【読書録】D・アプター、J・ジョル編/大沢正道、江川允通、見市雅俊訳『現代のアナキズム』河出書房新社、1973年5月15日初版発行。

【再掲】D・アプター、J・ジョル編/大沢正道、江川允通、見市雅俊訳『現代のアナキズム河出書房新社、1973年5月15日初版発行。


1939年のスペイン革命の挫折の後、1968年の世界的な若者の反乱を契機にして復活した世界各国のアナキズム運動についての論文集。
 
・デーヴィド・アプター/江川允通訳「昔のアナキズムと新しいアナキズム」(7-27頁)
・リシャール・ゴンバン/大沢正道訳「フランスの最近の事件にみられる異議申し立てのイデオロギーと実践」(29-52頁)
マイケル・ラーナー/江川允通訳「アナキズムアメリカの対抗文化」(53-93頁)
・J・ロメロ・マウラ/大沢正道訳「スペインの場合」(95-123頁)
・デーヴィド・スタフォード/大沢正道訳「今日のイギリスのアナキストたち」(125-149頁)
・都築忠七/見市雅俊訳「日本のアナキズム」(151-175頁)
・ジェフリー・オスターガート/江川允通訳「インドのアナキズム――サルヴォダヤ運動」(177-205頁)
・ルドルフ・デ・ヨング/大沢正道訳「プロヴォとカブーテル」(207-226頁)
エドゥアルト・コロンボ/江川允通訳「アルゼンチンとウルグアイアナキズム」(227-270頁)
・ジェームズ・ジョル/大沢正道訳「アナキズム――生き続ける一つの伝統」(271-287頁)
 
の10本の論文と、大沢正道氏の「訳者後記」から構成されている。古本屋で目次に「アルゼンチンとウルグアイアナキズム」があったのを見て購入したが、当該論文では私が知りたかったアルゼンチンのアナキストのペロン主義への転向についての話は特になく、それについては残念であったが、マイケル・ラーナー/江川允通訳「アナキズムアメリカの対抗文化」(53-93頁)とJ・ロメロ・マウラ/大沢正道訳「スペインの場合」(95-123頁)は非常に興味深く、両論文を読めたことにより本書を買って良かったと感じられた。以下、この二本の論文について感じたことを述べる。
 
マイケル・ラーナー/江川允通訳「アナキズムアメリカの対抗文化」(53-93頁)
1960年代のヒッピー運動に象徴される若い世代の主流文化への対抗文化の中に、新しいアナキズムを観たラーナーのこの論文は、1960年代以後現代まで続く、アメリカ合衆国、及びアメリカ合衆国の影響を否定できない全ての先進資本主義国の現代アナキズム運動がどのように登場したかについて、示唆を与えてくれるものである。
 

“ 新しいアナキズムと昔のアナキズムとの類似点で最も重要なのは、次のようなものだろう。すなわち暴力に対する新たな容認、多数派専制主義〔majoritarianism〕の否認、個人の道徳的責任の強調、科学技術的国家に対する根底からの批判、所有に対する禁欲主義、ならびに生活を簡素化しようという欲求である。
(本書56頁より引用)


 
 
本稿では、以上のうちの「暴力に対する新たな容認」と、「個人の道徳的責任の強調」について述べよう。まず前者から。
 


“ 多くの対抗文化の暴力がそなえているアナキズム的特性が、さらに二つある。一つは、暴力が行使される際のその規模であり、もう一つは、反乱における暴力行為を何か神聖なものとみる見解である。暴力が(←65頁66頁→)敵対集団の手段となると、その凶暴性がほとんど必然的にエスカレートする結果になることはよく知られている。けれども新しいアナキストの企てる暴力が、例えば爆撃機手が行使するような科学技術的暴力に変わることは全くありえない。爆撃機手は全然歩をしるしたこともないような国の上空を数マイルもの高度で飛びながら、怒りを感じるわけでもなく、深い個人的信念をもっているわけでもないのに、恐るべき威力と複雑な機構をもった爆弾を投下するのだ。今日、対抗文化において顕著な型の暴力は、ウェザーメンによって表されているようなものである。彼らは――アメリカでは誰でもできるように――銃を執ることもできる。それなのに彼らは銃の代わりに棒やチェーンをもって警官を襲撃する。その上多くの場合、逮捕されるのは承知の上であり、また彼らが警官に与えたのと同じような打撲を受けるのも覚悟している。だがそこには、刑が軽くてすむだろうという損得の計算以上のものが含まれているのだ。彼らの中世的とでもいえる暴行は、その肉体的な直接性において、ニューヨークがセントラル・パークで催すべきだとノーマン・メーラーがかつて提議した馬上槍試合大会にも似ている。”
(本書65-66頁より引用)

 
私自身はこのラーナーの暴力擁護論に、原則的には与することはできない。ラーナー自身が述べるように、暴力はエスカレートするものである。最初は角材(ゲバ棒)から始まった日本の新左翼内ゲバが、凄惨な殺し合いになっていったことを思うに、原則的にはやはり暴力の行使は批判されなければならないと考えるからである。現にラーナーが「銃の代わりに棒やチェーンをもって警官を襲撃する」と述べたウェザーマンは、本訳書が刊行された頃にはもう既に、「爆破は個人対個人の暴力から科学技術的暴力の移行であり、科学技術的な手段はアナキストの個人的な、そして社会的な目的を傷つける」(本書92頁より引用)とラーナーがで非難する爆弾闘争という手段を採用するようになっていたことを想起して欲しい。また、日本の新左翼諸党派が、党派間の内ゲバを早期終結させるという方向に向かわなかった要因の一つに、新左翼諸党派による暴力を「人間性にふかく根差した人間的行為」として肯定する理論の影響があったことは疑いえないであろう。暴力に対する歯止めを持たずに暴力を神聖化する暴力擁護論は必ず暴力をエスカレートさせる。だから、原則的に私は本論文のラーナーの暴力擁護論に反対である。
 
 
ただし、本論文の以下の引用部で論じられているような直接的な暴力の忌避が代理的な暴力を結果的に肯定することに繋がるという議論を念頭に置けば、個人対個人の、一対一の、相手を殺すことを目的としない暴力、要するに中学生の殴り合いのケンカぐらいの暴力なら、私ももっとやっておけば良かったという感慨はある。

 

 

“ 主流文化における中産階級と上流階級は、個人対個人の暴力との接触を失ってしまった。これらの階級の子供たちは自分自身の怒りに触れないように、怒りを神経症的に恐れるように育てられる。彼らは代理的暴力――フットボールとかジェットとか核兵器――を受け入れるよう口説かれる一方、広告は代理的性と代理的生を特徴にしている。彼らは広告にある調製品や調合物やまじないを使ってそれらに触れるようになるのだ。対抗文化がその価値の価値転換のなかで最も断乎として拒否してきた主流文化の特徴は、個人的で直接的な満足の代わりとして代理的な(あるいは際限なく後回しにされる)満足を認めるところにある。原子力至上主義という宗教やテレビでフットボールの暴力を視聴する日曜日の儀式は、この型の一部として否定され、個人対個人の暴力に神聖感は取りもどされる。これはいくつかの点で、前方へ大きく踏み出された一歩だといえるものではないかもしれない。というのはとりわけ、個人対個人の暴力は、異議申し立てされている社会的不公正がエスカレーションによって減少するか否かに関わりなく、科学技術的暴力へと容易にエスカレートしうるからである。たいていの人たちは何らかの観点から、個人対個人の暴力への回帰を一つの後退であると判断するだろう。けれども別の点では個人対個人の暴力は――その神(←68頁69頁→)聖さの範囲の限界と、実行に関して死に至らぬ儀礼とがもっと明確に規定されるなら――それにとって代わろうとしてきた原子力至上主義よりもずっと納得のいく、そして危険の少ない信条になるかもしれない。
 この議論が妥当であるにせよないにせよ、歴史を振り返れば、バクーニンのようなアナキストたちは、政府による圧制や収奪に対しての暴力をもってする個人の反応のうちに何か神聖に近いものを見た、ということはやはり本当である。そしてこのようなヴィジョンが今日、対抗文化のなかに戻っているのである。”
(本書68-69頁より引用)

 

“ 個人対個人の暴力がふたたび神聖なものとされるようになったということは、対抗文化のより広い特色、すなわち個人の生は神聖なものだという観念の復帰の一部である。そこに意味されることを俗っぽい言葉で言い表すと、きみの生は、きみのいちばん大事な持ち物であり、道具なのだ、そしてそのようなものとして生をどう生きるかということは最も意義の深いことだ、ということになる。”
(本書69頁より引用)


 
 
 
個人と個人の暴力の神聖化が個人の生は神聖なものだという観念の復帰に繋がる、というのはわかりづらいが、要するに、先に述べた中学生の殴り合いの喧嘩が、終わった後に生きていることを実感するような興奮を味合わせてくれる、ということであろう。デヴィッド・フィンチャー監督の映画『ファイト・クラブ』(1999年)で描かれたことはそういうことだったと私は思う。私自身は体格が貧弱なので、中学時代に殴り合いの喧嘩をしても大体いつも負けていた。ただ、あれが、お互いを死に至らしめるわけではない個人対個人の暴力だからこそ、安心して怒りの感情を解放できたという側面は間違いなくあったとは今にしてみれば思う。
 
ただ、ラーナーに同意できるのはやはりそこまでである。何度でも繰り返すが、暴力はエスカレートする。私は2008年にペルーを旅行した際に、首都のリマの宿があったマグダレーナ地区の周辺で手足のない人を沢山見たことがあった。あの人たちがペルー政府軍とペルー毛沢東派のゲリラ組織センデロ・ルミノソとの内戦で手足を失ったことに気が付いたのは帰国してから何年も経った後であったが、エスカレートした暴力があのような形で暴力的に手足を奪われた人を多数生み出すかもしれないと思うと、とても暴力を神聖化する気持ちにはなれない。
 
もちろん、そうは言っても、人間が生きる中で完全に暴力を廃して生きていけるとは思わない。通り魔のような形で突然降りかかる理不尽な暴力から身を守るために、暴力を行使しなければならないこともあるだろう。私自身はできればそんな機会にはめぐり合わせたくはないが、その場合も相手も自分も決定的に傷つけない範囲に、自分の振るう暴力の限度を留めたいものである。
 
次に個人の道徳的責任の強調について。
 

“ 個人も政治的責任があるという熱烈な責任感と組み合わされた通常の政治のやり方に対する非政治的軽蔑(そしてしばしばその無視)は、はっきりとアナキズムだけのものとわかる組み合わせだが、それは対抗文化のなかにもみられる。「たった一人の人間に何ができるのだ」という疑問に対して、アナキストは――たぶんアナキストだけが――「何だってできるぞ」と答える。それは他者を救おうと一歩踏み出すことは、自分自身の生を奪還するための唯一の道である、ということを意味している。”
(本書71頁より引用)

 

 


 
上記引用部は面白いと思った。ウドコックも書いていたけれども、アナキストの面白い点はこういうことだと私も思う。私はアナキストを自称しているのでこうなりたいものである。
 
 
最後にアナキズムと権威について。晩年のバクーニンは、アナキストでありながらも権威の存在を認めていたが、何を権威とするかについてはついに科学と専門知識以外に、その答えを示すことができなかった。このような次第である。

 

“ 私が専門家の権威の前に頭を下げるのは、私自身の理性によってそれが押しつけられたからである。私は人間の科学の確かな発展や詳細のなかで、きわめてわずかな部分しか理解してないことを意識している。どれほど偉大な知性でもすべてを理解するには十分であるまい。ここからして、科学に(←206頁207頁→)おいても産業においても、労働の分化と協同が必要になってくる。もらったりやったりするのが、人間の生活なのである。一人一人が指導的権威であり、一人一人が指導されるのである。したがって固定化した、不断の権威などというものはけっしてない。一時的で、とりわけ自発的な、お互い同士の権威と服従の絶えざる交代があるだけだ。
これと同じ理由から、私は固定化した、不断の、普遍的な権威というものを認めることができない。なぜなら、すべての科学、社会生活のあらゆる分野を、すみずみまでくまなく理解し得るような――このような理解なくしては科学の生活への応用はけっして可能ではないが――すべてを包括する人間は絶対にいないからである。もしもこのような普遍性がただ一人の人間のなかに実現されているとしたら、そしてその人間がそれを利用して自分の権威を押しつけようとしたら、彼を社会から追放すべきである。なぜなら彼の権威は必ずやすべての者を隷従と愚鈍におとしめるだろうからだ。私は今日まで社会がそうしてきたように、天才を虐待すべきだとは思わない。しかし彼らをあまりにもふとらしたり、とくになんらかの特権や排他的権威を与えるべきだとも思わない。それには三つの理由がある。第一にぺてん師を天才と間違えることがしばしばあるからだ。第二には特権の制度によって、真の天才がぺてん師に変わり、モラルを失って愚かになることがあるからだ。最後にこのような制度が暴君を生み出すからである。
 ここで要約しよう。われわれが科学の絶対的権威を認めるのは、科学がもっぱら物質的世界と社会的世界――これら二つは事実上、同一の自然界を構成しているにすぎないのだが――の物質的・知的・精神的生活に固有の自然法則を、できるかぎり体系的に、かつよく考えて、内心で再現することを目的としているからにほかならない。このように合理的で人間の自由にかなっているがゆえになに(←207頁208頁→)よりも正統な権威以外、われわれは他のすべての権威が、偽れる、勝手な、専横な、有害なものであることを宣言する。
 われわれは科学の絶対的権威は認めるが、科学の代表者たちの無謬性や普遍性は拒否する。……”
(「神と国家I」外川継男訳『バクーニン著作集3――鞭のゲルマン帝国と社会革命』白水社、1973年12月20日発行、206-208頁より引用)

 

 


 
 
ラーナーの権威論は、ジョン・シャール(John Schaar)の権威論を引きつつ、アナキストが何を権威とするかについての答えを出しているように見えて興味深かったので、以下に当該部を引用する。

 

“ 共同体の総意への随順や共同体の権威への同意は、刑罰の脅威のもとに要求される国家の政治的正義への服従よりももっと耐えがたいものなのか、これこそわれわれが問わなければならない問題なのである。これに対する解答は、多分に状況と参加者の心の状態によってきまるものと思われる。もちろん、多くのアナキストの共同体において、人々は主流文化において法によって要求されるよりももっと厳しい行動のおきてに進んで同意している、という事実がある。けれどもこうした事実があるからといって、それがアナキストの共同体はいっそう大きな自由を与えるということを否定する、説得力のある議論になるとはわたしには思えない。アナキストは他の人達よりも少ししか自由をもっていないという意見は、ジョン・シャールからたいそう手厳しく批判されたもの――自由と権威との必然的対立――を前提としている。アナキストは(シャールとともに)権威の定義をやりなおしているようである。すなわち権威とは範例と英知によって、見ならうに値する人たちだということを示したものへの同意である。しかもアナキストの共同体は、範例的権威への同意を自由と最もよく調和させるような、すばらしい倫理的等質性を具えていることが多い。”
(本書80頁より引用)


 
 
 
 
・J・ロメロ・マウラ/大沢正道訳「スペインの場合」(95-123頁)
ロメロ・マウラの本論文は、スペインのアナキズム運動についての西側での通説的な理解(たとえばウドコックが『アナキズム』で見せたような)を、スペイン人研究者の立場から反駁するものとなっている。ヨーロッパ諸国、いや、全世界でスペインに最後までアナキズム運動が生き残った理由を英米の研究者はスペインの特殊性に求めがちだったけれども、スペインのアナキズムの成功の要因は、当時のスペインの置かれた社会的状況を考慮すれば合理的に理解できるということが本論文の骨子となっている(96-100頁)。

 

 

“ アナキズムはつねにスペインの大衆を魅了し、それは第一インターナショナルの時以来、ほぼ不変であったという印象が広くひろがっている。しかしこれは現実を歪めた見解である。第一次世界大戦の最後の年まで、アナキズムはスペインで大衆運動にはならなかった。その基本的な見地は時の推移とともに根本的に変化した。スペインのリバータリアンがその運動を大衆組織に転化させるのに成功したのは、アナルコ・サンジカリズムの思想が具体化した時だけである。スペインのアナルコ・サンジカリズムの定式は、(←100頁101頁→)リバータリアン本来の主義を理論的に調整する、長い間の苦難に満ちた複雑な過程の結果である。”
(本書100-101頁より引用)

 

 


 
要するに、スペインのアナキズム運動は19世紀から20世紀初頭にかけて長らく停滞し続け、ようやくサンディカ=労働組合に浸透できたのは1918年だったということである。スペインのアナキストは1890年代にテロリズムで労働者の支持を得ようとして労働者から見向きもされなかったため、戦術を変え、1910年にフランスのアナキストからアナルコ・サンディカリズムを導入することにした(104-107頁)。ただし、スペインのアナルコ・サンディカリストは、フランスのアナルコ・サンディカリストのように、ゼネラル・ストライキが無血革命に繋がるとは考えなかった(108頁)。スペインのアナルコ・サンディカリストゼネラル・ストライキの後に武装蜂起と純然たる暴力によって革命を勝ち抜くという考えを維持し続けたのである(108頁、116頁)。この点で、スペインの労働組合CNTは、他のヨーロッパ諸国の労働組合が陥った改良主義には陥らず、革命的組合であり続けた。
 


“ 今世紀初頭、ヨーロッパの他の諸国では社会民主主義改良主義政策を全く支持しない組織と活動家がいた。そこでは革命の両親はボルシェヴィズムか革命的サンジカリズムの形をとった。おそくとも一九二〇年には、このうちの二番目は亡び、前者だけが革命政党として残った。スペインのアナルコ・サンジカリズムだけが同じ過程をたどらなかった基本的な理由は全く明白なようにみえる。その基礎となる考え方は、革命的サンジカリズムの思想が他の国々ではそれらに欠けていたのに比べて、その思想を裏切らなかったのである。
 フランスとイタリアの革命的サンジカリズムの盛衰についてはまだほとんど知られていないけれども、ただ一つ、とくに革命的ゼネラル・ストライキという彼らの思想が危険な神話であったことは十分に明白である。サンジカリストのいうゼネラル・ストライキは、よく主張されるようにただに経済的ストライキではない。それはある程度の暴力を伴う、全般的占拠たるべきものであった。だがゼネラル・ストライキの思想は、フランスのコミューンが武装蜂起はブルジョア国家の軍隊によって敗北せざるをえないこと(←115頁116頁→)をたった一度ながらに明確に立証したとおもわれたのち、武装蜂起にとって代わるものと考えられた。フランスとイタリアのサンジカリストは、暴力を雲散霧消化し、サボタージュを通じて国家の手段への協力を防ぐことで、ゼネラル・ストライキは労働者に対するありきたりな軍隊の使用を不可能にするだろうと考えた。これは幻想であった。それは一九〇四年よりずっと前から政治家がゼネラル・ストライキにどう対処したかをみればすぐに分かることだ。すでに一九〇一年にジョレスはCGT指導者に警告し、武器を手にして戦わずにサンジカリズム革命を達成できると労働者に考えさせる点で無責任だと述べた。「ゼネラル・ストライキは……労働者階級を欺く」と。
 イタリアのUSI〔イタリア労働総同盟。一九〇一年に結成されたサンジカリストの組合〕内にいた共産主義アナキストはこの誤りの危険を知っていた。だがアルマンド・ボルギのあらゆる努力にもかかわらず、彼らが指導権をもたぬ運動に彼らの見解を押しつけることはできなかった。けれどもスペインの場合、この間違った判断は決して受け入れられなかった。すでに指摘しておいたように、労働者の連帯派やCNTの創立者たちは共産主義アナキズムを背景としており、――他の諸国の革命的サンジカリズムの綱領とは逆に――彼らの目的は自由共産主義たるべきだと公言するほどであった。彼らは決して、最終の戦いは純然たる暴力によって決せられるものとなろうという共産主義アナキズムの考え方を清算していなかった。したがってCNTの失敗した蜂起はあまりに性急すぎたという点から説明され、闘争の性格の重大な間違いとはされなかった――この相違は重要である。なぜなら失敗がただの性急さに帰せられれば、その結論は闘争の放棄よりもむしろ慎重さを求めることになるからだ。
 共産主義がフランスで、ポーランドでの大失敗以前に、ゼネラル・ストライキというサンジカリストの戦略に対する革命家たちの幻滅につけ込む機会をとらえたようにはスペインでいかなかった理由は、この展望からすればいっそうたやすく理解される。もちろんCNTは十月革命に感銘を受け、赤色労働組合イ(←116頁117頁→)ンターナショナルに実際、加盟さえした。しかし連合が感銘したのは、ロシアでの革命が人民とソヴェトへの権力を意味しているかにみえたかぎりにおいてであった。実際、ロシア自体でも多くの人々は『四月テーゼ』や『国家と革命』をある意味でアナキズムのパンフレットとみなしたのではなかったか?その後CNTの訪問者たちはソ連から悪い情報を持ち帰り、アナキストの文献は現実にそこで起こったことについて悲惨な話しを語りはじめた。
 ほんの一握りの活動家の集団だけが、権力掌握というボルシェヴィキの有効性に誘惑され、強力で規律正しく閉ざされた組織の必要を確認するようになった。彼らはもっとも著名で、もっとも尊敬される人々のなかにいた。彼らは「アナルコ・ボルシェヴィキ」といわれたのだが、ほとんど発展しなかった。CNTの組織構造とその内部での態度は彼らの活動に有利でなかった。共産党の歴史も同様であった。スペインの革命家にとって十月革命は大衆の問題であった。一見したところ戦略上優位にみえたにもかかわらず、ロシア以外の共産党は一九一七年以後、ほとんどなにも達成しなかった。コミンテルンはCNTとFAIとおなじように献身的で有能な活動家からなる一大世代をすくなくとも作りあげた。だが共産党は、政治と労働とのペダンティック社会民主主義的分離とローザ・ルクセンブルクが呼んだものを、どうしても克服できなかった。オーストリア、ドイツ、その他の諸国の共産党の歴史をみるなら、第二インター第三インターの相違は、前者が改良主義で自らもそう言うのに対して、共産主義者改良主義者なのにそれを否定している、それだけのことだと、一九三〇年代にアナルコ・サンジカリストが考えたのは許されるかもしれない。”
(本書115-117頁より引用)


 
 
長い引用になったが、スペインのアナキストは、ゼネラル・ストライキによる無血革命という幻想を信じなかったがために、ヨーロッパの他の諸国のアナルコ・サンディカリストや各国の共産党が陥ったような改良主義には陥らず、その革命的戦闘性を維持し続けられたということである。暴力革命の是非については、先述のペルー政府軍と毛沢東派のセンデロ・ルミノソとの間の内戦が、理不尽に生命や手や足を奪われる人々を多数出した上に、結局のところは先住民や黒人に対する構造的な差別を抱えるペルーに新たな社会を築き上げることができなかったことを考えると、道義的にも戦略的有効性の点からしても、私は反対である。実際に暴力が発動し、エスカレートした時に、死んだ人の命や傷ついた人の身体は戻ってこないからである。ただし、引用部にフランスの社会主義者ジャン・ジョレスが、武器を手にして戦わずにゼネラル・ストライキで革命を達成できると労働者に考えさせる点で無責任だと労働組合の指導者に言っていたとある通り、武器を手にする覚悟を持たずに革命が実現できると考える甘さへの批判だと捉えるのならば筋は通ると思う。武器を手にする覚悟を持つということは一種の精神論であり、そして、この精神論は歴史上のすべての暴力革命が実現される際に背景となったよっぽどの非常事態、例えば第二次世界大戦下のアルバニアユーゴスラヴィアで、自国政府が侵略軍に敗北し、侵略軍を追放するためにレジスタンスとして武器を取るといったような、そのような危機の時代でしか通用しない精神論である。この武器を手にすることを厭わない精神を持ったスペインのアナキストの戦闘性に、本論文の106-112頁で触れられている、幹部を無報酬にすることで組合内に官僚制が形成されることを阻止するというようなスペインの労働組合CNT独自の組織形態が組み合わさり、スペインでは実に1930年代までアナキズム運動が生き延びることになったということが、ロメロ・マウラの論文の骨子となる。
 

“ 組合員の熱情を殺さぬように作られたCNTの構造は事実、直截なやり方でその促進を助けた。一定の工場内のすべての労働者を単一の組合の傘の下におくことで、産業別組合は労働貴族に対して大多数の未熟練労働者の戦闘性を課した。組織の環の基礎を地域におくことで、その地域のすべての労働者が結集し、労働者階級の連帯は組合の連帯を越え、それより前に促進された。この点、スペインの経験はフェルナン・ペルティエ〔フランスの革命的サンジカリズム運動の推進者の一人〕が熱情的に擁護した労働取引所〔Bourses du Travail 〕という地域方式に固有の革命的資質を確認した――それはすでにイタリアの労働会議所〔Camere del lavoro〕の歴史(←110頁111頁→)が確証したものである。
 それ以上ではないにせよ、全く同じくらいに重要なのは連合の幹部の無報酬という政策の影響であった。これが、管理すべき組合基金の些少と一緒になって、他のヨーロッパ諸国で発達したのと同じように労働組合内部に中産階級的官僚制が形成されるのを阻んだ。実際それは、どのようなものであれ官僚制の形成を妨げ、またヨーロッパの革命的サンジカリズムの同調者たちがあらゆる点で周到すぎるほど分析した官僚制の肥大化に伴うすべての結末を阻んだ。無報酬の政策は指導者を選ぶ場合、もっとも献身的なもの、つまりなにも所有せず、立身の拒否を徹底して貫いた人々を選ぶこととなった。
 CNTの組織型態がその革命的傾向を強めた別の位相があった。それはその組織のきずなが非常にゆるやかなことであった。根っからの無規律は明らかに欠点なのだが、にもかかわらず利点でもあった。つまり官憲が指導部に潜り込んだり、穏健な政策を強める方針を取らぬ個々の指導者を買収したり、脅迫したりする試みの効果をあらかじめ相殺したからである。もちろん挑発はずっとたやすく企てられた。だがそうはいっても、CNTを挑発することはいつもしごく容易なことだった……。”
(本書110-111頁より引用)


正直なところ私にはこのロメロ・マウラのスペイン・アナキズム論がどこまで正しいのか判断できない。本書刊行時点ではまだフランコ総統が生きていたので利用できなかった史料を用いてスペイン・アナキズム運動像を再構成すれば、また違う論点が出てくるのではないかとも思うけれども、それでも改良主義第二インターナショナル型社会民主主義)と革命主義(第三インターナショナルマルクスレーニン主義)の間には、既に1930年頃には、実は本人たちが言うほど相違が存在していなかったという説明と、その中でスペインのアナルコ・サンディカリズム運動が革命主義的であり続けられたことが飛躍の要因だという説明は非常に興味深かった。


以上、アメリカ合衆国とスペインの事例についての論文の中身について、私見を交えながら論じたが、アナキズムに興味を持つ方はこの二本の論文を読むためにだけでもぜひ本書をご一読いただきたい。マイケル・ラーナーの言う通り、たった一人の人間だけが何だってできると答えるところにこそ、アナキズムの素晴らしさがあることを、アナキストである人には是非とも確認して欲しい。

(2021年1月3日に投稿したものを、2021年11月1日に修正・加筆して再掲)

【感想】『ペルソナ2 罪――Innocent Sin』、ATLUS、1999年6月24日(PS版)、2011年4月14日(PSP版)

いやー、やっとクリアしました。『ペルソナ2 罪』。今年の秋にふと、『罪』の続編の『ペルソナ2 罰』で、現職の外務大臣が進める陰謀に立ち向かう社会人のRPG主人公達の活躍を改めて見てみたいと思い立ち、いや、それならまず前編の『罪』からだ、ということで、11月にPSVitaと一緒に購入したソフトを、年末休みを利用して何とかクリア。特にやりこみはしなかったものの、プレイ時間は37時間40分!この時間を全部勉強時間に回していれば何か資格が取れたのではないか……と思ってしまったものの、娯楽なんだから気にしない。

 

さて、このゲームをプレイしたのは実に20年ぶり。2000年、中学1年の時に父親が買ってきた初代プレイステーションのソフトをお下がりでプレイしました。なんとなく続編の『罰』もプレイした気になっていたけれども、記憶を辿ってみたら『罰』については父親がやっているのを横で観ていただけで、自分ではプレイしていなかったのでした。中学1年の時に『罪』をクリアした後、父親が『罰』をクリアしたらプレイしたいと思いながら私生活や受験にかまけている内に時間が経ち、20歳の頃にプレイ動画を視聴してそれっきりでした。なので『罰』については、ストーリーは知っているけど自分でプレイしていた訳ではなく、そして記憶が確かならば、中学1年の時の『ペルソナ2』を境にゲームから遠ざかってしまったので、自分にとっては『罪』が最後にプレイしたゲームだということになります。

 

『罪』と『罰』双方のストーリーについては、さわだ様の「【そこそこ徹底ゲーム考察】『ペルソナ2 罪/罰』(その2)」『映画にわか』投稿日:2020年1月6日、閲覧日2020年12月31日、https://www.niwaka-movie.com/archives/11399 ブログ記事に私がまとめるよりも遥かに優れた考察付きの要約がございますので、詳しくはリンク先のさわだ様の記事をご覧くださいませ。以下は20年ぶりにプレイして感じた私的な感想です。

 

今回、20年ぶりに『罪』をプレイして改めて気付いたこととして、『罪』は子供の物語なんですよね。子供、というか主人公グループは高校生なんですが、中学1年の時にプレイした時にも「8歳の時に仲が良かった幼馴染グループが、高校生になった後に当時慕っていた近所のお姉さんと一緒に世界を救う(後述の通りゲームの展開上は世界は滅んでしまうんですが、中学1年当時の印象として)って余りにも子供じみてないか」と思ってしまいましたもの。今思えば後編の『罰』が大人(20代~30代の社会人)を主人公にした大人の物語なので、対比するために前編の『罪』をあえて子供の物語にしたということなんでしょうけど、当時は気づかなかった。尤もタイトルでInnocent Sin(無邪気な原罪)と題しているんだから制作者からはそれも織り込み済みな訳です。

 

で、何が子供らしい無邪気な罪かというと、エンディングの「結末をリセットしてしまうこと」な訳です。もっといえば「自分が決断したことを、結果がろくでもなかったからリセットできてしまうと考える心性」、これが罪な訳ですね。ゲーム上では、周防達哉、リサ・シルバーマン(ギンコ)、三科栄吉、黒須淳ら高校生の主人公達が、自分たちの友人や家族を死に至らしめたり廃人にしたりした悪の元凶たるクトゥルフ神話の邪神ニャルラトホテプを倒したのにも関わらず、結局のところ予言が成就して世界は滅亡してしまい、慕っていた近所のお姉さん天野摩耶も死んでしまう。その結果をなかったことにしようとするため、主人公たちがかつて出会って幼馴染になったという事実そのものをなくしたパラレルワールドを作ることで、世界の滅亡やお姉さんの死をリセットすることが『罪』のエンディングになるわけですが、まさしくこの決断が副題のInnocent Sin(無邪気な原罪)となるわけです。ひこ・田中氏は『罪』のエンディングについてこのように述べています。

 

 

“……(引用者註:ラスボスを倒しても結局世界が崩壊してしまったあとに)彼らに残された最後の選択は、過去そのものを変えること。周防達哉、リサ、栄吉、淳、そして天野(←54頁55頁→)らの出会いを全てリセットしてしまうことです。

 そうして、再び現在が始まります。彼らは、何の関係もない他者となり、すれ違いざま、互いにどこかで知っていたような気がするところでこの作品は終わります。

 リセットするしか世界を救う術はないという物語。主人公の周防達哉を操りながら成長させ、他のメンバーにも親しみを覚え、ついにラストまできたのに、仲間との関係性が全部チャラになってしまう事態。それはこれまでの多くのRPGが描いてきた邪悪な者を倒して世界を救うこととは別の世界観です。

 周防達哉たちの選択が本当に正しかったのか、間違っていたのか、この作品は最後まで何も語ってはくれません。”

ひこ・田中『ふしぎなふしぎな子どもの物語――なぜ成長を描かなくなったのか?』光文社〈光文社新書535〉、2011年8月20日初版第1刷発行、54-55頁より引用)

 

 

先ほど私は、『罪』について「子供の物語」と書きましたが、『罪』は決して「子供向けの物語」ではないんです。『罪』は「噂が現実になる」というモチーフにより、南極に逃れたヒトラーのラスト・バタリオンが出てきたり(そんな都市伝説がありましたね)、ノストラダムスの大予言を思わせるオカルト的な予言が成就して世界が滅亡してしまったりと、荒唐無稽なシナリオでありながらも、決して「子供向けの物語」ではないんです。というのも、本編中ではラスボスを倒せば全部元通りにできる、ということが語られており、本当に「子供向けの物語」ならばリセットなどせずにそのようなエンディングになったでしょう。中学1年の時の私もクリアすればそうなるのだと思いながらプレイしていました。でも、『罪』のエンディングは世界の滅亡と、滅亡をリセットするという高校生=子供の決断でした。

 

人は過去に行ったことを取り消すことはできません。どんなに不本意な状況で、後から思えば誤った決断をしてしまったとしても、その時、その決断をしたということを後から取り消すこと、リセットすることはできません。でも、誰にだって、中学生や高校生ぐらいの時にしてしまったことの中で、一つや二つぐらいは消してしまい過去の決断があるでしょう。一つの作品を丸々使ってその「消してしまいたい過去の決断」を描いたこと。これこそが、『罪』が「子供の物語」であり、そして「子供向けの物語」ではない所以だと私は考えています。

 

 

後編の『罰』では、この「リセットしたという罪」に対し、『罪』の主人公周防達哉が受ける罰がメインテーマになります。「子供の物語」だった『罪』に対して、「大人の物語」となる『罰』では、いきなりナチスの落下傘部隊が街を占拠するという荒唐無稽なシナリオだった『罪』とは打って変わって、政治家や自衛隊上層部のクーデター計画を巡る陰謀を阻止するという吉田喜重岡本喜八が撮りそうな映画のようなシナリオになるのですが、できたら『罰』の話もこのブログで展開したいなあ。特に主人公で大人サイドの代表になるパオフゥ(32歳男性)が、前編『罪』の主人公周防達哉にかける言葉がまたグッとくるんですよね。ああ、いつの間にかパオフゥよりも年上になってたよ……来年は休みが減って忙しくなるので果たして2021年中にクリアできるかな……

 

 

最期になりますが、本作品にはインターネットの黎明期であり、ノストラダムスの大予言MMRで大騒ぎしていた1999年という時間が色濃く刻まれています。主題歌になっているHITOMIの「君のとなり」も素晴らしいので、1999年ってどんな時代なんだろう?ということを知りたい方はぜひプレイしてみてください!

 

【読書録】ギリェルモ・モロン・モンテロ/ラテン・アメリカ協会訳『ベネズエラ史概説』ラテン・アメリカ協会、1993年6月28日発行。

ギリェルモ・モロン・モンテロ/ラテン・アメリカ協会訳『ベネズエラ史概説』ラテン・アメリカ協会、1993年6月28日発行を読了したものの、Amazonにもブクログにも登録されていない本なので、このブログにて感想を書くことにする。

 

本書は1926年生まれのベネズエラ出身の歴史学者、ジャーナリスト、著述家であるギリェルモ・モロン・モンテロ氏が、1978年にカラカスの歴史国家アカデミアから各国概説史シリーズの中の一冊として刊行した書の日本語訳である。ただし、詳しい書誌情報は存在せず、原題は不明。上記の書誌情報も前田正裕氏による「はしがき」と本文中の記述より推察したものである。

 

本書は6部構成であり、各部の章題は「第1部先住民とスペイン人」、「第2部各地方の成り立ち1525~1810年」、「第3部ベネズエラ国民の形成」、「第4部独立宣言書」、「第5部19世紀1830~1935年」、「第6部現代史1936~1978年」となっている。

 

本書で浮かび上がる独立から20世紀半ばまでのベネズエラ史像は、貧しい農業国であり、政治的にも隣国コロンビアのように文民政府によるブルジョワ民主主義的な手続きによる政権交代が存在せずに軍人独裁者(カウディーリョ)の恣意的な専制支配と、上流階級の腐敗が政治的な構造と化している中、文化的にも停滞し、大勢の民衆が無知と貧困の中に放置されているような姿である。

 

例えばこういった具合である。

 

ベネズエラでは13世紀スペインのアルフォンソ賢王が制定した『七部法典』が、1865年の時点でも現役の法律書として用いられていた(本書36-37頁、尤もこの点ではスペインも、19世紀末の民法制定まで事情は変わらなかったらしい)。

 

“……産油国となった今日のベネズエラにおいてすら、1978年時点で、国民全体の20%が文盲であり、学齢期児童の半数が学校に登録すらされていないのである。”(本書118頁より引用)

 

“……コンディラックの『論理学』は1812年にカラカスで印刷され、教科書として使われたが、これはベネズエラにおいて印刷、出版された最初の書籍の1つである。” (本書143頁より引用)

 

“……カストロとゴメスの時代には、著作者はその作品を大統領に捧げなければならなかった。その主な理由は、国家以外にお金を払ってくれるところがなかったという意味で、文化が国家の独占事業であったことである。今日(1978年)でも、18歳以上の人口の20%が非識字人口であり、教科書以外の書籍の通常の出版部数は2,000部に過ぎない。” (本書158頁より引用)

 

“……1935年において、成年人口の70%が文盲であった。すなわち、文盲率は総人口の約90%に達していた。総人口のうち、わずか11%が7歳から24歳までの学齢人口で、わずか15万人のベネズエラ人達が何らかの形で教育を受けていたに過ぎない。事実上唯一の大学であったカラカス中央大学が1912年から25年まで閉鎖されていた。”(本書192頁より引用)

 

また、このような事情は、著者がベネズエラ自由民主主義化の出発点として高く評価する二人の将軍の合憲的軍事政権、エレアサル・ロペス・コントレーラス政権(1935年~1941年)、イサイアス・メディーナ・アンガリータ政権(1941年~1945年)を経て、いわゆる「ベネデモクラシア」(本書でこの表現は用いられていない)が到来した後も、大きく変化することはなかった。むしろ石油収入の増大が、却って貧富の格差を拡大したことに著者の焦点はあるかのように見える。このような具合である。

 

 

 

“……このようにベネズエラの現代経済史(1936~1978)が石油を唯一の強力な原動力としていたことは周知の事実であるが、国家が重要な受益者であったという事情はそれほど知られていない。ベネズエラの国家は極めて富裕であるのに対し、ベネズエラ国民は貧しい。このような隔離、分離こそ、現代ベネズエラ経済史の最大の問題なのである。オイル・マネーは国の富であるが、まだ国民の、そして大衆の富ではなく、大多数のための利益とはなっていない(国有化はようやく1975年に実施された)。

 産油国ベネズエラは、その前の時期(1830~1936)の農業国ベネズエラに取って代わったのである。石油はフアン・ビセンテ・ゴメスの治世(1917年以降)にすでにあったが、経済構造は、エレアサル・ロペス・コントレーラスが策定し、1936年に発効した「二月計画」に基づいて財政収入を道路、学校建設、衛生、公共建造物、工業化等、国のインフラ施設の近代化に投入するようになって初めて変化し出したのである。

 農業経済国家から産油国への変身は長期にわたったゴメス独裁政権の間に進行した。”(本書240頁より引用)

 

 

“ 同日(引用者註:1948年2月14日)、偉大な小説家であるロムロ・ガリェーゴス(1884~1969)が大統領に就任した。直接投票による選挙においては、18歳以上の者1,621,607人が登録していた。未成年者や非識字者にも投票権が与えられていたのである。法によって一般的に受け入れられていた成年は21歳であった。非識字率は総人口の50%を上回っていた。”(本書212頁より引用)

 

1978年に著者が述べた通り、「ベネズエラの国家は極めて富裕であるのに対し、ベネズエラ国民は貧しい」(本書240頁)という状態はその後も続き、20年後のウーゴ・チャベスの大統領の選挙による勝利の根本的な要因となった。1999年から2020年現在まで続いている、チャベスマドゥロの左派政権は経済政策の失敗により惨状を作り出してしまったが、少なくとも反チャベス派、反マドゥロ派が言うように、チャベス登場以前のベネズエラが何もかも上手くいっていたかのような物言いには、上記引用部のように大多数の民衆の政治的・経済的・社会的な抑圧が存在していたため、特に根拠がないことを指摘しておく。

 

また、私が本書を手に取った理由は1830年の独立(大コロンビア共和国からの分離)から、いわゆるデモクラシアが始まる1958年までのベネズエラ史の姿が、私の中では極めて曖昧模糊としていたのでその点を埋めたかったからだったのだが、ベネズエラ出身の本書の著者もその点については日本の私と大きく変わることはなかったらしく、1830~1935年を停滞した19世紀とまとめることが印象深い構成であった。

 

“ 1830年から1935年にいたる間の歴史は、政治、経済、文化、社会のどの面においてもよく似通っていた。この起案は、通常の年代分類とは離れて、このわが国の歴史が置かれていた世界で起っていたことと係わりなく、ベネズエラの19世紀として単一の時の流れと見なすことができる。すでにあるべき姿を整えている現在の歴史的なベネズエラの国家、共和国や国民は、近代史の範囲内にあるはずのこの時期に形づくられたのである。しかし、実際には、ホセ・アントニオ・パエスの政権掌握からフアン・ビセンテ・ゴメスの死去までの105年間には近代性というものが見られない。国家として、国民として生き残りを賭けた広範で苛酷な闘争が繰り広げられただけであった。2度にわたり亡国の淵に立たされた。連邦戦争(Guerra Federal, 1859~63)によって自壊作用が頂点に達した時には、物理的な力も文化的な力(アイデンティティー)も枯れ果て、あわや全面的な混乱状態に陥るところであった。また、1890年と1910年の間にもグスマン政権にならったゴメス独裁政権の誕生直前に同様なことが起こり、あらゆる形の惨状が国中に広がった。なぜ1936年に歴史が独立の正の部分に結びつくことになったのかは歴史上の謎である。恐らく民衆文化の統合の深い根源、古くからの混血およびスペイン語の結びつきが十分に堅固なものであったからであろう。また、恐らく、英雄信仰、ボリーバルの影、建国の英雄達の思い出、昔風の愛国心等が公共の広場、数少なかった学校、模範的な人びとの声、民衆の伝統等において歴史的なわずかな力を呼び集めたのであろう。” (本書155頁より引用)

 

 

シプリアーノ・カストロ将軍による独裁(1899年~1908年)は「維新革命」(Revolución Restauradora)、フアン・ビセンテ・ゴメス将軍による独裁は「復興」(Rehabilitación)と呼ばれているが(本書171頁)、20世紀前半を特徴付けた軍人独裁者の支配はいずれも過去を志向しながらも、1830年に制定されたベネズエラ憲法の中で、法文のうえでは定められていた議会制民主主義の尊重などは問題にならなかったのである(本書216頁)。

 

しかしながら、そのようなカウディーリョ達には、確かな民衆の支持が存在した。本書に引用されている、フアン・ビセンテ・ゴメスに対する評価を重引することにする。

 

“ カウディーリョや、独裁者と化したカウディーリョに対する民衆の支持について調査が開始され、否定的な面が見直され始めている。ガリェーゴスは1931年までベネズエラに居住し、知的活動に従事していた。そして、その頃からやっと独裁制と対決するようになった。しかし私は、フランシスコ・エレーラ・ルーケの次の言明に触れてみたい。「フアン・ビセンテ・ゴメスは、どんなあだ名をつけられてもおかしくないような原始的な怪物である。しかしながら、そういうことは一部の文化的階層に属する人達の見方であって、多くのブルジョアジーをも含むベネズエラ人の大多数が果たして同じ意見であったのだろうか。私はこの問題に関して調査したが、これをきっぱりと否定することができる。ベネズエラ国民はそういった非難めいた気持ちは持っていなかったし、その用心深い性質や体制への順応性により、心の中では独裁者が国家に対して行なった偉大な貢献、たとえば、100年もの間ベネズエラを荒廃させてきた戦争を押さえたこと等に満足しており、恐らくは非難を口にしなかったであろう」。”(本書215頁より引用)

 

 

民主主義を掲げて独裁者と独裁者を支持する民衆のあり方を非難するのか、それとも独裁者が一定の民衆の利益(それが内戦を阻止し平和を維持するという消極的なものであっても)を実現していることを理由にして独裁者と民衆の側につくかは、知識人やインテリゲンチアにとっては古くて新しい課題だが、「労働者階級」や「労働者階級の利益の実現」を口にする人々には、是非この課題への答えを持って欲しいと、私は考えるものである。私自身は「労働者階級の利益の実現」を政治行動の原動力に掲げるならば、独裁者や保守的な体制当局者は、それを自らの政治課題として先取りすることで、左翼人士の政治活動の根拠を奪い取ろうとする、という答えを持っている。55年体制下の自民党の高度経済成長政策のように。だから、実は階級を問題にする限り、「労働者階級の利益の実現」という課題は、実は保守権力や独裁制と相性が良い。もしも民主主義を問題にしたのならば、重視しなければならないのは「労働者階級の利益の実現」ではなく、「民衆(農民や労働者)の市民としての成熟」である。もちろん、「労働者階級の利益の実現」を合言葉にスターリン肖像画を掲げているロシアの労働者階級や毛沢東肖像画を掲げている中国の民衆を、そして彼らの支持する政治党派を非難するつもりはない。ただ、もし、ある人が「労働者階級の利益の実現」を合言葉に資本家階級を非難するのならば、その人が現実の労働者がスターリン毛沢東やその他の独裁者の肖像画を掲げて各国の資本家階級を批判するのを目にした際に、それを非難すべきような言動は取らないで欲しい。もしそうしたいのならば、資本家や資本主義を批判する際の主語を、「労働者」ではなく、「インテリゲンチア」や「市民」や「知識人」とすべきである。もっと言えば儒教の士大夫・志士仁人であるべきだということである。

 

なお、「第6部現代史1936~1978年」の章では、1959年に民主行動党(AD)より大統領に就任し、ベネズエラ史上初の本格的な文民大統領となったロムロ・ベタンクールをホセ・アントニオ・パエスアントニオ・グスマン・ブランコ、フアン・ビセンテ・ゴメスに続く、独立後のベネズエラ史の「もっとも突出したカウディーリョであると考えられる」(223頁より引用)と述べているが、「ベネデモクラシア」の立役者に対するこの評価はとても興味深いものである。恐らく、著者が今日のベネズエラの政治状況を見ていたならば、ウーゴ・チャベスを5人目のカウディーリョに加えていたであろう。また、この時代、1960年代のベネズエラ共産党がダグラス・ブラーボの指導下でキューバ革命の直接の影響を受けて武装闘争路線を進み、挫折したことについては触れられていない。共産ゲリラの武装闘争について触れるのは時期尚早だと考えていたのか、それとも体制に影響は及ぼさなかったと判断したのか、どちらなのかは不明だけれども、とにかく記述がなされていない。

 

最後になるが、本書では、「ベネズエラ」(Venezuela)の語源として、通常広く流布されているイタリアのヴェネツィアに由来する「小ベネチア」(Venezziola)が転訛したものという説ではなく、先住民の集落の名前「ベネシウエラ」(Veneçiuela)起源説が紹介されている。Wikipediaにも両論が併記されているが(https://es.wikipedia.org/wiki/Etimolog%C3%ADa_de_Venezuela)、私としてはこの先住民集落起源説を推したい。

 

“ 1499年の航海に際し、2人の水先案内人がオヘーダに同行しているが、彼らは後世に名を残すこととなる。それが、フアン・デ・ラ・コサとアメリゴ・ヴェスプッチであった。翌1500年、フアン・デ・ラ・コサは世界平面球図を作成したが、その中には南アメリカの海岸線が描かれていた。この地図は、コロンの航海と彼に続く発見者達、なかでもオヘーダによるベネズエラ沿岸の探索によって得られた地理上の知識の集大成ともいうべきものであった。このフアン・デ・ラ・コサの地図の中で、はじめてベネズエラという地名が湾の上に書き込まれたのである。これが、ベネズエラ地方を構成する領域のある地点に対してその名が用いられている、最初の確実な文書である。

 1519年、マルティン・フェルナンデス・デ・エンシーソがセビーリャで、『地理学大全』という論文を出版した。その書のインディアスに関する章の中で、彼はコキバコアとベラ岬の間の一帯について、「サン・ロマン岬からコキバコア岬までの間には、三角形を成すように3つの島が存在している。また、この2つの岬の間には四角形をした湾があるが、コキバコア岬の周辺でこの湾から内陸にかけて4レグアほどの小さな入江が形成されている。この入江の奥、陸との境目に、頂上が平な大きな岩山がそびえ立つが、その頂上にインディオの集落が存在している。この集落はベネシウエラと呼ばれている。その緯度は北緯10度である。このベネシウエラ湾とコキバコア岬の間で水流は西に湾曲している」という一節を書き残している。この著者は、1501年以来この地方を知っており、1508年からサント・ドミンゴに居住していた人物で、その彼がベネズエラ湾の名を聞き取り、そ(←75頁76頁→)の著書に記したのである。その時以来、この名はわが国の領海に刻まれることとなった。具体的には、1528年から1810年まで、議論の余地なくスペイン国家によって境界が画定された植民地の一部として存在したこのベネズエラ地方に、この名が与えられた。そしてベネズエラ地方は法的にも事実上もスペイン国家に帰属していたのである。”(本書75-76頁より引用)

 

【読書録】猪木正道、勝田吉太郎編『世界の名著42――プルードン バクーニン クロポトキン』中央公論社、1967年11月20日初版発行。

猪木正道勝田吉太郎編『世界の名著42――プルードン バクーニン クロポトキン中央公論社、1967年11月20日初版発行。

 

近代アナキズムの主導者の作品を集めたアンソロジー。編集に当たった猪木正道氏、勝田吉太郎氏は共に保守派の学者だが、猪木正道氏が1930年代の軍国主義が世を覆い、日本共産党が転向によって壊滅していた若き日に、ヴェーラ・フィグネルとバクーニンを読むことで、内面の自立性を確保したという思い出話から本書は始まる。単なるアナキズムの選集であることを超え、戦時下の日本の現実に実はアナキズムの精神が生きていたことを知ることができるこの部分だけでもぜひ読んだ方が良い。

 

また、付録の月報の鼎談「ロシア革命アナーキズム」にて、編集に当たった猪木正道氏、勝田吉太郎氏が、明治期からの社会主義者(ボル派)である荒畑寒村氏と共に日本の革命運動について話し合っているのが非常に面白いので、こちらも是非読むべし。

 

“ 国家権力の、いわば可視的な暴政とは異なる意味での、社会の不可視的な暴の可能性について透徹した洞察力を示したのは、バクーニンであった。彼は、人間に対する国家の「公式の、したがって暴力的な権威」と、「非公式な、そして自然な社会的影響」とを区別した。そして彼は、社会の圧力が国家権力よりもいっそう強大であり、根強いものであることを看過しなかった。「社会的圧制は、国家権力を特徴づける、合法化された公式の暴政、あの権柄ずくの暴力といった性格は示さない。それはまた、違反すれば刑罰を科するという恐怖によって、人々を服従させる法律の形でたち現れるのでもない。その作用は、国家権力のそれと比べて、いっそうもの柔らかであり、より婉曲であり、また目立たないものではあるが、それだけにいっそう強力なのだ」(本書二五二~二五三ページ)(引用者註:この引用部はバクーニンの「神と国家」からの引用となる)。ここからバクーニンが導き出す結論は、社会的圧制に対する人間の反逆が、国家に対する反逆よりもはるかに困難であり、ほとんど不可能に近い、ということであった。

 未来の無権力社会――「自由人の社会」がひとたび実現をみた暁には、国家とその権威主義的な法律の体系は消滅するはずであった。しかしそのかわりに、社会的世論の指導が登場するであろう。ところで世論が規制力を発揮するのは、比較的小規模な共同社会であろう。事実、大半のアナーキストは、明示的にか、暗黙のうちにか、小規模な共同体から成立する世界を夢みるのである。このような共同体においては、各人は万人の直接の監視下にたち、その行動はすみずみまで彼らの意見によって規制されることになるであろう。しかしながら、こうした小規模な共同体において、隣人の目や世論が法律に代わる役割を果たす時、それは想像しうるかぎりの、最悪かつ戦慄的な暴政を惹起する可能性が残されているのである。なぜならば、それはあらゆる合法的手続きを欠如した社会的統制であり、不確定かつ曖昧な暴政となるからである。バクーニンがみずから呼んだ、この「しばしば圧倒的かつ致命的な社会の圧制」に対して、アナーキストたちはどのような処方箋を用意しているのであろうか。国家という可視的な暴君の手から個人を解放した後、その個人を、アナーキストは社会という不可視的な、しかしよりいっそう苛酷な暴君の手中へと引き渡してしまう(←46頁47頁→)のではないであろうか。この疑問はアナーキストの社会哲学において解きえない謎のまま残っている。”

勝田吉太郎「神と国家への反逆――バクーニン猪木正道勝田吉太郎アナーキズム思想とその現代的意義」『世界の名著42――プルードン バクーニン クロポトキン猪木正道勝田吉太郎編、中央公論社、1967年11月20日初版発行、46-47頁より引用)

 

 

編者二人による総論の内、バクーニンの思想を解説した勝田吉太郎氏の執筆部であるこの部分は本書でとりわけ重要な点である。アナキスト共産主義者の理想とする無法・無国家社会においては世論が社会を支配し、「こうした小規模な共同体において、隣人の目や世論が法律に代わる役割を果たす時、それは想像しうるかぎりの、最悪かつ戦慄的な暴政を惹起する可能性が残されているのである。なぜならば、それはあらゆる合法的手続きを欠如した社会的統制であり、不確定かつ曖昧な暴政となるからである。」(本書46頁)という重要な指摘がなされている。私は本書でまさに引用されているこのバクーニンの「神と国家」を読み、強い感銘を受けて今まで興味を持つに止めておいたアナキズムの団体の門を叩くことにしたのだが、そうでありながらも同時にこの勝田氏の指摘も尤もだと思うために、私はアナキズムの究極的な目的のある部分には賛同できないのである。というのは、勝田氏はここでは述べていないが、仮にアナキズム共産主義の目標が達成され、国家がなくなった後に残る社会の成員が、特定の少数派――たとえば障害者やLGBT少数民族、少数宗教信徒――に憎悪(ヘイト)を抱いていた場合、そこに国家の法的な救済制度が欠如していれば、その社会は容易に少数派にとって地獄になるであろう。何もこれは頭の体操として述べているのではなく、ヨーロッパやロシアの反ユダヤ暴動(ポグロム)が民衆から自然発生的に生じたことを思い起こして欲しい。国家の権力的な部分(とりわけ軍事力)を廃絶するという点でアナキズムの理想は現在も生きるが、国家が法律によって人々を保護するという点まで含めて完全に国家を廃絶するのが正しいとは思えないのである。いずれこの立場を黒色社会民主主義として文章にまとめる予定だが、勝田氏のこの指摘は頭に止め置かれたい。では、私がアナキズムに反対なのかというとそんなことはない。本書に収録されている三人のアナキストの精神といい、解説にて触れられている幸徳秋水大杉栄といった日本のアナキストの実践活動といい、アナキズムには燃えるような熱情と春風のような爽やかさが満ち溢れている。そして、幸徳秋水大杉栄がそうしたことで非業の死を遂げたように、究極的な理想としての無法・無国家社会を基準にしないと批判し得ない、現実の国家悪や社会悪というものはいつの時代にもどの国にも存在する。私はアナキズムは、無法・無国家社会を自らの参照軸にした上で行われる過程であり、実践であると考える。だから、究極的な理想である無法・無国家社会が実現するかといったことは余り思い詰めて考える必要はないし、そのための理論の体系を築き上げる必要もないと思っている。この点について、「世界で一番貧しい大統領」こと、南米ウルグアイホセ・ムヒカ前大統領は、大統領でありながらアナキストであるのは難しくないのかと尋ねるインタビューに答えてこのように述べている。

 

“「無政府主義(引用者註:アナキズムを日本語ではこのように訳する)について話しましょう。無政府主義者でありながら国家元首でもあるのは難しくはないですか?あまり理解してもらえないのではないでしょうか」

「それは、瞬間的な、歴史的な時間の問題だ。私は、昔から無政府主義者だ。一番効果的な国家改革は、国家をなくすことだ。問題は、私たち人間が国家なしでは生きられないということだ。これは私たちの短所の表れだ。人類の歴史の九割には、国家は存在しなかったのだがね。国家が存在するということは、社会に階級が存在しているということの証明だ。一部の人間が他の人間を支配するようになると登場する。防衛大臣や内務大臣、外務大臣が任命されると政府ができる。政府が最初にやるのが、まずこういうポジションを決めて、国民をコントロールすることだ。経済大臣でも教育大臣でもないんだ」

「あなたも政府にやられたということですか?」

「ああ。だが無政府主義の共和国は、戦車の下敷きになって滅びたのであって(引用者註:スペイン内戦の際にアナキストが入閣していたスペイン共和国を指しているのだと思われる)、ソビエト連邦のように錆びついていったわけじゃない。だから今も無政府主義にはあかりが灯ったままなのさ」”

(アンドレス・ダンサ、エルネスト・トゥルボヴィッツ/大橋美帆訳『ホセ・ムヒカ――世界でいちばん貧しい大統領』KADOKAWA〈角川文庫〉、2016年3月25日初版発行、40-126頁より引用)

 

 

"『社会主義』という言葉はかなり複雑だ。単純に言うと、人間にとって最も基本的な権利を獲得することだ。人間同士の基本的な平等のために闘うことだ。政治の世界で起こっていることはとても重要なことのように見える。だが、シンプルにわかりやすく説明できないことは、実はそれほど重要ではないのだ。"

(アンドレス・ダンサ、エルネスト・トゥルボヴィッツ/大橋美帆訳『ホセ・ムヒカ――世界でいちばん貧しい大統領』KADOKAWA〈角川文庫〉、2016年3月25日初版発行、40-41頁より引用)

 

 

私が考えるアナキズムとは、理想とする無法・無国家社会と現在自分が現実に生きる社会を比較した上で、現在の自分の生きる社会をより人間的なものに変えていく実践と過程であり、だからこそホセ・ムヒカアナキストでありながらも国家権力の指導者=大統領であることは何らおかしいことでも矛盾でもない。大統領になって国家権力を掌握することでアナキズムが理想とする人間らしい自由な社会に近付けるのならば、そうすることがアナキストの務めであると私は考える。もちろん、アナキストが10人いれば10通りのアナキズムがあるので、これは私のアナキズムにすぎない。私は黒色社会民主主義者/社民アナキストという形でアナキストだが、「反体制」、「自由な生き方」、「助け合い」を大事にするということを緩やかな共通点として、他にも多くのアナキズムの形が存在する。もしも本書に興味を持たれた方は、本書に収録された示唆に富む素晴らしい解説と、プルードンバクーニンクロポトキンという古典アナキストの作品を通して、自分なりのアナキズムの形成に役立てて欲しい。

 

 

プルードン/渡辺一訳「十九世紀における革命の一般理念」(原著1851年、本書71-236頁)

 

”理念はその対立者によって明確化される。革命が明確化されるのは、まさに反動によってなのだ。”(本書94-95頁より引用)

 

“……社会そのものに修正を加えようとすることなどは、問題外なのだ。われわれは社会を、独自の生命を付与された、より上位の存在として考えなければならない。したがって、社会の自由自在な再構成というような考え方は、すべてわれわれにとっては問題外なのである。”(本書119頁より引用)

 

 

プルードンは、国家よりも社会に反対する方が難しいと認めながらもなお社会への反乱を説く「神と国家」(本書237-282頁に採録)のバクーニンとは異なり、少なくとも本書で伺える限りでは、社会への反乱を最初から諦めている。

 

・本書152-173頁にてプルードンはルソーの『社会契約論』を、”ルソーは、圧制を、彼が言うように、人民から由来せしめることによって、それを再組織し、品位あるものにしようとする”(本書164頁より引用)、”以上のような仕方で、長いあいだ、自分の読者たちを愚弄したのちに、また社会契約という欺瞞的な表題のもとに、資本主義的・重商主義的圧制の法典を作成したのちに、このジュネーヴのいかさま師(ルソー)は、プロレタリアートの必要性、労働者の従属、独裁制および宗教裁判に賛成の結論を下したのである。”(本書166頁より引用)と左から猛批判する。アナキズムの真骨頂なのでぜひご一読いただきたい。

 

プルードンフランス革命ジャコバン派の人物の中で、ダントンを高く評価し(本書210頁)、ロベスピエールには批判的である(本書192-193頁)。この傾向はバクーニン(本書362頁)にも共通しており、フランスのマルクス主義者の間でその後ロベスピエールが高く評価されていた事実と照らし合わされると興味深い。アナキストはダントンを、マルクス主義者はロベスピエールを好む傾向があると一般的にいえるのではないか。逆もまた然りである。

 

 

“ ロベスピエールは、人民に対して公会の尊重を説くことによって、人民を公共の場から遠ざけ、かくてテルミドールの反動を準備した人々の一人であった。”(本書193頁より引用)

 

“ だがついに、委員会の独裁を終わらせることの必要性について語っていたダントンが、最初に革命裁判所に引き渡され、その穏和主義を非難され、そして処刑台へ送られた。不幸な人よ!おそらく彼は、デムラン、エロ=セシェル、ラクロワとともに、九三年の憲法を信じ、あるいは少なくともその憲法の実験をしようと望んでいた唯一の人であった。そして彼は断頭台の露と消えた。熟練者たちの目には、直接政府は完全なペテンであった。ロベスピエールは、この秘密が探り出されないように大いに意を用いた。ルソーの几帳面な弟子であるロベスピエールは、ルイ・ブランが最近にそうしたように、明確に、精力的に、つねに間接政府の支持を表明していた。ちなみに、間接政府とは、一八一四年および一八三〇年の政府、すなわち代議的政府にほかならないのである。”(本書210頁より引用)

 

“ もしも神がないならば、それを創り出す必要がある、というヴォルテールの言葉に従って、彼ルソーは、自然神教の抽象的で不毛な神、あの最高存在を創作したのである。そして、ほかならぬこの最高存在と、最高存在の命じる偽善的な徳の名において、ロベスピエールはエベール派を手はじめに、次いで革命の天才ダントンをギロチンにかけたのだ。ダントンを殺すことによって、ロベスピエールはその実、共和国を血祭りにあげたのであり、さらにまた、今や必然となったボナパルト一世の独裁の勝利を整えたのである。”

バクーニン勝田吉太郎訳「鞭のドイツ帝国と社会革命」、本書362頁より引用)

 

 

バクーニン勝田吉太郎訳「神と国家」(原著1871年、本書237-282頁)

 

本書で、というよりも私がこれまでに読んだアナキストの文献で、最も強い感銘を受けたもの。上述した通り、2020年の夏の終わり頃にこの論文を読んだことをきっかけに、それまで漠然とした興味と憧れを持つに止めていたアナキズムにもっと触れてみたいと思い、アナキズム団体の門を叩くことを決めたのであった。その意味でこのバクーニンの論文は私をアナキストにした。

 

 

“……人間はゴリラの状態を抜け出して、やっとのことで自己の人間性に目覚め、自由を実現するところまできたのだ。人間は当初、この自覚も自由も持つことができず、獰猛な獣ないしは奴隷の状態で生まれ出る。人間は社会のふところに抱かれてのみ、はじめて人間らしくなり、徐々に自由になっていく。そしてその社会は、彼の思想、言葉、意志が形成されるはるか以前に厳存しているのだ。ところで人間は、みずからを人間として解放するためには、この社会の過去から現在にいたる全成員の集団的努力によるほかなしえないのだ。ここにおいて社会は、彼の人間的生存の自然な出発点となり、またその基盤となる。

 ここから次のように結論できよう。すなわち、人間は彼をとりまくいっさいの人々の尽力によって補完される場合にのみ、また社会の労働や社会の集団的な力のおかげを受けてはじめて、自分の個人的自由も人格も実現することができたのである。また社会の枠外に独りたたずむとき、人間は地上に生息する野獣のなかでも、おそらくはいつももっとも愚昧で、みじめな存在にすぎないのである。”(本書247頁より引用)

 

“ 人間が自分自身の自然の軛から解放されるのは、つまり自分自身の肉体的本能や衝動をしだいに発達向上する自己の知性の統制に服従させるのは、教育と訓練のみによって可能となるにすぎない。ところでこの教育といい、訓練といい、いずれもすぐれてもっぱら社会的な事がらなのだ。社会の外にあるかぎり、人間は永久に野獣ないし聖人のままにとどまるであろう。しかし聖人といい野獣というのも、結局はほとんど同じである。

 最後に孤立した人間は、自分の自由を自覚することはできない。人間にとって自由であるということは、他の人々、彼らをとりまくすべての人によって、自由な人間として尊重され、認められ、またそう取り扱われることを意味する。したがって、自由とはけっして孤立ではなく相互作用を、排除ではなくして結合を意味するのだ。さらに、各人の自由は、あらゆる自由な人間たち、兄弟たち、平等者たちの意識のなかで、自己の人間性や人間としての権利が反映されることを意味するものにほかならないのである。

 私は、他の人々と向き合い、他の人々と交わっているときだけしか、自分自身が自由であると感じることはできないし、またそう言うこともできないのだ。下等動物を前にして、私は自由でもないし、人間でもない。なぜなら、この動物は私の人間性を理解できないし、したがってまた、これを承認することなど思いもよらないからだ。私が私自身自由であり、人間であるのは、私が私をとりまくあらゆる人々の自由と人間性とを認めるかぎりにおいてにすぎない。彼らの人間性を尊重することによってはじめて、私も自分の人間性を尊重できるのだ。自分の囚人を食う食人種は、囚人を人間ではなく野獣として扱うのであるから、彼自身も人間ではなく野獣である。奴隷の主人も人間ではなく、単に主人であるにすぎない。なぜといって、奴隷の人間性を無視する以上、彼は自分自身の人間性をも無視しているからだ。

 古代社会全体は、これについての好個の例証を与えている。たとえば、ギリシア人やローマ人は、彼ら自身、人間として自由であるなどとは考えてもみなかったし、お互いを人権の面で平等の権利を持つものだと見なすこ(←249頁250頁→)とはなかった。彼らはギリシア人として、あるいはローマ人として特権者だと信じていたが、それも、彼らが自分自身の祖国のうちにある場合にすぎず、また彼らの国が、その民族神の特別の庇護を得て独立を保持し、征服などはされず、逆に他国を征服し続けるかぎりにおいてそう信じていたのであった。それゆえに、うち破られて彼ら自身奴隷の身分に転落したときにも、彼らは抵抗する権利や義務があろうなどとは、夢にも考えなかったし、それを不思議にも思わなかったのだ。”(本書249-250頁より引用)

 

“ 私が真に自由であるのは、私をとりまく万人が、男であれ女であれ、同等に自由である場合にすぎない。他人の自由とは、私の自由の制限であったり、否定であったりするどころか、これとは逆に、私の自由の必要条件であり、その確証なのだ。私自身が真に自由になれるかどうかは、ひとえに他の人々の自由にかかっているのであり、したがってまた、私の周囲の自由な人間の数が多くなればなるほど、そして彼らの自由が深くかつ広くなればなるほど、私の自由もよりいっそう拡大され、より深く、より十分なものとなるのだ。”(本書251頁より引用)

 

 

自由主義者が自らの理論的出発点として「個人の自由」を主張するのに対し、バクーニンは社会があってこそ個人は自由になれるのだと説く。この点こそが、同じく「自由」を尊重しつつも、アナキスト自由主義者が決定的に異なる点ではないか。

 

“……しかし、ここで十分にわきまえておかなければならないことがある。この点を理解するため、まずはじめに次のような区別をしなければならない。すなわち、官権的な、したがって国家に組織された社会の圧制的な権威と、他方、非官権的社会、自然的な社会が、その全成長に及ぼす自然な影響力や作用とのあいだの厳密な区別がこれである。

 社会が及ぼすこうした自然な影響力に対して個人が反逆することは、官憲的に組織された社会、つまり国家に対して反逆するよりも、はるかに難事である。もっとも、こうした反逆も国家に対するそれと同様、しばしば不可避となってくるのではあるが。多くの場合に壊滅的な災厄を与えるこの社会的圧制は、国家権力を特徴づける、(←252頁253頁→)合法化された公式の暴政、あの権柄ずくの暴力といった性格は示さない。

 それはまた、違反すれば刑罰を科するという恐怖によって、人々を服従させる法律の形でたち現われるのでもない。その作用は、国家権力のそれと比べて、いっそうもの柔らかであり、より婉曲であり、また目立たないものではあるが、それだけにいっそう強力なのだ。それは人間を習慣や風俗、多数の情緒、偏見、物質生活および知性や感情生活の習慣、さらには、いわゆる世論によって支配するのだ。それは、人間が生まれ落ちたときからずっと彼をとらえ、彼を貫き、浸透し、その個人的存在の基礎自体を形成している。したがって各人は、多かれ少なかれ自分自身の意に反して、社会の一種の共犯者なのであり、しかもたいていの場合、自分ではそれと気づいていないありさまである。

ここから、次のように結論できよう。すなわち、自分のうえに及ぼされる、社会のこうした自然的影響力に反逆するために、人間は、少なくとも部分的には、自分自身に対して反逆しなければならないのだ。それというのも、人間は自分自身の物質的、知的ないし道徳的のいっさいの傾向性や希求もろとも、この社会によって生み出されたものにほかならないからである。人間に及ぼす、社会の計り知れないほど巨大な力は、ここにあるのだ。”(本書252-253頁より引用)

 

 

人間は社会の中でしか自由になれない、孤立した個人は決して自由ではないと説くバクーニンは、国家に反逆するよりも社会に反逆する方が難しいと考えている。バクーニンが説明するように、大逆事件のように反対者には刑罰を以て臨む国家に対しては、人はその悪を感じることは容易い。しかし、反国家的な人物であっても、「習慣や風俗、多数の情緒、偏見、物質生活および知性や感情生活の習慣、さらには、いわゆる世論によって支配する」社会、自らを生み出した社会に対して反逆するのは至難である。既に引用した勝田吉太郎の解説、「神と国家への反逆――バクーニン」でもこの部分に特別の注目が払われているように、私もこの部分が本書で、否、バクーニンの思想体系での中で最も重要な部分であると考えている。バクーニンが素晴らしいのは、バクーニンはこの困難、社会に対して反逆することの絶望的なまでの困難を認識しつつ、それでも社会への反逆を説く姿である。それも、社会に対して反逆することは、社会によって生み出された自分自身に対する反逆だと知り、その上で反逆を説く姿である。藤田省三は1990年頃に、天皇制国家よりも実は天皇制社会の方が日本の問題なのだということを書いていた通り、天皇制を問題にするということは、実は国家権力を問題にすることではなく、国学や水戸学的な尊王論の中に自分自身の絵利益を感じて天皇制を支えている日本の民衆の在り方と、民衆が作り出す社会を問題にするということなのであり、それはこの社会から生まれた自分自身を問題にするということでもある。バクーニンが問題にしていたのは日本の天皇制社会ではなく、ヨーロッパのキリスト教社会だけれども、バクーニンほどこのような点を明確に認識していたアナキストは、いや、マルクス主義者も含めた社会主義者は、恐らく存在しないのではなかろうか。

 

“ しかし、もう一度繰り返して言えば、個人の社会に対する反逆は、国家に対する反逆と比べて、はるかに困難なことなのである。国家は歴史的、一時的な制度であり、社会の過渡的な一形態であり、この点では、その兄貴分にあたる教会と同様なのだ。他方、国家は、社会が持っているあの宿命的で不変的な性質を帯びてはいないのである。社会はいっさいの人間性発達に先行しており、しかも自然的な掟や作用や現象といった力を備えることによって、人間生存の基盤自体を構成している。(本書254頁より引用)”

 

 

歴史上、国家の支配者が変わろうとも、民衆と社会のあり方を変えようとしなかった支配者が後に続いた場合、根本的な部分では何一つ世の中が変わらなかったという事例には事欠かない。

 

“ ともあれ、これらの観念は、特権階級の自覚された利益に合致するものとして承認されているだけではない。大衆の一般的な無知と、幾世紀にもわたって根づいた牢固たる愚昧とによっても承認されているのだ。そのゆえに、今日となっては、これらの観念に対して、公然と、平易な言葉で異議を唱えるならば、人民大衆のなかの相当部分の反撃を招き、また、ブルジョワ的偽善の側から石を投げつけられる、といった危険を覚悟しなければならない。”(本書259頁より引用)

 

“ したがって、驚くべきことは、社会の集団的意識を表現するこれらの観念が、大衆の上にふるう、あの強力な(←259頁260頁→)作用ではなく、むしろ反対に、この大衆のうちに、これらの観念に反抗して闘う思考力と意志と勇気とを持つ個個の人間がいるということなのだ。”(本書259-260頁より引用)

 

バクーニンは社会に対して反逆することが、常識の世界に住む人民大衆と特権階級の偽善の双方から反撃を受けることを知っている。知っていてなお、社会を正しい姿に変えるため闘うことを説き、そのような個人を讃えるのである。かつて「太宰治高村光太郎神山茂夫:76年前の日米開戦の日の涙を振り返って」(https://bemyuh.hatenablog.com/entry/2017/12/08/220256

)という文章を書いた時に、神山茂夫がほぼ完全に人民から孤立しながら、それでも反戦と革命の運動を続けていたことに、書きながら驚嘆したが、神山茂夫も元々はアナキストであり、バクーニンの弟子であった。だからこそ、あの困難な時期に、あれだけのことができたのだろうと、本書を読んで改めて思い至った次第である。

 

ひょっとしたら、アナーキストの使命は、国家権力との戦いではなく(それを実現したマルクス主義が、その後どうなったかは周知の通りである)、社会自体との戦いなのかもしれない。これは榎戸洋司氏のアニメ作品、『忘却の旋律』(2004年)のテーマでもあった。

 

クロポトキン勝田吉太郎訳「近代科学とアナーキズム」(原著1901年、本書437-555頁)

クロポトキンプルードンバクーニンと比較した際に、「科学」に信頼を置きすぎている印象があり、その点でライバルだったマルクス主義の接近しているような印象を受けた。そのため、アナキズムの持つ思想的体質を語るという点についてはプルードンバクーニンほどの印象を受けなかったが、それでも20世紀の社会主義が失敗した点についての認識を先取っていた感がある。その部分を引用する。

 

“ さらにまた、われわれは、生存手段と生産手段とを現今のブルジョワ国家の手中に引き渡すことのないように留意しなければならない。全ヨーロッパの社会主義諸政党は、今日あるがままのブルジョワ国家による、鉄道、塩生産、鉄鉱および石炭鉱〔スイスでは〕銀行、アルコール専売の国有化を要求している。だが、われわれは、ブルジョワ国家による、こうした共同財産の取得のうちに、勤労者、生産者および消費者の手中への国富の引き渡しを妨げる、最大の障害物の一つを見いだすのだ。

 それは、われわれの見地からすると、資本家を強化し、反逆した労働者に対する闘いに向けられる、資本家の力を増大させる手段なのだ。このことを、資本家のなかでも賢明な人士は、ちゃんと見抜いているのである。一例をあげると、彼らの鉄道資本は、ひとたび鉄道が国有財産となり、国家の手で軍隊式に運営されると、ずっと安全なものとなるのだ。社会現象を、その総体において眺めることに習熟した人々にとっては、次の点に関して一点の疑いもないであろう。これを社会的公理とみなして表現すると、「望ましい変革の方向へ一歩を踏み出さずして、社会変革を準備することはできない。この方向へ歩まないならば、目的地から離れ去ることになろう」。

 そして実際のところ、もしも、生産と交換とを、議会、閣僚、現今の官僚たちの手に引き渡すことから着手するならば、それは、生産者と消費者がみずから生産の主人となる時点から離れ去ることを意味するであろう。国家が大資本の従者である以上、今日、これらの連中は、当然に大資本の道具なのだ。”(本書524頁より引用)

 

 

アルゼンチンのペロン政権、第二次世界大戦後のイギリスの労働党政権、80年代フランスの社会党ミッテラン政権、2000年代のベネズエラチャベス政権、これら諸国は国家の社会主義国化に至らない範囲で、生産手段の国有化=鉄道や企業の国有化を実現したが、結果はどこも惨憺たるものであった。特にベネズエラチャベス政権が国有化政策の果てに経済が崩壊し、多くの人々の生活を直撃していることを考えるに、クロポトキンには学ばなければならない。クロポトキンが見通せなかったのは、ソ連のようなブルジョワ国家ではない国家であっても、国有化政策があまり良い結果をもたらさなかった点である。この点こそが、社会主義の経済思想の諸流派が真剣に再考しなければならない点だと私は考えている。国有化政策よりはまだトニー・ブレアアンソニー・ギデンズ流の「第三の道」の方がよっぽどマシなのではないだろうか。

 

 

“……今日、国家が、その官僚のあいだに分配している社会的機能を果たすべき新しい組織形態を、人間は見つけ出す必要がある。このことがなされないかぎり、何事もなしえないであろう。アナーキズムが努力するのは、こうした新しい社会生活形態の開花のためである。”(本書525頁より引用)

 

アナキズムの使命について、クロポトキンは平易に語った。恐らく、人間の現状ではまだ国家は分配と治安維持のために必要であろう。しかし、いつか環境破壊や戦争や資本主義による貧富の格差に対して、有効な手段を持てない現状の国家に代替する組織が見つかるだろうし、見つけなければならないだろう。一人のアナキストとして、今後微力を尽くそう。

【読書録】勝田吉太郎『人類の知的遺産49――バクーニン』講談社、1979年12月10日第1刷発行。

勝田吉太郎『人類の知的遺産49――バクーニン講談社、1979年12月10日第1刷発行。

 

保守派の思想史家によるバクーニンの研究書。1968年に白井厚氏がウドコックの『アナキズム』(原著1962年)を翻訳刊行した際には、まだ日本にはバクーニンの専門の研究書は存在しなかったらしいので、1979年に刊行された本書は恐らく日本初のアカデミックなバクーニン研究の書となる。

 

  1. バクーニンの思想
  2. バクーニンの生涯
  3. バクーニンの著作
  4. バクーニンと現代

 

の四章から成り、思想と伝記的事実を追うことができる正統派の研究書となっている。内容としては、同著者による『アナーキスト――ロシヤ革命の先駆』(筑摩書房、1966年)や猪木正道勝田吉太郎編『世界の名著42――プルードン バクーニン クロポトキン』(中央公論社、1967年)と重複する点も多いが、著者のバクーニンへの特別な思い入れを感じることができる上に、1979年の時点での最新の伝記研究と、主要著作を概観できるので、アナキズムに興味のある人なら是非読むべき一冊となっている。例えば、伝記研究に関して言えば、それまで多くの論者がバクーニンの作品としていた『革命家の教理問答(カテキズム)』が、実はバクーニンによるものではなくネチャーエフ単独によるものであったことが、本書186-191頁にて述べられている。も勝田吉太郎氏は、ニヒリズムと破壊に満ちた『革命家の教理問答(カテキズム)』について、この文書の内容を知りながらネチャーエフを支援していた時期があった以上はバクーニンも「道徳的な連帯責任を免れることはできないのではなかろうか」(本書187-188頁より引用)と述べているのだが。

 

ネチャーエフ問題はバクーニンのその後も心に残っていたようで、勝田吉太郎氏は最晩年のバクーニンは道徳の問題に心を寄せていたことについて触れている。

 

“ 旧い同志や知識人の革命家たちに見放され廃残の日々を送る老闘士は、こうして額に汗して働く名もない庶民のなかに新しい友を見出したのであった。この頃、最晩年の彼が最も重要な事柄とみなすようになったのは、道徳の問題であった。革命のためには一切が許されるとみて、しばしばテロに訴えようとする弟子たちの行動や、ネチャーエフ主義への彼自身のかかわり方に対す(←216頁217頁→)る反省が、死に臨んだ老革命家の心をはなれなかったのであろうか。彼はロスにこう書いた。「ジェスイット的詐欺行為の上に、生きたものや確乎たるものは何一つ築くことはできない。革命活動は、自己自身の成功のためには、卑俗で低級な情熱に助けを求めてはならない、けだかく、もちろん、人間的な理想がなくては、どんな革命も勝利を博することはできないのだ。」(Лисьма М.А. Бакунина и А.И.Герцну ц Н.П. Огареву, стр.455)”

(本書216-217頁より引用)

 

 

著者はバクーニンの絶筆となった『国家性とアナーキイ』に対し、前著作の『アナーキスト』から引き続き、反ユダヤ主義と反ドイツ主義を見ている(本書305-306頁)。反ドイツ主義については本書に採録されている部分からでも伺えるが、反ユダヤ主義については、果して「反」という言葉で呼ぶべき程のものであろうか。確かに本書で伺える部分にて、マルクスやラッサールを批判する際に、「マルクス氏は、出身がユダヤ人である。彼はこの有能な種族がもつ一切の特性と欠陥とを一身にそなえているといってよい」(本書314頁より引用)とそのユダヤ人の出自について論じている辺り、ユダヤ人への偏見は見られるであろう。しかし、本書でバクーニンの反ドイツ主義について、

 

“『国家性とアナーキイ』の全篇いたるところに浸透しているのは、かつて聖ペトロパウロフスク要塞の薄暗い獄舎で書かれ、ニコライ一世に提出された『告白』のなかでひそかに吐露されていたのと同じ反ドイツ感情である。そうした民族的偏見によって歪められたイマジネーションの不鮮明な鏡面に、不思議にもヒットラー主義の面貌が、あの『わが闘争』のなかで露骨に描かれた“民族社会主義”の世界制覇の野望、わけてもソ連社会主義絶滅の企図が、先取りされて映じだされているかのようである。”(本書306頁より引用)

 

とまで述べているのには、やはり疑問が残る。バクーニンについてユダヤ人への偏見や反ドイツ主義は見られ、それは今日のアナキストバクーニンを継承する際に批判しなければならない部分であるが、ショア―(いわゆるホロコースト)を行ったヒットラーと同列に論じるのは反共主義者であった勝田吉太郎氏の読み込みすぎではなかろうか。尤も、私は『国家性とアナーキイ』を通読したわけではないので、いずれ通読して自身の目で確かめることにしたい。

 

本書の最後の節である「アナーキズムと現代新左翼」にて、勝田吉太郎氏は、1950年代以降のマルクーゼ、ルフェーブル、フランツ・ファノンオクタビオ・パスといった新左翼の理論家たちが、一見マルクス的なレトリックを用いながらも実はバクーニンの思想の影響が濃厚であることを論じている(本書353頁)。この点こそ、戦後の新左翼運動がトロツキー主義や毛沢東思想などのマルクスレーニン主義諸派の理論によりつつも、前衛党理論以外の面において実はバクーニン的だったことを考えるうえで示唆深いのではないかと思った。

 

最後に、本書で最も感銘を受けたバクーニンの論述を、『国家性とアナーキイ』より引用して述べる。同時期に読んだ星野源さんの『そして生活は続く』(文藝春秋、2013年)で、生活を大事にしなかったのが良くなかったと似たようなことを言っていたのが非常に印象深かった。ミハイル・バクーニン星野源さんの間には特に共通点はないが、抜きんでた人間の考えることは似るということなのだろう。(詳しくはこちらhttps://booklog.jp/users/2a5b6358bb54e0dc/archives/1/4167838389?type=post_social&ref=twitter&state=reviewを参照)

 

“ われわれ革命的アナーキストは、全人民の教育、社会生活解放とその広範な発展の擁護者であり、したがって国家とあらゆる国家化への敵対者であって、すべての形而上学者、実証主義者、学識の有無を問わずあらゆる科学の女神の跪拝者とはちがって、自然生活ならびに社会生活こそが思想に先行するも(←311頁312頁→)のであり、思想は生活の一機能にすぎず、けっしてこの結果ではないことを確認する。生活は一連の抽象的な内省によってではなく、一連の種々な事実によって、自己の内部の涸渇することのない深部から発展してくること、また抽象的内省はつねに生が生みだすものであって、逆に生を生みだすものではなく、ただ道標として生の方向やその自立自生の発展のさまざまな局面を指示するにすぎないことを、われわれは確認するのである。”(バクーニン勝田吉太郎訳『国家性とアナーキイ』勝田吉太郎『人類の知的遺産49――バクーニン講談社、1979年12月10日第1刷発行、311-312頁より引用)

 

【読書録】ジョージ・ウドコック/白井厚訳『アナキズムII――運動篇』紀伊國屋書店、1968年7月31日第1刷発行。

【読書録】ジョージ・ウドコック/白井厚訳『アナキズムII――運動篇』紀伊國屋書店、1968年7月31日第1刷発行。

 

同著者の思想篇に続く運動篇の書。アナキスト・インターナショナル、フランス、イタリア、スペイン、ロシア、その他諸国のアナキズム運動史について述べられている。初期の労働運動に大きな影響力を持っていた日本、中国、朝鮮、台湾のアナキズム運動への言及はないが、これは仕方がないところであろう。

 

気になった部分をメモ書きするに止める。

 

アナキズム運動の誕生は、1869年の第一インターナショナルバーゼル大会であり、バクーニンの指導によるものであった(本書6-7頁)。

 

“……一八七二年から一八七七年にかけて、バクーニン主義者は、マルクス主義者よりもはるかに多くの支持者を得たといって差しつかえない。”(本書11頁より引用)

 

アナキスト・インターナショナルの最後の大会となった1877年9月のヴェルヴィエ大会には、ドイツ、メキシコ、ウルグアイ、アルゼンチンといった諸国からの代表が送られている(本書19-20頁)

 

・1923年にベルリンに創設されたアナルコ・サンディカリズム系の国際組織「国際労働者協会」には、100万人を擁するスペインのCNT、50万人を擁するイタリア・サンディカ連合(UNI)、20万人を擁するアルゼンチン地域労働者連合(FOR A)、15万人を擁するポルトガルの労働総同盟(CGT)、12万人を擁するドイツの自由労働者同盟、3万人を擁するスウェーデン労働者センター(SAC)、チリ、デンマークノルウェー、メキシコ、オランダ、ポーランドブルガリア、日本といった諸国の小規模な連合もここに加盟していた(本書39-40頁)。1928年にラテンアメリカでアルゼンチン、メキシコ、ブラジル、コスタリカパラグアイグアテマラウルグアイのサンディカリストを糾合した大陸労働者協会が創立され、国際労働者協会に支部として加盟している(本書40頁)。大陸労働者協会の創設時の本部はアルゼンチンのブエノスアイレスに置かれ、後に隣国ウルグアイモンテビデオに移転している(本書40頁)。

 

“ 一方で純粋アナキストたちの国際組織がすべて短命で効果が上らなかった――創立大会だけで消滅しさえした――のに、アナルコ-サンディカリストのインタンショナルが、初期の影法師としてでもともかく生き残ってきた理由は、少なくとも一部分は、サンディカリストの組織の性格に求められよう。その最も戦闘的なメンバーは献身的な〈自由意思を強調する人たち〉であろうが、一般大衆の大部分は、今ここで獲得し得る最良の生活を求める労働者たちであろう。この理由のために、革命的組合(Syndicate)さえも、ふつうの労働組合と同様に、安全と、中央集権的構造――これは表向きは否定されるかもしれないが――をも維持しなければならない。中央集権的構造は、言論や行動による宣伝に没頭する純粋アナキストの集団の間では決して目にすることができないものなのである。(←41頁42頁→)

 純粋アナキストは、知識人であろうと直接行動派であろうと、あるいは世俗の予言者であろうと、他の個人主義者たちと共に活動する個人主義者である。サンディカリストの闘士は――アナルコ-サンディカリストと自称しようとも――大衆と共に活動する組織者である。独自のやり方で、彼は組織上の見通しを展開し、そしてこのために、彼はかなり綿密な計画を遂行し、長い期間にわたって活動する複雑な連合体を維持することが純粋アナキストよりも可能なのである。後に見るように、フランスのCGTとスペインのCNTの中にはこういった人たちがいた。国際労働者協会の場合について言えば、この組織を動かしていたドイツ、スウェーデン、オランダの知識人たちは、〈自由意志を強調する〉理想を、彼らのゲルマン文化から得た能率尊重と結合していたのである。

 アナキスト・インタナショナルの歴史をふり返って見ると、論理的に純粋アナキズムは、厳格さと中央集権の手段がなければ存続しえない国際的な――または国単位ですらも――組織を入念につくろうとする時には、それ自身の性質と矛盾することが明らかなように思える。アナキズムにおける自然な構成単位は、束縛がなく柔軟な同類集団である。そしてまた、アナキズムの思想は――歴史上適切な時期には――個人的な接触と知的影響という見えざる網状組織によって地球上遠く広がることができたのだから、国際的な性格を帯びるためにそれ以上複雑なものを必要としないだろう。アナキスト・インタナショナルがすべて失敗したのは、主にそれらが不必要であったからである。

 けれどもサンディカリズムは、その革命的形態においてさえも、比較的安定した組織を必要とするし、しかもまさにそれが、ただ部分的にのみアナキズムの理想によって支配されている世界で行われるために、またそれは常に労働者の日々の状態を考慮しそれと妥協しなければならないために、アナキズムの究極目標についてはごくおぼろげにしか意識していない労働者大衆の忠誠を維持しなけれ(←42頁43頁→)ばならないために、安定した組織をつくることに成功する。それゆえに、第二の国際労働者協会が比較的成功し永続する結果となったのは、アナキズムの真の勝利ではない、むしろそれは、アナキストたちがアナキズム以前の世界における現実と深く妥協することを学んだ時代の、記念碑なのである。” (本書41-43頁より引用)

 

著者が述べるように、「現実に大衆の支持を得たアナキズムの唯一の形態」(本書47頁)がアナルコ・サンディカリズムだったことを考えると、このアナキズムの純粋な理想にこだわって市井の人々に接する組織を持つことを断念するか(純正アナキズム)、それとも多少なりともアナキズムの理想を曲げる中央集権的な組織を作って市井の人々に接するか(アナルコ・サンディカリズム)という問題には根深いものがある。

 

【フランス】

アナルコ・サンディカリズムが最初に生まれたのはフランス(本書47頁)。

 

・フランスにおける最初期のマルクス主義者であり、第一次世界大戦勃発によって祖国支持に回るジュール・ゲードは、元々はアナキストであった(本書69頁)。

 

印象派の画家カミーユピサロと息子のルシアン・ピサロは共にアナキストであり、ジャン・グラーヴの『新時代』誌に絵や石版画を寄稿している(本書84頁)。

 

“作家や画家をアナキズムに引き付けたものが、諸団体の散文的な日常活動でないことは明白であった。それは多分、主としてアナキィの理念そのものですらなく、大胆と探究の精神であって、それをマラルメは、一八九四年の三〇人裁判で、彼の友だちのアナキストのために証言した時に敏感に表現し、その友だちを、“素晴らしい精神、新しきものすべてに対する、あくなき好奇心”と描いたのである。芸術家や知識人たちを感動させたものは、精神の独立、行動の自由についてのアナキストの努力、そのための経験であった。”(本書85頁より引用)

 

・フランスのアナキズム運動は、第一次世界大戦勃発後、戦前アナキストが主張していた反軍国主義の立場を放棄し、ジャン・グラーヴ、シャルル・マラト、ポール・ルクリュといった指導者達が祖国を支持する立場にたったため、ロシア革命以前にほぼ崩壊していた(本書107頁)。この点については先述したマルクス主義者のジュール・ゲードらも同様であったが、国家を原理原則的に否定するアナキストが戦争に際して祖国擁護を行ってしまった問題は、マルクス主義者のそれよりも一層根深いように思われる。

 

【イタリア】

アナキストが採用する「行動による宣伝(プロパガンダ)」を最初に言い出したのはイタリアのカルロ・ピザカーネ(本書119-120頁)。1876年にマラテスタとカフィエロによって他国のアナキストに伝えられる(本書131頁)。

 

・イタリアでは貧しい南部よりも豊かな北部にてアナキズムが発展した(本書128頁)。

 

・イタリア人は19世紀を通じた移住者によって、とりわけ1890年代においてラテンアメリカ諸国とアメリカ合衆国アナキズムをもたらした(本書142-143頁)。マラテスタのような指導者でさえ、1884年にアルゼンチンに亡命している(本書145-146頁)。

 

【スペイン】

・若き日のパブロ・ピカソアナキズムに惹かれていたことが記されている(本書177頁)。ピカソ第二次世界大戦中のフランス共産党レジスタンスに感動して、パリ解放の直後にフランス共産党に入党し、戦後のスターリン崇拝が最高潮に達した中でも共産党員であり続けた。本書にある通り若き日のピカソアナキズムよりだったということを思うと、スターリン主義が実に多くの要素を吸収して成長したことが伺えて興味深い。

 

スペインのアナキストの反宗教的な宗教性について。勝田吉太郎氏はバクーニンを筆頭とするロシアの無神論者について、「彼らにとって無神論は精神的欠乏でなくして、逆に精神的確信であり、信じることを止めるのでなく、いわば無神論を信じ、この一種の信仰を狂信家特有の不寛容と熱中とをもって説教するのである」(勝田吉太郎アナーキスト――ロシヤ革命の先駆』筑摩書房〈グリーンベルト・シリーズ85〉、1966年11月30日初版第1刷発行、36頁より引用)と論じていたが、本書ではスペインのアナキスト無神論について、示唆深い見解が述べられている。

 

“ アナキズムというものは、もちろろん(引用者註:この誤植は原文そのまま)普通の政治運動とは異なって、道徳的宗教的要素をもっているものだが、この要素は、スペインにおいてはどの国よりも強く発達した。この国において、アナキズムに対する鋭敏な観察者はほとんど誰でも、そこにボルケナウが“半宗教的ユートウピア運動”と呼んだものがあるという事実に、気がついてきた。そして、その宗教的情熱が教会に対してなぜかくも激しく向けられなければならなかったかということを最も納得のいくように表現したのは、再びブレナンであった。ここでは、「スペインの迷路」(The Spanish Labyrinth)の中でその問題を彼が非常に巧みに論じている部分を引用することが最も良かろう。この書は、長年にわたるスペインのアナキストとの直接の交友によって裏付けされている。

 

市民戦争の期間における教会に対するアナキストの激しい憎悪と、教会を襲うに当っての彼らの異常な暴力沙汰は、誰もが知っていることである。……それは、教会から生まれた異端者の、教会に対する憎しみとしてしか説明し得ないと思う。というのは、スペインの〈自由意志を強調する人たち〉の目には、カトリック教会は、キリスト教世界において反キリストの位置を占めているのだから。それは彼らにとって、革命の単なる障害物という以上のものであった。彼らは、教会のなかにあらゆる悪の源泉、原罪という卑しい教義をもって青年を堕落させるもの、彼らがSaludすなわち健康と呼(←191頁192頁→)ぶ自然と自然法を冒涜するものを見たのだ。それはまた、兄弟愛や互いに許し合うなどというきれい事をとなえて、人間の連帯という偉大な理想をあざける宗教でもあった。……

そこでスペインのアナキストたちの教会に対する怒りは、見捨てられあざむかれてきたと感じている極度に宗教的な人びとの怒りであると示唆したい。司祭や修道僧は、歴史上、危機が迫ると、大衆を見捨て、金持ちの側へ走った。一七世紀の偉大な神学者たちの人間的、啓蒙的な原理は、一方の側にだけ適用された。そこで人びとは、教会の言葉はすべて偽善ではないかと疑い出したのである。(自由主義によってもたらされた新しい思想がもちろん彼らを助けた。)彼らがキリスト教的ユートウピアを求めて闘争を始めた時は、従ってそれは、教会に反対して行ったのであって、教会と共にではなかった。彼らの暴力ですら宗教的と呼べるかもしれない。結局、スペインの教会はつねに戦闘的で、二〇世紀に至るまで、その敵を打ち負かせると信じていた。疑いもなくアナキストたちは、彼らに同調しない人びとを教会と同じやり方ですべて追い払いさえすれば、この世の天国を招くために教会が行った以上の良い仕事ができると思っていた。スペインでは、どんな信条も全体的であることにあこがれる。”(本書191-192頁より引用)

 

スペインのアナキスト無神論は、堕落したカトリック教会に対して真の宗教を求める人々の怒りと信仰心の反映だとする見解である。スペインにおけるカトリック教会に相当するものを日本に求めるのならば、おそらくそれは神社神道になると思われるが、日本のアナキストには堕落し国家権力と癒着した神社神道に対して、真に神を求めて反逆するという人々は、おそらく存在しなかったのではないか。天理教大本教とそこから派生した宗派(ほんみちなど)がそれに近いかもしれないが、天理教大本教も、決してアナキズムではない。しかし、ここにこそ、日本におけるアナキズムの土着化の鍵があるような気が、私にはする。本質的に敬神崇祖ということを強く信条としている日本の地方に暮らす人々が、一度、神社神道に裏切られたと感じた時、神社神道が語ることは正義でも救済でもないと感じた時、スペインのアナキストと同様の無神論に達するのではないか。この観点からもう一度、本居宣長平田篤胤らの国学は研究され直されるべきである。

 

 

・エピローグにて、著者はバクーニンによって創設されたアナキズム運動が、一世紀近く努力しても国家を破壊することはできず、運動としては失敗したと論じている(本書313-314頁)。その理由として、社会の中央集権化と画一化の中で成長した階層である、官吏、事務員(ホワイトカラー)、店主といった小ブルジョワ層を引き入れることに失敗したこと(本書316頁)や、労働条件の改善といった現実的な提案の弱さ(本書318-319頁)、共産主義マルクスレーニン主義)やファシズムといった競合思想への敗北(本書319-320頁)が挙げられている。しかし、アナキズム運動は途絶えてもアナキズム思想は生き続ける。著者が言う通りそこから何を汲み上げるかは、本書の原書刊行から50年以上経った今日にあっても現代性を持った課題である。

【読書録】ジョージ・ウドコック/白井厚訳『アナキズムI――思想篇』紀伊國屋書店、1968年6月29日第1刷発行。

ジョージ・ウドコック/白井厚訳『アナキズムI――思想篇』紀伊國屋書店、1968年6月29日第1刷発行。

 

原著は1962年。カナダ出身のイギリスの思想史家による近代アナキズム思想と運動双方の通史。

 

本書刊行の1968年の時点において、訳者の白井厚氏は日本のアナキズム研究の水準と、本書の翻訳の意義について次のように述べている。

 

“……驚くべきことに、フリエ、シュティルナー、プルドン、バクーニンらについての専門の研究書はいまだに一冊も存在せず、一九六四年の拙著「ウィリアム・ゴドウィン研究」(未来社)はゴドウィンに関する日本で最初の著書というだけではなく、大杉栄クロポトキン研究を除けば、いわゆるアナキストを扱った最初のモノグラーフであった。このような現状を打開し、アナキズム研究を前進させるためには、先ず本格的なアナキズム通史が必要であろう。ウドコックのこの書は、アナキズムの思想と運動について、国際的にも水準の高い通史であって、従来知られていなかった人物や事実についても詳しく、日本のアナキズムに関する認識がないというような欠点はあるにせよ、さらに水準の高い通史が日本人の手によって書かれるまで、なお十分にその生命を維持し、今後の研究の基盤となるものと思われる。”(本書viii頁「訳者序言」より引用)

 

バクーニンの研究書としては本書刊行後の1979年に講談社の人類の知的遺産シリーズより保守派の勝田吉太郎氏によって研究書が刊行され、プルードンについてもマルクス研究者による研究書が幾つも出たが、全体的に日本におけるアナキズム研究については、本書の「訳者序言」にある通り、ライバルのマルクス主義と比べれば活発とは言えない状況である。

 

また、「訳者序言」では、本書においてはLibertatianの語を〈自由意思を強調する(人)〉と訳したことについて述べられている(本書xii頁)。

 

本書は思想篇となり、アナキズム前史としてアナキストに言及されることの多い老子、ゼノン、ジャン・メリエといった人物を慎重に避け(本書45頁)、「最初の明瞭なアナキスティックな運動」(本書51頁)として、イギリス清教徒革命の際の清教徒の一派であるディガーズの運動とその理論的指導者ウィンスタンリを僅かに挙げるに止めている(本書50-59頁)。

 

アメリカ独立革命フランス革命については、著者は、

 

アメリカ革命においてもフランス革命においても、一六四八年と一六四九年にディガーズが創り上げたほどに予言的なアナキストの未来の細密画を示す事件や運動は存在しなかった。一九世紀の間、合衆国もフランスも、アナキストの思想と行動のヴァラエティにおいてはたしかに豊富でありえたが、しかし偉大な一八世紀の諸革命においてこの傾向が表わ(←59頁60頁→)したものは、衝動的で不完全であった。”(本書59-60頁より引用)

 

と述べ、両革命の中からアナキズムの要素が見られる人物として、政府不信を公言したトマス・ペイン(61-63頁)と、フランス革命においてロベスピエールによる恐怖政治を過激派の立場から批判したため自殺することになったジャック・ルー神父(66-69頁)と、ロベスピエール失脚後に革命政府そのものを滅ぼすことを主張したジャン・ヴァルレ(本書70-71頁)を挙げるに止めている。また、アナキズムの要素が見られる人物として言及されることもあるトマス・ジェファソン(北アメリカ独立革命の革命家、第三代アメリカ合衆国大統領)については、著者はジェファソンの領土拡張主義や奴隷所有などの権威主義を理由にアナキストの先駆者に加えることを拒否している(本書60-61頁)。

 

以上の先駆的なアナキズム思想についての検討の後、著者が近代アナキズム思想の中で検討しているのは、ウィリアム・ゴドウィン、マックス・シュティルナー、ピエール=ジョゼフ・プルドン、ミハイル・バクーニン、ピョートル・クロポトキントルストイの6人を挙げている。著者の筆致からはゴドウィン、プルードンクロポトキンの三人に好意が寄せられていることが明白であるが、この点に関しては各読者が自ら読み、ご判断いただきたい。

 

また、本書は「プロローグ」にて、アナキストが何であり、何でないのかについて、一般に通念化した誤解を解く意図を以て述べている。それも著者が長年アナキズム運動を研究し、一時イギリスの運動に関わっていた際の経験から述べられるのである。この「プロローグ」こそが本書の神髄かもしれない。特に、著者が長年のアナキズム研究から、アナキズムを「民主主義の極端な形態」(本書32頁)ではなく、むしろ「普遍化され、純粋化された貴族主義」(本書33頁)と見なしていることは非常に興味深い。あたかもアナキストの理想像はオルテガの『大衆の反逆』で描かれた非世襲の精神的貴族のようでもあり、オルテガの国スペインが欧州で最もアナキズム運動の強かった国であることを考えると意味深長であるが、マルクス主義から転向し社民化した私が、社会民主主義に飽き足らずアナキズムに惹かれたのは、ひょっとしたらアナキストのこの点にあるかもしれないからである。

 

 しばしば混同されがちなアナキストとニヒリストの違について、著者は次のように述べている。

 

“ アナキストたちが、彼らの自由な世界の輝く塔が現れるのを常に見てきたのは、支配と信仰の残がいを通してである。その見通しは素朴かもしれぬ――われわれはまだそのような言葉においてそれを判断する点に到っていない――しかし、それは明らかに、どうにもならない破壊の見通しではない。

 たしかにこのような見通しのできる人を、ニヒリストとして片づけることはできない。ニヒリストは、一般的な意味でその言葉を使うと、何らの道徳原理も、何らの自然法も信じない。ところがアナキストは、権威の破壊の後までも生き残り、なお友愛という自由自然なきずなで社会を結合させることのできる力強い道徳的な衝動というものを信じている。アナキストはまた、厳密な歴史的な意味においても、ニヒリストではない。というのは、ロシアの歴史において、やや不正確にニヒリストと呼ばれた特殊なグループは、人民の意志団(The people`s will)に属するテロリストたちであった。人民の意志団とは、一九世紀後半において、帝政ロシアの独裁的支配者たちに向けられた組織的な暗殺計画によって、立憲政府の樹立――アナキストの目的ではない――を求めた組織的な陰謀の運動である。”(本書9頁より引用)

 

また、アナキズムテロリズムの関係についても示唆に富んでいる。

 

“……バクーニンでさえ、何度もバリケイドの上で戦い、農民蜂起の残忍さを賞めたたえたけれども、悲しげな理想主義の調子で一言述べる際には、迷いをおぼえる時もあった。

   

   流血の革命は、人類の愚かさのゆえにしばしば必要である。だがそれは、それがもたらす犠牲に関してばかりでなく、その名において革命が行われる目的の純粋さと完全さのためにも、常に悪、途方もない悪であり大惨事である。

 

実際、アナキストたちが暴力を認めたところでは、大部分は彼らが、フランス、アメリカ、そして究極的にはイギリスの革命から生じた伝統に執着したためであった――これは自由の名における暴力的な民衆運動の伝統で、アナキストたちが、ジャコバン派マルクス主義者、ブランキ主義者、そしてマッツィーニとガリバルディの追随者たちのような、彼らの時代の他の運動と共通に持っていたものである。”(本書10頁より引用)

 

 

“ しかしそうは言っても、暴力、非暴力に関する態度の漠とした混乱を通して、アナキズムの暗い使者、テロリストの暗殺者たちが、まぎれもなく活動している。スペインとロシアの特別な条件を除いては、彼らは僅かな人数にすぎず、たいていは一八九〇年代の間に作戦行動をした。彼らの犠牲者が目立っているので――というのは、これら勝手に裁判官を自任する人びとによって権威という罪で処刑された人たちの中には、フランスとアメリカ合衆国の大統領や幾人かの王族たちがいた――彼らの人数とは全く不釣合いに、彼らの行動は有名となった。しかし、いかなる時においてもテロリズムの政策は、一般のアナキストによっては採用されなかった。テロリストたちは、のちに見るように、たいてい孤独の人たちであって、厳しい理想主義と天啓的な情熱の奇妙な混合によって動かされていた。これは、ピョートル・クロポトキンや、ルイズ・ミシェルのような他のアナキストたちを、現世の聖人に変えたあの同じ情熱の、暗い面なのである。

 しかしながら、最も悪名高い人たちのなかかから三人だけを示すと、ラヴァシォル、エミール・アンリ、レオン・チォルゴシュのような人によって遂行された暗殺は、アナキストの運動に極めて有害であった。(←11頁12頁→)彼らはアナキズムテロリズムは同じだという考えを、それを正当とする理由が消えた後にも長い間容易に去らないほど、民衆の心に植えつけたのである。奇妙なことに、同じ時代の他の暗殺は、アナキストたちの暗殺よりも大変容易に忘れられてしまった。ロシアの社会革命党員たちの名は、彼らに殺された犠牲者の数ははるかに多いのに、何ら戦慄をひき起こすことはない。アナキストたちを短刀や爆弾と結びつける人びとのほとんどが、アメリカの大統領を暗殺した三人のうち、アナキストだと主張したのは一人だけ(引用者註:1901年に共和党のマッキンリー大統領はレオン・チォルゴシュに暗殺された)ということを考えてみない。他の一人は、アメリカ南部同盟支持者で(引用者註:1865年の共和党リンカーン大統領暗殺事件)、三人目は、失望した共和党員(引用者註:1881年共和党ガーフィールド大統領暗殺事件)であった。”(本書11-12頁より引用)

 

 

マルクス主義者にとって理論的な難点であった農民についてのアナキストの態度も、以下の筆致で明らかになるであろう。

 

“……マルクス主義者は、素朴な人びとを、すでに過ぎ去った社会進化の一段階を表わすものとして、拒絶する。彼にとって、種族民、農民、小職人などのすべては、ブルジョアジーや貴族とともに、歴史の残物の上につみ重ねられる。共産主義者の現実政策(Realpolitik)は、現在の極東におけるように、時には農民との接近(rapprochement)を求めるだろう。しかし、そのような政策の目的は、常に農民を、農業のプロレタリアに変えることである。他方、アナキストたちは、(←23頁24頁→)農民のなかに、非常に大きな望みを託してきた。農民は、大地に親しみ、自然に親しみ、それゆえに、彼の反応のしかたはより“アナーキック”である。バクーニンは、百姓一揆を、革命のための彼の理想である自発的な民衆蜂起の未完成な型として見た。さらに農民は、歴史的な環境によってつくられなければならなかった協同という長い伝統の継承者である。アナキストの理論家たちは、農民の社会におけるこのような傾向を是認することによって、ますます繁栄するにつれて農民社会は――歴史において知られているかぎり他のすべての発展する社会と同じく――富農、貧農、労働者たちという階級制度の確立に至る富と地位の相違を示し始めるということを忘れる傾向がある。アナキズムはアンダルシアとウクライナの貧農たちの間で力強い大衆運動となったが、それよりも富んだ農民たちのあいだでは何らの評価しうるほどの成功を得ることができなかったということは、意味が深い。市民戦争の初期において、スペインのアナキストたちによって支持された集産主義的組織を採用するようアラゴンのぶどう栽培者に強いたのは、ドゥルティと、彼の義勇軍の恐怖のみであった。”(本書23-24頁より引用)

 

 

アナキストの出身階級の分析も興味深い。

 

“……有名なアナキストたちの大部分は、貴族か、地方地主出身であった。ロシアにおけるバクーニンクロポトキン、チェルケソフ、イタリアにおけるマラテスタ、カフィエーロは、典型的な例である。またゴドウィン、ドメラ・ニューエンハウス、セバスチアン・フォールのような人たちは、以前には、牧師や宣教師であった。残りの人たちのあいだでは、職人階級――伝統的な手職人――が、おそらく最も重要であった。アナキストの闘士には、驚くべき割合の靴屋と、印刷屋が含まれている。ある時代――フランスにおける一八九〇年代、イギリスと合衆国における一九四〇年代――においては、マス・ヴァリューに反逆する知識人と芸術家たちは、かなりの数がアナキズムにひきつけられた。結局、マルクスが、社会の階層化という彼のきれいな型の何処でもあてはまらないのでその大部分を軽べつした階級脱落者の要素を、アナキストたちは、自然な反逆者として歓迎する傾向があった。その結果、アナキストの運動は、反乱が犯罪行為とからみあっている暗い世界、バルザックのヴォートランと、現実の世界におけるその生き写したちの世界に、常につながりを持っていた。

 これらの要素は、主として、現代国家と、現代資本主義あるいは共産主義経済への彼らの対立において、一体となる。彼らは反乱を主張するが、それは必ずしも過去を賛美するのではなく、たしかに、彼らが生きている現在の中にはない個人の自由という理想のためなのである。この事実だけが、われわれに、注意深くアナキスト進歩主義を見させるはずだ。それが意味するものは、確かに、今日存在するような社会をそのまま進歩させるのではない。反対に、アナキストは、ある面では一つの後退――素朴化の線にそった後退――を意図している。”(本書25頁より引用)

 

 

2020年現在、19世紀末~20世紀初頭にかけて、アナキズム運動に戦士を供給した貴族、地主、手工業職人は、社会の民主化と資本主義経済の進展によりもはや活力を保っていない。聖職者にしても、キリスト教原理主義や戦闘的イスラーム主義に世界の多くの人々が惹きつけられている現実はあるにしても、それらは伝統的な聖職者の世界とは少し離れた世界での営みであろう。かつて、アナルコ・サンディカリズムの下で労働組合に組織された労働者階級は、アナルコ・サンディカリズムの不調により、今日では連合のような改良主義的な組合に組織されるのが主流である。結局、勝田吉太郎氏が述べていた通り、知識人(職業的知識人ではない知識の消費者であるインテリゲンチアを含む)と芸術家、そしてその予備軍である大学生が、現在のアナキズムに戦士を供給する主な階層になるのであろう。しかし、これでは心許ない。従来から支持層であった農民のみならず、ITエンジニアや医療職員、介護職員、倉庫で働く人々、建設作業員といった、マルクス主義的な意味での近代的産業労働者=プロレタリアートではない人々に対して、今日のアナキズムの価値を訴えられないであろうか。

 

 

 

“……しかし、もしわれわれが、社会の素朴化への衝動が、社会をもっと有効に動かそうという望みからでなく、あるいは個人の自由を破壊する権威機関を除去する願いですらも全くなく、主として、より素朴な生活の徳についての道徳的な確信から生じるという事実を無視するならば、アナキストの態度の本質を見失うであろう。

 アナキズムにおける深い道徳主義の要素は、アナキズムを単なる政治的な主義以上のものとするのだが、これまで決して十分に探究されてこなかった。これは部分的には、因襲的な道徳を拒否し、彼ら自身の哲学のこの面を強調することを嫌ったアナキスト自身のせいである。それにもかかわらず、素朴化への衝動は、アナキストの思想に浸透する禁欲的な態度の重要な部分である。アナキストは、単に富める人に対しては怒りを感じない。彼は、富自体に対して怒りを感じる。彼の目には、貧しい人が窮乏の犠牲であると同様に、富める人はぜいたくの犠牲である。すべての人たちをぜいたくに生活させるという北アメリカの民主主義をまどわせるかのヴィジョンは、決してアナキストたちに訴えるものではなかった。”(本書26頁より引用)

 

 

私は本書で、「彼の目には、貧しい人が窮乏の犠牲であると同様に、富める人はぜいたくの犠牲である」というアナキストの富に対する視線を知ったことは大きな収穫だったと思っている。有り余る金銭は人間を堕落させるからこそ、アナキストは社会における極端な富の偏在に反対するのである。

 

 

“ 人々が自由であるために十分な量――それが、物質世界に関するアナキストの要求の限度である。”(本書27頁より引用)

 

この行もとても重要で、アナキストが富の再分配を要求するのは、プルードンが主張した通り、一定の富が自由であることを保証するためである。この点で私有財産制度の否定に至るマルクス主義とは異なる。これを小ブルジョワ的と批判するのは容易いが、私自身の無職時代の実感からすれば、働き出して月にほんの数万円ほどでも自由に使えるお金が手に入った時に、自分がそれだけ自由になったということを強く感じたので、この主張にはリアリティがあると私は考えている。

 

 

 

“……アナキストにとっては、時として彼の教説の中に前後矛盾して入りこんだ科学的決定論にもかかわらず、いかなる特別な事件も必然的ではなく、また確かに、人間社会の中にはいかなる特別な事件もない。彼にとっては、歴史はマルクス主義者が考えるような弁証法的必然という鉄の軌道に沿って動くものではない。それは闘争から現われ、そして、人間の闘争は、人間の中の自由な自覚という火花にもとづき、自由への絶えざる刺激を起こさせるどのような衝撃――理性における、または本性における――にも呼応する、人間の意志の働きが産み出したものである。”(本書29頁より引用)

 

これもアナキズムの良い点で、マルクス主義史的唯物論や「歴史の必然」などについては考えなくて良いし、考えない方が良いと私は思っているので、アナキズムが自由意志を強調するということは努々忘れてはならない。

 

 

“……アナキストたちによって擁護されたあらゆる種類の戦術を結びつけ特徴づけるものは、いかにそれらが暴力と非暴力、集団行動と個人行動というように異なっていようとも、それらは直接個人の決定の上に基礎をおいているという事実である。個人は、自発的にゼネ・ストに参加し、自由意志によって共同体の一員になり、あるいは兵役を拒否し、あるいは暴動に参加する。責任について何ら強制や委任は生じない。個人は、適当だと思う時に、行ったり来たり、行動したり行動を断ったりする。革命について(←31頁32頁→)のアナキストのイメージが、人民の自発的な蜂起という形を実際最もしばしばとるということは、本当である。だが人民は、マルクス主義者の意味における大衆としてみられるのでない――彼らは、その一人一人が彼自身で行動の決定をしなければならない最高の個人の集まりとして見られる。”(本書31-32頁より引用)

 

この「一人一人が彼自身で行動の決定をしなければならない最高の個人の集まり」という人民への認識は、実際に何かの集団的な行動をするのには却って困難かもしれない。そうであっても、この個人尊重はアナキズムの美徳だと私は思う。

 

“ 個人的な選択の至高性に対する極度の関心は、革命の戦術と未来社会の構造についてのアナキストの考えを支配するばかりではない。それはまた、アナキスト独裁制と同じく民主主義を拒否することも説明する。アナキズムを民主主義の極端な形態とみなすほど、アナキズムの概念で真実から遠いものはない。民主主義は、人民の主権を擁護する。アナキズムは、個人の主権を擁護する。これは、自動的に、アナキストたちが民主主義の形式と見解の多くを否定することを意味する。議会制度は、個人が彼の主権を代表者に手渡すことによって主権を棄てるということを意味するがゆえに、拒否される。一度個人が捨ててしまえば、多くの決定は彼の名においてなされ、もはや彼は、それについていかなる統制も持たない。だからこそアナキストたちは、象徴的にも現実的にも、投票は自由を裏切る行動であるとみなす。“普通選挙反革命である”と、プルドンは叫び、彼の後継者(←32頁33頁→)たちは、誰も彼に反駁しなかった。”(本書32-33頁より引用)

 

“ 実際にアナキズムの理想は、その論理の究極にまで進められた民主主義というようなものではなく、普遍化され、純粋化された貴族主義にはるかに近い。ここで、歴史の螺旋は、完全に一回転した。そして、貴族主義が――テレームの僧院のラブレーのヴィジョンにおいてその最高点に達する――貴人たちの自由を要求した場所で、アナキズムは、常に、自由人たちの気高さを主張してきた。アナキィの究極のヴィジョンにおいて、これら自由人たちは、神のように、王者のように立つ。シェリが描いたように、君主たちの誕生である。”(本書33頁より引用)

 

 

〈ノート〉

【ゴドウィン】

“ 人間は、真理および真理の一面たる道徳に対し、義務を負う。しかし権利を持っているか? いかなる人間も、“有徳ならざる行動をとり、また真理ならざる発言をする”権利は持たない、とゴドウィンは答える。厳密に言えば、人間がまさに持っているのは権利ではなく、互恵的な正義のもとにあってその仲間たちの援助に対する要求である。良心や言論の自由のように、権利とふつう考えられている多くのものは、人間がそれらに対する権利を持っているからでなくて、道徳的真理に到達するためにはそれらが絶対必要であるからこそ、求められるべきである。”(本書102頁より引用)

 

アナキズムに限らず、「自由」について考える際に、必ず行きつくのは、「ヘイトスピーチのような特定のカテゴリの人々を害する言論に自由は認められるべきか」という難問であろう。自由は時の権力が「悪」とすることに対する自由でなければ、あまりその意味はない(基本的にはどんな政府でも「善」をなす自由を禁じたりはしないので)。だからといって、「言論の自由」の名の下に特定の人種や民族を抹殺するような言論を認めてしまっても良いのだろうか。私はヘイトスピーチを「言論の自由」だとは認めたくない立場に立つのだが、そうなると自分の掲げる「自由」は中途半端な、限られた範囲内での自由にしかならないとも考えていた。上記に引用した、ウィリアム・ゴドウィンの”いかなる人間も、“有徳ならざる行動をとり、また真理ならざる発言をする”権利は持たない、とゴドウィンは答える”という発想は、つまり良心や言論の自由を権利ではなく徳や真理から考える発想こそは、この自由のジレンマに一定の答えを与えるのではないかと、読んでいて感じた。ウィリアム・ゴドウィンに従えば、ヘイトスピーチは「言論の自由」が目標とする「道徳的真理に到達する」という目標に反しているから、「言論の自由」の目標を毀損するものとして反対されねばならないのである。尤も、この点について私はまだ考えをまとめられていない。

 

シュティルナー

著者は、暴力を称揚する過激な個人主義者として現れたマックス・シュティルナーが、その本名であるヨハン・カスパー・シュミットの日常生活とは似ても似つかない人物であることについて、このように述べている。

 

“しかも、クロポトキンのようなアナキストたちをさえその教義の烈しさによって驚かせたこの個人主義の熱狂者を考察する時、そこには理論を極端に進める者の性格に関する一つの興味ある洞察が示される。というのは、絶えざる闘争の詩人であり、犯罪と殺人を称揚したこの偉大なエゴイストは、実生活にあっては、一八四四年に「唯一者とその所有」を出版した当時、若い婦人たちのためのグロピウス夫人のベルリン・アカデミーにおける物柔らかな忍耐強い教師であったのだから。彼は、ヨハン・カスパー・シュミットと呼ばれていた。彼がこのような平凡な名前のかわりに用いたペン・ネイムは、彼の額の異常な大きさからとってきたものである。Stirneとは、ドイツ語では「額」を意味していた。それゆえMax Stirnerは、正しくはMax the Highbrow(知識人マックス)と訳されるべきかもしれない。

 シュミットは、本の出版に際して新しい名前をつけたばかりでなく、本を書くことによって新しい人格を創造したように思われる。あるいは少なくとも、激しい、未知の、そして彼の日常生活に沈潜していた自己を呼び起こしたように思われる。というのは、小心なシュミットの、不幸で、不運で、めぐりあわせの悪い生涯においては、マックス・シュティルナーの、情熱的な夢想を持つ、自由な立場のエゴイストは全く存在しなかったからである。シュティルナーという人間と彼の作品の間のこの対比は、現(←133頁134頁→)実を埋め合わせる白日夢としての文章の持つ力の古典的な例を、われわれに示しているといえよう。”(本書133-134頁より引用)

 

 

私も自分の日常における社会生活が単なるホワイトカラーの事務職にすぎないことを思うに、本稿に限らず、社会思想や歴史に関する文章を急進的な立場から書いている自分と、日常生活の自分の分裂がシュティルナーを面白く言えないほどには分裂していることを強く意識している。この懸隔は埋め合わせた方が良いのだろうけれども、他方でそれをやってしまうと必ず日常生活での影響が出るであろうから、これからも何かのきっかけで、経済状態が改善される見通しが立つなどしてペンネームを使わずに思想の話をできるようになるまで待つしかないんだろう。

 

プルードン

“……プルドンは、個人的自由に非常に価値をおくがゆえに、ほかならぬ“結社”という言葉を信じないのだが、組織化されたアナキズム運動の直接の祖となり、それが彼の信念に集団的な表現と力を与え、そして彼はそれを創った何人かの人たちの現実の教師となった。インタナショナルの創立を助けたフランスの労働者たち、一八七一年のコンミューンにおける多くの指導者たち、そして一八九〇年から一九一〇年の間におけるフランス労働組合のたいていのサンディカリストの闘士たちは、すべてプルドンから彼らの思想の大部分を得ることとなった。エリ・アレヴィがかつて述べたように、プルドンは――マルクスではなく――“真にフランス社会主義に、”あるいは、少なくとも一九三〇年代まで存続したような形のフランス社会主義に、“生気を吹き込んだ人”であった。”(本書151頁より引用)

 

フランスではドイツ人マルクスよりもフランス人プルードン社会主義思想が、労働者の中に生きていた。

 

“ 一八四八年におけるプルドンの記事の変らぬ論題の一つは、“プロレタリアートは政府の援助なしにそれ自身を解放せねばならぬ”というものであった。彼はこれを、すべての社会的疾患に対する万能薬としての普通選挙権という神話に対する公然たる非難と結びつけ、経済的変化を伴わない政治的民主主義が安易に行きつく先は、進歩よりもむしろ退歩であるということを指摘した。われわれがファシスト型の右翼運動の大衆への訴えについて多くのことを知った今日では、このような主張は特に変ったものとは思えない。しかし革命的楽観主義が最高潮に達した一八四八年四月において、一年以内に起こるであろうような情勢、すなわち共和国が自己の防衛のために作り上げた、まさにその普通選挙という手段によって王族大統領としてルイ・ナポレオンを選出したことから民主主義が葬むられるであろうような情勢を予期した点では、プルドンはほとんど唯一の人であった。”(本書175頁より引用)

 

ドイツの革命家にしてドイツ社会民主主義の祖であるフェルディナント・ラッサールが『労働者綱領』(1862年)の中で、普通選挙権を高く評価していたことを考えるに、1848年の時点で普通選挙が反動的になり得ることを見抜いていたプルードンは流石である。

 

 

バクーニン

“ ある点で、マルクスバクーニンは似ていた。二人は、ヘーゲル主義という酔いやすい泉の水を痛飲していたし、彼らの陶酔は生涯続いた。二人とも生まれつき独裁的であり、陰謀を愛した。二人とも、失敗にもめげず、圧迫された者、貧しい者の解放に誠実に貢献した。だが、その他の点で彼らはひどく違っていた。バクーニンは広い寛容な心と開放的な気持を持っていたが、その二つともマルクスには欠けており、マルクスはうぬぼれが強く、執念深く、耐えがたいほどにペダンティックであった。日常生活において、バクーニンボヘミアンと貴族の混合物であり、彼のうちとけた態度のおかげで階級のどんな障壁をも越えることができたが、マルクスは根強いブルジョアで、彼が転向しようとしたプロレタリアートとの真の人間的な接触をつくることはできなかった。疑いもなく、人間としては、バクーニンの方が賞賛に値いする。学識と知的能力についてはマルクスがすぐれているという事実にもかかわらず、バクーニンの個性の魅力と直観的な洞察力は、しばしばマルクスをしのいでいたのである。

 個性の相違は、原理の相違のうちに反映されている。マルクスは〈権威主義者〉で、バクーニンは〈自由意思を強調する者〉であった。マルクスは中央集権主義者で、バクーニンは連合主義者であった。マルクスは労働者のための政治行動を主張し、国家を獲得する計画を樹てた。バクーニンは政治行動に反対し、国家を破壊しようとした。マルクスは現在生産手段の国有化と呼ばれているものに賛成し、バクーニンは労働者による管理に賛成した。争いは、アナキストマルクス主義者との間でそれ以来ずっと行われてきたように、現存の社会秩序と未来の社会秩序との間の過渡期の問題に実際集中された。マルクス主義者は、社会主義共産主義の目標は国家の消滅でなければならないということに同意して、アナキストの理想に賛辞を呈したが、過渡期において国家はプロレタリアート独裁の形態で維(←236頁237頁→)持されねばならないと主張した。バクーニンは、今や革命的独裁という考えを放棄してしまって、一時的混乱の危険をおかしてさえ、できるだけ早い時期に国家を廃止することを要求した。一時的混乱の危険は、どんな政府の形態もそれを避けることのできない害悪よりは危険でないと彼はみた。”(本書236-237頁より引用)

 

 

“……バクーニンは、アルフレッド・ドゥリトルと同様に中産階級の道徳に欠けていたかもしれないが、良き礼儀に対する貴族的関心を持っていた。彼は、女性の面前で悪い言葉を使ったジュラ村落の若者をしかりつけるのが常であって、理論上は、彼はネチャーエフの提案を威嚇的だと喜んだかもしれないが、実際上、それらをただ下劣なものとみていたことは疑いない。”(本書240頁より引用)

 

クロポトキン

ロシアや日本のアナキズム運動は実質的に、1903年~1905年頃にかけて、クロポトキンの思想の革命家に対する影響によってその形を整えた。その意味でクロポトキンは各国のアナキズム運動の始祖であったが、ドイツの軍国主義に反対するあまり、第一次世界大戦ではドイツと交戦するイギリス、フランス、ロシアを積極的に支持し、二月革命によって帝政が倒れ、ケレンスキー政権が成立した後にロシアに帰国してからもドイツとの徹底抗戦を唱えたため、アナキストを含むロシアの左翼陣営から孤立してしまったことが記されている(本書301-303頁)。十月革命レーニンボルシェヴィキが権力を掌握した後は、ロシアに留まりながらレーニンの赤色テロルを批判する言動を続け、1921年2月8日にモスクワで死去(本書303-305頁)。

 

 

トルストイ

著者は、最も重要で比類なきトルストイの帰依者として、インドのマハトマ・ガンディーを挙げている。

 

“ しかしながら、最も重要で比類なきトルストイの帰依者といえば、疑いもなくマハトマ・ガンディーであった。ガンディーがインドの人民を目覚めさせ、外国の支配に対してほとんど無血の民族革命を行なって人民を指導した功績は、われわれの主題にとっては外面的なことであるが、しかしこの点でガンディーが何人かの偉大な〈自由意思を強調する〉思想家の影響を受けたことは、記憶に値する。彼の非暴力という方法は、トルストイおよびソローの影響の下に主として発展し、そして彼はクロポトキンを丹念に読むことによって、村落共同体の国という彼の思想の力を得た。”(本書331頁より引用)

 

“……トルストイは、世界的な名声のためにロシア人の中ではほとんどただ一人直接の迫害を免れ、そのことを利用して、ツァー政府が理性的な道徳とキリスト教の教訓にそむいていることを何度も非難したのだった。彼は恐れることなく語り、決して沈黙してしまうことはなかった。あらゆる反逆者たちは、トルストイがそこにいて正義感のおもむくままに語っているかぎり、ロシアという大警察国家の中でも自分たちは孤独ではないと感じたし、彼の痛烈な批判は、一九〇五年から一九一七年に至る運命の期間に、ロマノフ王朝の基礎を掘りくずす役割を演じたことは疑いない。ここで再び、彼はアナキストたちに貴重な教訓を与えている。すなわち、自由に生きることを主張する一人の人間の道徳的な力は、沈黙した奴隷的大衆の力よりも大きいのだということを。”(本書332頁より引用)