【読書録】ジョージ・ウドコック/白井厚訳『アナキズムI――思想篇』紀伊國屋書店、1968年6月29日第1刷発行。

ジョージ・ウドコック/白井厚訳『アナキズムI――思想篇』紀伊國屋書店、1968年6月29日第1刷発行。

 

原著は1962年。カナダ出身のイギリスの思想史家による近代アナキズム思想と運動双方の通史。

 

本書刊行の1968年の時点において、訳者の白井厚氏は日本のアナキズム研究の水準と、本書の翻訳の意義について次のように述べている。

 

“……驚くべきことに、フリエ、シュティルナー、プルドン、バクーニンらについての専門の研究書はいまだに一冊も存在せず、一九六四年の拙著「ウィリアム・ゴドウィン研究」(未来社)はゴドウィンに関する日本で最初の著書というだけではなく、大杉栄クロポトキン研究を除けば、いわゆるアナキストを扱った最初のモノグラーフであった。このような現状を打開し、アナキズム研究を前進させるためには、先ず本格的なアナキズム通史が必要であろう。ウドコックのこの書は、アナキズムの思想と運動について、国際的にも水準の高い通史であって、従来知られていなかった人物や事実についても詳しく、日本のアナキズムに関する認識がないというような欠点はあるにせよ、さらに水準の高い通史が日本人の手によって書かれるまで、なお十分にその生命を維持し、今後の研究の基盤となるものと思われる。”(本書viii頁「訳者序言」より引用)

 

バクーニンの研究書としては本書刊行後の1979年に講談社の人類の知的遺産シリーズより保守派の勝田吉太郎氏によって研究書が刊行され、プルードンについてもマルクス研究者による研究書が幾つも出たが、全体的に日本におけるアナキズム研究については、本書の「訳者序言」にある通り、ライバルのマルクス主義と比べれば活発とは言えない状況である。

 

また、「訳者序言」では、本書においてはLibertatianの語を〈自由意思を強調する(人)〉と訳したことについて述べられている(本書xii頁)。

 

本書は思想篇となり、アナキズム前史としてアナキストに言及されることの多い老子、ゼノン、ジャン・メリエといった人物を慎重に避け(本書45頁)、「最初の明瞭なアナキスティックな運動」(本書51頁)として、イギリス清教徒革命の際の清教徒の一派であるディガーズの運動とその理論的指導者ウィンスタンリを僅かに挙げるに止めている(本書50-59頁)。

 

アメリカ独立革命フランス革命については、著者は、

 

アメリカ革命においてもフランス革命においても、一六四八年と一六四九年にディガーズが創り上げたほどに予言的なアナキストの未来の細密画を示す事件や運動は存在しなかった。一九世紀の間、合衆国もフランスも、アナキストの思想と行動のヴァラエティにおいてはたしかに豊富でありえたが、しかし偉大な一八世紀の諸革命においてこの傾向が表わ(←59頁60頁→)したものは、衝動的で不完全であった。”(本書59-60頁より引用)

 

と述べ、両革命の中からアナキズムの要素が見られる人物として、政府不信を公言したトマス・ペイン(61-63頁)と、フランス革命においてロベスピエールによる恐怖政治を過激派の立場から批判したため自殺することになったジャック・ルー神父(66-69頁)と、ロベスピエール失脚後に革命政府そのものを滅ぼすことを主張したジャン・ヴァルレ(本書70-71頁)を挙げるに止めている。また、アナキズムの要素が見られる人物として言及されることもあるトマス・ジェファソン(北アメリカ独立革命の革命家、第三代アメリカ合衆国大統領)については、著者はジェファソンの領土拡張主義や奴隷所有などの権威主義を理由にアナキストの先駆者に加えることを拒否している(本書60-61頁)。

 

以上の先駆的なアナキズム思想についての検討の後、著者が近代アナキズム思想の中で検討しているのは、ウィリアム・ゴドウィン、マックス・シュティルナー、ピエール=ジョゼフ・プルドン、ミハイル・バクーニン、ピョートル・クロポトキントルストイの6人を挙げている。著者の筆致からはゴドウィン、プルードンクロポトキンの三人に好意が寄せられていることが明白であるが、この点に関しては各読者が自ら読み、ご判断いただきたい。

 

また、本書は「プロローグ」にて、アナキストが何であり、何でないのかについて、一般に通念化した誤解を解く意図を以て述べている。それも著者が長年アナキズム運動を研究し、一時イギリスの運動に関わっていた際の経験から述べられるのである。この「プロローグ」こそが本書の神髄かもしれない。特に、著者が長年のアナキズム研究から、アナキズムを「民主主義の極端な形態」(本書32頁)ではなく、むしろ「普遍化され、純粋化された貴族主義」(本書33頁)と見なしていることは非常に興味深い。あたかもアナキストの理想像はオルテガの『大衆の反逆』で描かれた非世襲の精神的貴族のようでもあり、オルテガの国スペインが欧州で最もアナキズム運動の強かった国であることを考えると意味深長であるが、マルクス主義から転向し社民化した私が、社会民主主義に飽き足らずアナキズムに惹かれたのは、ひょっとしたらアナキストのこの点にあるかもしれないからである。

 

 しばしば混同されがちなアナキストとニヒリストの違について、著者は次のように述べている。

 

“ アナキストたちが、彼らの自由な世界の輝く塔が現れるのを常に見てきたのは、支配と信仰の残がいを通してである。その見通しは素朴かもしれぬ――われわれはまだそのような言葉においてそれを判断する点に到っていない――しかし、それは明らかに、どうにもならない破壊の見通しではない。

 たしかにこのような見通しのできる人を、ニヒリストとして片づけることはできない。ニヒリストは、一般的な意味でその言葉を使うと、何らの道徳原理も、何らの自然法も信じない。ところがアナキストは、権威の破壊の後までも生き残り、なお友愛という自由自然なきずなで社会を結合させることのできる力強い道徳的な衝動というものを信じている。アナキストはまた、厳密な歴史的な意味においても、ニヒリストではない。というのは、ロシアの歴史において、やや不正確にニヒリストと呼ばれた特殊なグループは、人民の意志団(The people`s will)に属するテロリストたちであった。人民の意志団とは、一九世紀後半において、帝政ロシアの独裁的支配者たちに向けられた組織的な暗殺計画によって、立憲政府の樹立――アナキストの目的ではない――を求めた組織的な陰謀の運動である。”(本書9頁より引用)

 

また、アナキズムテロリズムの関係についても示唆に富んでいる。

 

“……バクーニンでさえ、何度もバリケイドの上で戦い、農民蜂起の残忍さを賞めたたえたけれども、悲しげな理想主義の調子で一言述べる際には、迷いをおぼえる時もあった。

   

   流血の革命は、人類の愚かさのゆえにしばしば必要である。だがそれは、それがもたらす犠牲に関してばかりでなく、その名において革命が行われる目的の純粋さと完全さのためにも、常に悪、途方もない悪であり大惨事である。

 

実際、アナキストたちが暴力を認めたところでは、大部分は彼らが、フランス、アメリカ、そして究極的にはイギリスの革命から生じた伝統に執着したためであった――これは自由の名における暴力的な民衆運動の伝統で、アナキストたちが、ジャコバン派マルクス主義者、ブランキ主義者、そしてマッツィーニとガリバルディの追随者たちのような、彼らの時代の他の運動と共通に持っていたものである。”(本書10頁より引用)

 

 

“ しかしそうは言っても、暴力、非暴力に関する態度の漠とした混乱を通して、アナキズムの暗い使者、テロリストの暗殺者たちが、まぎれもなく活動している。スペインとロシアの特別な条件を除いては、彼らは僅かな人数にすぎず、たいていは一八九〇年代の間に作戦行動をした。彼らの犠牲者が目立っているので――というのは、これら勝手に裁判官を自任する人びとによって権威という罪で処刑された人たちの中には、フランスとアメリカ合衆国の大統領や幾人かの王族たちがいた――彼らの人数とは全く不釣合いに、彼らの行動は有名となった。しかし、いかなる時においてもテロリズムの政策は、一般のアナキストによっては採用されなかった。テロリストたちは、のちに見るように、たいてい孤独の人たちであって、厳しい理想主義と天啓的な情熱の奇妙な混合によって動かされていた。これは、ピョートル・クロポトキンや、ルイズ・ミシェルのような他のアナキストたちを、現世の聖人に変えたあの同じ情熱の、暗い面なのである。

 しかしながら、最も悪名高い人たちのなかかから三人だけを示すと、ラヴァシォル、エミール・アンリ、レオン・チォルゴシュのような人によって遂行された暗殺は、アナキストの運動に極めて有害であった。(←11頁12頁→)彼らはアナキズムテロリズムは同じだという考えを、それを正当とする理由が消えた後にも長い間容易に去らないほど、民衆の心に植えつけたのである。奇妙なことに、同じ時代の他の暗殺は、アナキストたちの暗殺よりも大変容易に忘れられてしまった。ロシアの社会革命党員たちの名は、彼らに殺された犠牲者の数ははるかに多いのに、何ら戦慄をひき起こすことはない。アナキストたちを短刀や爆弾と結びつける人びとのほとんどが、アメリカの大統領を暗殺した三人のうち、アナキストだと主張したのは一人だけ(引用者註:1901年に共和党のマッキンリー大統領はレオン・チォルゴシュに暗殺された)ということを考えてみない。他の一人は、アメリカ南部同盟支持者で(引用者註:1865年の共和党リンカーン大統領暗殺事件)、三人目は、失望した共和党員(引用者註:1881年共和党ガーフィールド大統領暗殺事件)であった。”(本書11-12頁より引用)

 

 

マルクス主義者にとって理論的な難点であった農民についてのアナキストの態度も、以下の筆致で明らかになるであろう。

 

“……マルクス主義者は、素朴な人びとを、すでに過ぎ去った社会進化の一段階を表わすものとして、拒絶する。彼にとって、種族民、農民、小職人などのすべては、ブルジョアジーや貴族とともに、歴史の残物の上につみ重ねられる。共産主義者の現実政策(Realpolitik)は、現在の極東におけるように、時には農民との接近(rapprochement)を求めるだろう。しかし、そのような政策の目的は、常に農民を、農業のプロレタリアに変えることである。他方、アナキストたちは、(←23頁24頁→)農民のなかに、非常に大きな望みを託してきた。農民は、大地に親しみ、自然に親しみ、それゆえに、彼の反応のしかたはより“アナーキック”である。バクーニンは、百姓一揆を、革命のための彼の理想である自発的な民衆蜂起の未完成な型として見た。さらに農民は、歴史的な環境によってつくられなければならなかった協同という長い伝統の継承者である。アナキストの理論家たちは、農民の社会におけるこのような傾向を是認することによって、ますます繁栄するにつれて農民社会は――歴史において知られているかぎり他のすべての発展する社会と同じく――富農、貧農、労働者たちという階級制度の確立に至る富と地位の相違を示し始めるということを忘れる傾向がある。アナキズムはアンダルシアとウクライナの貧農たちの間で力強い大衆運動となったが、それよりも富んだ農民たちのあいだでは何らの評価しうるほどの成功を得ることができなかったということは、意味が深い。市民戦争の初期において、スペインのアナキストたちによって支持された集産主義的組織を採用するようアラゴンのぶどう栽培者に強いたのは、ドゥルティと、彼の義勇軍の恐怖のみであった。”(本書23-24頁より引用)

 

 

アナキストの出身階級の分析も興味深い。

 

“……有名なアナキストたちの大部分は、貴族か、地方地主出身であった。ロシアにおけるバクーニンクロポトキン、チェルケソフ、イタリアにおけるマラテスタ、カフィエーロは、典型的な例である。またゴドウィン、ドメラ・ニューエンハウス、セバスチアン・フォールのような人たちは、以前には、牧師や宣教師であった。残りの人たちのあいだでは、職人階級――伝統的な手職人――が、おそらく最も重要であった。アナキストの闘士には、驚くべき割合の靴屋と、印刷屋が含まれている。ある時代――フランスにおける一八九〇年代、イギリスと合衆国における一九四〇年代――においては、マス・ヴァリューに反逆する知識人と芸術家たちは、かなりの数がアナキズムにひきつけられた。結局、マルクスが、社会の階層化という彼のきれいな型の何処でもあてはまらないのでその大部分を軽べつした階級脱落者の要素を、アナキストたちは、自然な反逆者として歓迎する傾向があった。その結果、アナキストの運動は、反乱が犯罪行為とからみあっている暗い世界、バルザックのヴォートランと、現実の世界におけるその生き写したちの世界に、常につながりを持っていた。

 これらの要素は、主として、現代国家と、現代資本主義あるいは共産主義経済への彼らの対立において、一体となる。彼らは反乱を主張するが、それは必ずしも過去を賛美するのではなく、たしかに、彼らが生きている現在の中にはない個人の自由という理想のためなのである。この事実だけが、われわれに、注意深くアナキスト進歩主義を見させるはずだ。それが意味するものは、確かに、今日存在するような社会をそのまま進歩させるのではない。反対に、アナキストは、ある面では一つの後退――素朴化の線にそった後退――を意図している。”(本書25頁より引用)

 

 

2020年現在、19世紀末~20世紀初頭にかけて、アナキズム運動に戦士を供給した貴族、地主、手工業職人は、社会の民主化と資本主義経済の進展によりもはや活力を保っていない。聖職者にしても、キリスト教原理主義や戦闘的イスラーム主義に世界の多くの人々が惹きつけられている現実はあるにしても、それらは伝統的な聖職者の世界とは少し離れた世界での営みであろう。かつて、アナルコ・サンディカリズムの下で労働組合に組織された労働者階級は、アナルコ・サンディカリズムの不調により、今日では連合のような改良主義的な組合に組織されるのが主流である。結局、勝田吉太郎氏が述べていた通り、知識人(職業的知識人ではない知識の消費者であるインテリゲンチアを含む)と芸術家、そしてその予備軍である大学生が、現在のアナキズムに戦士を供給する主な階層になるのであろう。しかし、これでは心許ない。従来から支持層であった農民のみならず、ITエンジニアや医療職員、介護職員、倉庫で働く人々、建設作業員といった、マルクス主義的な意味での近代的産業労働者=プロレタリアートではない人々に対して、今日のアナキズムの価値を訴えられないであろうか。

 

 

 

“……しかし、もしわれわれが、社会の素朴化への衝動が、社会をもっと有効に動かそうという望みからでなく、あるいは個人の自由を破壊する権威機関を除去する願いですらも全くなく、主として、より素朴な生活の徳についての道徳的な確信から生じるという事実を無視するならば、アナキストの態度の本質を見失うであろう。

 アナキズムにおける深い道徳主義の要素は、アナキズムを単なる政治的な主義以上のものとするのだが、これまで決して十分に探究されてこなかった。これは部分的には、因襲的な道徳を拒否し、彼ら自身の哲学のこの面を強調することを嫌ったアナキスト自身のせいである。それにもかかわらず、素朴化への衝動は、アナキストの思想に浸透する禁欲的な態度の重要な部分である。アナキストは、単に富める人に対しては怒りを感じない。彼は、富自体に対して怒りを感じる。彼の目には、貧しい人が窮乏の犠牲であると同様に、富める人はぜいたくの犠牲である。すべての人たちをぜいたくに生活させるという北アメリカの民主主義をまどわせるかのヴィジョンは、決してアナキストたちに訴えるものではなかった。”(本書26頁より引用)

 

 

私は本書で、「彼の目には、貧しい人が窮乏の犠牲であると同様に、富める人はぜいたくの犠牲である」というアナキストの富に対する視線を知ったことは大きな収穫だったと思っている。有り余る金銭は人間を堕落させるからこそ、アナキストは社会における極端な富の偏在に反対するのである。

 

 

“ 人々が自由であるために十分な量――それが、物質世界に関するアナキストの要求の限度である。”(本書27頁より引用)

 

この行もとても重要で、アナキストが富の再分配を要求するのは、プルードンが主張した通り、一定の富が自由であることを保証するためである。この点で私有財産制度の否定に至るマルクス主義とは異なる。これを小ブルジョワ的と批判するのは容易いが、私自身の無職時代の実感からすれば、働き出して月にほんの数万円ほどでも自由に使えるお金が手に入った時に、自分がそれだけ自由になったということを強く感じたので、この主張にはリアリティがあると私は考えている。

 

 

 

“……アナキストにとっては、時として彼の教説の中に前後矛盾して入りこんだ科学的決定論にもかかわらず、いかなる特別な事件も必然的ではなく、また確かに、人間社会の中にはいかなる特別な事件もない。彼にとっては、歴史はマルクス主義者が考えるような弁証法的必然という鉄の軌道に沿って動くものではない。それは闘争から現われ、そして、人間の闘争は、人間の中の自由な自覚という火花にもとづき、自由への絶えざる刺激を起こさせるどのような衝撃――理性における、または本性における――にも呼応する、人間の意志の働きが産み出したものである。”(本書29頁より引用)

 

これもアナキズムの良い点で、マルクス主義史的唯物論や「歴史の必然」などについては考えなくて良いし、考えない方が良いと私は思っているので、アナキズムが自由意志を強調するということは努々忘れてはならない。

 

 

“……アナキストたちによって擁護されたあらゆる種類の戦術を結びつけ特徴づけるものは、いかにそれらが暴力と非暴力、集団行動と個人行動というように異なっていようとも、それらは直接個人の決定の上に基礎をおいているという事実である。個人は、自発的にゼネ・ストに参加し、自由意志によって共同体の一員になり、あるいは兵役を拒否し、あるいは暴動に参加する。責任について何ら強制や委任は生じない。個人は、適当だと思う時に、行ったり来たり、行動したり行動を断ったりする。革命について(←31頁32頁→)のアナキストのイメージが、人民の自発的な蜂起という形を実際最もしばしばとるということは、本当である。だが人民は、マルクス主義者の意味における大衆としてみられるのでない――彼らは、その一人一人が彼自身で行動の決定をしなければならない最高の個人の集まりとして見られる。”(本書31-32頁より引用)

 

この「一人一人が彼自身で行動の決定をしなければならない最高の個人の集まり」という人民への認識は、実際に何かの集団的な行動をするのには却って困難かもしれない。そうであっても、この個人尊重はアナキズムの美徳だと私は思う。

 

“ 個人的な選択の至高性に対する極度の関心は、革命の戦術と未来社会の構造についてのアナキストの考えを支配するばかりではない。それはまた、アナキスト独裁制と同じく民主主義を拒否することも説明する。アナキズムを民主主義の極端な形態とみなすほど、アナキズムの概念で真実から遠いものはない。民主主義は、人民の主権を擁護する。アナキズムは、個人の主権を擁護する。これは、自動的に、アナキストたちが民主主義の形式と見解の多くを否定することを意味する。議会制度は、個人が彼の主権を代表者に手渡すことによって主権を棄てるということを意味するがゆえに、拒否される。一度個人が捨ててしまえば、多くの決定は彼の名においてなされ、もはや彼は、それについていかなる統制も持たない。だからこそアナキストたちは、象徴的にも現実的にも、投票は自由を裏切る行動であるとみなす。“普通選挙反革命である”と、プルドンは叫び、彼の後継者(←32頁33頁→)たちは、誰も彼に反駁しなかった。”(本書32-33頁より引用)

 

“ 実際にアナキズムの理想は、その論理の究極にまで進められた民主主義というようなものではなく、普遍化され、純粋化された貴族主義にはるかに近い。ここで、歴史の螺旋は、完全に一回転した。そして、貴族主義が――テレームの僧院のラブレーのヴィジョンにおいてその最高点に達する――貴人たちの自由を要求した場所で、アナキズムは、常に、自由人たちの気高さを主張してきた。アナキィの究極のヴィジョンにおいて、これら自由人たちは、神のように、王者のように立つ。シェリが描いたように、君主たちの誕生である。”(本書33頁より引用)

 

 

〈ノート〉

【ゴドウィン】

“ 人間は、真理および真理の一面たる道徳に対し、義務を負う。しかし権利を持っているか? いかなる人間も、“有徳ならざる行動をとり、また真理ならざる発言をする”権利は持たない、とゴドウィンは答える。厳密に言えば、人間がまさに持っているのは権利ではなく、互恵的な正義のもとにあってその仲間たちの援助に対する要求である。良心や言論の自由のように、権利とふつう考えられている多くのものは、人間がそれらに対する権利を持っているからでなくて、道徳的真理に到達するためにはそれらが絶対必要であるからこそ、求められるべきである。”(本書102頁より引用)

 

アナキズムに限らず、「自由」について考える際に、必ず行きつくのは、「ヘイトスピーチのような特定のカテゴリの人々を害する言論に自由は認められるべきか」という難問であろう。自由は時の権力が「悪」とすることに対する自由でなければ、あまりその意味はない(基本的にはどんな政府でも「善」をなす自由を禁じたりはしないので)。だからといって、「言論の自由」の名の下に特定の人種や民族を抹殺するような言論を認めてしまっても良いのだろうか。私はヘイトスピーチを「言論の自由」だとは認めたくない立場に立つのだが、そうなると自分の掲げる「自由」は中途半端な、限られた範囲内での自由にしかならないとも考えていた。上記に引用した、ウィリアム・ゴドウィンの”いかなる人間も、“有徳ならざる行動をとり、また真理ならざる発言をする”権利は持たない、とゴドウィンは答える”という発想は、つまり良心や言論の自由を権利ではなく徳や真理から考える発想こそは、この自由のジレンマに一定の答えを与えるのではないかと、読んでいて感じた。ウィリアム・ゴドウィンに従えば、ヘイトスピーチは「言論の自由」が目標とする「道徳的真理に到達する」という目標に反しているから、「言論の自由」の目標を毀損するものとして反対されねばならないのである。尤も、この点について私はまだ考えをまとめられていない。

 

シュティルナー

著者は、暴力を称揚する過激な個人主義者として現れたマックス・シュティルナーが、その本名であるヨハン・カスパー・シュミットの日常生活とは似ても似つかない人物であることについて、このように述べている。

 

“しかも、クロポトキンのようなアナキストたちをさえその教義の烈しさによって驚かせたこの個人主義の熱狂者を考察する時、そこには理論を極端に進める者の性格に関する一つの興味ある洞察が示される。というのは、絶えざる闘争の詩人であり、犯罪と殺人を称揚したこの偉大なエゴイストは、実生活にあっては、一八四四年に「唯一者とその所有」を出版した当時、若い婦人たちのためのグロピウス夫人のベルリン・アカデミーにおける物柔らかな忍耐強い教師であったのだから。彼は、ヨハン・カスパー・シュミットと呼ばれていた。彼がこのような平凡な名前のかわりに用いたペン・ネイムは、彼の額の異常な大きさからとってきたものである。Stirneとは、ドイツ語では「額」を意味していた。それゆえMax Stirnerは、正しくはMax the Highbrow(知識人マックス)と訳されるべきかもしれない。

 シュミットは、本の出版に際して新しい名前をつけたばかりでなく、本を書くことによって新しい人格を創造したように思われる。あるいは少なくとも、激しい、未知の、そして彼の日常生活に沈潜していた自己を呼び起こしたように思われる。というのは、小心なシュミットの、不幸で、不運で、めぐりあわせの悪い生涯においては、マックス・シュティルナーの、情熱的な夢想を持つ、自由な立場のエゴイストは全く存在しなかったからである。シュティルナーという人間と彼の作品の間のこの対比は、現(←133頁134頁→)実を埋め合わせる白日夢としての文章の持つ力の古典的な例を、われわれに示しているといえよう。”(本書133-134頁より引用)

 

 

私も自分の日常における社会生活が単なるホワイトカラーの事務職にすぎないことを思うに、本稿に限らず、社会思想や歴史に関する文章を急進的な立場から書いている自分と、日常生活の自分の分裂がシュティルナーを面白く言えないほどには分裂していることを強く意識している。この懸隔は埋め合わせた方が良いのだろうけれども、他方でそれをやってしまうと必ず日常生活での影響が出るであろうから、これからも何かのきっかけで、経済状態が改善される見通しが立つなどしてペンネームを使わずに思想の話をできるようになるまで待つしかないんだろう。

 

プルードン

“……プルドンは、個人的自由に非常に価値をおくがゆえに、ほかならぬ“結社”という言葉を信じないのだが、組織化されたアナキズム運動の直接の祖となり、それが彼の信念に集団的な表現と力を与え、そして彼はそれを創った何人かの人たちの現実の教師となった。インタナショナルの創立を助けたフランスの労働者たち、一八七一年のコンミューンにおける多くの指導者たち、そして一八九〇年から一九一〇年の間におけるフランス労働組合のたいていのサンディカリストの闘士たちは、すべてプルドンから彼らの思想の大部分を得ることとなった。エリ・アレヴィがかつて述べたように、プルドンは――マルクスではなく――“真にフランス社会主義に、”あるいは、少なくとも一九三〇年代まで存続したような形のフランス社会主義に、“生気を吹き込んだ人”であった。”(本書151頁より引用)

 

フランスではドイツ人マルクスよりもフランス人プルードン社会主義思想が、労働者の中に生きていた。

 

“ 一八四八年におけるプルドンの記事の変らぬ論題の一つは、“プロレタリアートは政府の援助なしにそれ自身を解放せねばならぬ”というものであった。彼はこれを、すべての社会的疾患に対する万能薬としての普通選挙権という神話に対する公然たる非難と結びつけ、経済的変化を伴わない政治的民主主義が安易に行きつく先は、進歩よりもむしろ退歩であるということを指摘した。われわれがファシスト型の右翼運動の大衆への訴えについて多くのことを知った今日では、このような主張は特に変ったものとは思えない。しかし革命的楽観主義が最高潮に達した一八四八年四月において、一年以内に起こるであろうような情勢、すなわち共和国が自己の防衛のために作り上げた、まさにその普通選挙という手段によって王族大統領としてルイ・ナポレオンを選出したことから民主主義が葬むられるであろうような情勢を予期した点では、プルドンはほとんど唯一の人であった。”(本書175頁より引用)

 

ドイツの革命家にしてドイツ社会民主主義の祖であるフェルディナント・ラッサールが『労働者綱領』(1862年)の中で、普通選挙権を高く評価していたことを考えるに、1848年の時点で普通選挙が反動的になり得ることを見抜いていたプルードンは流石である。

 

 

バクーニン

“ ある点で、マルクスバクーニンは似ていた。二人は、ヘーゲル主義という酔いやすい泉の水を痛飲していたし、彼らの陶酔は生涯続いた。二人とも生まれつき独裁的であり、陰謀を愛した。二人とも、失敗にもめげず、圧迫された者、貧しい者の解放に誠実に貢献した。だが、その他の点で彼らはひどく違っていた。バクーニンは広い寛容な心と開放的な気持を持っていたが、その二つともマルクスには欠けており、マルクスはうぬぼれが強く、執念深く、耐えがたいほどにペダンティックであった。日常生活において、バクーニンボヘミアンと貴族の混合物であり、彼のうちとけた態度のおかげで階級のどんな障壁をも越えることができたが、マルクスは根強いブルジョアで、彼が転向しようとしたプロレタリアートとの真の人間的な接触をつくることはできなかった。疑いもなく、人間としては、バクーニンの方が賞賛に値いする。学識と知的能力についてはマルクスがすぐれているという事実にもかかわらず、バクーニンの個性の魅力と直観的な洞察力は、しばしばマルクスをしのいでいたのである。

 個性の相違は、原理の相違のうちに反映されている。マルクスは〈権威主義者〉で、バクーニンは〈自由意思を強調する者〉であった。マルクスは中央集権主義者で、バクーニンは連合主義者であった。マルクスは労働者のための政治行動を主張し、国家を獲得する計画を樹てた。バクーニンは政治行動に反対し、国家を破壊しようとした。マルクスは現在生産手段の国有化と呼ばれているものに賛成し、バクーニンは労働者による管理に賛成した。争いは、アナキストマルクス主義者との間でそれ以来ずっと行われてきたように、現存の社会秩序と未来の社会秩序との間の過渡期の問題に実際集中された。マルクス主義者は、社会主義共産主義の目標は国家の消滅でなければならないということに同意して、アナキストの理想に賛辞を呈したが、過渡期において国家はプロレタリアート独裁の形態で維(←236頁237頁→)持されねばならないと主張した。バクーニンは、今や革命的独裁という考えを放棄してしまって、一時的混乱の危険をおかしてさえ、できるだけ早い時期に国家を廃止することを要求した。一時的混乱の危険は、どんな政府の形態もそれを避けることのできない害悪よりは危険でないと彼はみた。”(本書236-237頁より引用)

 

 

“……バクーニンは、アルフレッド・ドゥリトルと同様に中産階級の道徳に欠けていたかもしれないが、良き礼儀に対する貴族的関心を持っていた。彼は、女性の面前で悪い言葉を使ったジュラ村落の若者をしかりつけるのが常であって、理論上は、彼はネチャーエフの提案を威嚇的だと喜んだかもしれないが、実際上、それらをただ下劣なものとみていたことは疑いない。”(本書240頁より引用)

 

クロポトキン

ロシアや日本のアナキズム運動は実質的に、1903年~1905年頃にかけて、クロポトキンの思想の革命家に対する影響によってその形を整えた。その意味でクロポトキンは各国のアナキズム運動の始祖であったが、ドイツの軍国主義に反対するあまり、第一次世界大戦ではドイツと交戦するイギリス、フランス、ロシアを積極的に支持し、二月革命によって帝政が倒れ、ケレンスキー政権が成立した後にロシアに帰国してからもドイツとの徹底抗戦を唱えたため、アナキストを含むロシアの左翼陣営から孤立してしまったことが記されている(本書301-303頁)。十月革命レーニンボルシェヴィキが権力を掌握した後は、ロシアに留まりながらレーニンの赤色テロルを批判する言動を続け、1921年2月8日にモスクワで死去(本書303-305頁)。

 

 

トルストイ

著者は、最も重要で比類なきトルストイの帰依者として、インドのマハトマ・ガンディーを挙げている。

 

“ しかしながら、最も重要で比類なきトルストイの帰依者といえば、疑いもなくマハトマ・ガンディーであった。ガンディーがインドの人民を目覚めさせ、外国の支配に対してほとんど無血の民族革命を行なって人民を指導した功績は、われわれの主題にとっては外面的なことであるが、しかしこの点でガンディーが何人かの偉大な〈自由意思を強調する〉思想家の影響を受けたことは、記憶に値する。彼の非暴力という方法は、トルストイおよびソローの影響の下に主として発展し、そして彼はクロポトキンを丹念に読むことによって、村落共同体の国という彼の思想の力を得た。”(本書331頁より引用)

 

“……トルストイは、世界的な名声のためにロシア人の中ではほとんどただ一人直接の迫害を免れ、そのことを利用して、ツァー政府が理性的な道徳とキリスト教の教訓にそむいていることを何度も非難したのだった。彼は恐れることなく語り、決して沈黙してしまうことはなかった。あらゆる反逆者たちは、トルストイがそこにいて正義感のおもむくままに語っているかぎり、ロシアという大警察国家の中でも自分たちは孤独ではないと感じたし、彼の痛烈な批判は、一九〇五年から一九一七年に至る運命の期間に、ロマノフ王朝の基礎を掘りくずす役割を演じたことは疑いない。ここで再び、彼はアナキストたちに貴重な教訓を与えている。すなわち、自由に生きることを主張する一人の人間の道徳的な力は、沈黙した奴隷的大衆の力よりも大きいのだということを。”(本書332頁より引用)