【感想】『ペルソナ2 罪――Innocent Sin』、ATLUS、1999年6月24日(PS版)、2011年4月14日(PSP版)

いやー、やっとクリアしました。『ペルソナ2 罪』。今年の秋にふと、『罪』の続編の『ペルソナ2 罰』で、現職の外務大臣が進める陰謀に立ち向かう社会人のRPG主人公達の活躍を改めて見てみたいと思い立ち、いや、それならまず前編の『罪』からだ、ということで、11月にPSVitaと一緒に購入したソフトを、年末休みを利用して何とかクリア。特にやりこみはしなかったものの、プレイ時間は37時間40分!この時間を全部勉強時間に回していれば何か資格が取れたのではないか……と思ってしまったものの、娯楽なんだから気にしない。

 

さて、このゲームをプレイしたのは実に20年ぶり。2000年、中学1年の時に父親が買ってきた初代プレイステーションのソフトをお下がりでプレイしました。なんとなく続編の『罰』もプレイした気になっていたけれども、記憶を辿ってみたら『罰』については父親がやっているのを横で観ていただけで、自分ではプレイしていなかったのでした。中学1年の時に『罪』をクリアした後、父親が『罰』をクリアしたらプレイしたいと思いながら私生活や受験にかまけている内に時間が経ち、20歳の頃にプレイ動画を視聴してそれっきりでした。なので『罰』については、ストーリーは知っているけど自分でプレイしていた訳ではなく、そして記憶が確かならば、中学1年の時の『ペルソナ2』を境にゲームから遠ざかってしまったので、自分にとっては『罪』が最後にプレイしたゲームだということになります。

 

『罪』と『罰』双方のストーリーについては、さわだ様の「【そこそこ徹底ゲーム考察】『ペルソナ2 罪/罰』(その2)」『映画にわか』投稿日:2020年1月6日、閲覧日2020年12月31日、https://www.niwaka-movie.com/archives/11399 ブログ記事に私がまとめるよりも遥かに優れた考察付きの要約がございますので、詳しくはリンク先のさわだ様の記事をご覧くださいませ。以下は20年ぶりにプレイして感じた私的な感想です。

 

今回、20年ぶりに『罪』をプレイして改めて気付いたこととして、『罪』は子供の物語なんですよね。子供、というか主人公グループは高校生なんですが、中学1年の時にプレイした時にも「8歳の時に仲が良かった幼馴染グループが、高校生になった後に当時慕っていた近所のお姉さんと一緒に世界を救う(後述の通りゲームの展開上は世界は滅んでしまうんですが、中学1年当時の印象として)って余りにも子供じみてないか」と思ってしまいましたもの。今思えば後編の『罰』が大人(20代~30代の社会人)を主人公にした大人の物語なので、対比するために前編の『罪』をあえて子供の物語にしたということなんでしょうけど、当時は気づかなかった。尤もタイトルでInnocent Sin(無邪気な原罪)と題しているんだから制作者からはそれも織り込み済みな訳です。

 

で、何が子供らしい無邪気な罪かというと、エンディングの「結末をリセットしてしまうこと」な訳です。もっといえば「自分が決断したことを、結果がろくでもなかったからリセットできてしまうと考える心性」、これが罪な訳ですね。ゲーム上では、周防達哉、リサ・シルバーマン(ギンコ)、三科栄吉、黒須淳ら高校生の主人公達が、自分たちの友人や家族を死に至らしめたり廃人にしたりした悪の元凶たるクトゥルフ神話の邪神ニャルラトホテプを倒したのにも関わらず、結局のところ予言が成就して世界は滅亡してしまい、慕っていた近所のお姉さん天野摩耶も死んでしまう。その結果をなかったことにしようとするため、主人公たちがかつて出会って幼馴染になったという事実そのものをなくしたパラレルワールドを作ることで、世界の滅亡やお姉さんの死をリセットすることが『罪』のエンディングになるわけですが、まさしくこの決断が副題のInnocent Sin(無邪気な原罪)となるわけです。ひこ・田中氏は『罪』のエンディングについてこのように述べています。

 

 

“……(引用者註:ラスボスを倒しても結局世界が崩壊してしまったあとに)彼らに残された最後の選択は、過去そのものを変えること。周防達哉、リサ、栄吉、淳、そして天野(←54頁55頁→)らの出会いを全てリセットしてしまうことです。

 そうして、再び現在が始まります。彼らは、何の関係もない他者となり、すれ違いざま、互いにどこかで知っていたような気がするところでこの作品は終わります。

 リセットするしか世界を救う術はないという物語。主人公の周防達哉を操りながら成長させ、他のメンバーにも親しみを覚え、ついにラストまできたのに、仲間との関係性が全部チャラになってしまう事態。それはこれまでの多くのRPGが描いてきた邪悪な者を倒して世界を救うこととは別の世界観です。

 周防達哉たちの選択が本当に正しかったのか、間違っていたのか、この作品は最後まで何も語ってはくれません。”

ひこ・田中『ふしぎなふしぎな子どもの物語――なぜ成長を描かなくなったのか?』光文社〈光文社新書535〉、2011年8月20日初版第1刷発行、54-55頁より引用)

 

 

先ほど私は、『罪』について「子供の物語」と書きましたが、『罪』は決して「子供向けの物語」ではないんです。『罪』は「噂が現実になる」というモチーフにより、南極に逃れたヒトラーのラスト・バタリオンが出てきたり(そんな都市伝説がありましたね)、ノストラダムスの大予言を思わせるオカルト的な予言が成就して世界が滅亡してしまったりと、荒唐無稽なシナリオでありながらも、決して「子供向けの物語」ではないんです。というのも、本編中ではラスボスを倒せば全部元通りにできる、ということが語られており、本当に「子供向けの物語」ならばリセットなどせずにそのようなエンディングになったでしょう。中学1年の時の私もクリアすればそうなるのだと思いながらプレイしていました。でも、『罪』のエンディングは世界の滅亡と、滅亡をリセットするという高校生=子供の決断でした。

 

人は過去に行ったことを取り消すことはできません。どんなに不本意な状況で、後から思えば誤った決断をしてしまったとしても、その時、その決断をしたということを後から取り消すこと、リセットすることはできません。でも、誰にだって、中学生や高校生ぐらいの時にしてしまったことの中で、一つや二つぐらいは消してしまい過去の決断があるでしょう。一つの作品を丸々使ってその「消してしまいたい過去の決断」を描いたこと。これこそが、『罪』が「子供の物語」であり、そして「子供向けの物語」ではない所以だと私は考えています。

 

 

後編の『罰』では、この「リセットしたという罪」に対し、『罪』の主人公周防達哉が受ける罰がメインテーマになります。「子供の物語」だった『罪』に対して、「大人の物語」となる『罰』では、いきなりナチスの落下傘部隊が街を占拠するという荒唐無稽なシナリオだった『罪』とは打って変わって、政治家や自衛隊上層部のクーデター計画を巡る陰謀を阻止するという吉田喜重岡本喜八が撮りそうな映画のようなシナリオになるのですが、できたら『罰』の話もこのブログで展開したいなあ。特に主人公で大人サイドの代表になるパオフゥ(32歳男性)が、前編『罪』の主人公周防達哉にかける言葉がまたグッとくるんですよね。ああ、いつの間にかパオフゥよりも年上になってたよ……来年は休みが減って忙しくなるので果たして2021年中にクリアできるかな……

 

 

最期になりますが、本作品にはインターネットの黎明期であり、ノストラダムスの大予言MMRで大騒ぎしていた1999年という時間が色濃く刻まれています。主題歌になっているHITOMIの「君のとなり」も素晴らしいので、1999年ってどんな時代なんだろう?ということを知りたい方はぜひプレイしてみてください!