間(すき)に乗じて加摸察(カムチャツ)加(カ)・隩(オ)都(ホー)加(ツク)を奪ひ、琉球に諭(さと)し、朝覲(ちょうきん)会同(かいどう)すること内諸侯と比(ひと)しからしめ、朝鮮を責めて質を納(い)れ貢(みつぎ)を奉ること古の盛時の如くならしめ、北は満州の地を割(さ)き、南は台湾・呂(ル)宋(ソン)の諸島を収め、漸(ざん)に進取の勢を示すべし」(『幽囚録』)という悪名高い安政2年(1855年)の『幽囚録』の誇大妄想的侵略主義が出てくるのである。さて、下田でアメリカ合衆国の船に密航することに失敗した後の松陰の人生は、牢獄の人として過ごすことに終始したと言ってよい。松陰は牢獄で出会った人々に自らの救国の志を語る中で、それまで動物と同様に視ていた民衆である牢獄の人々に、自らに通じる志を発見することになる。私はこの過程が生まれながらの下級武士であり、忠義と身分制に凝り固まっていた松陰が自らの下級武士性を捨て、万人の平等という方向性を発見していく過程だったと考えている。安政3年(1856年)には「然りと雖も普天率土の民、皆天下を以て己が任と為し、死を尽して以て天子に仕へ、貴賎尊卑を以て之れが隔限を為さず。是れ則ち神州の道なり。」(『丙辰幽室文稿』)と、天皇の下での「貴賎尊卑を以て之れが隔限を為さず」という平等の道を唱え、安政4年(1857年)には被差別部落出身の女性、被差別部落出身の女性、烈婦登波の伝記を書き、部落解放への先鞭をつけている。この延長線上に、武士階級に備わっていた侵略性を改める安政5年(1858年)の「対策一道」が出てくるのである。

 

“……然る後往いて朝鮮・満洲および清国を問ひ、然る後、広東・咬〔口偏に留〕吧〔カルパ〕・喜望峯・豪斯多辣理(オーストラリア)、皆館を設け将士を置き、以て四方の事を探聴し、且つ互市の利を征る。此の事三年を過ぎずして略ぼ弁ぜん。然る後往いて加里蒲爾尼亜(カリフォルニア)を問ひ、以て前年の使に酬い、以て和親の約を締ぶ。”

(「対策一道」山口県教育委員会編『吉田松陰全集第四巻』大和書房、東京、1972年7月20日初版発行、1986年11月25日5刷発行、332頁より引用)

 

松陰は「朝鮮を責め」、「満州の地を割き」、「台湾・呂宋の諸島を収め」といった、『幽囚録』

で見せた武士的な近隣諸国への侵略政策をこの『対策一道』で改め、「朝鮮・満洲および清国を問ひ」、「互市の利を征(と)る」という平和通商の要求に思想が軟化しているのである。これこそが封建社会に武士として生まれた人間が、牢獄の中で武士としての自分の在り方を変える人間的な成長であり、ここに日本が黒船でアメリカ合衆国から押しつけられた侵略を朝鮮や中国に押しつけようとする発想を改め、国際的な正義である反侵略の実現を目指す維新の志士=討幕革命家が誕生したのである。孫文1921年に「ところが、思いがけないことに、日本の軍人はその帝国主義の野心をたくましくし、あの維新の志士の抱負を忘れ、中国を最も抵抗力の少ない地域だと考えて干渉し、そうすることで、その侵略政策を進展させた」と言っている、「あの維新の志士の抱負を忘れ」というのは、この松陰が自らの武士性を捨てる中で侵略主義から通商主義に自らの思想を変化させたことを忘却し、安政3年(1856年)頃の侵略主義者時代の松陰を、松陰の本質として記憶してきたことに対する批判なのである。ちなみに松陰は最晩年の安政6年(1859年)4月に、「草莽崛起、豈に他人の力を假らんや。恐れながら 天朝も幕府・吾が藩も入(要)らぬ、只だ六尺の微軀が入用」と、安政3年(1856年)に「貴賎尊卑を以て之れが隔限を為さず」と述べるための前提だった天朝をいらぬと振り捨てている。ここにはもはやかつての尊皇家松陰の姿はない。尤も、残念ながら、29歳で処刑された松陰にはその反侵略の思想も、天皇を不要とする思想も、突き詰めて体系的にまとめるだけの時間的余裕はなかった。竹島鬱陵島開拓論などはその典型例であろう。おそらく松陰が鬱陵島開拓論について、朝鮮側の反論に本格的にあった場合、私は開拓論を取り下げたと考えているが、現実の過程でそのような展開は存在しなかった。そして松陰がやり残した課題は明治時代の社会主義者が担うべきであったのだろうけれども、これに失敗したことは本書に明らかな通りである。

 

“ 志賀重昂は日本の政治的指導者が見なかった西欧民主主義国の植民地や占領地だけを見てまわった唯一のインテリゲンチアであった。”(本書27頁より引用)

“ 「然り予輩は円満完了平和平等なる世界に到着せんことを熟望す、然れども宇内人文の程度が未だ這般の地位に到達せず、民族国家を以て特立自立せざるべからざるの境遇に棲息する以上は、鋭意力を極めて民族国家が独立自立を保維するの事業に周旋せざるべからず。」(「日本国裡の事大党」、『日本人』第五号、明治二十一年六月三日)。

 世界人類の平和平等は理想であるが、民族国家のメンバーとしてしか人類が生活できない現段階においては、国家主義も現実としては承認せざるを得ない。国家主義を過渡的な段階として認めて(←29頁30頁→)いる点において、志賀の理論は、国家主義にたいして批判的でありながら国家を単なる地理的な結合としてしか見なかった植木枝盛のつぎの見解よりも、むしろ歴史的感覚においてすぐれているというべきであろう。

 「若又国家の位地より之を観察せよ。日本は四方環海の国にして、他邦と陸地を相接ゆる者にあらず、外交上の歴史より観察せよ、彼の孛仏が互に甚しき寇讐の間柄を有する如き関係ある者にあらず、声を嗄らして国家々々と叫ばざれども、国家の結合は少しも不足を告ぐること有らざるなり、舌を爛らして国民よ々々々と喚かざれども国民的の観念は幾んど天然の如くに具備するなり、日本に於ては民権よ々々々と叫ぶこそ必要なれ、自由よ々々々と喚くこそ急々なれ。」(『自由新聞』第十九号、明治二十三年十一月三日、青木文庫『自由民権思想・中』一〇八頁)。”(本書29-30頁より引用)

 

私は国家と宗教と個人の自由について、多くの点でバクーニンが「神と国家」などの著作で示したアナーキズムの見解が最も正しいと思いつつも、実践的には民族国家(nation state/estado nación)を否定することは、残念ながら現時点ではできないという見解を有するために、この点では著者と同じく植木枝盛よりも志賀重昂に立つものだが、ただし、民族国家を基礎付けるナショナリズムの導き出し方として天皇を持ち出すことは避けなければならないと考えている。私見では日本毛沢東派の寺尾五郎が『革命家吉田松陰――草莽崛起と共和制への展望』徳間書店、1973年3月10日発行)で示した、松陰の思想に人民主権を見る反天皇制ナショナリズムの方向を明確にしなければ、西洋民主主義国による侵略的帝国主義を批判するところから始まった(これは正しいと私も考えている)志賀重昂的な国家容認論の在り方は、現実の天皇制国家と日本帝国主義をズルズルベッタリに容認する方向に落ち込んでしまいかねない。バクーニンの理想は全く正しいと思うけれども、現在の世界でパレスチナ人が自由に生きるためにはパレスチナ民族国家が必要なのだと私は考えている。

 

“……だが私はベーベル Bebel(一八四〇―一九一三)からバクーニン Bakunin(一八一四―七六)にうつっていった幸徳の「思想の変化」に明治社会主義の論理的帰結をみる。

 そういう意味で私は大杉栄(一八八五―一九二三)のなかに「明治社会主義」型インテリゲンチアの典型の完成をみとめる。大杉栄の死によって、明治の社会主義が終わったからである。

 透谷が日本のブルジョアジーの生誕のなかに自己の「内部生命」を感じたとすれば、大杉は日本のプロレタリアートの生誕のなかに自己の生命を感じた。社会科学的法則が教えるから社会主義運動をやるのではない。自分が人間として生きるためには、プロレタリアートとして生きなければ、生の意味がないのだ。”(本書44頁より引用)

 

“ 乱調の中に美を発見したということも日本の芸術の歴史の上での新しい事件ではないだろうか。彼の精神の感受性の強さ、彼の精神の活力、それらは彼の人間性の豊かさを示している。明治社会主義のインテリゲンチアを、のちの日本マルクス主義のインテリゲンチアからきわだって区別するものは、この人間的資質である。幸徳秋水堺利彦(一八七〇―一九三三)、山川均(一八八〇―一九五八)ことごとく豊かな資質の持ち主であった。

 明治の社会主義は大杉の能力によってはじめて、日本における個人の問題を何ものにも遠慮をし(←46頁47頁→)ない仕方で提出した。”(本書46-47頁より引用)

“ 大杉の人間の個性にたいする尊重は、明治の社会主義運動が、自由民権運動にあらわれた日本人民の人間の回復の、新しい段階であるといっていいだろう。それだから彼は、少々気のぬけた大正のデモクラシーにたいしても最もきびしい批判者であった(「民主主義の寂滅」)。

 ついでだから大正デモクラシーにふれておくが、私はこの運動を日本思想史の上であまりたかく評価しない。”(本書47頁より引用)

“ 明治の社会主義者は大杉に至って完全に劣等感から解放された日本人をつくった。幸徳が米国から帰ってドイツ社会党と異なる社会主義をとなえた時、日本の社会主義は人類の社会主義競争の「オリンピック」に参加した。大杉に至っては、ロシア革命にたいしてさえ日本社会主義運動の立ちおくれを認めなかった。彼はロシア革命のなかに革命の堕落をみてとった。彼はロシア革命に労(←48頁49頁→)働者の個人の尊厳を侵害するところがあると考えたのだった。

 彼はロシア共産党が世界の社会主義を「指導」することを容認しなかった。コミンテルンから派遣された「ロシア人T」が日本の共産党と連絡をとろうとして、奇特な志願者大杉栄を上海に呼びよせた時、「ロシア人T」は日本でもっとも誇り高い人間を前にしたのであった。”(本書48-49頁より引用)

 

以上三つの引用部で、著者の大杉栄に対するべた褒めが明らかになったが、大杉栄が暗殺されたとき10代の少年であり、20歳頃から萌芽期の日本の共産主義運動に接してその内部の弱さを嫌というほど知った著者としては、大杉の死と共に消滅した明治社会主義について別種の可能性を感じていたのだろう。

 

“ また日本マルクス主義の運動に多数の帝大卒業者が参加し指導することができたというのは、それが明治以来の社会主義運動と断絶していたからである。”(本書52頁より引用)

 

と著者は自らが20代の時に目の当たりにした戦前日本の非合法下の共産主義運動について、その明治社会主義との断絶を強調しているが、マルクス主義という国際的な権威によって、帝国大学=官僚予備軍達が日本の反体制運動を官僚的に引き回してきた(言い方は悪いが佐野学のような戦前の最高幹部のあり様を見るにそうとしか表現できない)ことについて、忸怩たる思いがあったに違いない。最も、労働者出身のたたき上げの幹部も、労働組合のボス意識のような形で、エリート予備軍達とはまた別の問題があるのだけれども。

 

“……片山潜は、マルクス主義史家によるあらゆ神話化にもかかわらず、明治の社会主義者としては失格者であった。彼が日本にのこした理論は、幸徳、堺、山川らの理論のどれにくらべても、その格調においてはるかに低い。そればかりか、彼は日本の社会主義の最も困難な時代に逃亡してしまった。片山と個人的に接触のあった人たちの片山の評価はいずれも低い。吉川守圀の『荊逆星霜史』もそうであるし、渡辺春男の『日本マルクス主義運動の黎明』もそうである。”(本書51頁より引用)

 

周知のとおり、片山潜コミンテルンの日本人執行委員としてその名を国際的に知られ、昔ソ連の教科書では日露戦争の最中に第二インターナショナルの会議でロシア代表プレハーノフと日本代表片山潜の握手についての記述があったとのことだけれども、著者の片山潜への評価の低さには興味深いものがある。最も、私は片山潜についてよく知らないしあまり興味もないのでそれについて何か意見を述べることはできない。

 

“ 太平洋戦争における日本軍部の戦略指導の稚拙や、戦争が日本の人民にあたえた損害の大きさや、戦争裁判によって代表される国際的な否定的評価や、左翼史家によって強調して列挙される戦争にたいする反対行為などは、戦争を知らない世代に、太平洋戦争の時期に日本全土をおおった「挙国一致」のムードを頭に画くことを困難にしている。

 だが、戦争をどう評価するにしても、太平洋戦争が日本をかつてとらえたことのない民族的昂揚のうちに戦われた事実を否定することは誤りである。総力戦という点では、日露戦争は太平洋戦争にくらべものにならない。”(本書54頁より引用)

“……太平洋戦争は、昭和の日本のミドルクラスによって明治におけるよりも真剣に担当され遂行されたということである。われわれの周囲をみても、戦争の提出したポジションを、すなおに受けとり、栄達も利益も念頭になく、よく戦いかつ死んでいった友人たちは、ファシストでもなく、顕官や大富豪の一族でもないミドルクラスの出身者であった。

 思想の系譜からいえば、彼らは志賀重昂に代表される日本ナショナリズムの子孫にぞくするといえよう。だが、彼らのナショナリズムは明治二十年の発生期のナショナリズムとは、かなり変貌したものであった。志賀たちが支配権力にたいしてもっていた弾力性のある態度がいちじるしく失われて、天皇崇拝に強く傾いたことである。昭和のミドルクラスの天皇崇拝は満洲事変を境として強まったと思う。それは日本のミドルクラスの思想的結集が農村から先におこり、農村のミドルクラスは都市のミドルクラスにくらべて、その家父長制的な下半身のゆえに、天皇制にたいする親和力が強かったからである。(←55頁56頁→)

 満洲事変は関東軍のラジカリストによって推進されたのであるが、彼らにもっとも思想的な影響をあたえたのは、農村出身の農本主義右翼であり、彼らの実力を形づくった少壮将校や下士官のほとんど全部が農村のミドルクラスの出身であった。また「建国」された満洲国に移民していったのも農村の二男、三男であったということが、農村のミドルクラスをして圧倒的に、満洲事変を推進した軍部を支持させた。

 発生期の日本のナショナリズムは、西欧民主主義にたいする倫理的批判をもっていた。西欧の列強の「文明」にもかかわらず、それが残忍な植民地主義の上にたっていることを非難したのだった。しかし、自らが台湾をとり、朝鮮をおさめ、今また満洲を占領するということになると、当面の敵である米英にたいして倫理的な批判を加える資格を失った。西欧民主主義にたいする日本の倫理的優越は、あげてこれを天皇制に求めるという尊王攘夷論にかえらざるを得なかった。

 「大東亜戦争」の思想的な前提は、日本の全ミドルクラスを、この農村ミドルクラスの尊王攘夷論に統一することであった。

 全国の「国民学校」の入口に二宮金次郎銅像がたてられ、子供たちに朝夕敬礼をさせるというのも、農本主義的思想を、日本国民のモデル思想としたいという支配者たちの願望をあらわしたものであった。”(本書55-56頁より引用)

“ 日本のミドルクラスが正統的尊王論からいえば覇道でしかないドイツ・ファシズムにあれほど容易に共感したのは、日本のミドルクラスの伝統ともいうべき日本ナショナリズムの根底に、西欧民主主義にたいする批判が早期からふくまれていたからである。

 また敗戦後に、戦争中に総力戦を担当したミドルクラスが、米国占領軍による日本の民主化にたいして抵抗するのも、西欧民主主義にたいする不信の伝統を失わないからである。もっともこの不信は、彼らに残存する強い天皇崇拝を日本共産党が異常に刺戟したため、恐ソ反応を起こし、米国の反ソ・マヌーバーの中に蒸発してしまうのであるが。”

 

2018年に、戦後日本の革新派(旧左翼とリベラルの双方)知識人達が熱烈に「大東亜戦争」を支持してきた民衆の戦争責任を回避してきたことによって、結果的に天皇の戦争責任を追及する資格を失ったという含意で、「日本古典文化の不継承と民衆の戦争責任について」という文章を書いたが(http://bemyuh.hatenablog.com/entry/2018/05/20/205421)、松田道雄氏は流石、「民衆が戦争を支持していたこと」をごまかさない。「太平洋戦争は、昭和の日本のミドルクラスによって明治におけるよりも真剣に担当され遂行されたということである」(本書54頁)とある通り、松田道雄氏が論じているのはミドル・クラス、マルクス主義的に言えばプチ・ブルジョワの中に反西洋・反帝国主義の精神が日本の天皇ナショナリズムに吸い取られ、日本帝国主義侵略戦争をあからさまに肯定するに至ったその精神的な基盤なので、厳密には労働者農民階級の民衆の戦争責任論とは微妙に階級的基盤を異にするが、私が知る農民出身の「昭和の武人」にしても、天皇崇拝に浸りきっていたことについてはさほど違いはない。この、「西洋帝国主義の侵略性に反対するがゆえに日本帝国主義侵略戦争の肯定に至る」という、日本の中流階級ナショナリズムの在り方は水野成夫、佐野学、鍋山貞親ら、戦前の日本共産党の最高幹部が転向した際に辿った思想的な通路と全く同じである以上、戦前の日本左翼(アナーキスト共産主義者の双方)がまず問題にしなければならなかったのは、この天皇制=国体ナショナリズムの疑似反帝国主義性であった。逆にいえば、この天皇ナショナリズムの疑似反帝国主義性が侵略性以外の何物でもないことを理路整然と示すことができれば、少なくとも欧米帝国主義への批判から日本帝国主義の肯定に至った人の何割かは左翼陣営の心情的な共感者とすることができたはずである。また、戦後日本の政治過程が民衆の自民党支持にあった理由は、恐らく以上の引用部の最後の方にある通り、中流階級の西欧民主主義に対する不信感(つまり19世紀の欧米諸国は民主主義の名の下にアジアやアフリカやラテンアメリカへの侵略を続けていたこと)に求められそうだと私もここを読んで感じた次第である。

 

 

†「『浮雲』について」(62-85頁)

 

“……二葉亭は近代作家であり、革命的デモクラートであるより先に明治の知識人だったのです。明治の知識人というものを私たちは余りにも、現代的に解釈しすぎて来たと思うんです。……”(本書70頁より引用)

 

“……二葉亭というものは、今日私たちが考えているような自由思想家ではなかったと思うのです。というのは、当時ベリンスキーを読み、ドブロリューボフを訳し、チェルヌイシェフスキーを読んでおって、ロシア文学に非常によく通じておった二葉亭が、デモクラートであったのではないかとわれわれが考えているのは、これは一種の錯覚であってですね、二葉亭は決して革命的デモクラートではないのであります。……”(本書76頁より引用)

 

“ 二葉亭のインテリゲンチア論というのがあるんですが、ロシアの婦人界というのを『女学世界』に明治三十七年に書いております。

 「ロシア語でインテリゲンチャと申して翻訳してみると、まづ『有識者流』とでも申しませうか、(←78頁79頁→)二、三取除の場合は有りとして、まづ貴族の子弟であり、それが大改革後西欧の文明に接して全くその感化を受けてしまひ、貴族の子弟でありながら平民主義を主張し、平民の味方となつて戈をさかさまにして貴族を攻撃するにいたつた。……かくのごとくでありますからいはゆる『有識者流』は我国でいへばまづ」志士であります。志士の気風はことごとくそなへてゐる。」

 それから「作家苦心談」の中にもまた、

 「ロシアの小説家の重なる人々は、国柄にもよりませうが、何となく国士の風がある。救世済民の大経綸が胸に充満してゐる。」

とあります。ロシアの作家たちが国士――志士であるということはそのまま日本に受取って、インテリゲンチアが日本において救世済民をやらなければならないといううことになったらどうなるか。それは国家主義になると思うんです。二葉亭における志士的発想法というものに対して従来はあまり重視されていない。これは明治時代には誰にでもあるんだろいうふうに考えられていますけれども、やはり明治二十年代のナショナリズムの勃興ということが、志士に方向を与えたのじゃないかと思うんです。この志士的なものが彼をして、余計者の形象として現れた文三というものを拒否せざるをえなくさせた。二葉亭の『浮雲』が明治二十二年に中絶しておるという時代背景には、二十年代のナショナリズムの昂揚ということを考えないといけないと思うんです。”(本書78-79頁より引用)

 

 

“……少なくとも明治の中期では、ロシア語のインテリゲンチアは、日本語の「志士」に対応するものとして考えられ(←7頁8頁→)ていた(拙稿「『浮雲』について」)”(本書7-8頁より引用)という本書の冒頭、討幕革命の維新志士をインテリゲンチアと看做す思想的根拠が述べられている。松田道雄氏の『浮雲』論が専門のロシア文学者からどのように読まれているのかは知らないけれども、二葉亭四迷についてこういう読み方をするのはそれ自体が興味深いテーマではなかろうか。

 

†「ナショナリズムの反省と展望」(86-95頁)

“ 明治の変革を可能にしたのは、もちろん志士と呼ばれる下層の武士の先導であったが、工業化という全国的な過程を可能にしたものは、近代産業をおこし、これを管理した指導層があったからである。それがたんに資本家的地主という経済的範疇で律せられるものでなく、徳川時代から農民と領主との中間にあって、農民を掌握しながら殖産興業への道をすすみつつあった地方の「名望家」といわれる層であることを、あきらかにした伝田功氏の最近の仕事(『近代日本経済思想の研究』)の(←87頁88頁→)意義は大きい。

 郷土という地盤の上に、農民の労働力と精神を組織しえていた「名望家」こそ、富国強兵という統一目標にむかって国民の大多数を郷土ごとに動員したのであった。日本のナショナリズムのユニットは地方にあったのだ。

 日本主義者であり、同時に農学者であった志賀重昂が、日本のほこるべき伝統として風景の美をあげたのはきわめて賢明であった。日本のナショナリズムの優越が、実に郷土の美しさにあることを自然科学的に証明したからである。

 明治政府のつくりあげた支配体制の精神的支柱である君臣と父子との擬制も、この郷土的ユニットの存在を前提とし、それとの二重写しに成功したがゆえに、十分の強度をもちえたのである。

 帝国議会がひらかれて以来、国会議員として「国民の代表」となったのも、ほとんどがこの「名望家」であった。その議員たちはまた、かつての自由民権運動の、いわゆる豪農民権の時代の指導者でもあった。

 日本の旧軍人のなかの将校の多くに、地方の「名望家」の二男三男をみつけたのは私だけの経験ではないだろう。

 「名望家」たちは郷土の政治的なオルグであったばかりでなく、芸術的なオルグであったし、また、いまもある。多くの郷土芸術といわれるものが、保存され、今日育成されているのも「名望家」のもとにおいてである。”(本書87-88頁より引用)

 

松田道雄氏は志賀重昂と地主と日本ナショナリズムが実に好きなんだということがよくわかる引用部だけれども、残念ながら日本の都市のブルジョワジーは、自由主義運動においても工業化においても地主ほどの寄与を果たさなかったということは、印象論ながら私も同感である。私自身、祖父の代までは北陸の小名望家層だった家系の出身だったけれども、戦前の話を聞くに、今に比べれば地主層の威信というものは大きかったんだと感じるもの。

 

 

 

†「知識人におけるネーション」(96-108頁)

 

“ こんどの安保闘争で理科系の知識人の参加というものは、若干は見られたが、人文系の知識人にくらべれば非常に少なかった。

 さらに企業のなかで、ある程度資本と密着している知識人は、こんどの市民運動には局外に立っていた。実際は反対が多かった。(←99頁100頁→)

この知識人の配置は戦前の抵抗運動のときと同じ配置である。もちろん、こんどのような人文系の知識人の大動員というようなことはあり得なかったが、理科系の無関心、企業内知識人の反対的態度は戦前の抵抗を絶望的なものにしていた。戦前は物理的にも労働者階級は知識人と分離されていたのだから、知識人のこのような戦列配置では、たたかえなかったということは証明ずみである。

 知識人が職業人としての自覚を基盤としてたたかうためには、人文系だけでなく全部の知識人を包みこむことが必要である。そうでなければ市民運動でなく、大学職員組合運動と区別できない。安保闘争であらわれた市民運動のなかでは、知識人の運動は、共同戦線の必要上、労働者の運動と平行してしまった。このことは知識人の組む市民運動が、他の形をもち得るということを考える余裕を与えなかった。

 だから知識人の組織した市民運動が日本の政治的生活を変更しなかったのは、人文系知識人に主力をおいて、労働者の運動と平行するという戦列の組み方をしたからであるということになる。

この条件と異なった条件のもとでは知識人はもっと有効にたたかえるかもしれない。それはまだ試みる必要があると思う。”(本書99-100頁より引用)

 

ここで論じられている戦前以来の理系知識人の無関心、企業内知識人の体制化という問題は、おそらく松田道雄氏自身が理系の知識人=医者であるからこそ生まれた問題意識であろうし、理系の知識人は「科学者」にせよ、「技術者」にせよ、政治に究極的な価値を感じない人間類型だと思うので、これ自体はさほど問題にしなくてもいい気がする(というよりもどのような問題意識を持ってしても、「知識人」という資格において文系知識人と理系知識人が共同する場面が想像できない。まだ「民族」や「市民」の方が現実的だと思う)。ただ、小熊英二の『<民主>と<愛国>』(新曜社、2002年)のように、基本的には目標を達成できなかった、敗北の政治運動であった安保闘争ベ平連を以て戦後民主主義の何かしらの達成であったかのように描き出す、敗北主義的な21世紀以降の風潮を考えると、安保闘争が知識人の失敗の政治運動だったことを率直に語るこの章は広く読まれるべきだと私は思う。

 

“ 理科系知識人の職業的な自負の内容に立ち入って、若干考えてみたい。

 理科系知識人は知識人として自己を形成する過程で、人文系の知識人以上にナショナルなものにかかわる。明治以来だからそれほど永い年月ではないが、たとえば日本の工学、日本の医学としてのそれぞれの伝統ができている。日本を短い期間のうちに近代工業国に転化させたテクノロジーの進歩がそのまま日本の学者の学問開拓の歴史に重なるということは、歴史学や経済学や文学にはない。この苦難のオーバーラップが日本を近代工業国に化したものはテクノロジーの近代化であり、社会制度の点では明治二十年代以来それほど近代化はしなかったというイメージをつくった。社会の進歩をになうものは生産工業の発達であって、専制政治は必ずしもそれをさまたげるものではないという観念が理科系の知識人の頭に固定してしまったといえる。ここに彼らの生産力至上主義がうまれる。応援するものが、専制的君主であろうが、軍部であろうが、学問技術を発達させるのなら、よろこんでその支援をうけいれるという態度である。

 国の生産力を高める結果になるのならば、自分の政治的な節操は意に介しないで、それに協力するという理科系知識人の原型は、これを勝海舟榎本武揚にみることができる。”(本書100-101頁より引用)

 

先ほど私は理系の知識人は「科学者」にせよ、「技術者」にせよ、政治に究極的な価値を感じない人間類型だと述べたけれども、松田道雄氏はこの点を詳しく言語化してくれる。要するに、大多数の科学者や技術者はパトロンが誰であろうと意には介さない。それは近代科学が「善」を問わないところで成立する営みだからであろう(この点について気になる方はイマニュエル・ウォーラーステインの『ヨーロッパ的普遍主義』を読んでほしい)。1979年のイラン・イスラーム革命以後の戦闘的イスラーム主義は、欧米に留学し、欧米の自由主義社会を自ら体験してその暗部を見てきた理系の学生を引き付けたということを何かの本で読んだけれども、日本にあって、社会思想や宗教は理系の学生や科学者や技術者を、天皇制国家から引き離すほどの思想的な魅力を持たなかった。あえて言えばオウム真理教ぐらいか。それが何故かということについては私の能力では答えられないが(そういえば私の父もエンジニアだけれども、やっぱり結構保守的だもんね)、この点は興味深い課題として考えなければならないと思った。

 

“ 私がマルクス主義の洗礼をうけた一九二五、六年の頃には、国民ということばは、マルクス主義(←103頁104頁→)者の用語ではなかった。マルクス主義の宣伝家は、日本に革命がおこればソビエト日本になり、ソビエト連邦に加入すると、私たちに教えた。各民族は民族文化を保有しながら、社会主義の人民になる。ネーションということばは、国家からひきはなされて理解すべきものであり、したがってネーションの訳語は民族であって国民ではなかった。”(本書103-104頁より引用)

 

1925年頃のマルクス主義者にとってのnationの訳語は、「民族」であって「国民」ではなかったという松田道雄氏の証言は、今日「国民」を主体にして政治活動を行っている日本共産党を見るに隔世の感があるが、この訳語事情は非常に興味深いのでメモしておく。ちなみに私もnationの訳語は「民族」の方が良いと考えている。「国民」という言葉の裏にある「非国民」という言葉の含意を考えると、軽々しく「国民」という言葉を使いたくはない。

 

“ 人間がナショナル・ステートという生活単位をすててしまうという確実な証明がないかぎり、自分の「国利民福」を大にしようという「私情」は生きつづけるであろう。私たちの未来像のなかにはネーションはあいかわらず大きい部分を占めるにちがいない。

 人文系の知識人が理科系の知識人に共通の目的として示す未来像のなかにネーションとしての日本の姿をもっとはっきり浮びあがらせること、それが今日、人文系知識人に要求されている役割である。”(本書108頁より引用)

 

松田道雄氏に対して共感しつつも、戦前日本の天皇制=国体ナショナリズムが知識人・民衆を問わず、日本人を総体として「大東亜戦争」に動員したことについて、戦後日本の人文系知識人はついに切り込むことができなかった以上、私はここに全面的に賛同することはできない。戦後、「天皇制廃止」を掲げた日本共産党は民衆を「戦争の被害者」と位置付け、安保闘争等の理論的指導者となった丸山眞男と丸山に代表される戦後近代主義者は「軍部と天皇制国家によって受動的にイデオロギーを押しつけられる存在」として描き出した。その思想化の産物が平和憲法護憲論だったけれども、民衆の側の「物質的に豊かになりたいし、物質的に豊かになることは道義に優先する」という心性はでの戦前戦後通じて一貫してしまった。その心性を詩的に表現するとこうなる。

 

" 民衆の軍国主義、それは民衆の夢のゆがめられた表現にすぎません。日本の民衆の夢とは何か。(←27頁28頁→)それはアジアの諸民族とおなじく法三章自治、平和な桃源郷、安息の浄土であります。それは古くかつ新しい夢、昨日も今日も生きている夢であります。知識人すらアジアにおいては権力を離れ、素朴な田園に帰ることを生涯の魅惑としてきたではありませんか。軍国主義に全く侵蝕されない無きずの抵抗をしなかったと責める者、ある種の抵抗があったと反論する者などがありますが、どちらも私にはあまり興味ありません。国民の決定的多数を占めていた質朴、誠実な軍国主義……これが進歩と平和の側へ転じるのは理の当然であり、ありふれたこの世の真実であることを論じてもらいたいのです。"
谷川雁「東洋の村の入り口で」[『現代詩』1955年12月号初出]。谷川雁谷川雁セレクションⅡ――原点の幻視者』岩崎稔、米谷匡史編、日本経済評論社、2009年5月10日第1刷発行、27-28頁より引用)

 

谷川雁が述べた通り、「民衆の軍国主義、それは民衆の夢のゆがめられた表現」であった。日本帝国主義は日本の「民衆の夢」を捉えられたからこそ、戦争末期のイタリアのように、知識人と民衆からなる共産党パルチザンムッソリーニを処刑するということは日本ではついに起らず、日本の民衆は昭和天皇の「御聖断」まで戦争を続けようとしたのであった。

 

そしてその民衆の物質的な豊かさを求める心性は、戦前にあっては、アジア主義の名の下に進められた侵略戦争による利益分配を望んで戦争を支持するという日本帝国主義肯定に、戦後にあってはアメリカ帝国主義と結託した日本の保守エリート(自民党)が象徴天皇制の下に実現した国民統合を肯定し、朝鮮戦争ベトナム戦争を「特需」として歓迎し、水俣三里塚等で自然環境を破壊しながら高度経済成長を進めるという方向に進んでいったのだが、日本共産党や戦後近代主義者の描き出した「被害者、受動的存在としての民衆像」は、このような現実の民衆の姿に程遠いものであり、民衆自身への説得力を持たなかった。だからこそ、天皇制との戦いは、国家権力との戦いではなく、天皇制に自らの物質的利益の増大を求めて非道な手段であってもそれを肯定してしまう民衆の心性、及びそのようなエリートと民衆を生み出してきた社会に生まれ育った自分自身に対する思想闘争として始められるべきだった。しかし、左翼人士の中ではその方向性を提出できた人々は、少なくとも1945年から1970年の華青闘告発まで、谷川雁のような極少数に止まった。民衆の中に軍国主義が存在したことを認めた谷川雁でさえ、「国民の決定的多数を占めていた質朴、誠実な軍国主義」という上記の引用部の表現で示されるように、破産した農家による娘身売りが公然と行われていた戦前の日本農村の貧しさの中から、農民が救い道として見つけ出した軍国主義を農民の「質朴、誠実」の表現と捉えることによって、却ってそこにあった根源的な貧困に対する物質的な希求を見逃してしまったのではないか。戦後の農村が谷川雁の言う通りに「進歩と平和の側へ転じる」ことはなく、むしろ自民党による農協農政の下で、自民党の重要な支持基盤と化したことを考えるに、谷川雁のような人物でさえこの点を認識できなかったことに、1950年代の日本左翼の躓きがあったのではないかと私は考えるのである。

 

津田道夫の『日本ナショナリズム論――愛国心にたいする羞恥を』(盛田書店、1968年)や『腹腹時計』(1974年)など、スターリン主義者や反日アナーキストによる若干の作品を除けば、「天皇制国家とアジア諸国に対する侵略戦争に際して共犯関係にあった日本の民衆」という「大衆の原像」を、戦後左翼が築き上げるべき反天皇制ナショナリズムの原点に置くことができなかった。その上で日本共産党が主に沖縄の在日米軍基地の問題を念頭に反米主義のみを鼓吹した結果、「日本国憲法へのナショナリズム」といった日本の民衆の好戦性を問わない形でのアメリカ合衆国製の平和憲法護憲論に帰着し、そこから日本国憲法の定める象徴天皇制をなし崩し的に肯定していくという欧米型自由民主主義――西洋帝国主義の思想的基盤――への思想的降伏に至ってしまった。天皇制国家と共犯関係の下で天皇制社会を築き上げた近代日本の民衆の姿を「大衆の原像」とした上で、寺尾五郎が『革命家吉田松陰――草莽崛起と共和制への展望』徳間書店、1973年)で示したように、日本ナショナリズムを反天皇・反国体的に読み替える思想闘争が必要だったのだ。そして繰り返すが、戦後日本の人文知識人はこの課題をこなすことができなかった。その結果、日本民族侵略戦争に敗北した後も続いてしまう限り、民族の課題として果たさねばならない正義がどこにあるかも見えなくなってしまった。科学者や技術者も、科学や技術に携わる場面以外では天皇制社会の中の一個人なのだから、天皇制国家が示した正義を超える革命の正義を示す義務が、左翼知識人には存在した。その課題を果たせなかったことが現在の退廃的な思想状況を作り上げているという事実は重い。

 

 

†「戦争とインテリゲンチア――現代史と人間」(133-159頁)

“……しかし、インテリゲンチアという、思想を食って生きる動物にとって、マルクス主義が魅力であったのは、はじめて権威ある思想に接触したということであります。マル(←146頁147頁→)クス主義の思想のエネルギーに感電したといってもいいでしょう。

 『賃労働と資本』によって労働者の貧困が、支払われることなしに商品に乗りうつっていってしまった労働に原因することをはじめて知らされた時の感銘。

 『国家と革命』をよんではじめて国家の組織された暴力が何ものを守るためにあるかを学んだときの感銘。

 それらの感銘は、かつて如何なる思想も与えてくれなかった感銘でありました。

 権力をもって押しつけられた思想、たとえば忠君愛国の思想というものは知っていましたが、思想自身に権威が感じられる思想というのは、はじめての経験でありました。

 さらにマルクス主義をインテリゲンチアにとって新鮮なものとして印象づけたのは、マルクス主義によってはじめて「殉教」というものを目のあたりにみることができたことであります(「青春群像」参照)。

 インテリゲンチアにとって、マルクス主義は主観的には社会科学として受けとられたのでありますが、体験としては原始キリスト教イスラエルの人々が感じたものと同じだったに違いありません。

 インテリゲンチアにとって社会主義は、まさに救いでありました。したがって、地球上の最初の社会主義社会が存在をつづけるということは、その思想の権威のために必要でありました。”(本書146-147頁より引用)

“ 治安維持法によって共産党員にたいする死刑が定められたあとで、それを知りながら共産党に参加していくという勇気によって共産党員へのモラリッシュな尊敬が加わりました。”(本書150頁より引用)

 

松田道雄氏がここで語るのは、1923年の大杉栄暗殺後、日本アナーキズム陣営が軍部への復讐のテロリズムに走り自壊していった後、1925年以降急速に日本マルクス主義ソ連コミンテルンの権威の下で日本のインテリゲンチアの心を捉えていった様子である。今日の言葉で言えばソ連直輸入のマルクス主義は「スターリン主義」と呼ぶべきものであるが、そのスターリン主義の下で、スターリンの指導の下にコミンテルン日本支部日本共産党に加盟した共産党員に、死を恐れずに反体制運動に加わる「共産党員へのモラリッシュな尊敬」が、日本のインテリゲンチアに抱かれていたことを忘れてはならない。繰り返すが、これはスターリン主義時代にスターリンの指導下で起きた出来事である。この点を見失うと、スターリン主義をどのように捉えるべきかという認識の軸を失い、戦前はごくごくマイナーな存在にすぎなかった労農派やトロツキー主義が最初から理論的・道義的に一貫して正しく、影響力を強く保っていたかのような誤った理解に至ることになる。

 

なお、私自身に関して言えば、レーニンの『国家と革命』は、「現在ブルジョア階級に対立しているすべての階級のうちで、プロレタリア階級のみがほんとうに革命的な階級である。その他の階級は、大工業が起るとともに衰退し、滅亡する。プロレタリア階級は大工業のもっとも独自な生産物である。”(マルクスエンゲルス/大内兵衛向坂逸郎訳『共産党宣言岩波書店岩波文庫〉1971年改訳、53頁より引用)と、「その他の階級」(小工業者、小商人、手工業者、農民)に比べて格段に高い地位を与えられている近代的産業労働者=プロレタリア階級が、1848年以後の欧米の歴史の現実の過程で、革命よりも民族主義を志向し、その限りで第一次世界大戦にて戦争を推進する自国政府を支持するといった愛国主義的な傾向を持っていたことが何故なのか、その思想的基盤を論じなかった点で失敗だったし、そのようなレーニンの理論的な失敗を1920年代の日本のインテリゲンチアが認識できなかったのは残念なことだったと考えている。『国家と革命』に見られるレーニンと、レーニンの弟子のスターリンのように、国家を人民を統治する機能を持って統治機構と見る観点を徹底した時に、国家がキリスト教神道や佛教から都合の良い部分をとり出して作り上げた各国のナショナリズムを人民に注入し、人民がそれを支持するという過程がどうしても見えてこなくなる。日本のマルクス主義者でその点に最も近づけたのは、「ナポレオン的観念」という言葉で、日本の農民の天皇崇拝が日本の民衆が生まれ育った家父長制とのアナロジーによってもたらされていると認識した山田盛太郎の『日本資本主義分析』(岩波書店、1934年)であったが、残念なことに山田盛太郎は検閲を逃れて非合法の書籍を出版し、このテーマをわかりやすく人々に解説するという役割を担い得なかった。山田盛太郎の後に初めて本格的に天皇制そのものを分析した神山茂雄の『君主制に関する理論的諸問題』(地下出版、1939年)は、その刊行の意義には巨大なものがあり、統治機構としての戦前の天皇制の分析には優れたものがあるものの、山田盛太郎が「ナポレオン的観念」という言葉で表現した、民衆の天皇崇拝の根源について――それは決して封建的な江戸時代の国学そのものではなく、日本資本主義と日本帝国主義に適合した近代的なイデオロギーである――は分析を行わなかった。現在もその問題意識が日本の左翼陣営内で十分に受け継がれているとは言えず、戦前の非合法時代以来の天皇に対する感性的で無内容な罵倒を行うことこそが、反天皇制運動を推進しているかのような錯覚が満ち溢れており、厭わしいというほかない。民衆が天皇を敬愛している現実の中で天皇を罵倒することは、却って反天皇制運動の糸口を狭めてしまう。必要なのは天皇制が自由を阻害していることについての分析と、それを伝えるための冷静な語り口である。

 

“ それでは何故、日本共産党が反ファシズム反戦争の大衆的闘争を組織し得なかったかということを考えてみたいと思います。

 それは日本の共産党がまだ若くて、幹部に十分の経験がなかったとか、大経営のなかに根をおろさなかったとかいう点もありましょうが、一ばん、大衆化を妨げたものは、日本共産党が、「天皇制の廃止」というスローガンをはっきりかかげたことでありましょう。

 社会主義のなかに思想の救いを見出していたインテリゲンチアにとっては、天皇制の廃止というスローガンは魅力ではあっても、何ら心理的な抵抗を感じるものではありません。しかしながら、日本の大部分の勤労人民にとって天皇制の廃止は、およそ受けとりにくいものでありました。

 戦争が敗北におわって、連合国によって天皇の背景がバクロされ、天皇自ら神でないことを宣言したあとも、なお、共産党天皇制の廃止の呼びかけは、多数の国民の反撃にあったことを思うと、戦争の前に、日毎にその権力を絶対化しつつあった天皇というものに、公然と打倒を叫ぶ共産党が、どれほどの恐怖感をもって迎えられたかはおわかりでしょう。

 天皇制の廃止は、戦争の前の時代においては大多数の国民の感情に背馳したものでありました。

 しかしながら、歴史的にも、社会的にも、日本の人民の生活の必要の満足を妨げているものが、(←153頁154頁→)天皇制であったということは、真実であります。日本の人民は、ドイツやイタリーでファシズムがおこる前から、ファシズムとしての機能をいつでも果たし得るような、専制政治の下にあえいでいたわけであります。

 日本の人民の不幸は、この人権を無視された奴隷的な生活を、自己の誇りと考え、その象徴として天皇を崇拝していたことであります。

 戦争への準備が着々と進められ、人民の生活が窮乏にむかって押しちぢめられていくのに拘らず、日本の人民は、自己の生活を圧迫するものは支配階級の政治であるという感覚をもたずに、これを日本をかこむ外国からの圧迫の結果と感じました。この原因は、日本の勤労人民が天皇への連帯感を、ほとんど生理的感覚といっていいほど持っていたからであります。

 天皇への日本の人民の連帯の感覚がこれほど強いのは、もちろん明治以来の小学校の教育にもよりましょうし、明治以来の天皇の名と結びついた民族エネルギーの爆発的な解放感が快いアフター・イメージを残していたこともありましょうが、人民の多数を占める農民の生活環境が地主を中心とした伝統的な秩序によって貫かれて居り、日々の生活のなかに、家父長的な支配に服する慣習を再生産していたことが最大の原因でありましょう。経済学的にいえば、日本の農村の封建的構造ということになりましょう。

 そのような農村の構造の上に日本の資本主義が立っていたのでありますから、日本の資本主義自体も多分に封建的な力による歪みをうけていたわけであります。(←154頁155頁→)

 この辺の分析は三二年テーゼによってなされている通りだと思います。

 それですから日本の勤労人民の生活の必要は、客観的には天皇制の廃止を求めていたのであります。

 日本の人民を現実の不幸から解放するために天皇制を廃止すべきだということは、歴史的にはまったく正当な理論であります。しかしながら、現実においては、それは日本の人民の、いわゆる国民感情と正面から衝突するものです。大多数の人民の気持に反するスローガンをかかげるならば、人民の支持をうけられないことは確実であります。

 日本共産党は、ここで二つのうちのどちらかを選ばねばならないことになったわけです。自己の主義にもとづいて真実を告げるか、あるいは真実を伏せて国民感情に順応しながら、可能な範囲でのひろい反軍的人民戦線を結成するかであります。”(本書153-155頁より引用)

 

明治時代の終わりに起きた大逆事件の中で、幸徳秋水以下、日本の主要な社会主義者アナーキストマルクス主義者の双方)が、「天皇に対する謀反人」として天皇制国家によって処刑されて以来、日本に於ける左翼人士の課題は、天皇制国家と戦わなければ革命ということは考えられないが、日本の人民の大多数は天皇を崇拝し、資本家や地主に対する左翼の反抗については喜ぶ労働者と農民も、天皇に対する左翼の反抗については謀反人として憎悪するという天皇制社会の現実の中でどのように振舞うべきかということであった。松田道雄氏はここで、民衆を搾取する主体が天皇制国家でありながらも、民衆の憎悪は日本を取り巻く諸外国に向かい、日本の支配階級や天皇には向かわないという1920年代~1930年代の日本の現実の中で、日本共産党はどのように振舞うべきだったかを問題にしている。つまり、「天皇制打倒」を掲げて人民から孤立し玉砕するか、「天皇制打倒」を隠して広汎な反戦・反軍戦線を結成するか、どちらを選ぶかということである。私見では、後者の「真実を伏せて国民感情に順応しながら、可能な範囲でのひろい反軍的人民戦線を結成する」(本書155頁)路線が正しかったと思う。ただし、この方策にあたっても、合法無産政党中間派の日本労農党の麻生久が、労働者農民階級の生活向上のための同盟者として軍部を選び、日本の民衆の天皇崇拝を軸に日本帝国主義を肯定していったことを思うと、天皇制に反対することこそが、戦前日本における共産主義運動が唯一持っていた社会的な意義であったということは決して忘れてはならない。天皇制に対する敵意を失った途端に、麻生久や水野成夫、佐野学、鍋山貞親のように、労働者農民階級の生活向上の名の下に日本帝国主義を肯定するという方向に吸い寄せられる危険性は強く存在した。だから、日本共産党が当時行わなければならなかったことは、「天皇制打倒」を掲げずに天皇制と戦うこと、否、「天皇制打倒」を掲げては天皇制社会とは戦えないということをまず認識することであった。天皇制と戦うために「天皇制打倒」のスローガンを下す。この前提から反戦・反軍の人民戦線を結成する方向に進んでいけば、敗北するにしてももう少し別の在り方があったのではないか。なお、上記引用部の32年テーゼ解釈は講座派マルクス主義者山田盛太郎の『日本資本主義分析』(岩波書店、1934年)そのままであると見受けられる。山田盛太郎の戦前日本資本主義論が上訴のまま通用するとは思わないが、著者のように戦時中を過ごした日本の知識人にとって、講座派と山田盛太郎の権威には驚くべきものがあったのであろう。

 

“ 天皇制の廃止のスローガンを共産党が戦後にはじめて掲げたならば、それは階級政党の伝統として人民にうけとられずに、単なる占領政策と解され、将来に禍根をのこしたでありましょう。

 戦争の前に、あるいは戦争の最中に有効な反戦闘争を組織し得なかったという共産党政治責任(←156頁157頁→)はたしかに存在はしましょう。しかしながら責任が存在しても、その責任を果たすべき能力が客観的に与えられていないという場合は、それは責任無能力として責を果たし得なかった罪から免ぜられるでありましょう。

 たしかに満洲事変がはじまった一九三一年以後においては、共産党は責任無能力といっていいほど微力でありました。

 問題は三・一五と四・一六との間、一九二八年から一九二九年のはじめまでの時期にあったと思います。共産党の大衆化という線でいくか、一歩退いて社会民主主義の線で合法的運動をすすめるかという点であります。

 その時の論争は、新党をきずいて労働者、農民、小市民の共同戦線を展開しようという河上肇先生と共産党との間に行われたわけでありますが、この論争をもっと深く、しかも、もっと寛容をもって行うべきでありました。

 もっと深くというのは、共産党以外の組織はすべて社会民主主義の組織であり、資本家の組織であるという断定をもって進まないで、日本の勤労人民の意識の深層を規定しているものが何であるか、そういう意識下にあるものから改めていくにはどういう戦術が必要かという問題に触れるべきでした。

 寛容をもってというのは、理論の正しいか正しくないかを、コミンテルンにつながるかつながらぬかというような組織問題と同一視することなしに論争をすすめるべきでした。(←157頁158頁→)

 党以外の人間が中心になって展開する自主的政治運動をもって反動的であるという、党の方針に、当時のインテリゲンチアは拍手をおくり、河上先生らの新党運動にたいしてはげしく反撥しました。

 日本の人民の表面にあらわれた意識の問題だけしかとりあげず、それらは理論によって説得できると考えたのは、インテリゲンチアが、インテリジェンスを重要視しすぎていたということです。日本の労働者、農民は、インテリゲンチアのように、マルクス主義のように電撃的ショックを感じる、思想を食って生きる人間ではなかったのであります。

 共産党はプロレタリアのヘゲモニーを、党の大衆化という線でおしすすめ、それによって天皇制こそ日本人民の不幸の根源であるという真実を示すことで道義的責任を果たしました。だが、それによって孤立し、弾圧の前にくずれ去り、党以外の自主的な動員組織をつくる時期を失わしめ、広い反軍運動を展開する政治的責任を果たし得ませんでした。

 三・一五事件のあとで起った決定的な瞬間において、党がそのような政策をとったことが果たして政治的に正しかったかどうか、そのへんのことを、専門の現代史家はもうすこしはっきりしらべてほしいと思います。

 少くともインテリゲンチアとして、終始、共産党の動きを注目していた私には、その時ならば、まだ、広汎な反軍運動を展開するチャンスがあったと感じられました。

 以上いったことから結論めいたことをひき出すとすれば、昭和のはじめの戦争反対の運動が成功しなかった理由は、プロレタリアのヘゲモニーの思想に執着して、日本共産党が、人民の自主的な(←158頁159頁→)運動の指導を独占しようとしたことが一つ。

 いま一つは、日本のインテリゲンチアが、プロレタリアにたいして不必要な劣等感を抱いて、自主的な反戦運動を、適当な時機に組織しなかったこと。

 以上であります。

               (一九五六年七月二十七日、立命館大学第七回夏期日本史公開講座で口述)”(本書156-159頁より引用)

 

 

フルシチョフによるスターリン批判が世界的に知られたのは1956年6月5日だったので、1956年7月27日に行われたこの講演は、日本共産党スターリン主義の汲むべきところを汲みつつ、一定の擁護を行うということが主目的だったのであろう。およそ今日まで、反共産党系のブント諸派革マル派中核派毛沢東派など、すべてのマルクス主義党派に共通する病理が1956年の時点で認識されていたことが感慨深いが、” 日本の労働者、農民は、インテリゲンチアのように、マルクス主義のように電撃的ショックを感じる、思想を食って生きる人間ではなかったのであります。”(本書158頁)という著者の言葉に、やはり日本のインテリゲンチア出身の革命家達が躓いたところがあったのだと感じざるを得なかった。

 

トゥハチェフスキー粛清事件に見られる民衆のスターリン支持について――クロンシュタット叛乱を偲ぶ

「赤いナポレオン」こと、ソ連赤軍元帥ミハイル・トゥハチェフスキーが1937年6月にスターリンに粛清(処刑)された際に、当時の日本の左翼文学者たちはこの事件を以下のように捉えたとのことである。

 

“ 昭和十年代の初頭において、左翼的あるいは同伴者的知識人の間に政治にたいするアパシーを増大させたのは、たんに運動にたいするあい重なる弾圧と、運動内部から巨頭の続々とした転向だけがきっかけとなったのではなかった。そこにはトータルな「理論」によって裁断され、余り切れとして下意識の世界に埋積した非合理な情動が、運動の下降によって急激に意識化(←90頁91頁→)され、それが「理論」と等式に置かれた「政治」にさまざまの形で復讐したという要因があった。とくに転向し脱落しながらも依然として心の底にコンミュニズムという「信条」の炎を燃やしつづけて来た作家に深い衝撃をあたえたのはソ連におけるトハチェフスキー事件の報道であった。一部の旧プロ作家(引用者註:「プロレタリア作家」の略)がもともと反政治的な「文学主義」の旗をかかげていた小林秀雄ら『文学界』の主流の路線に思想的に一層接近するようになった少なからぬ動機はこの報道にあった。けれども彼等の衝撃の核心は、たんに実際政治の生々しいリアリティをあらためて思い知らされたための嫌悪と恐怖だけにあったのではなく、昨日までの同志にたいするあの大粛清が自他ともに許すマルクス・レーニン主義の最高の理論家の決断として行われたという問題に否応なくつきあたったところにあった。”

丸山真男『日本の思想』岩波書店、1961年11月20日第1刷発行、90-91頁より引用)

 

要するに、トゥハチェフスキーやその他のボルシェヴィキに対する大粛清が、「自他ともに許すマルクス・レーニン主義の最高の理論家」、同志スターリンによって行われたことがきっかけで、当時の日本の左翼文学者は否応なしにマルクス主義の理論そのものを懐疑し、小林秀雄らの当時のメインストリームの文学路線に走ったとのことである。

 

ちなみに旧プロレタリア作家たちが接近した小林秀雄はトゥハチェフスキーが粛清(処刑)されてから1月後の1937年7月7日に盧溝橋事件が勃発し、日中全面戦争に突入する世相の中で、このように述べている。

“ 戰爭に對する文學者としての覺悟を、或る雑誌から問はれた。僕には戰爭に對する文學者の覺悟といふ樣な特別な覺悟を考へる事が出來ない。銃をとらねばならぬ時が來たら、喜んで國の爲に死ぬであらう。僕にはこれ以上の覺悟が考へられないし、又必要だとも思はない。一體文學者として銃をとるなどといふ事がそもそも意味をなさない。誰だつて戦ふ時は兵の身分で戦ふのである。

小林秀雄「戰爭について」『新訂小林秀雄全集第四巻――作家の顔』新潮社、1982年10月30日4刷、288頁より引用。)

 

「一体文学者として銃をとるなどという事がそもそも意味をなさない。誰だって戦う時は兵の身分で戦うのである」(新字新仮名に修正)と小林秀雄が断言している通り、文学者として眼前の中国との全面戦争にどう向き合うかという発想は、当時日本学のメインストリームだった『文学界』にあってはほとんど考えられなかったことなのであろう。トゥハチェフスキー粛清事件に衝撃を受けて小林秀雄路線に接近した当時の左翼文学者が、小林秀雄のように兵の身分で戦争に臨もうという発想に至ったのは想像に難くない。

 

さて、以上のようにトゥハチェフスキー粛清事件は、日本共産党の壊滅後にも心の奥底で共産主義を堅持していた日本の左翼文学者の中で、その奥底を揺るがせるに足る破滅的な事件として捉えられたが、他方、ソ連本国ではまた違った見方がなされていた。当時のソ連社会の雰囲気について、以下のような研究が存在する。

 

“ このトハチェフスキー事件は、ソ連邦国内はもちろん諸外国にも深刻な影響を与えた。国内では、各労働組合が一斉にソ連軍将星の驚くべき裏切り行為に非難の声をあげ、続々と職場会議を開いて銃殺に賛成の決議をスターリンにおくった。パリ・コミューン工場の労働者や、オルジョニキッゼ記念工場労働者たちが、その先頭にたっていた。”

(菊地昌典『増補・歴史としてのスターリン時代』筑摩書房、1972年3月25日初版第1刷発行。)

 

トゥハチェフスキー粛清事件によって、日本の左翼知識人が自らが心の奥底に抱いていたマルクス主義への信条を揺るがせたのに対し、ソ連国内ではむしろトゥハチェフスキーへの情状酌量や真相調査を求める声よりも、裏切り者を処刑せよという反応が一般的であり、しかもそれがプロレタリア(近代的産業労働者)階級の支持の下に行われたということである。

 

これは完全に私の予想で資料上の根拠はないけれども、恐らくは、トゥハチェフスキーのみならず、ブハーリンやクン・ベーラ等の大物共産主義者に対するスターリンの大粛清について、1930年代のソ連社会内にはそれを歓迎する雰囲気があったのではないか。私自身には大粛清に際するソ連の労働者の心性について、詳しい史料的な事実を調査した経験もその予定もないが、そのような印象を抱かせるに足るのは、以下に示すソ連崩壊後の2000年代のロシアの労働者のスターリン観である。

 

" 一九九一年以降、大半の人にとってレーニンはもはや羨望の対象ではなく、ソ連末期でさえボリシェヴィキ革命の神話全編がその正体をあばかれていた。十年一日の如く、レーニン廟は赤の広場に――ロック・コンサートが開かれ、軍人風の刺青が目につき、冬には大勢の一般客がスケートを滑っているようなところで――場違いなまでに佇んでいる。対照的に、スターリン本人や現在のロシアの政権による彼の評価に対する民衆の態度は、非常に興味深く、いろいろ考えさせられる。両者ともに典型的なボリシェヴィキであったが、レーニンが帝国の破壊に従事した一方、スターリンは帝国の建設者となった。

 ソ連解体後、スターリンの人格や役割をめぐるロシア人の評価は真っ二つに分かれている。二〇〇九年八月の世論調査では、一二%が彼を国家的な犯罪者として断罪するとし、二六%がどちらかといえばこの意見に近いとしている。しかし、回答者の一二%が有罪という判断に反対であるとし、概してこの見方に近いとする人々も三二%にのぼる。

 これと一対の、ロシアの歴史に対するスターリンの貢献の評価に関する調査では、四九%が彼の貢献を肯定的と捉えたのにたいし、四二%が否定的に考えていた。二〇〇三年の五三% 対 三三%という数値から若干の変動があったということになる。スターリンの名は、大祖国戦争独ソ戦〕、そして大半のロシア人によって共有され、いまなお語り継がれる国民的神話である一九四五年の対ナチス・ドイツ戦勝と密接(←349頁350頁→)に結びついている。

 一部の人々が疑念を抱いたように、ロシアのテレビ局による視聴者投票の操作がなかったとすれば、実際にはスターリンがおそらく史上最も人気のあるロシアの指導者となっていたであろう。「大衆」は、秩序の回復――人気漫画の台詞に「彼ならその『悪(テロ)』とうまく戦う方法を知っている」とある――、汚職の撲滅、上司の横暴阻止を願って、スターリンの方を向いているのである。多くの一般人は、それぞれの立場で、スターリンをまずもって帝国の建設者、そして戦時指導者と見ているのである。彼らにとって、スターリンとは強い国家、完璧に近い秩序、さらには畏怖の念を抱くような帝国の象徴でもある。

 興味深くかつ印象的なことなのだが、新時代の識者による歴史論争でレーニンは目立つ存在ではなかった。トロツキーにいたっては言うまでもなく、存命中に成し遂げたことよりも、どんな死に方であったかに注目が集まっている。共産主義や革命にかかわったエリートや指導部は、ますます見向きもされなくなる。全人口中、二九%がボリシェヴィキ革命について社会・経済の発展の方向性を決めた事件と考えているが、二六%はそれを発展の障害ないし破滅とさえ見做している(同じくらい優勢なグループが、革命を「新しい時代」の先行きを示したものとしている)。破壊者としての革命家とは一線を画し、スターリンや彼のもとで働いた閣僚、科学者、将軍たちは国家や帝国の建設者として見られている。スターリンの犯した罪は白日の下にさらされているが、多くの人にとって、それらは彼の成し遂げたとされる事業を帳消しにするものではない。時間の経過とともに、スターリンの業績を評価するのが妥当であり、彼の罪状は当時の残虐性全般に帰するものとされるようになった。

(ドミートリー・トレーニン/河東哲夫、湯浅剛、小泉悠『ロシア新戦略――ユーラシアの大変動を読み解く』作品社、2012年3月15日第1刷発行、349-350頁)

 

ドミートリー・トレーニンが報告する通り、2000年代のロシアの民衆はスターリンを肯定する声と否定する声がほぼ半々に分かれており、スターリンを肯定する半数の人々は、スターリンが行った大粛清や農業集団化の事実を知った上で「当時の残虐性全般」(いうまでもなくナチス・ドイツによる大虐殺であろう)の中にそれを位置付け、事実上免責しているのである。とりわけ、「汚職の撲滅、上司の横暴阻止を願って」スターリンの方を向いているロシアの民衆の中には、トゥハチェフスキーを「横暴な上司」として捉えた上でそれを阻止したという点で、スターリンを評価するという視点も存在するのではないかと考えた方が自然だと思うのだ。

 

事実としての大粛清が多数の死者を出した凄惨な事件であったことは疑いないものの、その大粛清をして近代的産業労働者=プロレタリアート自身が「(自ら指導者による)汚職の撲滅、上司の横暴阻止(の実現)」と解釈する場合、恐らくこれはマルクス主義の枠組みの中では批判できないと私は考えている。というのも、マルクスエンゲルスの『共産党宣言』には、

 

“ 現在ブルジョア階級に対立しているすべての階級のうちで、プロレタリア階級のみがほんとうに革命的な階級である。その他の階級は、大工業が起るとともに衰退し、滅亡する。プロレタリア階級は大工業のもっとも独自な生産物である。

 中産階級、すなわち小工業者、小商人、手工業者、農民、これらはすべて、自分たち中産階級としての存在を破滅から守るために、ブルジョア階級と闘う。したがってかれらは革命的ではなく、保守的である。なおそれ以上に、かれらは反動的である。なぜなら、かれらは歴史の車輪を逆にまわそうとするからである。かれらが革命的であるばあい、それは自分の身に迫っているプロレタリア階級への移行を顧慮してのことであり、かれらの現在の利益をではなく、未来の利益を守るためであり、かれら自身の立場を捨ててプロレタリア階級の立場に立つのである。

 ルンペン・プロレタリア階級、旧社会の最下層から出てくる消極的なこの腐敗物は、プロレタリア革命によって時には運動に投げこまれるが、その全生活状態から見れば、反動的策謀によろこんで買収されがちである。

マルクスエンゲルス/大内兵衛向坂逸郎訳『共産党宣言岩波書店岩波文庫〉1971年改訳、53頁より引用)

 

という記述により、「プロレタリア階級」には、「その他の階級」(小工業者、小商人、手工業者、農民、ルンペン・プロレタリア)に比べて格段に高い地位を与えられているが、プロレタリア階級に「労働者の敵を粛清することこそが革命だ!」と開き直られた場合(21世紀になっても続いているロシアの民衆のスターリン崇拝はそういうことだと私は考えている)、この『共産党宣言』の原則的立場に忠実なマルクス主義者なら「労働者の意志」に引き摺られざるを得ないと、私は考えるからである。少しだけ寄り道すると、1848年の『共産党宣言』刊行から50年以上経った1902年の時点では、すでに先進資本主義国となり、労働者が経済成長の恩恵を受けて生活条件を向上させていたドイツやイギリスや北アメリカでは、この「プロレタリア階級のみがほんとうに革命的な階級である」という『共産党宣言』の断言は成立しなくなっていた。ロシアのレーニンはこの事態に際し、カウツキーに依拠して「階階級的・政治的意識は、外部からしか、つまり経済闘争の外部から、労働者と雇い主との関係の圏外からしか、労働者にもたらすことができない」(ヴェ・イ・レーニン村田陽一訳『なにをなすべきか?』大月書店〈国民文庫110〉、1971年7月30日第1刷発行、121頁より引用)と述べ、現実の労働者の意識が『共産党宣言』にあるような革命的な意識ではない場合、革命的な階級的・政治的意識を外部の前衛党(共産党)から労働者に持ち込むことを主張したが、後述するようにこれはさらに大きな問題をもたらすものであった。

 

以上でスターリンによるトゥハチェフスキー粛清事件に対しての受け止められ方がソ連の内外でかなり異なったことと、近代的産業労働者=プロレタリア階級に対して、「プロレタリア階級のみがほんとうに革命的な階級である」(『共産党宣言』)という評価を与え、その評価の延長線上に「国家の死滅」(エンゲルス『反デューリング論』)までの一時的な状態として「プロレタリア独裁」を肯定するマルクス主義の枠組みの中でそれを否定するのは困難なのではないかという私の議論は終わりだが、全体の文脈の中で内戦中に「赤いナポレオン」として軍功を立てていた時期のトゥハチェフスキーについて述べたいことがもう一つある。

 

1921年3月1日、レーニン率いる共産党ボルシェヴィキ党が「プロレタリア独裁」の名の下に旧帝政派の白軍や社会革命党(エス・エル)、メンシェヴィキ(西欧型マルクス主義者)、アナーキストウクライナのマフノ軍団)といった諸党派に対する攻撃を繰り広げていた最中、ソ連北方のクロンシュタット軍港にて、アナーキズムに影響された水兵達が共産党政権に対する反乱を開始した。勝田吉太郎氏はこの様子をこのように描いている。

 

“……三月一日に全軍艦と要塞守備兵から集った一万六〇〇〇人の水兵が大会を開いた。秘密投票によるソヴェトの即時改選、一切の労働者と農民に対する、またアナーキストと左翼エス・エル党に対する言論出版の自由、労働組合および農民団体への集合の自由、全政治犯の釈放とその調査委員会の設置、「政治局の廃止」、――「けだしいかなる政党もその理念の宣伝に特権をもつべきでなく、かつその目的で国家から資金を受けとるべきではないからである」――、軍隊内における共産党選抜隊および工場内における共産党(←237頁238頁→)守備隊の廃止などを含む十五の要求が決議された。水兵たちが掲げた要求は、当初からアナーキスト的傾向を帯び、大会の議長ペトリチェンコはじめ多くの指導者たちは、アナーキストのシンパであった。”

勝田吉太郎アナーキスト筑摩書房、1966年11月30日初版第1刷発行、237-238頁より引用)

 

3月7日にクロンシュタットの叛乱水兵は軍港新聞「イズヴェスチヤ」第5号にて「第三革命」(1905年、1917年の革命に続く第三のロシア革命の含意)を宣言し、彼らが共産党赤軍に鎮圧される前に発行した新聞の最後の号となった1921年3月16日発行の「イズヴェスチヤ」第14号には、レーニン共産党政権に対する体系的な批判が述べられている。興味深いので以下に引用する。

 

 

“ 「十月革命をなしとげるにあたり、赤軍の水兵と兵士たち、労働者と農民たちは、ソヴェトの権力樹立のため、労働者の共和国建設のため、血を流した。共産党は、大衆の希求に注意を注いだ。党は、労働者たちの熱意を喚起させる魅力的なスローガンを旗印に記して大衆を闘争に引き入れ、ボリシェヴィキだけが建設できる美しい社会主義の王国へと導くであろうと、大衆に約束した。……

 巧妙な宣伝にあやつられて、労働者階級の息子たちは党の陣列へ引き入れられ、厳格な規律に服することになった。次いで、共産党は十分に強大となったと感じはじめるや、まずはじめに他の諸傾向の社会主義者たちを権力から斥け、その後労働者と農民を国家の多くの職務から逐い出し、しかも今なお労働者・農民の名において統治しつづけている。……あらゆる理性に違反し、労働者たちの意志を無視して、自由な労働にもとづく社会を建設する代りに、彼らは(←241頁242頁→)奴隷制に基礎をおく国家社会主義を頑固に築こうとしはじめた。

 産業が、いわゆる《労働者管理制》の導入にもかかわらず、完璧に解体させられるや、ボリシェヴィキは工場施設の国有化をうち立てた。かくして労働者は、資本家の奴隷から国営企業の奴隷へと転化した。やがて事態はこれだけですまず、彼らはテイラー・システムの適用さえ計画するようになったのだ。

 全農民大衆は人民の敵と宣言され、《クラーク》(富農)と同一視された。ついで共産主義者たちは進んで農民を破滅に導き、ソヴェト型搾取を導入した。つまり、新しい農業の高利搾取者たる国家の所有地を生み出したのだ。農民が多年待望してきたところの解放された土地における自由な労働の代りに、彼らがボリシェヴィキ社会主義から得たものは、これだけでしかなかった。パンと家畜はほとんど残りなく徴発され、その代償に農民が得たのはチェカの襲撃と大量射殺であった。パンの代りに弾丸と銃剣――これが労働者の国家における、ありがたい交換制度であった!

 市民の生活は、当局の規制にがんじがらみにしばりつけられ、死ぬほど単調かつ凡庸なものに転化してしまった。確認の自由な労働と自由な発展によって活気づけられた生活の代りに、未曽有の、かつ信じられないほどの隷従が発生した。一切の自由な思考、犯罪的支配者たちの行為に対するすべての正しい批判が犯罪とみなされ、投獄に、しばしば死刑にさえ処せられる結果となった。実際、この人間性に対する恥辱である死刑は、《社会主義の祖国》において広(←242頁243頁→)範に拡がった。

 これこそが共産党の独裁によってもたらされた社会主義の美しい王国の真相なのだ。われわれが得たものは、当局とその絶対不可謬を自称する人民委員たちが命令するままにおとなしく票を投じる官僚的ソヴェトを従える国家社会主義なのである。《働かざるものは食うべからず》というスローガンは、このうるわしい《ソヴェト》政権の下で、《あらゆるものを人民委員へ》というスローガンに修正されてしまった。労働者、農民、知識労働者の運命は、牢獄のなかで与えられた仕事を履行することでしかないのだ。

 これは、もはや堪え難いものとなった。革命的クロンシタットこそは、この牢獄の鎖と鉄格子とを打破せんとする最初のものとなった。それ(革命的クロンシタット)は、生産者自身が自己の労働生産物の所有者となり、彼の欲するままにそれを処分しうる、労働者の真のソヴェト共和制を実現すべく闘争するものである。”

勝田吉太郎アナーキスト筑摩書房、1966年11月30日初版第1刷発行、241-243頁より引用)

                

既に赤軍の指導者であったトロツキーは3月6日にラジオでクロンシュタットの叛乱水兵への投降を呼びかけていたが、この「イズヴェスチヤ」第14号が発行されたのと同じ1921年3月16日に、第7軍司令官トゥハチェフスキー率いる赤軍のクロンシュタット総攻撃が開始された。

 

“ こうした事実(引用者註:クロンシュタットの新聞「イズヴェスチヤ」紙が攻撃側である赤軍将兵に広く読まれていたという事実)を知りぬき、また、編制、補給、士気向上にかんしてすべての必要な措置をとった後で、第七軍司令官トゥハチェフスキーは、三月一五日、その有名な命令を発した。彼は、三月一六日夜から一七日にかけての一斉総攻撃よってクロンシュタットを占領すべし、と命令したのである。第七軍の全連隊が、手榴弾、白い上着、有刺鉄線切断用の剪断機、それに機関銃運搬用の小橇で装備された。

 トゥハチェフスキーの作戦は、南面より決定的な攻撃を開始し、そののちほかの三面より、同時に大兵力を投入した突撃を慣行してクロンシュタットを占領する、というものであった。

(中略)

 市街戦は恐るべきものであった。赤軍兵士はその将校を失い、赤軍兵士と防衛軍は形容しがたい混乱のうちに、まじり合ってしまった。敵味方の区別がまったくつかなくなってしまったのである。市内の一般住民は、銃撃にもかかわらず政府軍部隊と親しく交歓しようと試みた。臨時革命委員会のビラは、依然として撒かれていた。水兵たちは、最後にいたるまで、兄弟的な交歓を求め続けたのであった。

(イダ・メット/蒼野和人、秦洋一訳『クロンシュタット叛乱』風塵社、2017年12月31日第1刷発行[鹿砦社より1971年に刊行された書の復刊]、70頁、71頁より引用。)

 

攻撃の結果、3月21日までに黒色水兵達の叛乱はソヴィエト赤軍によって鎮圧された。後年スターリンによって粛清されることになるトゥハチェフスキーとトロツキーは、自らの勇名を輝かせた内戦時に、レーニンの掲げる「プロレタリア独裁」の下でクロンシュタットのアナーキスト水兵を虐殺・追放してソヴィエト権力の確立に寄与したのであった。ちなみにトロツキースターリンによってソ連を追放された後、1938年1月15日に亡命地のメキシコのコヨアカンでこのように述べて自己の立場を正当化している。

 

“ クロンシュタット蜂起が、何故にアナキストメンシェヴィキ、そして《自由主義的》反革命派に、まったく同時に痛みを感じさせることができるのだろうか? 答えは簡単だ――こうした連中は皆、その旗を決して見捨てたことがなく、敵と決して妥協したことがなく、未来を代表する、唯一の純粋に革命的な潮流(引用者註:トロツキー自身が結成した第四インターナショナルのことか)を貶めることに関心を抱いているのだ。私のクロンシュタットにかんする《犯罪》を今頃になって非難する連中のなかに、かつての革命家もしくは半革命家――綱領も原則も喪失し、第二インタナショナルの堕落やスペインのアナキストの裏切りから目をそらさせることが必要だと考えている人びと――が、かくも多いのはこのためなのである。

(中略)

 クロンシュタットをめぐる現在の論争は、水兵の反動分子がプロレタリア独裁を転覆しようとした、かのクロンシュタット蜂起そのものと同様の階級軸のまわりを回っている。小ブルジョア的俗物や折衷主義者は、こんにちの革命的政治の領域では無能であることを自覚しているので、古ぼけたクロンシュタットのエピソードを第四インタナショナル、すなわちプロレタリア革命の党にたいする闘争に利用しようというのである。この当世風の《クロンシュタット一派》もまた粉砕されるであろう――実に幸いなことに彼らは要塞をもっていないので、武器を使用することもなく……”

(レオン・トロツキー/秦洋一訳「クロンシュタットをめぐる非難・弾劾」イダ・メット/蒼野和人、秦洋一訳『クロンシュタット叛乱』風塵社、2017年12月31日第1刷発行[鹿砦社より1971年に刊行された書の復刊]、152頁、169頁より引用。)

 

 

 

1971年の時点でトロツキー主義を擁護する立場に立っていた湯浅赳男氏(はこの件について、1921年にあって、ロシア労働者国家を防衛できたのはレーニンボルシェヴィキだけだったとして、これを苦渋の立場から肯定している。

 

“ しかしながら私は、こうした見解(引用者註:クロンシュタットで共産主義政権に叛乱した水兵を擁護するアナーキストやイダ・メットらの見解)が一九二一年に勝利を占めたならば、ロシア労働者国家はおそらく崩壊していたであろうと判断する。なぜならば、クロンシュタットの叛乱の根は決して局地的なものではなく、まさしくそれは全国的な危機であったであろうからであり、しかも、叛乱者はロシア労働者国家の指導を引き受ける用意がまったくなかったと判断されるからである。すでにアナキストも、エス・エルも、メンシェヴィキも大衆によってテストされ、その正体を暴露したのが一九一七年より二〇年に至るまでの歴史ではなかったか。反革命の攻撃よりソヴィエト政権を防衛しえたのはボリシェヴィキ党ただ一つであったことも、歴史が明確に示しているところではないか。したがって、二一年の危機の段階において彼らが進出したとしても、それがロシア労働者国家を防衛しえたとは想像することさえ不可能である。この意味で、レーニンの次の言葉はおそらく正しいものであったろう。すなわち、「彼らは確かに白軍を欲してはいない。しかし、彼らはわれわれの政権をもまた欲していないのだ。」「われわれは商業(←183頁184頁→)の自由を要求し、プロレタリアートの独裁に抗議する民主主義的小ブルジョアのデモに直面しているのだ。しかし無意識に、彼らは白軍の踏み段、椅子、架け橋として役立とうとしているのだ。」”

(湯浅赳男「ロシア革命における《一九二一年》」イダ・メット/蒼野和人、秦洋一訳『クロンシュタット叛乱』風塵社、2017年12月31日第1刷発行[鹿砦社より1971年に刊行された書の復刊]、183-184頁より引用。)

 

同時代の大杉栄はクロンシュタット叛乱の鎮圧の翌年に当たる1922年に、「労農政府すなわち労働者と農民との政府それ自体が革命の進行を妨げる最も有力な反革命的要素であることすらわかった…(中略)……ロシアの革命は誰でも助ける。が、そんなボルシェヴィキ政府を誰が助けるもんか」(大杉栄「生死生に答える」初出『労働新聞』1922年9月号、飛鳥井雅道編『大杉栄評論集』岩波書店岩波文庫〉、1996年8月20日第1刷発行、255頁より引用)と述べ、レーニントロツキーらが「プロレタリア独裁」の下で行った行為の権力性を批判している。湯浅氏自身は大杉について直接は言及していないが、上記の引用部で湯浅氏が「こうした見解」と呼んで否定する見解の一部であろう。私として湯浅氏の見解について思うことは、「ロシア労働者国家の指導」における優位性を共産党のみが有しているという判断から、「プロレタリア独裁」の名の下に、レーニントロツキーやトゥハチェフスキーによるクロンシュタット叛乱の大弾圧を容認するならば、同じ「ロシア労働者国家の指導」を理由に「レーニンの弟子」ことスターリンがトゥハチェフスキーやトロツキーを粛清したことについても、根源的な部分での批判はできないのではなかろうかということである。

 

「階級的・政治的意識は、外部からしか、つまり経済闘争の外部から、労働者と雇い主との関係の圏外からしか、労働者にもたらすことができない」(レーニン『何をなすべきか?』)というレーニンの規定を「科学的社会主義」の前提とする限り、クロンシュタットで労働者や農民出身の水兵達が共産党政府に対して自由の拡大を求めて叛乱しようとも、その叛乱を弾圧する側の共産党が「階級的・政治的意識」を労働者に対して「外部から」もたらす存在である以上、仮に現実の労働者の叛乱を暴力で抑え込もうとも、共産党の主観的には労働者階級の意識の貫徹ということになってしまう。労働者としての適切な階級的・政治的意識は、労働者の外部からしかもちこめないのだから、労働者の主観は却って不必要なものになるという驚くべきエリート主義の表現なのである。レーニンも主観的には「労働者階級の利益」について考えてはいただろうけれども、その主観が現実の労働者が見聞する事実を交えないでも成立する性質である以上、「労働者階級の利益」の名の下に、知識人出身の革命家によるどこまででも独善的な党利党略の追及が、主観的には労働者階級へのパターナリズムの実現として可能になってしまうという恐るべき事態が生起する。

 

そしてさらに言えば、既に引用した通りドミートリー・トレーニンによれば、2000年代のロシアにおいて、”多くの一般人は、それぞれの立場で、スターリンをまずもって帝国の建設者、そして戦時指導者と見ているのである。彼らにとって、スターリンとは強い国家、完璧に近い秩序、さらには畏怖の念を抱くような帝国の象徴でもある”とスターリンを認識しているという事実が存在する。湯浅氏のように、「ロシア労働者国家の防衛」を評価するならば、1930年代にスターリンが農業集団化により農民を犠牲しながら重工業化を推進したことによって、ナチス・ドイツから「ロシア労働者国家を防衛」する基盤を築き上げ、ファシズムを打倒したことについて、スターリンの実績を疑うことはできないのではないかと、ロシアの民衆の中でスターリンを高く評価する人々と同様に、考えざるを得ないと思うからである。スターリンは生前、ドイツの作家のインタビューに答えて「私はレーニンのでしにすぎません。私の生涯の目的は彼のりっぱなでしになることです。」(スターリン全集第13巻、124頁)と述べていたが、スターリンの行ったことはクロンシュタットの叛乱水兵の武力鎮圧を決断した師レーニンの継承であり、マルクスレーニンの弟子としての立場に忠実だった結果が、スターリンの大粛清だったのではないか。

 

スターリンが「階級的・政治的意識は、外部からしか、つまり経済闘争の外部から、労働者と雇い主との関係の圏外からしか、労働者にもたらすことができない」(レーニン『何をなすべきか?』)という前提の下で、大粛清や農業集団化などで多くの犠牲を出しながらも重工業化を実現してロシア労働者国家を防衛し、適切な階級意識共産党から持ち込まれるに至ったロシアの労働者がそれを肯定する。これこそがマルクス主義が行き着くべくして行き着いてしまった地点ではなかったであろうか。

 

トゥハチェフスキーは決して無垢で善良な軍人ではなかった。「赤いナポレオン」になる過程で「プロレタリア独裁」の名の下に多くの人々を殺傷し、自身も「プロレタリア独裁」の名の下でスターリンに粛清されてしまった。もしこのことを悲劇だと思い、かつ現在のグローバル資本主義の世界に対して自由主義・リベラル思想の枠組みの中ではそれは解決し得ないと考えるのであるならば、『共産党宣言』にある「現在ブルジョア階級に対立しているすべての階級のうちで、プロレタリア階級のみがほんとうに革命的な階級である」という規定そのものから疑わなければならない。私は現在の日本社会と日本国家のあり方にも、グローバル資本主義に対しても、それが真に人間らしい生き方を実現するに足りないと感じているし、自由主義・リベラル思想の枠組みの中ではそれは解決し得ないと考えるためマルクス主義者ではない社会主義者を称しているが、現在の閉塞感を打ち破るための思想としてマルクスルネッサンスを進めるべきだと考える人にとっても、出発点はこの地点であって欲しいと思っている。