【読書録】外川継男訳『バクーニン著作集3――鞭のゲルマン帝国と社会革命』白水社、1973年12月20日発行。

“……万人に逆らって発言したり、行動するためには、大きな、まじめな信念に裏打ちされていなければならない。だがエゴイストや破廉恥な人間や卑怯者には、この勇気はない。”

(「神と国家I」本書218頁より引用)

 

本書にはバクーニンの『鞭のゲルマン帝国と社会革命』が収録されている。『鞭のゲルマン帝国と社会革命』は様々な論文から構成されるが、なんといっても白眉は「神と国家I」、「神と国家II」であろう。「神と国家II」は猪木正道勝田吉太郎編『世界の名著42――プルードン バクーニン クロポトキン』(中央公論社、1967年11月20日初版発行)に「神と国家」として収録されているが、行論で述べる通り、本書に収録された「神と国家I」と合わせて読むことで、バクーニンの反宗教論と達成と限界に触れることができる。

 

1870年9月から1872年12月頃にまでかけて書かれた諸論文から成る『鞭のゲルマン帝国と社会革命』は普仏戦争に敗北した直後のフランスとドイツの関係についての時事論で満ちており、本書の一章となっている「反マルクス論」(本書352-433頁)も、究極的にはカール・マルクスプロイセンの国家利益に奉仕しているということを理由にしており、しかもそれはマルクスの思想の誤読(例えば本書406頁にはマルクスが人民国家の建設を目指しているということを批判の根拠にしているが、「ゴータ綱領批判」に明らかな通りそのような事実はない)からもたらされているのである。

 

では、本書を読む価値はないのかというとそんなことはない。絶筆となった『国家制度とアナーキイ』に繋がる、マルクス主義の労働者至上主義、知識人至上主義、科学絶対主義批判の萌芽は既に本書に収録された諸論文でも見られ、20世紀のマルクス主義運動の一番の弱点を既にこの時点で的確に衝いているからである。たとえば労働者至上主義批判は以下のようになる。

 

“ 農民、少なくとも圧倒的多数の農民は、たとえフランスにおいて土地を所有するようになっても、それでもなお自分の腕で生活の糧を得ていることに変わりはない。われわれはこのことを忘れないようにしよう。この点こそ、彼らとブルジョア階級とが根本的に違うところであって、圧倒的大部分のブルジョア階級は、人民大衆の労働を営利的に搾取して暮らしているのである。しかしてこの点こそが、立場や思想上の相違にもかかわらず、農民と都市の労働者とを結びつけるものである。立場上の(←52頁53頁→)相違という点では、都市の労働者はきわめて不利であり、また思想上の原則の相違は、不幸にしてあまりにもしばしば両者のあいだに誤解を生んでいるが、それにもかかわらず、両者は結びついているのである。

 とくに農民と都市の労働者を隔てているものは、もとよりあまり根拠のあることではないが、労働者がしばしば誤って誇示するある種の知的貴族性である。確かに労働者のほうが学問もあり、彼らの知識や思想はより発達している。このわずかな学問的優位の名で、ときによると労働者が農民を見下げたり、侮蔑的な態度を示すことがある。かつて私は別の論文でも注意したことがあるが、労働者は大きな誤りを犯している。なぜならブルジョアのほうが労働者よりも、はるかに学問もあり発達していることは明らかだから、ブルジョアには労働者を侮辱する権利があるということになってしまう。しかしてブルジョアは、人もよく知るごとく、きまってそのことを鼻にかけて威張るのである。”

(「社会革命か軍事独裁か」1870年9月29日、本書52-53頁より引用)

 

“ 私は経済的および社会的平等を断固支持する者である。なぜならかかる平等をぬきにしては、自由も正義も、人間的尊厳も、道徳も、個人の幸福も、さらには国家の繁栄も、しょせん偽りにすぎなくなることを知っているからである。しかし私は人間にとって第一の条件たる自由の支持者であるとはいえ、この平等が、コミューンのなかで自由に設立され連合した生産組合の集団的所有と労働の自発的組織化によって、この世に打ち建てられるべきであり、国家の後見的な上からの行為によってではなく、同様に自発的なコミューンの連合によって実現されなければならないと考えている。

 社会主義者もしくは革命的集産主義者と、国家の絶対的なイニシアチブの支持者である権威主義共産主義者とを特に区別する点はこのところである。双方の目的は同じである。両方とももっぱら集(←147頁148頁→)団的労働組織に立脚する新しい社会秩序の創設を望んでいる。そして時勢の力によってもこのような集団的労働が、労働手段の集団的利用の上に、万人に平等な経済的条件を伴って、必ずや各人に、また全員に課せられるであろうと考えている。

 ただ共産主義者のほうが、労働者階級、とりわけブルジョア急進主義の助けを借りた都市のプロレタリアートの政治力が組織され、発達することによって、この目的が達成されると考えるのに対し、あらゆる混合物やまぎらわしいものの敵である革命的社会主義者のほうは、反対に都市だけでなく農村をも含めた勤労者大衆の、政治的に非ずして社会的な力、したがって反政治的な力が組織され、発達することによってのみ、この目的に達し得ると考えているのである。さらにこの場合、労働者のみならず、そこには自らのすべての過去の絆をたち切って、率直に労働者大衆に加わり彼らの綱領を全面的に受け容れようとする上流階級の善意の人たちも含まれている。

 ここからして二つの異なった方法が生まれる。共産主義者が国家の政治権力を奪取するために、労働者の力が組織化されなければならないと考えるのに対し、革命的社会主義者のほうは、国家の破壊――もしもっと上品な言葉をお望みならば清算と言ってもよいが――のために自らを組織するのである。共産主義者が権威の原理と実践の信奉者であるのに対し、革命的社会主義者は自由のなかにしか信頼をおいていない。双方とも迷信を廃し、信仰に代わる科学を擁護するものであるが、前者がそれを押しつけんとするのに対し、後者のほうはそれを広めようと努力する。なぜなら人々が納得した上で、自分自身の運動によって、自分たちの真の利益に従って、自由に、自発的に、下から上へと自らを組織し連合することを望んでいるからであって、あらかじめ決められている計画や、すぐれた知性が無知なる大衆に押しつけた企画に従ったりすることには反対だからである。(←148頁149頁→)

 革命的社会主義者は、人民大衆の本能的希求や現実的要求のなかに、人類を幸福にすべく努力していると称しながらあれほど多くの試みに失敗してきた学者先生や人類の後見人の深遠なる知性よりも、はるかに多くの実際的な理性や精神が存在するものと考えている。革命的社会主義者は彼ら学者たちとは反対に、人類がないがいあいだ、あまりにもながいあいだ支配されるままになってきたし、人類の不幸の源泉があれこれの統治形態にあるのではなく、いかなるものであれ統治そのものの原理と事実のなかにあると考える。

 ドイツ学派によって科学的に発展され、一部はアメリカとイギリスの社会主義者によって受け容れられてきた共産主義と、ラテン諸国のプロレタリアートによって受容され、広く発展され、徹底的に押し進められてきたプルードン主義*とのあいだには、もはやすでに歴史的となった食い違いがある。

   *これは本質的に反政治的なスラヴ民族の本能によっても、同様に受け容れられてきたし、今後ともさらに受容されることであろう。

 革命的社会主義は、つい先頃パリ・コミューンのなかでその最初の目覚ましい、実践的な試みとなって現れた。”

(「パリ・コミューンと国家の概念」本書147-149頁より引用)

 

ロシア革命、中国革命、キューバ革命などの20世紀の社会主義革命は、マルクスエンゲルスが『共産党宣言』の中で小ブルジョア的だと非難した農民階級が主力となって達成されたが、マルクス主義にとっては外在的である農村部の農民の反政治的なエネルギーにバクーニンが着目していた点は重視されなければならない。

 

“ 現在ブルジョア階級に対立しているすべての階級のうちで、プロレタリア階級のみがほんとうに革命的な階級である。その他の階級は、大工業が起るとともに衰退し、滅亡する。プロレタリア階級は大工業のもっとも独自な生産物である。

中産階級、すなわち小工業者、小商人、手工業者、農民、これらはすべて、自分たち中産階級としての存在を破滅から守るために、ブルジョア階級と闘う。したがってかれらは革命的ではなく、保守的である。なおそれ以上に、かれらは反動的である。なぜなら、かれらは歴史の車輪を逆にまわそうとするからである。かれらが革命的であるばあい、それは自分の身に迫っているプロレタリア階級への移行を顧慮してのことであり、かれらの現在の利益をではなく、未来の利益を守るためであり、かれら自身の立場を捨ててプロレタリア階級の立場に立つのである。

ルンペン・プロレタリア階級、旧社会の最下層から出てくる消極的なこの腐敗物は、プロレタリア革命によって時には運動に投げこまれるが、その全生活状態から見れば、反動的策謀によろこんで買収されがちである。

マルクスエンゲルス/大内兵衛向坂逸郎訳『共産党宣言岩波書店岩波文庫〉1971年改訳、53頁より引用)

 

 

共産党宣言』ではこのような形で、近代的産業労働者=プロレタリア階級の革命性が強調されているが、19世紀から20世紀にかけて先進資本主義国の先頭を走るアメリカ合衆国労働組合=組織労働者は、組合員の利益のために反移民的姿勢を採用し、国政選挙に当たっては共和党ロナルド・レーガンのような真正の保守主義の候補を支持してきたことを考えるに、現実のプロレタリア階級は決して革命的な社会階級ではない。労働者階級は決して革命的な階級ではないのに、マルクス主義の教義のせいで社会運動はあたかも労働者階級を革命的な社会階級だと見誤ってきた。ソ連や中国ではプロレタリア革命が達成された後、革命に貢献した農民階級は都市部の労働者への食糧供給のため、或いは工業化のための原資を供出させられるために、「プロレタリア階級の革命的前衛党(共産党)」によって搾取されてきたが、農民を尊重するバクーニンの思想は、マルクス主義の労働者偏重に潜んでいた罠について、示唆を与えるものだと私は思う。

 

また、本書の白眉である「神と国家I」、「神と国家II」にはバクーニンの反宗教論・唯物論が展開されている。結論から言えば、バクーニンの反宗教論は半分だけの正しさであり、バクーニンの思想の他の部分を参照する限り、むしろ宗教、というよりも観念論を究極的には否定できないのではないかと私は考える。以下に述べる通りである。

 

“ 私は今日なお宗教的信仰が大衆に及ぼす力の主要な実際上の理由を述べてきた。これら神秘的傾向は、大衆にあっては、精神の迷いというよりは、むしろふかい心の不満を示すものである。それは悲惨な存在の窮屈さ、平板さ、苦しさ、恥ずかしさに対する人間の本能的な激しい抗議なのである。この病に対しては、ただ一つの薬しかないということも私は語った。即ち社会革命だけであると。”

(「神と国家I」本書194頁より引用)

 

バクーニン唯物論・反宗教論の最大の弱点はここだと私は思う。神を信じる人々は決して不満や、或はご利益のみを求めて信仰を行っているわけはない。バクーニンの反宗教論の根拠を以下に引用しよう。

 

“ キリスト教はまさしく、他のいかなる宗教にもまして、もっとも深い意味で宗教である。なぜならそれは、神のために人間が悲惨になり、奴隷と化し、無に帰するという、あらゆる宗教的体系の本質、エッセンスそのものをこの上なく暴露し、示しているからである。

 神がすべてであるから、現実世界と人間はなにものでもない。神が真理、正義、善、美、力、生命であって、人間は虚偽、不正、悪、醜、無力、死である。神が主人であって、人間は奴隷である。人間は自分自身では正義も真理も永遠の生命も見出すことはできないのだから、神の啓示によってそれらに到達する以外にない。しかし啓示を告げる者は、自分が神によって霊感をさずけられた黙示者、メシア、予言者、聖職者、立法者であると称した。そしてひとたびこれらの人間が、神自身によって人類を救済の道へ導くべく選ばれたところの地上における神の代理であり、人類の聖なる教師であると認められるや、彼らは必ず絶対的権力を行使するようになった。すべての人間は彼らに対し、無制(←195頁196頁→)限の、受け身の服従を義務づけられる。なぜなら神の理性に抵抗する人間の理性だとか、神の正義に逆らう地上の正義などは絶対に存在しないからである。神の奴隷である人間は、国家が教会によって聖別されるかぎり、教会と国家の奴隷でなければならない。この点こそキリスト教が、古代の東方の宗教を含めて、他の現に存する、あるいはかつて存在したあらゆる宗教にまして、よりよく理解したところであった。ところで古代当方の宗教が一部の特権的な人々しか包摂しなかったのに対し、キリスト教は全人類を包含していると主張している。またこの点こそキリスト教の全宗派のなかで、ひとりローマン・カトリシズムだけが、きびしい一貫性をもって宣言し、実現したところでもあった。それゆえにこそキリスト教は絶対的な宗教であり、最後の宗教なのである。またそれゆえにこそ教皇のローマ教会だけが、一貫した、正統的な、神の教会なのである。

したがって宗教的形而上学者や観念論者、あるいは哲学者、政治家、詩人たちにお気には召さないであろうが、神の観念は、人間の理性と正義の放棄を暗に意味する。それは人間の自由の決定的な否定であり、理論上からも実際上からも、必然的に、人間の隷属に帰着するのである。”

(「神と国家I」本書195-196頁より引用)

 

バクーニンの反宗教論を要約すると、理論的には全知全能で絶対的な神が存在するならば、個々の人間はそのような絶対者の前では無に等しく、無に等しいからこそ神の正義、神の理性の前で人間の正義、人間の理性は沈黙を余儀なくされる。さらに、そのような絶対的な神の代理人を称する宗教者は絶対的な神に代わって、個々の人間に対して絶対的な権力を行使し、実践的にも人間は隷属を余儀なくされる。かくして一度絶対的な神の存在を認めれば、そこからは理論的にも実践的にも人間の自由は否定される。だから人間の自由のため、神の存在を認める宗教に反対しなければならない。と、こういうことになる。

 

宗教の社会的機能の要約としてはバクーニンの主張は正しい。バクーニンキリスト教を例としているが、日本でも江戸時代の本願寺教団が、親鸞の血統と法主を生き佛とする宗教的な権威を背景に、北陸や三河のような浄土真宗門徒の多い地方で、絶対的な権力を行使してきたことをご存知の方も多いであろう。そこに人間的な自由が全く存在しなかったのは事実である。にもかかわらず、先述した通り、バクーニンの正しさは半分の正しさでしかない。

 

21世紀に入った現在にあっても日本佛教が葬式佛教として生き延びていることが象徴するように、宗教の機能として最たるものは、生きている人間と死んだ人間の関係を仲介することである。復古神道の大成者である平田篤胤が、学問上の師である本居宣長の「貴きも賤しきも、善も悪も、死ぬればみな、此の夜見の国に往」(『古事記伝』)という見解に逆らって、「死んだ人間は黄泉の国には行かず、大国主命の支配する幽冥界に行く」との説を唱えたのは、ひとえに自らの死んだ妻、織瀬が『古事記』の黄泉の国のような暗くて汚い世界に行く訳がないと信じたからであった。北陸や三河真宗門徒が戦国時代以来、本願寺法主の精神的専制を通じて阿弥陀如来を信じ続けたのも、既にこの世には存在しない自らの家や上祖、そして地域に連なる人々との繋がりを、阿弥陀如来を信じることを通じて保ち続けようとしたからであった。

 

バクーニンは本書の別の論文で、

 

“ 自由についての唯物論的、現実主義的、集産主義的定義は以下のごとくであるが、これは観念論者(←316頁317頁→)の自由の定義とは完全に対立するものである。すなわち人間は社会のなかにあって、社会全体の集団的行為によって、はじめて人間となり、自らの人間性の意識と実現にまで達し得る。人間が外的自然の束縛から自らを解放するのは、もっぱら集団的もしくは社会的労働によるのであって、これだけが地上を人類の発達にとって好ましい住居に変えることができある。しかし物質的解放がなければ、だれにとっても知的・道徳的解放はあり得ない。人間は自分自身の自然の束縛から自らを解放するのは、すなわち自己の肉体の本能や衝動を次第により発達する精神の命令に従わせることができるのは、教育と訓練によってである。しかし教育も訓練もきわめて社会的なものである。なぜなら人間は社会の外にあるかぎり、永久に野獣か聖人のままにとどまっていることだろう。だが野獣であっても聖人であっても、その意味することはほとんど同じである。最後に、孤立した人間は自由の意識を持つことができない。人間にとって自由であるということは、他人によって、自己を取り巻くすべての人によって自由なものとして認められ、考えられ、扱われることを意味する。したがって、自由はけっして孤独な事実ではなく、相互反射であり、相互の排除どころか反対に結合を意味する。あらゆる個人の自由とは、すべての自由な人間、自分と同じ兄弟たちの意識のなかに、自己の人間性や人間的権利が反映すること以外のなにものでもない。”

(「神と国家II」本書316-317頁より引用)

“……自由は社会によってのみ、また各人と万人のもっとも緊密な連帯と平等のなかでのみ実現するものである。”

(「神と国家II」本書320頁より引用)

 

と述べ、観念論者=自由主義者が唱える、生まれつき自由な個人が存在するという発想を真っ向から否定し、むしろ社会こそが個人に自由を実現するのだと説いている。

 

この社会を個人の自由の前提条件として尊重するバクーニンの発想をもう一歩進めるならば、バクーニンの反宗教論には一定の修正が必要なのではないか。つまり、人間の社会は、現に生存している成員だけではなく、既に死んだ人々も過去の成員として記憶しているからであり、前述の通り、その際に生者と死者を仲介する観念の装置が、神や如来だからである。平田篤胤大国主命を信仰したのも、真宗門徒阿弥陀如来を尊崇したのも、出雲大社本願寺を尊崇したかったからではなく、自らの属する社会の過去の成員としての身近な死者を、自らの生の中で位置付けたいという欲求が存在したからであった。現在の科学であっても、科学的な認識の中で死んだ人間を現世に位置付ける方法はない以上、その欲求を満たすためにどうやっても神やと佛といった観念装置が必要になってしまう。そして人々が宗教を求める原点がここにある以上、これを否定するのは道徳的に良いことではない。

 

このような修正を施した上で、現実の絶対的な神の存在を背景とする教会や神社や寺院などの教団組織が、人々を搾取し隷属に追いやってきたという事実を正しく認識し、自由のための反逆を説くことについては、バクーニンは正しい。バクーニンの言う通り、絶対的な神の存在の前では人間は無に等しく、自由を奪われてしまうが、にもかかわらず、社会の中に既に死んだ過去の成員を位置付けるためには、神や如来といった観念装置が必要であり、だからこそ人々は宗教を信じることを止めないのである。今日、バクーニンの後を継ぎ、社会の中で真に自由であろうとする者は、この点を決して忘れてはならない。アナキストは自由を社会の中で実現しなければならないからこそ、社会そのものを根底から破壊するような方法で反宗教闘争を推進してはならない。死んだ家族の冥福のために、日々祈りを捧げる人々を決して侮辱してはならない。アナキストが闘わなければならない相手はそのような祈りを侮蔑することで自らの富を為し、国家と権力に奉仕してきた教団であり、聖職者である。

 

“……しかし永久に隷属され、統治され、搾取され続けてきた大衆において、政治意識を構成するものは一体なんであるのか?それはたった一つ、聖なる反逆以外には絶対にあり得ない。それこそはあらゆる自由の母であり、自由の現実的実践の基本的な歴史的条件たる、反逆を組織し勝利させる伝統的技術、反逆の伝統なのである。”

(「反マルクス論」、本書392頁より引用)

 

バクーニンは述べているが、浄土真宗起爆剤となった戦国時代の一向一揆平田国学復古神道起爆剤となった天保年間の生田万の乱といった反逆の伝統を思うに、宗教は人々に自由を目指す聖なる反逆の精神的な支えとなることもある。バクーニンの反宗教論はこの観点からも見直されなければならない。

 

 

本書に収録された論文の中に見られるバクーニンの権威、とりわけの科学の権威についての見解は非常に興味深いので長くなるが引用する。バクーニンは決して科学を否定するわけではないが、科学によって社会を改造できると称したマルクスエンゲルスレーニンスターリンといった「科学的社会主義者」たちほどには科学の社会的機能について信頼を置いてはいなかった。バクーニンの科学への認識は、原発やインターネットといった科学の産物とどのような距離を取るべきか悩みつつ、だからといって反ワクチン運動やあからさまなオカルトに与するわけにはいかないと感じるアナキストではない人びとにも重要な示唆を与えると私は信じている。

 

“ それならば私はいかなる権威をも排斥するということになるのだろうか?このような考えは私の意図するところではさらさらない。それが長靴にかんしてだったら私は靴屋の権威に一任しようし、(←205頁206頁→)家や運河や鉄道のことであれば、建築家や技師の権威と相談もしよう。このような専門的な知識についてだったら、それぞれの学者にたずねるだろう。しかし私は靴屋や建築家や技師が押しつけるがままになっていることはない。私は彼らの言うことに自由に耳を傾け、彼らの知恵や性格や知識にふさわしい尊敬は払いながらも、私が批判し、検討する、争うべからざる権利は留保しておく。私はたった一人の専門的権威に相談するだけでは満足せず、何人かの人に相談しよう。そして彼らの意見を比較したうえで、もっとも正しいと思われるものを採用するだろう。だがどれほど特殊な問題でも、絶対に誤りを犯すことのない権威などといったものはけっして認めない。したがってある個人の誠実さや正直さに対し、いかに尊敬を払っていようとも、だれについても絶対の信頼は持っていない。このような信頼は私の理性や、私の自由や、私の企ての成功にとってさえ致命的になるかも知れないし、私を愚かな奴隷に変え、他人の意志と利害の道具に転化するかも知れないからだ。

 もし私が専門家の権威の前に屈し、ある程度、また私にとって必要と思われる期間、彼らの指示や指令にさえ喜んで従うと公言するとしたら、それはこの権威が何人によっても、人間によっても神によっても、押しつけられたものではないからである。もしそうでなかったら、私は嫌悪とともに彼らを拒否し、彼らの忠告も、彼らの指令も、彼らのサービスも追い払うことだろう。私の自由と尊厳を引きかえにして、彼らが私に与える多くの嘘で固めた人間的真理の断片の代金を支払わされるようになるのは確かだからである。

私が専門家の権威の前に頭を下げるのは、私自身の理性によってそれが押しつけられたからである。私は人間の科学の確かな発展や詳細のなかで、きわめてわずかな部分しか理解してないことを意識している。どれほど偉大な知性でもすべてを理解するには十分であるまい。ここからして、科学に(←206頁207頁→)おいても産業においても、労働の分化と協同が必要になってくる。もらったりやったりするのが、人間の生活なのである。一人一人が指導的権威であり、一人一人が指導されるのである。したがって固定化した、不断の権威などというものはけっしてない。一時的で、とりわけ自発的な、お互い同士の権威と服従の絶えざる交代があるだけだ。

これと同じ理由から、私は固定化した、不断の、普遍的な権威というものを認めることができない。なぜなら、すべての科学、社会生活のあらゆる分野を、すみずみまでくまなく理解し得るような――このような理解なくしては科学の生活への応用はけっして可能ではないが――すべてを包括する人間は絶対にいないからである。もしもこのような普遍性がただ一人の人間のなかに実現されているとしたら、そしてその人間がそれを利用して自分の権威を押しつけようとしたら、彼を社会から追放すべきである。なぜなら彼の権威は必ずやすべての者を隷従と愚鈍におとしめるだろうからだ。私は今日まで社会がそうしてきたように、天才を虐待すべきだとは思わない。しかし彼らをあまりにもふとらしたり、とくになんらかの特権や排他的権威を与えるべきだとも思わない。それには三つの理由がある。第一にぺてん師を天才と間違えることがしばしばあるからだ。第二には特権の制度によって、真の天才がぺてん師に変わり、モラルを失って愚かになることがあるからだ。最後にこのような制度が暴君を生み出すからである。

 ここで要約しよう。われわれが科学の絶対的権威を認めるのは、科学がもっぱら物質的世界と社会的世界――これら二つは事実上、同一の自然界を構成しているにすぎないのだが――の物質的・知的・精神的生活に固有の自然法則を、できるかぎり体系的に、かつよく考えて、内心で再現することを目的としているからにほかならない。このように合理的で人間の自由にかなっているがゆえになに(←207頁208頁→)よりも正統な権威以外、われわれは他のすべての権威が、偽れる、勝手な、専横な、有害なものであることを宣言する。

 われわれは科学の絶対的権威は認めるが、科学の代表者たちの無謬性や普遍性は拒否する。……”

(「神と国家I」本書205-208頁より引用)

 

最後に、バクーニンが教育と権威の関係について述べた箇所を引用することにする。アナキストであることを志す人間にとって、権威が必要不可欠となる児童の教育について、古典の中にどのような意見があるのかを参照することは、決して無駄なことではないと思う。

 

 

“……はたしてすべての教会の聖職者は、自分の監督下の教区民のために自己を犠牲にするどころか、一部は自分自身の個人的情熱を満足させるために、一部は全能の教会に奉仕するために、つねに教区民を犠牲に供し、搾取し、羊の群れの状態に保ってきたではなかっただろうか?同じ条件、同じ原因からはつねに同じ結果が生まれる。したがって国家によって(←215頁216頁→)うやうやしく霊感を授けられ、免許状を与えられた近代の学校の教師たちも、同じようになろう。ある者はそれと知らずに、他の者は完全に理由を知りながら、必ずや彼らは国家の力と特権階級の利益のために人民が犠牲となる協議を教えるようになることだろう。

 それでは社会からあらゆる教育を排除し、すべての学校を廃止しなければならないだろうか?けっしてそうではない。できるかぎり大衆のあいだに教育を広め、神の栄光に捧げられたすべての教会、すべての寺院を、人間解放の学校に変革すべきである。しかしまずはじめに次のことを了解し合っておこう。人間の平等と人間の自由の尊重に立脚して創設された、通常の社会における、厳密な意味での学校は、児童のためにのみ存在すべきであって、成人のためではない。そしてそれらが隷属ではなくて解放の学校となるためには、なによりもこの永遠にして絶対的な隷属の主たる神の虚構を排除しなければならない。児童の教育はすべて、信仰の発達の上ではなく、理性の科学的発展の上に、敬虔と服従の発達の上ではなく、個人の尊厳と独立の発達の上に、真理と正義の崇拝の上に、そしてなによりもいたるところにおいて神の崇拝に取って代わる人間尊重の上にこそ打ち建てられるべきである。児童の教育における権威の原理は、自然な出発点となるものである。いまだ知能が十分に発達していない年少の児童に向けられる時、それは適法でもあれば自然でもある。しかしすべての物事の発展においてと同様に、教育の発展の場合も、次々と出発点が否定されることが予想される。したがって教育が進むにつれて、この原理は弱められ、増大する自由に取って代わられなければならない。

 教育の最終目的は、他人の自由を尊重し愛する自由な人間となることにあるのだから、すべて合理的な教育は、結局のところ、自由のために権威を次第に削減すべきである。したがってまだろくに言葉もしゃべれぬ年少の児童に対する最初の教育課程にあっては、ほとんど自由は完全に欠如し、最大(←216頁217頁→)の権威が存在するが、最終課程においては、最大の自由が与えられ、権威の動物的ないし神的原理の痕跡はすべて完全に消え去らなければならぬ。

 成年に達した、あるいは成年を過ぎた大人に向けられた権威の原理は、醜悪なものであり、人間性の明らかな否定、隷従と知的・道徳的堕落の源泉となる。しかし不幸にして家父長的政府は人民大衆をあまりにもひどい無知の中に放置してきたので、人民の子供だけでなく、人民自身のためにも学校を建てることが必要となろう。だがこれらの学校からは、権威の原理のいささかの適用も表現も除去されなければならない。それはもはや学校ではなく、人民のアカデミーであり、そこではもう生徒や先生は問題にならず、人民は必要と思うところを自由に学ぶとともに、今度は教師が知らない多くのことを、自分たちの経験から教えるようになるだろう。したがってそれは相互教育であり、教育ある若者と人民とのあいだの知的な友愛の行為となろう。

 人民と成人にとっての真の学校とは、生活にほかならない。われわれが尊敬することのできる唯一の、自然でもあれば合理的でもある偉大で強力な権威とは、社会の全成員の相互の尊敬の上に築かれたところの、集団的、公共的精神の権威であろう。これこそまったく神的に非ざる、まったく人間的な権威である。しかしてわれわれはこの権威が人間を隷属させるどころか解放するものであることを確信するがゆえに、心からその前に頭を下げる。この権威は教会と国家によって作られたあらゆる神的、神学的、形而上学的、政治的、法律的権威よりも千倍も強いものである。それが現在の刑法や看守や死刑執行人よりもはるかに強力になるであろうことは確信してよい。”

(「神と国家I」本書215-217頁より引用)