太宰治、高村光太郎、神山茂夫:76年前の日米開戦の日の涙を振り返って

 今日、2017年12月8日は1941年12月8日の日米開戦から、実に76年目である。あの日本海軍の攻撃機によって星条旗が破れ、巨艦が沈んだ12月8日の朝から、一人の人間が一生を終えられるほどの時間が経ってしまった。今日は少し、このことについて振り返ることにしよう。

 

 太宰治は日米開戦から2か月後に、妻である津島美智子氏の視点を借りて書いた小説『十二月八日』を発表している。この日より一年半ほど前に『走れメロス』を書き上げていた太宰は、1941年12月8日をこのように記していた。

 


“ 十二月八日。早朝、蒲団の中で、朝の仕度に気がせきながら、園子(今年六月生まれの女児)に乳をやってると、どこかのラジオが、はっきり聞こえてきた。
 「大本営陸海軍部発表。帝国陸海軍は今八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」
 しめ切った雨戸のすきまから、まっくらな私の部屋に、光の差し込むように強くあざやかに聞こえた。二度、朗々と繰り返した。それを、じっと聞いているうちに、私の人間は変わってしまった。強い光線を受けて、からだが透明になるような感じ。あるいは、聖霊の息吹きを受けて、つめたい花びらをいちまい胸の中に宿したような気持ち。日本も、けさから、ちがう日本になったのだ。”
(中略)
 台所で後かたづけをしながら、いろいろ考えた。目色、毛色が違うという事が、之程までに敵愾心を起こさせるものか。滅茶苦茶に、ぶん殴りたい。支那を相手の時とは、まるで気持ちがちがうのだ。本当に、此の美しい日本の土を、けだものみたいに無神経なアメリカの兵隊どもが、のそのそ歩き回るなど、考えただけでもたまらない。此の神聖な土を、一歩でも踏んだら、お前たちの足が腐るでしょう。お前たちには、その資格が無いのです。日本の綺麗な兵隊さん、どうか、彼等を滅っちゃくちゃに、やっつけて下さい。これからは私たちの家庭も、いろいろ物が足りなくて、ひどく困る事もあるでしょうが、御心配は要りません。私たちは平気です。いやだなあ、という気持ちは、少しも怒らない。こんな辛い時勢に生まれて、などと悔やむ気がない。かえって、こういう世に生まれて生甲斐をさえ感ぜられる。こういう世に生まれて、よかった、と思う。ああ、誰かと、うんと戦争の話をしたい。やりましたわね、いよいよはじまったのねえ、なんて。”


太宰治「十二月八日」『昭和戦争文学全集4:太平洋開戦――12月8日――』昭和戦争文学全集編集委員会編、集英社、1964年8月30日発行[初出1941年2月]、193-194頁、196頁より引用)

 

 戦後の学校教育やマスメディアによる記憶継承の過程では上手く伝えられなかったことではあるが、76年前の今日、多くの人々は対米英開戦を心の底から祝っていた。日米開戦の10年前に当たる1931年の満洲事変勃発以来、中国(当時は中国国民党蒋介石総統指導する中華民国)とのいつ終わるとも知れぬ戦争の泥沼の中から、中国を背後で軍事的・経済的に支援していた米英に対して宣戦布告したことによって、それまでの亜細亜人同士の戦争を黄色人種対白色人種にスライドさせて視る視点が、軍人、政治家、宗教家、右翼活動家といった大日本帝国のイデオローグのみならず、実業家や知識人、文学者、芸術家、そして民衆に至るまで、億兆心ヲ一ニシテ共有されたのである。本稿の目的はそのことを糾弾することではない。ただ、事実として、1941年の12月8日を多くの人々が歓喜の中で祝っていたことと、戦後のある時期に戦時中に集団で戦争に熱狂していたことが忘れ去られてしまい、戦争末期の空襲その他による被害者としての記憶ばかりが残ったという事実は、忘れられるべきではなかったと私は考えている。

 太宰治の『十二月八日』に戻ろう。「私」の一人称でこの小説の主人公となっている津島美智子氏が実際にこのように感じていたのかは不明であるが、少なくともこの小説を書いた時の太宰治が、日米開戦の報を聞いて、ある程度は「こういう世に生まれて、よかった、と思う」ような気持ちで12月8日を記憶していたとは言えるのではないか。

 多くの人が様々な理由から日米開戦に歓喜していたが、太宰治が「強い光線を受けて、からだが透明になるような感じ。あるいは、聖霊の息吹きを受けて、つめたい花びらをいちまい胸の中に宿したような気持ち。日本も、けさから、ちがう日本になったのだ」と書いたように開戦を捉える感覚。より正確に言えば、日米開戦によって自分と日本何かが共に変わったとして、その変化を新鮮に受け止める感覚は、時代感覚に鋭敏であるべき文学者にあって、書き記すべき感覚であったようだ。詩人、高村光太郎は同日をこのように振り返っている。

 

“ 今度の第二回中央協力会議開会の当日は実に感激に満ちた記念すべき日となった。ちょうど対米英宣戦布告大詔渙発の日となったのである。
(中略)
 世界は一新せられた。時代はたった今大きく区切られた。昨日は遠い昔のようである。現在そのものは高められ確然たる軌道に乗り、純一深遠な意味を帯び、光を発し、いくらでもゆけるものとなった。
 この刻々の瞬間こそ後の世から見れば歴史転換の急曲線を描いている時間だなと思った。時間の重量を感じた。十二時近くなると、控室に箱弁と茶とが配られた。箸をとろうとすると又アナウンスの声が聞こえる。急いで議場に行ってみると、ハワイ真珠湾襲撃の戦果が報ぜられていた。戦艦二隻轟沈というような思いもかけぬ捷報が、少し息をはずませたアナウンサーの声によって響きわたると、思わずなみ居る人達から拍手が起こる。私は不覚にも落涙した。国運を双肩に担った海軍将兵のそれまでの決意と労苦とを思った時には悲壮な感動で身ぶるいが出たが、ひるがえってこの捷報を聴かせたもうた時の陛下のみこころを恐察し奉った刹那、胸がこみ上げて来て我にもあらず涙が流れた。”


高村光太郎「十二月八日の記」『昭和戦争文学全集4:太平洋開戦――12月8日――』昭和戦争文学全集編集委員会編、集英社、1964年8月30日発行[初出1941年1月]、230頁、231頁より引用)

 

 高村光太郎太宰治よりも衒いなく、開戦の詔勅を読み上げた際の昭和天皇の心中を察して涙を流してまで、76年前のこの日、日米開戦の報と、それに続く真珠湾攻撃の戦果を喜んでいる。既に述べたように、太宰治高村光太郎に限らず、当時「非国民」ではなかった大日本帝国の大多数の国民にとって、この感覚は共であった。いや、明治時代末の大逆事件以来、「非国民」であった社会主義者からでさえ、明治以来の社会主義者で労農派マルクス主義者の指導者だった山川均は、同じく明治以来の社会主義の同志、荒畑寒村に対して、「対米戦争に参加したい」と洩らしたとのエピソードが伝わっているほどだ*1

さて、詩人である高村光太郎東京市内の中央協力会議の会場で開戦の報を聞き、感激の涙を流していたのと正に同じ頃、東京市内の警視庁の留置場の中にも涙を流している男がいた。先立つこと7箇月前のメーデーの日に第二次日本共産党再建運動の指導者として、治安維持法で検挙された革命家、神山茂夫である。とは言っても、もちろん光太郎の流していた歓喜の涙ではない。自身の革命家としての力が及ばず、日米開戦に至ったことに対する、痛恨の涙である。

 

“ 野村吉三郎大将、来栖大使の渡米につづく太平洋戦争開戦の報――「米英と戦闘状態に入れり」という発表も、私はここできいた。予測していたことではあったが、このニュースは私の心を真暗にした。いまとなっては誰もが知っているように、それは、国際的な規模での「民主主義」陣営にたいする、日・独・伊等侵略陣営の攻撃の一環として発動された不正義の侵略戦争であり、日本民族を破滅のどん底に叩きこむものだった。

 おもえば、一九三六年末、いろいろの条件の組みあわせと、獄外の同志のもとめに応じ、敵をあざむくために恥を忍んで偽装転向して出獄以来、中国への侵略戦争に反対し革命運動と党の再建のために全力をあげてきた私たちではあった。が、いま、力足らず、敵の手にとらわれて破滅的な戦争開始の報を、看守の好意によってきかされる不甲斐なさ! われわれの力がつよく、せめて労働者階級と青年たちの目だけでも開かせ、もっと強くこの戦争に反対することができていたならと、胸は痛んだ。明日の運命をも知らずに宮城にむかう大群衆の足音、天地をゆすぶるような万歳の声、人びとの心をかりたてるような軍歌と軍楽隊のとどろきが地下室の留置場までひびいてくるのを、なすすべもなくじっときいているくやしさ。にじみでる涙もおさえきれなかった。”


神山茂夫「獄中・太平洋戦史」『わが遺書』現代評論社、1975年2月25日初版[初出1954年6月]、209頁より引用)

 

 

 太宰治が「いやだなあ、という気持ちは、少しも怒らない。こんな辛い時勢に生まれて、などと悔やむ気がない」と感じた日、高村光太郎が「世界は一新せられた。時代はたった今大きく区切られた。昨日は遠い昔のようである」と感涙に浸っていた日、警視庁の留置場に囚われていた神山茂夫は、自らの革命運動がこうなる前に、当時の日本にあって有効な反戦運動を作れなかったことを悔やみ、悔し泣きに涙を流していたのであった。

 1945年8月15日以後を生きている我々は、76年前の12月8日に対するこの獄に囚われていた共産主義者の革命家の認識が、近代日本文学の小説と詩にあって、それぞれ最高峰にいた文学者の認識を超えていたことを知っている。戦時下で続く自らの治安維持法違反の裁判に際し「ケチな小細工をせず、サッパリと新法を適用して死刑にしてみろ、と嘲笑しながら無罪を主張した」*2神山茂夫は、戦争末期の連日米軍の空襲が続く日々の中で、日本の敗戦の必至と即時の無条件降伏を法廷で訴えながら、遂に1945年8月15日を迎えたのだった。

 

“ この日も、法廷ではなく、裁判長の部屋にとおされた。私が入ってゆくと裁判長はすぐたちあがった。彼はキラキラ光る目でじっと私の目をみつめていた。やがて口をひらいて「神山、さっきのラジオきいたか」とたずねた。私はぶっきら棒に「きくわけがないじゃないか。きかせないためにこそ、いれてあるんじゃないか」とこたえた。「そうか……じゃあ言うが……日本は負けちゃったんだ……お前の言うとおりになっちゃったんだ……さっきラジオで天皇陛下が自分で放送されたのだ」とおしころした声でいいながら目にいっぱいの涙をたたえた。”


神山茂夫「獄中・太平洋戦史」『わが遺書』現代評論社、1975年2月25日初版[初出1954年8月15日]、232頁より引用)

 

 開戦時に革命家として被告人席にあった神山茂夫が流した悔し涙は、敗戦時には被告人と正対していた裁判長の流すものとなったのだ。

 世に正しいことほど強いものはない。仮に一時敗北しようとも、汚辱にまみれ、失意の日々を過ごすことになろうとも、その行いが真に正しい行いならば、時を超えてその旗印を拾い上げ、後に続く者が必ず現れる。

 神山茂夫がその生涯を通して、共産主義についてマルクスエンゲルス、レーニン、スターリンの言葉を引用しながら書いたことは、今日、その大部分を投げ捨ててしまっても良いと私は考えている。しかし、共産主義の崩壊後にあって、日本の社会主義者が新たな社会主義運動の構築のためにマルクス主義を放棄したとしても、決して、かつての日にマルクス主義者だけが持ち得たこの姿勢だけは放棄してはならない。神山茂夫の涙の後に続こう。日本にあって、反戦と人民の正義の赤旗を掲げることができるのは、大逆事件の後も、76年前の12月8日も、そして今日にあってさえも、社会主義者だけなのだ。

 私は、できることなら牢獄に入りたくはないが、もし自らの抱く主義主張のためにそうなる日が来たら、自分は神山茂夫の悔し涙に続く者だと、そう胸を張りたい。

 

*1:残念ながら今回この稿を書き上げるまでに、この件についての荒畑寒村の著述が掲載された『世界』昭和33年6月号を私は入手することができなかった。苦肉の策ではあるが、典拠とした判沢弘『土着の思想』紀伊國屋書店、1994年1月25日第1刷発行、81頁より、判沢氏の記述を引くことにする。”…山川が、第一次日本共産党創立ならびに解党に際しての役割と責任を自認しようとしない点、あるいは、太平洋戦争の初期、彼が荒畑に「対米戦争に参加したい」と洩らした心の機微などについて、戦後黙秘して語らない点、荒畑は不信の言を吐いている。(雑誌「世界」昭和三十三年六月号)”

*2:「歴史の審判――八・一五前後の法廷記録――」『神山茂夫著作集 第四巻』三一書房、1975年7月31日第一版第一刷発行、11頁。