エキタスの「上げろ最低賃金デモ」についての雑感
本日、4月15日(土)、エキタスが主催する「上げろ最低賃金デモ」に参加するので、参加に当たって思ったことを少しだけまとめてみました。
なお、私自身はエキタスの一員でも、その他の政党、政治団体、社会運動体などの構成要因でもないため、以下述べることは全て私個人の責任で述べることであり、今回のデモの運営者の思想とは無関係であることをここに記します。また、私自身はマルクス主義者ではないこと(社会民主主義者です)も明記しておきます。
1867年(慶應3年)にロンドンに亡命中のカール・マルクスは、労働運動について次のように述べました。
“ 資本は集積された社会的な力であるのに、労働者が処理できるのは、自分の労働力だけである。したがって、資本と労働のあいだの契約は、けっして公正な条件にもとづいて結ばれることはありえない。それは、一方の側に物質的生活手段と労働手段の所有があり、反対の側に生きた生産力がある一社会の立場からみてさえ、公正ではありえない。労働者のもつ唯一の社会的な力は、その人数である。しかし、人数の力は不団結によって挫(くじ)かれる。労働者の不団結は、労働者自身のあいだの避けられない競争によって生みだされ、長く維持される。
最初、労働組合は、この競争をなくすかすくなくとも制限して、せめてたんなる奴隷よりはましな状態に労働者を引き上げるような契約条件をたたかいとろうという労働者の自然発生的な試みから生まれた。だから、労働組合の当面の目的は、日常の必要をみたすこと、資本のたえまない侵害を防止する手段となることに、限られていた。一言で言えば、賃金と労働時間の問題に限られていた。……”
(「中央評議会代議員への指示」『マルクス=エンゲルス全集 第16巻』大月書店、東京、1968年10月30日第4刷発行、195頁より引用)
日本社会で労働をしたことがある人ならば誰でもわかるように、現在、働く人々の労働条件は日常的に侵害されています。特に政治に関心がなく、左翼なんて大嫌いだという人であっても、アルバイトでさえ過労死、サービス残業、休日出勤、雇い止めといった言葉に象徴される、生きるために低賃金高時間労働を行わなければならない職場の事実を全く何も問題だと思わない人は、まず少数派でしょう。
マルクスが述べるように、原初的な労働運動は、19世紀半ばの労働者が自らを資本のたんなる奴隷よりはましな状態に引き上げるため、賃金と労働時間の問題に当面の要求を限定する形で、自然発生的に誕生しました。それから、19世紀後半に労働者階級の政党(社会民主党)が誕生し、20世紀にソ連や中国など、労働者階級の革命的前衛党(共産党)が指導する社会主義国が誕生すると、労働運動は労働者の利益を代表することをアイデンティティとする政党や国家の政治方針に規定され、その指導の枠組みの中で活動することを、成立の経緯上余儀なくされる局面が多くなったのです。各国の社会民主党、共産党、社会主義国による各国の労働運動の指導。これについては勿論、良い面も多々あったのですが、反面で、労働運動を党利党略や国策に引き回す結果をも生み出しました。我々が生きる1991年にソ連が崩壊した後の世界は、この党や国家による引き回しを受動的に支持してきた労働運動が、その功罪を思想的に総括しなければならなくなった局面で、何をなすべきかについての指針が打ち出せなくなった結果、資本の浸透を許すことに成功してしまった時代です。
恐らく、このような状況だからこそ、労働運動は初心に戻り、労働者階級の革命的前衛を称する党や国家による引き回しが起こる以前の「賃金と労働時間の問題」(マルクス)を主題にすることによって、自らの再生を遂げなければならないのでしょう。
私は共産党員でも社民党員でも新左翼諸党派の一員でも労働組合員でさえもありませんが、今回のエキタスのデモに「たんなる奴隷よりはましな状態に労働者を引き上げるような契約条件をたたかいとろうという労働者の自然発生的な試み」(マルクス)を発見することを望み、参加を決めました。
皆さんも予定が合えば私達と新宿を歩きましょう。
万国の労働者、団結せよ!