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夢の終わり、夢のはじまり――開設の辞に代えて

 最近、人と逢う夢を見る。懐かしい顔ぶれ、遭いたくて逢えなかった人、一度も逢ったことのない人。実に多くの人と夢の中で出会い、何かを話していたのだけれども、目が覚めた時には何を話したかなどはすっかり忘れてしまって、ただただ夢で逢ったことだけを憶えている。

 

 夢を見たあとで決まって思うことがある。私は夢で出逢った人の顔と、話した内容をすぐに忘れてしまうのだけれども、できれば憶えておきたいし、思い出したいのだ。けれども、何も憶えていられないことは幸いなことなのかもしれない。思い出すべてが残るよりも思い出の輪郭だけが残る方が、甘美なことなのかもしれない。少なくとも、記憶が時折もたらす残酷さには欠けるだろう。

 

 夢について憶えておきたい、思い出したいということの他にも、好きな夢を見たいというもっと積極的な願いもある。もちろん、自分の個人的な願望が実現する日の夢を見たい――勉強していた資格試験に合格したり、長らく音信不通だった友人と再び連絡を取ったり――ということもあるのだけれども、そんな私的な願望のみならず、もっと人々が集団的に見ようとしていた夢だって存在する。そう。ユートピアのことだ。こういうことである。

 

 

“ 絶対的平等主義民俗学ユートピアの一つの特徴である。その他に、食べるための労働からの解放(全員がいつも十分食べられる)、過重労働からの解放や、資源を共有する、同質の共同体などの特徴も挙げられる。このようなユートピアの特徴を総合的に描くシンボルが「富の国」(「パエゼ・ディ・クッカーニャ」)である。このシンボルは少なくとも中世から西ヨーロッパに普及されてきた。今でもイタリア各地の祭りでは、「アルベロ・デッラ・クッカーニャ」(「富の木」)と呼ばれる柱が使われている。その柱の頂上には「富」を表す多くの食べ物がぶら下がり、柱全体には油や脂肪が塗ってある。祭りに参加する若者たちはこの柱に登って「富」を取ろうとする。この柱は生命の樹木や豊穣のシンボリズムを表現するものだが、一方では、「クッカーニャ」の国も表している。その国では富は誰もが取れる自然なものである。言うまでもなく、この「クッカーニャの国」は地上の楽園の神話にも強い関係をもつ。

 ここで一つ指摘したいのは、このようなクッカーニャの国の民俗学的、庶民的なユートピアは、一八〇〇~一九〇〇年代の近代の社会運動や、政治ユートピアと直接結びついていることである。特に社会主義共産主義は明らかに、中世・ルネサンスの逆転の世界や富の国の理想を実際に建設しようとしていた。教養のあまりないイタリア共産党の多くの党員にとって、ソ連はまさにクッカーニャの国であった。五〇~六〇年代に彼ら/彼女たちに聞くと、ソ連ではみな必要なだけ仕事して、残りの時間は自由に趣味や安息に使える。みな平等で、国家が必要を満たしてくれる、という神話的な話がよく聞かれた。この人たちにとってソ連は現実の国というよりも、神話的な存在であった。それはまさに、何百年も前から希望をもって抱き続けた夢がついに実現したようなものだった。ソ連の崩壊は、この人たちにとってはほんとうに悲劇的なことだった。それは一つの夢がダメになっただけではなく、夢をもつことが自体が不可能になったことを意味したのだ。”

(ファビオ・ランベッリ『イタリア的――「南」の魅力』講談社講談社選書メチエ337〉、東京、2005年8月10日第1刷発行、201-202頁より引用)

 

 10代半ばから20代後半にかけてかつて抱いていた夢から私が離れてしまった――のかそれとも夢の方が私から離れてしまったのかは、私にはわからないけれども――後、私はこのイタリアの人たちと同じ夢を見ることはもはやできなくなってしまった。先に挙げた引用文中で夢想されているソ連が行ったことについて多くの――現在多くの人はソ連ユートピアとしてよりもむしろ、一党独裁、大粛清、強制収容所、環境破壊、民族文化や宗教への弾圧といったネガティヴな言葉で想像することだろう――否定論が存在することは、もちろん私だって承知している。それどころか、なお厄介なことに、ソ連の行った種々の蛮行は、実はマルクスの思い描いたユートピアを実現するために行われた、という事実がこの複雑さに拍車をかけるのだ。こんな風に。

 

“ 社会的流動のもう一つの主要な原因は粛清であった。責任ある職から誰かを解任した場合、その代わりが必要となった。これまで粛清の犠牲者数をめぐっては、主として統計学上の専門的な観点から、激しい論争が繰り広げられてきた。すべての推計は部分的あるいは不完全な統計に基づいており、それゆえ注意して扱われなければならない。推計は数十万人からおよそ一五〇〇万人にまでわたり、抑圧の規模をめぐって意見はしばしば鋭く対立した。この問題は公文書館史料が一部公開されたことで完全に決着がついたわけではないが、それでもその史料のおかげで、実際の人数は数十万よりははるかに高く、一五〇〇万よりもかなり低かったという点で意見の一致を見たようである。それは五〇〇万近くの数であったかもしれない。ともあれ、犠牲者が相当な数にのぼり、すべての家族が直接影響を受けたことは明白である。犠牲となった者の割合は、政治であれ(ただしスターリンの直接の側近は例外であった)経済であれ、あるいは社会、軍事、文化であれ、各分野で高い職位に就いている人々の間でとりわけ高かった[32,33,67,128,175]。たとえば政治エリートの中では、フルシチョフNikita S.Khrushchev)によれば、党中央委員会〔委員と候補〕の七〇%が逮捕され銃殺された[96:37]。その結果、一九三〇年代末までにソ連のエリートは、どの主要国のエリートよりも年齢が若く、低い社会的階層からの出身者となった。一九三九年、政治局員の平均年齢は五〇・三歳で、党中央委員は四三・七歳、人民委員会会議(内閣)メンバー〔原文は閣僚会議(内閣)幹部会メンバーだが、人民委員会会議が閣僚会議に改名され幹部会が設けられたのは第二次大戦後である〕は四二・二歳であった[17:89]。一〇月革命の目的はプロレタリアートを権力の座に就けることであった。そしてソ連では一九三九年までに、権力ある地位のほとんどが労働者階級か農民を社会的出自とする人々によって占められるに至った。このような高い社会的流動性をもたらした社会革命は、重要度の点で一九一七年の政治革命に匹敵する。一九八〇年代に至るまでソ連を率いたのは、この時昇進した人々であった。”

(グレイム・ギル/内田健二訳『スターリニズム岩波書店〈ヨーロッパ史入門〉、東京、2004年11月19日第1刷発行、39-40頁より引用)

 

 全く恐ろしいことに、イタリアの、いや、ヨーロッパ中のふつうの人々*1が中世・ルネサンスの昔から思い描いていた「富の国」の「食べるための労働からの解放(全員がいつも十分食べられる)、過重労働からの解放や、資源を共有する、同質の共同体」という理想像が20世紀に実現するに当たって、20世紀の人々は誰も富裕な人間を政治的テロリズムによってまとめて粛清し、空いた椅子に人々が座るというやり方(スターリン主義と呼ばれる)以外を思い描くことができなかったのだ*2。しかしながら、ソヴィエトと共産主義の名の下に行われた数多の蛮行の事実を承知しつつもなお私は、20世紀の半ばにあって全世界の人々が、その名の下に人類史上初めて生まれた時の宗教や民族や性別を超えて共通の夢を思い描くことができたことは、決して忘れてはならない偉業だったと思っている。付け加えるならば、今日多くの人がまともに集団的なユートピアの夢を見ようとしなくなった原因は、この恐ろしい結末を正視する勇気を持てないからではないかと、一度実現しかけて無残に挫折した夢の何が間違っており、何が正しかったかを自分のこととして意識しようとする勇気を持てないからではないかと、私の如き者は感じるのである。

 

 それでは、夢は如何にあるべきか。実現した時に悪夢になることを恐れ、日々を刹那的に生きていくことが正しいのか。徐々に縮小していく現実の圧迫の中で、夢など見ずにただただ自分の取り分さえ確保できればいいのか。

 

 そうではないだろう、と私は答える。夢ならば、もはや逢えないと思っていた人と再会することも、物理法則を捻じ曲げて不可能を可能にすることもできる。逢いたかった人と夢で逢えた、楽しかった思い出の輪郭が、つらい毎日を生きるための気力になることだってある。そのような夢を人々が共に見る方法は再建しなければならない。そうでないと、やはりこの現実が人々を侵食する日々に、誰もが耐えられなくなると私は感じるのだ。1930年代の日本の共産主義者の赤いユートピアの夢の挫折と転向が、1940年代前半の大東亜共栄圏の夢を準備してしまったように。私は長じて赤いユートピアの夢を挫折したけれども、それでも、自分の身の回りで起きることだけに自己を没入して生きて行くことはできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 前置きが長くなりましたが、当ブログの目標は座標が喪われ、夢をもつこと自体が不可能になってしまった現在にあって再び夢を見るために、何をなさなければならないのかについて、試行錯誤していくことです。中年の入り口に立ち、もはや若くない私がこれから日々感じたことや行ったことを綴る中で、御見苦しい点や至らない点が多々あるかと思いますが、御笑覧いただければ幸いです。

 

2016年12月11日

寶達辺彌由

*1:漠然と王侯貴族や大商人や高位聖職者を除いた人々だと考えて欲しい。

*2:この件についてスターリンが間違っていただけでレーニンとトロツキーは間違っていないと主張する新左翼の人々が今も存在するが、両者が「戦時共産主義」の過程で農民から食料徴発を苛酷に実施したことやクロンシュタットのアナーキスト無政府主義者)水兵の反乱を残酷に弾圧したことを思うに、農民や他党派に関する赤色テロルの質において私はレーニンとトロツキースターリンを区別する必要を感じない。三人ともボルシェヴィキ以外の政治党派に情け容赦ないテロリズムを行使した点で変わるところはないように思われる。