黒色社会民主主義に向けて:【読書録】渡辺孝次『時計職人とマルクス――第一インターナショナルにおける連合主義と集権主義』同文館、東京、1994年12月19日初版発行。
渡辺孝次『時計職人とマルクス――第一インターナショナルにおける連合主義と集権主義』同文館、東京、1994年12月19日初版発行。
19世紀スイスの労働運動の研究者による、第一インターナショナルにおけるスイスの時計職人の役割を明らかにした書。あとがきによれば著者は良知力氏の弟子とのこと(341頁)。19世紀スイスの時計職人についての実証研究の立場から、従来、バクーニンとマルクスの思想対立に焦点が当てられてきた第一インターナショナルにおけるイデオロギー闘争を再考した書。実証研究の立場から細かい事実の掘り起こしと、第一インターナショナルにおけるマルクスとエンゲルスの中央集権制・権威主義性が明らかにされていて興味深いが、テーマに興味がないと読むのが大変かもしれない。
「おわりに」で著者は本書執筆の意図をこのように語っている。
“ 第一インターナショナルの歴史といえば、これまでの研究ではつねにマルクスとバクーニンの対立・抗争が関心の中心であった。そして、ジュラ支部の活動にはあまり関心が向けられてこなかった。理念史に傾きがちであった従来の研究では、ジュラ支部の扱いはバクーニン側の理念を支持した一組織という域を出ず、その独自性に注目する観点はほとんどなかった。これに対し筆者は、一九世紀スイスの労働運動史を専門としており(「あとがき」参照)、本書で扱ったジュラ地方の運動もあくまで一九世紀スイスの労働運動史の一環とみなしている。このような立場からすると、第一インターナショナルに関する従来の研究成果にはつぎのような問題点があるように思われる。
すなわち、これまでの第一インターナショナル史研究では、ジュラ支部がなぜバクーニンを支持したかという、素朴だが核心にふれる論点が十分解明されていないうらみがある。そのため説明は、バクーニンにすべてを帰す傾向があるという点で、マルクスの「ジュラ改宗説」を十分抜け出ていないように思われる。そうなった理由は、こ(←335頁336頁→)れまでマルクス=バクーニン論争だけにスポットが当てられ、この問題を離れて、ジュラ支部それ自体に光を当てるという姿勢がなかったからである。このことは、そもそもジュラ地方とはどのような地方であるかという、地域に対する素朴な関心を欠けていたから起こったのではないだろうか。”(本書335-336頁より引用)
“ ところで、ジュラ支部の立場に立って問題を再構成しようと試みるなかで、地域背景が思想や運動の中身にいかに大きな影響を及ぼすかを示す事例に、筆者はなんども出会った。たとえば、バクーニンの思想を受けいれる場合でも、ジュラ支部が地元への適応可能性をいつも十分に考慮に入れていたことがそれである。さらにはまた、地域の実情と相容れない場合には、ジュラ支部のメンバーはバクーニンに反対したこと(もっとも、この点に立ち入る余裕はあまりなかったと告白しておかねばならない)もそうである。地域に固有の事情は現実的であるだけに、抽象的な理念よりも一般労働者にとって切実であることは、考えてみれば当然のことである。だから歴史家は、舞台となった地域の内情に十分注意を向けるべきであって、地域研究を介さない運動の理解は危険である(←336頁337頁→)
ところが、このような危険な理解をマルクスその人や、さらにはヘーゲル左派一般が行っていたのである。その原因は、彼らの歴史観が、地域の個別的で具体的な事情に即すのではなく、抽象的で一般的な定式に則るものだったからである。彼らには、歴史を単線的にとらえて、「進歩的」とみなされたものだけに関心を限定する傾向が強すぎたが、それでは地域の具体的な個性は捨象されてしまう。なかでも国家の中央集権化は、進歩を促す要素のうちでももっとも重要と、彼らからは考えられたのである。
しかしながら、歴史の進歩を単線的にとらえること自体問題であり、またなにを歴史の進歩とみなすかも当然立場によって異なってくる。このことの生きた例がジュラ支部だったのであって、ジュラ地方は、伝統的に地方分権を尊重してきたスイスの立場をもっとも鋭く体現していたのである。中央集権化を進歩と信じて疑わないマルクスをはじめとするヘーゲル左派の立場と、逆に地方分権をよしとし、できることなら中央権力などないほうがよいと考えるジュラ派のあいだには、歴史認識や進歩観に関して構造的な対立が存在したといえる。そのために、両者のあいだには第一インターナショナルの組織のあり方をめぐっても、対立が生じざるをえなかったのである。この対立は、マルクスとバクーニンの個人的敵対を主要因とみなしうるような性質のものではなかった。対立の源泉は、第一インターナショナルの構成メンバーのあいだにあった、中央集権化をめぐる考え方の相違に求めるべきである。” (本書336-337頁より引用)
以上が本書の主張の骨子であり、このことの論証のために、第I章「時計職人の舞台」(本書13-48頁)では、16世紀に時計工業が成立してからツンフトによって強い政治力を保ち、自らを「職人」(artisan)というよりは「芸術家」(artiste)であると考え、高級時計を製作していたジュネーヴの貴族的な時計職人(本書18-20頁)に対し、ジュラ地方の時計工業は1830年代にようやく始まり、しかもジュネーヴとは異なり大衆向け時計が主であったため1850年代より急速に成長するアメリカ合衆国製の時計産業と全面的な競合関係に入るという(本書20-23頁)、バクーニンを支持・受容したジュラ地方の時計職人の姿を明らかにしている。また、興味深くも、ジュラ地方が移民の流入により、カトリックとカルヴァン主義の双方が入り混じる、宗教的に多様な地域であったからこそ、バクーニンの掲げる無神論が受け入れられた可能性を著者は指摘している(本書29-30頁)。尤もこのバクーニンの無神論の民衆的な受容が如何になされたかについては、本書では深められていない。また、第I章第3節「エンゲルス的世界史観とスイスの像」(本書37-46頁)では、ハプスブルク家の中央集権的支配から自治を勝ち取ってきたスイスの歴史が、エンゲルスによってドイツの中央集権化を妨害したことを理由に非難されていることが、マルクス=エンゲルス全集の論説を元に論じられている。マルエン全集中のスイスへの非難はほぼエンゲルスのものであるが、著者はマルクスのスイス観をエンゲルスのそれと基本的に同様のものであるという立場に立っている(本書37-38頁)。
このマルクスとエンゲルスのスイス非難に見られる中央集権化志向こそが、地方分権にこだわるジュラ地方の時計職人のマルクス主義への反発の原因となり、それがバクーニンの思想の受容に繋がったのだと、本書はそのような全体像を持つ作品となっている。
スイスのジュラで最も強力なバクーニンの信奉者となったジェイムズ・ギヨームによる、アナーキズムが実現された後のコミューン観は本書207-209頁に訳出されている。引用してみよう。
“ この村では、生産手段は一般に社会による共同所有のもとにおかれ、それを必要とする労働者の使用に供される。資本家はもはや存在せず、それまで資本家であった者には、一労働者として、個人的に使用する生産手段のみが所有を認められる。この、個人使用という限度を超えた彼らの資本は没収される。そして、この措置(←207頁208頁→)は正当である。なぜなら、資本とは盗みとられた他人の労働にほかならないからである。
かつての資本家にかぎらず、個人使用という限度内であれば、生産手段の所有は誰にでも認められる。こうして、それまで自宅で家内工業に従事していた者は、望むならひきつづきそうすることが可能である。
しかし、アトリエの所有者の場合はそうはいかない。なぜなら、彼の所有する生産手段は個人的使用の限度を超えており、要するに彼は資本家だからである。彼のアトリエは社会に接収され、彼はなんらかの労働にたずさわることを求められる。彼には、どこでも自由に他の土地へ移動することが許されるが、革命はヨーロッパ全土に及んでおりどこへ逃げても同じことである。彼には、一年間職業を選択する時間的猶予が与えられるが、それを超えることは許されない。
この時計村には、時計工業以外に重要な産業は存在しない。時計工業にたずさわる種々の業種は、部門別アソシアシオンを形成し、労働条件などに関する協定をとり決める。
食糧調達のような公共サーヴィスは、専門の委員会の手にまかされる。食糧委員会は、近隣の農業コミューンに呼びかけ、原価(prix de revient)交換で食糧を調達する。時計村とは別のコミューンXでは、農業が主体である。そこでは、土地や家畜類はすべてコミューンによる共同所有である。それを使用する生産者は、農業コルポラシオンを結成し、自由に経営を行う。専業農民に加え、半農半工の兼業者も存在する。彼らもまた、農業コルポラシオンとの契約に従い農地などを使用するものとする。
富の分配は、これまでつねに論争の種であった。しかしそれは、コミューンにおいては非常に単純である。すなわち、交換における原価交換の遵守が求められるのみで、それ以外は個々の生産団体の自由裁量にまかされる。コミューンでは、誰にも生活のための必要最小限は保障されているので、利潤追求にあくせくする者はほとんどいないであろう。(←208頁209頁→)
製品の取引は、中央取引所(Comptoire central)を通して原価交換で行われる。この取引所は、できるだけ集中され、可能ならばひとつのコミューンにひとつであることが望ましい。取引所は、さらに生産と消費に関するさまざまな統計も処理するものとする。この統計によって適正な原価が算出され、また適正な生産量も示されることで、不況を避けることが可能になるであろう。
道路、証明、公共建築物、コミューン財政、教育などのコミューン全体に関係する公共サーヴィスは、コミューンによって選出された特別の委員会によって実施される。しかし、これらの委員は、当然報酬を得るものの専任ではなく、通常は普通の労働者であるにすぎない。彼らはいかなる権威も有さず、コミューンによっていつでも交替させることができる存在である。コミューンには、わずかに二~三名の専任公務員が存在するにすぎない。すなわち、中央取引所に勤務する簿記係である。
コミューンには、裁判所も警察も存在しない。犯罪者は、コミューンからの追放という措置によってのみ罰せられる。しかし、ヨーロッパのすべてにコミューンが成立しているという時代においては、コミューン追放は他のどのコミューンからも受け入れられないという危険性をともない、したがって誰も犯罪を犯そうなどとは思わなくなるであろう。
コミューンでは、小学校教育はフレーベル流の幼稚園と結合されるであろう。その教育は、コミューンの公共建築物で、老若の婦人たちによって施されるであろう。小学校を卒業したあとには、各人に適した職業教育が各生産現場で施されるであろう。また、コミューンでは礼拝は廃止される。したがって、かつての聖職者もまた、かつての資本家と同様に、なんらかの職業につくことを求められる。”
(ジェイムズ・ギヨーム「コミューン・ソシアル」、渡辺孝次『時計職人とマルクス――第一インターナショナルにおける連合主義と集権主義』[初出『人民の年報』1871年版]東京、1994年12月19日初版発行、207-209頁より引用)
パリ・コミューン成立前の1870年11月~12月に発表されたギヨームの論説は、ジュラをモデルにした時計村が資本家も警察も裁判所もなしでやっていける様子を描いたもので、これが現実的なモデルとして成り立つかについては、黒色社会民主主義者を名乗る私としては疑問である。というか厳しいだろう。にもかかわらず、著者がこのように述べることに私も注目すべきだと思う。
“ ギヨームのこの未来社会像が、厳密な経済学的吟味に耐えるものでないことはいうまでもないだろう。このような像は、ジュラ地方の時計村にしか通用しないだろう。しかし、そのように批判することは容易だが、筆者としては逆に、このような青写真がジュラ地方である程度の説得力をもちえたという事実にこそ注目したい。なぜならそのことに、当時まだ大資本家も大地主も存在していなかったジュラ地方の状況が、くっきりと映しだされているように思われるからである。
経済学的吟味には耐えないとしても、ギヨームがこの社会を、いかなる権威も存在しない社会として描いていることは注目に値する。たしかに、いかに小さな時計村であろうと、わずか二~三人の専任公務員でことがたりるかは疑問であり、そこに多分にユートピア性が感じられる。また、実際にこの点(=公共サーヴィス論)をめぐっては、のちに「反権威主義」陣営内でも論争が生じることになる、しかし、ギヨームが強調する権威不在の未来社会像は、それが組織論に適用された場合には、総評議会に対する強力な反論たりえた。「インターナショナル=未来社会の萌芽」とする考え方と結びついて、それは、権限の拡大を目指す総評議会のあり方(=マルクスとエンゲルスの新方針)に対する強力な武器になったのである。”(本書210頁より引用)
そして著者は、マルクスとエンゲルスが第一インターナショナルからバクーニンを排斥しようとしたのは、このスイスのジュラ地方の時計職人と、時計職人達に自らの地方分権へのこだわりを正統化する思想を与えたバクーニンの組織論が、マルクス=エンゲルスの革命組織の中央集権化――「党」の結成――を求める志向の妨害物だと見なされたからだと論じている。
1871年9月に開催された第一インターナショナルのロンドン評議会では、マルクスとエンゲルスらによって同年のパリ・コミューンの失敗の原因が、労働者階級が党によって指導されなかったことだと認識され、そこから各国の労働者階級を結集させる労働者政党の必要性が教訓として導き出された(本書214頁、225-227頁)。
“ ……すなわち、パリが一八七〇年九月四日にも七一年三月一八日にも、肝心な時期に機会を逸し、最後には労働者の挫折を余儀なくされたのは、運動が強力な党によって指導されなかったからである、ということが教訓の内容であった。
各国の労働者階級は、それぞれの国の労働者政党に結集しなければならない。そして、さらに国際的には総評議会(引用者註:第一インターナショナルにおけるマルクス派)がそれを指導しなければならない。そのためには、総評議会の権限がいまより強化されなければならない。これが、ロンドン決議をもってマルクスとエンゲルスの打ちだした新方針であり、その実現のためにバクーニン派が撃退されねばならないと考えられた理由であった。”(本書226頁より引用)
著者は本書で、マルクスとバクーニンの対立は、単にマルクスのバクーニンに対する敵意が原因ではなかったことを強調している。第一インターナショナルにてマルクスの構想した中央集権的な労働者政党の必要性という新方針の実現のために、中央集権を拒否してバクーニンとバクーニンを支持するスイスその他の支部を攻撃する必要が生まれたのである。この第一インターナショナル内の内部闘争の過程ではマルクスがバクーニンに勝利しかけ、1872年のハーグ大会ではバクーニンとギヨームを除名する決議が採択された。著者はこのハーグ大会について、次のように述べている。
“ バクーニンらの除名は、反対派に対するマルクス派の形式的「勝利」を象徴していた。しかし、理由として委員(←305頁306頁→)会の提示した報告の「一」と「二」だけでは不十分であり、事実上、報告の「三」にあげられた、「バクーニンのおかした」恐喝だけが明確な罪状にであったことは、すでに述べたとおりである。マルクスが、インターナショナルとは直接関係がなく、さらにバクーニン本人の責任に帰すことができるかさえも確かでない個人問題を、バクーニンを組織から除名する切り札として用いたことは大いに異論の余地を残すものであり、倫理的にきわめて遺憾な行為であったといわざるをえない。ましてや、その「バクーニンの罪」がギヨームにまで適用されたことはさらに不条理なことであった。
さらにマルクスは、この「バクーニンの罪」を証拠づけるとされたネチャーエフの手紙を手にいれるにさいしても、信義に反する行動をとった。なぜなら彼は、マルクスへの好意にもとづいて手紙を送ったリュバーヴィンが表明した懸念(それを決定的な証拠とみなすことに関する危惧の念)をいともあっさり無視し、それだけでなく、情報提供にさいしてリュバーヴィンの出した条件である、使用後に手紙をできるだけ早く返すという義務さえも守らなかったからである。このようにみれば、バクーニンらの除名問題は、マルクスにとって倫理上重大な汚点を残した事件といっても過言ではないだろう。
倫理問題はさておき、ここでふたたび同盟委員会報告の「一」と「二」にもどって、除名が強行された真の理由にせまる作業を行っておきたい。
報告が同盟(引用者註:バクーニンが結成した革命のための秘密結社)の現存を立証できなかったことは明白だが、報告が断言した、同盟の規約はインターナショナルの規約に反するという文言はどうか? この点はマルクスらもくり返し主張し、それどころか、同盟はインターナショナルの解体を意図する団体だとされた。しかし実際には、これも結局は立証されなかったのである。この点に関しては、かつて総評議会(引用者註:第一インターナショナルにおけるマルクス派)自身が、「同盟の綱領の当否を検討する立場にはない」と表明したことを思いだす必要があろう(本文一〇〇頁を参照)。このかなりあとになって、マルクスとエンゲルスは同盟の綱領がインターナショナルの(←306頁307頁→)規約に反すると言い出したのだが、その真の理由は、ロンドン決議で彼らが打ちだした新方針にとってバクーニン=ジュラ派が障害だったからと考えられる。その意味で、立場を変えたのはマルクスらのほうであって、反対派ではなかった。
この事情は、ハーグ大会でも同じである。どのような理由をつけようと、バクーニンとジュラ連合を協会から排除しようとマルクスとエンゲルスが考えた真の理由は、ロンドン決議で彼らの打ちだした新方針(労働者階級の政党への組織化と政治権力の奪取)にとって、この反対派が最大の障害だったからにちがいないのである。筆者は、「同盟」をめぐるさまざまな非難も結局はここから生じたのであって、その逆ではないと考えている(同盟の「陰謀」をめぐるさまざまな非難は、表向きの理由づけにすぎなかった)。つまり問題は、大会中のロンゲの発言である、「ギヨームとバクーニンは、いまのような見解に固執するかぎりインターナショナルにとどまることはできない」に象徴されており、ギヨームもくり返し主張したようにイデオロギー上の対立に根ざしていたのである。
このことはある意味で当然であろう。むしろここで問題にすべきことは、それへのマルクスとエンゲルスの対応の仕方である。彼らがこの事実を受けとめたうえで反対派と正面から論争したのであれば、理解できる。しかし実際には、彼らは反対派と正面から論争することを一貫して避けている。そして、反対派を攻撃する材料として、つねに非本質的な材料にたよっているようにみえる。ハーグ大会に関しても、マルクスは「バクーニンとその仲間のギヨームとが、いわゆる連合主義を主張する党の首領であったために追放されたというのは、嘘である」(『全集』一八巻、一六一)と主張して、除名の真の理由がイデオロギー問題にあったことを否定している。しかし、まさにそのようにしてバクーニンやジュラ連合とイデオロギー上の論争をまじえるのを避けつづけたことが、マルクス派の攻勢が個人攻撃に堕さざるをえなかった理由ではないか。そして、ハーグ大会における除名の決め手も、「恐喝文書」以外に求めようがなかったのではないか。(←307頁308頁→)
ところが現実に目を向けると、マルクスとエンゲルスが自己の正しさをいかに確信していようとも、彼らの打ちだした新方針は、インターナショナルを構成する支部・連合の大部分から支持されているとはとてもいえなかったのである(vgl.BA-II,XLVII)。ハーグ大会の時点では、この新方針を支持する勢力は西ヨーロッパではむしろ少数派であった。だからこそマルクスらの「勝利」は形式的なものにすぎなかったのであり、次節で述べるように、これ以降マルクス派はじり貧状態に追いこまれていくことになるのである。これが、反対派との正面切った論争を避け、強行突破という手段にたよったマルクスが自ら招いた結果であった。なぜ彼がそのような態度をとったかと問われれば、筆者としては、当時の「マルクス主義」に、この面での論争に耐えうるだけの理論が欠けていたのだろう、と答えざるをえない。”(本書305-308頁より引用)
以上、本書から読み解けることとして、最終目標として「国家も階級もない社会」を目指すことについては同じである19世紀ヨーロッパの革命的社会思想、マルクス主義とアナーキズムの最大の相違が、そのための組織論、つまり「中央集権的な政党を必要とするか」(マルクス主義)、あるいは「連合主義の名の下、中央集権を拒否するか」(アナーキズム)にあることは明白であろう。そして、意外に思われるかもしれないが、精緻な体系を誇るマルクス主義よりも、バクーニンのあまり体系的とは言えないアナーキズムの方が、手工業者(時計職人)や農民の実感には根ざしていたのである。少なくともスイスでは、アナーキズム(バクーニン主義)の方がマルクス主義よりも現実的であり、地域に根差した社会思想と化していた。
マルクス主義がアナーキズムよりもはるかに優勢だったドイツやオーストリアにしても、ドイツ社会民主党の労働者がちっともマルクス主義的な「革命的プロレタリアート」ではなかったのは、ハンス=ヨーゼフ・シュタインベルクの『社会主義とドイツ社会民主党――第一次世界大戦前のドイツ社会民主党のイデオロギー』)(御茶の水書房、1983年)で実証的に示されている通りである。同書には19世紀後半~20世紀初頭にかけてドイツ社会民主党に所属し、ドイツの労働運動の実務を担ったイグナーツ・アウアーが、マルクス主義の革命的なレトリックが、むしろ現実の労働運動の実践を妨害しているとの見地から理論についてはあえて何も言わなかったというエピソードと、当時のドイツ社会民主党系の労働組合に組織されていたドイツの労働者の様子が紹介されている。この本を頼りに、以下その姿を見てみよう。
まず、イグナーツ・アウアーについて。アウアーは1875年に世界初のマルクス主義政党となったドイツ社会民主党の最高幹部の一人であったが、マルクス主義への深い理解にも関わらず、一貫して理論を遠ざける姿勢をとっていた。
“ イグナーツ・アウアーは、党執行部の「明らかに首位にある人物」であった。党の法律上の地位が保証されていなかったあいだは、手紙はすべて彼あてに出さざるをえなかった。クロイツベルク街三〇番地の建物のなかの彼の自室は、党事務室〔Parteibüro〕のある部屋 とつながっていた。地方の党組織や党出版部との通信の処理もまたアウアーの仕事だった。そのため、一方では、党執行部あてのあらゆる文書が彼の手を通ることになったし、他方では、彼は、執行部の通信文書を取り扱う人物として、こうした方法で自分の個人的な見解を広めることができたのであって、彼の個人的な見解は、手紙の受け取り人たちによって、多くの場合、執行部全体の見解として受け入れられたのであった。そのうえ、アウアーは、執行部と中央機関紙との連絡員だった。”
(ハンス-ヨーゼフ・シュタインベルク/時永淑、堀川哲訳『社会主義とドイツ社会民主党――第一次世界大戦前のドイツ社会民主党のイデオロギー』御茶の水書房、1983年10月20日第1刷発行、234頁より引用)
“ アウアーが主張してきたのは、マルクスの学問的理論は彼にとっても党にとってもどうでもよい、ということであった。彼は「マルクス主義者たち」を一つのセクト的な集団と見ていた。”
(ハンス-ヨーゼフ・シュタインベルク/時永淑、堀川哲訳『社会主義とドイツ社会民主党――第一次世界大戦前のドイツ社会民主党のイデオロギー』御茶の水書房、1983年10月20日第1刷発行、225頁より引用)
なぜ、マルクス主義政党の最高幹部がこのような姿勢を取ったかについて、一つには、マルクス主義の資本主義崩壊論が、現実の日常的な労働運動を軽視させる理論的な根拠になり得るという危惧が存在したからであった。
“……資本主義の崩壊に関する予言こそ、彼の辛辣な批判の対象であった。というのは、彼は、近い将来の崩壊を期待することのうちに、些細ではあっても重要な日常の任務を軽視する根拠がある、と考えたからであった。「『全般的な大騒動』は相変わらずなかなかやってこないのですから、われわれは、まさに、些細な手段をも、あてにしなくてはならないのです」”
(ハンス-ヨーゼフ・シュタインベルク/時永淑、堀川哲訳『社会主義とドイツ社会民主党――第一次世界大戦前のドイツ社会民主党のイデオロギー』御茶の水書房、1983年10月20日第1刷発行、220頁より引用)
そしてもう一つには、党内のマルクス主義者(左派)と改良主義者や修正主義者(右派)の思想対立が、党と労働運動の分裂をもたらしかねないことへの憂慮である。
“ 「アウアーの苦心と努力とは、労働運動のなかに台頭してきた諸対立を和解させ、それらの宥和をはかることであった。」この一文は、アウアーの希望で、彼の墓石に刻まれることになっていたし、また、それは、含蓄のある文体で、アウアーの政策の目標を表している。彼は、労働運動の統一が左右の理論家たちによって危険にさらされていると考えたのであって、それゆえ、理論を二義的なもの、非本質的なものとして、背後に押しやろうとしたのであった。”
(ハンス-ヨーゼフ・シュタインベルク/時永淑、堀川哲訳『社会主義とドイツ社会民主党――第一次世界大戦前のドイツ社会民主党のイデオロギー』御茶の水書房、1983年10月20日第1刷発行、224頁より引用)
以上のように、世界初のマルクス主義政党であった19世紀末のドイツ社会民主党の最高幹部には、党内の理論家同士の思想闘争が、労働運動の実践を却って阻害することを理由にマルクス主義を明示的に遠ざける人物、イグナーツ・アウアーが最高幹部に存在したが、マルクス主義政党内部でマルクス主義から遠かったのは、最高幹部だけではなかった。マルクスとエンゲルスの『共産党宣言』(1848年)にて、
“ 現在ブルジョア階級に対立しているすべての階級のうちで、プロレタリア階級のみがほんとうに革命的な階級である。その他の階級は、大工業が起るとともに衰退し、滅亡する。プロレタリア階級は大工業のもっとも独自な生産物である。
中産階級、すなわち小工業者、小商人、手工業者、農民、これらはすべて、自分たち中産階級としての存在を破滅から守るために、ブルジョア階級と闘う。したがってかれらは革命的ではなく、保守的である。なおそれ以上に、かれらは反動的である。なぜなら、かれらは歴史の車輪を逆にまわそうとするからである。かれらが革命的であるばあい、それは自分の身に迫っているプロレタリア階級への移行を顧慮してのことであり、かれらの現在の利益をではなく、未来の利益を守るためであり、かれら自身の立場を捨ててプロレタリア階級の立場に立つのである。
ルンペン・プロレタリア階級、旧社会の最下層から出てくる消極的なこの腐敗物は、プロレタリア革命によって時には運動に投げこまれるが、その全生活状態から見れば、反動的策謀によろこんで買収されがちである。
との言明により、「現在ブルジョア階級に対立しているすべての階級のうちで、プロレタリア階級のみがほんとうに革命的な階級である」とされた近代的産業労働者=プロレタリア階級からも、マルクス主義は遠い思想であったのである。
“ さらに注意すべきことは、労働者のために用意されていた労働者用図書館が労働者のうちのほんのわずかな部分に(←267頁268頁→)よってしか利用されず、また社会科学と党関係文献の部門から図書を借り出した読者は、とるにも足らぬ少数だった、ということである。たとえば一九一一年には、ベルリン木工労働者連盟の二万八、〇〇〇人の組合員のうち、たったの二二八人が、彼らのために用意されていた図書館から社会科学系の図書を借り出したにすぎなかった。”
(ハンス-ヨーゼフ・シュタインベルク/時永淑、堀川哲訳『社会主義とドイツ社会民主党――第一次世界大戦前のドイツ社会民主党のイデオロギー』御茶の水書房、1983年10月20日第1刷発行、267-268頁より引用)
“ 学問的な内容の図書を図書館から借り出したのは勉強熱心な少数の労働者であったということを前提とするならば、現存の資料に基づいて、労働組合員や党員のなかのこうしたエリートたちであっても、科学的社会主義すなわち本質的にはマルクス主義とあまり関係はなかった、ということを確認することができる。労働者用図書館のための基準カタログは、いつも、図書館の図書整備に大きな影響を与えることがなかった。というのは、これらの図書館が労働者を引きつけておくことができたのは、ただ、それらが労働者の要望に合致したときだけだったからである。知的感受性をもった労働者の社会主義思想に具体的な形を与えるうえで決定的だった著作は、ベーベルの『婦人と社会主義』(引用者註:日本語訳題は『婦人論』。原著1883年。岩波文庫で上下巻で読むことが可能)であった。このことは、この本の版が多いことからすぐに分かることであるが、労働者用図書館の現存の統計資料によってもはっきりと確証される。同時にまた、こうした事実によって、調査結果にたいする起こりうべき異論、すなわち、労働者たちは最も重要な社会主義文献を自分で買って持っていたのであって、そのために図書館での需要はこんなふうに異常に僅かだったのだという異論も、無効にされる。最も多く買われた本こそ、同時に最も多く借り出された本だった!社会民主党にたいする同時代の一批判者がすでに見抜いていたように、未来国家に関するベーベルのロマンは、「ブルジョア経済にたいするマルクスの辛辣な批判が可能としたよりも大きな社会主義にたいする確信を、民衆のあいだにうみだし【た】、ということには疑問の余地はない。」ベーベルは、彼の「けっして迷うことのない階級本能」によって、大衆の物の見方の核心を突き、全生活領域における前進的な発展の結果としての社会主義的な未来国家にたいする確信の急所をついていた。これとの関連では、ベラミ(引用者註:エドワード・ベラミ。アメリカ合衆国の社会主義者、SF作家。代表作は『顧みれば――2000年より1887年をかえりみる』)の未来像も挙げておかなければならない。これは、労働者グループのなかで、大変な人気を呼んだものであった。労働者用の図書館の資料は、この社(←269頁270頁→)会主義ユートピアの影響については、正しい印象を伝えていない。この本にたいする要望がそれほど大きくなかったことの理由は、九〇年代に社会民主党系のほとんどすべての新聞や雑誌がベラミのこの小説を連載で再掲載していた、ということから説明がつく。この本が出版されたときには大きなセンセーションをひき起こし、熱狂的に論じられたのであって、フリードリヒ・シュタンプファーも、この本によってはじめて社会主義へ心を動かされることになったのである。ベーベルの本とともに、まじめな党関係文献の中で、そのほかにはただ、マルクスの『資本論』第一巻を通俗化したカウツキーの本だけが、挙げるに値する範囲で貸し出されている。シュタンプファーの報告から明らかなように、たとえこの本の借り出された回数のほうが実際に読まれたそれよりもおそらく多かったとしても、それでも、この本は、その当時は、関心のある労働者にとってカール・マルクスの経済学説へ近づくための入口そのものだったのである。一般にマルクスの著作に近づこうとした人々は、まず最初に、カウツキーの小冊子を参照することを考えたのである。さらに言及しておくだけの価値があるのは、先に挙げた図書館のうちのいくつかでラサールの著作がしばしば請求されていた、ということである。これは、党内にラサール主義の影響が残っていたことによるものではなく、その平易な語り口によるものとされなくてはならない。”
(ハンス-ヨーゼフ・シュタインベルク/時永淑、堀川哲訳『社会主義とドイツ社会民主党――第一次世界大戦前のドイツ社会民主党のイデオロギー』御茶の水書房、1983年10月20日第1刷発行、269-270頁より引用)
“ 要約的に言えば、社会主義的な労働者層の大部分は、社会主義の理論にはまったく疎遠だったし、学問的な党関係の文献に少しも関心をもたなかったのである。図書館報告への注釈には、労働者の読書を科学的な社会主義へ引き寄せる可能性に関するあきらめの声が、繰り返し、いっぱいに書き込まれている。「労働者の大多数は、自分たちがもともとどこへ流されて行っているのかを問うことなしに、つまり社会主義に向かって進んでいるのかどうか、また、なぜ社会主義に向かって進むのか、ということをちっともはっきりとは知ることなしに、全体が群れをなしてのそのそと連れ立って歩いているのであり、運動については先頭に立つことができるのである。」"
(ハンス-ヨーゼフ・シュタインベルク/時永淑、堀川哲訳『社会主義とドイツ社会民主党――第一次世界大戦前のドイツ社会民主党のイデオロギー』御茶の水書房、1983年10月20日第1刷発行、277頁より引用)
“……社会主義的な大衆の観念のなかでは、社会民主党は、文化と文明との進歩の担い手であったが、他方、教会、貴族および大半のブルジョア層といった伝統的な諸勢力は、進歩に敵対するものと考えられていた。こうして、学問的な問題に関心を抱いていた少数の人たちの社会主義思想そのものが、一般的な進歩信仰につながっていたのである。帝制崩壊後の社会民主党系労働者層の態度についてアールトュア・ローゼンベルクが書いているように、ドイツ社会民主党の五〇年にわたる存続にもかかわらず、圧倒的多数の人々は、「社会主義について何一つはっきりと知ることが」でき「なかったのである。」党の理論家たちは、ドイツの労働者の偉大な理論的感覚の消滅を大いに嘆いたが、そうした理論的感覚は、もともと、ただ、マルクスとそのエピゴーネンとの観念のなかにだけ存在していたものである。”
(ハンス-ヨーゼフ・シュタインベルク/時永淑、堀川哲訳『社会主義とドイツ社会民主党――第一次世界大戦前のドイツ社会民主党のイデオロギー』御茶の水書房、1983年10月20日第1刷発行、278頁より引用)
“……平均的な社会民主党員は、社会主義という場合に、いったい具体的には何を思い浮かべることができただろうか?理論的感覚の萎縮や科学的社会主義への大衆の無関心さにたいする批判は、繰り返し、ただ、批判をもって迎えられることができるだけである。学問をするようにせきたてられた労働者層が、ビュヒュナー、ケーラー、(←278頁279頁→)ヘッケルの俗流唯物論のとりこになり、またコルヴィン風の疑似科学的なパンフレットのとりこになったのは、不思議なことではなかった。十分に階級意識のある、献身的な、連帯心に富んだドイツの社会主義的な労働者層は、マルクス主義的な理論家たちによって、また修正主義的な理論家たちによっても、過大な要求を突きつけられていたのである。科学として現われる社会主義がドイツの大衆に受容されず理解されなかったということは、ドイツの労働者層の「成熟度」が足りなかったことを証明するものではない。彼らが十分に成熟していたことは、労働者が実際に活動できたところでは、つまり労働組合や健康保険や工業裁判所などでは、政治上の敵対者でさえも称賛したのであった。理論的理解不足にとっての原因が不適当な諸要求のなかに求められなくてはならないかどうか、という疑問は、第一次世界大戦よりも前には、社会民主党のなかで、権威ある有力筋から提起されたことはなかったのである。”
(ハンス-ヨーゼフ・シュタインベルク/時永淑、堀川哲訳『社会主義とドイツ社会民主党――第一次世界大戦前のドイツ社会民主党のイデオロギー』御茶の水書房、1983年10月20日第1刷発行、278-279頁より引用)
つまり、マルクス主義は労働者の現実に根差した社会思想ではなかったのである。
20世紀の権力の座に就いたマルクス主義者の革命家として思い浮かぶ名前をざっと挙げていくと、レーニン、トロツキー、スターリン、毛沢東、エンヴェル・ホッジャ、金日成、ホーチミン(胡志明)、フィデル・カストロ、アミルカル・カブラル、アゴスティーニョ・ネト、ポル・ポト、ハフィーズッラー・アミーン、トマ・サンカラ、ジョー・スローヴォといった人々が思い浮かぶが、この内の多くの人々は、欧米=西洋列強や日本の帝国主義侵略政策に対抗する過程で、自国・自民族のナショナリズムを動員するための運動論と歴史論を構築するためにマルクス主義を用いた知識人であると規定できよう。あえてここからマルクス主義を「反西洋・反帝国主義の左翼ナショナリスト知識人のための社会思想」と規定することは、可能なのではないか。
19世紀後半から近代的産業労働者(プロレタリアート)階級は自らの階級的利益の実現のために、先進資本主義国では、ラッサール主義や修正社会民主主義(イギリス労働党のフェビアン主義・ドイツ社会民主党のベルンシュタイン主義)、アメリカ合衆国のニューディール・リベラル(フランクリン・ルーズヴェルト時代の米国民主党)などの実質的な改良主義路線を支持し、組織労働者がマルクス主義政党による「指導」を嫌がったフランス、スペイン、イタリア、アルゼンチンなどでは、自らの力で革命的サンディカリズムを立ち上げ、ジョルジュ・ソレルのような知識人の力を得てその理論家に努めてきたが、いずれにしてもロシア革命以前のマルクス主義が労働者自身の社会思想ではなかったことは明白であろう。本書はその事実をスイスという一地域の現実を照射することで果たした書といえるのではないか。ロシア革命以後であっても、世界各国でコミンテルン支部=共産党を支持した労働者は、マルクス主義を支持したというよりは、1930年代にスターリンが運動路線として標榜した左翼ナショナリズムを支持してきたのではないかという印象がある。恐らく、トロツキー主義がスリランカとボリビア以外で労働者階級の間に勢力を保てなかったのは、スターリンや毛沢東が行ったような形で「民族」を語らなかったからであろうと私は考えている。
さて、本書について私が思うことは以上であるが、最後にもう少しだけ展望を語りたい。
マルクス以来、組織重視で中央集権的な〈党〉を志向してきたマルクス主義は、1902年のレーニンの『何をなすべきか?』至って前衛党理論を生み出した。理論付けとしては以下のようになる。
“ 階級的・政治的意識は、外部からしか、つまり経済闘争の外部から、労働者と雇い主との関係の圏外からしか、労働者にもたらすことができない。この知識を汲みとってくることのできる唯一の分野は、すべての階級および層と国家および政府との関係の分野、すべての階級の相互関係の分野である。だから、労働者に政治知識をもたらすにはなにをなすべきか、という問いにたいしては、「経済主義」に傾いている実践家はもとより、大多数の場合に実践家を満足させている回答――つまり「労働者のところにゆけ」という回答をあたえるだけではだめなのだ。労働者に政治的知識をもたらすためには社会民主主義者は、住民のすべての階級のなかにはいってゆかなければならない、自分の軍隊の部隊をあらゆる方面に派遣しなければならない。”
(ヴェ・イ・レーニン/村田陽一訳『なにをなすべきか?』大月書店〈国民文庫110〉、1971年7月30日第1刷発行、1990年6月28日第40刷発行、121頁より引用)
この文脈でアナーキストは“「経済主義」に傾いている実践家”ということになり、ロシア革命後にレーニンとトロツキーによってクロンシュタット叛乱やマフノ運動のように粛清・追放されることになるのだが、他方で組織を嫌うアナーキストは、現状への批判は行い得ても、どのように革命後の新しい秩序を作り上げるかという点で見事に失敗した。1920年代以降、1991年のソ連崩壊まで、アナーキズムはマルクス主義に地球規模でのグローバルな世直し思想としての地位を奪われ、ソ連崩壊後も、かつてマルクス主義が担っていたある部分(反西洋帝国主義など)に関しては戦闘的イスラーム主義がそれを代替しているように私には思える。組織論がないも同然なので、アナーキズムを信条として抱く個人が具体的に何をなすべきか?を問うても、1999年のシアトルWTOのような散発的な事態を除いては、現実政治を動かすほどの強い組織的な凝縮力を持てないのである。
レーニンの前衛党理論がスターリン主義とトロツキー主義双方で、「革命的プロレタリアートの前衛党」の名の下で革マル派や中核派などの既存の党を物神化し、内ゲバ殺人に典型的なように、党の名の下なら市民社会の道徳律を外れた行為を起こしても問題ないという退廃に至ってしまったことを考えるに、このマルクス=レーニンと続く〈党〉の神格化は避けねばならないと、私は考えている。もちろん、私はアナーキストに道義退廃がなかったと言いたいわけではない。19世紀末~20世紀初頭にかけてアメリカ合衆国やフランスなどで相続いた大統領や政治家を暗殺するテロ事件や、窃盗を社会への反抗として実践してきたのはアナーキストであった。私はマルクス主義に、マルクス以来の中央集権的な〈党〉を神格化する組織論がある限り、行き着くところは何らかの形でのスターリン主義でしかないのではないか、ということを主張するものである。
恐らく、アナーキズムがこの問題に対して、一定の解決を図ることできたのは、「世界でいちばん貧しい大統領」こと、南米のウルグアイ東方共和国のホセ・ムヒカ前大統領ではないか。アナーキスト=無政府主義者を自称するムヒカはウルグアイの大統領であった際に、「無政府主義者でありながら国家元首でもあるのは難しくはないですか?」と尋ねるジャーナリストのインタビューに答えてこう述べている。
“「無政府主義について話しましょう。無政府主義者でありながら国家元首でもあるのは難しくはないですか?あまり理解してもらえないのではないでしょうか」
「それは、瞬間的な、歴史的な時間の問題だ。私は、昔から無政府主義者だ。一番効果的な国家改革は、国家をなくすことだ。問題は、私たち人間が国家なしでは生きられないということだ。これは私たちの短所の表れだ。人類の歴史の九割には、国家は存在しなかったのだがね。国家が存在するということは、社会に階級が存在しているということの証明だ。一部の人間が他の人間を支配するようになると登場する。防衛大臣や内務大臣、外務大臣が任命されると政府ができる。政府が最初にやるのが、まずこういうポジションを決めて、国民をコントロールすることだ。経済大臣でも教育大臣でもないんだ」
「あなたも政府にやられたということですか?」
「ああ。だが、無政府主義の共和国は、戦車の下敷きになって滅びたのであって(引用者註:スペイン内戦の際にアナーキストが入閣していたスペイン共和国を指しているのだと思われる)、ソビエト連邦のように錆びついていったわけじゃない。だから今も無政府主義にはあかりが灯ったままなのさ」”
(アンドレス・ダンサ、エルネスト・トゥルボヴィッツ/大橋美帆訳『ホセ・ムヒカ――世界でいちばん貧しい大統領』KADOKAWA〈角川文庫〉、2016年3月25日初版発行、126頁より引用)
ホセ・ムヒカが大統領として実際に行ったことは、貧困層向けの住宅建設や人工妊娠中絶の合法化など、社会民主主義の政策を超えるものではない。ベネズエラのチャベス革命政権が行った企業の国有化政策に反対していたことを想起すれば、その穏健性は十分に伝わると思う(私自身はベネズエラの経済を大混乱に陥らせた企業国有化政策は失敗だったし、基本的には行うべきではない政策だと考えている)。しかし、ムヒカがアナーキストでなければ、ムヒカが行ったことをウルグアイで実践することは不可能だったとも思う。ホセ・ムヒカの体現する価値を、アナーキズムの色である黒と、実際に行うべき社会民主主義政策と合わせ、「黒色社会民主主義」と呼ぶことを私はここに提唱する。
"『社会主義』という言葉はかなり複雑だ。単純に言うと、人間にとって最も基本的な権利を獲得することだ。人間同士の基本的な平等のために闘うことだ。政治の世界で起こっていることはとても重要なことのように見える。だが、シンプルにわかりやすく説明できないことは、実はそれほど重要ではないのだ。"
(アンドレス・ダンサ、エルネスト・トゥルボヴィッツ/大橋美帆訳『ホセ・ムヒカ――世界でいちばん貧しい大統領』KADOKAWA〈角川文庫〉、2016年3月25日初版発行、40-41頁より引用)
黒色社会民主主義は社会主義だが、それはマルクスの掲げる社会主義ではなく、このような社会主義である。人間を理想的な社会の実現を目的とする組織の道具としかねない発想から、個々の人間が現実を生きることへと社会主義への視点を切り替えること。1870年頃のスイスのジュラ地方で、バクーニンを支持してマルクスの中央集権的な政治組織に反対した時計職人のアナーキズムに今日の我々が学ぶべきことはそこにある。