【2021年再掲】近代日本に於ける思想と文学の社会性の起源についての考察――人生相渉論争を基準にした思想と文藝の存在意義について――

以下は、2013年に友人のラッコ君(twitterID: @rakkoannex)の『概念迷路』という雑誌に寄稿した「近代日本に於ける思想と文学の社会性の起源についての考察――人生相渉論争を基準にした思想と文藝の存在意義について――」の再掲となります。

 

「近代日本に於ける思想と文学の社会性の起源についての考察」再掲に当たっての弁明 - 夢現抄

 

上述の弁明の通り、アナキストとなった現在では当時とは考えが異なる部分や、ぎこちない文体など修正したい箇所が多々あるのですが、最小限の修正に止めてあります。「文科の学(純文学のみならず、歴史学、哲学、社会科学を含む明治時代までの「文学」が指していた意味です)の社会的意義存在意義とは何なのか?」というテーマについて、何かしらの考える材料となってくれれば望外の喜びです。

 

 

一.序言

 

 元来本稿は、論文として書く構想を持っていたものであった。しかし、書き進める内に、私――いうまでもなく、これは他の誰でもない私である――は、本稿を論文として書くことへ次第に違和感を覚えはじめた。フランシス・ベーコンデカルトニュートン、カントといった西洋思想史の碩学に象徴される自然科学の方法は、客体(自然)を特権的に、客体から作用されることなく認識する不動の立脚点として主体(近代的個人)を措定してきた。開国以後の本格的な西洋自然科学と共に我が国にもたらされた論文という文章の様式は、この客体を特権的に認識する主体を前提としており、従って「私」という立場に自己言及しないことが作法とされる。かくの如きである。

 

 論文になじまない文体で書く学生が多い。論文と、作文・感想文は明確に異なる。論文とは客観的な記述になっていないといけないので、「私は……と思う」というような主観的な記述は行ってはならない。

山内志朗『ぎりぎり合格への論文マニュアル』平凡社平凡社新書一〇三〉、二〇〇一年九月十九日初版第一刷、一五三頁より引用)

 

 

 私は山内氏の学者的態度に最大限の敬意を表する。しかしながら、私にはどうしても、この立場に与することができなかった。

 本稿は思想を論じる。本稿で論じる思想とは広義の思想であり、本論で述べるのは、広く詩、小説、史学、社会科学、時評などを含めた明治時代の日本国に於ける「文学」が意味していた、広漠たる文章一般である。そして、本稿がこの広義の思想を客体として論じる以上、主体として私が本稿を書くことは、微力ながらも思想の生産の一端に関わっていることは疑いのない事実である。従って「思想を論じる思想」という自己言及をせざるを得ないからである。

 ニュートン主義的な自然科学と、自然科学との対抗関係で生まれた近代社会科学、人文学では山内氏が述べたように「客観的な記述」が何よりも重視される。「価値中立性」乃至「価値自由」という訳である。社会学者の述べるところによれば、このような問題は、既に社会科学が発達した19世ドイツの新カント派の学問観にまで遡ることができるようだ。新カント派のヴィンデルバント、リッカートはニュートン流の自然科学の単純な因果関係的決定論を「法則定立科学」と呼んで、それに対して自らが主題としていた歴史や社会の複雑に入り組んだ相互関係についての科学を「個性記述科学」と呼んで両者を区別し、後者の「個性記述科学」の流れから二十世紀の大社会学マックス・ウェーバーが現れたとのことである(犬飼二〇一一年、一四〇~一四二頁)。そして、改めて確認するが、社会科学がニュートン流の自然科学の延長線上にあると位置づけようとしたドイツの新カント派の学者諸氏の論文という叙述様式がある以上、客体観測点としての主体はその地位を問われることがない。

 しかし、素朴な実感として、主体が客体を観測する動機を問われないということに対して、そして主体が主体として客体を論じる動機を自己言及しないということが、現実の社会関係の中で有り得るのだろうかという疑問が涌いてくるのである。私は物理学に於いては門外漢だが、仄聞する限りでは、実は現代の物理学に於いては観測主体が観測される客体に影響を及ぼすということがイリヤ・プリゴジーヌによる複雑性の研究によって明らかにされている(ウォーラーステイン二〇〇一年、二八六~二九一頁、三二八~三三一頁)。つまり、現代の物理学の最前線は、自然科学でありながら、これまで社会科学が拠って立ってきたニュートン主義の科学観とは異なっているのである。

以上のようなニュートン主義の自然科学と、科学が含意する価値中立性、客体からの作用を受けない主体という考え方を拒否すべく、私は本稿に於いて、中立的な立場を取らず、特定の価値観に沿った記述を行うことにした。それは、複雑性の物理学がニュートンのような観測主体と観測客体との間に一方的な関係を設定せずとも科学的真理に至るということを私が情報として知ったからであり、その限りで本稿の叙述様式は論文ではなく、評論でもなく、漠然としたものとなった。無論、本稿は科学的真理を目指す訳ではない。しかしながら、本稿で目指すのは真理であり、その点に於いて役に立たぬ物ではないと強調したいのである。それは本稿の問題設定を考える内に、今日の思想と文藝の頽廃に対し、云うべきことを云わず、為すべきことを為さぬは断じて名誉ではないと思い至ったからである。

 

 本稿は以下のような構成になっている。第二章では山路愛山と北村透谷の生涯を概略する。第三章では山路愛山と北村透谷が一八九三(明治二六)年に行った「人生相渉論争」を題材に、近代日本に於ける思想と文学の社会性の起源を考察する。第四章では小林秀雄保田與重郎の小編に、北村透谷の思考の帰結を考察する。第五章では三木清に、山路愛山の主題が持つ危険性(リスク)を考察する。第六章では、マルクス主義の理論史的展開と、毛沢東の『文芸講話』に、山路愛山流の思考の極限を見出す。第七章では内村鑑三の『後世への最大遺物』を題材に、本稿全体をまとめる。以上の考察を通じ、近代日本に於ける思想と文学の社会性の起源について考察し、併せて科学と哲学の関係を考える上での試論を提供することが本稿の目的である。

 なお、引用に際しては原則として旧字旧仮名の部分はそのまま引用し、必要に応じて一部を新字に改めたが、原文中にあった傍点部は省略した。

 また、時代柄引用文中では中国を指して「支那」という言葉が用いられており、既に一九一〇年代~一九二〇年代にかけて中国人から日本人が「支那」という言葉を用いることが両国の友好関係を阻害しているとの指摘がなされていたこと、及び一九三〇年十月に中華民国からの要請に応じて、それまで「支那共和国」と表記されていた中華民国を公文書上で「中華民国」と表記することを協定した事実を鑑みて*1、原則としてこの言葉を用いるべきではないというのが私の判断であり、「中華」や「中国」という概念の曖昧さや価値中立性を問題にして「支那」を用いるべきだと主張する意見に対しては、近代に於ける日中両国の国民感情のわだかまりを考慮して『今昔物語』や日蓮遺文、『神皇正統記』など平安時代から室町時代にかけて長らく用いられてきた「震旦」という言葉を用いるべきだと思っているが、引用文中で「支那」が用いられている際はそのままにした。

 

二.山路愛山と北村透谷の生涯

 人生相渉論争について述べる前に、まずはこの論争の主役となった山路愛山(一八六五年~一九一七年)と北村透谷(一八六八年~一八九四年)について概観しておこう。透谷、愛山は共に明治時代の人であり、我が国に於いて「近代文学」と呼ばれる文藝のジャンルを育て上げた人物である。特に透谷が「純文学」の成立に与えた影響は巨大なものがあった。

 

 愛山は、透谷よりも三年早く、一八六五(元治元)年に幕府天文方見習山路一郎の息子として江戸で生まれ、本名を彌吉といった。幼くして維新革命によって山路家が代々忠義を尽くしてきた徳川幕府が瓦解し、父山路一郎が彰義隊玉砕の後函館の榎本武揚に従って官軍に捕えられると、山路一家は七〇万石に減俸された徳川家と共に静岡に移住することを選んだ。旧賊軍の士族として故郷の江戸を離れて育ったことは、家庭を省みない父一郎との葛藤と共に愛山の人格形成に大きな影響を与えた。一八八六(明治一九)年に静岡メソジスト教会の牧師、平岩愃保から洗礼を受け、以後プロテスタントメソジスト派キリスト教徒、及び宣教師として生涯を過ごした一八八八(明治二一)年に戦前日本の論壇の大物であった徳富蘇峰の主宰する『国民新聞』に寄稿、一八九二(明治二五)年に蘇峰に誘われて民友社に入社し、以後ジャーナリストとして新聞などで編集者を務めた。翌一八九三(明治二六)年に民友社の社員として『文學界』の北村透谷と「人生相渉論争」を行っている。尤も、以下述べるように透谷と愛山は気質的にはかなり違う性質であったものの、個人としては仲が良かったとのことである。

 日露戦争に際しては自ら「帝国主義の信者」を任じて非戦論者の内村鑑三と論争を行った。一九〇五(明治三八)年には「国家社会主義者」を任じて、堺利彦ら明治社会主義者達と社会主義思想について論争を行ったが、一九一〇~一九一一(明治四三~四四)年の大逆事件によって、幸徳秋水社会主義者一二名が処刑され、社会主義の冬の時代が訪れた際は、愛山は堺に自らが主宰する『国民雑誌』や『独立評論』に誌面を提供している。透谷との論争でもそうだったが、堺との論争についても、論そのものについては批判しながらも、それぞれの人物とは実は仲が良かったことがよく分かるエピソードだと言えよう。その他愛山は史論家、警世家として『足利尊氏』(一九〇九年)、『源頼朝』(一九〇九年)、『徳川家康』(一九一五年)、『支那論』(一九一六年)、『世界の過去現在未来』(一九一七年)などを著述し、英雄伝を通して日本史を叙述することや時事評論をライフワークとしていた。一九一七(大正六)年に五四歳で病没した。

 一方、透谷は一八六八(明治元)年に小田原藩士の子として生まれ、本名を門太郎といった。母親との不仲もあって厭世家に育ち、さらに心を寄せていた自由民権運動の過激化と腐敗に絶望して運動を離れ、一八八八(明治二一)年に日本一致教会の数寄屋橋教会にて洗礼を受け、プロテスタントキリスト教徒となり、同年に結婚している。キリスト教への改宗後、日本平和会に入会して機関紙『平和』の編集者となる傍ら文学を志し、「厭世詩家と女性」(一八九二年)に於いて、「恋愛は人世の秘鑰〔ひやく〕なり、恋愛ありて後人世あり、恋愛を抽〔ぬ〕き去りたらむには人生何の色味かあらむ」と近代日本に於ける恋愛至上主義を率直に表明した。今日に至るまで、恋愛至上主義がどれだけ映画、小説、ドラマ、アニメ、漫画等々の主題を占めているかを考えれば、この一事だけで透谷の存在感の重さは疑い得ないであろう。その後透谷が一八九三年に創刊された文藝雑誌『文學界』の同人となり、この年に本章の主題となる山路愛山との「人生相渉論争」を行った。しかしながら透谷が抱えていた虚無感は止むことなく、一八九四年五月に自宅で首を吊って自決している。二七歳の若さであった。

 以上、簡単に山路愛山と北村透谷の略歴を述べたが、幾つか共通点を見出すことが可能であろう。まず、二人が旧士族として生まれ、「四民平等」を掲げた明治の御一新の世相の中で身分特権を失う原体験を経ていること、次に、各々事情は異なるものの、若くしてプロテスタント系のキリスト教徒となっていること、最後に、以上二点から推測できることとして、両者とも時代の大転換に伴う崩壊感覚を抱えていたことである。以上の伝記的事実を確認した上で、「人生相渉論争」に移ることにしよう。

 

 

三.「人生相渉論争」とは:愛山と透谷の大論争

 

 本章では、本稿最大の主題である「人生相渉論争」について述べるが、その前に少しだけ寄り道をする。雑誌や新聞紙上での「論争」が成立するには、文壇乃至論壇の存在が前提として必要だが、その文壇乃至論壇が近代日本に於いて如何に始まったかを確認しておきたいからだ。鈴木貞美は次のように述べている。

 

 明治中期まで、一般には、論壇と文壇は区分されず、広義の「文学」ないしは文章に携わる者の集まりという意味で、「文壇」と呼ばれていた。文芸雑誌『我楽多文庫』が一八八五年五月に販売開始、『都の花』(金港堂、月二回)が一八八八年一〇月に創刊。一八八九年に民友社の『国民之友』が「附録」として小説を導入、硯友社を中心に吉岡書籍店が「新著百種」のシリーズを出すなどして創作小説の社会的価値は次第に増していった。それに伴い、狭義の「文学」、言語芸術にたずさわる人が自分たちのグループを指して「文壇」ということもあったが、政治家が漢詩をつくり、政治や社会の現実に憤り、民衆啓蒙のために政治小説を書いていた時代に、格別の区分けはなされなかったと見てよい。

鈴木貞美『入門 日本近代文芸史』平凡社平凡社新書六六七〉、二〇一三年一月一五日初版第一刷、九七頁より引用)

 

 

 つまり、一八八〇年代には「文壇」と呼ばれるものはあったような、なかったような朧気なものであったということである。この事情が変わるのは一八九〇年代に入ってからであり、鈴木貞美は前掲書の中で、一八九〇(明治二三)年に行われた「浮城物語論争」を以て「人生相渉論争」の前哨としているが(鈴木二〇一三年、九八~一〇〇頁)、ここでは「浮城物語論争」には立ち入らない。

 さて、「人生相渉論争」は山路愛山が一八九三(明治二六)年一月に『国民之友』誌上に発表した、「頼襄を論ず」と題された評論を契機に、そこで表明された愛山の文学観を、透谷が同年二月に『文学界』誌上で発表した「人生に相渉るとは何の謂ぞ」で批判したことによって始まった。以下、坂本多加雄の説を参照しながら、両者の論点を確認していこう。

 北村透谷が批判した山路愛山の文学観は、江戸時代後期の日本史家であり、『日本外史』(一八二七~一八二九)の著者として著名な頼山陽(一七八一~一八三二)について論じた「頼襄を論ず」の書き出しに当たる以下の部分であった。

 

 文章即ち事業なり。文士筆を揮〔ふる〕ふ猶英雄剣を揮ふが如し。共に空を撃つが為めに非ず為す所あるが為也。万の弾丸、千の剣芒、若し世を益せずんば空の空なるのみ。華麗の辞、美妙の文、幾百巻を遺して天地間に止るも、人生に相渉〔あひわた〕らずんば是も亦空の空なるのみ。文章は事業なる故に崇むべし、吾人が頼襄[らいのぼる]を論ずる即ち渠〔かれ〕の事業を論ずる也。

山路愛山「頼襄を論ず」、北村透谷、山路愛山現代日本文學大系6 北村透谷・山路愛山集』筑摩書房、一九七七年四月二〇日初版七刷、二七六~二七七頁より引用)

 

 

 坂本多加雄はこの部分について、「一読して明らかなように、ここでの「文士」はのちの小説家という意味ではなく、むしろ「武士」に対比されているものである。すなわち「武士」が「剣」によって成し遂げる「事業」を、「文士」は「筆」によって行うのだというのである」(坂本一九九六年、二七頁より引用)と述べているが、この「文士」対「武士」という対比は、既に確認してきたように、愛山が(そして透谷も)旧幕臣(武士)の息子として生まれたということを考えれば重要な点だと言えよう。そして、この点を透谷は批判するのである。次の如くである。

 

 反動は愛山生[山路愛山]を載せて走れり。而して今や愛山生は反動を載せて走らんとす。彼は「史論」と名くる鉄槌を以て撃砕すべき目的を拡めて、頻〔しき〕りに純文学の領地を襲はんとす。反動をして反動の勢を縦〔ほしいまま〕にせしむるは余も異存なし、唯だ反動を載せて、他の反動を起さしむるまで遠く走らんとするを見る時に、反動より反動に漂ふ運命を我が文学に与ふるを悲しまざる能はず。愛山生は、文章即ち事業なる事を認めて、「頼襄論」の冒頭に宣言せり。何が故に事業なりや。愛山生は之を解いて曰く、 第一 為す所あるが為なり。 第二 世を益するが故なり。 第三 人生に相渉るが故なりと。

(中略)

愛山生が、文章即ち事業なりと宣言したるは善し、然れども文章と事業とを都会の家屋の如く、相接近したるものゝ如く言ひたるは、不可なり。敢て不可といふ。何となれば、聖浄にして犯すべからざる文学の威厳は、「事業」といふ俗界の「神」に近づけられたるを以て損ずべければなり、八百万〔やほよろ〕づの神々の中に、事業といふ神の位置は甚だ高からず。文学といふ女神は、或は老嬢〔オールドミス〕にて世を送ることあるも、卑野なる神に配することを肯〔がへ〕んぜざるべければなり。

(北村透谷「人生に相渉るとは何の謂ぞ」、北村透谷、山路愛山現代日本文學大系6 北村透谷・山路愛山集』筑摩書房、九七七年四月二〇日初版七刷、一二〇頁、一二一頁より引用)

 

 

 つまり、透谷は、愛山が頼山陽という江戸時代の歴史家を基準に「文章」を「事業」としたことに対して、「純文学の領地」から、「文学の威厳」を「事業といふ神の位置」に近づけることを拒否したのである。

 愛山はこの透谷による批判の一カ月後、同年三月に発表した「明治文学史」にて、透谷を反批判している。

 

 文章即ち事業なりとは吾人の深く信じて疑はざる所なり。事業の全躰を以て文章なりと曰〔い〕はゞ固より誤謬〔ごびう〕なるべし。然れども文章世と相渉らずんば言ふに足らざるなり。

北村透谷君なる人あり。吾人が山陽論の冒頭に書きたる文章は事業なるが故に崇むべしと曰ひしをば難じたり。然れども彼は吾人を誤解せるのみ。彼は吾人を以て夫〔か〕の宗教家若しくは詩人、哲学者が世界的〔ウヲルドリイ〕と呼べるところの事業に渉らずんば無益の文章なりと曰ひたるが如く言へり。如何なれば彼の眼斯の如く斜視する乎。彼は自らを高くし、高、壮、美、崇、恋などいふ問題は恰〔あたか〕も自己独占の所有品にして吾人の如き俗物が(彼の見て以て俗物とする)関せざる所なるが如く言へり。彼は吾人を誣〔し〕ひて吾人の思はざることを思ひたるが如く言へり。

吾人が文章は事業なりと曰ひしは文章は即ち思想の活動なるが故なり、思想一たび活動すれば世に影響するが故なり。苟〔いやしく〕も寸毫〔すんがう〕も世に影響なからんか、言換ふれば此世を一層善くし、此世を一層幸福に進むることに於て寸功なかつせば彼は詩人にも文人にも非〔あらざ〕るなり。もし「事業」てふ文字を以て唯見るべき事功となさんには、若し「世を渉る」とてふ詞を以て物質的の世に渉ることなりせば吾人の文章とは事業なりと言ひしは誤謬なるべし。然れどもキリストの事業が三年の伝業に終らざるを知らば(彼の事業は万世に亘れる精神界の事業なり)、エモルソンの言へる如く大著述家は短き伝記を有することを知らば(彼の世と渉るは書中に活きたる彼の精神に在り)、吾人が斯く言ひしは当然なることなり。

山路愛山「明治文学論」、北村透谷、山路愛山現代日本文學大系6 北村透谷・山路愛山集』筑摩書房、一九七七年四月二〇日初版七刷、二八六頁より引用)

 

 

 この「人生相渉論争」の一年後に透谷が自決するまで、私生活では愛山との交流は続くのだが、本稿ではこの論争に絞って論じる。坂本多加雄はこの「人生相渉論争」が後の日本文学史にて、北村透谷を「純文学」の擁護者と看做す見解が主流を占めたことを以下のように纏めている。

 

 透谷の言う「純文学」という言葉で、われわれは、直ちに詩歌や小説を連想する。そして、いったん、そうした連想に立つと、「純文学」が「事業」でなければならないという主張は、われわれ自身の語感からしても、いささかの違和感を覚えざるを得ないであろう。かくして、この論争の意義も自ずから明らかとなる。すなわち、愛山の主張は、わが国において形成途上にあった「純文学」の理念に対する、実利的立場からする非難であり、透谷は、それに対して、萌芽〔ほうが〕期にある「近代文学」を擁護すべく果敢な抵抗を試みたのだということである。実際、この論争に対するこのような性格づけが、その後の明治文学史上における愛山への評価を決定的にしてしまった。「小汚い実証主義をかつぎ廻った一個の俗学者」(中野重治「芥川氏のことなど」、昭和3)とか、「卑俗な実利主義者」(小田切秀雄)といった評価の仕方がそれである。これに対して、透谷は、この論争後まもなくしての自死ということもあって、その余りにも早すぎた「近代文学の理念」のゆえに、挫折せざるを得なかった悲運の文学者ということになるのである。

坂本多加雄『知識人――大正・昭和精神史断章』読売新聞社〈二〇世紀の日本一一〉、一九九六年八月、二九頁より引用)

 

 

 そしてこの通説的な山路愛山の批判者である中野重治小田切秀雄が、共に昭和期に活動したマルクス主義文学者、文藝批評家であったことに注意しよう。このように通説的解釈を確認した上で、更に坂本多加雄自身のこの論争への評価を見ることにする。

 

 ただ、ここで問題となるのは、愛山が、われわれの理解するような意味での「文学的」なセンスを備えていたかということでは必ずしもない。また、そのことが、愛山の政治的立場を考えるうえで重要な意味を持つわけでもない。むしろ考えるべきは、そこに想定された政治的な対立関係の文脈をいったん捨象して、「文章即ち事業なり」という愛山の言葉が惹起〔じゃっき〕した対立の諸相を、あくまで、両者の言説内容に照らし合わせて考察すると、そこに如何〔いか〕なる構図が浮かび上がってくるかということなのである。ここで、改めて注意しなければならないのは、透谷が、自身の言葉としては「文学」ないし「純文学」という言葉を一貫して用いていたのに対して、愛山は、「文章」、「文学」をそれぞれ区別しないままに用いていたということである。透谷における「純文学」という言葉から、われわれは通常詩歌や小説を連想するのだが、それとは異なり、愛山が念頭においていた「文学」、あるいは、「文章」とは、先の頼山陽を始め、たとえば荻生徂徠新井白石の著述であり、同時代においては、「明治文学史」で扱った田口卯吉や福沢諭吉のそれであった。すなわち、「文章即ち事業なり」という言葉は、こうした人々の「文章」あるいは、「文学」を念頭におくものだったのである。すなわち、愛山の「文学」とは、今日の詩歌や小説を指すものというよりは、より広く、歴史、哲学、経済論、政治論を包摂するものであった。言い換えれば、今日では、自然科学を意味する「理学」に対して、文科系の学問全般を指すような意味での「文学」だったのである。愛山自身は「頼襄を論ず」で、そうしたなかでも、とりわけ史学の独自の意義を強調しようとしたのだが、そもそも、愛山が念頭においていたような広い意味での「文学」は当時の一般的な「文学」の語意に即したものであった。たとえば竹越与三郎は『新日本史 中』(明治25)で、「明治十四五年ほど、文学と時代と密接なる関係を有せしものはあらず。而して此文学の首領はミル、スペンサーの両人なりき」と述べて、ミル、スペンサーを「文学者」として扱っている。この他にも、こうした例は、当時においては枚挙に暇〔いとま〕がない(参照、坂本多加雄山路愛山』昭和63)。

 もっとも、愛山自身は、上のような伝統的意味での「文学」のジャンルを念頭におきながら、そこでの「文学」についての自己の理想とするところを詩歌にも及ぼそうとした。それに対して、透谷は、わざわざ「純文学」という言葉を掲げることで、詩歌や小説が、従来の「文学」とは異なる理念に立つべきものであることを主張しようとした。すなわち、この論争は、従来は多様な分野にわたる言語作品を包摂していた「文学」の中で、詩歌や小説が分離して独自のジャンルとなり(純文学)、さらに、それが、今日のように「文学」という呼称をもっぱら独占するようになっていく過程で生じたものであった。その意味で、透谷が、近代的な意味での「文学」、すなわち、今日、われわれが言うような意味での「文学」という概念が形成されるうえで重要な役割を果たした人物であるという点は疑うまでもない。

 しかしながら、ここで問題としたいのは、愛山の小説や詩歌についての見解の妥当性ということよりも、彼が、従来の意味での「文学」に属する主要なジャンル、すなわち、史論や哲学、政治論、経済論を念頭において、「文章即ち事業なり」と述べたことの意義をどのように捉えるのかという点である。ここで、全く仮説的事態を設定して、愛山が、マルクスの「文学」を念頭において「吾人が文章は事業なりと曰ひしは文章は即ち思想の活動なるが故なり、思想一たび活動すれば世に影響するが故なり」と述べたとすれば、愛山の所論は、どのように評価されたであろうか。透谷に倣〔なら〕って、「文学のユチリチー論」であるとして直ちに斥〔しりぞ〕け得たであろうか。このような仮説的想定によって明らかになるのは、愛山と透谷の両者の論争の意義が、狭義の「近代文学史」の領域に留まらず、より広範な領域に関わっていくものであったということである。すなわちこの論争は、およそ、「知識」・「思想」が、そして、その表現の媒体となる「文章」が意義を有するとすれば、それは、果たしてどのような意味においてであるのかという、より普遍的な問題に関わるものであったということである。

坂本多加雄『知識人――大正・昭和精神史断章』読売新聞社〈二〇世紀の日本一一〉、一九九六年八月、三三~三五頁より引用)

 

 

 やや長い引用となったが、これで何故私がこの「人生相渉論争」にこだわるかが理解できるであろう。坂本が述べたように、「人生相渉論争」は「文學」という言葉が今日の詩歌、小説――透谷のいうところの純文学――に意味を狭められる過程で起きた大変重要な論争であり、なおかつ、愛山のいう「文學」(以下、この意味での文学を「広義の文学」と呼ぶ)が詩歌のみならず「より広く歴史、哲学、経済論、政治論」、つまり今日でいう社会科学を含むものであった。ちょうどこの論争が起きた一八九〇年前後に、ドイツ帝国の新カント派の学者、ヴィンデルバントやリッカートらが、ニュートンに代表される自然科学を「法則定立科学」と呼んだのに対し、彼らが自ら従事していた歴史学等々を「個性記述科学」と呼んで記述を基礎づけようとしていたことを考えるに、この論争が狭義の近代文学史を超える射程を持っていたことは、改めて強調されるべきである。今日、思想、哲学、政治論、経済論、批評、詩歌、小説などはそれぞれバラバラに細分化されて鑑賞、研究されているが、果たしてそのような専門細分化は必要なことであったのだろうか。それは、実は共通の社会で共通の事実を見聞し、その結果として表現される種々の認識をも細分化してしまい、結果として、文学畑、哲学畑、批評畑、社会科学畑とそれぞれの分野で全く核となる問題意識も話も噛みあわないという事態を生んでしまったのではないだろうか。

 話を急ぎすぎてしまった。改めて主題に戻ろう。さて、愛山と透谷には「広義の文学」と「狭義の文学」(純文学)の対立が存在し、その文学観の差が一八九三(明治二六)年の「人生相渉論争」として争われたことは既に見てきた通りである。そして、どちらがその一二〇年後の二〇一三年の現在に至るまでの間に広範な思想――愛山風に言えばこれも「文学」である――を形作ってきたかと言えば、既に引用した中野重治小田切秀雄の愛山批判に見られるように、それは透谷の「純文学」なのであった。それでは、その透谷の「純文学」の理念とはどのようなものだろうか。ここでは透谷が論争後の一八九三(明治二六)年五月に発表した「内部生命論」を検討してみよう。

 

 文芸は宗教若〔もし〕くは哲学の如く正面より生命を説くを要せざるなり、又た能はざるなり。文芸は思想と美術とを抱合したる者にして、思想ありとも美術なくんば既に文芸にあらず、美術ありとも思想なくんば既に文芸にあらず、華文妙辞のみにては文芸の上乗に達し難く、左〔さ〕りとて思想のみにては決して文芸といふこと能はざるなり。此点に於て吾人は非文学党の非文学見に同意すること能はず。先覚者は知らず、末派のポジチビズムに於て、文学をポジチーブの事業とするの余りに、清教徒の誤謬を繰返さんとするに至らんことを恐るゝなり。(中略)…読者よ、吾人が五十年の人生に重きを置かずして、人間の根本の生命を尋ぬるを責むる勿〔なか〕れ、読者よ、吾人が眼に見うる的〔てき〕の事業に心を注がずして、人間の根本の生命を暗索するものを重んぜんとするを責むる勿れ、吾人の中に或は唯心的に傾き、或は万有的に傾むくものあるを責むる勿れ、吾人は人間の根本の生命に重きを置かんとするものなり、而して吾人が不肖を顧みずして、明治文学に微力を献ぜんとするは、此範囲の中にあることを記憶せられよ。

 明治の思想は大革命を経ざるべからず、貴族的思想を打破して平民的思想を創興せざるべからず、吾人が敬愛する先輩思想家にして既に大に此般〔しはん〕の事業に鉄腕を振ひたるものあり、吾人が若少の身分を以て是より進まんとするもの、豈に彼等の既に進みたる途〔みち〕に外〔はづ〕れんや、吾人豈に人情以外に出でゝベベルの高塔を築かんとする者ならんや、若し夫れ人間の根本の生命を尋ねて、或は平民的道徳を教へ、或は社会的改良を図る者をしも、ベベルの高塔を砂丘に築くものなりと言ふを得ば、吾人も亦たベベルの高塔を築かんとする人足の一人足るを甘んぜんのみ。

 文芸は論議にあらざること、幾度言ふとも同じ事なり。論議の範囲に於て、根本の生命を伝へんとするは、論議の筆を握れる者の任なり、文芸(純文学と言ふも宜し)の範囲に於て、根本の生命を伝へんとするは、文芸に従事するものの任なり。純文学は論議をせず、故に純文学なるもの無し、と言はゞ誰か其の極端なるを笑はざらんや。論議の範囲に於て、善悪を説くは、正面に之を談ずるなり。文芸の範囲に於て善悪を説くは、裡面〔りめん〕より之を談ずるなり。

(北村透谷「内部生命論」、北村透谷、山路愛山現代日本文學大系6 北村透谷・山路愛山集』筑摩書房、一九七七年四月二〇日初版七刷、一四六頁、一四七頁より引用)

 

 

 透谷が「文芸は思想と美術を抱合したる者にして」「文芸(純文学と言ふも宜し)の範囲に於て、根本の生命を伝へんとするは、文芸に従事するものの任なり」と書いているように、明治時代に理解されていた「文学」という言葉を狭義の文学=文芸=純文学に限定した上で「宗教若しくは哲学の如く正面より生命を説くを要せざるなり、又た能はざるなり」と、宗教や哲学とは独自に、文芸=純文学=詩歌や小説が「根本の生命」を表現することを目指していたことがここから推測できる。

 この「根本の生命」(或いはこの評論のタイトルに用いられた「内部生命」というのも同義であろう)が何を意味するのかは解りづらいが、ここでは坂本多加雄に従って、「ここでの「内部生命」とは、キリスト教の「いのち」の観念に由来するものであり、先の「永遠の生命」を言い換えたものである。すなわち、この「何物」かへの「瞬間の冥契」とは、「宇宙の精神即ち神なるもの」から「人間の精神即ち内部の生命なるもの」に対して向けられた「一種の感応」であり、「インスピレーション」に他ならない。人間はこの「インスピレーション」を通して、「超自然のもの」、「万有の極致」をありありと感知し、「生命」の永遠性を自己のうちに自覚するのである」(坂本一九九六年、四四~四五頁より引用)と解釈しよう。この見地に立てば、透谷は文芸=純文学を通して、永遠の生命を目指すことをその任務としたのであり、だからこそ透谷は「文芸は思想と美術を抱合したる者」と述べたのであろう。美しさこそが永遠の生命の要求なのでる。本稿でこれ以上この主題を論じることは筆者の能力上不可能だが、自ら「厭世詩家」を任じた透谷の純文学観が、このような宗教的生命観と通じていたことは、以後愛山よりも透谷が評価されてきたという近代日本思想の情景を考えるに際して決定的に重要だと思われる。

 

 そして、愛山に透谷のこのような「永遠」に通じる志向がなかったかというと、決してそのようなことはない。前章で概観したように、両者が維新革命後の四民平等の世にあって、消滅を余儀なくされた旧支配階級=士族の出身であり、更に二人とも家族問題等々への煩悶から近い時期にキリスト教に改宗しているように、二人はかなり近い境遇にあったのである。ただし、愛山の場合、透谷と決定的に違ったのはその永遠の志向過程であった。透谷が純文学を以て直接「内部生命」乃至「根本の生命」に参じようとしたのに対し(透谷自身が認めているように、これは殆ど宗教の役割である)、愛山はどこまでも現世の「事業」を通じて永遠を志向しようとした。一八九三(明治二六)年四月に発表された「唯心的、凡神的傾向に就て」ではかくの如く述べられている。

 事業を賤〔いや〕しむこと、吾人は信ず時〔タイム〕を離れて永遠〔エタルニチー〕なし、事業を離れて修徳なしと。時は即ち永遠の一部に非ずや、事業は即ち修徳の一部に非ずや、永遠の為めに現世を賤しむ者、修徳の為めに事業を軽んずる者は是れ矛盾〔パラドツキシカル〕の論法也。昔しは朱子理気の学を以て一代の儒宗たりしかども、猶且当世の務を論ずることを忘れざりき。今日の為めにする即ち永遠の為めにする也、己れの目前に置かれたる事業を喜んで為す、是れ修徳也。所謂善人善を為す惟日も足らざる者、一日の中には一日の事ある者是也、之れを思はずして、徒〔いたづ〕らに事業を賤しみ、之を俗人の事となし、超然として物外に徜徉〔しやうやう〕せんとするに至つては抑〔そもそ〕も亦名教の賊に非ずや。

山路愛山「唯心的、凡神的傾向に就て」、北村透谷、山路愛山現代日本文學大系6 北村透谷・山路愛山集』筑摩書房、一九七七年四月二〇日初版七刷、二九五頁より引用)

 

 本章をまとめよう。一八九三(明治二六)年に山路愛山と北村透谷の間で行われた「人生相渉論争」は、それまで歴史、哲学、思想、経済論、政治論などを包括する、「理科系の学」に対して「文科系の学」を意味していた広義の「文学」が、今日理解されている詩歌、小説(狭義の文学=純文学)に範囲を限定される過程で起きた論争であり、坂本多加雄が強調したように、「文学」を表現するための文章とは如何にあるべきかという方向を決定づけたものであった。そして、透谷はこの論争の翌年に首を吊るという悲劇的な最期を遂げたが、透谷死後の日本では、透谷のいう「純文学」、つまり詩歌と小説に「文学」という言葉が代表されるようになったのであった。封建の世の消滅と共に消え行く士族出身であった愛山、透谷は共に「文学」を通じて永遠を目指していたのにもかかわらず、透谷は文学を純文学に限定して美と永遠の生命を志向し、愛山は「文士」として歴史や経済、政治など論じる広義の文学を「事業」として行うことで、英雄が史上に残るが如く永遠を志向した。この論争が繰り広げられた年に於いて、ドイツではカール・マルクスは既に死去していたが、フリードリヒ・エンゲルスは存命であり、新カント派の学者は二〇世紀の社会科学に繋がる「個性記述科学」を志向している最中であった。そして、これ以後日本ではマルクス主義文学者さえからも愛山は評価されず、透谷は誕生間もなき「純文学」を「小汚い実証主義をかつぎ廻った一個の俗学者」(中野重治)から擁護した者として評価されるという知的環境が築かれるのである。

 

 

四.透谷路線に於ける思考回避:小林秀雄保田與重郎

 

 さて、本稿の表題である「近代日本に於ける思想と文学の社会性の起源について」の考察は、以上で終了である。しかし、起源から演繹的に思考した結果がどうなるかということについて考えるのは無駄ではあるまい。以下の章では愛山流の「広義の文学」を対象に、明治時代の書生の後継者が思想と文藝、双方の領域でどのような結果を遺してきたかを考察してみよう。

 「人生相渉論争」は透谷が正しかったとその後の人びとには考えられてきた。愛山の「文章」が社会的だったというならば、透谷の「純文学」は個人的であった。そのことはどちらがどちらに優越するという話ではなく、両者の個性が表現された結果の差であり、筆者個人の好悪はともかくも、それ自体が問題にされるべきではない。しかし、思想が常に現実の社会関係の中に存在する時、それは抜き差しならぬ倫理的課題と緊張感を伴って我々の眼前に問題を提示するのだ。

 本章では一九三七(昭和一二)年七月の盧溝橋事件による日中全面戦争勃発後から大東亜戦争敗戦までの期間の小林秀雄(一九〇二~一九八三)の随筆「戦争について」と保田與重郎(一九一〇~一九八一)を検討し、彼等が透谷の系譜上に位置することと、そしてそこに思想と文学の社会性を考える重大な論点が存在することを明らかにするものである。まずは、小林秀雄から見てみよう。

 

 戰爭に對する文學者としての覺悟を、或る雑誌から問はれた。僕には戰爭に對する文學者の覺悟といふ樣な特別な覺悟を考へる事が出來ない。銃をとらねばならぬ時が來たら、喜んで國の爲に死ぬであらう。僕にはこれ以上の覺悟が考へられないし、又必要だとも思はない。一體文学者として銃をとるなどといふ事がそもそも意味をなさない。誰だつて戰ふ時は兵の身分で戰ふのである。

 文學は平和の爲にあるのであつて戰爭の爲にあるのではない。文學者は平和に對してはどんな複雜な態度でもとる事が出來るが、戰爭の渦中にあつては、たつた一つの態度しかとる事は出來ない。戰ひは勝たねばならぬ。そして戰ひは勝たねばならぬといふ樣な理論が、文學理論の何處を捜しても見附からぬ事に氣が附いたら、さつさと文學なぞ止めて了へばよいのである。

(中略)

 日本に生れたといふ事は、僕等の運命だ。誰だつて運命に關する智慧は持つてゐる。大事なのはこの智慧を着々と育てる事であつて、運命をこの智慧の犧牲にする爲にあわてる事ではない。自分一身上の問題では無力な樣な社會道德が意味がない樣に、自國民の團結を顧みない樣な國際正義は無意味である。僕は國家や民族を盲信するのではないが、歴史的必然病患者には間違つてもなりたくはないのだ。日本主義が神祕主義だとか非合理主義だといふ議論は、暇人が永遠に繰返してゐればいゝだらう。

(中略)

 目的の爲に必ずしも手段を選ばない、とは政治に不可缺の理論である。戰爭がどんなに拙劣な手段であらうとも目的は手段を救ふと考へねばならぬ。だがこの政治の理論を、文學に應用する事は斷じて出來ない。文學者の仕事は、例へば大工が家を建てる樣なものだ。手段が拙劣なら目的なぞナンセンスである。文學者たる限り文學者は徹底した平和論者である他はない。從つて戰爭といふ形で政治の理論が誇示された時に矛盾を感ずるのは當り前な事だ。僕はこの矛盾を頭のなかで片附けようとは思はない。誰が人生を矛盾なしに生きようなどといふお目出度い希望を持つものか。同胞の爲に死なねばならぬ時が來たら潔く死ぬだらう。僕はたゞの人間だ。聖者でもなければ豫言者でもない。

小林秀雄「戰爭について」『新訂小林秀雄全集第四巻 作家の顔』新潮社、一九八二年一〇月三〇日四刷、二八八頁、二八九頁、二九二頁より引用。)

 

 

 初出は当時の総合雑誌『改造』の昭和一二(一九三七)年一一月号であり、同年七月に勃発した盧溝橋事件、それに続く八月の第二次上海事変と、その後一二月の南京攻略戦(周知の通り、この時に日本軍は南京虐殺事件を引き起こした)の合間に書かれたものとして有名な――或いは悪名高い――随筆である。

 この小林秀雄の小編から、文学者が一人の帝国臣民として戦陣に赴く覚悟の潔さを読み取るか、或いは戦争の現実に直面した文学者の思考放棄を読み取るかは、いうまでもなく読者の自由である。しかし、私は後者の立場を取り、以下その立場から、論述を進めることをここで断っておく。

 といっても、ここで私が「戰爭について」を引用したのは、何も小林秀雄を倫理的に糾弾したいからではない。それはその道の専門家に任せておけば良い話である。文学が平和の為に存在するという前提も、この後の文学者によって日本軍の勇壮さを描いた多くの戦意高揚小説が書かれてきたことを考えれば疑わしい前提だが、それもこの際問わない。この小編で真に問題なのは、思想、或いは山路愛山流の広義の文学が、全く独自の領域を持っていないことにある。それも昭和を代表する文藝批評家たる小林秀雄にして、文学は平和のためにあるという自らの文学観と、喜んで国の為に死ぬであろうという国民としての実感の間の矛盾が感知されながらも、その矛盾は「僕はこの矛盾を頭のなかで片附けようとは思はない」という言葉であっさりと放置され、現実に進行する日本と中国との戦争が、思想的な格闘を経ずに肯定されてしまったことは、思想に携わる者としては問題であろう。昭和随一の批評家にして、現に感じられている矛盾と思想的に格闘するという作風が存在しないのである。

 私はこの小林秀雄の姿に、北村透谷の後継者を見るのである。つまり、悪い意味で個人的なのである。前章で論じたように、透谷は愛山が述べたような、文章が現実の事業であるべきだという文学観を拒否し、文学の範囲を純文学に限定した上で、その役割を、現実を超えた「内部生命」、「根本の生命」、「永遠の生命」を伝えることに限定した。小林秀雄が透谷流の生命観を持っていたかは私には解らないが、論点はそこではなく、文章が美や個人の人生のみの追及に至れば、「戰爭について」で小林秀雄が表明したような思考的態度に行き着くことは、必然ではなかろうか。文学の役割を愛山流の現実に作用を及ぼす「事業」ではなく、専ら個人の安心立命のための私事と捉えた時に起こることは、現実の国策の追認以外には有り得ないのではなかろうか。

 同じことは、日本浪漫派の保田與重郎にもいえる。現在も一部で高く評価されている保田與重郎はその右派的態度が問題だとされるが、小林秀雄と同様に、私の目的は保田與重郎の政治性を糾弾することにはない。問題とせねばならぬのは、保田の思考的態度である。以下大東亜戦争開戦直前に発表された「日本文學の趨勢」(初出は『北海道帝國大學新聞』第二二九号、昭和一五年二月一九日発行)及び、「志を述ぶる文學」(初出は改造社の雑誌『文藝』昭和一六年三月号)、という二つの小編を検討しよう。

 

 我々文學者の最近の愛國運動の第一のテーゼは、西洋に劣らぬ近代文學を日本語で描かうではないかといふ覺悟の示し合ひだつたのである。しかし今日、太平洋を制覇しつゝある日本の現勢を見れば(時に英國軍艦が近海に出沒するとしても)さういふ文學者の覺悟がいぢらしい位に子供つぽいと見える。しかしそれしも文學者仲間では、それが反動だといはれたのである。だが今日のリアリズムから云へば、我々の文學は西洋に劣らぬものといふ代わりに、少くとも時代を先驅すべき詩人は、西洋に勝るものの創造と生產について考へねばならない。

 今日文學界でどういふことがされてゐるかは別に問題でない。さしあたり國民が地圖の上に描ゐているものを考へるがよい。このリアリズムは、むしろ昨日や明日のロマンチシズムより壯大な筈である。

 既に云つたことだが、もし日本の艦隊が、英國艦隊を印度洋あたりで撃滅するやうな日がくれば、日本文學の世界的評判は變化するのである。だから私は――一人の詩人として云ふが、一人の詩人としての己の立場から云へば、世界文學といふやうなものは實につまらぬものと考へるのである。尤もこれは自分が日本の文學の傳統を知り、又日本の詩人としての自分を考へるからである。更に、世界文學がつまらぬといふことは、恐らく私が日本人だから云へると思ふ。

 しかし日本は事變の結果として世界文學の時代に入る可能性があるやうだ。この可能性は民衆生活のために私は希望してゐる。日本が豐になることは結構だからである。さうして事變が正當に好轉すれば、さういふ時代がくると思ふ。我々は以前より世界文學時代を希望してゐたわけであるし、民衆生活のためにもさういふものの生れる時代がきて欲しいと思ふが、一介草莽の文士としては、私は少くともさういふ世界文學に、一個の價値をも認めぬとは云はぬが、さしあたつて大して詩の天上のものと思はないのである。

保田與重郎「日本文學の趨勢」、『保田與重郎全集 第九巻』講談社、一九八六年八月二〇日第二刷、三七二~三七三頁より引用)

 

 

 さきの世界大戦ののち二十年餘りつゞいた世界文壇は、ナチの軍隊の巴里〔筆者註:フランスの首都パリ〕入城によつてすでに瓦解したのである。このことはソヴエートの作家大會の構想し得なかつた事實であることを我々は銘記せねばならない。しかしそれより早く日本軍の熱河攻略は、世界文壇を大きく振動させたのである。さうして世界文壇の瓦解は、昨今の日本文壇の崩壞過程と同一の樣式歩調である。

 ナチの今日の詩人が、すでに文學といふものをあまり大仰に思はずに下らぬ詩文章を作つてゐるやうな事實は、舊來の知識の眼で見れば殘念とも見えようが、ナチの表現が、地形を變形し、地圖を改修し、山をつくり、川を拓き、さうして數ヶ國の王國をつぶし、十九世紀文明最大の象徴であつた一共和國の思想を變革し、世界を風靡したデモクラシー思想を一掃した事實よりみれば、世界最大詩人の表現も、この表現には及び得ぬのである。ナチの詩人の貧困は、むしろ當然のことである。轉じて我國を見るなら、征旅萬里、大陸の曠野に、肉身で描かれてゐる詩の數々は、戰場詩人や從軍作家の文字の詩では及び難いものが多いのも當然である。歸還勇士の文章や從軍詩人の詩文章に感嘆するのも、大體が一端を以てまだ見ぬ、又あらはし難い詩の全貌を察するよすがとするていのものにすぎないのである。

保田與重郎「志を述ぶる文學」、『保田與重郎全集 第九巻』講談社、一九八六年八月二〇日第二刷、五六~五七頁より引用)

 

 

 一読して解るように、保田與重郎には、詩が詩として、文学が文学として固有の力を持つという考え方が希薄である。詩人が「もし日本の艦隊が、英國艦隊を印度洋あたりで撃滅するやうな日がくれば、日本文學の世界評判は變化するのである」という時、或いはナチスのフランス占領が及ぼした結果が「世界最大詩人の表現も、この表現には及び得ぬのである」という時、そこに詩や文学が現実世界とは離れた独自の力を持つという思考を感じ取ることができないのは、決して筆者だけではないであろう。無論、戦争、革命、災害、テロリズム等々の事件によって、時代思潮や思想、文学が大きく変わるということは、二〇〇一年九月一一日のテロ事件や、二〇一一年三月一一日の大地震によって我々も身近に感じてきたことであり、事実認識としては正しい。しかし、詩人が詩人の資格に於いて、詩それ自体の力が文壇に与えた影響よりも「日本軍の熱河攻略」を評価する時、それは詩の力への侮りとなるのではなかろうか。山路愛山が「文章即ち事業なり」と述べた時、そこには文字による表現が「事業」となって現実を作る、という思考態度があった。保田與重郎は現実を追認するだけである。私が理解できていないだけで、詩人としての保田與重郎は北村透谷の敷いたレールの上で、美しい修辞[レトリック]を用いながら美を表現するために格闘していたのかもしれない。或いは、保田は時代に余儀なくされただけで、内心では国策に反対していたという批判があるかもしれない。そのような批判に対しては、以下、保田と同時期に思考していた林達夫が一九四〇(昭和一五)年一月に発表した時評を引用することで応じ、本章を締めくくることにしよう。

 

 従来、一世を風靡したような思想の創始者の多くは、もとはと言えば思想的には一種の天才的アマチュアだったにほかならぬ。

 もちろん例外も少なくない。しかし彼らの大部分は、その時代の職業的思想家からは白眼視され、蔑視され、敵視され、この連中との執拗な闘争によってしだいにその共鳴者を獲得して勝利の道についたというのが定石である。だから今、たとえば職場のなかにあって事実によって眼をひらかれたアマチュア思想家がその天才の鋭鋒を現わしてくるというような場合、それこそ既成思想家群との対決は観物であろう。

 というと、私はまったくの傍観者のように思えるかも知れないが、口を緘した思想活動というのも今の世には許されてよい一つの活動形態であろう。自分の分を守ってやることだけは小さいながらやっている。ところで、黙っている人間は、たいへんだれかの気に障るという話を耳にしている。それが思想的自由の確保のための消極的手段であり、また時代に対する一種の抗議でもあると見られてもいるからだろう。

 正直に単純極まる真理の数々さえ言っていけない世の中などは、何といっても変則的な、不具的なものだと言わねばなるまい。それが世を害し、動揺させるからというならば、それならば、それは民衆の精神がいかに脆弱で、鍛えられていないかを示すだけで、その鍛錬こそが第一に着手されねばならぬ仕事になってくる。私が大の封建ぎらいのくせに、武士道とか禅とかストアとかに非常な愛着をおぼえるのは、まさにそれらのもののなかに見られるある種の精神的態度が現代にまったく欠如しており、その最も在りそうな場所にさえそれがはなはだ乏しいことを痛感しているからだ。精神の鍛え直しなくして、思想がものを言える道理はない。

林達夫「新スコラ時代」、『歴史の暮方』中央公論社〈中公文庫〉、一九七六年六月、一五~一六頁より引用)

 

 

 

五.愛山路線に於ける危険性(リスク):三木清の哲学とその実践

 

 真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。かつては民を愚昧ならしめるために学芸が最も狭き堂宇に閉鎖されたことがあった。今や知識と美とを特権階級の独占より奪い返すことはつねに進取的なる民衆の切実なる要求である。岩波文庫はこの要求に応じそれに励まされて生まれた。それは生命ある不朽の書を少数者の書斎と研究室とより解放して街頭にくまなく立たしめ民衆に伍せしめるであろう。近時大量生産予約出版の流行を見る。その広告宣伝の狂態はしばらくおくも、後代にのこすと誇称する全集がその編集に万全の用意をなしたるか。千古の典籍の翻訳企図に敬虔の態度を欠かざりしか。さらに分売を許さず読者を繋縛して数十冊を強うるがごとき、はたしてその揚言する学芸解放のゆえんなりや。吾人は天下の名士の声に和してこれを推挙するに躊躇するものである。このときにあたって、岩波書店は自己の責務のいよいよ重大なるを思い、従来の方針の徹底を期するため、すでに十数年以前より志して来た計画を慎重審議この際断然実行することにした。吾人は範をかのレクラム文庫にとり、古今東西にわたって文芸・哲学・社会科学・自然科学等種類のいかんを問わず、いやしくも万人の必読すべき真に古典的価値ある書をきわめて簡易なる形式において逐次刊行し、あらゆる人間に須要なる生活向上の資料、生活批判の原理を提供せんと欲する。この文庫は予約出版の方法を排したるがゆえに、読者は自己の欲する時に自己の欲する書物を各個に自由に選択することができる。携帯に便にして価格の低きを最主とするがゆえに、外観を顧みざるも内容に至っては厳選最も力を尽くし、従来の岩波出版物の特色をますます発揮せしめようとする。この計画たるや世間の一時の投機的なるものと異なり、永遠の事業として吾人は微力を傾倒し、あらゆる犠牲を忍んで今後永久に継続発展せしめ、もって文庫の使命を遺憾なく果たさしめることを期する。芸術を愛し知識を求むる士の自ら進んでこの挙に参加し、希望と忠言とを寄せられることは吾人の熱望するところである。その性質上経済的には最も困難多きこの事業にあえて当たらんとする吾人の志を諒として、その達成のため世の読書子とのうるわしき共同を期待する。

岩波茂雄「読書子に寄す――岩波文庫発刊に際して――」昭和二年七月

 

 戦前の日本に三木清という哲学者がいた。人は彼を西洋哲学研究者として、京都学派の一人として、西田幾多郎の愛弟子として、マルティン・ハイデッガーに師事した者として、蓑田胸喜の論敵として、「東亜協同体論」の提唱者として、戦争協力者として、悲劇の政治犯として、浄土真宗門徒として、播磨の偉人として知るかもしれない。三木清は複雑な人物であり、論者によってその評価は全く異なる。私もここで三木清の全生涯を論じようとは思わないし、第一私には不可能である。

 三木清は一八九七(明治三〇)年に播磨国兵庫県)の浄土真宗門徒の農民の家に生まれ、西田幾多郎から直接哲学を学ぶために一高から京都大学に進み、ドイツではハイデッガーマンハイムレーヴィットらの碩学から指導を受け、帰国後マルクス主義哲学を研究したものの、非合法の日本共産党からはその哲学を裏切り者扱いされ、左翼のみならず極右勢力からも目の敵にされながらも時論や出版編集や政局への参画を行った後、敗戦の一カ月後に政治犯として獄中で死亡した。その生涯から容易に予想できるように複雑で多面的な人物であったが、本章冒頭に引用した岩波文庫の巻末言「読書子に寄す」は、多少本を読む人間ならば三木清を知らない人であっても一度は目にしたことがあるのではなかろうか。岩波茂雄名義で書かれた岩波文庫の巻末言は、実は三木清がその草稿を書いたものであり、さらに言えば岩波文庫そのものを企画したのが三木清である。岩波文庫ならず、一九三八(昭和一三)年に創刊された岩波新書三木清の発案であったことをいえば、それだけで彼の大きさは誰であろうと理解できるであろう。それぞれドイツのレクラム文庫とイギリスのペンギン・ブックスをモデルに創刊された岩波文庫岩波新書が、日本の出版社の文庫、及び新書という出版形態を規定する規格となったことを思うに、そして、現在の書店や売店、そして個人の本棚から文庫や新書を取り去ればどのような情景が浮かぶかを考えれば、三木清に賛成する人も反対する人も、全く知らない人さえその恩恵は多大であろう。

 本章では三木清にとって、文章がどのように位置づけられていたかを検討する。まずは、一九三一(昭和六)年九月に発表された「軽蔑された飜訳」と題された随筆を見てみよう。

 

 

 我々は我々の書いたものを互にもっと読むようにしたいと思う。私は必ずしもそれを尊重せよというのではない。正直に云って、日本の学界の水準は西洋の学界の水準よりも低いことを認めねばならぬ。そしてものがそれの本質的な価値に相応して尊重されるのは正しいことであり、善いことである。私の求めているのは親切である。日本人は日本人の書いたものを互にもっと親切に読むようにしたいと思う。我々は互に他の人のものをもっと率直に理解し、もっと親切に批評するようにしなければならぬ。そうしてこそ我々の間に文化の共通な、広い地盤が作られ、その上に初めて我々の独自な文化が花を開くことも出来るのである。然るに我が国の学者は少くとも同国人のものをあまり読まなさ過ぎるのではないか。

 これには色々な理由があろう。しかしその一つが日本の学者の多くは自分の国の言葉を愛しないということにあるのは確かなように見える。言葉を愛することを知らない者に好い文章の書ける筈がない。悪文、拙文は我々の間では学者にとって当然なことであると思われている。あの人は学者にしては文章がうまい。などと平気で語られているのである。然るに若し言葉と思想とが離すことのできぬ内面的関係をもっているとすれば、このような事実は、少くとも一面に於いては我が国の学者に自分自身の思想を求め、形作ろうとする衝動と熱意とが欠けているということの証左でなければならぬ。ひとは自分自身の思想を求め、形作るとき、自分自身の言葉を求め、形作る。

 歴史がこのことを証明している。近代のドイツ哲学はギリシア哲学に比肩し得べき偉大な世界史的事実である。このようなドイツ哲学の発展の発端をなしたのはライプニッツであったが、彼はその当時すさまじい勢でこの国へ侵入して来たフランス語に対し、また伝統的なラテン語に対して、母国語の価値に関するいくつかの文章を書いてドイツ人に警告し、ドイツ語をラテン語に代えて学術語として使用することを主張した。彼はドイツ語で哲学上の論文を書いた最初の人に属している。そのほか、彼はローマ法をドイツ語に飜訳してしまうことの必要を力説した。またヘーゲルが自分の思想を出来るだけ純粋なドイツ語で表現することに努め、ラテン語から来た言葉をさえ避け、寧〔むし〕ろ俗語を活用しようとしたのは有名な事実である。このようにして、全くドイツ固有な言葉の意味を有するかの「ガイスト」(精神)の哲学が完成されるようになったのである。

三木清「軽蔑された飜訳」、『読書と人世』新潮社〈新潮文庫〉、一九八六年一月三〇日一九刷、一一七~一一八頁より引用)

 

 

 単に翻訳論として読めるのみならず、三木清が文章をどのように考えていたのかが小編ながらよく分かるであろう。西洋人にとっても、長らく自民族の言葉は哲学の言葉としては用いられておらず、専らそれはカトリック教会の言葉であるラテン語の役割であった。インドに於けるサンスクリット語、日本に於ける漢文の役割を、ヨーロッパではラテン語を務めてきたということを、改めて確認しておきたい。ラテン語が統一していた中世ヨーロッパ世界を民族語が打ち破るところに、近代のヨーロッパがあったのである。

 意外に思われるかもしれないが、「文章即ち事業なり」という書き出しで始まる山路愛山の「頼襄を論ず」は、その終わりの部分に頼山陽の『日本外史』を評して「独り理論的を知れるのみならず詩の如く歌の如き文字を以て之れを教へられたり」という、頼山陽の歴史書のレトリックが優れていたことを評価する一文がある。三木清が「悪文、拙文は我々の間では学者にとって当然なことであると思われている」と述べる時、この愛山の精神を引き継いでいたと見ることは可能であろう。大正デモクラシー期に教養主義の洗礼を受けて思想形成を遂げた三木清は、明治の精神を継いでいたのである。

 

 三木清にとって、思想は何よりも現実を作るものであった。

 

 このような三木哲学の位置づけを確認した上で、次に検討すべきは『哲学入門』である。一九四〇(昭和一五)年に岩波新書から刊行され、西田哲学の入門書として読まれてきた本書には、師であった後期の西田幾多郎と同様に「作ること」が人間観の基礎とされている。

 

 人間は世界から作られ、作られたものでありながら独立なものとして、逆に世界を作ってゆく。人間は形成的世界の形成的要素として、世界が世界を作ってゆく中において作ってゆくのである。我々の道徳的行為もかような世界から把握されねばならぬ。そのことは、道徳というものが従来単に主観的に理解される傾向があったのに対して、特に強調される必要がある。もちろんそれは単なる客観主義の立場に立つことではない。主体であるところの人間がそこから作られ、そこにある世界は単に客観的なものであることができぬ。世界的立場は主体を超えた主体の立場であり、かようなものとしてまた最も客観的な立場であるということができる。世界は歴史的であるが故に、世界的立場は世界史的立場である。人間のすべての行為は歴史的である、それが歴史的であるというのは、行為が出来事であるということ、行為が同時に生成の意味をもっているということ、我々の為すものでありながら我々にとって成るものの意味をもっているということである。人間は形成的世界の形成的要素として、人間の行為はすべてかくの如き意味をもっている。我々の行為は我々自身から起こると同時に世界から起こるのである。道徳的行為の問題も単なる意志の問題でなく、形成的・表現的行為の問題である。主体と主体との表現的聯関は行為的・形成的に捉えられなければならない。それを単に解釈する立場は道徳的立場ではない。道徳の立場は本来行為の立場である。主体が道徳的に表現的であるということは行為的に表現的であるということである。他の行為を喚び起こすものとして、また他の呼び掛けに行為的に応えるものとして、主体は道徳的に表現的である。主体と主体との表現的聯関は、ただ理解され解釈されるために、即に出来上がったものとしてそこにあるのでなく、絶えず新たに歴史的行為的に形成されてゆくべきものである。道徳は人と人との行為的聯関であるといっても、それはつねに物を媒介としている。物の媒介を離れて人と人との関係を考えることは抽象的である。しかもその物は単なる物でなく、却って表現的なものである。人と人とは表現的な物を媒介として結び付くのである。文化というものは一般にかくの如き性質のものである。文化というものは人間の作るものでありながら、作る主体から離れて独立なものとなり、作る主体に向かって逆に働きかける。文化は人間から作られ、逆に文化が人間を作るのである。文化は表現的なものとして超越的意味をもっている。それは私の作るものでありながら、私から離れて、もはや私のものでなく、公共的な表現的な世界に属している。人と人とは文化を媒介として結び付いている。物の形成、文化の形成を離れて人と人との行為的聯関を考えることはできぬ。

三木清『哲学入門』岩波書店岩波新書〉、一九四〇年三月二〇日初版、一九五一年五月二〇日第一七刷改版、二〇〇九年五月七日第八九刷、一八一~一八三頁より引用)

 

 マルクスの『ドイツ・イデオロギー』を思わせる内容だが、この『哲学入門』が刊行される一〇年前に、三木清が『ドイッチェ・イデオロギー』という表題で岩波文庫――三木清自身が創設した――から翻訳を出版していることを考えれば、合点がいくだろう。山路愛山が「頼襄を論ず」や「明治文学史」で文章の役割を事業、即ち現実を作ることだと捉えた時に、愛山には文章を作る人間が、どのように作られているかということは問題にされていなかった。三木清は、「文化というものは人間の作るものでありながら、作る主体から離れて独立なものとなり、作る主体に向かって逆に働きかける」と書いたとき、それまでに作られてきた文章によって自分が作られていること、そして自分が作る文章によってそれ以後の現実が作られていることを深く理解していたに違いない。

 

また、三木清が文化について書いたこの部分を、科学について考えてみるのも興味深い。通常、ニュートン主義の自然科学では、認識される客体は、認識する主体によって一方的に認識されるままである。たとえば自然科学者がとある地質を認識し、その中にどのような成分が含まれているか、鉄鉱石があるか石油があるか天然ガスがあるかレアアースがあるかということを研究する時、その地質に含まれる鉄鉱石が自然科学者を認識することはない。地面の側が見られるのは恥ずかしいから、削られると痛いからやめてくれ、と科学者に言い返すことはない。当たり前のことである。しかし、文系の学問、つまり社会科学や人文学の場合はどうだろうか。社会科学者が社会――そもそも社会がなんであるかを定義することが難しいことはこの際考えないでおく――を認識し、研究する際、社会の側が社会科学者の研究成果について、見られるのは恥ずかしからやめてくれと言い返すことは、勿論あるのだ。たとえば経済学者がある国の国民経済について研究した成果が本になって出版された際、その国の指導者がその本を読み、その研究は間違っている、おかしいと言い返すことを考えればよい。社会科学者の研究の成果によって、研究していた社会そのものが変化するということは当然であり、レーニンケインズハイエクの研究の成果が出版されたことによって、二〇世紀の社会がどれだけ変わったかを考えるだけで十分であろう。

 もしも社会が経済学、政治学社会学の研究の成果によって変化しないならば、それはその研究が真剣に検討するに値しない二流、三流のものであることの証明でしかないだろう。同じ事は人文学にも言える。筆者はとある民族学者が農村調査に出かけた時に、調査で訪れた農家に本棚に柳田國男の本があったというジョークを伝聞で聞いたことがあるが、たとえば人類学者が少数民族についてフィールドワークで研究したことを大学の教室で講義する際、その少数民族出身の学生からその調査は偏見に基づいた、誤った結果ではないかと質問されるということは、当然あるだろう。主体が一方的に客体を認識するという自然科学の約束事は、認識されることについて特に反応しない、反応できない自然については意識しないで済ますことができるが、その自然科学的な方法論を用いて具体的な社会や人間を認識する際には、そういう訳にはいかないのである。このように三木清の「文化は人間から作られ、逆に文化が人間を作るのである」という文章を読み替えれば、広く文化一般を超えて、科学についてもさらに豊かな思考ができるのではないだろうか。

 

 さて、このように「人間は世界から作られ、作られたものでありながら独立なものとして、逆に世界を作ってゆく」という人間論を持っていた三木清は、その論理的帰結から独立のものとして、世界を作る事業に参画した。つまり、政治である。時系列的には前後するが、三木清華族出身の政治家、近衛文麿公爵の政策研究会であった昭和研究会に参画し、哲学者の立場から政治の現実を作ろうとしたのである。それでは、その現実とは如何なる現実だっただろうか。

 一九三七(昭和一二)年六月四日に内閣総理大臣に任命された近衛文麿は、その首相在任中に、盧溝橋事件と中華民国との全面戦争という現実に直面した。三木清は「東亜協同体論」を提唱し、この中国との戦争を哲学者として理論的に基礎付けたのだ。元より、三木清を単に戦争協力者だというのは誤りだとの意見は存在する。私も、三木清が書いたものから判断するには、ただ単に日本の民族主義に迎合したと考えるのは誤りだと思う。しかし、以下に引用するような紀行文を読む限りでは、やはり戦争協力の言説に一定の責任を有すると考えるべきではないか。一九四〇(昭和一五)年一二月に発表された「満洲の印象」はかくの如きである。

 

 満洲国の学校では日本語を「国語」として教えている。日本語を学ぶことを満人は必ずしも嫌がっていないように見える。というのは、彼等にとって日本語の知識は経済的価値をもっており、日本語ができれば官庁などにおいても容易に就職し得るからである。しかしかような経済的意義を離れて、果して満人が日本語を真に「国語」と考えているかどうかは、疑問であろう。元来、国語というものは一つの民族と共に生長したものであり、近代における民族国家の成立が国語の成立であるとすれば、数民族から成る複合民族国家といわれる満洲国において、日本語を国語と称する意味は、従来の国語概念とは違ったものでなければならない。満洲における日本語はむしろ西洋中世のラテン語と同様に考えられるのが適当なのではなかろうか。言い換えると、それは公用語として、また学者語として取扱われるのが好いと思う。日本語が公用語として使用されることは東亜における日本の政治上の指導性に関係のあることである。そしてそれがまた学者語として使用されることは日本の文化上の卓越性に関係することである。満人や支那人で日本語を知っているということが、彼等の間で真の有識者であるということの徴表となり得るように、日本文化の真価を高めてゆくことが我々の任務でなければならぬ。

三木清満洲の印象」、内田弘編・解説『三木清 東亜協同体論集』こぶし書房〈こぶし文庫四七〉、二〇〇七年四月三〇日初版第一刷、一四四頁より引用)

 

 

 

 ここには満洲国に於ける「国語」の意味は、それまでの「国語」とは異なる意味を持たなければならないという現状認識があり、さらにこの引用部の直後に三木清は「我々日本人がまた満語を習得することが必要である」と述べている。しかしながら、三木清は、満語を公用語にするのが好いとは述べないのである。勿論、三木清が生きていた昭和戦前期には公然たる言論弾圧があり、満洲国の公用語を日本語から満語にすべきだとの意見は、恐らく公表し得なかったことであろう。同年、三木清の友人だった林達夫は、「正直に単純極まる真理の数々さえ言っていけない世の中」だと同時代を表現した。物を語るには「奴隷の言葉」で語るしかない現実があり、その現実の中で沈黙することを選んだ林達夫とは異なり、三木清は語ることを選んだ。黙る自由よりも語る自由を選んだ。しかしながら、三木清がこう書いたものを読んで、日本語を解する中国人や満洲人が納得するかと言えば、恐らくそうではあるまい。「東亜における日本の政治上の指導性」に、現実に中国と戦争を続ける日本帝国の独善を見出すのではないだろうか。山路愛山が「文章即ち事業なり」というところに即して文章で事業を展開する際、事業であるからには、過誤や過失ということも当然ある。私は前章で透谷流の文学観が、現実の国策を追認する態度を生み出してしまうのではないかということを問題にしたが、だからといって、愛山流の文学観を取る以上は、それなりの危険性(リスク)は避けられない。

 三木清は戦時中、仮釈放中に脱走した共産主義者高倉テルを匿った罪により治安維持法違反で逮捕され、敗戦後の一九四五年九月二六日に刑務所内で獄死した。もしも八月一五日の敗戦直後に、日本人民がGHQに先駆けて昭和の大獄で捕まった獄中の政治犯を助け出していれば助かった命だったかもしれなかったことを思うと、三木清の命と共に失われた思考の大きさを思うと、戦後の共産党員が三木清に対して示した侮蔑を思うと、三木清が考えていたことを真剣に検討してこなかった戦後の日本社会を思うと、私の胸裡には深い悲しみの念が涌くのである。

 

 

六.もう一つの愛山路線:マルクス=レーニン主義毛沢東思想の文学論

 

「科学的国体論者*2」を自認した里見岸雄の立正教団で法華仏教を学んだ日蓮主義者、鎌田敏輝(一九五一~)は注目すべき見解を示している。

 今日、人々の意識の中には、自衛という概念が本来生命と生命の殺戮である戦争をギリギリの水際で、かろうじて肯定し得る唯一の安息所と思っている向がある。また侵略に対して自衛とは、いわば消極的な戦争への参加のし方であろう。積極的な侵略戦争は悪であるが、消極的な自衛戦争は善であるとする考え方も人間の実践心理の中に強く根差している。

 今日、「日本国憲法」で軍備が否定されているにもかかわらず、自衛隊が国民の大多数の支持を得ているということは、憲法戦争放棄にも優先する価値観として自衛というものが容認されていることによる。同じ武力集団でも軍隊と呼称すれば人は嫌悪感を感じるが、自衛隊と称すればある種の安心を覚える。この心理も同様である。大東亜戦争を語る際、聖戦論を主張することにははばかりがあっても、自衛論なら堂々と語れるという心理にも反映している。

 しかるに自衛という概念はあくまでも相対的なものに過ぎないのではあるまいか。

 大東亜戦争は日本の自衛戦争であったという考え方は、あるいは成り立つかもしれない。しかし、同時にアメリカやソ連やイギリスや中国の立場も同じ自衛戦争の立場を貫いている。自らの領土を列強によって蹂躙し尽された中国は別として、アメリカ、とりわけ旧ソ連などは日ソ中立条約を破棄してわが北方領土を奪取した分際で、何が自衛かと人は疑うであろう。これは至極当然のことである。

翻って第二次大戦に参加した各国の国民感情に約して考えれば、彼等は皆祖国の為に戦い且つ死んだ人達ばかりであろう。あえて極言するが、アメリカが広島、長崎に原爆を投下した行為や、ソ連が日ソ中立条約を破って日本に侵攻してきたことも皆祖国の自存自衛の為にやったことであろう。殺らなければ殺られるという世界である。少くとも彼等の国民は皆そう考えている。その心情に虚偽はなかろう。

 マルクス主義では戦争は政治の一つの形態に過ぎない。だから旧ソ連では、第二次大戦を「大祖国防衛戦争」と呼んでいる。

 さらに旧ソ連の第二次大戦に対する考え方で、もう一つ見逃してはならない点は、世界の共産化へ向けての革命行動であり、一つの聖戦意識である。

 聖戦という考え方は、宗教的に見れば、自衛戦争よりも一ランク高度な戦争観である。何故ならば、自衛戦争は信仰というものがなくても成り立つ概念だが、聖戦を遂行するのは一個の信仰心であるからだ(共産主義も一個の信仰と考えれば)。

 再度言うが、自衛という概念は相対的なもので、その真理性は証明し尽せない。自衛という発想は人間の本能に根拠したもので、相手が善であれ悪であれ、自己を防衛する為に戦うのが即ち自衛である。自国が正義に根拠しておろうがおるまいが、相手が攻めてくれば戦うのが即ち自衛である。それについて象徴的な話は、蒙古襲来に際して述べられた日蓮聖人の次の言葉である。「国は亡びるとも謗法は少なくなりなん」。単なる自衛という発想を価値とはされていない。

 また、自衛についての日本側の論拠とアメリカ、ソ連、中国等のそれとを比較検証して日本の自衛論の正当性を証明し得たとしても、所詮それも程度の差にしか過ぎない。全ての戦争は侵略性と自衛性を兼ね持っているからだ。まして中国に対してはどうであったか。日本は中国と戦ったが、果してそれが中国のわが国に対する侵略の自衛戦争であったとでも言えるであろうか。

 中国の領土で戦って、日本の中国に対する自衛戦争であったと中国人民をして納得させ得る論拠はどこにあるのか。

 それ以上に、自分が自衛戦争の真理性を疑う一層根本的な点は宗教的に見て、自らの生命財産を守る為に対手の生命を殺してもよいという根拠を、自衛という概念からは導き出せないからである。それは自衛よりも高度な世界観をもってして初めて説明出来ることである。人間の生命はさながらに尊い筈だ。かと言って大東亜戦争は単なる侵略戦争でもあり得ない。

(鎌田敏輝「大乗的非戦論の構築に向けて」『日蓮信仰のスケッチ』展転社、一九九六年一一月一一日第一刷、四三~四五頁より引用)

 

 やや長い引用になったが、管見の限りでは「侵略戦争」を悪とする思考が、「自衛戦争」を善とする思考を裏で支えていること、そして「自衛」そのものが持ついかがわしさについて真摯に考えた論考を私はこれ以外には寡聞にして知らない。展転社は右派系の出版社であり、著者も政治的には右派に属する田中智学から里見岸雄へと続く日蓮主義者でありながら、法華経日蓮への信仰を基準に、普段、多くの人々が等閑にしている事柄について思考し抜くのである。日本国に於いて「宗教」という言葉が、傲慢、狂態、詐欺、暴力といった否定的なイメージで連想されるようになってから久しいが、この鎌田敏輝の思考は信仰者が時折見せる、最も崇高な誠実さを示すのに十分なものであろう。

 

 鎌田敏輝は、「中国の領土で戦って、日本の中国に対する自衛戦争であったと中国人民をして納得させ得る論拠はどこにあるのか」と重要な問題提起を行った。本章では小林秀雄が「銃をとらねばならぬ時が來たら、喜んで國の爲に死ぬであらう」との覚悟を示し、保田與重郎が「日本軍の熱河攻略は、世界文壇を大きく振動させたのである」と述べ、三木清が「東亜協同体論」でその戦争の哲学的基礎付けを行った日本と中国の戦争に際し、当時の中国人がどのように反応したかを論じる。ここでは中国共産党主席として延安から抗日戦争を指導した毛沢東の『文芸講話』(一九四二年)を検討し、「文章即ち事業なり」という愛山の主題が極限まで追求された例として、広くマルクス主義文学理論一般を射程に収めるものである。まずは、その前提として、一九世紀から二〇世紀のマルクス主義がどのような役割を果たしたのかを概観してみよう。というのも、毛沢東は一九三七年七月に発表した論文「実践論」の中でこのように述べ、自らがマルクスエンゲルスレーニンスターリンの系譜上に位置することを表明しているからである。

 

 マルクスエンゲルスレーニンスターリンがその理論をつくりだすことができたのは、その天才という条件を別にすれば、主として、かれらが身をもって当時の階級闘争と科学実験の実践に参加したからである。後者の条件なしには、いかなる天才でもなしとげえなかったことである。

 「秀才、門を出でずして、すべて天下の事を知る」という。これは技術の発達していなかったむかしでは、たんなる空言であったが、技術の発達したこんにちにおいては、このことばを現実のものとすることも可能となった。しかし、ほんとうに身をもって知っているのは、天下で実践している人であり、これらの人がその実践のなかで得た「知」が、文字と技術により、「秀才」の手に伝達され、かれははじめて間接に「天下の事を知る」ことができるのである。

(中略)

 自然科学の多くの理論が真理だとされるのは、自然科学者たちがそれらの学説をつくりあげたときだけでなく、その後の科学的実践によっても実証されたときである。マルクスレーニン主義が真理だとされるのも、マルクスエンゲルスレーニンスターリンなどが科学的にその学説を構築したときだけでなく、その後の革命的な階級闘争と民族闘争の実践においても実証されたときである。弁証法唯物論が普遍的真理であるのは、いかなる人の実践も、その枠を超えられないからである。

 人類の認識の歴史は、多くの理論が真理性において不完全なものであること、その不完全性は実践による検証を通じて正されることを教えている。多くの理論は誤ったものであり、実践による検証を通じて、その誤りが正される。実践が真理の基準であるとか、「生活、実践の観点が、認識論の第一の基本的な観点でなければならない」とかいわれる理由はここにある。スターリンのことばをかりれば、「理論は、革命的実践と結びつかなければ、対象のないものとなる。同様に、実践は、革命的理論がその道を照らさなければ、盲目的なものとなる」のである。

毛沢東「実践論」、小野川秀雄責任編集『世界の名著64 孫文毛沢東中央公論社、一九六九七月二〇日初版、三五二頁、三五九頁より引用)

 

 

 毛沢東マルクス主義を自然科学同様の科学的真理であり、マルクスエンゲルスレーニンスターリンの理論が、その後の「革命的な階級闘争と民族闘争」によって実践されたことにより、実証されたと考えている。ここで毛沢東が、マルクスレーニン主義を単にプロレタリア革命の理論であるのみならず、「民族闘争」の、民族解放運動の理論だと考えたことは、非常に重要なことなので強調しておこう。本章で検討するように、元来「階級」に基礎を置くマルクス主義と、「民族」に基礎を置く民族主義は両立し得ないものだった。ここで「民族」*3とは何かを論じることはできないが、少なくとも二〇世紀のマルクス主義理論史上に於いて、スターリンの論文『マルクス主義と民族問題』(一九一三年)が基礎的かつ重要な理論的達成だと看做されていたことは述べておこう。レーニンスターリンのこの論文について、一九一三年三月のカーメネフ宛の手紙で「コーバ(スターリン)は民族問題について大論文(『プロスヴェシチェーニェ』三回分)を書くことができた。すばらしい!ユダヤ人ブントや解党派の日和見主義者に反対し、真理のために闘わなければならない」(引用は太田一九九七年、二二〇頁より重引した)と激賞している。一〇月革命直後の人民委員会会議でスターリンボルシェヴィキの民族問題人民委員となったことは偶然ではなく、そしてスターリン民族理論が適用された結果が、ソ連少数民族政策だったのである。

 マルクス主義を科学だと看做したのは毛沢東に限らない。エンゲルスが『空想より科学へ』(一八八〇年)の中で一九世紀前半に活動したサン・シモン、シャルル・フーリエ、ロバート・オーウェンマルクス以前の社会主義者の理論を「空想的社会主義」と呼び、それに対置する形でマルクス主義を「科学的社会主義」と呼んだように、マルクスの思想体系はカント、フィヒテヘーゲルドイツ観念論哲学、フランス社会主義、イギリス古典的自由主義経済学、さらにはダーウィンの進化論を綜合した「科学」として提示され、受け止められたのである。そして、付言するならば、マルクス主義が科学だと捉えられたところに人々を惹きつけた力と、内在的な二〇世紀の実験の失敗があったのである。それでは、自然科学の如くに人類史の過程を、「歴史的必然」(エンゲルス)として「自由の王国」を実現する過程だと捉えたその「科学的社会主義」なるものの内容は如何なるものだったか。

 

 

 一八四八(弘化五)年二月二一日、ドイツ出身の亡命革命家であったマルクスエンゲルスは、共産主義社会実現の為の共産主義者の原則的立場を示した綱領的文書をロンドンで出版した。『共産党宣言』(或いは『共産主義者宣言』と呼ぶべきだと主張する論者も存在する)がそれである。この綱領的文書の出版の二日後から始まったフランス二月革命に於いて、普通選挙権を求めるフランス王国の労働者はオルレアン王朝を打倒し、三月にはその革命がオーストリア帝国プロイセン王国、イタリアのヴェネツィアにまで波及、ヨーロッパ各国の絶対主義王政防衛を目的に「神聖同盟」を提唱したオーストリア帝国メッテルニヒ宰相は失脚し、この1848年の革命の中でフランス革命以来国王に反する謀反者の思想だった自由主義が、ヨーロッパ諸王国に於いて政府公認の思想となったことを考えると『共産党宣言』出版の意味は深甚である。一八四八年にヨーロッパで起きた自由主義革命は、自由主義者社会主義者が合作して絶対主義に立ち向かうという性質の革命であったが、マルクスエンゲルスはその後将来を通じて模索した自由主義以後に達成されるであろうと見た共産主義社会(彼らの定義では「共産主義社会は社会主義を一歩進めた社会」である)を目指す際の、共産主義者の基本的見解をこの文書で示しているからである。彼らは冒頭で自らの歴史観をこのように規定する。

 

 

 今日まであらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である

マルクス・エンゲルス共産党宣言』(大内兵衛向坂逸郎訳)岩波書店岩波文庫〉、一九五一年一二月一〇日第一刷発行、一九七一年二月一六日第三三刷改版発行、二〇〇三年五月一五日第八一刷発行、三八頁より引用)

 

この認識こそはマルクス主義のアルファであり、オメガである。その上で、彼等自身が生きた時代、すなわち産業革命が進展しつつあった一八四八年を規定する。

 

 封建社会の没落から生まれた近代ブルジョア社会は、階級対立を廃止しなかった。この社会はただ、あたらしい階級を、圧政のあたらしい条件を、闘争のあたらしい形態を、旧いものとおきかえたにすぎない。

 しかしわれわれの時代、すなわちブルジョア階級の時代は、階級対立を単純にしたという特徴をもっている。全社会は敵対する二大陣営、たがいに直接対立する二大階級――ブルジョア階級とプロレタリア階級に、だんだんとわかれていく。

(前掲書、四〇頁より引用)

 

 

 マルクスエンゲルスは「ブルジョア階級は、歴史において、きわめて革命的な役割を演じた」(前掲書四二頁より引用)と自由主義の発達がヨーロッパで勃興していたブルジョワジー[産業資本家]によって担われたことを認め、更にプロレタリアートが何であるかを規定する。

 

 ブルジョア階級が封建制を打ち倒すのに用いた武器は、いまやブルジョア階級自身に向けられる。

 しかしブルジョア階級は、みずからに死をもたらす武器をきたえたばかりではない。かれらはまた、この武器を使う人々をも作り出した――近代的労働者、プロレタリアを。

(前掲書、四八頁より引用)

 

 

 つまり、マルクスとエンンゲルスの歴史観――辯証法的唯物史観、または史的唯物論と呼ばれる――にとって、封建制を打倒したブルジョワジーによって生み出されたプロレタリアートが、自らを生んだブルジョアジーを打倒するということに、歴史の辯証法を見ているのだ。そして、マルクスエンゲルスはこのプロレタリアートを特権化する。

 

 現在ブルジョア階級に対立しているすべての階級のうちで、プロレタリア階級のみがほんとうに革命的な階級である。その他の階級は、大工業が起るとともに衰退し、滅亡する。プロレタリア階級は大工業のもっとも独自な生産物である。

 中産階級、すなわち小工業者、小商人、手工業者、農民、これらはすべて、自分たち中産階級としての存在を破滅から守るために、ブルジョア階級と闘う。したがってかれらは革命的ではなく、保守的である。なおそれ以上に、かれらは反動的である。なぜなら、かれらは歴史の車輪を逆にまわそうとするからである。かれらが革命的であるばあい、それは自分の身に迫っているプロレタリア階級への移行を顧慮してのことであり、かれらの現在の利益をではなく、未来の利益を守るためであり、かれら自身の立場を捨ててプロレタリア階級の立場に立つのである。

 ルンペン・プロレタリア階級、旧社会の最下層から出てくる消極的なこの腐敗物は、プロレタリア革命によって時には運動に投げこまれるが、その全生活状態から見れば、反動的策謀によろこんで買収されがちである。

(前掲書、五三頁より引用)

 

 

 つまり、「近代的労働者、プロレタリア」以外は革命的ではないという訳だ。既に、この時点で後のマルクスレーニン主義国家が、プロレタリアート以外の全ての階級(ブルジョワジー、手工業者、小商人、農民、ルンペン・プロレタリアート)を「反革命」として弾圧するための根拠となり得る論理が含まれていることに注意されたい。これから考察するように、この『宣言』が発された後の現実の「近代的労働者、プロレタリア」は、実際には「本当に革命的な階級」とはならず、むしろエンゲルスが革命的にならないイギリスの工場労働者を「労働貴族」と呼んで批判したのが現実であったのだ。マルクスエンゲルスの誤謬は、プロレタリアートを次のように規定したことである。

 

 さらに共産主義者に対して、祖国を、国民性を廃棄しようとする、という非難が加えられている。

 労働者は祖国をもたない。かれらのもっていないものを、かれらから奪う事はできない。プロレタリア階級は、まずはじめに政治的支配を獲得し、国民的階級にまでのぼり、みずから国民とならねばならないのであるから、決してブルジョア階級の意味においてではないが、かれら自身なお国民的である。

(前掲書、六五頁より引用)

 

 

 

 

 ここで、マルクスエンゲルスは、一八四八年の時点でプロレタリアートが祖国を持っていないこと、国民的階級ではないことを規定している。彼等にとって、既存のブルジョワ自由主義国家や絶対主義国家に於いては、プロレタリアートは国民(或いは民族)共同体には包摂されておらず、だからこそ、プロレタリアートは国家と諸国民の間の分断を横断する一つの階級として団結できるし、しなければならないという論理が導かれるのである。

 一八四八年から二〇一三年に至るまでの歴史が証明したように、実際にはプロレタリアートは祖国を持っていた。近代の国民国家は義務教育と徴兵制によって、それまでごく一部の――たとえば平安朝の貴族といった――人々に共有されていたに過ぎない、国民と国家についての共同体意識を中産階級や農民、労働者に注入し、封建制のくびきを脱した人々は、「四民平等」の下で、祖国の一員として、国民国家間の「自衛戦争」に積極的に参加したのであった。マルクスエンゲルスは、このように労働者が「政治的支配を獲得し、国民的階級にまでのぼり、みずから国民とならねばならない」という過程を経ずに祖国を持ってしまい、国家を超えた国際的な「プロレタリア階級」としてではなく、「国民」(あるいは「民族」)として行動することを遂に認識できず、従ってこの「階級」と「国民」(民族)との間の矛盾をどのように処理するかということが、一九世紀から二〇世紀にかけてのマルクス主義者の基本的な問題意識となったのである。

 

 先に進もう。では、そのような特権的なプロレタリアートによって実現される共産主義社会とはどのようなものであるか。再び『共産党宣言』に戻ると、

 

 すべての所有関係はたえざる歴史的交代、歴史的変化をうけてきた。

 たとえばフランス革命は、ブルジョア的所有のために封建的所有を廃棄した。

 共産主義の特徴をなすものは、所有一般の廃棄ではなく、ブルジョア的所有の廃棄である。

 ところで近代のブルジョア私有財産は、階級対立にもとづく、すなわち一方による他方の搾取にもとづく生産物の生産ならびに取得の、最後の、もっとも完全な表現である。

 この意味において共産主義者は、その理論を、私有財産の廃止という一つの言葉に要約することができる。

(前掲書、五八頁より引用)

 

 

 ところで、賃金労働、プロレタリアの労働は、プロレタリアに財産を与えるだろうか? 決してあたえはしない。賃金労働は資本という財産を作り出す。それは賃金労働を搾取するものであり、そしてまたそれは、あたらしい賃金労働を生産してそれをふたたび搾取するという条件がなくては、みずからふえることのない財産である。今日の形の財産は、資本と賃金労働の対立のなかを動いているのである。

(前掲書、五九頁より引用)

 

 

このように、所有と賃金労働の性格を規定した上で、以下のように述べる。

 

 ブルジョア社会においては、生きた労働は、蓄積された労働をふやすための手段であるにすぎない。共産主義社会においては、蓄積された労働は、労働者の生活過程を拡げ、富まし、促進するための手段であるにすぎない。

 したがって、ブルジョア社会においては過去が現在を支配し、共産主義社会においては現在が過去を支配する。ブルジョア社会においては、資本は独立で、人格であり、これに対して活動する個人は非独立で、非人格である。

 しかもこのような関係を廃止することを、ブルジョア階級は人格と自由の廃止と叫ぶ! まさにその通りだ。なぜかとえいば、それはたしかにブルジョア的な人格、独立、自由の廃止なのだから。

(前掲書、六〇頁より引用)

 

 

 発展の進行につれて、階級差別が消滅し、すべての生産が結合された個人の手に集中されると、公的権力は政治的性格を失う。本来の意味の政治的権力とは、他の階級を抑圧するための一階級の組織された権力である。プロレタリア階級が、ブルジョア階級との闘争のうちに必然的に階級にまで結集し、革命によって支配階級となり、支配階級として強力的に古い生産諸関係を廃止するならば、この生産諸関係の廃止とともに、プロレタリア階級は、階級対立の、階級一般の存在条件を、したがって階級としての自分自身の支配を廃止する。

 階級と階級対立とをもつ旧ブルジョア社会の代りに、一つの協力体があらわれる。ここでは、ひとりひとりの自由な発展が、すべての人々の自由な発展にとっての条件である。

(前掲書、六九頁より引用)

 

 

 マルクスエンゲルスにとって国家とは、「本来の意味の政治的権力とは、他の階級を抑圧するための一階級の組織された権力である」、つまり支配階級(王侯貴族やブルジョワジー)がその他の階級(農民、プロレタリアート中産階級)を支配するための道具であると認識されており、既に見てきたように、彼らにとって階級闘争の特権的な主体であったプロレタリアートが革命を起こすことによって国家や賃金労働による搾取は廃止され、「ひとりひとりの自由な発展が、すべての人々の自由な発展にとっての条件である」「協力体」が実現されると説いた。

 実際には既にみたように、地主と産業資本家と金融資本家が連合して支配していた実際の近代自由主義国家は、単なる階級支配の道具ではなく、その国住む全ての人々(「国民」乃至「民族」)にとって自らの歴史、文化、伝統などを持ち、故に命がけで「自衛」すべきものであると捉えられた観念共同体であったし、マルクス主義者であったレーニンスターリン毛沢東は革命後、ソヴィエト社会主義共和国連邦(以下ソ連)や中華人民共和国という社会主義国家を建設したのであった。それは、単に社会主義革命が起きたぐらいでは「階級差別が消滅」することはなく、社会主義国家を建設しなければ、革命の成果を防衛できないと彼らが考えたからであり、そのような国々はマルクスエンゲルスが見通していた、すべての人々の自由な発展にとっての条件である「協力体」とは言い難い抑圧に満ちたものであったが、しかしながら現実のマルクス主義はそのようなものとして二〇世紀を形作ってきたのであった。

 

 さて、一九世紀のヨーロッパ大陸諸国は一八四八年二月に『共産党宣言』が刊行された直後の自由主義革命を経て国家そのものが自由主義的な秩序を受け入れ、自由主義憲法が保障した範囲で市民的自由を獲得したマルクス主義者は、ドイツ帝国ドイツ社会民主党オーストリア=ハンガリー帝国オーストリア社会民主労働党を中心に、以後社会民主主義*4が目指すべきは、革命であるべきか改良であるべきかを巡って論争を繰り広げてきた。「修正主義論争」と呼ばれる論争である。一九世紀を通じて、実際にはマルクスエンゲルスが見通してきた中産階級の没落と、それに伴うブルジョワジープロレタリアート階級闘争の激化ということは、少なくともヨーロッパでは起こらず、むしろプロレタリアートマルクスエンゲルスが非難した「労働貴族」として、中産階級化していったのである。そして、それゆえに「本当に革命的な階級」だと彼等が看做したプロレタリアートは、中産階級として自由主義的な枠組みの中で議会制民主主義国家の一員としての「改良」を望み、一九一四(大正三)年に第一次世界大戦が始まる直前には、議会の枠組みの中で改良を目指す「修正主義者」(エドゥアルト・ベルンシュタインら)と、あくまでも「協力体」を実現する「革命」を目指す原則的マルクス主義者(ローザ・ルクセンブルク、カール・リープクネヒトら)がドイツ社会民主党の中で対立しながら共存するという奇妙な情況が生まれ、レーニン登場以前に「マルクス主義教皇」の異名を取った理論家カール・カウツキーはこの対立に理論的な決着をつけないまま、未来の革命と当面の改良を折衷する立場を取った。

 

 このような情況を根本的に変えたのは、第一次世界大戦中にロシアのレーニン率いるロシア社会民主労働党ボルシェヴィキボルシェヴィキとは「多数派」を意味する)が引き起こしたロシア一〇月革命と、その後のソ連建設であり、二〇世紀の世界のマルクス主義者は、とりわけ非ヨーロッパにあり、当時「半植民地」や「従属国」と呼ばれていた地域の知識人は、この事件をきっかけにしてマルクス主義を研究し始めたのであった。ここで、少しだけ時系列を前後し、マルクス経済学について研究史が示すことを、太田仁樹の説にしたがって述べておこう。マルクスエンゲルスが『共産党宣言』で示した、ブルジョワジーが主導する資本主義の発達によって中産階級が没落し、プロレタリアートブルジョワジーを打倒して階級のない社会が実現されるとの見通しが科学であることを主張するためには、経済学的にその主張、つまり資本主義が経済恐慌によって崩壊すること必然性を実証する必要があった。そのために書かれたのが『資本論』である。『資本論』の第一巻は一八六七(慶應三)年一〇月に刊行され、その枠組みは以下の通りである。

 

 マルクスにおいては、資本主義の一般理論的な研究と現状分析的な研究とは分離していなかったようにおもわれる。『資本論』第1巻の「初版への序言」において、資本主義的生産様式の発展が典型的であるがゆえに、「イギリスが、私の理論的展開の主要な例証として役立つ」とマルクスがのべていること、また労働日をめぐる労使関係の生々しい叙述は、『資本論』が時間的・空間的制約を脱した、いわゆる「一般理論」にとどまるものではなく、「世界の工場」である(その意味で世界革命の中心と考えられていたであろう)イギリスの資本主義のその時点での姿を、その本質においてつかみ出したものであると考えられていたことを示唆している。

 一方、『資本論』は、19世紀中葉のイギリスを念頭において叙述されたものであるが、その論理展開は特定の時代・特定の場所にのみ妥当するものではなく、「資本主義とはそもそも一体なんであるのか」を明らかにする極めて抽象度の高い論理次元での展開をおこなった著作でもあった。

(中略)

のちの帝国主義にかんする諸議論との比較という観点から、『資本論』の理論的性格を考えるとき留意すべきもう一つの問題は、マルクスによる『資本論』の対象領域の限定である。『資本論』の描く世界は、一国民経済内部での資本の運動を「理想的平均」において示すものであるのにたいして、帝国主義論のあつかう世界は、特定の時代(第1次世界大戦前夜)における諸列強の世界経済上の対立・抗争という諸現象である。

(中略)

資本論』以後の時代の資本主義と『資本論』のズレという問題は、すでにマルクスの死後『資本論』の第2巻(1885年出版)・第3巻(1894年出版)を編集したエンゲルスには気づかれていた。エンゲルスはすでに、資本主義が『資本論』第1巻の時代とは異なった様相をしめしつつあることを感じていた。彼は、とくに『資本論』第3巻を編集するにあたって、かなりの註をほどこして、マルクスの死後、資本主義の質的な変化が進んできたことを指摘している。しかし、エンゲルスマルクスの遺稿を整理することに自らの仕事を限定し、この変化の意味を本格的に追及することはしなかった。この課題が本格的に意識されるようになったのは、ドイツ社会民主党内のいわゆる修正主義論争をつうじてであろう。

(太田仁樹『レーニンの経済学』御茶の水書房、一九八九年六月一日第一版第一刷発行、一一〇頁、一一二頁、一一四頁より引用)

 

 

 『資本論』の性格は以上のようなものであったが、既に一九世紀末には「一国民経済内部での資本の運動」を明らかにしようとした『資本論』では答えられない問題が生じており、エンゲルスにさえもそれは自覚されていたのであった。一九世紀後半の資本主義の発達の現実、即ちヨーロッパ列強によるアフリカ、アジアの植民地分割に象徴される帝国主義の進展と、産業資本主義から金融資本主義への先進工業国に於ける資本主義の質的変化に際して、新たにマルクス主義の立場からこの現象を解明する理論的必要が発生したのである。マルクス主義に於けるこの研究領域は通常古典的帝国主義論と呼ばれ、代表的な研究書としてオーストリア社会民主労働党ヒルファディングによる『金融資本論』(一九一〇年)、ドイツ社会民主党ローザ・ルクセンブルクによる『資本蓄積論』(一九一三年)、そしてロシア社会民主労働党ボルシェヴィキレーニンによる『資本主義の最高の段階としての帝国主義』(一九一七年、いわゆる『帝国主義論』)が挙げられる(太田一九八九年、二二一頁)。

 ヒルファディング、ルクセンブルクマルクス主義経済論については本稿では論じない。レーニン第一次世界大戦中の一九一七(大正六)年二月に亡命先のスイスで刊行した『帝国主義論』は、マルクス主義経済学の立場化から進行していた世界大戦を、植民地の再分割を目指す帝国主義列強諸国の衝突が、資本主義がその最高にして最後の段階に至って表れた姿だと位置づけ、「資本主義の最高の段階としての帝国主義」に対してプロレタリアートの立場から反撃すべきであることを論じた書であった。その際、レーニンには以下のような問題意識が存在した。

 

 世界経済の概観図をしめすというこの目的は、レーニンの場合たんなる経済学的関心から生じたものでは勿論ない。彼を帝国主義研究に専念させたのは、1914年の世界大戦の勃発とその後の社会主義者の態度の混乱であった。帝国主義についての理論的認識の確立こそ、社会主義者のうちに蔓延する日和見主義を克服するのに必須の課題であるとおもわれた。世界経済の概念図をしめすということも、この課題を果たすことに他ならない。

(前掲書一二六頁より引用)

 

 この『帝国主義論』に於けるレーニンの見解がどこまで実証的に妥当であるかはここでは問わない。重要なのは、当時実際にヨーロッパや北アメリカや日本の帝国主義の矛先を向けられ、「半植民地」や「従属国」と呼ばれていた国々の知識人が、レーニンのこの見解に深い共感を示したことである。帝国主義が資本主義の最高の段階であるならば、「半植民地」や「従属国」の目前で進行する欧州、米国、日本の帝国主義を打倒するには資本主義を打倒する他なく、資本主義を革命的に打倒するためには資本主義を担うブルジョワジーを、プロレタリアートの立場に組して倒さなければならないと、「半植民地」や「従属国」と呼ばれていた国々の知識人は考えたのだ。『共産党宣言』でマルクスエンゲルスが「労働者は祖国をもたない。もっていないものを、彼らから奪う事はできない」と述べた時、既に見てきたように、それはヨーロッパの労働者に関しては当てはまらなかった。しかしながら、祖国を持っていたヨーロッパの労働者が「文明化の使命」と「白人の責務」(ラドヤード・キプリング)を担う祖国の兵士として、「文明化されていない」非ヨーロッパ世界を植民地化する帝国主義戦争に加わり、その結果、実際に祖国を奪われてしまった――その祖国とはムガル帝国や大清帝国ベトナム帝国、ペルシア帝国、インドのヒンドゥー諸王朝、アフリカの諸王国のように、決して近代自由主義の観点からは自由でも平等でもなく、しばしば抑圧的であり、それゆえ近代ヨーロッパの基準からすれば「文明」ではなかった――人々の内左翼的な人々は、その実感ゆえに『共産党宣言』の原則的立場に一体化することができたのである。

 

 一九二一(大正一〇)年にバクーでボルシェヴィキが開催した東方諸民族大会は、この立場を強化した。第一次世界大戦勃発後、それまでドイツ社会民主党内の「修正主義」(改良)に反対して、革命的な立場を堅持していたローザ・ルクセンブルク、カール・リープクネヒトらは、「祖国擁護」のために社会主義者としてドイツ帝国の戦争に協力することを主張したエーベルトら主流派の「城内平和」に対して、自らのプロレタリア的立場から第一次世界大戦への協力を拒んだ。一九一八(大正七)年にロシアでボルシェヴィキが一〇月革命を引き起こした後、翌一九一九(大正八)年一月にはドイツにまで波及していた革命は、しかしローザ・ルクセンブルク、カール・リープクネヒトらの死を以て挫折したのであった。ここに、先進国に於ける革命的プロレタリアートの闘争は終焉を遂げた。一九一九年三月にボルシェヴィキは「世界革命の参謀本部」としてソ連共産党が指導するコミンテルンを結成し、その世界各国支部を通じてマルクス主義による世界革命を目指したが、もはや第一次世界大戦前にマルクス主義者の中心であったドイツ社会民主党は革命を目指さない改良主義者の政党となり、社会民主党から分離してドイツ共産党を結成したソ連派の共産主義者も、プロレタリア革命を担う力量を持たなかったのである。

 コミンテルン結成から二年を経て、ボルシェヴィキを指導していたレーニントロツキーらは、期待していたドイツ革命、そしてヨーロッパでの革命が起こらないであろうということを認め、東方諸民族大会を以て、その「世界革命の参謀本部」としての世界戦略を、高度に発達した工業国の内部におけるプロレタリア革命から、「半植民地」や「従属国」に於ける反帝国主義戦略へと変更したのである(ウォーラーステイン二〇〇一年、四四頁)。ここで、一九二二(大正一一)年にボルシェヴィキが新設したソ連共産党の初代書記長の役職に就任したヨシフ・スターリンが、一九二四(大正一三)年に発表した『レーニン主義の基礎について』で表明した見解を以て、当時のソ連共産党書記長が世界をどのように見ていたのかを確認しよう。因みに、この小冊子が刊行される四カ月前の同年一月にレーニンは死去しており、もはやここでソ連共産党書記長公式の「レーニン主義」として示されたスターリンの見解に批判を加えることはできない。

 

 レーニン主義は、帝国主義とプロレタリア革命の時代のマルクス主義である。もっと正確にいえば、レーニン主義は、一般的にプロレタリア革命の理論と戦術であり、とくにプロレタリアートの独裁の理論と戦術である。マルクスエンゲルスが活躍したのは、発展した帝国主義がまだなかった革命前(この革命とはプロレタリア革命のことであるが)の時期、プロレタリアが革命の準備をしていた時期、プロレタリア革命がまだ直接、実践的に避けられないものではなかった時期であった。ところが、マルクスエンゲルスの弟子であるレーニンが活躍したのは、発展した帝国主義の時期、プロレタリア革命が展開される時期、プロレタリア革命がすでに一国で勝利し、ブルジョア民主主義を粉砕して、プロレタリア民主主義の時代、ソヴェト時代をひらいた時期であった。

だからこそ、レーニン主義マルクス主義をいっそう発展させたものなのである。

スターリンレーニン主義の基礎』(全集刊行会訳)大月書店〈国民文庫二〇一〉、一九五二年一〇月二五日第一刷発行、一九七〇年二月二〇日第二九刷発行、九頁より引用)

 

 

 以前には、どれか一国の経済状態の見地から、プロレタリア革命の前提条件の分析をあつかうのが普通であった。だがいまでは、このあつかいかたはもはや不十分である。いまでは、すべての国、あるいは大多数の国の経済状態の見地から、すなわち世界経済の状態の見地から、問題をとりあつかう必要がある。なぜなら、個々の国と個々の国民経済とは、自足的な一単位ではなくて、世界経済と呼ばれる一つの鎖の一環に転化したからであり、また古い「文化的」資本主義は帝国主義に成長発展したが、この帝国主義は、ひとにぎりの「先進」諸国が、地球人口の大多数を金融的に隷属させ、植民地的に抑圧する全世界的体制だからである。

 以前には、個々の国に、もっと正確にいえばある発展した国に、プロレタリア革命の客観的条件が存在するかしないかを論じるのが常であった。だがいまでは、この見地はもはや不十分である。いまでは、一つの全体的なものとして世界帝国主義経済体制全体のなかに革命の客観的条件があることを論じなければならない。そのさい、この体制のなかに、工業的にはまだ十分発展していない若干の国々があることは、もしその体制全体に革命全体の機がすでに熟しているならば――いっそう正確にいえば、体制全体に革命の機がすでに熟しているのであるから――革命にとって克服できない障害とはなりえないのである。

 以前には、ある発展した国のプロレタリア革命を論じるばあいには、その対立物である個々の国の資本の戦線に対立する個々の自足的なものとしてこれを論じるのが常であった。だがいまでは、この見地はもはや不十分である。いまでは、世界プロレタリア革命を論じなければならない。なぜなら、個々の国の資本の戦線は帝国主義の世界的戦線と呼ばれる一つの鎖の一環に転化したからであり、この戦線にたいしては、すべての国の革命運動の共同戦線を対立させなければならないからである。

 以前には、その国のもっぱら内部的な発展の結果として、プロレタリア革命を見ていた。だがいまでは、この見地はもはや不十分である。いまでは、なによりもまず、帝国主義の世界体制の矛盾が発展した結果として、世界帝国主義戦線の鎖がある国で断ち切られた結果として、プロレタリア革命を見なければならない。

 革命はどこで始まるか、どこで、どの国で、資本の戦線を最初に突破しうるだろうか?

 工業がいっそう発展していて、プロレタリアートが多数をしめ、文化程度がいっそう高く、民主主義のいっそう発展したところで、と答えるのが以前には普通であった。

 レーニンの革命理論は、次のようにこれを反駁する、――そうではない、かならずしも工業がいっそう発展している等々のところだというわけではない。資本の戦線は帝国主義の鎖が他よりも弱いところで断ち切られる。なぜなら、プロレタリア革命は、世界帝国主義戦線の鎖の最も弱い個所でそれが断ち切られた結果であり、そのさい、革命を始めた国、資本の戦線を突破した国が、資本主義的にはいっそう発展していながらも、なお資本主義のわく内にとどまっていた他の国々よりも、発展の度合いの低いことがありうるからである。

 一九一七年には、帝国主義的世界戦線の鎖は、他の国々にくらべてロシアでは弱かった。だから、この鎖が断ち切られてプロレタリア革命のはけ口になったのは、そのロシアであった。なぜか? なぜならロシアでは、最大の人民革命が展開され、地主に圧迫され搾取されていた幾百万の農民というような、非常に重要な同盟軍をもっていた革命的プロレタリアートが、この革命の先頭に立ってすすんだからである。なぜなら、ロシアでは、威信をすっかり失って、全住民の憎しみの的となっていたツァーリズムのような、帝国主義のいとうべき代表者が、革命に対立していたからである。たとえロシアが、たとえば、フランスまたはドイツ、イギリスまたはアメリカよりも、資本主義的発展の度合いが低かったにせよ、鎖はロシアでは他よりも弱かったのである。

 近い将来に鎖が断ち切られるのは、どこであろうか? こんどもまた他にくらべて鎖の弱いところである。たとえば、インドで鎖が断ち切られることもないわけではない。なぜか? なぜなら、インドには若い戦闘的な革命的プロレタリアートがいて、それが民族解放運動のような同盟軍――疑いもなく大きな、疑いもなく重要な同盟軍――をもっているからである。なぜなら、そこでは、信頼を失って、インドの圧迫され搾取されている全大衆の憎しみの的となっている外国帝国主義のような、だれでも知っている敵が、革命のまえに立っているからである。(前掲書、三五~三八頁より引用)

 

 

 問題は、こうである、――圧迫された国々の革命的解放運動内部にある革命的可能性は、すでにくみつくされているのか、あるいはそうではないのか、もし、くみつくされていないのなら――これらの可能性をプロレタリア革命のために利用し、従属国・植民地を帝国主義ブルジョアジーの予備軍から革命的プロレタリアートの予備軍に、プロレタリアートの同盟軍に、転化する望みと根拠はあるか?

 レーニン主義は、この問題に肯定的に答える。すなわち、圧迫された国々の民族解放運動の内部には革命的能力があることを認め、またこれらの能力を共通の敵をうちたおすため、帝国主義をうちたおすために、利用する可能性があると考える。帝国主義発展のしくみ、帝国主義戦争とロシア革命は、この点にかんするレーニン主義の結論を完全に確証している。

 このことから、被圧迫・従属民族の民族解放運動を「大国」民族のプロレタリアートが支持する必要、しかも決然と積極的にこれを支持する必要がでてくる。

 もちろん、このことは、プロレタリアートが、いつ、どこでも、あらゆる個々の具体的なばあいに、あらゆる民族運動を支持しなければならない、ということを意味するものではない。問題になるのは、帝国主義をつよめ維持することにむけられているのではなく、帝国主義をよわめ打倒することにむけられている民族運動を支持することである。個々の圧迫された国の民族運動が、プロレタリア運動の発展の利益と衝突するばあいがある。こういうばあいには、支持が問題になりえないことは、当然である。民族の権利の問題は、孤立した自足的な問題ではなく、プロレタリア革命という一般的問題の一部分であって、全体に従属しており、全体の視覚から観察しなければならない。

(前掲書、八三~八四頁より引用)

 

 

 『共産党宣言』に於けるマルクスエンゲルスの論理は、「中産階級、すなわち小工業者、小商人、手工業者、農民」が資本主義の進展の中で没落する中で、ブルジョワジープロレタリアートに二極化し、やがてプロレタリアートブルジョワジーを打倒して国家も階級も存在しない協力体を建設するというものであったが、レーニンを経てスターリンによって体系化されたレーニン主義の中では、もはやこの「革命的プロレタリアート」は実際にブルジョワジーに雇われて工場で働く「近代的労働者」そのものではなくなっていることに注意しよう。スターリンはこう述べている。

 

 だが、新しい時代がやってくるとともに、事態は根本的に変わった。新しい時代は、諸階級が公然と衝突する時代、プロレタリアートが革命的に行動する時代、帝国主義を倒し、プロレタリアートが権力を獲得するために直接に勢力を準備する時代である。この時代は、党活動全体を新しい革命的な基調で建てなおし、権力を獲得する革命的闘争の精神にそって労働者を教育し、予備軍を準備し、これをひきつけ、隣接する国々のプロレタリアートと同盟し、植民地・従属国の解放運動と堅い結びつきをうちたてる等々の新しい任務を、プロレタリアートのまえに提出する。これらの新しい任務を、議会制度の平穏な情勢のもとで訓練された古い社会民主諸党の力で解決できると考えることは――望みのない絶望に、避けられない敗北に、自分を運命づけることである。これらの任務を肩ににないなながら、旧政党の指導のもとにとどまっていることは――完全な武装解除の状態におかれることを意味する。プロレタリアートがこういう状態にあまんじられなかったことは、証明するまでもあるまい。

 ここから、プロレタリアを権力獲得の闘争にみちびきうる大胆さをもち、革命的情勢の複雑な諸条件を判断するに十分な経験をもち、目標への途上にある、ありとあらゆる暗礁を避けてとおるだけ十分に事態に即応できる、新しい党、戦闘的な党、革命的な党の必要が生まれる。

 このような党なしには、帝国主義を倒し、プロレタリアートの独裁をかちとることなど、およそ考えられないことである。

 この新しい党こそ、レーニン主義の党である。

 この新しい党の特質は、どこにあるか?

 (一)労働者階級の前衛部隊としての党。党は、なによりもまず、労働者階級の前衛部隊でなければならない。党は労働者階級のすべてのすぐれた分子を、彼らの経験、彼らの革命的精神、プロレタリアートの事業にたいする彼らの限りない献身を、吸収しなければならない。だが、真に前衛部隊になるためには、党は、革命的理論で、運動の法則についての知識で、革命の法則についての知識で、武装しなければならない。そうでなければ、党は、プロレタリアートの闘争を指導し、プロレタリアートを率いてゆくことはできない。もし党が、労働者階級の大衆が経験し考えていることを記録するだけにとどまるなら、もし党が、自然成長的な運動のあとをのろのろとついてゆくなら、もし党が、自然成長的な運動の不活発さと政治的無関心を克服できないなら、もし党が、プロレタリアートの一時的利益以上にでることができないなら、もし党が、プロレタリアートの階級的利益の水準に大衆を引き上げることができないなら、党は真の党になることはできない。党は、労働者階級の先頭に立たねばならないし、また労働者階級よりも遠くを見なければならない。党は、プロレタリアートを率いてゆかねばならず、自然成長性のあとをのろのろとついていってはならない。「追随主義」を説く第二インタナショナル〔筆者注:ドイツ社会民主党などをはじめとする、第一次世界大戦以前の社会主義者の国際組織〕の諸党は、プロレタリアートブルジョアの手ににぎられた道具の役割におとしいれる、ブルジョア政策の先導者である。プロレタリアートの前衛部隊の見地に立ち、プロレタリアートの階級的利益を理解できる水準に大衆をたかめることのできる党だけが――このような党だけが、労働者階級を労働組合主義の道からひきはなして、彼らを独立した政治勢力に転化することができるのである。

 党は労働者階級の政治的指導者である。

(前掲書一一三頁~一一五頁より引用)

 

 

 スターリンが「もし党が、自然成長的な運動の不活発さと政治的無関心を克服できないなら」と述べていることに注意しよう。スターリンマルクスエンゲルスが『共産党宣言』で示した、「プロレタリア階級のみが本当に革命的な階級である」という認識をそのまま受け取っている訳ではない。私は本章で繰り返し、実際の労働者階級が革命的ではなかったことを述べてきたが、スターリンは的確にこの現実を認識し、労働者の「自然成長的な運動」が実は革命的ではないことを理解している。だからこそ、レーニン主義の理論に於いては「党」、つまりソ連共産党が必要不可欠なのである。「党は、プロレタリアートを率いてゆかねばならず、自然成長性のあとをのろのろとついていってはならない」と述べる時、そこには「党は、なによりもまず、労働者階級の前衛部隊でなければならない」というスターリンの党認識が反映されている。労働者階級は前衛――それはもはや、実際に工場で働く人々ではなく、インテリゲンチャであろう――に率いられた党によってはじめて、労働者階級の階級的利害を実現できるのである。プロレタリアートの「自然成長的な運動」は、革命的ではなく、したがってプロレタリアートの階級的利害を代表できないからである。

 ところで、前衛とは何であろうか。ある人物が特定の集団――この場合はプロレタリア階級――の前衛であるということは、自己言及と循環構造によってしか保証されないのではないだろうか。つまり、「私は前衛である」と自ら宣言する個人が「労働者階級の前衛部隊としての党」に入党し、「労働者階級の前衛部隊としての党」から「前衛」として認められるという手続きを取らねば、ある人物やある集団が「前衛」であるかどうかは解らないのではなかろうか。人は、封建時代の貴族のように、生まれながらにして「前衛」の血筋の下に生まれてくることはできない。ある時期に自らが前衛となる決意を固め、既に前衛を自認する党にその資格を認められることでしか前衛であることはできない。スターリン書記長と、スターリン書記長が所属するソ連共産党が前衛であるか否か、そして植民地、半植民地、従属国の民族解放運動や独立運動が前衛であるか否かは、スターリンソ連共産党によって判断されるしかない

 スターリンが『レーニン主義の基礎について』を刊行した一九二四年五月から概ね一九三〇年ころまで、「世界革命の参謀本部」を自認していたコミンテルンで専ら代表的な理論家と認識されていたのはブハーリンであり、また、同時期にはまだソ連一国で社会主義を建設できるとの「一国社会主義論」を唱えたスターリンの政敵として、「永続革命論」を唱えて既に失敗したヨーロッパでの共産主義革命の継続を唱えたトロツキーが勢力を保っていた。

 権力を握ったスターリンの命を受けて、ブハーリンは一九三八(昭和一三)年に処刑され、トロツキーは一九四〇(昭和一五)年に亡命先のメキシコで暗殺されたが、ロシア革命前からレーニンと共にボルシェヴィキを率いてきた彼等が「反革命」として粛清されねばならなかったのは、究極的にはスターリンが示したこの「前衛」規定によるのではないだろうか。

 ブハーリントロツキーといった古参ボルシェヴィキだけではなく、スターリンソ連を指導していた頃には農業集団化の際の農民弾圧、強制収容所、粛清、ソ連邦内の少数民族への弾圧、社会全体の密告社会化……と、今日多少なりとも左派的な立場に立つ者にとっては直視するのが辛いものとして、右派的な立場に立つものにとっては共産主義がどれだけ道義的に酷いものであったかを物語る証拠として、多くの犠牲者を出しながらソ連に於ける社会主義建設が進んだという歴史的事実が存在した。

 

 今日マルクスに思いを寄せる論者は、マルクスレーニンレーニンスターリンマルクススターリンの関係をいずれかの部分で切断しようとし、マルクスの理論をレーニンが、或いはスターリンが裏切ったのだと主張することがあるが、果たしてそれは正しいのだろうか。マルクスレーニンスターリンは理論上の系譜としても、論理としても一貫していたのではないか。プロレタリアートブルジョワジーに反対して革命を行わなければならず、小工業者、小商人、手工業者、農民、ルンペン・プロレタリアートといった人々は、プロレタリアートではないので真に革命的な階級ではないとのマルクスの前提は、マルクス主義者にとって揺るぎない原則だとされてきた。既に見てきたスターリンの前衛党規定は、実はレーニンの『何をなすべきか』(一九〇二年)で発表された「職業革命家によるプロレタリア階級意識の外部注入」という党組織論に由来し、この理論に従って、マルクスエンゲルスによって「真に革命的な階級である」プロレタリア階級は自然成長的には革命的ではないので、「前衛」によって指導される他なく、ある個人が「前衛」であるかどうかを判断するのは、その個人の前衛としての宣言と、前衛党によるその資格の承認だけだという自己産出する循環構造が生まれる。そして、そのような自己言及によって「革命的プロレタリアート」であることを保証された前衛が、革命的ではないとされた中産階級ブルジョワジー、民族運動を裁断する時、それはソ連中華人民共和国が示してきた歴史以外にはなり得なかったのではないか。

 再三指摘してきたように、現実の労働者は革命的ではなく、祖国を、或いは自らが祖国だと感じているものを持っている。それは当該国の人々が自らのものだと考える歴史、言語、文化といったものであり、意識無意識にせよ人はそれに規定されている。私が本稿を日本語で書いているのは、詰まる所私が日本国に日本人として生まれてからであり、私がそのようにして生まれたということ自体は合理的には実証できない。宗教や迷信の立場から、先祖の霊や前世の業が、私は日本国に日本人として生まれることを決めたと主張することは可能であろうが、それを合理的に実証することは不可能である。本章で、プロレタリア階級に革命運動の主体を見たことが、その後のスターリン主義や現実の社会主義国家の強制収容所、粛清へと繋がったのではないかと私が主張する時、それは現実の国策――たとえば戦争――を追認することを是とするものではない。そうではなく、三木清を繰り返すようだが、実は自分の意識が、歴史的に規定されているということを自覚すべきであり、そうでなければその論理的帰結として見るも無残な失敗を遂げた理論を処理した上で、猶、現在進行する具体的な現実を築き上げ得る事業、一八九三(明治二六)年に山路愛山が「文章即ち事業なり。文士筆を揮ふ猶英雄剣を揮ふが如し」と書いたような「事業」を構想することはできないのではないだろうかと、私は主張するのである。

 

 さて、以上が毛沢東に関する考察に入る前提としてのマルクスエンゲルスからレーニンスターリンに至る正統マルクス主義に関する考察を終えた。これから二〇世紀前半の中国にて、どのように毛沢東が歴史に現れたのかを概観しよう。

 

 一九一一(明治四四)年に大清帝国辛亥革命が起こり、翌一九一二(明治四五)年一月一日に革命家孫文孫中山)を臨時大総統とする中華民国が南京にて成立した。秦の始皇帝より続いた中華帝国は滅亡し、新たに共和政が建てられたのである。しかしながら、この中国革命は成功せず、迷走を続けた。孫文は一九一九(大正八)年に中国国民党を創設し、革命の指導を続けた。この中国革命には、一八四〇(天保一一)年の阿片戦争以来、ヨーロッパ列強やアメリカ、日本などに切り取られ、半植民地化されてきた中国の民族解放が含意されており、スターリンが一九二四(大正一三)年に「問題になるのは、帝国主義をつよめ維持することにむけられているのではなく、帝国主義をよわめ打倒することにむけられている民族運動を支持することである」と述べた時、「革命的プロレタリアートの前衛」、つまりソ連共産党と自らの立場から、帝国主義を弱めるために「プロレタリア革命のために利用」され得るものであり、この理論からスターリン率いるソ連は、国民党の蒋介石が一九二七(昭和二)年に上海クーデターを起こし、合作していた中国共産党を弾圧するまでは国民党を支持していたのである。中国国民党を率いていた孫文は、一九二三(大正一二)年一一月一六日付の当時の日本の逓信(郵政)大臣だった犬養毅に宛てての手紙でこう書いている。

 

 古人もいっております。「その心を得るものは、その民を得、その民を得るものは、その国を得る」(『孟子』「離婁」上)と。もし日本がロシアに勝利したときにおいて、よくこの古人の言に従っていたならば、こんにちアジア各国はみな日本に帰依していたでありましょう。イギリスが現在、アイルランドに自由を許し〔筆者註:一九二二年にイギリスは一七世紀から植民地にしていたアイルランド自治を認めた〕、エジプトに独立を許したのは、この意味であります。もし日本が翻然としてめざめ、イギリスがアイルランドを遇するように朝鮮を遇し、あやまちをふたたびせぬように心がけるならば、アジアの人心を収拾することはなお可能であります。さもなければ、アジアの人心はかならずことごとくソヴィエト・ロシアに向かっていくでありましょう。これは、けっして日本にとって幸いなことではありません。

(中略)

 現在、幸いにして先生〔筆者註:犬養毅のこと〕が入閣されました。思うに、これまでの日本の失策と列強盲従の主張とを、かならずきれいさっぱりと一掃されるでありましょうが、その眼目は中国の革命事業にあります。中国の革命は、ヨーロッパ列強がもっともきらっているものであります。といいますのも、中国革命がいったん成功いたしますならば、安南〔筆者注:ベトナムのこと〕、ビルマ、ネパール、ブータンなどの諸国、インド、アフガニスタン、アラビア、マレーなどの民族もかならず中国のあとを追い、ヨーロッパからはなれて独立するからであります。こうなっては、ヨーロッパ帝国主義と経済侵略とは必然的に失敗に帰します。このゆえにこそ中国革命は、まさしくヨーロッパ帝国主義にたいする死刑宣告の先触れなのであり、列強政府があらゆる手をつくして中国革命に反対しているのもこのためであります。

しかるに、日本政府がこれに気づかず、列強にくっついて反対しているのは、自殺行為とどこが違いましょうか。そもそも日本の(明治)維新は、じつに中国革命の原因であり、中国革命は、じつは日本の維新の結果なのであり、両者はもともと一連のものとして、アジアの復興をなしとげるものなのであります。

 両者の利害がほんらいこんなに密接不可分であるのに、日本は中国の革命にたいして、ヨーロッパに追随し、中国をきらい、中国に危害をくわえてよいものでしょうか。日本の国家百年の確固たる大計をはかるならば、かりに中国に革命が起こっていないとしても、日本はこれを提唱して革命へ導くべきであります。ソヴィエト・ロシアはこんにち、ペルシア、インドにこの態度でのぞんでおり、また昔年、先生が宮崎(滔天)にわが党との連絡を命じられましたのも、まさにそれでありました。

 中国革命がすでにはじまったばあいには、日本は全国の力を傾けてこれを援助し、中国を救うことによって自分を救う、百年まえイギリスがスペインを援助し、最近アメリカがパナマを援助したようにする、そうでなければならないのであります。

 しかるに、日本は中国の革命にたいして、(中華民国成立以来)十二年このかた、ことごとに反対行動に出て、それに失敗すると、いつわりの中立をよそおって体裁をととのえ、かつていちども徹底した自覚をもって、毅然として断固、中国革命援助をアジアの国として立つ日本の遠大な計とすることがありませんでした。これもみな、さきに先生が政府にその志を得られなかった結果であります。いま先生は政府の一員であられます。小生らは切望し、深望せざるをえません。これはひとり中国のためのみならず、また日本のためを思ってのことであります。

孫文「書簡集 犬養毅あて」、小野川秀雄責任編集『世界の名著64 孫文毛沢東中央公論社、一九六九年七月二〇日初版、二八五頁、二八八頁~二八九頁より引用)

 

 

 中国がこのような民族革命の最中にあった一九二一(大正一〇)年に、「世界革命の参謀本部」としてコミンテルンが成立した後、同年7月に上海にてコミンテルン中国支部が建党された。これが中国共産党の起源である。これ以上煩瑣になるのは控えたいので詳細な叙述は避けるが、この時の創設メンバーに毛沢東がいたことと、当初辛亥革命後の中国の混乱の中で勢力を拡大していた中国国民党と合作していたが、一九二七(昭和二)年に上海クーデターで衝突し、以後国共内戦を戦ったこと、そして毛沢東国共内戦中の一九三五(昭和一〇)年に最高指導者となったことは特筆される。スターリンについて確認したことをここで敷衍すると、一九三五年に毛沢東は中国に於ける「プロレタリアートの前衛」の最筆頭となり、同時に誰が中国の労働者階級の前衛であるかを決め、労働者階級の階級的利害から判断を下す立場となったのである。また、この翌一九三六(昭和一一)年、国民党軍の追撃から脱出する長征を完遂し、内陸部の延安に根拠地を定めたこと、一九三七(昭和一二)年に盧溝橋事件が発生し、日中戦争が始まると、再び国民党と合作し、抗日戦争を戦うに至ったことをここで記しておく。それまで中国革命の主導権を巡って中国国民党中国共産党は互いが血で血を洗う国共内戦を戦っていたのだが、この両者が一致するきっかけは――孫文が知ればさぞ悲しんだであろう――日本との戦争だったのである。一九四五(昭和二〇)年に日本が大東亜戦争に敗北し、敗戦時一〇〇万人に達した在中国日本軍が撤退すると、国民党と共産党は再び内戦に突入し、一九四九年に毛沢東率いる中国共産党が勝利、中華人民共和国を建国したのであった。

 既に引用したように、スターリンは「圧迫された国々の民族解放運動の内部には革命的能力があることを認め、またこれらの能力を共通の敵をうちたおすため、帝国主義をうちたおすために、利用する可能性があると考える」と考えており、その限りで日本帝国主義と戦っていた中国国民党中国共産党の両党を物心両面で支援していた。『毛主席語録』に採録されている、それぞれ一九三八(昭和一三)年一〇月、一一月に発表された毛沢東の時評にはこう述べられている。

 

 国際主義者である共産党員が、同時に愛国主義者でありうるか。われわれは、ありうるばかりでなく、そうあるべきだと考える。愛国主義の具体的内容は、いかなる歴史的条件にあるかによって決まる。日本侵略者やヒトラーの「愛国主義」もあれば、われわれの愛国主義もある。日本侵略者やヒトラーのいわゆる「愛国主義」にたいしては、共産党は断固反対しなければならない。日本共産党員とドイツ共産党員は、かれらの国家の戦争にたいして敗北主義者である。あらゆる方法を用いて、日本侵略者とヒトラーの戦争を敗北に終わらせることが、日本人民とドイツ人民の利益である。敗北が徹底的であればあるほどよい。……なぜならば、日本侵略者とヒトラーの戦争は、世界の人民をそこなうばかりでなく、自国の人民をもそこなっているからだ。中国の状況はちがう。中国は侵略されている国家である。したがって、中国共産党員は愛国主義と国際主義を結びつけなければならない。われわれは国際主義者であると同時に愛国主義者である。われわれのスローガンは、祖国をまもり侵略者に反対するために戦え、ということである。われわれにとって、敗北主義は罪悪であり、抗日の勝利をかちとる責務は、他人に依頼できない。なぜなら、祖国をまもるため戦ってこそ、侵略者をうちやぶることができ、民族の解放をかちとることができるからである。民族の解放をかちとってこそ、プロレタリア階級と勤労人民の解放が可能になる。中国が勝利するなら、中国を侵略している帝国主義者が打倒されるなら、それは同時に外国の人民を助けることになる。したがって、愛国主義は、民族解放戦争における国際主義の実行である。

毛沢東「民族戦争における中国共産党の地位」、竹内実訳『毛沢東語録平凡社平凡社ライブラリー一二七〉、二〇〇九年五月二二日初版第五刷、一七三~一七四頁より引用)

 

 われわれは戦争廃止論者であり、戦争は不要だ。だが、戦争を廃止するには、戦争によるほかはない。鉄砲を不要にするには、鉄砲をとるほかない。

毛沢東「戦争と戦略の問題」、竹内実訳『毛沢東語録平凡社平凡社ライブラリー一二七〉、二〇〇九年五月二二日初版第五刷、八七頁より引用)

 

 

 

 本章の冒頭にて引いた鎌田敏輝の「大乗的非戦論の構築に向けて」を改めて引用すると、そこには「聖戦という考え方は、宗教的に見れば、自衛戦争よりも一ランク高度な戦争観である。何故ならば、自衛戦争は信仰というものがなくても成り立つ概念だが、聖戦を遂行するのは一個の信仰心であるからだ(共産主義も一個の信仰と考えれば)」とあるが、鎌田流にいうならば、この場合の毛沢東の戦争観は「自衛戦争」ではなく、「宗教戦争」であろう。毛沢東が「中国が勝利するなら、中国を侵略している帝国主義者が打倒されるなら、それは同時に外国の人民を助けることになる」と述べているように、毛の立場は単に日本軍が中国に侵攻してきたから(当時の日本人にとっては「自衛戦争」であったかもしれないが)戦うといったものではなく、中国人が愛国主義を持ち、共産党と共に日本と戦うことで、「日本人民とドイツ人民の利益」を実現しようとしているというものだったからである。

 そして、この日本人民を助けるために日本帝国主義と戦うという論理は、これまでに本章で見てきた、マルクスエンゲルスレーニンスターリン共産主義のロジックを持って初めて獲得されるのである。ここに、日本と中国の戦争を考えるむずかしさがある。三度目の引証となるが、鎌田の「中国の領土で戦って、日本の中国に対する自衛戦争であったと中国人民をして納得させ得る論拠はどこにあるのか」という疑問はやはり正しいものだからである。小林秀雄は中国との戦争に際して、「一體文学者として銃をとるなどといふ事がそもそも意味をなさない。誰だつて戰ふ時は兵の身分で戰ふのである」と述べた。毛沢東は中国の勝利が外国の人民の利益だから戦うと述べた。毛沢東スターリンの系譜下にあり、その立場で、特に中華人民共和国建国後は百花斉放・百家争鳴、大躍進、プロレタリア文化大革命などの経済政策や文化政策で大失敗し、多くの中国人民を苦しめてきた。しかし、このスターリン主義から導かれる国際主義の原則がなければ、中国人民は日本帝国主義と満足に戦い得なかったであろう。日米開戦後に延安で行われた『文芸講話』(一九四二年五月)を見てみよう。

 プロレタリアートの文学・芸術は、プロレタリアートの革命事業全体の一構成部分であり、レーニンも述べているように、革命という機械全体の「歯車であり、ねじ釘である」のです。ですから、党の革命事業全体のなかで党の文芸工作の占める位置は、定められ、確立されています。それは特定の革命時期に党によって規定された革命の任務に従属します。

かかる位置づけに反対するならば、かならず二元論ないし多元論に陥り、実質的には、トロツキーのように、「政治――マルクス主義的、芸術――ブルジョワ的」となってしまうでしょう。

 われわれは、文芸の重要性を不当に強調しすぎることに賛成できませんが、同時に、文芸の重要性を過小評価することにも賛成しません。文芸は、政治に従属するものですが、逆に、政治に巨大な影響を与えるものでもあります。

革命文芸は、革命事業全体の一構成部分であり、歯車やねじ釘であっても、他のより重要な部分と比較するならば、そこには当然、重要性、緊急性、占める位置などの点で違いが生じます。けれども、それは機械全体にとって欠くべからざる歯車とねじ釘であり、革命事業全体にとって欠くべからざる一構成部分なのです。もしわれわれが、もっとも常識的な広い意味での文学・芸術すらもたないとすれば、革命運動をおしすすめることも、それに勝利することもできません。この点を認識しないならば、それは誤りです。

 なお、われわれが、文芸は政治に従属する、というばあいの政治とは、階級的政治、大衆的政治をさすのであって、いわゆる少数の政治家による政治をさすのではありません。政治とは、それが革命的なものであれ反革命的なものであれ、すべて階級と階級との闘争であって、少数の個人の行為ではありません。革命的思想闘争も革命的芸術闘争も、政治的闘争に従属しなければなりません。なぜなら、階級および大衆の要求は、政治をとおしてこそはじめて、集中的に表現されうるものだからです。

(中略)

 文芸批評には、二つの基準があります。一つは、政治的基準であり、いま一つは、芸術的基準です。

(中略)

 われわれの文芸批評は、セクト主義的であってはならず、団結抗日の大原則に立って、各種各様の政治的態度をともなった文芸作品の存在を認めるべきです。しかし、われわれの批評は、同時に、原則的立場を堅持するものであり、反民族的、反科学的、反大衆的、および反共的観点をふくむ文芸作品にたいしては、すべて、手きびしい批判と反駁をくわえなければなりません。なぜなら、これらのいわゆる「文芸」は、動機からいっても効果からみても、団結抗日を破壊するものだからです。

(中略)

 政治的基準といい、芸術的基準という、この両者の関係はどうか。政治は、けっして芸術にとってかわることはできず、世界観一般も、けっして芸術創作や芸術批評の方法にとってかわることはできません。われわれは、抽象的な絶対不変の政治的基準を否定するばかりでなく、抽象的な絶対不変の芸術的基準をも否定するものです。

(中略)

 政治的にはまるで反動的なある種の作品にも、それなりの芸術性がそなわっていることがありえます。内容が反動的で、しかも芸術性が高いような作品は、それだけ人民に害を与える力をもっているわけですから、いっそう排斥しなければなりません。およそ没落期にある搾取階級の文芸に共通する特徴は、反動的な政治内容と芸術的形式のあいだに存在する矛盾にあります。

毛沢東「文芸講話」、小野川秀雄責任編集『世界の名著64 孫文毛沢東中央公論社、一九六九七月二〇日初版、四七五~四七六頁、四七八頁、四七九頁、四八〇頁より引用)

 

 

 私は、この毛沢東に、山路愛山の「文章即ち事業なり。文士筆を揮ふ猶英雄剣を揮ふが如し」という言葉が、極端な形で表現されているのを見るのである。毛沢東は文学や芸術が固有の価値を持たないと言っているわけではない。「政治的にはまるで反動的なある種の作品にも、それなりの芸術性がそなわっていることがありえます」というように、政治的に正しくない作品にも芸術的な価値があることを認めた上で、「内容が反動的で、しかも芸術性が高いような作品は、それだけ人民に害を与える力をもっているわけですから、いっそう排斥しなければなりません」と否定するのである。文芸をプロレタリア革命のための「事業」(この事業という言葉が山路愛山の言葉と同じであることに、奇妙な感慨を覚える)として把握し、その限りで政治に従属せよと毛沢東が中国人民に迫るとき、プロレタリアート主導の政治に反対する人々の創作は存在する空間を持たない。そう考えると、私のややリベラルな感性が、流石にそれはないのではないかという気持ちを起こす。しかし、私は同時に、専門の批評家として活動した小林秀雄よりも、「日本人民とドイツ人民の利益」のために抗日戦争を辞さないと宣言した毛沢東に痛快なものを感じるのである。この毛沢東に対する私の愛着は、リベラルな政治的には正しくない感情である。遠藤誉は中華人民共和国建国後、一九六〇年代に世界人民全体のプロレタリア革命を目指して文化大革命が、結局中国人の封建意識を克服できずに迷走した果てに、一九七八年の改革開放路線採用後の現在は共産党が率先して金儲けに狂奔し、毛沢東時代には考えられなかった貧富の格差の拡大を招いたことを指摘しているが(この事情については、遠藤誉『拝金社会主義中国』筑摩書房ちくま新書八二九〉、二〇一〇年二月一〇日第一刷を参照した。)、このような現代中国の修正主義が毛沢東路線の失敗だったことを知りながらも、なお小林秀雄よりも毛沢東に愛着を感じるのだ。

 

 抗日戦争終結後も、毛沢東は日本に好意的であった。清水美和は戦後の毛沢東の対日観について以下のように述べている。

 

 毛にとって抗日戦争の勝利とは、日本に革命がおきて真に成就されるものであった。それは「帝国主義戦争を内乱へ」というマルクス・レーニン主義の戦略に基づくものであるが、日本と中国の革命を「一つのもの」と考えた孫文の影響も感じられる。

 日本革命を中国革命と不可分のものと考える毛にとっては、日本人による戦争への謝罪など大きな問題ではなく、日本人捕虜も将来の日本革命の先兵とするべく、できるだけ寛大に扱った。中国の大衆にも「日本軍国主義有罪、日本人民没有罪(日本軍国主義に罪があり、人民に罪はない)」と、歌うように教え込んで反日感情を抑制した。

清水美和『中国はなぜ「反日」になったか』文藝春秋〈文春新書三一九〉、二〇〇三年五月二〇日第一刷、六九~七〇頁より引用)

 

 日本軍による南京攻略やシンガポール攻略を提灯行列で祝い、自ら皇軍の神兵として進んで戦いながら、戦後マッカーサーGHQ史観をあっさりと受け入れて自らの戦争責任を総括せず、日本国憲法を片手に平和と民主主義音頭を踊った「日本人民」に罪がないかはさておき、抗日戦争を先頭に立って戦いながらも、なお日中両国の民族的憎悪を解消しようと努めた毛沢東の姿に、どうしても胸を打たれるものがあるのだ。

 本章に於いて、何を述べたかったのか。いまいち私自身にも整理できなかったが、要約すると、マルクス主義の失敗はマルクス自身のプロレタリア認識の失敗にあること、マルクスエンゲルスレーニンスターリンは一本線であること、マルクス主義文学論の最極端として毛沢東の『文芸講話』を読むことにより、中国の抗日戦争とプロレタリア革命という具体的な政治に、文芸が従属することは、本章までで北村透谷よりも山路愛山を評価してきた私にとっても、やはりやりすぎなのではないかということである。にも関わらず、私は日本人民を日本帝国主義から助けるために、抗日戦争を戦うのだと語った毛沢東に対して、親愛の情を感じるのだ。或いはこういうべきなのかもしれない。明治大帝の治世は大韓帝国を併合するという失政を含むものであったが、だからといって近代日本を実現した明治時代を全否定するのは誤りであるように、毛主席もその治世に於いて様々な過ちを犯したが、それでも中国の統一を為した毛主席時代を全否定するのは誤りである。人も思想も組織も国家も、その生命の中で全く過ちを犯さずに過ごすということはできない。真面目に生きていれば尚更である。私自身、ゲバラや毛主席の眼で世界を見ていた数年前の自分を、転向した現在から思い返すと赤面汗顔という他ない。私は、未来についてどのように考えるべきかは、今のところ分からないが、それがまだ私には分からないという現在の実感を表明することで、本章を終えよう。

 

七.結論:文学と人生

 

 本稿では、一八九三(明治二六)年に山路愛山と北村透谷の間で行われた「人生相渉論争」を題材に、文学がどのような役割を果たすべきか、そしてそもそも「文学」という言葉を透谷のように詩や小説などの「純文学」という言葉で理解したのは正しかったのか、それは、実は「文学」と呼ばれる人間の思考的、表現的活動の幅を狭めてしまい、結果的には目前で展開する現実の国策を文学者が追認するための論理的前提となったのではないかということを、小林秀雄保田與重郎の言説を問題意識にしながら敷衍してきた。しかしながら、「文学」という言葉を愛山のいう広義の文学として、つまり詩、小説の他哲学、思想、経済論、政治論等々を含む人間の思考の表現物一般として捉えた上で、それを「事業」だといった時、当然ながら現実への結果責任が生じざるを得ない。既に三木清マルクスエンゲルスレーニンスターリン毛沢東の理論と、その理論が政治的な現実として実現される際に含んだ失敗を考えるに、文学への態度として愛山が善く透谷が悪いということはできない。以上が、本稿で「近代日本に於ける思想と文学の社会性の起源」を考察した結果として私が述べるところである。

 

 本章では、愛山と透谷の論争から少しだけ視点をずらして、その共通点を探ってみよう。既に確認したように、愛山と透谷は同じ明治時代に「四民平等」の世の下で消えゆく士族階級の出身者として、自らの人生を如何に生きるべきかと問い、その限りで文学の役割を社会的な影響という視点から捉えたのが愛山であり、他方どこまでも文学は個人のものであると捉えたのが透谷であったというのが私の理解である。であるからこそ、対照的に見える両者に共通することは、文学が人生の問題であったということであり、ここに文学を取り払ったところで人生とは何かという書生風の問題意識を接続することが可能であろう。ここでは、二人と同時代の宗教者の立場、キリスト教徒の立場が、どのように人生を捉えたかを検討してみよう。ここでは、愛山、透谷と同じく士族出身のキリスト教徒として、近代日本のキリスト教の一潮流たる無教会派を作り出した、内村鑑三(一八六一~一九三〇)の『後世への最大遺物』という講演を検討する。透谷が首を吊ってから二カ月後の一八九四(明治二七)年七月に行われたこの講演には、当時のエリート予備軍を育てていた一高の教師でありながら、キリスト教徒として創造神を信じる良心の立場から教育勅語への最敬礼を拒否した「内村鑑三不敬事件」によって教職を辞めることを余儀なくされた後の内村の心境が吐露されており、非常に興味深い内容となっているからである。まずは本講演での内村の人生観を確認しよう。

 

 しかしながら、私にここに一つの希望がある。この世の中をズット通り過ぎて安らかに天国に往き、私の予備学校を卒業して天国なる大学校にはいってしまったならば、それでたくさんかと己れの心に問うてみると、そのときに私の心に清い欲が一つ起ってくる。すなわち私に五十年の命をくれたこの美しい地球、この美しい国、この楽しい社会、このわれわれを育ててくれた山、河、これらに私が何も遺さずには死んでしまいたくない、との希望が起ってくる。ドウゾ私は死んでからただに天国に往くばかりでなく、私はここに一つの何かを遺して往きたい。それで何もかならずしも後世の人が私を褒めたってくれいというのではない、私の名誉を遺したいというのではない、ただ私がドレほどこの地球を愛し、ドレだけこの世界を愛し、ドレだけ私の同胞を思ったかという記念物をこの世に置いて往きたいのである、すなわち英語で言うMemento〔メメント〕を残したいのである。こういう考えは美しい考えであります。

内村鑑三「後世への最大遺物」、『後世への最大遺物・デンマルク国の話』岩波書店岩波文庫〉一九四六年一〇月一〇日第一刷、一九七六年三月一六日第三〇刷改版、二〇〇七年五月二三日第八三刷、一六~一七頁より引用)

 

 

ここから理解できるように、この講演での「遺物」という言葉は、人生五十年の間に後の世に残すものである。次いで内村の文学観を確認しよう。

 

……なるほど『源氏物語』という本は美しい言葉を日本に伝えたものであるかも知れませぬ。しかし『源氏物語』が日本の士気を鼓舞することのために何をしたか。何もしないばかりでなくわれわれを女らしき意気地なしになした。あのような文学はわれわれのなかから根コソギに絶やしたい(拍手)。あのようなものが文学ならば、実にわれわれはカーライルとともに、文学というものには一度も手をつけたことがないということを世界に向って誇りたい。文学はソンナものではない。文学はわれわれがこの世界に戦争するときの道具である。今日戦争することはできないから未来において戦争しようというのが文学であります。

(前掲書、四一頁より引用)

 

 

 内村の女性観は、ここでは差し当たり問題にしない。北村透谷が首を吊ったのと同じ年に行われたこの講演では、「文学」という言葉はまだ詩や小説のみの「純文学」の意味にはなっていない。山路愛山がこの前年に「文章即ち事業なり。文士筆を揮ふ猶英雄剣を揮ふが如し」と述べたのを、内村鑑三が「文学はわれわれがこの世界に戦争するときの道具である。今日戦争することはできないから未来において戦争しようというのが文学であります」と全く同じ内容に言い換えている。内村は愛山の直系である。なお、この講演内で内村は愛山同様「文学」を「事業」と言っていることに注意しよう。そして、このような文学観を前提にした上で、しかしながらと内村は続けている。

 

 それで金も遺すことができず、事業も遺すことができない人は、かならずや文学者または学校の先生となって思想を遺して逝くことができるかというに、それはそうはいかぬ。しかしながら文学と教育とは、工業をなすということ、金を溜めるということよりも、よほどやさしいことだと思います。なぜならば独立でできることであるからです。ことに文学は独立的の事業である。今日のような学校にてはどこの学校にてもMission School〔ミッションスクール〕を始めとしてどこの官立学校にても、われわれの思想を伝えるといっても実際伝えることはできない。それゆえ学校事業は独立事業としてはずいぶん難い事業であります。しかし文学事業にいたっては社会はほとんどわれわれの自由に任せる。それゆえに多くの独立を望む人が政治界を去って宗教界に入り、宗教界を去って教育界に入り、また教育界を去ってついに文学界に入ったことは明らかな事実であります。多くのエライ人は文学に逃げ込みました。文学は独立の思想を維持する人のために、もっとも便益なる隠れ場所であろうと思います。しかしながらただ今も申し上げましたとおり、かならずしも誰にでも入ることのできる道ではない。

 ここにいたってこういう問題が出てくる。文学者にもなれず学校の先生にもなれなかったならば、それならば私は後世に何をも遺すことができないかという問題が出てくる。何かほかに事業はないか、私もたびたびそれがために失望に陥ることがある。しからば私には何も遺すものはない。事業家にもなれず、金を溜めることもできず、本を書くこともできず、ものを教えることもできない。ソウすれば私は無用の人間として、平凡の人間として消えてしまわなければならぬか。

(前掲書、五一~五二頁より引用)

 

 

 一八九〇(明治二三)年に内村は自らキリスト教の創造神を信じる立場から教育勅語への最敬礼を拒否し、その結果一高教師の地位を喪った。つまり、人生をどう過ごすかという問題に真摯に取り組み、挫折した者として、講演の聴者に語っている。そのような教育界を追われた挫折者として「しかしながら文学と教育とは、工業をなすということ、金を溜めるということよりも、よほどやさしいことだと思います」と内村が述べる時、そこでは実社会での成功よりも容易なものとして文学と教育が認識され、にも関わらず「かならずしも誰にでも入ることのできる道ではない」と、その難しさを論じているのである。

 当然ながら、文学は難しい。和歌や詩を作れば必ずその出来の善し悪しが評価され、小説や評論、さらに「広義の文学」である経済論や政治論に於いても、その出来が問題となるのは当然である。批評とは、そのように表現された作品の中が、どのように善く、どのように悪いかを明らかにする知的営為であるが、自分の作品が批評によって悪く言われれば、それが正しい批評であったとしても、納得しがたいのは当然であろう。思想と文学には才能と、物を継続して考える胆力、精神力が必要であり、残念ながらそれは誰にでもできることではない。『源氏物語』を否定する内村は、いま私の述べたような意味では文学の価値を定義していないが、要するに機根が大切だという点では同様である。以上を認識した上で、一人の挫折者として内村はこう問題を提起するのである「事業家にもなれず、金を溜めることもできず、本を書くこともできず、ものを教えることもできない。ソウすれば私は無用の人間として、平凡の人間として消えてしまわなければならぬか」。

 

 この講演の前年に行われた「人生相渉論争」では、文学がどのような役割を持つのかということが論争の争点であり、透谷は「美」を、愛山は「事業」をその価値基準として評価した。内村は文学を「事業」として捉える点では愛山と同じだが、かつて奉職していた教育界を追われ、文学を誰にでもできることではないと捉える際に、透谷と愛山にとっては問題とならなかった「平凡の人間」がどう生きるかということが改めて問題となってくるのである。思えば、文学が事業であることを否定した透谷も、自らの人生を通して近代的な恋愛至上主義という観念と、そのための純文学という概念を遺すという事業を成し遂げたのであった。当人は意図していなかっただろうが、三木清が述べたように、「人間のすべての行為は歴史的である、それが歴史的であるというのは、行為が出来事であるということ、行為が同時に生成の意味をもっているということ、我々の為すものでありながら我々にとって成るものの意味をもっているということである」。これを第二次世界大戦後のマルクス主義者に倣って「疎外」とはいうまい。それは、人間が言語によって社会生活を送る限り、意図せずとも、たとえ否定しようとも、前提となってしまうのだ。この問題ついて、内村はどのような解答を出したか。内村の解答はかくの如きである。

 

 しかれども私はそれよりモット大きい、今度は前の三つと違いまして誰にも遺すことのできる最大遺物があると思う。それは実に最大遺物であります。

(中略)

 それならば最大遺物とは何であるか。私が考えてみますに人間が後世に遺すことのできる、ソウしてこれは誰にも遺すことのできるところの遺物で、利益ばかりあって害のない遺物がある。それは何であるかならば勇ましい高尚なる生涯であると思います。これが本当の遺物ではないかと思う。他の遺物は誰にも遺すことのできる遺物ではないと思います。

(前掲書、五三頁、五四頁より引用)

 

 

 内村は、金も事業も文学も教育も遺すことができない、「平凡の人間」が遺せる最大遺物として、「勇ましい高尚なる生涯」を挙げるのだ。そうして内村が模範にする人間は二宮尊徳であり、果たして誰もが二宮尊徳のように生きられるかというと私からは疑問なのだが、ここに一つの近代日本の人生論の型ができたと言えるのではないだろうか。内村は本講演を以下のようにして締めくくっている。

 

……われわれに後世に遺すものは何もなくとも、われわれに後世の人にこれぞというて覚えられるべきものはなにもなくとも、アノ人はこの世の中に生きている間は真面目なる生涯を送った人であるといわれるだけのことを後世の人に遺したいと思います。(拍手喝采

(前掲書、六九頁より引用)

 

 

 内村鑑三キリスト教徒として講演しているが、五十年の人生の中で果たして普通の人間に何ができるのかという問いと、結局は真面目に生きることしかないという内村の答えは、とくに宗教の信仰者ではなくとも、一つの類型としての普遍性を持つであろう。別に目新しいことではなく、ごくごく普通の、常識的な結論である。しかしながら、普通であり、常識的であるということは見失われやすい。どれだけダダイストや破滅論者を気取ろうとも、真剣にそれをやり抜こうとする限りは、真面目さが必要であろう。この極々平凡な結論を以て、本稿を終えることにする。

 

 

八.参考文献

 本文中で引用したものを含め、本稿の執筆に際して特に参考にした文献を列挙する。

 

現代社会に関する知見を得たもの

山下範久『現代帝国論――人類史のグローバリゼーション』日本放送出版協会NHKブックス一一二四〉、二〇〇八年一一月二五日第一刷発行〔アントニオ・ネグリマイケル・ハートの〈帝国〉を軸に、二〇〇〇年代の問題意識を整理しなおしたもの。私の現代社会認識の基礎になっている。〕。

科学認識に関する知見を得たもの

・イマニュエル・ウォーラーステイン『新しい学――21世紀の脱=社会科学』山下範久訳、藤原書店、二〇〇一年三月二五日初版第一刷発行。

・イマニュエル・ウォーラーステイン『脱商品化の時代――アメリカン・パワーの衰退と来るべき世界』山下範久訳、藤原書店、二〇〇四年九月三〇日初版第一刷発行。

・イマニュエル・ウォーラーステイン『ヨーロッパ的普遍主義――近代世界システムにおける構造的暴力と権力の修辞学』山下範久訳、明石書店、二〇〇八年八月一二日初版第一刷発行。二〇〇九年三月二五日初版第二刷発行。

・犬飼裕一『方法論的個人主義の行方――自己言及社会』勁草書房、二〇一一年三月三〇日第一版第一刷発行。

 

マルクス主義に関するもの

・太田仁樹『レーニンの経済学』御茶の水書房、一九八九年六月一日第一版第一刷発行。

・太田仁樹「第五章レーニン」丸山敬一編『民族問題:現代のアポリア』ナカニシヤ出版、一九九七年四月二五日初版第一刷発行、一九七~二一八頁。

・太田仁樹「第六章スターリン」丸山敬一編『民族問題:現代のアポリア』ナカニシヤ出版、一九九七年四月二五日初版第一刷発行、一九七~二一八頁。

・太田仁樹「マルクス主義理論史研究の課題 (XIV) ――マルクス、修正主義論争、ボリシェヴィズム――」『岡山大学経済学会雑誌』三七(一)、二〇〇五年六月一〇日、八九~一〇二頁〔太田仁樹氏のマルクス主義研究からは大きな影響を受けたが、とりわけ大きな影響の受けたのはこの論文であり、本稿でのマルクス主義概論、マルクスレーニンスターリンを一本線で見る視点も、この研究に負っている。なお、岡山大学のウェブサイトにて氏の他の論文と共に閲覧可能である。 http://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/metadata/12421。〕。

 

日本思想史に関するもの

・内山弘『三木清――個性者の構想力』御茶の水書房、二〇〇四年八月一六日

第一版第一刷発行〔三木清を強く愛する学者による研究書。擁護バイアスが強いが、三木がドイツで師事したハイデガー九鬼周造など、三木清が生きた同時代の哲学者と三木哲学の関わりが比較されており、大いに参考になった。〕。

坂本多加雄山路愛山』日本歴史学会編、吉川弘文館人物叢書 新装版〉、一九八八年九月一〇日第一版第一刷発行。

坂本多加雄『知識人――大正・昭和精神史断章』読売新聞社〈二〇世紀の日本一一〉、一九九六年八月。

・永野基綱『三木清清水書院〈人と思想一一七〉、二〇〇九年四月二〇日第一刷発行。

・鷲田田小彌太『昭和の思想家67人』PHP研究所PHP新書四七四〉、二〇〇七年八月二四日第一版第一刷〔戦前昭和の日本思想、とりわけ日本マルクス主義研究に多大な示唆を受けた。ただ、戦後思想と戦後新宗教に弱いのが難点。〕

 

中国に関するもの

于紅「第二次幣原外交期における中国の国号呼称問題――「支那共和国」から「中華民国」へ(研究)」『お茶の水史学』四六、二〇〇二年一一月、七九~一〇八頁〔ciniiより閲覧可能http://ci.nii.ac.jp/naid/110005944261〕。

・遠藤誉『拝金社会主義中国』筑摩書房ちくま新書八二九〉、二〇一〇年二月一〇日第一刷発行。

清水美和『中国はなぜ「反日」になったか』文藝春秋〈文春新書三一九〉、二〇〇三年五月二〇日第一刷発行。

 

 

九.謝辞

 以上のように、本稿では明治時代の二人の書生の論争と、近代日本の中国との戦争を軸に、その後の日本の思想家と、現実に存在したマルクス主義マルクスエンゲルスレーニンスターリン毛沢東主義を検討してきました。このような試みに何の意味があるかを問われれば、本論中で再三繰り返してきましたように、それは哲学、歴史学、経済論、政治論などを含む、「文科の学」を意味していた明治時代の「文学」が、詩やその小説のみを意味する「純文学」となった後に、見落としてしまったことが余りにも多いのではないかという、今日の論壇や文学の世界をチラリと見た時に感じる筆者の素朴な疑問が筆者だけのものではないだろうという希望と、「科学」という制度によってバラバラに区分された文章による表現そのもののジャンルを再統合するための視座を提供したいという野望に応じるため、と答える他ありません。その試みがどれだけ成功したかについては読者の判断に任せるしかなく、また本書で私が検討した個々の論者――とりわけ北村透谷、小林秀雄保田與重郎――の支持者にとっては納得いかない点が多々あるかと思います。分不相応を承知で、これまでに筆者が読んできたものと考えてきたことを表現した結果であり、相当に無理をしつつも山路愛山が言ったように、一人の文士として剣を揮うが如きに文字を重ねてきました。当初愛山と透谷の先駆者として扱う予定だった日本仏教の祖師達、法然親鸞蓮如日蓮について、また内村鑑三の章で扱う予定だった『徒然草』は結局検討できず、読み返してみると散漫で繰り返しが多く、引用ばかりであり、また逆に説明不足でよく解らない部分や今気付いていない誤謬も多々あるかと思います。このように苦しい作品となりましたが、もしも本稿が現在の混沌とした思想界、文學界、精神界や読者諸氏の人生について再考するのに裨益することがあれば、身に余る喜びであり、もしも私に思うことがあれば、透谷が愛山にしたように手心のある批判を下されば幸いです。

 私事ばかりになりますが、去年、私が高校の頃から信奉していたある世界観から決定的な転向を遂げるに際し、昭和の大獄で捕まった人々――宇都宮徳間や太宰治が私の模範です――が書いたように、転向宣言を書こうとし、精神と体調に変調を来して書けずじまいだったということがありました。長らく書こう、書こうと思っていた主題だったのですが、不精ゆえ今回、土塊氏に書いてくれと言われなければ恐らく死ぬまで書かず仕舞いだったでしょう。発表の機会を下さった編集者の土塊氏並びに、本稿を書くに際して多大な学恩を受けた先達諸氏、とりわけイマニュエル・ウォーラーステイン氏の社会科学論、太田仁樹氏のマルクスレーニン主義研究、山下範久氏の現代社会論、坂本多加雄氏と鷲田小彌太氏の近代日本思想史研究、そして物心両面で資料収集に御協力下さった市立図書館の職員の皆様と電網[インターネット]界の知己諸氏、とりわけ研究書を寄贈下さった佐間凛氏及び煙人計画氏と、本稿を校正下さった西田ゆたか氏にこの場を借りて感謝を捧げます。本当にありがとうございました。

 

二〇一三(平成二五)年六月二四日

 

追記:引用文中の誤字脱字の訂正のお知らせ(二〇二三年八月二十八日)

この度、本稿における引用文を確認していたところ、マルクスエンゲルスの『共産党宣言』(岩波文庫)と、鎌田敏輝氏の「大乗的非戦論の構築に向けて」につきまして、引用文に不正確な部分が存在したことが判明しました。本日、その部分を訂正すると共に、以下に誤りの部分を記します。『共産党宣言』訳者の大内兵衛向坂逸郎の両氏、および、「大乗的非戦論の構築に向けて」著者の鎌田敏輝氏に不正確な引用についてのお詫びを申し上げます。

 

マルクスエンゲルス大内兵衛向坂逸郎〔訳〕『共産党宣言岩波書店岩波文庫〉1971年2月16日第33刷改訳発行。

誤 その他の階級は、大工業が起こるとともに衰退し、滅亡する。

正 その他の階級は、大工業が起るとともに衰退し、滅亡する。


鎌田敏輝「大乗的非戦論の構築に向けて」『日蓮信仰のスケッチ』展転社、1996年11月11日第1刷発行。

誤 あえて極言するが、アメリカが広島、長崎に原爆を投下した行為や、ソ連が日ソ中立条約を破って日本に侵攻してきたことも皆祖国の皆祖国の自存自衛の為にやったことであろう。

正 あえて極言するが、アメリカが広島、長崎に原爆を投下した行為や、ソ連が日ソ中立条約を破って日本に侵攻してきたことも皆祖国の自存自衛の為にやったことであろう。

誤 再度言うが、自衛という概念は相対的なもので、その真理性は証明し尽せない。自衛という発想は人間の本能に根拠したもので、相手が善であれ悪であれ、自己を防衛する為に戦うのが即ち自衛である。それについて象徴的な話は、蒙古襲来に際して述べられた日蓮聖人の次の言葉である。「国は亡びるとも謗法は少なくなりなん」。単なる自衛という発想を価値とはされていない。

正 再度言うが、自衛という概念は相対的なもので、その真理性は証明し尽せない。自衛という発想は人間の本能に根拠したもので、相手が善であれ悪であれ、自己を防衛する為に戦うのが即ち自衛である。自国が正義に根拠しておろうがおるまいが、相手が攻めてくれば戦うのが即ち自衛である。それについて象徴的な話は、蒙古襲来に際して述べられた日蓮聖人の次の言葉である。「国は亡びるとも謗法は少なくなりなん」。単なる自衛という発想を価値とはされていない。

*1:この経緯については参考文献に挙げた論文、于紅「第二次幣原外交期における中国の国号呼称問題――「支那共和国」から「中華民国」へ」を参照のこと。ciniiで閲覧可能である。

*2: 国体論とは、天皇についての議論を意味する戦前の用語である。里見岸雄はそれまでの観念的、宗教的な国体論を空想的国体論と呼び、対して自らの国体論を科学的国体論と呼んだ。

*3: あるいは「国民」、「国家」とも訳し分けられる。いずれも英語でのnationの訳語である。

*4: 一九世紀後半からロシア革命まで、「社会民主主義者」とは共産主義者マルクス主義者を意味しており、レーニンスターリンも革命前は自らの立場を示すのにこの言葉を用いている。