読書録:松田道雄『日本知識人の思想』筑摩書房〈筑摩叢書44〉、1965年7月25日発行。

討幕革命から安保闘争までの日本の知識人・インテリゲンチアに関する論考集。以前斜め読みしたものを今回改めてしっかり読むことにした。私がロシア語のинтеллигенцияのカタカナ表記を「インテリゲンチャ」でも「インテリゲンツィア」でもなく、「インテリゲンチア」と表記するのはこの本の松田道雄氏の用語法に由来している。

 

内容に入ると、日本におけるインテリゲンチアの志士仁人性をまずは認めるべきだという主張があり、その発想から、志士仁人としての日本のインテリゲンチアの思想的な弱さを論じていくという方向性から全編がまとめられている。また、著者が近代日本アナーキズム運動に関するアンソロジーを纏めている背景もあってか、マルクス主義偏重の日本反体制運動史の中で不当に低く評価されてきた大杉栄アナーキズム運動に大きな評価がなされていることも特徴(50-60頁)。本書に収録されている「青春群像――「社会科学」はなやかなりし頃」(119-132頁)、「戦争とインテリゲンチア――現代史と人間」(133-159頁)、「一市民のマルクス主義体験――日本共産党と私」(160-194頁)の三篇の論文で著者が自らとマルクス主義及び日本共産党との関係を語るところから判断すると、1908年に生まれ、20歳前後の京都大学医学部在学中に日本共産党の影響を受けるも、共産党が弾圧の中で完全敗北していったのを目にし、マルクス主義を内心に維持することで戦時中を切り抜けつつも、戦後復活した日共の運動面・思想面の双方に何か違うという印象を抱いての論考ということになるらしい。戦前日本の共産主義運動について何かを学びたいと思う人にとって本書は、福永操の『共産党員の転向と天皇制』(三一書房、1978年)、『あるおんな共産主義者の回想』(れんが書房新社、1982年)、宮内勇の『1930年代日本共産党私史』(三一書房、1976年)、神山茂雄の『日本共産党とは何であるか』(自由国民社、1972年)、『わが遺書』(現代評論社、1975年)、寺尾五郎の『対論・革命運動史の深層』(谷沢書房、1991年)などと共に必読の書であろう。

 

なお、著者が技術系・理系の専門家を念頭にして論じている「実学型インテリゲンチア」については、現時点で私は多くを語る力を持たないので保留することにする。また、以下のノートは私が共感できる部分や特に論じるべきだと感じた部分について主に論じており、そうでない部分については論じていないので、その点をご承知おき願いたい。

 

以下気になった部分を抜粋し、感想を加えていくことにする。

 

 

†「日本の知識人」(5-61頁)

“ まず第一に維新を推進したものがインテリゲンチアであったということを認めるべきである。歴史を動かすものは階級闘争であって、インテリゲンチアは独自の階級的基盤をもたない浮動層であるということは客観的には言えるだろう。だが幕府をたおして新しい政府をつくった集団の行動を指導したものが何かという問題では、彼らの代表する「階級的地盤」の多様性よりも彼らの精神における共通性のほうが重要である。

 維新の「志士」は共通してインテリゲンチアであったということを、今日われわれにすなおに受け入れさせないものは、「インテリゲンチア無力説」である。この説が発生したのはだいたい明治の末期である。それは漱石の「現代日本の開化」のなかにほぼ完成した形で示され、疎外されたインテリゲンチアの余計者の意識でかかれた自然主義小説によって情緒的に準備され、大正年代に労働者階級の成長とともに自然発生的にあらわれ、のちに日本共産党天皇制政府とのたたかいのうちに両側から悪意をもって宣伝されることによってできあがった歴史的な産物である。少なくとも明治の中期では、ロシア語のインテリゲンチアは、日本語の「志士」に対応するものとして考えられ(←7頁8頁→)ていた(拙稿「『浮雲』について」)”(本書7-8頁より引用)

 

本書を読むまで「インテリゲンチア無力説」が天皇制国家と日本共産党の双方から唱えられた説だとは思っていなかったので、初めて読んだ時、この点が衝撃だった。日本の知識人・インテリゲンチアの双方によくある、自らの無力性を嘆じて自暴自棄に至るという在り方は、てっきり自然主義以来の純文学の世界で培われたインテリゲンチアの自画像だと思っていたため、マルクスレーニン主義の下で知識人の労働者に対する指導性を肥大化させた日本の知識人が、自らの足元を掘り崩していたとは思わなかった。というよりもむしろ、アナーキスト共産主義者として革命家であった大正~昭和戦前期の革命家達が、討幕革命の志士達と自らを「革命的インテリゲンチア」という言葉の下で統一的に把握することができなかったということの表現なのだろうか?或いはマルクス主義者に多い、自分自身はちっとも労働者らしくないのに自分のことを労働者だと言いたがる悪い癖の現れか。

 

“ 「志士」が共通してサムライという職業軍人であったことも、彼らインテリゲンチアの人間形成において、肉体的にも精神的にも大きな意味をもったことは争えない。明治の変革が職業軍人によって計画され実行されたということは、明治の変革にフランス革命とのアナロジーをさがそうとするよりも、現在の「後進国」の民族独立の革命とのアナロギーをみつけることのほうが容易ではないだろうか。”(本書9頁より引用)

 

明治維新革命を明治~大正期の歴史学のように自由主義革命(マルクス主義者の言葉で言えばブルジョワ民主主義革命)と認識することへの批判だが、私はこれについては現状ではまだ明確な答えを持ち合わせていない。

 

“ 「志士」型インテリゲンチアに共通するつぎの特徴はそのエリート意識である。彼らが維新の変革を藩兵の武力によって成就したことは、彼らと人民との身分的な断層にたいして何らの反省をもたらさなかった。日本の自主独立の使命感をささえていたものが、そのエリートの意識であってみれば、彼らの権力が強まり使命達成に近づくだけ、彼らは人民から離れるのであった。

 藩閥政府にまで上昇した「志士」型インテリゲンチアにとって人民は獣と異なるものではなかった。陸羯南(一八五七-一九〇七)のいうように「朝野の政治家等は二十年来人類を動物視して肉と棒とのみを政界の道具と為した」(『原政』)のであった。

 明治九年八月の『中外評論』はこの事情をつぎのように書いた。

 「然レトモ全国頑固士民ノ多キ寸兵ヲ動カサスシテ一大変革ヲ成就セシハ国家ノ至幸ナリト雖モ亦(←11頁12頁→)以テ人心衰弱ノ一端ヲ徴スルニ足レリ政府ハ坐シテ大業ヲ奏スルヤ以為ク官吏ハ明而強人民ハ愚而弱ト」(青木文庫『自由民権思想・上』一五四頁)。

 エリート意識はそれがエリート意識である限り、一般者との区別を意味するのであるが、それが何ものかを媒介として、もう一度人民と結びつくべきものである。そうでないと動物と同じように扱われた人民はなんらかの形で自己の人間を回復しようとするから、エリートによる指導に対立する。

 人民から孤立したエリートの集団は自己防衛のためにおのずと結束して閉鎖的な世界を形づくる。” (本書11-12頁より引用)

 

討幕革命の志士の中で最も人民への愛に満ちていたのは松陰であったが(疑う向きは松陰が被差別部落出身の女性、登波を安政4年に『討賊始末』の中で烈婦と讃えたことをご想起いただきたい)、松陰にしても安政3年頃まで武士の特権意識から民衆を動物視する向きがあり、その時期の松陰は朝鮮や中国に対する侵略的な言辞に満ちていたが、入獄後し、多くの民衆と触れ合う中で自らの考えを変え、安政5年(1858年)に討幕を決意した頃には旧武士階級の特権意識を捨て去り、『対策一道』に見られるようにそれまでの朝鮮や中国への侵略的言辞を改めるまでになっていた。松陰門下の維新志士=インテリゲンチア討幕革命家達はこの最も重要な点において松陰に学ぶことはなく、「エリート意識はそれがエリート意識である限り、一般者との区別を意味するのであるが、それが何ものかを媒介として、もう一度人民と結びつくべきものである」(本書12頁)というインテリゲンチア革命家と民衆を媒介する意識を持てなかった。ここに近代日本の出発点に於ける悲劇があった。

 

“  「吾人の眼球を一転して、吾国の歴史に於て空前絶後なる一主義の萌芽を観察せしめよ。

   即ち民権といふ名を以て起こりたる個人的精神、是なり。」

 これは北村透谷(一八六八―九四)の「明治文学管見」の中の一句である。自由民権運動ブルジョア民主主義革命として理解しようとする研究は日本のマルクス主義者によってもっぱらすすめられてきたが、「自由民権」型インテリゲンチアとしての統一したタイプを結晶としてとり出すには、まだデータが十分に出そろっていないように思う。自由民権運動をかりに『自由党史』のなかに出てくる運動と限ってみても、それらが統一した階級的基礎によって起ったものとは考えにくい。自由民権はモザイックである。すでに陸羯南は自由民権の多元性を指摘し、幽欝民権(在野征韓論の変形)、快活民権(自由主義の萌芽)、翻訳民権、折衷民権にわけている(『近時政論考』)。

 自由民権の指導者には新しい権力機構に就職できなかった「志士」型インテリもいれば、地方的利益を藩閥政府からまもろうとした村落共同体の指導者としての豪農もいれば、地方ジャーナリストもいるといったぐあいで統一した思想をそこにみつけることが困難である。だが、どんなに甘く点をつけても「地方の豪農・豪商の指導下に一般農民=中・貧農層さらに都市貧民・初期プロレ(←16頁17頁→)タリアートをふくむ広汎な反政府戦線が結成され」たというふうには思われない。その運動は、局地的には武装蜂起という深刻な形をとったものもあるが、あまりにも散発的である。そうしてもっと重大なことは、この運動が日本の精神的産物のなかに、そのあとをとどめることがあまりに少ないということである。二葉亭はなぜ自由民権を画かなかったか、自ら自由民権運動に参加した透谷がなぜ、自由民権をうたわなかったか。自由民権論の思想家植木枝盛は、日本の自由民権思想として世界民主主義思想史のなかにどれだけのオリジナルなものを加えたか。

 遺憾ながら近代日本の精神史のなかで、自由民権運動の比重はそれほど大きなものであったと考えるわけにいかない。

 それなら自由民権は日本にとって何であったのか。ここで、いちばんはじめの透谷の言葉にもどるのである。それは個人的精神の勃興である。人間精神の覚醒である。藩閥政府によって動物なみにしか扱われなかった人民の人間回復である。このゆさぶりがあったからこそ、二十年代における日本ナショナリズム運動が可能であった。日本ナショナリズム運動は少なくとも自由民権運動にくらべれば全国的な事件であった。そこには「国民の元気」があった。透谷がそれに感じてうたった「内部の生命」があった。私は自由民権運動を二十年代の日本ナショナリズム運動を準備したものとして評価したい。

 自由民権運動を日本人民の個人の精神の覚醒であるとするならば、容易にその「物質的基礎」を発見することができる。”(本書16-17頁より引用)

 

既に見たように、著者は討幕革命に勝利した後に維新官僚となった革命家たちのエリート主義によって動物並みに扱われていた「人民の人間回復」(本書17頁)として自由民権運動を位置付け、その延長線上に日本ナショナリズムの民衆化があるとして、「自由民権運動を二十年代の日本ナショナリズム運動を準備したものとして評価したい」(本書17頁)としているが、逆に言えば日本ナショナリズムの民衆化を否定する立場から自由民権運動を否定することも可能だと思う。ただし、その場合、国家から動物並み扱われていた「人民の人間回復」をナショナリズム以外の思想運動によって行う必要が生じるだろうし、そうであるならば天理教等の民衆宗教にその役目が回りそうである。いずれにせよ、松田道雄氏の言う通り、自由民権運動自由民主主義革命だとみなすのは誤りだと思う。自由民権運動の出発点が「征韓論」であったことを忘れてはならない。ただ、「征韓論」から出発し、民権壮士や後の自由党系の国会議員が日清戦争日露戦争で見せたように、中国や朝鮮やロシアに対する排外意識を持ちながらも、北村透谷のように、そこに「民権といふ名を以て起こりたる個人的精神」を発見し、国学運動が最初期に持っていた人間の回復という事業に至ったことは、これに関しては良かったと思っている。

 

 

“ 「明六社」のインテリゲンチアが「政論壇上」を退いたあとは「慷慨志士」がこれにかわるのであるが「言論出版を以て意見を公にするを得たるは実に当時印刷事業進歩の賜」(陸羯南『近時政論考』)であったが、それら言論を読むことによって人民の多数が覚醒していったのも「印刷事業進歩の賜」であったわけだ。

 それだから自由民権運動を指導したインテリゲンチアをなんらかの型にいれようとすれば新聞事業の発生とともに生まれたジャーナリスト型とでもすることができよう。

 このジャーナリスト型インテリゲンチアの系譜に明治社会主義運動があり、大正デモクラシー運動がある。”(本書18頁より引用)

 

また、自由民権運動について、板垣退助の政府による買収によって実現した外遊で西欧のデモクラシーを目の当たりにしての「転向)について、「西欧の自由平等が植民地人員の不自由不平等の上に立っていることを自分の目でみた」(本書19頁より引用)結果により西欧デモクラシーを批判視する視点を得たのだと認識し、「彼はある意味でゲルツェン Herzen(一八一二―七〇)がロシアの西欧派にたいしてふるまったのと同じ役割を果たしたのである」(本書19頁より引用)と述べている(本書19-21頁)。この日露の西欧的知識人が西欧の民主主義国の現実を目にして西洋近代的理想そのものに懐疑的になる様子の比較は非常に興味深い。

 

“……自由民権運動がもしブルジョア民主主義革命の運動であるならば、ブルジョア的発展がさらに進行する二十年代、三十年代でより大きな潮流となるべきであるのに、二十年代において「挫折」するというのは、それが人民の「個人精神」の覚醒であり、その覚醒にあたって西欧民主主義の非人間性を板垣によって指摘されたからであろう。それは日本が西欧民主主義国の帝国主義的侵略を自分の眼前に見うる位置にあったということ、しかも自らは植民地を持たない国であったということによって、理解をいっそう容易にしたにちがいない。日本人民の堕落は日本が植民地をもつことによって始まるのであった。”(本書21頁より引用)

 

「日本人民の堕落は日本が植民地をもつことによって始まるのであった」という指摘には私も全面的に首肯する。だからこそ、今日も韓国/朝鮮・台湾・中国が突き付けていることは、我々が討幕革命の後、欧米列強を真似て植民地を保有することを選び、結果として日本民族の品位を堕落せしめてしまったことを忘却しているということなのだ。既に、辛亥革命の指導者にして中華民国の建国者孫文孫中山)は、1921年朝日新聞のインタビューに答えてこのように語っていた。

 

“ 今、貴社の記者より、中国人は何故に日本を深く恨むのか、また、いかなる方法で両国の国民感情を調和させるのかとの質問を受けた。私は誠意を尽して回答し、あわせてこれを日本の旧友に伝えようと思う。

 私はこれまで最も力を入れて中日親善を主張してきたものである。ところが、近年、日本政府が事ごとにわが国の官僚を支援し、国民党を挫折させるのを見、痛恨の念を禁ずることをできない。(←303頁304頁→)

 そもそも、中国国民党は五十年前の日本の維新の志士なのである。日本は東方の一弱国であったが、幸いにして維新の志士が生まれたことにより、はじめて発奮して東方の雄となり、弱国から強国に変じることができた。わが党の志士も、また、日本の志士の後塵を拝し、中国を改造せんとした。私が日本との親善を主張したのもこのためであった。ところが、思いがけないことに、日本の軍人はその帝国主義の野心をたくましくし、あの維新の志士の抱負を忘れ、中国を最も抵抗力の少ない地域だと考えて干渉し、そうすることで、その侵略政策を進展させた。これが中国と日本の建国方針の根本的に相容れない点なのである。

 しかるに、日本人の見解では、中国はこれまで列強の侵略を受けてきたが、日本はこれらの列強に比べ、なにもひどく侵略したというわけではない。しかるに何故に日本だけをとくに深く恨むのかと言う。ああ、これは弟でありながら、強盗の仲間になり、その長兄の家を襲い、しかも居なおって、我われ二人は本来、同じ血を引くものだから、兄は強盗よりも弟を更に恨むようなことがあってはならないと言う。それとどこが違うというのだろうか。これこそ、今日の日本人の同文同種の論調なのである。”

孫文/鳥井克之訳「中国の青島回収につき朝日新聞記者に回答せる書翰」『孫文選集第三巻』社会思想社、1989年6月30日初版第1刷発行[原著『民国日報』1919年6月24日]、303-304頁より引用)

 

「そもそも、中国国民党は五十年前の日本の維新の志士なのである」と孫文が語るように、孫文は日本の維新の志士、吉田松陰ら行ったことを、20世紀に入ってから推進したのであった。松陰を朝鮮や中国に対する侵略の思想家だと考えている人は今日も多く、松陰自身にもそのように解釈される余地が多々あったので、ここで少しだけその点について述べておく。山鹿流兵学を家学とする家の当主であった、松陰の発想は武士の発想であり、「武士道といふは死ぬことと見つけたり」から始まる『葉隠』を見れば明らかなように、武士の発想とはすなわち「斬らなければ斬られる」、「弱みを見せるのは武士の恥」というものであった。ここから初期の松陰は安政2年(1855年)の時点で「……洪秀全などが清国を偽定し、朝鮮も満州も随従して、かれより先にわが関を款き候はば、大遺憾これに過ぎず候」(書簡、安政二年四月二十四日、兄宛)といった、洪秀全太平天国が朝鮮と共に攻め込んでくるという誇大妄想に至り、日本から攻めなければ外国に攻め込まれるばかりに(ペリーの黒船来寇のような砲艦外交に見られる通り、その可能性は決して白昼夢ではなかった)、「……いま急に武備を修め、艦ほぼ具はり礟ほぼ足らば、すなはちよろしく蝦夷を開墾して諸侯を封建し、間(すき)に乗じて加摸察(カムチャツ)加(カ)・隩(オ)都(ホー)加(ツク)を奪ひ、琉球に諭(さと)し、朝覲(ちょうきん)会同(かいどう)すること内諸侯と比(ひと)しからしめ、朝鮮を責めて質を納(い)れ貢(みつぎ)を奉ること古の盛時の如くならしめ、北は満州の地を割(さ)き、南は台湾・呂(ル)宋(ソン)の諸島を収め、漸(ざん)に進取の勢を示すべし」(『幽囚録』)という悪名高い安政2年(1855年)の『幽囚録』の誇大妄想的侵略主義が出てくるのである。さて、下田でアメリカ合衆国の船に密航することに失敗した後の松陰の人生は、牢獄の人として過ごすことに終始したと言ってよい。松陰は牢獄で出会った人々に自らの救国の志を語る中で、それまで動物と同様に視ていた民衆である牢獄の人々に、自らに通じる志を発見することになる。私はこの過程が生まれながらの下級武士であり、忠義と身分制に凝り固まっていた松陰が自らの下級武士性を捨て、万人の平等という方向性を発見していく過程だったと考えている。安政3年(1856年)には「然りと雖も普天率土の民、皆天下を以て己が任と為し、死を尽して以て天子に仕へ、貴賎尊卑を以て之れが隔限を為さず。是れ則ち神州の道なり。」(『丙辰幽室文稿』)と、天皇の下での「貴賎尊卑を以て之れが隔限を為さず」という平等の道を唱え、安政4年(1857年)には被差別部落出身の女性、被差別部落出身の女性、烈婦登波の伝記を書き、部落解放への先鞭をつけている。この延長線上に、武士階級に備わっていた侵略性を改める安政5年(1858年)の「対策一道」が出てくるのである。

 

“……然る後往いて朝鮮・満洲および清国を問ひ、然る後、広東・咬〔口偏に留〕吧〔カルパ〕・喜望峯・豪斯多辣理(オーストラリア)、皆館を設け将士を置き、以て四方の事を探聴し、且つ互市の利を征る。此の事三年を過ぎずして略ぼ弁ぜん。然る後往いて加里蒲爾尼亜(カリフォルニア)を問ひ、以て前年の使に酬い、以て和親の約を締ぶ。”

(「対策一道」山口県教育委員会編『吉田松陰全集第四巻』大和書房、東京、1972年7月20日初版発行、1986年11月25日5刷発行、332頁より引用)

 

松陰は「朝鮮を責め」、「満州の地を割き」、「台湾・呂宋の諸島を収め」といった、『幽囚録』

で見せた武士的な近隣諸国への侵略政策をこの『対策一道』で改め、「朝鮮・満洲および清国を問ひ」、「互市の利を征(と)る」という平和通商の要求に思想が軟化しているのである。これこそが封建社会に武士として生まれた人間が、牢獄の中で武士としての自分の在り方を変える人間的な成長であり、ここに日本が黒船でアメリカ合衆国から押しつけられた侵略を朝鮮や中国に押しつけようとする発想を改め、国際的な正義である反侵略の実現を目指す維新の志士=討幕革命家が誕生したのである。孫文1921年に「ところが、思いがけないことに、日本の軍人はその帝国主義の野心をたくましくし、あの維新の志士の抱負を忘れ、中国を最も抵抗力の少ない地域だと考えて干渉し、そうすることで、その侵略政策を進展させた」と言っている、「あの維新の志士の抱負を忘れ」というのは、この松陰が自らの武士性を捨てる中で侵略主義から通商主義に自らの思想を変化させたことを忘却し、安政3年(1856年)頃の侵略主義者時代の松陰を、松陰の本質として記憶してきたことに対する批判なのである。ちなみに松陰は最晩年の安政6年(1859年)4月に、「草莽崛起、豈に他人の力を假らんや。恐れながら 天朝も幕府・吾が藩も入(要)らぬ、只だ六尺の微軀が入用」と、安政3年(1856年)に「貴賎尊卑を以て之れが隔限を為さず」と述べるための前提だった天朝をいらぬと振り捨てている。ここにはもはやかつての尊皇家松陰の姿はない。尤も、残念ながら、29歳で処刑された松陰にはその反侵略の思想も、天皇を不要とする思想も、突き詰めて体系的にまとめるだけの時間的余裕はなかった。竹島鬱陵島開拓論などはその典型例であろう。おそらく松陰が鬱陵島開拓論について、朝鮮側の反論に本格的にあった場合、私は開拓論を取り下げたと考えているが、現実の過程でそのような展開は存在しなかった。そして松陰がやり残した課題は明治時代の社会主義者が担うべきであったのだろうけれども、これに失敗したことは本書に明らかな通りである。

 

“ 志賀重昂は日本の政治的指導者が見なかった西欧民主主義国の植民地や占領地だけを見てまわった唯一のインテリゲンチアであった。”(本書27頁より引用)

“ 「然り予輩は円満完了平和平等なる世界に到着せんことを熟望す、然れども宇内人文の程度が未だ這般の地位に到達せず、民族国家を以て特立自立せざるべからざるの境遇に棲息する以上は、鋭意力を極めて民族国家が独立自立を保維するの事業に周旋せざるべからず。」(「日本国裡の事大党」、『日本人』第五号、明治二十一年六月三日)。

 世界人類の平和平等は理想であるが、民族国家のメンバーとしてしか人類が生活できない現段階においては、国家主義も現実としては承認せざるを得ない。国家主義を過渡的な段階として認めて(←29頁30頁→)いる点において、志賀の理論は、国家主義にたいして批判的でありながら国家を単なる地理的な結合としてしか見なかった植木枝盛のつぎの見解よりも、むしろ歴史的感覚においてすぐれているというべきであろう。

 「若又国家の位地より之を観察せよ。日本は四方環海の国にして、他邦と陸地を相接ゆる者にあらず、外交上の歴史より観察せよ、彼の孛仏が互に甚しき寇讐の間柄を有する如き関係ある者にあらず、声を嗄らして国家々々と叫ばざれども、国家の結合は少しも不足を告ぐること有らざるなり、舌を爛らして国民よ々々々と喚かざれども国民的の観念は幾んど天然の如くに具備するなり、日本に於ては民権よ々々々と叫ぶこそ必要なれ、自由よ々々々と喚くこそ急々なれ。」(『自由新聞』第十九号、明治二十三年十一月三日、青木文庫『自由民権思想・中』一〇八頁)。”(本書29-30頁より引用)

 

私は国家と宗教と個人の自由について、多くの点でバクーニンが「神と国家」などの著作で示したアナーキズムの見解が最も正しいと思いつつも、実践的には民族国家(nation state/estado nación)を否定することは、残念ながら現時点ではできないという見解を有するために、この点では著者と同じく植木枝盛よりも志賀重昂に立つものだが、ただし、民族国家を基礎付けるナショナリズムの導き出し方として天皇を持ち出すことは避けなければならないと考えている。私見では日本毛沢東派の寺尾五郎が『革命家吉田松陰――草莽崛起と共和制への展望』徳間書店、1973年3月10日発行)で示した、松陰の思想に人民主権を見る反天皇制ナショナリズムの方向を明確にしなければ、西洋民主主義国による侵略的帝国主義を批判するところから始まった(これは正しいと私も考えている)志賀重昂的な国家容認論の在り方は、現実の天皇制国家と日本帝国主義をズルズルベッタリに容認する方向に落ち込んでしまいかねない。バクーニンの理想は全く正しいと思うけれども、現在の世界でパレスチナ人が自由に生きるためにはパレスチナ民族国家が必要なのだと私は考えている。

 

“……だが私はベーベル Bebel(一八四〇―一九一三)からバクーニン Bakunin(一八一四―七六)にうつっていった幸徳の「思想の変化」に明治社会主義の論理的帰結をみる。

 そういう意味で私は大杉栄(一八八五―一九二三)のなかに「明治社会主義」型インテリゲンチアの典型の完成をみとめる。大杉栄の死によって、明治の社会主義が終わったからである。

 透谷が日本のブルジョアジーの生誕のなかに自己の「内部生命」を感じたとすれば、大杉は日本のプロレタリアートの生誕のなかに自己の生命を感じた。社会科学的法則が教えるから社会主義運動をやるのではない。自分が人間として生きるためには、プロレタリアートとして生きなければ、生の意味がないのだ。”(本書44頁より引用)

 

“ 乱調の中に美を発見したということも日本の芸術の歴史の上での新しい事件ではないだろうか。彼の精神の感受性の強さ、彼の精神の活力、それらは彼の人間性の豊かさを示している。明治社会主義のインテリゲンチアを、のちの日本マルクス主義のインテリゲンチアからきわだって区別するものは、この人間的資質である。幸徳秋水堺利彦(一八七〇―一九三三)、山川均(一八八〇―一九五八)ことごとく豊かな資質の持ち主であった。

 明治の社会主義は大杉の能力によってはじめて、日本における個人の問題を何ものにも遠慮をし(←46頁47頁→)ない仕方で提出した。”(本書46-47頁より引用)

“ 大杉の人間の個性にたいする尊重は、明治の社会主義運動が、自由民権運動にあらわれた日本人民の人間の回復の、新しい段階であるといっていいだろう。それだから彼は、少々気のぬけた大正のデモクラシーにたいしても最もきびしい批判者であった(「民主主義の寂滅」)。

 ついでだから大正デモクラシーにふれておくが、私はこの運動を日本思想史の上であまりたかく評価しない。”(本書47頁より引用)

“ 明治の社会主義者は大杉に至って完全に劣等感から解放された日本人をつくった。幸徳が米国から帰ってドイツ社会党と異なる社会主義をとなえた時、日本の社会主義は人類の社会主義競争の「オリンピック」に参加した。大杉に至っては、ロシア革命にたいしてさえ日本社会主義運動の立ちおくれを認めなかった。彼はロシア革命のなかに革命の堕落をみてとった。彼はロシア革命に労(←48頁49頁→)働者の個人の尊厳を侵害するところがあると考えたのだった。

 彼はロシア共産党が世界の社会主義を「指導」することを容認しなかった。コミンテルンから派遣された「ロシア人T」が日本の共産党と連絡をとろうとして、奇特な志願者大杉栄を上海に呼びよせた時、「ロシア人T」は日本でもっとも誇り高い人間を前にしたのであった。”(本書48-49頁より引用)

 

以上三つの引用部で、著者の大杉栄に対するべた褒めが明らかになったが、大杉栄が暗殺されたとき10代の少年であり、20歳頃から萌芽期の日本の共産主義運動に接してその内部の弱さを嫌というほど知った著者としては、大杉の死と共に消滅した明治社会主義について別種の可能性を感じていたのだろう。

 

“ また日本マルクス主義の運動に多数の帝大卒業者が参加し指導することができたというのは、それが明治以来の社会主義運動と断絶していたからである。”(本書52頁より引用)

 

と著者は自らが20代の時に目の当たりにした戦前日本の非合法下の共産主義運動について、その明治社会主義との断絶を強調しているが、マルクス主義という国際的な権威によって、帝国大学=官僚予備軍達が日本の反体制運動を官僚的に引き回してきた(言い方は悪いが佐野学のような戦前の最高幹部のあり様を見るにそうとしか表現できない)ことについて、忸怩たる思いがあったに違いない。最も、労働者出身のたたき上げの幹部も、労働組合のボス意識のような形で、エリート予備軍達とはまた別の問題があるのだけれども。

 

“……片山潜は、マルクス主義史家によるあらゆ神話化にもかかわらず、明治の社会主義者としては失格者であった。彼が日本にのこした理論は、幸徳、堺、山川らの理論のどれにくらべても、その格調においてはるかに低い。そればかりか、彼は日本の社会主義の最も困難な時代に逃亡してしまった。片山と個人的に接触のあった人たちの片山の評価はいずれも低い。吉川守圀の『荊逆星霜史』もそうであるし、渡辺春男の『日本マルクス主義運動の黎明』もそうである。”(本書51頁より引用)

 

周知のとおり、片山潜コミンテルンの日本人執行委員としてその名を国際的に知られ、昔ソ連の教科書では日露戦争の最中に第二インターナショナルの会議でロシア代表プレハーノフと日本代表片山潜の握手についての記述があったとのことだけれども、著者の片山潜への評価の低さには興味深いものがある。最も、私は片山潜についてよく知らないしあまり興味もないのでそれについて何か意見を述べることはできない。

 

“ 太平洋戦争における日本軍部の戦略指導の稚拙や、戦争が日本の人民にあたえた損害の大きさや、戦争裁判によって代表される国際的な否定的評価や、左翼史家によって強調して列挙される戦争にたいする反対行為などは、戦争を知らない世代に、太平洋戦争の時期に日本全土をおおった「挙国一致」のムードを頭に画くことを困難にしている。

 だが、戦争をどう評価するにしても、太平洋戦争が日本をかつてとらえたことのない民族的昂揚のうちに戦われた事実を否定することは誤りである。総力戦という点では、日露戦争は太平洋戦争にくらべものにならない。”(本書54頁より引用)

“……太平洋戦争は、昭和の日本のミドルクラスによって明治におけるよりも真剣に担当され遂行されたということである。われわれの周囲をみても、戦争の提出したポジションを、すなおに受けとり、栄達も利益も念頭になく、よく戦いかつ死んでいった友人たちは、ファシストでもなく、顕官や大富豪の一族でもないミドルクラスの出身者であった。

 思想の系譜からいえば、彼らは志賀重昂に代表される日本ナショナリズムの子孫にぞくするといえよう。だが、彼らのナショナリズムは明治二十年の発生期のナショナリズムとは、かなり変貌したものであった。志賀たちが支配権力にたいしてもっていた弾力性のある態度がいちじるしく失われて、天皇崇拝に強く傾いたことである。昭和のミドルクラスの天皇崇拝は満洲事変を境として強まったと思う。それは日本のミドルクラスの思想的結集が農村から先におこり、農村のミドルクラスは都市のミドルクラスにくらべて、その家父長制的な下半身のゆえに、天皇制にたいする親和力が強かったからである。(←55頁56頁→)

 満洲事変は関東軍のラジカリストによって推進されたのであるが、彼らにもっとも思想的な影響をあたえたのは、農村出身の農本主義右翼であり、彼らの実力を形づくった少壮将校や下士官のほとんど全部が農村のミドルクラスの出身であった。また「建国」された満洲国に移民していったのも農村の二男、三男であったということが、農村のミドルクラスをして圧倒的に、満洲事変を推進した軍部を支持させた。

 発生期の日本のナショナリズムは、西欧民主主義にたいする倫理的批判をもっていた。西欧の列強の「文明」にもかかわらず、それが残忍な植民地主義の上にたっていることを非難したのだった。しかし、自らが台湾をとり、朝鮮をおさめ、今また満洲を占領するということになると、当面の敵である米英にたいして倫理的な批判を加える資格を失った。西欧民主主義にたいする日本の倫理的優越は、あげてこれを天皇制に求めるという尊王攘夷論にかえらざるを得なかった。

 「大東亜戦争」の思想的な前提は、日本の全ミドルクラスを、この農村ミドルクラスの尊王攘夷論に統一することであった。

 全国の「国民学校」の入口に二宮金次郎銅像がたてられ、子供たちに朝夕敬礼をさせるというのも、農本主義的思想を、日本国民のモデル思想としたいという支配者たちの願望をあらわしたものであった。”(本書55-56頁より引用)

“ 日本のミドルクラスが正統的尊王論からいえば覇道でしかないドイツ・ファシズムにあれほど容易に共感したのは、日本のミドルクラスの伝統ともいうべき日本ナショナリズムの根底に、西欧民主主義にたいする批判が早期からふくまれていたからである。

 また敗戦後に、戦争中に総力戦を担当したミドルクラスが、米国占領軍による日本の民主化にたいして抵抗するのも、西欧民主主義にたいする不信の伝統を失わないからである。もっともこの不信は、彼らに残存する強い天皇崇拝を日本共産党が異常に刺戟したため、恐ソ反応を起こし、米国の反ソ・マヌーバーの中に蒸発してしまうのであるが。”

 

2018年に、戦後日本の革新派(旧左翼とリベラルの双方)知識人達が熱烈に「大東亜戦争」を支持してきた民衆の戦争責任を回避してきたことによって、結果的に天皇の戦争責任を追及する資格を失ったという含意で、「日本古典文化の不継承と民衆の戦争責任について」という文章を書いたが(http://bemyuh.hatenablog.com/entry/2018/05/20/205421)、松田道雄氏は流石、「民衆が戦争を支持していたこと」をごまかさない。「太平洋戦争は、昭和の日本のミドルクラスによって明治におけるよりも真剣に担当され遂行されたということである」(本書54頁)とある通り、松田道雄氏が論じているのはミドル・クラス、マルクス主義的に言えばプチ・ブルジョワの中に反西洋・反帝国主義の精神が日本の天皇ナショナリズムに吸い取られ、日本帝国主義侵略戦争をあからさまに肯定するに至ったその精神的な基盤なので、厳密には労働者農民階級の民衆の戦争責任論とは微妙に階級的基盤を異にするが、私が知る農民出身の「昭和の武人」にしても、天皇崇拝に浸りきっていたことについてはさほど違いはない。この、「西洋帝国主義の侵略性に反対するがゆえに日本帝国主義侵略戦争の肯定に至る」という、日本の中流階級ナショナリズムの在り方は水野成夫、佐野学、鍋山貞親ら、戦前の日本共産党の最高幹部が転向した際に辿った思想的な通路と全く同じである以上、戦前の日本左翼(アナーキスト共産主義者の双方)がまず問題にしなければならなかったのは、この天皇制=国体ナショナリズムの疑似反帝国主義性であった。逆にいえば、この天皇ナショナリズムの疑似反帝国主義性が侵略性以外の何物でもないことを理路整然と示すことができれば、少なくとも欧米帝国主義への批判から日本帝国主義の肯定に至った人の何割かは左翼陣営の心情的な共感者とすることができたはずである。また、戦後日本の政治過程が民衆の自民党支持にあった理由は、恐らく以上の引用部の最後の方にある通り、中流階級の西欧民主主義に対する不信感(つまり19世紀の欧米諸国は民主主義の名の下にアジアやアフリカやラテンアメリカへの侵略を続けていたこと)に求められそうだと私もここを読んで感じた次第である。

 

 

†「『浮雲』について」(62-85頁)

 

“……二葉亭は近代作家であり、革命的デモクラートであるより先に明治の知識人だったのです。明治の知識人というものを私たちは余りにも、現代的に解釈しすぎて来たと思うんです。……”(本書70頁より引用)

 

“……二葉亭というものは、今日私たちが考えているような自由思想家ではなかったと思うのです。というのは、当時ベリンスキーを読み、ドブロリューボフを訳し、チェルヌイシェフスキーを読んでおって、ロシア文学に非常によく通じておった二葉亭が、デモクラートであったのではないかとわれわれが考えているのは、これは一種の錯覚であってですね、二葉亭は決して革命的デモクラートではないのであります。……”(本書76頁より引用)

 

“ 二葉亭のインテリゲンチア論というのがあるんですが、ロシアの婦人界というのを『女学世界』に明治三十七年に書いております。

 「ロシア語でインテリゲンチャと申して翻訳してみると、まづ『有識者流』とでも申しませうか、(←78頁79頁→)二、三取除の場合は有りとして、まづ貴族の子弟であり、それが大改革後西欧の文明に接して全くその感化を受けてしまひ、貴族の子弟でありながら平民主義を主張し、平民の味方となつて戈をさかさまにして貴族を攻撃するにいたつた。……かくのごとくでありますからいはゆる『有識者流』は我国でいへばまづ」志士であります。志士の気風はことごとくそなへてゐる。」

 それから「作家苦心談」の中にもまた、

 「ロシアの小説家の重なる人々は、国柄にもよりませうが、何となく国士の風がある。救世済民の大経綸が胸に充満してゐる。」

とあります。ロシアの作家たちが国士――志士であるということはそのまま日本に受取って、インテリゲンチアが日本において救世済民をやらなければならないといううことになったらどうなるか。それは国家主義になると思うんです。二葉亭における志士的発想法というものに対して従来はあまり重視されていない。これは明治時代には誰にでもあるんだろいうふうに考えられていますけれども、やはり明治二十年代のナショナリズムの勃興ということが、志士に方向を与えたのじゃないかと思うんです。この志士的なものが彼をして、余計者の形象として現れた文三というものを拒否せざるをえなくさせた。二葉亭の『浮雲』が明治二十二年に中絶しておるという時代背景には、二十年代のナショナリズムの昂揚ということを考えないといけないと思うんです。”(本書78-79頁より引用)

 

 

“……少なくとも明治の中期では、ロシア語のインテリゲンチアは、日本語の「志士」に対応するものとして考えられ(←7頁8頁→)ていた(拙稿「『浮雲』について」)”(本書7-8頁より引用)という本書の冒頭、討幕革命の維新志士をインテリゲンチアと看做す思想的根拠が述べられている。松田道雄氏の『浮雲』論が専門のロシア文学者からどのように読まれているのかは知らないけれども、二葉亭四迷についてこういう読み方をするのはそれ自体が興味深いテーマではなかろうか。

 

†「ナショナリズムの反省と展望」(86-95頁)

“ 明治の変革を可能にしたのは、もちろん志士と呼ばれる下層の武士の先導であったが、工業化という全国的な過程を可能にしたものは、近代産業をおこし、これを管理した指導層があったからである。それがたんに資本家的地主という経済的範疇で律せられるものでなく、徳川時代から農民と領主との中間にあって、農民を掌握しながら殖産興業への道をすすみつつあった地方の「名望家」といわれる層であることを、あきらかにした伝田功氏の最近の仕事(『近代日本経済思想の研究』)の(←87頁88頁→)意義は大きい。

 郷土という地盤の上に、農民の労働力と精神を組織しえていた「名望家」こそ、富国強兵という統一目標にむかって国民の大多数を郷土ごとに動員したのであった。日本のナショナリズムのユニットは地方にあったのだ。

 日本主義者であり、同時に農学者であった志賀重昂が、日本のほこるべき伝統として風景の美をあげたのはきわめて賢明であった。日本のナショナリズムの優越が、実に郷土の美しさにあることを自然科学的に証明したからである。

 明治政府のつくりあげた支配体制の精神的支柱である君臣と父子との擬制も、この郷土的ユニットの存在を前提とし、それとの二重写しに成功したがゆえに、十分の強度をもちえたのである。

 帝国議会がひらかれて以来、国会議員として「国民の代表」となったのも、ほとんどがこの「名望家」であった。その議員たちはまた、かつての自由民権運動の、いわゆる豪農民権の時代の指導者でもあった。

 日本の旧軍人のなかの将校の多くに、地方の「名望家」の二男三男をみつけたのは私だけの経験ではないだろう。

 「名望家」たちは郷土の政治的なオルグであったばかりでなく、芸術的なオルグであったし、また、いまもある。多くの郷土芸術といわれるものが、保存され、今日育成されているのも「名望家」のもとにおいてである。”(本書87-88頁より引用)

 

松田道雄氏は志賀重昂と地主と日本ナショナリズムが実に好きなんだということがよくわかる引用部だけれども、残念ながら日本の都市のブルジョワジーは、自由主義運動においても工業化においても地主ほどの寄与を果たさなかったということは、印象論ながら私も同感である。私自身、祖父の代までは北陸の小名望家層だった家系の出身だったけれども、戦前の話を聞くに、今に比べれば地主層の威信というものは大きかったんだと感じるもの。

 

 

 

†「知識人におけるネーション」(96-108頁)

 

“ こんどの安保闘争で理科系の知識人の参加というものは、若干は見られたが、人文系の知識人にくらべれば非常に少なかった。

 さらに企業のなかで、ある程度資本と密着している知識人は、こんどの市民運動には局外に立っていた。実際は反対が多かった。(←99頁100頁→)

この知識人の配置は戦前の抵抗運動のときと同じ配置である。もちろん、こんどのような人文系の知識人の大動員というようなことはあり得なかったが、理科系の無関心、企業内知識人の反対的態度は戦前の抵抗を絶望的なものにしていた。戦前は物理的にも労働者階級は知識人と分離されていたのだから、知識人のこのような戦列配置では、たたかえなかったということは証明ずみである。

 知識人が職業人としての自覚を基盤としてたたかうためには、人文系だけでなく全部の知識人を包みこむことが必要である。そうでなければ市民運動でなく、大学職員組合運動と区別できない。安保闘争であらわれた市民運動のなかでは、知識人の運動は、共同戦線の必要上、労働者の運動と平行してしまった。このことは知識人の組む市民運動が、他の形をもち得るということを考える余裕を与えなかった。

 だから知識人の組織した市民運動が日本の政治的生活を変更しなかったのは、人文系知識人に主力をおいて、労働者の運動と平行するという戦列の組み方をしたからであるということになる。

この条件と異なった条件のもとでは知識人はもっと有効にたたかえるかもしれない。それはまだ試みる必要があると思う。”(本書99-100頁より引用)

 

ここで論じられている戦前以来の理系知識人の無関心、企業内知識人の体制化という問題は、おそらく松田道雄氏自身が理系の知識人=医者であるからこそ生まれた問題意識であろうし、理系の知識人は「科学者」にせよ、「技術者」にせよ、政治に究極的な価値を感じない人間類型だと思うので、これ自体はさほど問題にしなくてもいい気がする(というよりもどのような問題意識を持ってしても、「知識人」という資格において文系知識人と理系知識人が共同する場面が想像できない。まだ「民族」や「市民」の方が現実的だと思う)。ただ、小熊英二の『<民主>と<愛国>』(新曜社、2002年)のように、基本的には目標を達成できなかった、敗北の政治運動であった安保闘争ベ平連を以て戦後民主主義の何かしらの達成であったかのように描き出す、敗北主義的な21世紀以降の風潮を考えると、安保闘争が知識人の失敗の政治運動だったことを率直に語るこの章は広く読まれるべきだと私は思う。

 

“ 理科系知識人の職業的な自負の内容に立ち入って、若干考えてみたい。

 理科系知識人は知識人として自己を形成する過程で、人文系の知識人以上にナショナルなものにかかわる。明治以来だからそれほど永い年月ではないが、たとえば日本の工学、日本の医学としてのそれぞれの伝統ができている。日本を短い期間のうちに近代工業国に転化させたテクノロジーの進歩がそのまま日本の学者の学問開拓の歴史に重なるということは、歴史学や経済学や文学にはない。この苦難のオーバーラップが日本を近代工業国に化したものはテクノロジーの近代化であり、社会制度の点では明治二十年代以来それほど近代化はしなかったというイメージをつくった。社会の進歩をになうものは生産工業の発達であって、専制政治は必ずしもそれをさまたげるものではないという観念が理科系の知識人の頭に固定してしまったといえる。ここに彼らの生産力至上主義がうまれる。応援するものが、専制的君主であろうが、軍部であろうが、学問技術を発達させるのなら、よろこんでその支援をうけいれるという態度である。

 国の生産力を高める結果になるのならば、自分の政治的な節操は意に介しないで、それに協力するという理科系知識人の原型は、これを勝海舟榎本武揚にみることができる。”(本書100-101頁より引用)

 

先ほど私は理系の知識人は「科学者」にせよ、「技術者」にせよ、政治に究極的な価値を感じない人間類型だと述べたけれども、松田道雄氏はこの点を詳しく言語化してくれる。要するに、大多数の科学者や技術者はパトロンが誰であろうと意には介さない。それは近代科学が「善」を問わないところで成立する営みだからであろう(この点について気になる方はイマニュエル・ウォーラーステインの『ヨーロッパ的普遍主義』を読んでほしい)。1979年のイラン・イスラーム革命以後の戦闘的イスラーム主義は、欧米に留学し、欧米の自由主義社会を自ら体験してその暗部を見てきた理系の学生を引き付けたということを何かの本で読んだけれども、日本にあって、社会思想や宗教は理系の学生や科学者や技術者を、天皇制国家から引き離すほどの思想的な魅力を持たなかった。あえて言えばオウム真理教ぐらいか。それが何故かということについては私の能力では答えられないが(そういえば私の父もエンジニアだけれども、やっぱり結構保守的だもんね)、この点は興味深い課題として考えなければならないと思った。

 

“ 私がマルクス主義の洗礼をうけた一九二五、六年の頃には、国民ということばは、マルクス主義(←103頁104頁→)者の用語ではなかった。マルクス主義の宣伝家は、日本に革命がおこればソビエト日本になり、ソビエト連邦に加入すると、私たちに教えた。各民族は民族文化を保有しながら、社会主義の人民になる。ネーションということばは、国家からひきはなされて理解すべきものであり、したがってネーションの訳語は民族であって国民ではなかった。”(本書103-104頁より引用)

 

1925年頃のマルクス主義者にとってのnationの訳語は、「民族」であって「国民」ではなかったという松田道雄氏の証言は、今日「国民」を主体にして政治活動を行っている日本共産党を見るに隔世の感があるが、この訳語事情は非常に興味深いのでメモしておく。ちなみに私もnationの訳語は「民族」の方が良いと考えている。「国民」という言葉の裏にある「非国民」という言葉の含意を考えると、軽々しく「国民」という言葉を使いたくはない。

 

“ 人間がナショナル・ステートという生活単位をすててしまうという確実な証明がないかぎり、自分の「国利民福」を大にしようという「私情」は生きつづけるであろう。私たちの未来像のなかにはネーションはあいかわらず大きい部分を占めるにちがいない。

 人文系の知識人が理科系の知識人に共通の目的として示す未来像のなかにネーションとしての日本の姿をもっとはっきり浮びあがらせること、それが今日、人文系知識人に要求されている役割である。”(本書108頁より引用)

 

松田道雄氏に対して共感しつつも、戦前日本の天皇制=国体ナショナリズムが知識人・民衆を問わず、日本人を総体として「大東亜戦争」に動員したことについて、戦後日本の人文系知識人はついに切り込むことができなかった以上、私はここに全面的に賛同することはできない。戦後、「天皇制廃止」を掲げた日本共産党は民衆を「戦争の被害者」と位置付け、安保闘争等の理論的指導者となった丸山眞男と丸山に代表される戦後近代主義者は「軍部と天皇制国家によって受動的にイデオロギーを押しつけられる存在」として描き出した。その思想化の産物が平和憲法護憲論だったけれども、民衆の側の「物質的に豊かになりたいし、物質的に豊かになることは道義に優先する」という心性はでの戦前戦後通じて一貫してしまった。その心性を詩的に表現するとこうなる。

 

" 民衆の軍国主義、それは民衆の夢のゆがめられた表現にすぎません。日本の民衆の夢とは何か。(←27頁28頁→)それはアジアの諸民族とおなじく法三章自治、平和な桃源郷、安息の浄土であります。それは古くかつ新しい夢、昨日も今日も生きている夢であります。知識人すらアジアにおいては権力を離れ、素朴な田園に帰ることを生涯の魅惑としてきたではありませんか。軍国主義に全く侵蝕されない無きずの抵抗をしなかったと責める者、ある種の抵抗があったと反論する者などがありますが、どちらも私にはあまり興味ありません。国民の決定的多数を占めていた質朴、誠実な軍国主義……これが進歩と平和の側へ転じるのは理の当然であり、ありふれたこの世の真実であることを論じてもらいたいのです。"
谷川雁「東洋の村の入り口で」[『現代詩』1955年12月号初出]。谷川雁谷川雁セレクションⅡ――原点の幻視者』岩崎稔、米谷匡史編、日本経済評論社、2009年5月10日第1刷発行、27-28頁より引用)

 

谷川雁が述べた通り、「民衆の軍国主義、それは民衆の夢のゆがめられた表現」であった。日本帝国主義は日本の「民衆の夢」を捉えられたからこそ、戦争末期のイタリアのように、知識人と民衆からなる共産党パルチザンムッソリーニを処刑するということは日本ではついに起らず、日本の民衆は昭和天皇の「御聖断」まで戦争を続けようとしたのであった。

 

そしてその民衆の物質的な豊かさを求める心性は、戦前にあっては、アジア主義の名の下に進められた侵略戦争による利益分配を望んで戦争を支持するという日本帝国主義肯定に、戦後にあってはアメリカ帝国主義と結託した日本の保守エリート(自民党)が象徴天皇制の下に実現した国民統合を肯定し、朝鮮戦争ベトナム戦争を「特需」として歓迎し、水俣三里塚等で自然環境を破壊しながら高度経済成長を進めるという方向に進んでいったのだが、日本共産党や戦後近代主義者の描き出した「被害者、受動的存在としての民衆像」は、このような現実の民衆の姿に程遠いものであり、民衆自身への説得力を持たなかった。だからこそ、天皇制との戦いは、国家権力との戦いではなく、天皇制に自らの物質的利益の増大を求めて非道な手段であってもそれを肯定してしまう民衆の心性、及びそのようなエリートと民衆を生み出してきた社会に生まれ育った自分自身に対する思想闘争として始められるべきだった。しかし、左翼人士の中ではその方向性を提出できた人々は、少なくとも1945年から1970年の華青闘告発まで、谷川雁のような極少数に止まった。民衆の中に軍国主義が存在したことを認めた谷川雁でさえ、「国民の決定的多数を占めていた質朴、誠実な軍国主義」という上記の引用部の表現で示されるように、破産した農家による娘身売りが公然と行われていた戦前の日本農村の貧しさの中から、農民が救い道として見つけ出した軍国主義を農民の「質朴、誠実」の表現と捉えることによって、却ってそこにあった根源的な貧困に対する物質的な希求を見逃してしまったのではないか。戦後の農村が谷川雁の言う通りに「進歩と平和の側へ転じる」ことはなく、むしろ自民党による農協農政の下で、自民党の重要な支持基盤と化したことを考えるに、谷川雁のような人物でさえこの点を認識できなかったことに、1950年代の日本左翼の躓きがあったのではないかと私は考えるのである。

 

津田道夫の『日本ナショナリズム論――愛国心にたいする羞恥を』(盛田書店、1968年)や『腹腹時計』(1974年)など、スターリン主義者や反日アナーキストによる若干の作品を除けば、「天皇制国家とアジア諸国に対する侵略戦争に際して共犯関係にあった日本の民衆」という「大衆の原像」を、戦後左翼が築き上げるべき反天皇制ナショナリズムの原点に置くことができなかった。その上で日本共産党が主に沖縄の在日米軍基地の問題を念頭に反米主義のみを鼓吹した結果、「日本国憲法へのナショナリズム」といった日本の民衆の好戦性を問わない形でのアメリカ合衆国製の平和憲法護憲論に帰着し、そこから日本国憲法の定める象徴天皇制をなし崩し的に肯定していくという欧米型自由民主主義――西洋帝国主義の思想的基盤――への思想的降伏に至ってしまった。天皇制国家と共犯関係の下で天皇制社会を築き上げた近代日本の民衆の姿を「大衆の原像」とした上で、寺尾五郎が『革命家吉田松陰――草莽崛起と共和制への展望』徳間書店、1973年)で示したように、日本ナショナリズムを反天皇・反国体的に読み替える思想闘争が必要だったのだ。そして繰り返すが、戦後日本の人文知識人はこの課題をこなすことができなかった。その結果、日本民族侵略戦争に敗北した後も続いてしまう限り、民族の課題として果たさねばならない正義がどこにあるかも見えなくなってしまった。科学者や技術者も、科学や技術に携わる場面以外では天皇制社会の中の一個人なのだから、天皇制国家が示した正義を超える革命の正義を示す義務が、左翼知識人には存在した。その課題を果たせなかったことが現在の退廃的な思想状況を作り上げているという事実は重い。

 

 

†「戦争とインテリゲンチア――現代史と人間」(133-159頁)

“……しかし、インテリゲンチアという、思想を食って生きる動物にとって、マルクス主義が魅力であったのは、はじめて権威ある思想に接触したということであります。マル(←146頁147頁→)クス主義の思想のエネルギーに感電したといってもいいでしょう。

 『賃労働と資本』によって労働者の貧困が、支払われることなしに商品に乗りうつっていってしまった労働に原因することをはじめて知らされた時の感銘。

 『国家と革命』をよんではじめて国家の組織された暴力が何ものを守るためにあるかを学んだときの感銘。

 それらの感銘は、かつて如何なる思想も与えてくれなかった感銘でありました。

 権力をもって押しつけられた思想、たとえば忠君愛国の思想というものは知っていましたが、思想自身に権威が感じられる思想というのは、はじめての経験でありました。

 さらにマルクス主義をインテリゲンチアにとって新鮮なものとして印象づけたのは、マルクス主義によってはじめて「殉教」というものを目のあたりにみることができたことであります(「青春群像」参照)。

 インテリゲンチアにとって、マルクス主義は主観的には社会科学として受けとられたのでありますが、体験としては原始キリスト教イスラエルの人々が感じたものと同じだったに違いありません。

 インテリゲンチアにとって社会主義は、まさに救いでありました。したがって、地球上の最初の社会主義社会が存在をつづけるということは、その思想の権威のために必要でありました。”(本書146-147頁より引用)

“ 治安維持法によって共産党員にたいする死刑が定められたあとで、それを知りながら共産党に参加していくという勇気によって共産党員へのモラリッシュな尊敬が加わりました。”(本書150頁より引用)

 

松田道雄氏がここで語るのは、1923年の大杉栄暗殺後、日本アナーキズム陣営が軍部への復讐のテロリズムに走り自壊していった後、1925年以降急速に日本マルクス主義ソ連コミンテルンの権威の下で日本のインテリゲンチアの心を捉えていった様子である。今日の言葉で言えばソ連直輸入のマルクス主義は「スターリン主義」と呼ぶべきものであるが、そのスターリン主義の下で、スターリンの指導の下にコミンテルン日本支部日本共産党に加盟した共産党員に、死を恐れずに反体制運動に加わる「共産党員へのモラリッシュな尊敬」が、日本のインテリゲンチアに抱かれていたことを忘れてはならない。繰り返すが、これはスターリン主義時代にスターリンの指導下で起きた出来事である。この点を見失うと、スターリン主義をどのように捉えるべきかという認識の軸を失い、戦前はごくごくマイナーな存在にすぎなかった労農派やトロツキー主義が最初から理論的・道義的に一貫して正しく、影響力を強く保っていたかのような誤った理解に至ることになる。

 

なお、私自身に関して言えば、レーニンの『国家と革命』は、「現在ブルジョア階級に対立しているすべての階級のうちで、プロレタリア階級のみがほんとうに革命的な階級である。その他の階級は、大工業が起るとともに衰退し、滅亡する。プロレタリア階級は大工業のもっとも独自な生産物である。”(マルクスエンゲルス/大内兵衛向坂逸郎訳『共産党宣言岩波書店岩波文庫〉1971年改訳、53頁より引用)と、「その他の階級」(小工業者、小商人、手工業者、農民)に比べて格段に高い地位を与えられている近代的産業労働者=プロレタリア階級が、1848年以後の欧米の歴史の現実の過程で、革命よりも民族主義を志向し、その限りで第一次世界大戦にて戦争を推進する自国政府を支持するといった愛国主義的な傾向を持っていたことが何故なのか、その思想的基盤を論じなかった点で失敗だったし、そのようなレーニンの理論的な失敗を1920年代の日本のインテリゲンチアが認識できなかったのは残念なことだったと考えている。『国家と革命』に見られるレーニンと、レーニンの弟子のスターリンのように、国家を人民を統治する機能を持って統治機構と見る観点を徹底した時に、国家がキリスト教神道や佛教から都合の良い部分をとり出して作り上げた各国のナショナリズムを人民に注入し、人民がそれを支持するという過程がどうしても見えてこなくなる。日本のマルクス主義者でその点に最も近づけたのは、「ナポレオン的観念」という言葉で、日本の農民の天皇崇拝が日本の民衆が生まれ育った家父長制とのアナロジーによってもたらされていると認識した山田盛太郎の『日本資本主義分析』(岩波書店、1934年)であったが、残念なことに山田盛太郎は検閲を逃れて非合法の書籍を出版し、このテーマをわかりやすく人々に解説するという役割を担い得なかった。山田盛太郎の後に初めて本格的に天皇制そのものを分析した神山茂雄の『君主制に関する理論的諸問題』(地下出版、1939年)は、その刊行の意義には巨大なものがあり、統治機構としての戦前の天皇制の分析には優れたものがあるものの、山田盛太郎が「ナポレオン的観念」という言葉で表現した、民衆の天皇崇拝の根源について――それは決して封建的な江戸時代の国学そのものではなく、日本資本主義と日本帝国主義に適合した近代的なイデオロギーである――は分析を行わなかった。現在もその問題意識が日本の左翼陣営内で十分に受け継がれているとは言えず、戦前の非合法時代以来の天皇に対する感性的で無内容な罵倒を行うことこそが、反天皇制運動を推進しているかのような錯覚が満ち溢れており、厭わしいというほかない。民衆が天皇を敬愛している現実の中で天皇を罵倒することは、却って反天皇制運動の糸口を狭めてしまう。必要なのは天皇制が自由を阻害していることについての分析と、それを伝えるための冷静な語り口である。

 

“ それでは何故、日本共産党が反ファシズム反戦争の大衆的闘争を組織し得なかったかということを考えてみたいと思います。

 それは日本の共産党がまだ若くて、幹部に十分の経験がなかったとか、大経営のなかに根をおろさなかったとかいう点もありましょうが、一ばん、大衆化を妨げたものは、日本共産党が、「天皇制の廃止」というスローガンをはっきりかかげたことでありましょう。

 社会主義のなかに思想の救いを見出していたインテリゲンチアにとっては、天皇制の廃止というスローガンは魅力ではあっても、何ら心理的な抵抗を感じるものではありません。しかしながら、日本の大部分の勤労人民にとって天皇制の廃止は、およそ受けとりにくいものでありました。

 戦争が敗北におわって、連合国によって天皇の背景がバクロされ、天皇自ら神でないことを宣言したあとも、なお、共産党天皇制の廃止の呼びかけは、多数の国民の反撃にあったことを思うと、戦争の前に、日毎にその権力を絶対化しつつあった天皇というものに、公然と打倒を叫ぶ共産党が、どれほどの恐怖感をもって迎えられたかはおわかりでしょう。

 天皇制の廃止は、戦争の前の時代においては大多数の国民の感情に背馳したものでありました。

 しかしながら、歴史的にも、社会的にも、日本の人民の生活の必要の満足を妨げているものが、(←153頁154頁→)天皇制であったということは、真実であります。日本の人民は、ドイツやイタリーでファシズムがおこる前から、ファシズムとしての機能をいつでも果たし得るような、専制政治の下にあえいでいたわけであります。

 日本の人民の不幸は、この人権を無視された奴隷的な生活を、自己の誇りと考え、その象徴として天皇を崇拝していたことであります。

 戦争への準備が着々と進められ、人民の生活が窮乏にむかって押しちぢめられていくのに拘らず、日本の人民は、自己の生活を圧迫するものは支配階級の政治であるという感覚をもたずに、これを日本をかこむ外国からの圧迫の結果と感じました。この原因は、日本の勤労人民が天皇への連帯感を、ほとんど生理的感覚といっていいほど持っていたからであります。

 天皇への日本の人民の連帯の感覚がこれほど強いのは、もちろん明治以来の小学校の教育にもよりましょうし、明治以来の天皇の名と結びついた民族エネルギーの爆発的な解放感が快いアフター・イメージを残していたこともありましょうが、人民の多数を占める農民の生活環境が地主を中心とした伝統的な秩序によって貫かれて居り、日々の生活のなかに、家父長的な支配に服する慣習を再生産していたことが最大の原因でありましょう。経済学的にいえば、日本の農村の封建的構造ということになりましょう。

 そのような農村の構造の上に日本の資本主義が立っていたのでありますから、日本の資本主義自体も多分に封建的な力による歪みをうけていたわけであります。(←154頁155頁→)

 この辺の分析は三二年テーゼによってなされている通りだと思います。

 それですから日本の勤労人民の生活の必要は、客観的には天皇制の廃止を求めていたのであります。

 日本の人民を現実の不幸から解放するために天皇制を廃止すべきだということは、歴史的にはまったく正当な理論であります。しかしながら、現実においては、それは日本の人民の、いわゆる国民感情と正面から衝突するものです。大多数の人民の気持に反するスローガンをかかげるならば、人民の支持をうけられないことは確実であります。

 日本共産党は、ここで二つのうちのどちらかを選ばねばならないことになったわけです。自己の主義にもとづいて真実を告げるか、あるいは真実を伏せて国民感情に順応しながら、可能な範囲でのひろい反軍的人民戦線を結成するかであります。”(本書153-155頁より引用)

 

明治時代の終わりに起きた大逆事件の中で、幸徳秋水以下、日本の主要な社会主義者アナーキストマルクス主義者の双方)が、「天皇に対する謀反人」として天皇制国家によって処刑されて以来、日本に於ける左翼人士の課題は、天皇制国家と戦わなければ革命ということは考えられないが、日本の人民の大多数は天皇を崇拝し、資本家や地主に対する左翼の反抗については喜ぶ労働者と農民も、天皇に対する左翼の反抗については謀反人として憎悪するという天皇制社会の現実の中でどのように振舞うべきかということであった。松田道雄氏はここで、民衆を搾取する主体が天皇制国家でありながらも、民衆の憎悪は日本を取り巻く諸外国に向かい、日本の支配階級や天皇には向かわないという1920年代~1930年代の日本の現実の中で、日本共産党はどのように振舞うべきだったかを問題にしている。つまり、「天皇制打倒」を掲げて人民から孤立し玉砕するか、「天皇制打倒」を隠して広汎な反戦・反軍戦線を結成するか、どちらを選ぶかということである。私見では、後者の「真実を伏せて国民感情に順応しながら、可能な範囲でのひろい反軍的人民戦線を結成する」(本書155頁)路線が正しかったと思う。ただし、この方策にあたっても、合法無産政党中間派の日本労農党の麻生久が、労働者農民階級の生活向上のための同盟者として軍部を選び、日本の民衆の天皇崇拝を軸に日本帝国主義を肯定していったことを思うと、天皇制に反対することこそが、戦前日本における共産主義運動が唯一持っていた社会的な意義であったということは決して忘れてはならない。天皇制に対する敵意を失った途端に、麻生久や水野成夫、佐野学、鍋山貞親のように、労働者農民階級の生活向上の名の下に日本帝国主義を肯定するという方向に吸い寄せられる危険性は強く存在した。だから、日本共産党が当時行わなければならなかったことは、「天皇制打倒」を掲げずに天皇制と戦うこと、否、「天皇制打倒」を掲げては天皇制社会とは戦えないということをまず認識することであった。天皇制と戦うために「天皇制打倒」のスローガンを下す。この前提から反戦・反軍の人民戦線を結成する方向に進んでいけば、敗北するにしてももう少し別の在り方があったのではないか。なお、上記引用部の32年テーゼ解釈は講座派マルクス主義者山田盛太郎の『日本資本主義分析』(岩波書店、1934年)そのままであると見受けられる。山田盛太郎の戦前日本資本主義論が上訴のまま通用するとは思わないが、著者のように戦時中を過ごした日本の知識人にとって、講座派と山田盛太郎の権威には驚くべきものがあったのであろう。

 

“ 天皇制の廃止のスローガンを共産党が戦後にはじめて掲げたならば、それは階級政党の伝統として人民にうけとられずに、単なる占領政策と解され、将来に禍根をのこしたでありましょう。

 戦争の前に、あるいは戦争の最中に有効な反戦闘争を組織し得なかったという共産党政治責任(←156頁157頁→)はたしかに存在はしましょう。しかしながら責任が存在しても、その責任を果たすべき能力が客観的に与えられていないという場合は、それは責任無能力として責を果たし得なかった罪から免ぜられるでありましょう。

 たしかに満洲事変がはじまった一九三一年以後においては、共産党は責任無能力といっていいほど微力でありました。

 問題は三・一五と四・一六との間、一九二八年から一九二九年のはじめまでの時期にあったと思います。共産党の大衆化という線でいくか、一歩退いて社会民主主義の線で合法的運動をすすめるかという点であります。

 その時の論争は、新党をきずいて労働者、農民、小市民の共同戦線を展開しようという河上肇先生と共産党との間に行われたわけでありますが、この論争をもっと深く、しかも、もっと寛容をもって行うべきでありました。

 もっと深くというのは、共産党以外の組織はすべて社会民主主義の組織であり、資本家の組織であるという断定をもって進まないで、日本の勤労人民の意識の深層を規定しているものが何であるか、そういう意識下にあるものから改めていくにはどういう戦術が必要かという問題に触れるべきでした。

 寛容をもってというのは、理論の正しいか正しくないかを、コミンテルンにつながるかつながらぬかというような組織問題と同一視することなしに論争をすすめるべきでした。(←157頁158頁→)

 党以外の人間が中心になって展開する自主的政治運動をもって反動的であるという、党の方針に、当時のインテリゲンチアは拍手をおくり、河上先生らの新党運動にたいしてはげしく反撥しました。

 日本の人民の表面にあらわれた意識の問題だけしかとりあげず、それらは理論によって説得できると考えたのは、インテリゲンチアが、インテリジェンスを重要視しすぎていたということです。日本の労働者、農民は、インテリゲンチアのように、マルクス主義のように電撃的ショックを感じる、思想を食って生きる人間ではなかったのであります。

 共産党はプロレタリアのヘゲモニーを、党の大衆化という線でおしすすめ、それによって天皇制こそ日本人民の不幸の根源であるという真実を示すことで道義的責任を果たしました。だが、それによって孤立し、弾圧の前にくずれ去り、党以外の自主的な動員組織をつくる時期を失わしめ、広い反軍運動を展開する政治的責任を果たし得ませんでした。

 三・一五事件のあとで起った決定的な瞬間において、党がそのような政策をとったことが果たして政治的に正しかったかどうか、そのへんのことを、専門の現代史家はもうすこしはっきりしらべてほしいと思います。

 少くともインテリゲンチアとして、終始、共産党の動きを注目していた私には、その時ならば、まだ、広汎な反軍運動を展開するチャンスがあったと感じられました。

 以上いったことから結論めいたことをひき出すとすれば、昭和のはじめの戦争反対の運動が成功しなかった理由は、プロレタリアのヘゲモニーの思想に執着して、日本共産党が、人民の自主的な(←158頁159頁→)運動の指導を独占しようとしたことが一つ。

 いま一つは、日本のインテリゲンチアが、プロレタリアにたいして不必要な劣等感を抱いて、自主的な反戦運動を、適当な時機に組織しなかったこと。

 以上であります。

               (一九五六年七月二十七日、立命館大学第七回夏期日本史公開講座で口述)”(本書156-159頁より引用)

 

 

フルシチョフによるスターリン批判が世界的に知られたのは1956年6月5日だったので、1956年7月27日に行われたこの講演は、日本共産党スターリン主義の汲むべきところを汲みつつ、一定の擁護を行うということが主目的だったのであろう。およそ今日まで、反共産党系のブント諸派革マル派中核派毛沢東派など、すべてのマルクス主義党派に共通する病理が1956年の時点で認識されていたことが感慨深いが、” 日本の労働者、農民は、インテリゲンチアのように、マルクス主義のように電撃的ショックを感じる、思想を食って生きる人間ではなかったのであります。”(本書158頁)という著者の言葉に、やはり日本のインテリゲンチア出身の革命家達が躓いたところがあったのだと感じざるを得なかった。