【読書録】ギリェルモ・モロン・モンテロ/ラテン・アメリカ協会訳『ベネズエラ史概説』ラテン・アメリカ協会、1993年6月28日発行。

ギリェルモ・モロン・モンテロ/ラテン・アメリカ協会訳『ベネズエラ史概説』ラテン・アメリカ協会、1993年6月28日発行を読了したものの、Amazonにもブクログにも登録されていない本なので、このブログにて感想を書くことにする。

 

本書は1926年生まれのベネズエラ出身の歴史学者、ジャーナリスト、著述家であるギリェルモ・モロン・モンテロ氏が、1978年にカラカスの歴史国家アカデミアから各国概説史シリーズの中の一冊として刊行した書の日本語訳である。ただし、詳しい書誌情報は存在せず、原題は不明。上記の書誌情報も前田正裕氏による「はしがき」と本文中の記述より推察したものである。

 

本書は6部構成であり、各部の章題は「第1部先住民とスペイン人」、「第2部各地方の成り立ち1525~1810年」、「第3部ベネズエラ国民の形成」、「第4部独立宣言書」、「第5部19世紀1830~1935年」、「第6部現代史1936~1978年」となっている。

 

本書で浮かび上がる独立から20世紀半ばまでのベネズエラ史像は、貧しい農業国であり、政治的にも隣国コロンビアのように文民政府によるブルジョワ民主主義的な手続きによる政権交代が存在せずに軍人独裁者(カウディーリョ)の恣意的な専制支配と、上流階級の腐敗が政治的な構造と化している中、文化的にも停滞し、大勢の民衆が無知と貧困の中に放置されているような姿である。

 

例えばこういった具合である。

 

ベネズエラでは13世紀スペインのアルフォンソ賢王が制定した『七部法典』が、1865年の時点でも現役の法律書として用いられていた(本書36-37頁、尤もこの点ではスペインも、19世紀末の民法制定まで事情は変わらなかったらしい)。

 

“……産油国となった今日のベネズエラにおいてすら、1978年時点で、国民全体の20%が文盲であり、学齢期児童の半数が学校に登録すらされていないのである。”(本書118頁より引用)

 

“……コンディラックの『論理学』は1812年にカラカスで印刷され、教科書として使われたが、これはベネズエラにおいて印刷、出版された最初の書籍の1つである。” (本書143頁より引用)

 

“……カストロとゴメスの時代には、著作者はその作品を大統領に捧げなければならなかった。その主な理由は、国家以外にお金を払ってくれるところがなかったという意味で、文化が国家の独占事業であったことである。今日(1978年)でも、18歳以上の人口の20%が非識字人口であり、教科書以外の書籍の通常の出版部数は2,000部に過ぎない。” (本書158頁より引用)

 

“……1935年において、成年人口の70%が文盲であった。すなわち、文盲率は総人口の約90%に達していた。総人口のうち、わずか11%が7歳から24歳までの学齢人口で、わずか15万人のベネズエラ人達が何らかの形で教育を受けていたに過ぎない。事実上唯一の大学であったカラカス中央大学が1912年から25年まで閉鎖されていた。”(本書192頁より引用)

 

また、このような事情は、著者がベネズエラ自由民主主義化の出発点として高く評価する二人の将軍の合憲的軍事政権、エレアサル・ロペス・コントレーラス政権(1935年~1941年)、イサイアス・メディーナ・アンガリータ政権(1941年~1945年)を経て、いわゆる「ベネデモクラシア」(本書でこの表現は用いられていない)が到来した後も、大きく変化することはなかった。むしろ石油収入の増大が、却って貧富の格差を拡大したことに著者の焦点はあるかのように見える。このような具合である。

 

 

 

“……このようにベネズエラの現代経済史(1936~1978)が石油を唯一の強力な原動力としていたことは周知の事実であるが、国家が重要な受益者であったという事情はそれほど知られていない。ベネズエラの国家は極めて富裕であるのに対し、ベネズエラ国民は貧しい。このような隔離、分離こそ、現代ベネズエラ経済史の最大の問題なのである。オイル・マネーは国の富であるが、まだ国民の、そして大衆の富ではなく、大多数のための利益とはなっていない(国有化はようやく1975年に実施された)。

 産油国ベネズエラは、その前の時期(1830~1936)の農業国ベネズエラに取って代わったのである。石油はフアン・ビセンテ・ゴメスの治世(1917年以降)にすでにあったが、経済構造は、エレアサル・ロペス・コントレーラスが策定し、1936年に発効した「二月計画」に基づいて財政収入を道路、学校建設、衛生、公共建造物、工業化等、国のインフラ施設の近代化に投入するようになって初めて変化し出したのである。

 農業経済国家から産油国への変身は長期にわたったゴメス独裁政権の間に進行した。”(本書240頁より引用)

 

 

“ 同日(引用者註:1948年2月14日)、偉大な小説家であるロムロ・ガリェーゴス(1884~1969)が大統領に就任した。直接投票による選挙においては、18歳以上の者1,621,607人が登録していた。未成年者や非識字者にも投票権が与えられていたのである。法によって一般的に受け入れられていた成年は21歳であった。非識字率は総人口の50%を上回っていた。”(本書212頁より引用)

 

1978年に著者が述べた通り、「ベネズエラの国家は極めて富裕であるのに対し、ベネズエラ国民は貧しい」(本書240頁)という状態はその後も続き、20年後のウーゴ・チャベスの大統領の選挙による勝利の根本的な要因となった。1999年から2020年現在まで続いている、チャベスマドゥロの左派政権は経済政策の失敗により惨状を作り出してしまったが、少なくとも反チャベス派、反マドゥロ派が言うように、チャベス登場以前のベネズエラが何もかも上手くいっていたかのような物言いには、上記引用部のように大多数の民衆の政治的・経済的・社会的な抑圧が存在していたため、特に根拠がないことを指摘しておく。

 

また、私が本書を手に取った理由は1830年の独立(大コロンビア共和国からの分離)から、いわゆるデモクラシアが始まる1958年までのベネズエラ史の姿が、私の中では極めて曖昧模糊としていたのでその点を埋めたかったからだったのだが、ベネズエラ出身の本書の著者もその点については日本の私と大きく変わることはなかったらしく、1830~1935年を停滞した19世紀とまとめることが印象深い構成であった。

 

“ 1830年から1935年にいたる間の歴史は、政治、経済、文化、社会のどの面においてもよく似通っていた。この起案は、通常の年代分類とは離れて、このわが国の歴史が置かれていた世界で起っていたことと係わりなく、ベネズエラの19世紀として単一の時の流れと見なすことができる。すでにあるべき姿を整えている現在の歴史的なベネズエラの国家、共和国や国民は、近代史の範囲内にあるはずのこの時期に形づくられたのである。しかし、実際には、ホセ・アントニオ・パエスの政権掌握からフアン・ビセンテ・ゴメスの死去までの105年間には近代性というものが見られない。国家として、国民として生き残りを賭けた広範で苛酷な闘争が繰り広げられただけであった。2度にわたり亡国の淵に立たされた。連邦戦争(Guerra Federal, 1859~63)によって自壊作用が頂点に達した時には、物理的な力も文化的な力(アイデンティティー)も枯れ果て、あわや全面的な混乱状態に陥るところであった。また、1890年と1910年の間にもグスマン政権にならったゴメス独裁政権の誕生直前に同様なことが起こり、あらゆる形の惨状が国中に広がった。なぜ1936年に歴史が独立の正の部分に結びつくことになったのかは歴史上の謎である。恐らく民衆文化の統合の深い根源、古くからの混血およびスペイン語の結びつきが十分に堅固なものであったからであろう。また、恐らく、英雄信仰、ボリーバルの影、建国の英雄達の思い出、昔風の愛国心等が公共の広場、数少なかった学校、模範的な人びとの声、民衆の伝統等において歴史的なわずかな力を呼び集めたのであろう。” (本書155頁より引用)

 

 

シプリアーノ・カストロ将軍による独裁(1899年~1908年)は「維新革命」(Revolución Restauradora)、フアン・ビセンテ・ゴメス将軍による独裁は「復興」(Rehabilitación)と呼ばれているが(本書171頁)、20世紀前半を特徴付けた軍人独裁者の支配はいずれも過去を志向しながらも、1830年に制定されたベネズエラ憲法の中で、法文のうえでは定められていた議会制民主主義の尊重などは問題にならなかったのである(本書216頁)。

 

しかしながら、そのようなカウディーリョ達には、確かな民衆の支持が存在した。本書に引用されている、フアン・ビセンテ・ゴメスに対する評価を重引することにする。

 

“ カウディーリョや、独裁者と化したカウディーリョに対する民衆の支持について調査が開始され、否定的な面が見直され始めている。ガリェーゴスは1931年までベネズエラに居住し、知的活動に従事していた。そして、その頃からやっと独裁制と対決するようになった。しかし私は、フランシスコ・エレーラ・ルーケの次の言明に触れてみたい。「フアン・ビセンテ・ゴメスは、どんなあだ名をつけられてもおかしくないような原始的な怪物である。しかしながら、そういうことは一部の文化的階層に属する人達の見方であって、多くのブルジョアジーをも含むベネズエラ人の大多数が果たして同じ意見であったのだろうか。私はこの問題に関して調査したが、これをきっぱりと否定することができる。ベネズエラ国民はそういった非難めいた気持ちは持っていなかったし、その用心深い性質や体制への順応性により、心の中では独裁者が国家に対して行なった偉大な貢献、たとえば、100年もの間ベネズエラを荒廃させてきた戦争を押さえたこと等に満足しており、恐らくは非難を口にしなかったであろう」。”(本書215頁より引用)

 

 

民主主義を掲げて独裁者と独裁者を支持する民衆のあり方を非難するのか、それとも独裁者が一定の民衆の利益(それが内戦を阻止し平和を維持するという消極的なものであっても)を実現していることを理由にして独裁者と民衆の側につくかは、知識人やインテリゲンチアにとっては古くて新しい課題だが、「労働者階級」や「労働者階級の利益の実現」を口にする人々には、是非この課題への答えを持って欲しいと、私は考えるものである。私自身は「労働者階級の利益の実現」を政治行動の原動力に掲げるならば、独裁者や保守的な体制当局者は、それを自らの政治課題として先取りすることで、左翼人士の政治活動の根拠を奪い取ろうとする、という答えを持っている。55年体制下の自民党の高度経済成長政策のように。だから、実は階級を問題にする限り、「労働者階級の利益の実現」という課題は、実は保守権力や独裁制と相性が良い。もしも民主主義を問題にしたのならば、重視しなければならないのは「労働者階級の利益の実現」ではなく、「民衆(農民や労働者)の市民としての成熟」である。もちろん、「労働者階級の利益の実現」を合言葉にスターリン肖像画を掲げているロシアの労働者階級や毛沢東肖像画を掲げている中国の民衆を、そして彼らの支持する政治党派を非難するつもりはない。ただ、もし、ある人が「労働者階級の利益の実現」を合言葉に資本家階級を非難するのならば、その人が現実の労働者がスターリン毛沢東やその他の独裁者の肖像画を掲げて各国の資本家階級を批判するのを目にした際に、それを非難すべきような言動は取らないで欲しい。もしそうしたいのならば、資本家や資本主義を批判する際の主語を、「労働者」ではなく、「インテリゲンチア」や「市民」や「知識人」とすべきである。もっと言えば儒教の士大夫・志士仁人であるべきだということである。

 

なお、「第6部現代史1936~1978年」の章では、1959年に民主行動党(AD)より大統領に就任し、ベネズエラ史上初の本格的な文民大統領となったロムロ・ベタンクールをホセ・アントニオ・パエスアントニオ・グスマン・ブランコ、フアン・ビセンテ・ゴメスに続く、独立後のベネズエラ史の「もっとも突出したカウディーリョであると考えられる」(223頁より引用)と述べているが、「ベネデモクラシア」の立役者に対するこの評価はとても興味深いものである。恐らく、著者が今日のベネズエラの政治状況を見ていたならば、ウーゴ・チャベスを5人目のカウディーリョに加えていたであろう。また、この時代、1960年代のベネズエラ共産党がダグラス・ブラーボの指導下でキューバ革命の直接の影響を受けて武装闘争路線を進み、挫折したことについては触れられていない。共産ゲリラの武装闘争について触れるのは時期尚早だと考えていたのか、それとも体制に影響は及ぼさなかったと判断したのか、どちらなのかは不明だけれども、とにかく記述がなされていない。

 

最後になるが、本書では、「ベネズエラ」(Venezuela)の語源として、通常広く流布されているイタリアのヴェネツィアに由来する「小ベネチア」(Venezziola)が転訛したものという説ではなく、先住民の集落の名前「ベネシウエラ」(Veneçiuela)起源説が紹介されている。Wikipediaにも両論が併記されているが(https://es.wikipedia.org/wiki/Etimolog%C3%ADa_de_Venezuela)、私としてはこの先住民集落起源説を推したい。

 

“ 1499年の航海に際し、2人の水先案内人がオヘーダに同行しているが、彼らは後世に名を残すこととなる。それが、フアン・デ・ラ・コサとアメリゴ・ヴェスプッチであった。翌1500年、フアン・デ・ラ・コサは世界平面球図を作成したが、その中には南アメリカの海岸線が描かれていた。この地図は、コロンの航海と彼に続く発見者達、なかでもオヘーダによるベネズエラ沿岸の探索によって得られた地理上の知識の集大成ともいうべきものであった。このフアン・デ・ラ・コサの地図の中で、はじめてベネズエラという地名が湾の上に書き込まれたのである。これが、ベネズエラ地方を構成する領域のある地点に対してその名が用いられている、最初の確実な文書である。

 1519年、マルティン・フェルナンデス・デ・エンシーソがセビーリャで、『地理学大全』という論文を出版した。その書のインディアスに関する章の中で、彼はコキバコアとベラ岬の間の一帯について、「サン・ロマン岬からコキバコア岬までの間には、三角形を成すように3つの島が存在している。また、この2つの岬の間には四角形をした湾があるが、コキバコア岬の周辺でこの湾から内陸にかけて4レグアほどの小さな入江が形成されている。この入江の奥、陸との境目に、頂上が平な大きな岩山がそびえ立つが、その頂上にインディオの集落が存在している。この集落はベネシウエラと呼ばれている。その緯度は北緯10度である。このベネシウエラ湾とコキバコア岬の間で水流は西に湾曲している」という一節を書き残している。この著者は、1501年以来この地方を知っており、1508年からサント・ドミンゴに居住していた人物で、その彼がベネズエラ湾の名を聞き取り、そ(←75頁76頁→)の著書に記したのである。その時以来、この名はわが国の領海に刻まれることとなった。具体的には、1528年から1810年まで、議論の余地なくスペイン国家によって境界が画定された植民地の一部として存在したこのベネズエラ地方に、この名が与えられた。そしてベネズエラ地方は法的にも事実上もスペイン国家に帰属していたのである。”(本書75-76頁より引用)