自己批判

中学2年生から3年生の時、インターネット上の極右言動に影響されて、左派系市民団体の方の個人サイトの掲示板に罵詈雑言を連ねたり、2ちゃんねるのハングル板で在日韓国朝鮮人の方々に対し、差別用語を使ってヘイトスピーチを行っていたことがある。ltu今思えば全くバカで、私の言動に不快な思いをなされた方々に申し訳ないという他ないが、先日、たまたまそのことを思い出し、私はこの件について謝罪も自己批判も行っていないことに気が付いた。

本稿では、1987年度生まれの広汎性発達障害者の恥多き半生を、満18歳まで振り返る。赦してもらえるとは思わないが、少なくとも高校2年で赤化してから現在まで続く私の立場上、「若気の至り」ということで済ませてはならぬことである。

事を行ってから15年以上経つが、今も私の脳裏に恥ずかしい、申し訳ない記憶としてこびりついている以上、やはりこれは書かなければならぬことなのだろう。

書くのが余りにも遅くなってしまったが、これを書いて公開しなければ、現在の自分の在り方が虚飾になると思ったので、あえて書くことにした。

恥多き、情けない人間の半生を書くことにも、しっかり書けばこのような人間にはならぬという反面教師としての役割があるだろう。告白というものは、それがどのような内容であっても、言う側も聴く側もいたたまれなくなるものだが、お付き合いいただけると幸甚である。

 

1.出生から幼稚園卒業まで(1987年~1994年3月)

 私は1987年に石川県北部、能登地方にて、母方の祖母が傾倒していた真如苑の三世信者として生まれた。いつだったか、長じてやたら仏教的な名前が付いているのはそのためだと知り、自分が普通の名前に生まれなかった理由に憎しみ半ばに納得した記憶がある。戦時中、村の素封家の家庭から食糧難を理由に小地主の家に嫁いだ直後、敗戦後の農地改革で窮乏した祖母が真如苑に救いを求めたと知ったのは随分後のことであった。ちなみに、私の生まれた1987年度(元号で言えば昭和62年度)は全員が全員、昭和生まれの最後の年である。私の一つ下の1988年度生まれから昭和63年、昭和64年、平成元年となり、平成生まれが現れるのだ。敗戦後もけじめをつけることなくダラダラ続いた日本史上最長の元号である昭和の最後に生まれた私もう三十路になってしまった。

母親の里帰り出産により私は能登で生まれたが、育ったのは神奈川県の工業都市であった。後述の事情で明らかにするように、私は育った町が憎くてならなかった。しかし憎しみつつも結局期間工になったりせずに実家に戻ってきてしまった辺り、どこかで依存しているのであろう。

私の最初の記憶は、母親に連れられた幼稚園から母親が去っていくのを泣きながら悲しんだことである。1991年に出身市内の幼稚園に入園した私にとって、幼稚園生活はただつらいものであった。よく、通園バスから降りた後、些細なことで同級生から家の近くの空き地で殴られ、やり返せなかったのが悔しかったのを今も憶えている。手も足も出なくても歯は出るので、相手にたまに噛みついて怯ませていたのだが、よく喧嘩してる相手の母親に残った歯型のことを責められ、自分は殴られ蹴られてるのになぜ自分ばかり、と理不尽に思ったのだった。母親に公文式に通わされたのもこの頃だった。やりたくもない算数や数学の範囲をこなすのは苦痛でならなかった。習わされたピアノは満足に弾けず、朝のポンキッキーズから流れてくる山下達郎の「パレード」と、父親が好きだった松任谷由実の歌を聴くことと、黎明期のスーパーファミコンのゲームをするのが僅かな慰めの期間だった。

 

2.小学生時代(1994年4月~2000年3月)

1994年に小学校に入学した後も、つらい日々は変わらなかった。理由は憶えていないけれども、小学1年から2年にかけては、昼休みや放課後にほぼ毎日同級生と喧嘩し、負けていたのであった。体格が悪いのでパンチが通らず、そのまま殴られ蹴られて床に臥し、惨めな思いをするのである。情けで入れてもらったクラスのドッヂボールでも、球技がからきしダメだったのでいつも身をかわすことしかできずに悔しかった記憶がある。発達障害者に協調性運動障害なる体を動かすことが著しく不得手な症状が伴うことがあるのを知ったのは、成人した後、つい最近のことだった。

小学2年の頃、床に落ちたご飯粒を食べたとの廉で(当時実際に私がそうしたのかは覚えていないが、気付いたらそういうことにされていた)、「不潔」というあだ名が付き、クラスの大多数から攻撃されていたが、そんな中で印象的だったのはサッカーをしていたY君である。理由を覚えていない中でY君と喧嘩になった時、みぞおちに入った彼のパンチを崩れそうになりながら堪えたことがきっかけで、彼と仲良くなったのだ。男というのはちょろいものなので、自分がバカにしていた相手が意外とやるとわかったら、急に仲良くなれるのだ。

彼と仲良くなったことで殴られ蹴られる日々はとりあえず終わったが、幼稚園時代からの延長で、親も教師も大人は基本的に助けてくれないし、周りは自分に対して敵対的であり、嫌な思いをしないために頼りになるのは力だけだという、現在まで続く私の人間観が形成されたのはこの時期だったと思う。

3年に上がり、1~2年次からクラスが替わったのを契機に、私はクラス内の強者に媚びることを憶えた。親からよく言われていた「協調性」なるものの自分なりの発露は、強者のご機嫌を取り、調子よく振舞うことであった。今思うと情けない限りだが、3~4年時はこれで上手くいったのだ。

さて、書いてきたように私は運動のできない小学生であった。当時、嫌な思いをしながら小学校から帰ってきた後は碌に上達しない習い事(水泳、絵画、公文式)やスーファミに続いて出てきた初代プレイステーションのゲームだったのだが、それに加えて好きだったのは本であり、特に図書室は心の慰めになったのだった。

小学4年、満年齢で言えば10歳になる歳に図書室で『はだしのゲン』を読んだことは、恐らく現在まで続く私の出発点なのだろう。当時、日本の近現代史についてもこの国の統治機構についても天皇制についてもよく知らないまま、『はだしのゲン』から得た戦争の悲惨さ、敗戦直後の人間の醜さは今も憶えているが、ある日、作中の著者の言葉から、両親に「昭和天皇は戦争責任者だ」という旨のことを述べたら、父親からひどく怒られたのである。曰く「昭和天皇は、マッカーサーに対して自分はどうなってもいいから国民を助けてくれ」と言ったのだと。結局それがどうなったのかは覚えていないが、今にして思えば無謀と言うか、自分でも内容をよく理解できていないことを鵜呑みにして突っ走るという、後述する中学時代の、後悔することになる私の気質の表れの初めがこれである。

その後、小学5年時のクラス替えで、『スターウォーズ』に傾倒していたA君と仲良くなった。確か彼に薦められて、当時はまだ存在したVHSで『スターウォーズ』を観たところ、SFの機械の面白さと、ストームトル-パーの放つ軍事的な魅力にやられてしまった。書いてみるとつくづく影響されやすい気質である。

A君の他、S君、H君と意気投合した結果、小学5年~6年の間は特に嫌な目に遭うこともなく、天パーでメガネのカッコ悪い奴という位置付けながらも楽しく過ごすことが出来た。よくA君の家で、4人でNINTENDO64の『007ゴールデンアイ』や初代『スマッシュブラザーズ』で遊んでいた1999年~2000年頃が、現在までの自分の人生で最も幸福な時期であった。

こうして、今から振り返れば恥多き時代となる中学時代の舞台装置、つまりスクールカースト低位の者が持つ弱肉強食的な発想と、『はだしのゲン』の政治思想、『スターウォーズ』からのミリタリー趣味という三要素を揃えて、私は2000年3月に小学校を卒業した。


2.中学時代(2000年4月~2003年3月)

私の出身市内の中学校は、基本的に荒れている。それが何に由来するのかはわからないが、少なくとも運動ができなかったり、腕っぷしが弱かったり、容姿に魅力のない人間にとっては過ごしやすい空間ではない。2000年には既に80年代終わり~90年代半ばの校内暴力や暴走族ブームは一段落し、さらに私の通っていた中学校は比較的マシな方であったが、やはりそのどれにも恵まれない私にとっては辛い空間であった。

この時期は私の人生で最も恥多き時期であった。

元々運動、とりわけ球技ができない私は、親に運動部に入るように言われたのをきっかけに、球技ではない運動部であること、『るろうに剣心』へのちょっとした憧れ、そしてなんとなくA君がいるという理由で経験者でもないのに剣道部に入ったのだが、これは私の人生で最大の決断ミスであった。剣道ができなかっただけではなく、一個上のヤクザの息子に目を付けられ、当初仲が良かった同級生からは次第に無視されるようになり、後輩からはバカにされ、と散々な日々を過ごすことになったのだが、途中でやめるのは逃げることだと愚かにも自分に言い聞かせて泣きながら部活に出続けた結果、中学を卒業する頃には完全に精神的におかしくなってしまっていた。

更に、中学1年の終業式直前の、確か通学路にミミズが干からびていた7月初頭、同級生の女子が、文脈的に恐らく私のことを指して「キモイ」と言っているのを耳にしてしまったのは、性に関心を持つこの時期の男子にとっては大きな痛手であった。ご存知のようにその当時から今に至るまでずっと、私は容姿にも同性からの格付け(スクールカースト)にも特に魅力のない、陰気な人間なのであるが、そういう言葉で自分のことを表現されるのは、小学校で殴られなれていた私の身にも痛く感じた。その日から夏休みが始まるまで、毎日、「キモイってなんだろう。どこをどうすれば自分はキモくなくなるのだろう」と暗澹たる気持ちで考えながら過ごしていたことは、30を過ぎた今も忘れない。

このように、基本的にうだつの上がらない日々を過ごしていた私は、自分の「キモさ」と対決しようと思ってできず、自分の気持ち悪さを自分で認めながら過ごすという、情けない日々を送ることになるのだが(その種の卑屈さが剣道部で孤立した原因だろう)、キモい人間はどうしたらいいのかわからずに、さらに事態を悪化させてしまうことがある。これまでなら私はただ気持ち悪いというだけで、見ている人々からはともかく、少なくとも自分の行いを恥じる筋合いはなかったのだが、そこで私は思い出すのも恥ずかしく、情けなく、申し訳ない方向に進んでしまうのであった。


前述した小学生時代『スターウォーズ』を薦めてくれた同じ剣道部のA君は、中学に入ってから米軍の現用装備を買い揃えるミリタリーオタクになっていた。A君のみならず、中学時代はゲーム『メタルギアソリッド』や『バイオハザード』などの影響もあったのだろう、同学年の内、10数人程が東京マルイの電動エアガンを所有していた。何故かサバイバルゲームに私も誘われて、O君にMP5クルツを貸してもらって近所の里山電動ガンでの銃撃戦をしていたのだが、小学生の頃には特に軍事的なものや銃器に憧れることがなかった自分にもここら辺で自分のミリタリー趣味に火が付いたのだと思う。A君のように米軍の現用装備を買い揃えたり、O君その他のように高価な電動ガンを買う事もなかったが、その代わり私は読書で軍事知識を満たす方向に進んでしまったのである。2000年代初頭には、小林よしのりの『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』(小学館、1998年)が家の近くの文教堂に平積みされていたが、私は手を出して、購入してしまった。『戦争論』を購入してしまった。

大東亜戦争」の日本の正義を説く小林よしのりの漫画本は、せいぜい『はだしのゲン』と、小学校の社会科でしか戦争のことを知らない13歳の少年の頭を席捲するには十分であった。「日本は正しいことをした!」、「反日マスコミの描く虚像から偉大な栄光の日本軍を取り戻せ!」今にして思えば恥ずかしい限りだが、うだつの上がらない日々を過ごす私の頭の中は、あっという間にそんなことでいっぱいになってしまった。

ミリタリー趣味を隠さなくなったある日、折しも、母親から祖父の烏帽子親の自伝を手渡された。戦時中に陸軍士官学校を卒業した後、公職追放を経て警察予備隊に志願し、一等陸佐で退役した能登地方の名望家である縁者の自伝である。今にしてみれば中国侵略の当事者であり、戦後は逆コース反動一直線の、私が決して負けてはならない敵なのだが、小林よしのりに影響されていた、「大東亜戦争」の日本の大義を信じ込んでいた当時の私にとっては、紛れもなく身近な英雄であった。体が弱いくせに大人になったら自衛隊に入りたいなどと抜かしていたのはこの頃である。日頃の自分の卑小さの中で勇壮に死ぬことへの憧れがあったのだと思う。

さて、私が過ごした2000年から2002年は、西鉄バスジャック事件(2000年5月13日)の「ネオむぎ茶」のように、インターネットで匿名掲示2ちゃんねる(現5ちゃんねる)が、まだ禍々しいアンダーグラウンドなオーラを放っていた時期であった。どのようなきっかけは憶えていないが、中学時代に我が家にやってきたインターネットから、私は2ちゃんねるに接続し、光人社NF文庫の軍記物語を読む傍ら、軍事板を眺めるようになっていたのであった。13歳の浅はかな子供にとっては、年長のミリオタの知識は輝かしく思えた。たちまち私はミリオタの世界の虜になってしまったのである。中学生の終わりごろにはどこからか軍歌のCDを入手し、今後はもう二度としないであろう最初で最後の靖国神社参拝を済ませたのだった。

それで済めばまだ良かったのに、私は「自衛隊の敵=日本の敵=反日市民団体」という安直な思考から、当時軍事板内にあった極右系のスレッドに貼られていたリンクから、左派系市民団体の方のウェブサイトに飛び、中学生の思いつく限りの呪詛を書き連ねた。今も私は「戦争の被害者としての民衆」像を維持してきた戦後左翼に余り好意的な感情は持っていないが、そんなことは全く関係なく気分を著しく害するいい迷惑だったであろう。「ネット珍走団」としての2ちゃんねらーに便乗する、どうしようもない中学生だった。今はサイト名さえ思い出せないが、その方には本当に申し訳なく思う。

さらに、あろうことか、普段見ていた軍事板が荒れていたその勢いのまま嫌韓厨の巣窟、ハングル板に一時入り浸り、中学生の全期間の総計で恐らく15~20レスほどの、見るに堪えない、文字にするのも憚られる差別用語を用いた在日韓国朝鮮人の方々に対するヘイトスピーチを行ったのだ。当時、私はあさはかだった。日本帝国主義の朝鮮植民地支配と、それによってもたらされた朝鮮民族の苦難の歴史がどのようなものだったのかも(当時は私は「植民地近代化論」の下、日本が朝鮮にインフラを整備してやったんだからありがたく思えと、日本が「親日派」と結んでその条件を整備するためにどれだけの朝鮮人民が民族的抵抗の中で殺害され、日本人に農地を奪われたかについての認識を欠いており、日本の朝鮮統治を特に悪いと思っていなかった)、何故日本の在日韓国朝鮮人が存在するのか、国家や社会からどんな差別を受けてきたかということについて知ろうともせず、「なんとなく気にくわないし、みんなが言ってるから反日なんだろう」というほどのレッテル貼りの上で、パチンコ利権やヤクザがどうのというあやふやなネット知識を背景に私は酷いことを言っていたのだ。2002年、私が中学3年生だった当時、2ちゃんねるでは、日韓共催W杯は、英語名が「KOREA-JAPAN」と、アルファベット順だとKよりも先にJが来るのに「JAPAN-KOREA」ではないのはけしからん、という小学生のイチャモンのようなやっかみで溢れていた。さらに、日本代表がベスト16で敗退した後も、ホームタウンディシジョンで試合を優位に進める韓国代表へのやっかみが、神奈川の公立中学の同級生のサッカーファンの間にもあった。そんな風潮の中で、私は差別用語を用いて、在日韓国朝鮮人の方々に対して酷いことを言ってしまった。当時は差別用語を使うことによるタブー破りに何かしらの快感を感じていたのだが、今思えば自分の浅はかな欲望を満たすために酷いことを言ってしまって本当に申し訳ない。

インターネットの世界だけでなかった。当時の私は、「力のない人間はいじめられ、ひどい目に遭うのはやむを得ない」というこれまた救いようのない哲学を抱いていた。ひどい目に遭って惨めな思いをしていた自分のことが嫌いだったのだろう。同学年には、最も性格の悪い女性と男性からいじめの標的にされていた同級生としてSさんとI君が存在したが、私はI君に関しては私は自分が標的にされるのが怖かったので避け、Sさんには対しては、主犯格にこそならなかったものの陰口を言っていた。当かったので時の私にとってそれは標的になっていた二人に対する「現実主義的」(この場合「弱肉強食」を意味する)な態度だったが、今思えばただ人間として卑しいだけである。

中学3年の夏に剣道部を引退し、自分のストレスが緩和されると、2ちゃんねる外の個人サイトにネット珍走団として突撃することも、ハングル板を見てヘイトスピーチをすることもなくなった。自分のしていたことを悪く思ったのではなくただ飽きたというだけの理由であった。そして、それでも軍事板は見続けていた。ミリオタとしての知識を更新することは、「安全保障のわからない一般人」に対して優越感を保つ手っ取り早い手段であったがために、手放せなかったのだ。『海上護衛戦』を読んで粋がっていたのはこの頃である。

こうして、中学を出る頃には、私は自分に対する無力感、絶望感を埋めわせるようなミリタリーや極右「嫌韓」思想の知識で満たした、卑しい人間に成ってしまっていた。中学2年の時、2001年の9月11日の塾から帰った日の晩に、飛行機がニューヨークのツインタワーに衝突するのを久米宏氏がキャスターをしていたニュースステーションで見たものの、不思議と、そのことについて当時は特に何も感じなかった。みんな何を大騒ぎしているのだろうと不思議でならなかった。今思えば、その頃には私の感覚はマヒしていたのだろう。

高校入学への準備を済ませていた中学卒業後の春休み、米英軍がイラクに侵攻するニュースの中で、私の恥多き中学時代は終わった。


3.高校時代(2003年4月~2006年3月)

時のイラク情報相がバグダード市内を進撃する米英軍の戦車はハリウッドの立体映像だと述べるニュースの中、私は出身市内の県立高校に進学した。当時、2ちゃんねる軍事板を見ていたはずなのに、私はリアルタイムでのイラク戦争についてほとんど何も憶えていない。漠然とサダム・フセインが独裁者として、自国のイラク人に対して酷いことを行っていたということは知っていたので、悪い独裁者がいなくなるのなら良いじゃないかというこれまた単純な理由と、ニュースで戦争が見られるという全く不謹慎な理由で賛成していたが、すぐに終わるだろうと思っていた戦争が、「ゼロ年代」を通して続くことになるとは、当時の私は予想もしていなかった。

高校の入学式では部活の顧問となる教師が「まるで米英軍の進撃がテレビゲームのようで、(本物の戦争が)そんな風に見られてしまうのはまずいのですが~」と言っていたことを記憶しているが、友人とその是非について話したことも、当時の私ならやっていそうな匿名掲示板で反対派を叩くということをやっていた記憶もない。僅かにA君と、高1で手に入れたばかりの携帯電話のメール機能で、イラクへの自衛隊派遣のことについて話したことは憶えている。イラク行きは心配だが北海道の部隊なら大丈夫か、とそんな話に相槌を打ったのだった。そういえば、A君は大学卒業後、幹部自衛官になったと風の便りで聞いた。

さて、そんな中で入学した高校だったが、私は既に中学の3年間で燃え尽きえていた。勉強には身が入らず、何となく山岳部に入ったもののそれも身が入らず、ということで、成績は急降下していた。自分の未来について何の展望も描けなかったのだから当然である。ただ、それでも、中学よりは過ごしやすかったので、開放感からか2ちゃんねるにレスを付けることはほとんどなくなった。高3まで軍事板を見続けていた記憶はあるが、段々どうでも良くなったというか、後述する自分自身の思想の変化により、あのミリオタの放つ雰囲気が嫌になっていったのだ。

高校1年、2003年4月から2004年3月までの間は、私の人生の中で、小学5年~6年(1998年4月~2000年3月)と並び、数少ない心安らかな時期だった。イラクでの激動は確実に存在したが、高校1年の私には中学から脱出できたことよりも些細なことだった。

人生で、恐らく最初で最後の恋愛めいたことをしたのも、この高校1年の頃だった。高校に入ってからメガネをコンタクトに変えて縮毛矯正をかけると、何故か何かの縁で別のクラスの女子のIさんと親しくなったのだ。最初、何が何だかわからないままメールのやり取りをしたり、一緒に帰ったりする内に、高1の最初の夏休み前に電話で告白されたのだった。当時全くそんな心当たりがなく、特に自分が好きでもない上に、中学以来自分に自信に持てない少年だった私はそれを断ってしまった。今思えばもったいないことをしたと思う。男というのは身勝手なもので、自分で断ってしまうと途端に意識しだしてしまうのだ。猛烈に彼女のことを意識し、気付いたら猛アタックをかけていた。その試みは割と上手く行き、高1の春休みは毎日5時間近く、何を話すでもなく電話で話していたと思う。その時に告白しておけば良かったのだが、当時も今も私はバカだったので、かけひきを仕掛けるつもりでタイミングを逸らしてしまった。彼女は傷付いたのだろう。高2の初めに同じ部活の私の友人のS君と彼女は付き合いだしたのだった。

痛恨だった。バカなことをせずに、春休みの内に素直に好きだと言っておけば良かったのだ。しかし時すでに遅し。IさんともS君とも疎遠になり、さらに共通の友人を何人か失う展開となった。全部私がかけひきめいたことをしたのが悪かったので自業自得だったのだが、よっぽどショックだったのか高2は始業から夏休みまでの記憶がない。

高1のプチリア充期にも確か、まだ2ちゃんは見ていた気がするが、なんだかんだで高校1年の時は結構楽しかったのでインターネットが生活のメインになるということはなかった。しかし、高2で失恋した後はそんなことを言ってられなくなった。好きな人も、親友も、失ってしまったのだ。それも自分のミスのせいで。

その後、中学時代以来、自分が「キモい」存在だとの意識はあったので、確か高2の半ばか高3頃から「モテない男性板」に入り浸るようになっていったのを憶えている。「俺たちは敗残者だよな」という澱んだオーラに充ちていた喪板は、しかし、ままならない現実に比べれば天国のような快適な空間であった。今よく考えれば一瞬、最大瞬間風速で、彼女の中学時代の元カレに似ているという理由でモテていたのだったが、当時はそんなことを考える余裕はなかった。それだけ切羽詰まっていたのだった。

そんなある日、相談に乗ってもらった部活の先輩から村上龍の『五分後の世界』(幻冬舎、1994年)を貸してもらったのだった。『五分後の世界』については特に大きな感想はなかったものの、これをきっかけに村上龍のエッセイを読み始め、私は村上龍社会主義国キューバを称える文章を目にするのである。これが、現在まで続く直接の私の左傾の起源である。当時、私は逃げ出したかった。ままならない家庭からも、学校からも、友人からも、受験からも、育った町からも、全てから逃げ出したかった。しかし、私には勇気がなかった。そこで観念的に、町田のブックオフで手に入れたサルサのCDを聴くことで、村上龍が讃えるキューバ音楽の世界に亡命したのだ。部活の友人達と喧嘩別れしてから満足に音楽など聴いていなかった私にとって、キューバ音楽は、とりわけコンピレーションアルバム『¡Sabroso! Havana Hits』の世界は全く未知の世界で、世の中に自分の知らないこんな世界があったのだと、少しだけこの世界から脱出できた気がしたのだった。

それからだった。キューバを知るためにフィデル・カストロチェ・ゲバラの伝記を読み、冷戦終結以後もキューバ社会主義体制を維持していること、親子世襲で人民を飢えさせている「北朝鮮」(本来は正式名称で朝鮮民主主義人民共和国と呼ぶべきだが、2000年代前半の、とりわけ2002年9月17日の小泉首相金正日国防委員長の間の日朝首脳会談で、拉致被害者の死亡が伝わった後の日本のメディアの対朝感情は最悪だった。この発表があった中学3年生の時期にはもうハングル板は見なくなっていた時期であり、差別用語こそは使わなかったものの、2ちゃんねるのニュース速報板に「ふざけるな北朝鮮」といった旨のことを書いたことを憶えているため、この文脈ではこう書く)とはまた違うという意見、そして、何より経済制裁の中で窮乏しながらもアメリカと対決しているという事実が、私の胸を捉えたのだった。

前述したように、中学の頃、韓国と、在日韓国朝鮮人の方々に対して、匿名掲示板でコソコソと酷いことを言っていた私は、その思想的な総括と反省をすることなく、朝鮮近現代史を真剣に学ぶこともないまま、しかし、2ちゃんねるで見るようなヘイトスピーチからは距離を置くようになっていた。きっかけは、高1の頃好きだったIさんの女友達のKさんが、1個上の高校の軽音楽部の先輩で、在日韓国人であることをカミングアウトしていた人を知ったからであった。話したことがあるわけでもなく、かつ、いかにも軽音部いけ好かないリア充といった趣でモテていたので気にくわなかったが、彼が体育祭のブロック誌に、本名と共に、自分の気になる事の1位と2位に韓国と北朝鮮を挙げていたことは、とりわけ当時の日本では不人気であった北朝鮮を挙げていたことは、今も憶えている。当たり前だが、在日韓国朝鮮人の皆様は、サンドバッグではなく、実在する血と肉を持った、生きた人間なのである。恥ずかしながら高1まで私はそのことに思い至らず、中学時代に自分が行っていたことを自己批判することはなかったものの、その人を遠くから知ったことで、私はインターネット上のヘイトスピーチに何か違うという感情を抱いたのだった。また、窪塚洋介主演の『GO』(行定勲監督、2001年)を、高1の時周りで窪塚洋介が流行っていたという理由で、前評判をよく知らずに観たことも、私の中の偏見を解消するきっかけだった。映画の中でジョンイルが殺されてしまう部分はいくら何でもやりすぎじゃないかと高校生ながらに思ったが(生かしておいた方が展開的にはすっきりしそうである)、警官が窪塚に対し、昔付き合って在日韓国朝鮮人の女性の話をする部分などで、そんなことは日常的に多々あるのだろうなと、そう思ったのだった。


高2の秋は転機だった。高校に入り、たまに軍事板を見るぐらいでほとんど軍事関連の知識のアップデートも行わず、小林よしのりの『戦争論』に続く『ゴー宣』シリーズもめっきり読まなくなっていた中で、中学時代から続く思想的な混乱をどうにかしなければならないと、そう思ったのだ。

私が『戦争論』に共感したのは、反戦的な主流なマスメディアではほとんど触れられない欧米帝国主義に対抗する存在として日本の正義を描いたからであった。しかし、日本はアメリカとだけ戦争していたのではない。アメリカと戦争する前に中国と戦争していた。それなのに、アメリカと戦争したことだけを以て、大日本帝国を欧米帝国主義と対決したと讃えてしまって良いのだろうか。中国の領土で中国人と戦い――当時私は認めたくなかったが――多くの中国人に犠牲を出しながら、白人の帝国主義と対決したことを誇るのは、何か無理があるのではないか。一方で、キューバは、革命の輸出こそ行っていたものの、自分達と近いよその国に攻め込んだことはなかった。キューバを援助していたソ連(当時の私には悪の全体主義収容所国家であった)の崩壊後も孤立無援で(厳密には1999年に成立したベネズエラの故チャベス大統領政権が石油の供与を開始していたのだが、当時の私はそんなことを知る由もなかった)、北朝鮮のように核兵器を作らずにアメリカに対抗していた社会主義国であった。正義は大日本帝国ではなく、キューバにあった。

一方、高校入学当時、すぐに終わると思っていたイラク戦争は泥沼化していた。前にも書いた通り、2003年当時の私は、非道な独裁者、サダム・フセインが倒れればすぐに民主化してイラクも良くなるだろうと漠然とブッシュJrと小泉路線を支持したまま、イラクのことに興味を失っていた。事態は全くそんなことはなく、独裁者を倒して自由民主主義を植え付けるという発想自体が、アメリカ型民主主義が輸出可能であるという発想自体をアメリカ帝国主義イデオロギーだと批判しなければならなかったのだと、私は朧気ながら考えるようになっていた。そこで崩壊したソ連や収容所国家である北朝鮮チベット人その他の少数民族を弾圧する中国(当時の2ちゃんねる軍事板での中国はそのように扱われていたと思う)をアメリカ型自由民主主義の対抗国として挙げることはできなかったが、そう、私には村上龍に教えてもらったキューバがあった。

そんな中で2004年の夏か秋のある日、たまたまはてなダイアリーで、当時メディアや2ちゃんねるでは散々にバッシングされていた高遠菜穂子さんらイラク日本人人質事件についての記事を読む機会があった。「高遠菜穂子さんは散々なバッシングを受けたが、戦争による被害が止まないイラクに、手弁当でボランティアに駆け付けた弱きを助ける「侍」は、今の日本では高遠さんだけなのではないか」という趣旨の記事だった。私の社会についての準拠点は、中学以来2ちゃんねるであり、とりわけ軍事板の「リアリズム」ミリオタと、ニュース速報板の極論であったが、私はここで、メディアの建前ではなく、しっかりと自分で物を考えて発言する人を初めて知ったのだ。


私は赤化した。学生時代に読むことになる、マルクスエンゲルス、レーニン、トロツキー毛沢東スターリンといったマルクス主義の基本文献を読むこともなく(『共産党宣言』は薄かったので読んでいたが、当時は読んで何を思ったのかを憶えていない。理解できなかったのであろう)、帝国軍人から陸上自衛官への逆コースを歩んだ自分の縁者やその他親戚達の中国やアジア諸国を侵略したことの責任問題からの逃避、自分が中学時代に行っていたヘイトスピーチや、それを支える朝鮮近現代史への無理解などはそのままに、私は左傾した。当時はトロツキーについてほとんど知ることもなく、収容所に支えられたスターリン主義に反抗するとの名目で「トロツキスト」を名乗りつつ、実のところ穏健なスターリン主義国そのものであるキューバに憧れを抱く左翼となったのだ(私が詩人エベルト・パディーリャに対する「パディーリャ事件」のような思想弾圧事件や、キューバアンゴラ派遣軍司令官だったアルナルド・オチョア将軍の粛清などの、カストロが起こしたについて知ったのは19歳の時である。今よりももっとずっとナイーヴだったため、村上龍は嘘吐きだと憤慨した記憶がある)。そのことについて特に宣言などを残すことはなかったので、それがいつだったかを特定することはできない。その決意も、同じ部活で、高2で失恋した後の私の面倒を見てくれた、今でも親友のN君に話しただけだ。そこには、ソ連崩壊後の日本にあって、とにかく嫌われ者の代名詞でしかなかった左翼になることで、自分自身が嫌われているのではなく、自分の属性が嫌われているのだと思いたいというニヒルな動機もあった。ただ、高2の終わりごろ、17歳の時に、今まで敵そのものであった左翼に私はなったのだ。

当時の私は、本稿でこう書いているように何かに書いて自己批判することはなかったが、中学時代までの自分の情けない、卑しい、人間として恥ずかしい在り方を、丸ごと葬り去りたかったのだと今なら言える。

その後、高3の私は、世界史の老教員のS先生から授業時間を借りてキューバ革命について同学年の生徒の前でアジテーションをするなど、活動家の真似事のようなことをしながら、受験を終えたのだった。

高校時代、私は自分の進路については全く何も考えていなかった。ただ、自分が何故生きているのか、何故、今の世の中はこんなにもわからないことだらけなのか、どうすればこの思想的混乱から抜け出せるのだろうか。大学では真面目にそのことを考えたい。頼りにならない親の言う通りに工学部に入ってエンジニアになる人生なんか真っ平だ。私は文学部を第一志望にした。今思えば革命家志望なのだから法学部に志願すれば良かったのに、当時の私には就職に役立つ勉強など死んでもするものかという若さで充ち溢れていたのだった。その決断は、4年後、就職を控えて大いに後悔する決断であり、高1で理科と数学の勉強から燃え尽きてドロップアウトしてしまったことは今も後悔しているが、1年ぐらいなら浪人してでも国立大を受けておけば良かったと今にしてみれば思うが、ろくろく勉強もしなかったのにとりあえず現役で第一志望だった都内の私大の文学部に受かったのだった。こうして2006年3月に私は高校を卒業した。


4.現在

大学時代と大学卒業後のことについて、私はまだ何も書けない。ただ言えることとして、大学1年の時のゼミで思想的混乱に決着を付けないまま持論を打ってゼミ生に迷惑をかけたこと(こちらは後に当事者二人に謝罪した)、大学1年の頃の上級生から嫌韓的な言辞が出てきた時に、自分の中学時代を総括しないまま引いてしまったことを憶えている。

その後も思想的混乱を総括するための努力は一向に身を結ばず、ようやく自分で自分のことが納得できるようになったのは、2017年、実に去年、29歳の時であったことを書くのみである。17歳で、それまでの自分を全否定すべく赤化した私は、しかし、ソ連崩壊で失敗したマルクス主義の遺産とどう向き合うべきか、日本の近現代史をどう解釈すべきか、現在の問題をどうすべきかなどの諸問題について、残念ながら納得いく結論を出せないまま、ズルズルとここまで来てしまった。ただ、最初はニヒルな動機も含めて、嫌われ者の左翼になれば自分が嫌われていると思わずに済むというそんな動機も含めての左傾だったのが、10年以上同じことを続けていれば、それが自分の人格になってくるということは、大きな発見だった。


今回、私が本稿を書くことにしたのは、懺悔のためであり、自己批判のためであった。中学時代、卑しかった自分が行ったネット珍走団行為やヘイトスピーチは、謝って赦してもらえるような性質のことではないだろう。今後も、自分はバカであの時酷いことを言ってしまったと、悔やみ続けると思う。ただ、私が17歳の時から、思想的混乱と精神の崩壊が重なった25歳から26歳の一時を除いて、ずっと自らを左翼だと自称しているのは、ただ、あの時の自分の卑しさが嫌で、それが訣別したい醜い自分だったとの思いがあるからだということは、あの時酷いことを言ってしまった皆様に、赦してもらえずとも、いけしゃあしゃあと何様だと言われようとも是非とも書いておきたかったのだ。これは、今の私がこうなっているのは、自分なりのケジメのつけ方なのだと。

大学時代以来、私は「スタ」崩れなので、「トロ」が主流の日本左翼の中では傍流であり、そもそも日共には批判的なので、今後も私が日本左翼の中で主流となることはないであろう。組織的な才覚はないので労働組合や協同組合で上手くやっていけるとも思えない。大学院に進むことを諦めてしまったので、アカデミズムの中で過ごすこともできない。元来広汎性発達障害者なので、労働者として上手くやっていくこともできない(ライン工をしてみたら、ラインの速さに戸惑うようなスペックである)。

私生活でも、高校1年の時に一度だけあった恋愛の機会は、自分自身のバカさゆえに逃してしまった。その上、これだけ一般社会の主流的な発想から距離が出来てしまったとなると、今後人並みの幸せを手に入れることは難しいだろう。そもそも私のような恥多き人間が幸せになってもいいのだろうか?そんな資格があるのだろうか?という疑問もある。

ただ、それでも、私はそれなりに、現在の観念的に左翼であること以外に特に何もない自分に満足している。もし、中学時代のようなことをずっと続けていたらと思うと。もし、思想や日本の近現代史に関する疑問を持つことなく無事に理系のエンジニアになった後に、嫌韓その他の排外的民族主義を鼓吹する文物に触れてしまったらと思うと。もし、自分の出自その他を嫌がることもなく、敗戦後、マッカーサー元帥を恨みながら真如苑に心の救済を求め続けるような在り方を、自分も辿ってしまったらと思うと。

私は、これまで何も達成できなかったし、恐らくこれからも大したことはできないだろうけれども、その都度その都度、自分が納得するまであれこれと考え続けてきたことは、決して無駄ではなかったと思っている。客観的に見ればフラフラしているようにしか見えないだろうし、そしてそれは私が私の生を恥多き生と呼ばなければならない理由でもあるのだが、安全地帯にいて何も悩むこともなく、ただその時その時の勝者や主流派の言うことに安全な距離を置きながら賛同し、寄らば大樹と人込みに紛れるよりも、自分で自分に納得する一人の異端者でありたい。

幸いなことに、私の身近にはずっと人がいた。しかし、これから誰もいなくなって、本当に一人になるかもしれない。それでもいい。一人になっても、私は今の世の中と敵対していたい。無条件降伏だけはしたくない。

脛に傷のある変節漢が何を大真面目に正論を語るかと思われた方もいるだろう。あなたの仰る通り、私は変節漢だ。ただ、残念ながら、私の能力では、こういう形でしか私が嫌で嫌でならないこの時代と対抗することが出来なかった。もっと器用に、もっと利口にやれれば良かったのだが、私は根っからバカで頭が悪いから、その時その時に感情の赴くまま失敗して、そこから学ぶことしかできなかったし、これからもきっとそうなのだろう。

私はようやくここまで来れた。中学時代の、恥多く、卑しい日々を、自己批判し、それを公開することができた。もう私は、二度と転向することはないだろう。


かつて私の言動、行動で不愉快な、腸の煮えたぎるような思いをさせてしまった全ての方々にこの場を借りてお詫び申し上げることで、本稿を閉めくくることにします。本当に、すみませんでした。