アンドレ・レスール/小倉正史『アナキズムの美学――破壊と構築:絶えざる美の奔流』現代企画室、1994年10月25日初版第1刷。

19世紀から20世紀後半までのアナキスト革命家やアナキズムに関係のある芸術家の芸術思想史を追い、アナキズム美学思想史を論じた書となっている。ただし原著が1973年なので、「俺は反キリストでアナキストだ」と歌ったセックス・ピストルズのロンドン・パンク運動については論じられていない。本書の章立ては以下の通りとなる。

 

・第一章「社会主義の美学」

・第二章「未知のものと既知の者――プルードントルストイ

・第三章「芸術と反逆――バクーニンヴァーグナー

・第四章「芸術とアナキズム運動」

・第五章「美的都市から労働都市へ――ソレルとベルトのアナルコ・マルクシズム思想」

・第六章「個人主義アナーキーと創造性」

・第七章「現代の理論と実践」

・第八章「政治的美学と美的政治運動の収斂――アメリカ合衆国の場合」

・結論

 

本書ではアナキスト革命家やアナキズムに賛同する芸術家の美術論が多数紹介されているが、そもそもマルクス主義のような体系的な科学ではないアナキズムから、あえて共通項をとり出すならば、「民衆自身による創作」と「過去へのノスタルジー」になるのではないかと感じた次第である。

 

“ アナキズムの美学は、さらに絶対自由思想のさまざまな潮流の多元性を反映し、個人主義的なものとして、個人の創造力と高次の独創性を称揚する。集産主義的あるいは共産主義的なものとしての美学は、共同体もしくは民衆の創造能力を賞讃する。

 だが、プルードンバクーニンの未知のものに対する崇拝から影響を受けて、芸術史の中に前例のない新しい芸術を要求するものであれ、あるいは、民衆芸術もしくはアルカイック芸術の復興を勧告するものであれ。アナキズムの美学は、二千年のヨーロッパ文化に対する現代における最大の攻撃の火蓋を切る。

 手短かにその主要な特徴を引き出して見よう。

 アナキズムの理論家は、芸術を一つの試みと見なす。したがって彼は、あたえられ(←10頁11頁)た芸術と創造する芸術を対置する。彼は各個人のうちに創造的芸術家を見ようとする(そして芸術を職業と生活の手段とする芸術家のうちに過去の時代の象徴を見ようとする)傾向がある。こうしてアナキズムの理論家は、もう一度、個人の至上権、あるいは、むしろ、人間の創造への譲渡不能な権利を主張するのである。

 反権威主義者としての彼は、《偉大な人》とその歴史的役割に対して有罪宣告を下す。そしてまた、《大芸術家》、《ユニークな芸術家》、《天才的創造者》に対しても同じである。傑作の師、美術館と音楽会場の廃棄を彼は宣言する。自発的な、時と場との関連による《状況芸術》(プルードン)のために彼は戦う。創造の行為が作品自体よりも重要である。彼は社会的行動の領域から芸術の分野に直接行動の概念を移し換えて、芸術家の参加を促す。意味深いのは、芸術と生活を隔てるあらゆるものの破壊を望んでいることである。

 ともかく、アナキストの哲学者は、諸芸術の総合に関するロマン主義の理論を自己のものとし、芸術に対して美的であると同時に政治的・社会的な次元をあたえようとする。芸術は民衆の、そして民衆のための芸術にとどまらず、民衆による芸術であるべきであると考える。

 アナキストはしたがって、芸術に対して、政治的、社会的ないし宗教的な使命を強制的に委ねるという強引な芸当に成功するとともに、メタモルフォーズの機会に向けて、永遠性に向けて、芸術を開放する。歴史の束縛から解放されて、芸術は自由に展開するであろう。もはやいかなる規則も芸術を制限することはなくなるから(確かに、←11頁12頁→芸術をその始原的無垢の状態に立ち戻らせようとする絶対自由主義の流れは存在する。この流れは現代の《対抗文化》のシーンにおいても、そして特に《ロック》と《ポップ》の音楽活動においても見いだされる)。”

(本書10-12頁より引用)

 

 

“ 社会主義美学思想の二つの活発な流派、アナキズム美学とマルクシズム美学との間には、二つの基本的意図の水準において類似がある。文学と芸術の創造の社会的基盤を暴き出すことと、芸術の社会的(革命的)役割を明らかにすることが、その二つの基本的意図である。それらの一般的特徴――アナキズム美学とマルクシズム美学が過去と現在のすべての政治的美学と共有するもの――の彼方では、すべての点で二つの美学は別れる。

 まず最初に発端である。芸術の解釈に整合性をあたえる唯一のものである感受性から出発しながら、ゴドウィン、プルードンバクーニンは、彼ら自身で、アナキズムの創造に対するヴィジョンの、必然的に概略的な、輪郭を描いている。

 マルクシズム美学は、固有の感受性に根拠を持たない。弁証法的ないし史的唯物論(←176頁177頁→)の法則(あるいは人間と芸術家の疎外についての青年マルクスのテーゼ)を美学の領域に適用することによって、マルクシズム美学は、マルクスエンゲルスの死の半世紀後に現れる。この美学は、《科学的社会主義》の創始者たちが文化についての決定論的ヴィジョンと彼らの個人的趣味(そしてそれに由来する《不等発展の法則》)とを調停できなかった失敗を知らないわけではないが、しかし、マルクスエンゲルスの文学と芸術についての考察の最初の与件を単純化することによってしか、テーゼの整合性を得ていない。

 アナキズム美学は、断固として、未来に、未知のものに向かう。そうすることによって、現代文化の開花に強力に貢献する。――マルクシズム美学は、視線を遠くには向けない。《現実》を《教える》か解釈するに留める。マルクシズム美学は、実在する作品を社会の経済的・社会的・政治的状況と関係づけることによって、それの社会的意義を引き出す。

 マルクシズム美学は、本質的に批判的な働きによって、文化の修正に貢献する。この美学が敵対的な立場を取るのは、ブルジョワ文化――文化の独占の上に基礎を置く階級分化――に対して、個人主義の哲学に対して、そして特に、いかなる社会的実現もしない少数派の美的文化に対してである。この美学は、倦むこともなく、著作家や芸術家に、その社会的責任を喚起する。彼らに対して、現代の重要な社会的・政治的・哲学的議論に加わるように促す。彼らが《闘技場の中に降りる》ように、参加するように、督促するのである。(←177頁178頁→)

 アナキズム美学は、芸術的創造と社会的創造の二つのうちに、対になった反抗的人間の実現を見る。芸術家が伝統の重圧から解放されるように力づけることによって、この美学は芸術家のうちで際立った解放的役割を果たすが、また、なによりも、創造的役割を果たす。絶えず新しくされた創造の方法を探求するように、芸術家に勧めるのである。

 マルクシズム美学は、レアリスムの伝統の擁護者として現れる。アナキズム美学は、破壊的精神の擁護者である。そして、未来――ユートピア――を凝視しているために、アナキズム美学は、異端的信念の自由な表現に向けての、現代の芸術家の熱望をよりよく表わすものであろう。”

(本書176-178頁より引用)

 

 

本書は概ね上記の二つの引用部に沿って、各思想家の美術思想を概略するが、細かく見ていくとやはりそこに収まらない部分が出てくる。例えば、「アナキズム美学は、断固として、未来に、未知のものに向かう」(本書177頁)とあるが、プルードンにとっては、「革命は、未知のものの漸進的な実現(そこから彼の運動への崇拝が由来する)であると同時に、人類の過去の中にすでに存在していた社会的形式の再創造である」(本書32頁より引用)なのであり、つまりプルードンの見ている未来は過去なのである。島崎藤村は小説『夜明け前』で、「復古は更生であり、革新である」と述べ、平田派国学者明治維新革命に見た物が、「古き古」でも「新しき新」でもなく、「新しき古」であったことを提起し、そうであったがために矢野玄道のような平田派国学者は早くも1871年には明治新政府から追放されたが、プルードンが見ている未来は平田派国学者の夢見たこの「新しき古」なのであり、マルクス主義者のような科学に統制された未来ではない。その点は補記しなければならないと感じた次第である。また、アナキストは一般に権威を否定するため、芸術上の天才をも否定してきたとされる旨が本書には述べられている。「反権威主義者としての彼は、《偉大な人》とその歴史的役割に対して有罪宣告を下す」(本書10頁)ということになる。しかし、本書ではバクーニンベートーヴェンの「第九交響曲」への傾倒から、天才の存在を肯定したことについても述べられている(本書50頁、59頁)。

 

“ 「すべては過ぎ去り、すべては滅びるだろうが、『第九交響曲』は残るだろう」。これは、ミハエル・バクーニンが死の何日か前に言った言葉である。”(本書50頁より引用)

 

というわけで、本書はアナキズム美学が決して一筋縄ではまとめられない多様性や矛盾を有していることを確認しながら、しかしアナキズム美学としてまとめられ得るものが何であったのかを追った思想史となっている。恐らく本書でアナキズム美学の題材として論じられているプルードンバクーニンヴァーグナートルストイクロポトキンカミーユピサロ、ソレル、ベルト、マラルメオスカー・ワイルドジョン・ケージ(141-145頁)といった個々の人々について詳細に研究したことがある人にとっては、本書の傾向性に対して反論を行うことが可能なのではないかと私は思うものの、それでもこのような形でアナキズムの芸術思想を知ることができるのは非常に有益であろう。

 

 

最後になるが、本書でのアナキズム美学の特徴付けから、「悪名路上群像図」などで知られる天明屋尚氏はひょっとしたらアナキズム美学の体現者なのではないかと少し感じた。