【読書録】ジョージ・ウドコック/白井厚訳『アナキズムII――運動篇』紀伊國屋書店、1968年7月31日第1刷発行。
【読書録】ジョージ・ウドコック/白井厚訳『アナキズムII――運動篇』紀伊國屋書店、1968年7月31日第1刷発行。
同著者の思想篇に続く運動篇の書。アナキスト・インターナショナル、フランス、イタリア、スペイン、ロシア、その他諸国のアナキズム運動史について述べられている。初期の労働運動に大きな影響力を持っていた日本、中国、朝鮮、台湾のアナキズム運動への言及はないが、これは仕方がないところであろう。
気になった部分をメモ書きするに止める。
・アナキズム運動の誕生は、1869年の第一インターナショナルのバーゼル大会であり、バクーニンの指導によるものであった(本書6-7頁)。
“……一八七二年から一八七七年にかけて、バクーニン主義者は、マルクス主義者よりもはるかに多くの支持者を得たといって差しつかえない。”(本書11頁より引用)
・アナキスト・インターナショナルの最後の大会となった1877年9月のヴェルヴィエ大会には、ドイツ、メキシコ、ウルグアイ、アルゼンチンといった諸国からの代表が送られている(本書19-20頁)
・1923年にベルリンに創設されたアナルコ・サンディカリズム系の国際組織「国際労働者協会」には、100万人を擁するスペインのCNT、50万人を擁するイタリア・サンディカ連合(UNI)、20万人を擁するアルゼンチン地域労働者連合(FOR A)、15万人を擁するポルトガルの労働総同盟(CGT)、12万人を擁するドイツの自由労働者同盟、3万人を擁するスウェーデン労働者センター(SAC)、チリ、デンマーク、ノルウェー、メキシコ、オランダ、ポーランド、ブルガリア、日本といった諸国の小規模な連合もここに加盟していた(本書39-40頁)。1928年にラテンアメリカでアルゼンチン、メキシコ、ブラジル、コスタリカ、パラグアイ、グアテマラ、ウルグアイのサンディカリストを糾合した大陸労働者協会が創立され、国際労働者協会に支部として加盟している(本書40頁)。大陸労働者協会の創設時の本部はアルゼンチンのブエノスアイレスに置かれ、後に隣国ウルグアイのモンテビデオに移転している(本書40頁)。
“ 一方で純粋アナキストたちの国際組織がすべて短命で効果が上らなかった――創立大会だけで消滅しさえした――のに、アナルコ-サンディカリストのインタンショナルが、初期の影法師としてでもともかく生き残ってきた理由は、少なくとも一部分は、サンディカリストの組織の性格に求められよう。その最も戦闘的なメンバーは献身的な〈自由意思を強調する人たち〉であろうが、一般大衆の大部分は、今ここで獲得し得る最良の生活を求める労働者たちであろう。この理由のために、革命的組合(Syndicate)さえも、ふつうの労働組合と同様に、安全と、中央集権的構造――これは表向きは否定されるかもしれないが――をも維持しなければならない。中央集権的構造は、言論や行動による宣伝に没頭する純粋アナキストの集団の間では決して目にすることができないものなのである。(←41頁42頁→)
純粋アナキストは、知識人であろうと直接行動派であろうと、あるいは世俗の予言者であろうと、他の個人主義者たちと共に活動する個人主義者である。サンディカリストの闘士は――アナルコ-サンディカリストと自称しようとも――大衆と共に活動する組織者である。独自のやり方で、彼は組織上の見通しを展開し、そしてこのために、彼はかなり綿密な計画を遂行し、長い期間にわたって活動する複雑な連合体を維持することが純粋アナキストよりも可能なのである。後に見るように、フランスのCGTとスペインのCNTの中にはこういった人たちがいた。国際労働者協会の場合について言えば、この組織を動かしていたドイツ、スウェーデン、オランダの知識人たちは、〈自由意志を強調する〉理想を、彼らのゲルマン文化から得た能率尊重と結合していたのである。
アナキスト・インタナショナルの歴史をふり返って見ると、論理的に純粋アナキズムは、厳格さと中央集権の手段がなければ存続しえない国際的な――または国単位ですらも――組織を入念につくろうとする時には、それ自身の性質と矛盾することが明らかなように思える。アナキズムにおける自然な構成単位は、束縛がなく柔軟な同類集団である。そしてまた、アナキズムの思想は――歴史上適切な時期には――個人的な接触と知的影響という見えざる網状組織によって地球上遠く広がることができたのだから、国際的な性格を帯びるためにそれ以上複雑なものを必要としないだろう。アナキスト・インタナショナルがすべて失敗したのは、主にそれらが不必要であったからである。
けれどもサンディカリズムは、その革命的形態においてさえも、比較的安定した組織を必要とするし、しかもまさにそれが、ただ部分的にのみアナキズムの理想によって支配されている世界で行われるために、またそれは常に労働者の日々の状態を考慮しそれと妥協しなければならないために、アナキズムの究極目標についてはごくおぼろげにしか意識していない労働者大衆の忠誠を維持しなけれ(←42頁43頁→)ばならないために、安定した組織をつくることに成功する。それゆえに、第二の国際労働者協会が比較的成功し永続する結果となったのは、アナキズムの真の勝利ではない、むしろそれは、アナキストたちがアナキズム以前の世界における現実と深く妥協することを学んだ時代の、記念碑なのである。” (本書41-43頁より引用)
著者が述べるように、「現実に大衆の支持を得たアナキズムの唯一の形態」(本書47頁)がアナルコ・サンディカリズムだったことを考えると、このアナキズムの純粋な理想にこだわって市井の人々に接する組織を持つことを断念するか(純正アナキズム)、それとも多少なりともアナキズムの理想を曲げる中央集権的な組織を作って市井の人々に接するか(アナルコ・サンディカリズム)という問題には根深いものがある。
【フランス】
・アナルコ・サンディカリズムが最初に生まれたのはフランス(本書47頁)。
・フランスにおける最初期のマルクス主義者であり、第一次世界大戦勃発によって祖国支持に回るジュール・ゲードは、元々はアナキストであった(本書69頁)。
・印象派の画家カミーユ・ピサロと息子のルシアン・ピサロは共にアナキストであり、ジャン・グラーヴの『新時代』誌に絵や石版画を寄稿している(本書84頁)。
“作家や画家をアナキズムに引き付けたものが、諸団体の散文的な日常活動でないことは明白であった。それは多分、主としてアナキィの理念そのものですらなく、大胆と探究の精神であって、それをマラルメは、一八九四年の三〇人裁判で、彼の友だちのアナキストのために証言した時に敏感に表現し、その友だちを、“素晴らしい精神、新しきものすべてに対する、あくなき好奇心”と描いたのである。芸術家や知識人たちを感動させたものは、精神の独立、行動の自由についてのアナキストの努力、そのための経験であった。”(本書85頁より引用)
・フランスのアナキズム運動は、第一次世界大戦勃発後、戦前アナキストが主張していた反軍国主義の立場を放棄し、ジャン・グラーヴ、シャルル・マラト、ポール・ルクリュといった指導者達が祖国を支持する立場にたったため、ロシア革命以前にほぼ崩壊していた(本書107頁)。この点については先述したマルクス主義者のジュール・ゲードらも同様であったが、国家を原理原則的に否定するアナキストが戦争に際して祖国擁護を行ってしまった問題は、マルクス主義者のそれよりも一層根深いように思われる。
【イタリア】
・アナキストが採用する「行動による宣伝(プロパガンダ)」を最初に言い出したのはイタリアのカルロ・ピザカーネ(本書119-120頁)。1876年にマラテスタとカフィエロによって他国のアナキストに伝えられる(本書131頁)。
・イタリアでは貧しい南部よりも豊かな北部にてアナキズムが発展した(本書128頁)。
・イタリア人は19世紀を通じた移住者によって、とりわけ1890年代においてラテンアメリカ諸国とアメリカ合衆国にアナキズムをもたらした(本書142-143頁)。マラテスタのような指導者でさえ、1884年にアルゼンチンに亡命している(本書145-146頁)。
【スペイン】
・若き日のパブロ・ピカソがアナキズムに惹かれていたことが記されている(本書177頁)。ピカソは第二次世界大戦中のフランス共産党のレジスタンスに感動して、パリ解放の直後にフランス共産党に入党し、戦後のスターリン崇拝が最高潮に達した中でも共産党員であり続けた。本書にある通り若き日のピカソはアナキズムよりだったということを思うと、スターリン主義が実に多くの要素を吸収して成長したことが伺えて興味深い。
スペインのアナキストの反宗教的な宗教性について。勝田吉太郎氏はバクーニンを筆頭とするロシアの無神論者について、「彼らにとって無神論は精神的欠乏でなくして、逆に精神的確信であり、信じることを止めるのでなく、いわば無神論を信じ、この一種の信仰を狂信家特有の不寛容と熱中とをもって説教するのである」(勝田吉太郎『アナーキスト――ロシヤ革命の先駆』筑摩書房〈グリーンベルト・シリーズ85〉、1966年11月30日初版第1刷発行、36頁より引用)と論じていたが、本書ではスペインのアナキストの無神論について、示唆深い見解が述べられている。
“ アナキズムというものは、もちろろん(引用者註:この誤植は原文そのまま)普通の政治運動とは異なって、道徳的宗教的要素をもっているものだが、この要素は、スペインにおいてはどの国よりも強く発達した。この国において、アナキズムに対する鋭敏な観察者はほとんど誰でも、そこにボルケナウが“半宗教的ユートウピア運動”と呼んだものがあるという事実に、気がついてきた。そして、その宗教的情熱が教会に対してなぜかくも激しく向けられなければならなかったかということを最も納得のいくように表現したのは、再びブレナンであった。ここでは、「スペインの迷路」(The Spanish Labyrinth)の中でその問題を彼が非常に巧みに論じている部分を引用することが最も良かろう。この書は、長年にわたるスペインのアナキストとの直接の交友によって裏付けされている。
市民戦争の期間における教会に対するアナキストの激しい憎悪と、教会を襲うに当っての彼らの異常な暴力沙汰は、誰もが知っていることである。……それは、教会から生まれた異端者の、教会に対する憎しみとしてしか説明し得ないと思う。というのは、スペインの〈自由意志を強調する人たち〉の目には、カトリック教会は、キリスト教世界において反キリストの位置を占めているのだから。それは彼らにとって、革命の単なる障害物という以上のものであった。彼らは、教会のなかにあらゆる悪の源泉、原罪という卑しい教義をもって青年を堕落させるもの、彼らがSaludすなわち健康と呼(←191頁192頁→)ぶ自然と自然法を冒涜するものを見たのだ。それはまた、兄弟愛や互いに許し合うなどというきれい事をとなえて、人間の連帯という偉大な理想をあざける宗教でもあった。……
そこでスペインのアナキストたちの教会に対する怒りは、見捨てられあざむかれてきたと感じている極度に宗教的な人びとの怒りであると示唆したい。司祭や修道僧は、歴史上、危機が迫ると、大衆を見捨て、金持ちの側へ走った。一七世紀の偉大な神学者たちの人間的、啓蒙的な原理は、一方の側にだけ適用された。そこで人びとは、教会の言葉はすべて偽善ではないかと疑い出したのである。(自由主義によってもたらされた新しい思想がもちろん彼らを助けた。)彼らがキリスト教的ユートウピアを求めて闘争を始めた時は、従ってそれは、教会に反対して行ったのであって、教会と共にではなかった。彼らの暴力ですら宗教的と呼べるかもしれない。結局、スペインの教会はつねに戦闘的で、二〇世紀に至るまで、その敵を打ち負かせると信じていた。疑いもなくアナキストたちは、彼らに同調しない人びとを教会と同じやり方ですべて追い払いさえすれば、この世の天国を招くために教会が行った以上の良い仕事ができると思っていた。スペインでは、どんな信条も全体的であることにあこがれる。”(本書191-192頁より引用)
スペインのアナキストの無神論は、堕落したカトリック教会に対して真の宗教を求める人々の怒りと信仰心の反映だとする見解である。スペインにおけるカトリック教会に相当するものを日本に求めるのならば、おそらくそれは神社神道になると思われるが、日本のアナキストには堕落し国家権力と癒着した神社神道に対して、真に神を求めて反逆するという人々は、おそらく存在しなかったのではないか。天理教や大本教とそこから派生した宗派(ほんみちなど)がそれに近いかもしれないが、天理教も大本教も、決してアナキズムではない。しかし、ここにこそ、日本におけるアナキズムの土着化の鍵があるような気が、私にはする。本質的に敬神崇祖ということを強く信条としている日本の地方に暮らす人々が、一度、神社神道に裏切られたと感じた時、神社神道が語ることは正義でも救済でもないと感じた時、スペインのアナキストと同様の無神論に達するのではないか。この観点からもう一度、本居宣長や平田篤胤らの国学は研究され直されるべきである。
・エピローグにて、著者はバクーニンによって創設されたアナキズム運動が、一世紀近く努力しても国家を破壊することはできず、運動としては失敗したと論じている(本書313-314頁)。その理由として、社会の中央集権化と画一化の中で成長した階層である、官吏、事務員(ホワイトカラー)、店主といった小ブルジョワ層を引き入れることに失敗したこと(本書316頁)や、労働条件の改善といった現実的な提案の弱さ(本書318-319頁)、共産主義(マルクス=レーニン主義)やファシズムといった競合思想への敗北(本書319-320頁)が挙げられている。しかし、アナキズム運動は途絶えてもアナキズム思想は生き続ける。著者が言う通りそこから何を汲み上げるかは、本書の原書刊行から50年以上経った今日にあっても現代性を持った課題である。