ナロードニキとしての国学者?:【読書録】伊東多三郎『草莽の国学(増補版)』名著出版〈名著選書2〉、1982年3月25日発行。

伊東多三郎『草莽の国学(増補版)』名著出版〈名著選書2〉、1982年3月25日発行。

 

1945年1月に原著が刊行された本の増補版復刊。「草莽の国学とは、庶民の国学の意味である。庶民生活に弘まった国学、之である」(本書1頁より引用)という書き出しから始まる通り、18世紀~19世紀前半の日本の庶民が如何に国学を受容したかについての古典的な研究となっている。

 

“ 今日、国学研究はいたって盛んである。名論卓説は少なくない。その中に伍して、草莽の国学の研究は、果してどれほどの意義を認められるべきものであるか。之に就て、先ず自分の立場を反省(←1頁2頁→)して見よう。私は名もなき民の一人である。この感慨は私の境遇と家の状態及び父祖の生活から、自ずから湧いてくる絶対的なるものである。この感慨を以て歴史の研究に従う時、庶民として封建制度の下積みとなり、しかも不屈の勤労精神を以て国史の発展の基礎を培って来た父祖の辛苦の生活に心を馳せ、庶民生活の歴史に厳粛なるものを感ぜざるを得ぬ。私が庶民生活の伝統を研究したいと思い立ち、その一端として草莽の国学を選んだのは、かかる已むに已まれぬ気持からである。”(本書1-2頁より引用)

 

と著者が述べる已むに已まれぬ気持が、本書執筆の動機となっている。だから、本書で重視されるのは本居宣長国学ではなく、むしろ平田篤胤国学であり、篤胤の門人たちが農村に土着しつつ復古神道を説いた姿である。

“ 第一は、国学史の立場から庶民生活との関係を考える場合であって、平田学発達の地盤が武士社会又は大都市の町人社会よりも、むしろ地方の郷村社会に開拓された為に、自ずからその学風の特徴が形成された事実が注意の的となる。篤胤は古道宣揚には幕府諸大名の支持を得る必要がある(←6頁7頁→)と考え、頻りに権門勢家に向って勢力拡張運動を続けたのであるが、殆ど酬いられる所はなかった。江戸・京都・大坂、この近世文化の三大中心地にも、或は性格を異にする他の学派の既成勢力が蔓り、或は国学を受入れる地盤が薄くして、期待のごとくを伸すことができなかった。この為に、勢い未開拓の郷村社会、特に東国方面に勢力を扶植したのであるが、恰もこれ等の地方では、新田開発、産業の勃興等に依って、郷村社会の指導層の擡頭が著しく、その文化が高まりつつあったので、比較的容易に此処に根を張ることができたのである。篤胤及び銕胤が屢々地方を旅行し、また地方の門人と音信を交わしているのは、この為である。篤胤の大部の著者の中には、これ等の門人に行った講義の筆記が少なくないし、又、その出版には、これ等の門人の助成を仰ぐ所が多かった。この関係が平田学の性格に影響を及ぼしていることは否定できぬ。これは鈴屋の学が、宣長の晩年より太平・内遠の時代に亙って、紀州藩の保護の下にあった環境と対蹠的意義を持つものと思う。気吹舎の学風が書斎的よりも、むしろ街頭的であり、文学的よりも神道的であったことは、ただ篤胤個人の性格にのみ由来するものでないことは、確かであろう。”(本書6-7頁より引用)

 

ということで、本書で強調されるのは、日本全国の農村に平田国学が受容されたという社会史的な事実であり、思想そのものについては余り強くは描かれていない。その点で近い時期に描かれたマルクス主義羽仁五郎国学論「国学の誕生」、「国学の限界」(ともに1936年)とは、かなり色彩を異にしている。戦後の、特に1970年代以降の研究水準からすれば、本書の内容はありふれた、既知の事実かもしれない。本書が古典となっているということの証明でもあるが、裏を返せば、わざわざ古典を読んでみようとは思わない読者にとっては、本書は手に取る必要もないかもしれない。

 

本書は戦時中に刊行されたこともあって、国体観念についてやかましいところがある。平田篤胤皇国史観のイデオローグとだけで見ているわけではないが、篤胤とその門人たちの、大国主命を幽冥界の主催者とする幽冥論についてはほとんど触れられていない。ある意味では平田篤胤にとって、天皇の支配する顕界よりも大切であった幽冥界について触れられていないのは、幽冥論を強調する今日の国学研究からすれば奇妙に見えるほどである。ただ、国学者たちが、天皇の神聖を説いた背景には、以下のような事情があったことも書かないと、不公正であると考える故、引用する。1837年生まれの下総の国学者鈴木雅之の『民生要論』の著者による要約の一部である。

 

“ 盗賊・姦淫・博奕・収賄・贈賄各々適宜に断罪する。武士が召使や人民を手討ちにするのは、戦国の暴虐無道の悪習で、天神の心に背き、天皇を軽んずるものにして、甚だ非道の行いであるから、殺人の罪を以て罰するべきである。何故なら人民は皆、天皇の公民にして、大名の私民ではないからである。”(本書51頁より引用)

 

最後に、少しだけ私見を述べる。農村での国学者の活動に焦点を当てる本書を読んで、田国学の運動は、実はほぼ同時期のロシアのナロードニキ運動に当たるのではないかと思った。無論、プルードンバクーニンアナキズムの影響を受けて生まれ、テロリズムに傾斜した帝政ロシアナロードニキ運動と、基本的には本書で描かれているような学者による農村更生運動であった徳川幕府末期の国学運動には大きな隔たりがあるが、「インテリゲンチアが民衆(ナロード)の中へ入っていく」という点だけ取り出せば、共通点が存在するのではないか。似たような問題意識から始まりながら、ナロードニキの思想は地主に受け入れられなかったけれども、国学思想は地主に受け入れられたという点が決定的な違いだったという、そんな仮説を立ててみよう。

 

上に引用した通り、明治維新革命後に天皇制国家が成立する前にあっては、京都にいる天皇の存在は、国学者のような知識人にとって、武士の暴虐無道を掣肘する思想原理であった。大正・昭和の社会主義者アナキスト共産主義者マルクス主義者)も、農村青年社や三里塚のような例外を除き、ナロードニキのインテリゲンチアでありながらついに日本の農村部に浸透することができなかったが、江戸時代のナロードニキたる国学者たちがどのような気持で天皇を掲げたかを想像すれば、社会主義者が民衆の中に入る、ヴ・ナロードへの道筋も、見えるのではないかと、私は想像したいのである。

 

〈メモ〉

平田篤胤の門人がいなかったのは、全国66国の内で隠岐国だけ(6頁)。

・1837年生まれの下総の国学者鈴木雅之の『民生要論』によれば、幕末の神主・禰宜は大抵貧困だったとのこと(36頁)。この記述から、江戸兵営国家に保護されていた佛教の僧侶と、そんなものはなかった神道禰宜の差異を読み取ることができるのではないか。

駿河における平田篤胤の門人には一向宗長徳寺最勝という、1813年(文化10年)に入門した浄土真宗の僧侶がいた(92頁)。神祇不拝で阿弥陀如来による救済を説く真宗の僧侶が、大国主命が幽冥界を主宰するという平田学を受容した経緯はいかなるものだったのであろう。