【読書録】猪木正道、勝田吉太郎編『世界の名著42――プルードン バクーニン クロポトキン』中央公論社、1967年11月20日初版発行。

猪木正道勝田吉太郎編『世界の名著42――プルードン バクーニン クロポトキン中央公論社、1967年11月20日初版発行。

 

近代アナキズムの主導者の作品を集めたアンソロジー。編集に当たった猪木正道氏、勝田吉太郎氏は共に保守派の学者だが、猪木正道氏が1930年代の軍国主義が世を覆い、日本共産党が転向によって壊滅していた若き日に、ヴェーラ・フィグネルとバクーニンを読むことで、内面の自立性を確保したという思い出話から本書は始まる。単なるアナキズムの選集であることを超え、戦時下の日本の現実に実はアナキズムの精神が生きていたことを知ることができるこの部分だけでもぜひ読んだ方が良い。

 

また、付録の月報の鼎談「ロシア革命アナーキズム」にて、編集に当たった猪木正道氏、勝田吉太郎氏が、明治期からの社会主義者(ボル派)である荒畑寒村氏と共に日本の革命運動について話し合っているのが非常に面白いので、こちらも是非読むべし。

 

“ 国家権力の、いわば可視的な暴政とは異なる意味での、社会の不可視的な暴の可能性について透徹した洞察力を示したのは、バクーニンであった。彼は、人間に対する国家の「公式の、したがって暴力的な権威」と、「非公式な、そして自然な社会的影響」とを区別した。そして彼は、社会の圧力が国家権力よりもいっそう強大であり、根強いものであることを看過しなかった。「社会的圧制は、国家権力を特徴づける、合法化された公式の暴政、あの権柄ずくの暴力といった性格は示さない。それはまた、違反すれば刑罰を科するという恐怖によって、人々を服従させる法律の形でたち現れるのでもない。その作用は、国家権力のそれと比べて、いっそうもの柔らかであり、より婉曲であり、また目立たないものではあるが、それだけにいっそう強力なのだ」(本書二五二~二五三ページ)(引用者註:この引用部はバクーニンの「神と国家」からの引用となる)。ここからバクーニンが導き出す結論は、社会的圧制に対する人間の反逆が、国家に対する反逆よりもはるかに困難であり、ほとんど不可能に近い、ということであった。

 未来の無権力社会――「自由人の社会」がひとたび実現をみた暁には、国家とその権威主義的な法律の体系は消滅するはずであった。しかしそのかわりに、社会的世論の指導が登場するであろう。ところで世論が規制力を発揮するのは、比較的小規模な共同社会であろう。事実、大半のアナーキストは、明示的にか、暗黙のうちにか、小規模な共同体から成立する世界を夢みるのである。このような共同体においては、各人は万人の直接の監視下にたち、その行動はすみずみまで彼らの意見によって規制されることになるであろう。しかしながら、こうした小規模な共同体において、隣人の目や世論が法律に代わる役割を果たす時、それは想像しうるかぎりの、最悪かつ戦慄的な暴政を惹起する可能性が残されているのである。なぜならば、それはあらゆる合法的手続きを欠如した社会的統制であり、不確定かつ曖昧な暴政となるからである。バクーニンがみずから呼んだ、この「しばしば圧倒的かつ致命的な社会の圧制」に対して、アナーキストたちはどのような処方箋を用意しているのであろうか。国家という可視的な暴君の手から個人を解放した後、その個人を、アナーキストは社会という不可視的な、しかしよりいっそう苛酷な暴君の手中へと引き渡してしまう(←46頁47頁→)のではないであろうか。この疑問はアナーキストの社会哲学において解きえない謎のまま残っている。”

勝田吉太郎「神と国家への反逆――バクーニン猪木正道勝田吉太郎アナーキズム思想とその現代的意義」『世界の名著42――プルードン バクーニン クロポトキン猪木正道勝田吉太郎編、中央公論社、1967年11月20日初版発行、46-47頁より引用)

 

 

編者二人による総論の内、バクーニンの思想を解説した勝田吉太郎氏の執筆部であるこの部分は本書でとりわけ重要な点である。アナキスト共産主義者の理想とする無法・無国家社会においては世論が社会を支配し、「こうした小規模な共同体において、隣人の目や世論が法律に代わる役割を果たす時、それは想像しうるかぎりの、最悪かつ戦慄的な暴政を惹起する可能性が残されているのである。なぜならば、それはあらゆる合法的手続きを欠如した社会的統制であり、不確定かつ曖昧な暴政となるからである。」(本書46頁)という重要な指摘がなされている。私は本書でまさに引用されているこのバクーニンの「神と国家」を読み、強い感銘を受けて今まで興味を持つに止めておいたアナキズムの団体の門を叩くことにしたのだが、そうでありながらも同時にこの勝田氏の指摘も尤もだと思うために、私はアナキズムの究極的な目的のある部分には賛同できないのである。というのは、勝田氏はここでは述べていないが、仮にアナキズム共産主義の目標が達成され、国家がなくなった後に残る社会の成員が、特定の少数派――たとえば障害者やLGBT少数民族、少数宗教信徒――に憎悪(ヘイト)を抱いていた場合、そこに国家の法的な救済制度が欠如していれば、その社会は容易に少数派にとって地獄になるであろう。何もこれは頭の体操として述べているのではなく、ヨーロッパやロシアの反ユダヤ暴動(ポグロム)が民衆から自然発生的に生じたことを思い起こして欲しい。国家の権力的な部分(とりわけ軍事力)を廃絶するという点でアナキズムの理想は現在も生きるが、国家が法律によって人々を保護するという点まで含めて完全に国家を廃絶するのが正しいとは思えないのである。いずれこの立場を黒色社会民主主義として文章にまとめる予定だが、勝田氏のこの指摘は頭に止め置かれたい。では、私がアナキズムに反対なのかというとそんなことはない。本書に収録されている三人のアナキストの精神といい、解説にて触れられている幸徳秋水大杉栄といった日本のアナキストの実践活動といい、アナキズムには燃えるような熱情と春風のような爽やかさが満ち溢れている。そして、幸徳秋水大杉栄がそうしたことで非業の死を遂げたように、究極的な理想としての無法・無国家社会を基準にしないと批判し得ない、現実の国家悪や社会悪というものはいつの時代にもどの国にも存在する。私はアナキズムは、無法・無国家社会を自らの参照軸にした上で行われる過程であり、実践であると考える。だから、究極的な理想である無法・無国家社会が実現するかといったことは余り思い詰めて考える必要はないし、そのための理論の体系を築き上げる必要もないと思っている。この点について、「世界で一番貧しい大統領」こと、南米ウルグアイホセ・ムヒカ前大統領は、大統領でありながらアナキストであるのは難しくないのかと尋ねるインタビューに答えてこのように述べている。

 

“「無政府主義(引用者註:アナキズムを日本語ではこのように訳する)について話しましょう。無政府主義者でありながら国家元首でもあるのは難しくはないですか?あまり理解してもらえないのではないでしょうか」

「それは、瞬間的な、歴史的な時間の問題だ。私は、昔から無政府主義者だ。一番効果的な国家改革は、国家をなくすことだ。問題は、私たち人間が国家なしでは生きられないということだ。これは私たちの短所の表れだ。人類の歴史の九割には、国家は存在しなかったのだがね。国家が存在するということは、社会に階級が存在しているということの証明だ。一部の人間が他の人間を支配するようになると登場する。防衛大臣や内務大臣、外務大臣が任命されると政府ができる。政府が最初にやるのが、まずこういうポジションを決めて、国民をコントロールすることだ。経済大臣でも教育大臣でもないんだ」

「あなたも政府にやられたということですか?」

「ああ。だが無政府主義の共和国は、戦車の下敷きになって滅びたのであって(引用者註:スペイン内戦の際にアナキストが入閣していたスペイン共和国を指しているのだと思われる)、ソビエト連邦のように錆びついていったわけじゃない。だから今も無政府主義にはあかりが灯ったままなのさ」”

(アンドレス・ダンサ、エルネスト・トゥルボヴィッツ/大橋美帆訳『ホセ・ムヒカ――世界でいちばん貧しい大統領』KADOKAWA〈角川文庫〉、2016年3月25日初版発行、40-126頁より引用)

 

 

"『社会主義』という言葉はかなり複雑だ。単純に言うと、人間にとって最も基本的な権利を獲得することだ。人間同士の基本的な平等のために闘うことだ。政治の世界で起こっていることはとても重要なことのように見える。だが、シンプルにわかりやすく説明できないことは、実はそれほど重要ではないのだ。"

(アンドレス・ダンサ、エルネスト・トゥルボヴィッツ/大橋美帆訳『ホセ・ムヒカ――世界でいちばん貧しい大統領』KADOKAWA〈角川文庫〉、2016年3月25日初版発行、40-41頁より引用)

 

 

私が考えるアナキズムとは、理想とする無法・無国家社会と現在自分が現実に生きる社会を比較した上で、現在の自分の生きる社会をより人間的なものに変えていく実践と過程であり、だからこそホセ・ムヒカアナキストでありながらも国家権力の指導者=大統領であることは何らおかしいことでも矛盾でもない。大統領になって国家権力を掌握することでアナキズムが理想とする人間らしい自由な社会に近付けるのならば、そうすることがアナキストの務めであると私は考える。もちろん、アナキストが10人いれば10通りのアナキズムがあるので、これは私のアナキズムにすぎない。私は黒色社会民主主義者/社民アナキストという形でアナキストだが、「反体制」、「自由な生き方」、「助け合い」を大事にするということを緩やかな共通点として、他にも多くのアナキズムの形が存在する。もしも本書に興味を持たれた方は、本書に収録された示唆に富む素晴らしい解説と、プルードンバクーニンクロポトキンという古典アナキストの作品を通して、自分なりのアナキズムの形成に役立てて欲しい。

 

 

プルードン/渡辺一訳「十九世紀における革命の一般理念」(原著1851年、本書71-236頁)

 

”理念はその対立者によって明確化される。革命が明確化されるのは、まさに反動によってなのだ。”(本書94-95頁より引用)

 

“……社会そのものに修正を加えようとすることなどは、問題外なのだ。われわれは社会を、独自の生命を付与された、より上位の存在として考えなければならない。したがって、社会の自由自在な再構成というような考え方は、すべてわれわれにとっては問題外なのである。”(本書119頁より引用)

 

 

プルードンは、国家よりも社会に反対する方が難しいと認めながらもなお社会への反乱を説く「神と国家」(本書237-282頁に採録)のバクーニンとは異なり、少なくとも本書で伺える限りでは、社会への反乱を最初から諦めている。

 

・本書152-173頁にてプルードンはルソーの『社会契約論』を、”ルソーは、圧制を、彼が言うように、人民から由来せしめることによって、それを再組織し、品位あるものにしようとする”(本書164頁より引用)、”以上のような仕方で、長いあいだ、自分の読者たちを愚弄したのちに、また社会契約という欺瞞的な表題のもとに、資本主義的・重商主義的圧制の法典を作成したのちに、このジュネーヴのいかさま師(ルソー)は、プロレタリアートの必要性、労働者の従属、独裁制および宗教裁判に賛成の結論を下したのである。”(本書166頁より引用)と左から猛批判する。アナキズムの真骨頂なのでぜひご一読いただきたい。

 

プルードンフランス革命ジャコバン派の人物の中で、ダントンを高く評価し(本書210頁)、ロベスピエールには批判的である(本書192-193頁)。この傾向はバクーニン(本書362頁)にも共通しており、フランスのマルクス主義者の間でその後ロベスピエールが高く評価されていた事実と照らし合わされると興味深い。アナキストはダントンを、マルクス主義者はロベスピエールを好む傾向があると一般的にいえるのではないか。逆もまた然りである。

 

 

“ ロベスピエールは、人民に対して公会の尊重を説くことによって、人民を公共の場から遠ざけ、かくてテルミドールの反動を準備した人々の一人であった。”(本書193頁より引用)

 

“ だがついに、委員会の独裁を終わらせることの必要性について語っていたダントンが、最初に革命裁判所に引き渡され、その穏和主義を非難され、そして処刑台へ送られた。不幸な人よ!おそらく彼は、デムラン、エロ=セシェル、ラクロワとともに、九三年の憲法を信じ、あるいは少なくともその憲法の実験をしようと望んでいた唯一の人であった。そして彼は断頭台の露と消えた。熟練者たちの目には、直接政府は完全なペテンであった。ロベスピエールは、この秘密が探り出されないように大いに意を用いた。ルソーの几帳面な弟子であるロベスピエールは、ルイ・ブランが最近にそうしたように、明確に、精力的に、つねに間接政府の支持を表明していた。ちなみに、間接政府とは、一八一四年および一八三〇年の政府、すなわち代議的政府にほかならないのである。”(本書210頁より引用)

 

“ もしも神がないならば、それを創り出す必要がある、というヴォルテールの言葉に従って、彼ルソーは、自然神教の抽象的で不毛な神、あの最高存在を創作したのである。そして、ほかならぬこの最高存在と、最高存在の命じる偽善的な徳の名において、ロベスピエールはエベール派を手はじめに、次いで革命の天才ダントンをギロチンにかけたのだ。ダントンを殺すことによって、ロベスピエールはその実、共和国を血祭りにあげたのであり、さらにまた、今や必然となったボナパルト一世の独裁の勝利を整えたのである。”

バクーニン勝田吉太郎訳「鞭のドイツ帝国と社会革命」、本書362頁より引用)

 

 

バクーニン勝田吉太郎訳「神と国家」(原著1871年、本書237-282頁)

 

本書で、というよりも私がこれまでに読んだアナキストの文献で、最も強い感銘を受けたもの。上述した通り、2020年の夏の終わり頃にこの論文を読んだことをきっかけに、それまで漠然とした興味と憧れを持つに止めていたアナキズムにもっと触れてみたいと思い、アナキズム団体の門を叩くことを決めたのであった。その意味でこのバクーニンの論文は私をアナキストにした。

 

 

“……人間はゴリラの状態を抜け出して、やっとのことで自己の人間性に目覚め、自由を実現するところまできたのだ。人間は当初、この自覚も自由も持つことができず、獰猛な獣ないしは奴隷の状態で生まれ出る。人間は社会のふところに抱かれてのみ、はじめて人間らしくなり、徐々に自由になっていく。そしてその社会は、彼の思想、言葉、意志が形成されるはるか以前に厳存しているのだ。ところで人間は、みずからを人間として解放するためには、この社会の過去から現在にいたる全成員の集団的努力によるほかなしえないのだ。ここにおいて社会は、彼の人間的生存の自然な出発点となり、またその基盤となる。

 ここから次のように結論できよう。すなわち、人間は彼をとりまくいっさいの人々の尽力によって補完される場合にのみ、また社会の労働や社会の集団的な力のおかげを受けてはじめて、自分の個人的自由も人格も実現することができたのである。また社会の枠外に独りたたずむとき、人間は地上に生息する野獣のなかでも、おそらくはいつももっとも愚昧で、みじめな存在にすぎないのである。”(本書247頁より引用)

 

“ 人間が自分自身の自然の軛から解放されるのは、つまり自分自身の肉体的本能や衝動をしだいに発達向上する自己の知性の統制に服従させるのは、教育と訓練のみによって可能となるにすぎない。ところでこの教育といい、訓練といい、いずれもすぐれてもっぱら社会的な事がらなのだ。社会の外にあるかぎり、人間は永久に野獣ないし聖人のままにとどまるであろう。しかし聖人といい野獣というのも、結局はほとんど同じである。

 最後に孤立した人間は、自分の自由を自覚することはできない。人間にとって自由であるということは、他の人々、彼らをとりまくすべての人によって、自由な人間として尊重され、認められ、またそう取り扱われることを意味する。したがって、自由とはけっして孤立ではなく相互作用を、排除ではなくして結合を意味するのだ。さらに、各人の自由は、あらゆる自由な人間たち、兄弟たち、平等者たちの意識のなかで、自己の人間性や人間としての権利が反映されることを意味するものにほかならないのである。

 私は、他の人々と向き合い、他の人々と交わっているときだけしか、自分自身が自由であると感じることはできないし、またそう言うこともできないのだ。下等動物を前にして、私は自由でもないし、人間でもない。なぜなら、この動物は私の人間性を理解できないし、したがってまた、これを承認することなど思いもよらないからだ。私が私自身自由であり、人間であるのは、私が私をとりまくあらゆる人々の自由と人間性とを認めるかぎりにおいてにすぎない。彼らの人間性を尊重することによってはじめて、私も自分の人間性を尊重できるのだ。自分の囚人を食う食人種は、囚人を人間ではなく野獣として扱うのであるから、彼自身も人間ではなく野獣である。奴隷の主人も人間ではなく、単に主人であるにすぎない。なぜといって、奴隷の人間性を無視する以上、彼は自分自身の人間性をも無視しているからだ。

 古代社会全体は、これについての好個の例証を与えている。たとえば、ギリシア人やローマ人は、彼ら自身、人間として自由であるなどとは考えてもみなかったし、お互いを人権の面で平等の権利を持つものだと見なすこ(←249頁250頁→)とはなかった。彼らはギリシア人として、あるいはローマ人として特権者だと信じていたが、それも、彼らが自分自身の祖国のうちにある場合にすぎず、また彼らの国が、その民族神の特別の庇護を得て独立を保持し、征服などはされず、逆に他国を征服し続けるかぎりにおいてそう信じていたのであった。それゆえに、うち破られて彼ら自身奴隷の身分に転落したときにも、彼らは抵抗する権利や義務があろうなどとは、夢にも考えなかったし、それを不思議にも思わなかったのだ。”(本書249-250頁より引用)

 

“ 私が真に自由であるのは、私をとりまく万人が、男であれ女であれ、同等に自由である場合にすぎない。他人の自由とは、私の自由の制限であったり、否定であったりするどころか、これとは逆に、私の自由の必要条件であり、その確証なのだ。私自身が真に自由になれるかどうかは、ひとえに他の人々の自由にかかっているのであり、したがってまた、私の周囲の自由な人間の数が多くなればなるほど、そして彼らの自由が深くかつ広くなればなるほど、私の自由もよりいっそう拡大され、より深く、より十分なものとなるのだ。”(本書251頁より引用)

 

 

自由主義者が自らの理論的出発点として「個人の自由」を主張するのに対し、バクーニンは社会があってこそ個人は自由になれるのだと説く。この点こそが、同じく「自由」を尊重しつつも、アナキスト自由主義者が決定的に異なる点ではないか。

 

“……しかし、ここで十分にわきまえておかなければならないことがある。この点を理解するため、まずはじめに次のような区別をしなければならない。すなわち、官権的な、したがって国家に組織された社会の圧制的な権威と、他方、非官権的社会、自然的な社会が、その全成長に及ぼす自然な影響力や作用とのあいだの厳密な区別がこれである。

 社会が及ぼすこうした自然な影響力に対して個人が反逆することは、官憲的に組織された社会、つまり国家に対して反逆するよりも、はるかに難事である。もっとも、こうした反逆も国家に対するそれと同様、しばしば不可避となってくるのではあるが。多くの場合に壊滅的な災厄を与えるこの社会的圧制は、国家権力を特徴づける、(←252頁253頁→)合法化された公式の暴政、あの権柄ずくの暴力といった性格は示さない。

 それはまた、違反すれば刑罰を科するという恐怖によって、人々を服従させる法律の形でたち現われるのでもない。その作用は、国家権力のそれと比べて、いっそうもの柔らかであり、より婉曲であり、また目立たないものではあるが、それだけにいっそう強力なのだ。それは人間を習慣や風俗、多数の情緒、偏見、物質生活および知性や感情生活の習慣、さらには、いわゆる世論によって支配するのだ。それは、人間が生まれ落ちたときからずっと彼をとらえ、彼を貫き、浸透し、その個人的存在の基礎自体を形成している。したがって各人は、多かれ少なかれ自分自身の意に反して、社会の一種の共犯者なのであり、しかもたいていの場合、自分ではそれと気づいていないありさまである。

ここから、次のように結論できよう。すなわち、自分のうえに及ぼされる、社会のこうした自然的影響力に反逆するために、人間は、少なくとも部分的には、自分自身に対して反逆しなければならないのだ。それというのも、人間は自分自身の物質的、知的ないし道徳的のいっさいの傾向性や希求もろとも、この社会によって生み出されたものにほかならないからである。人間に及ぼす、社会の計り知れないほど巨大な力は、ここにあるのだ。”(本書252-253頁より引用)

 

 

人間は社会の中でしか自由になれない、孤立した個人は決して自由ではないと説くバクーニンは、国家に反逆するよりも社会に反逆する方が難しいと考えている。バクーニンが説明するように、大逆事件のように反対者には刑罰を以て臨む国家に対しては、人はその悪を感じることは容易い。しかし、反国家的な人物であっても、「習慣や風俗、多数の情緒、偏見、物質生活および知性や感情生活の習慣、さらには、いわゆる世論によって支配する」社会、自らを生み出した社会に対して反逆するのは至難である。既に引用した勝田吉太郎の解説、「神と国家への反逆――バクーニン」でもこの部分に特別の注目が払われているように、私もこの部分が本書で、否、バクーニンの思想体系での中で最も重要な部分であると考えている。バクーニンが素晴らしいのは、バクーニンはこの困難、社会に対して反逆することの絶望的なまでの困難を認識しつつ、それでも社会への反逆を説く姿である。それも、社会に対して反逆することは、社会によって生み出された自分自身に対する反逆だと知り、その上で反逆を説く姿である。藤田省三は1990年頃に、天皇制国家よりも実は天皇制社会の方が日本の問題なのだということを書いていた通り、天皇制を問題にするということは、実は国家権力を問題にすることではなく、国学や水戸学的な尊王論の中に自分自身の絵利益を感じて天皇制を支えている日本の民衆の在り方と、民衆が作り出す社会を問題にするということなのであり、それはこの社会から生まれた自分自身を問題にするということでもある。バクーニンが問題にしていたのは日本の天皇制社会ではなく、ヨーロッパのキリスト教社会だけれども、バクーニンほどこのような点を明確に認識していたアナキストは、いや、マルクス主義者も含めた社会主義者は、恐らく存在しないのではなかろうか。

 

“ しかし、もう一度繰り返して言えば、個人の社会に対する反逆は、国家に対する反逆と比べて、はるかに困難なことなのである。国家は歴史的、一時的な制度であり、社会の過渡的な一形態であり、この点では、その兄貴分にあたる教会と同様なのだ。他方、国家は、社会が持っているあの宿命的で不変的な性質を帯びてはいないのである。社会はいっさいの人間性発達に先行しており、しかも自然的な掟や作用や現象といった力を備えることによって、人間生存の基盤自体を構成している。(本書254頁より引用)”

 

 

歴史上、国家の支配者が変わろうとも、民衆と社会のあり方を変えようとしなかった支配者が後に続いた場合、根本的な部分では何一つ世の中が変わらなかったという事例には事欠かない。

 

“ ともあれ、これらの観念は、特権階級の自覚された利益に合致するものとして承認されているだけではない。大衆の一般的な無知と、幾世紀にもわたって根づいた牢固たる愚昧とによっても承認されているのだ。そのゆえに、今日となっては、これらの観念に対して、公然と、平易な言葉で異議を唱えるならば、人民大衆のなかの相当部分の反撃を招き、また、ブルジョワ的偽善の側から石を投げつけられる、といった危険を覚悟しなければならない。”(本書259頁より引用)

 

“ したがって、驚くべきことは、社会の集団的意識を表現するこれらの観念が、大衆の上にふるう、あの強力な(←259頁260頁→)作用ではなく、むしろ反対に、この大衆のうちに、これらの観念に反抗して闘う思考力と意志と勇気とを持つ個個の人間がいるということなのだ。”(本書259-260頁より引用)

 

バクーニンは社会に対して反逆することが、常識の世界に住む人民大衆と特権階級の偽善の双方から反撃を受けることを知っている。知っていてなお、社会を正しい姿に変えるため闘うことを説き、そのような個人を讃えるのである。かつて「太宰治高村光太郎神山茂夫:76年前の日米開戦の日の涙を振り返って」(https://bemyuh.hatenablog.com/entry/2017/12/08/220256

)という文章を書いた時に、神山茂夫がほぼ完全に人民から孤立しながら、それでも反戦と革命の運動を続けていたことに、書きながら驚嘆したが、神山茂夫も元々はアナキストであり、バクーニンの弟子であった。だからこそ、あの困難な時期に、あれだけのことができたのだろうと、本書を読んで改めて思い至った次第である。

 

ひょっとしたら、アナーキストの使命は、国家権力との戦いではなく(それを実現したマルクス主義が、その後どうなったかは周知の通りである)、社会自体との戦いなのかもしれない。これは榎戸洋司氏のアニメ作品、『忘却の旋律』(2004年)のテーマでもあった。

 

クロポトキン勝田吉太郎訳「近代科学とアナーキズム」(原著1901年、本書437-555頁)

クロポトキンプルードンバクーニンと比較した際に、「科学」に信頼を置きすぎている印象があり、その点でライバルだったマルクス主義の接近しているような印象を受けた。そのため、アナキズムの持つ思想的体質を語るという点についてはプルードンバクーニンほどの印象を受けなかったが、それでも20世紀の社会主義が失敗した点についての認識を先取っていた感がある。その部分を引用する。

 

“ さらにまた、われわれは、生存手段と生産手段とを現今のブルジョワ国家の手中に引き渡すことのないように留意しなければならない。全ヨーロッパの社会主義諸政党は、今日あるがままのブルジョワ国家による、鉄道、塩生産、鉄鉱および石炭鉱〔スイスでは〕銀行、アルコール専売の国有化を要求している。だが、われわれは、ブルジョワ国家による、こうした共同財産の取得のうちに、勤労者、生産者および消費者の手中への国富の引き渡しを妨げる、最大の障害物の一つを見いだすのだ。

 それは、われわれの見地からすると、資本家を強化し、反逆した労働者に対する闘いに向けられる、資本家の力を増大させる手段なのだ。このことを、資本家のなかでも賢明な人士は、ちゃんと見抜いているのである。一例をあげると、彼らの鉄道資本は、ひとたび鉄道が国有財産となり、国家の手で軍隊式に運営されると、ずっと安全なものとなるのだ。社会現象を、その総体において眺めることに習熟した人々にとっては、次の点に関して一点の疑いもないであろう。これを社会的公理とみなして表現すると、「望ましい変革の方向へ一歩を踏み出さずして、社会変革を準備することはできない。この方向へ歩まないならば、目的地から離れ去ることになろう」。

 そして実際のところ、もしも、生産と交換とを、議会、閣僚、現今の官僚たちの手に引き渡すことから着手するならば、それは、生産者と消費者がみずから生産の主人となる時点から離れ去ることを意味するであろう。国家が大資本の従者である以上、今日、これらの連中は、当然に大資本の道具なのだ。”(本書524頁より引用)

 

 

アルゼンチンのペロン政権、第二次世界大戦後のイギリスの労働党政権、80年代フランスの社会党ミッテラン政権、2000年代のベネズエラチャベス政権、これら諸国は国家の社会主義国化に至らない範囲で、生産手段の国有化=鉄道や企業の国有化を実現したが、結果はどこも惨憺たるものであった。特にベネズエラチャベス政権が国有化政策の果てに経済が崩壊し、多くの人々の生活を直撃していることを考えるに、クロポトキンには学ばなければならない。クロポトキンが見通せなかったのは、ソ連のようなブルジョワ国家ではない国家であっても、国有化政策があまり良い結果をもたらさなかった点である。この点こそが、社会主義の経済思想の諸流派が真剣に再考しなければならない点だと私は考えている。国有化政策よりはまだトニー・ブレアアンソニー・ギデンズ流の「第三の道」の方がよっぽどマシなのではないだろうか。

 

 

“……今日、国家が、その官僚のあいだに分配している社会的機能を果たすべき新しい組織形態を、人間は見つけ出す必要がある。このことがなされないかぎり、何事もなしえないであろう。アナーキズムが努力するのは、こうした新しい社会生活形態の開花のためである。”(本書525頁より引用)

 

アナキズムの使命について、クロポトキンは平易に語った。恐らく、人間の現状ではまだ国家は分配と治安維持のために必要であろう。しかし、いつか環境破壊や戦争や資本主義による貧富の格差に対して、有効な手段を持てない現状の国家に代替する組織が見つかるだろうし、見つけなければならないだろう。一人のアナキストとして、今後微力を尽くそう。