中原中也――「不幸になれ」と言われた時

 中原中也の友であった大岡昇平は、中也について死後こう振り返っている。

“我々は二十歳の頃東京で識り合った文学上の友達であった。我々はもっぱら未来をいかに生き、いかに書くかを論じていた。そして最後に私が彼に反いたのは、彼が私に自分と同じように不幸になれと命じたからであった。”
大岡昇平中原中也伝――揺籃」『中原中也講談社講談社文芸文庫〉、1989年2月10日第1刷発行、9-10頁より引用)

 「不幸になれ」――そう命じられて大岡昇平は中也の前から去ったのであったが、その大岡の選択を責めることはできまい。しかし、この中原中也という人間、否、中原中也という問いかけは、その死後も大岡をして動かし続けたのであった。大岡は「中原中也伝――揺籃」(1949年)、『朝の歌』(1958年)、『在りし日の歌』(1967年)という三篇の中也に関する伝記及び作品論を書き残し、それらは『中原中也』(講談社、1974年)という一冊の本に纏められて大岡の代表作の一つとなっている。

大岡は続ける。

“ 私の疑問は次のように要約されるであろう。――中原の不幸は果して人間という存在の根本的条件に根拠を持っているか。いい換えれば、人間は誰でも中原のように不幸にならなければならないものであるか。おそらく答えは否定的であろうが、それなら彼の不幸な詩が、今日これほど人々の共感を喚び醒すのは何故であるか。しかし読者は私が急に結論を出すとは思わないで戴きたい。……”
大岡昇平中原中也伝――揺籃」『中原中也講談社講談社文芸文庫〉、1989年2月10日第1刷発行、10頁より引用)


 中原中也が日本の近代詩人として、宮沢賢治高村光太郎と並ぶ巨人の一人であることを疑うものはいないであろう。しかし、彼の詩は「不幸な詩」であり、そして、「不幸な詩」であるからこそ、私を含む多くの人々の心を捉えてきたのであった。

 中也の不幸は何処にあったのか。大岡はこのように述べている。

“ 中原は生涯すべてを自己の力を通して見、強い、独創的な自分、弱い、雷同的な他人という簡明な対立から世間を眺めた。彼は絶えず世間に傷ついたが、どんなにひどい打撃を受けても、結局バネがもとに戻るように、自分の力の意識に立ち帰らずにはいられなかった。彼の不幸は世間に傷ついたその仔細にあるのではなく、いつも自己を取り返さざるを得なかったということにあった。そして相変わらずそこから出直して、同じ傷を受けなければならなかったということにあった。”
大岡昇平中原中也伝――揺籃」『中原中也講談社講談社文芸文庫〉、1989年2月10日第1刷発行、27-28頁より引用)

 そう、中也は、常に自分自身であろうとし、そうあろうとすることによってどこにも出口を見いだせぬまま、友に対して「自分と同じように不幸になれ」と命じたのである。

 しかし、世間に傷ついた中也が常に自己に立ち返るという形で生きざるを得なかった不幸には、決して座視できない要素が含まれていた。大岡は述べている。

“ 中原の人間の中の邪悪なものについては、残されたものが少ないので、その全貌を知ることはできない。しかしこの世には悪があることを彼は知っていた。それは彼から泰子を奪った小林(引用者註:小林秀雄)に代表されることがあったに違いないが、自分の側にも悪があるならば、彼は人を責めることはできない。論理的にはそうならざるを得ないので、ただ自分が世の中の悪の犠牲者であると感じられた時だけ、彼の心は安堵したのではないかと思われる。みじめさの中から「自在に」歌えると、彼はほんとに信じていたかどうか。しかし彼の一生には行為としての悪、欺瞞も裏切りもなかった。彼の顔にはどうかすると「人を千人殺してんや」といいたげな表情が浮び、悪魔の夢を見る人の邪悪なものがあったが、彼自身は悪いことはしたくてもできない男であった。”
大岡昇平「『在りし日の歌』」『中原中也講談社講談社文芸文庫〉、1989年2月10日第1刷発行、258頁より引用)

 

 自分が世の中の悪の犠牲者であると感じられた時だけ安堵する心。被害者であることに居心地の良さを見出す心性。断言するが、ここからは決してポジティヴなものは生まれない。自己や他者を「不幸だ」と断ずることは傲慢なことだが、その傲岸を敢えて犯して述べる。中也は不幸であった。自らが痛めつけられていることに安堵してしまい、そして、何があってもその安堵に立ち戻ってしまうことが不幸であった。そして、そこから友人に対して「自分と同じように不幸になれ」と述べてしまうことは、ただ中也個人が不幸であるということ以上に罪であった。それが罪であるからこそ、1937年に中也が死んでから30年を経た1967年に、中原中也という疑問を解くために大岡は『在りし日の歌』を書かざるを得なかったのだ。

“僕にはもはや何もないのだ”(「秋日狂乱」)、”愛するものが死んだ時には、自殺しなけあなりません”(「春日狂想」)、”ほがらかとは、恐らくは、悲しい時には悲しいだけ悲しんでられることでせう?”(「酒場にて」)、”やがて俺は人生が、すつかり自然と遊離してゐるやうに感じだす。すると俺としたことが、とど、笑ひ出さずにやゐられない。”(「夏と悲運」)

 
 私が中也に惹かれるのは中也がこのように不幸だったからであり、そして、傲慢ながらも私自身が中也と同様に世から痛めつけられることに安堵してしまう心性を持つ不幸な人間だからこそである。しかし、ここからは脱け出さなければならない。それはどこにも出口のない絶望と死への道であり、中也ほどの詩才を持たずして20代で死んでいった少なからぬ友人、知人達を眺めながら生き残ってしまった者として、希望を述べねばならぬからである。「そっちに行っちゃいけない!」と。痛めつけられることに安堵し、不幸であることに居直ることからは、決して希望は発せられない。それこそ中也のように「自分と同じように不幸になれ」という言葉しか出てこない。そして、私はもうそんなところにはいたくないのだ。

 では、中原中也という問いに対して、どのように答えれば良いのか。中也に魅入ってしまった人は、いったいどのように中也から脱出すればいいのだろうか。大岡昇平が述べたことを繰り返して、私も「読者は私が急に結論を出すとは思わないで戴きたい」と述べることにする。ここで当り障りのない前向きなことを述べることは簡単だけれども、そうすることに余り意味があるとは思えないからだ。一つだけ述べると、それは中也が打ちのめされたときに常に自己を取り返そうとしたこととは反対に、自己であることを脱ぎ棄てなければならない、ということであろう。それがどのような方法論として行われなければならないかは、各自考えて欲しい。