日本古典文化の不継承と民衆の戦争責任について

“これまで日本の左翼全体に支配的であったのは、一方に戦争の被害者としての民衆があり、他方に被害者から委託をうけて加害者を追求する正義の味方としての左翼陣営があるという代行制の構図であった。既成左翼の形骸化や平和宣伝のマンネリ化の主因はこの代行図式の虚構性にあった。”
(高橋彦博『左翼知識人の理論責任』窓社、1993年7月5日第1版第1刷発行、54頁より引用)

 

1.はじめに
金槐和歌集』が好きだ。祖父の北条時政に兄である二代将軍、頼家が粛清されたことにより、やむを得ず三代鎌倉将軍に就任するも、結局、数え28歳、満26歳の若さで甥の公暁に暗殺されてしまった悲運の将軍の、どうしようもなく深い孤独が歌のそこかしこから伝わってきて、そうか、孤独な青年は800年前にもいたのだなと、そんなことを感じられるのは『金槐和歌集』だけだから。


左翼である私がそう言うと、保守派の人士からは奇異に見えるらしく、保守に転向しろというようなことを言われることがある。全くそんなつもりはないのだが、どうやらその方には、現在の保守派を名乗る人々の多くが特に和歌に興味を示していない中、社会主義者である私が『金槐和歌集』に興味を示すという状況そのものが不健全に見えるらしい。

なるほど。言われてみればそうかもしれない。治安関係者や保守派の政治家、ビジネスパーソン、文化人、活動家といった人々の中で、日本の古典文化に親しい人として私に思い浮かぶのは、竹下正彦退役陸将と旧田中派細川護熙元総理ぐらいである。あえて田中角栄元首相の漢詩については述べないが、この印象にさして大きな間違いはないのではないか。

ふと、そんなことを考えていたある日、そういえばとばかりに日蓮宗の僧侶で宗教評論家であった丸山照雄師が、生前、1995年に哲学者の桑田禮彰氏との対談でこんなことを述べていたことを思い出した。長くなるが以下に引用する。


“丸山 ちょっと話があと戻りするみたいですけれども、文化の伝達の基礎単位は、私は家族だと思うんです。その家族が解体している。文化伝承が途絶えているというところから、家族の解体の実態というものが、また見えてくるんです。確かに、日本という言葉もあるし、日本という国もあるように錯覚していますけれども、実態としては、はっきり言えば、社会に蓄積された文化が日々刻刻と伝承されていく、あるいはそれが再生産されていくというところで、はじめて日本という社会が成り立っているわけです。ところが、その再生構造が見えないし、意識化がされていない。問題は伝統社会ではなくて近代社会ですから、意識化してなければならないんです。再生というのは、単に自然に生まれるものではなくて、意識的に再生していかなければならない。それが途絶えてしまった。
 文化伝承が途絶えているということは、社会的に言えば、ふつうは教育機関がまず頭に浮かぶわけですが、教育機関でいままでいかなる文化をどのようにして伝承するかということは、ほとんど論議の外だったんです。まったく議論されていない。教育の文化伝承機能というものが、戦後五〇年間、時間だけは経ちましたけれども、まったくそういう意味では、混乱したまま、方向性を見いだすこともできず、問題を自覚することもできず、そのまま放置されてきてしまった。ものすごい危機だと思うんです。これがイスラム社会とか、キリスト教文化の強い社会では、社会が放っておいても、宗教がその再生構造を担います。日本のように宗教の社会的な力の弱いところでは、文化伝承と再生構造というのは、まったく機能停止してしまうんです。
 いまの日本人は一人ひとりを見ると、アイデンティティを喪失してしまった人たちである。あなたは日本人ですよと言われても、きょとんとしてしまって、どこから自分は日本人として自覚していいのか、手掛かりもない。外国の人がいろいろいて、たとえばアメリカ人ではないし、中国人でもないし、朝鮮人でもないから、たぶんそれ以外の人であろうというふうな、そういう対他的な関係でしか、自己認識できてないと思うんです。また、困ったことに、世界から見れば、日本という一つの地域社会に、その地域性のなかに、独自な文化を形成し、創造し、伝承してきたんだということを考えることをいさぎよしとしないで、常にコスモポリタンな位置に自分を置きたがる日本の知識人の傾向がそれに拍車をかけている。これは本当に限度ぎりぎりのところまできてしまって、敗戦後五〇年というこの区切りで、もう一度、問題の深刻さの自覚化が起こらないと、日本列島は沈没しないかもしれませんけれども、日本という社会は沈没してしまいますね。もうすでに沈没しかかっていると私は思うんです。
 そういうたいへん重要なところにさしかかっていて、そこでいまの戦争責任の問題は、一つの非常に重大な試験紙みたいなところがある。「いちいち謝罪することはいかがなものか」というふうな、文部大臣の発言がありました。彼はあの戦争を行った世代にもっとも近い世代、私よりも一つか二つ下ですから、若干、戦争体験がある世代です。一番、戦争を行った世代に近いところにいる人間です。実際に戦争を行った人たち、日本社会のリーダーであった人たちはとくに、本心、戦争の責任のなかに入ってないんです。悪いことをしたなんて思ってないです。不可避的に日本は戦わざるをえないような環境に置かれて、侵略もし、そこで殺戮もせざるをえなかったんだ、と言うわけです。むしろ責任はアメリカ、ヨーロッパにあって、自分たちは、自分の国が生き延びるために不可避の戦争をやったんだと思っているんです。だから「いかがなものか」という言葉が常に出てくるわけです。いかにも、かつての国際的な日本の置かれた地位、立場を弁護し、擁護しているように見えるんだけれど、おっしゃるとおり、文化の伝承は同時に責任の伝承でもあるべきなのに、そこを断ち切ってしまうんです。戦争の実態を明らかにせずに、棚上げにしたいという願望から、すべての文化の再生構造を断ち切ってきた。ナショナルな立場、あるいは国家主義的な立場のように見える彼らが、じつは自己否定をしてきてしまった。そういう構造のなかにあるんじゃないかと思うんです。”
丸山照雄・桑田禮彰『対峙の倫理――日本の現在を生きる』藤原書店、東京、1996年2月29日初版第1刷発行、123-126頁より引用)

論旨を損なわないために長い引用になってしまったことをお赦し願いたい。私自身は文化伝達の基礎単位が家族であるかについては若干の疑問を持っているが、「文化の伝承は同時に責任の伝承でもあるべきなのに、そこを断ち切ってしまうんです。戦争の実態を明らかにせずに、棚上げにしたいという願望から、すべての文化の再生構造を断ち切ってきた。ナショナルな立場、あるいは国家主義的な立場のように見える彼らが、じつは自己否定をしてきてしまった」という丸山師の言葉は、不気味なまでの正確さで今日の状況を見通していたのではないか。


今回、私はこのことについて、長年の自分が考えてきたことを整理するため、本稿を書くことにした。ただ、当然ながら、今日の状況を築き上げたのは戦後の保守政治エリートだけではない。本稿は、この丸山師の言葉に沿って、文化の継承の前提となる責任の継承がいかに伝承されなかったかを改めて確認するものである。

 

2.前提

具体的な論述に入る前に、まず、先の戦争(十五年戦争)に於ける日本の戦争責任を問題にするに際し、それは具体的に誰の責任なのかについて定めておきたい。

本稿では戦時中の日本人を軍部、知識人、天皇、民衆の4類型に分類することにする。当然ながらもっと多くの類型が存在するのだが、話を簡単にするために、政財界人は軍部に、文学者や宗教家や革命家などは知識人に、その他はすべて民衆にという雑な分類で話を進めることにする。

まず軍部について。実際に戦争計画を立案して戦争を遂行したこの人達の戦争責任を疑える人は、どのような立場であれ存在しないであろう。戦後の戦犯裁判で処刑されなかった旧帝国軍人は、戦後「昭和の武人」として自衛隊に勤めたり、政界や実業界で活躍したり、一部は左翼知識人となったりとさまざまな道を歩んだが、概ね戦時中も戦後も自ら行った戦争による責任を感じつつ生きたとまとめられるであろう。もちろんそれが良かった悪かったかについてはまた別の話であるが、本稿では省略する。

次に知識人について。知識人については統一した行動があったわけではないが、大学知識人からは、三木清鈴木成高高坂正顕西谷啓治高山岩男のような論壇で活躍していた京都学派の人たちのような人々が、「東亜協同体」や「近代の超克」を掲げる立場から、日本の戦争に大義を作る知的活動をしていたことは周知であろう。京都学派のみならず、日米開戦まで強く反軍部と反共産主義を同時に主張していた「戦闘的自由主義者」こと東大教授の河合栄治郎中華民国(中国)との戦争やアメリカ合衆国との戦争については、自分なりの立場から肯定していたし、講座派マルクス主義者の主要人物であった平野義太郎は、転向後、日米戦争中には大アジア主義を唱えて戦争を翼賛していたのであった。大学知識人ではなかった文学者やジャーナリストや批評家ら言論人に関しても、個人主義原理を徹底することで国家的な見地から自由になれた永井荷風以外のほぼすべての文学者は、程度の差はあれ文学報国会や言論報国会の会員として翼賛の筆を取っていたことを忘れてはならない。もちろん、自由主義知識人の中には戦時中にあえて何も書かなかった林達夫や、あるいは検閲のギリギリのラインで反政府的な論陣を張っていた石橋湛山清沢洌といった人々が存在したし、マルクス主義知識人の中にも唯物論研究会の創設者の一人であり、敗戦直前に刑務所で獄死した戸坂潤のように、マルクス主義者としての筋を通した人士も存在した。また、大学知識人や文学者、ジャーナリスト、批評家以外からも、共産主義者の革命家の中には以前当ブログで論じた(註)神山茂夫のように獄中非転向を通した人がおり、概ねが大日本帝国を翼賛していた宗教家の中にも宗教的な信念から時の政府に反対していた浄土宗の林霊法、真宗大谷派東本願寺の竹中彰元、天理本道(ほんみち)の大西愛治郎、創価教育学会の牧口常三郎灯台社の明石順三、ホーリネスの人々といった人々が存在したが、残念ながら、戦時中に於いては孤立した少数者でしかなかった。知識人については、例外的な少数者以外の大多数は戦争に協力し、さらに民衆が戦争に協力するための理論を作り出したことに関する責任があったとまとめられるであろう。なお、この件について興味がある方は北河賢三『戦争と知識人』(山川出版社、2003年)や米原謙『日本政治思想』(ミネルヴァ書房、2007年)をご覧いただきたい。

三番目に天皇について。昭和天皇の戦争責任について、古今、多くの人々が正否双方の立場から論を提出している。本稿を書いている筆者は、昭和天皇自身が十五年戦争についてどのような意見を持っていたにせよ、自ら帝国陸海軍大元帥の資格で開戦の詔勅を発したことによる形式的な責任は免れ得ないと考えているが、本稿では以下の理由により、これ以上は深入りしない。

なお、以下の引用文で挙げられるページ数は、高橋彦博氏が論じている「第二〇回・現代史シンポジウム」(1989年開催)の報告となった『現代史における戦争責任』(青木書店、1990年)の頁数である。

“ 八〇年代の前半まで、日本人として加害責任を自覚する声をあげると、加害者という言葉に対する強い反発が返ってくる状況があった(一三三ページ)。八〇年代の後半ごろから、加害者としての責任を明らかにしようとする動きが「大衆のなかからあらわれてきた」のであった。そこで加害責任論が戦争責任論の「新しい展開」の仕方として注目されることになった(一三七ページ)。なぜ八〇年代の後半ごろから加害責任が自覚されるようになったのか、その経過の分析は今後の検討課題として残されているが、もはや戦争責任が被害体験の視点からのみ追及されることがなくなっている、そのような戦争責任論の今日的到達点が、今回のシンポジウムにおける第一の確認事項になっていると見てよいであろう。
 ところで日本人の加害体験は、ある特異な立場に置かれているのである。ドイツの場合には、戦後の領土問題で被害者の立場が自覚されるとしても、被害を追求する相手がソ連でありポーランドであって、ドイツ国民の加害責任が鋭く問われている相手と同一であった(六六ページ)。したがって、ドイツの場合には、被害者意識の発言が屈折せざるをえない事情があった。ところが、日本の場合、被曝や被爆の害をこうむった相手はアメリカであると設定されていて、加害責任が自認されるとしても、害を加えた相手は主に中国や東南アジアの人びとであるので、日本では、被害者意識を「誰恥じることなく、臆面もなく口に出せる」のであった(六六ページ)。日本において被害体験の露出にドイツの場合におけるような抑制要因のないことが、かつての加害についての無自覚を放置し、かつての加害者(引用者註:ここは「被害者」が正しいのではないかと思われるが、原文の儘とした)にたいする形を変えた新たな加害の再生産を加える臆面のなさを生みだす構造になっているのである。日本の戦争責任問題における被害体験と加害体験の二重構造の所在が、今回のシンポジウムにおける第二の確認事項になっているとみてよいであろう*。

*オーストリアは、ナチス・ドイツの被害者であるが、同時にナチスの共犯者としてバルカンの諸民族にたいする加害者であった。被害と加害の二重構造においてワルトハイム問題におけるオーストリア国民の対応が引き出されていたとする解明がなされている。望田幸男『ナチス追及――ドイツの戦後』講談社現代新書、一九九〇年(八四ページ)。望田氏のこの本は、平和運動はその原点を被害体験に置くだけでなく、「加害の罪」を正面に据えるところから出発すべきではないかとする問題意識によってまとめられている(同書「あとがき」)。

 ただし、ここであえてつけ加えれば、次のような検討課題が浮上している。戦争責任を加害体験の自覚を含めてとらえ直す立場は、戦争責任を「他者の戦争責任」として理解するのではなく「自分の責任」として「自覚」し「反省」する立場であった(二七ページ)。ところが、日本人の加害責任が自覚されにくい構造として被害と加害の二重構造があるだけでなく、その二重構造が被害者と加害者の分離となって人的に固定している実態がある。たとえば、戦後処理として「アジアにおける日本の戦争責任」が不問に付された経過が分析されても(四一ページ)、その分析結果は、同じく戦後処理として責任が問われなかった天皇の責任追及へ直結されることになる(五一ページ)。そして、その瞬間、日本人一般の側における「自分の責任」を主体的に問う視点が忽然として消え去るのである。せっかくの加害責任論は、天皇の戦争責任追及に収斂されてしまうのである。これは、天皇制批判者によって作り出される天皇制の魔術と言えよう。天皇制批判者に強くある代行主義の容認は、民衆の主体性確立を求めない――それがこの魔術の中味である。”
(高橋彦博『左翼知識人の理論責任』窓社、1993年7月5日第1版第1刷発行、7-9頁より引用)

 

少なくとも日本では1945年から1990年代まで、先の戦争に於ける民衆の加害責任を論じようとしていた人々は(もちろん、それは親世代の加害行為を問うという苦しい行為である)、しかし天皇制批判者であるが故に、民衆の戦争責任を天皇の戦争責任論に直結させてしまうことで、民衆固有の戦争責任をそれとして追及することができなかったのである。高橋彦博氏が「天皇制批判者によって作り出される天皇制の魔術」と呼ぶこの現象に足を取られないためにも、本稿では天皇の戦争責任については、それがあると思いつつも深くは論じないことにする。


最後に残ったのは民衆である。民衆の戦争責任については、次節で詳しく述べることにする。

 

3.民衆の戦争責任

冒頭部にて高橋彦博氏の言葉を引用したように、戦後左翼は、日本の民衆を「戦争の被害者」として位置づけることにより、自らをその被害者の委託を受けて戦争の責任者である軍部や天皇と戦う存在であるとする代行主義の図式を作り上げてしまった。前節で見たように、この知的風土の中では、民衆の戦争責任は論点として稀薄にならざるを得ない。しかしながら、日本の民衆は、実際にはさまざまな動機から、自ら「大東亜戦争」を「聖戦」として戦ったのである。その構図を追う事には多少の精神的な痛みを伴うが、臆さず追うことにしたい。

何故日本の民衆は「聖戦」を戦い得たのか。それはこれから私が追っていくところであるが、私の考えを述べると、当時大多数が農民であった日本の民衆は戦地にあっては故郷の村落共同体のため、銃後にあっては戦争の勝利がもたらすであろう物質的な利益を得るため、ということがその理由としてあったと言えると思う。前者の地元の村落共同体のために戦うということは、サッカーのサポーターが自分の出身地のクラブに寄せる熱情が、国家に寄せられる姿を想像すればわかりやすいだろうし、後者の戦争の勝利による物質的な利益については、各国が国威発揚と資源の獲得のために植民地争奪の帝国主義戦争を繰り広げていた19世紀の世界を思えば、それを支持した人々の心情の想像は難しくないであろう。そして、それぞれを媒介していたのが天皇制であり、とりわけその装置の一つとしての靖国神社であった。

前者について、説得的な議論を概観するため、まずは、三里塚水俣に分け入り、その内部矛盾を描いたノンフィクション作家の吉田司氏と、東北学の赤坂憲雄氏の対談を見ることにしよう。

“赤坂――吉田さんは『東北学』第六号に寄せられたエッセイで、「ハレ」と「ケ」の理論を、日本人の戦争観に援用できないかと書かれていますね。
吉田――民俗学の「ハレ」と「ケ」の論理を、近代や現代に援用して語ることができるような気がするんですよ。僕は近代天皇制は、結局、民衆を「ハレ」の舞台に引きずり上げたと思うんだ。建て前としては四民平等でしょう。靖国神社って侵略神社だっていわれるけれど、あれ、侵略神社かね。ホントは四民平等神社じゃないの。明治に入って士農工商がとりあえず解消された。みんな平等だよとなった。みんな名字帯刀を許されてサムライとなった。そういうことだよね。だけど、サムライって軍人だよ。みんなが晴れて軍人になれる、それが近代における平等だったといっていい。結局は「お前らを晴れて名誉な身分のサムライに取り立ててやったんだから、お国のために殺してこい、名誉のために死んでこい」っていうのが近代日本の戦争の論理だった。『葉隠』の「武士道とは死ぬことと見つけたり」なんてサムライ精神が庶民思想としてすり替えられ、そしてその霊が納められる舞台が靖国だった。
近代天皇制は国家のために死ねといった。そういわれているよね。これも実はあやしいんじゃないかな。あれ、実は共同体のために死ねといっていたんじゃないか。現実的には日本人はそんな情念で戦ったんだ。両親や兄弟姉妹や、ふるさとの山河を思って死ぬというのはそういうことですよ、お国のために死ぬということが共同体のために死ぬということと二重構造になっていた。そんな民衆の情念を、近代天皇制や国家が支えた。だからこそ日本の民衆は戦争に加担してしまったんだ。そういうことだったと思うんですよ。
共同体の「ハレ」の日はなんといってもお祭りですよね。神の前で歌い踊る。その時みんな仮面をかぶるわけですよ。仮面をかぶると固有名詞がなくなっちゃうんだよね。日本の村落共同体には固有名詞がなかったなんて学者たちはいっている。ところが村のなかに入るとよく分かるように、みんないろんな歴史を持っている。ちゃんと屋号を持っている。それぞれの位置を持っている。無名なんかじゃない。みんな有名ですよ。有名だからこそみんなで記憶を持ち合っている。三代四代前まで、お互いの家の悪業を知り合っている。「火事出した」とか「不倫した」とか「お縄付き」だとか「犬神筋」だとか、「血統」だとか――そのご先祖の死んだ父や母の”罪と罰”をみんな背負って村の共同体の中で暮らしている。相互監視し合っている。村ってのはそういう記憶バンクなんです。僕は”大地のコンピュータ”って呼んでますが、そのアナログ時代の情報コンピュータに蓄積された「村の記憶」罪業帳が、村人の個人主義をギリギリ縛り上げてきたんです。だから抵抗できない。だから村が成立する。
ところが「ハレ」の日っていうのは仮面をかぶるとだれだか分かんないんだよね、もう。有名性がなくなっちゃうわけですよ。神の力が共同体を支配する記憶を一瞬であれ消すんだよ。神の名のもとに、全てが解除される。”村のコンピュータが機能しない日”(笑)。この時だけは有名の個人の責任から解き放たれる。共同体の隠し持つ非常に無秩序なパワーが解放される。そうすると、祭の夜にはなにをやってもいいことになる。セックスだってフリーだとかさ。乱行でもなんでもしたって構わないわけですよ、もう。アナーキーな無礼講でたいがいのことが許される。そして、祭が終わったらなにごともなかったかのように日常が再開され、コンピュータが動き出す。祭の夜だけは、ディオニソスで、だれがなにをやったかは問われない。これを日本人は戦場でやっちゃったんじゃないか。村々の神社で仮面をかぶって踊る。終わったら日常生活に戻る。「ハレ」の日の自分と「ケ」の日の自分は別人格だ。この論理が戦場にも持ち込まれたような気がしてならないんです。
軍人という、いわば”晴れの日”の武士の原理を持った民衆として〈天照大神〉の神の名のもとに召喚された。聖なる鬼の仮面をかぶって神兵となった。確かに戦地でひどいことをしたけれど、それは日常生活における自分がやったことではない。アマテラスの仮面をかぶった別人格がやったことだ。そして、死んだ時には靖国神社に神として祀られる。神さまの命によって行われた聖なる戦い、つまり「ハレ」の戦争に向かった自分と、戦争に負けて、つまり祭が終わって日常生活に戻った「ケ」の自分は、別人格である。だから「ケ」に戻った時「俺たちのせいじゃない」ってなっちゃったんだよ。この論理のすりかえが戦後の「民衆に戦争責任はない」なんておかしな理屈の基盤にあるんじゃないか。この論理でいけば、民衆は無責任でいいんだ。国家は共同体の持つこのディオニソス的な闇の力を動員したんだといっていい。近代天皇制は民衆の闇の力をアジアの昼日中に引っ張り出したんだ。”
吉田司赤坂憲雄「東北よ、近代を語れ!」初出2002年7月、『吉田司対談集――聖賤記』パロル舎、2003年4月20日第1刷発行、407-410頁より引用)

吉田司氏が「両親や兄弟姉妹や、ふるさとの山河を思って死ぬというのはそういうことですよ、お国のために死ぬということが共同体のために死ぬということと二重構造になっていた。そんな民衆の情念を、近代天皇制や国家が支えた」と論じているように、日本の民衆は、自分たちを生み育てた共同体、つまりムラのために戦うということと、天皇のために戦うということをオーバーラップさせていた。だからこそ、明治以来、江戸時代まで武士の下で特に戦闘に関する訓練を受けてこなかった日本の民衆は、あれだけ強固な兵隊となり得たという説明は、説得的であるように私には思える。


といっても、共同体の、つまり村の人間関係を背負うということだけで人間が強く戦えるとは思い難い。恐らく、次に引用する物質的要素=物欲主義が、民衆の中で自分でもどちらが建前でどちらが本音なのかがわからなくなってしまうほどに強固に国家のスローガン「尽忠報国」、「滅私奉公」、「忠君愛国」、「欲しがりません、勝つまでは」(つまり、勝てば欲しがってもいいのだ!)と結びついていたからこそ、特に大きな民衆内部の抵抗が生じることなく、国家は戦争を継続できたのではないか。つまり、こういうことである。

“……日本人の戦争協力の根拠は、知識人の場合はいざ知らず、少なくとも大衆(その基本的な部分は農民)のレベルにおいては決して建前にあったのではない。というより、上からの建前(国益論)は庶民レベルのエゴイズムによって強引につつみこまれ、食いつくされたといってよい。いま、そのような庶民的国益論を象徴する一つの会話を引き合いにだそう。
 それは、橘孝三郎の『日本愛国革新本義』のなかに紹介されている、彼が車中で立ち聞きしたという「純朴そのものな村の年寄りの一団」の会話の一節であるが、満州事変直後のある雰囲気を彷彿させるものがある。
 「どうせなついでに早く日米戦争でもおっぱじまればいいのに。」「ほんとにそうだ。そうすりゃ、一景気来るかもしらんからな、ところでどうだいこんなありさまで勝てると思うかよ。何しろアメリカは大きいぞ。」「いやそりゃどうかわからん。しかし日本の軍隊はなんちゅうても強いからのう。」「そりゃ世界一にきまってる。しかし、兵隊は世界一強いにしても、第一軍資金がつづくまい。」「うむ……」「千本桜でなくとも、とかく戦というものは腹がへってはかなわないぞ。」「うむ、そりゃそうだ。だがどうせまけたって構ったものじゃねえ、一戦争のるかそるかやっつけることだ。勝てば勿論こっちのものだ、思う存分金をひったくる、まけたってアメリカならそんなにひどいこともやるまい、かえってアメリカの属国になりゃ楽になるかもしれんぞ。」
 ここには、日本の農民のむきだしの本音が表出していて、ひとをある感懐にさそわずにおかない。単純明快、傍若無人というほかないであろう。知識人橘孝三郎は、「この純朴な老人の言を聞いて全く自失せざるをえなかった」(『日本愛国革新本義』)。
 そして、かかる農民的エゴイズムは、自覚的な対象化された理念として自己選択されたのではなく、むしろ自生的な価値感にとどまるものであったから、侵略主義のどのような建前をもその固有の価値感から受け入れ、受け入れた以上は、それにもとづく自己運動が展開されるという関係がなりたったと思われる。かくて尽忠報国や滅私奉公のスローガンは、その裏面にべったりと庶民的物欲の論理を付着せしめたものとしてたちあらわれてきた。そして、大衆意識のレベルにおいては、この滅私奉公の建前と、かくされた(ある場合は、おのれじしんにたいしてさえ、かくされた)物欲主義の価値とは、殆ど何の内部緊張も伴なうことなく並存しえていたといってよい。しかも、私見では、この滅私奉公主義と物欲主義のちがいは、たんなる建前と本音の乖離といった近代的概念をもっては把握しきれぬもので、日本の大衆は、つねに上からの建前を自己の本音で色あげして、それを受け入れて来たといえると思う。たとえば、戦争中、領土の拡張ということに異常な関心を寄せていた人びとが、日本軍の進攻に応じて地図を赤くぬりつぶしていたのは、私どもの記憶に新しいが、こういう所作こそが、聖戦の建前にかくれた物欲主義の代位的表現だったのであり、そこでは、建前と本音の明確の区別すらつけがたかったといえるであろう。
 だが、建前と本音が明確にふりわけられて現れることもあった。そして、これもまた、つねに庶民的エゴイズムの論理に規制されていたといえるのである。たとえば、近所の息子に召集が来ると、家の内では、「手がなくなって気の毒に」とか、「いい気味だ」とか話しあうのに、外にでては、「お芽出とうございます」と挨拶する。また、息子を召集されたほうはされたほうで、うちうちでは「困った困った」といっていても、一歩家をでると、「うちの息子も、今度、晴れて御奉公することになりました」などといわざるをえない。しかも、日本の大衆は、全くなんの緊張も、葛藤もなく、こういう使い分けを当然のこととしてやっていたのである。
 そして、注意されなければならぬのは、こういう意識構造からは、戦争の被害(息子をとられる、というような)にたいして、家をこえて連帯をつくりだすなどということは、殆ど不可能なのである。日本の国体ナショナリズムは、国家――部落――家という縦断的支配の原理によって、大衆の横断的連帯の動機をたちきり、これをよく戦争協力に動員しえたといえるであろう。”
(津田道夫『日本ナショナリズム論』盛田書店、1968年9月30日初版発行61-63頁より引用)

戦時中、日独伊三国同盟により日本の同盟国であった、ファシスタ党の独裁者ムッソリーニが率いるファシスト・イタリアでは、1943年に戦局が不利になる中で、ソ連から秘密裏に帰国した共産主義者の知識人革命家に先導された民衆内部から反戦・反体制の罷業(ストライキ)や抵抗運動(レジスタンス)が作りだされ、最終的にはムッソリーニ自身がイタリア人のレジスタンスによって処刑されるという形で戦争が終結した。以下にその概略を引用する。
“ 政府を苦境に追い込んだのは内紛だけではなかった。内紛はむしろその結果であったのだが、ファシズムの崩壊にもっとも貢献したのは、労働者階級の英雄的な抗争であった。そしてこの抗争を指導した共産党であった。北伊に党指導部が確立されたのは前章にのべたとおりである、組織は徐々に回復され、いたるところに細胞がつくられていった。争議は断続的に突発するようになった。このころファッショ警察にも、戦争忌避の感情、それゆえまた戦争遂行の政府の政策を批判する感情もあって、かなりのゆるみがみられ、政治犯にたいする追及も以前より緩和されるようになっていた。スペイン戦争ころにすでにそうであった。スペインでは反ファシストは例外なく銃殺されたが、イタリアでは最悪でも終身刑だと伝えられたし、じじつそのとおりであった。このような状況も手伝って、北伊の労働者の抗争は、ドイツ軍の占領までは、かなり公然と展開することができたのである。
 一九四三年三月五日にトリーノのフィアット・ミラフィオーリ工場に開始された罷業は、一週間のあいだにトリーノの全工場に波及し、二週間目には全ピエモンテ州に波及した。ファシズム支配いらい、ファシズム政府がみた最初の最大罷業であった。しかもそれが政治的性格をもっていたことも特徴的であった。三月二〇日から二七日にかけて、ミラノを中心としてロムバルディーア州がこの波におそわれ、つづいてジェノヴァもまきこまれた。トリーノ、ミラノ、ジェノヴァはイタリアの三大工業都市である。これが活動を停止したことは、全イタリアの経済活動をまひさせたのを意味する。国内に潜入したウムベルト・マッソーラが直接指導した四三年三月の北伊総罷業は、ファッショ政府の死命を制する第一歩であった。この争議でファッショ民兵の一部が労働者に同調し、警察が労働者の検束に同意しなかった事態を想起すれば、情勢がすでに政府にきわめて不利に傾いていたことを理解できるだろう。政府は屈服して譲歩した。
 四三年の大罷業を遂行した労働者階級は、四四年三月一日ふたたび北伊全土にわたって総罷業を敢行した。それは文字どおりの総罷業であり、イタリア最大の新聞『コルリエーレ・デッラ・セーラ』紙も三日間は発行不能となり、交通機関の不通とあいまって、政府活動はもとより、市民生活もまったく混乱におとしいれられた。第一回目の罷業がファッショ政府の打倒に寄与したとすれば、第二回目のこれは、新ファシスト共和政府のもとでおこなわれたそれであって、この新政府と、その背後にあったドイツ軍に、大きな打撃を与えることに成功した。これはゲリラ戦を展開していた抵抗運動の勝利を確実にするものであった。
(中略)
 抵抗運動は、それに参加した市民に、ファシズムを自己の手で倒したという自信をあたえ、この運動の成功が統一戦線にあったことを教えた。またファシズム打倒の目標は、ふたたびファシズムを出現させてはならぬという観念を、再確認させるものであり、それはファシズムとむすんだ王政を、戦後に駆逐する動機ともなった。抵抗運動は、その性格自体から、またその発展過程においても、民主主義への道をひらくものであった。新生イタリアは、このようにして、抵抗運動がその出発点となった。
(山崎功『パルミーロ・トリアッティ――その生涯と業績』合同出版、1965年8月12日第1刷発行、1978年6月20日改装第1刷発行、172-173頁、174-175頁より引用)

空襲や食料不足による闇取引の一般化などの民衆のモラルの低下は、戦争末期には当局も認識する問題となっていたが、それでも同時期のイタリアで起きたような自覚的な革命的祖国敗北主義に基づいた反戦・反体制のストライキレジスタンスは、戦時中の日本では遂に発生しなかった。神山茂夫を筆頭とするその任務を達成しえた日本の前衛的共産主義者反戦運動を理由に獄中にあったが、恐らくは彼等が獄外にあっても、当時の日本の民衆の天皇信仰の強さからすれば、天皇制に反対する共産主義者の指導を受け入れて戦争終結のための反乱を起こし得たかについては疑問である。そのような中で、日本は昭和天皇の「御聖断」を待つことで「終戦」を迎えたのであった。ここに、私は、日本の民衆に固有の戦争責任を、様々な理由から積極的であれ消極的であれ、戦争を望んでいた日本の民衆の姿を見るのである。

 


4.欺瞞の日々
以上のような経緯で1945年8月15日を迎えた日本人には、建国以来の敗戦という難事に際し、満洲事変に歓喜し、南京陥落やシンガポール陥落を提灯行列で祝い、真珠湾攻撃を歓呼で迎え、アッツ島玉砕の報に涙し、ニミッツマッカーサーを地獄に逆落としするという戦時歌謡を歌い、空襲の不安の中で本土決戦の準備をしていた昨日までの自分たちの姿を、自分たち自身で納得できるように自分に説明する必要が生じた。

 恐らく、このことについて、知識人の中で最も嘘がなかったのは、戦前日本共産党シンパの自由主義者として過ごし、日米開戦後はあえて何も書かないこと*1で言論による戦争翼賛を行わなかった林達夫であろう。林達夫は1950年8月に発表した文章で、自らの1945年8月15日について次のように述べている。

“ あの戦争そのものについても私は一般とは少しく別な解釈をもつ人間であるが、そして私は決してその戦争を是認しているわけではないが、しかし戦争に敗れるということの暗い恐ろしさを、世界史に生きた先例の数々は私に前もって教えてくれていた。だから勝目のあるとも思われぬあの戦争に、それかといって事もなげに人々の言ったようにおいそれと負けることにも、私は堪えられない理不尽な思いに駆られていたのである。私はあの八月十五日の全面降伏の報をきいたとき、文字通り滂沱(ぼうだ)として涙をとどめ得なかった。わが身のどこにそんなにもたくさんの涙がひそんでいるかと思われるほど、あとからあとから涙がこぼれ落ちた。恐らくそれまでの半生に私の流した涙の全量にも匹敵する量であったであろう。複雑な、しかも単純な遣り場のない無念さであった。私の心眼は日本の全過去と全未来とをありありと見てとってしまったのである。「日本よ、さらば」、それが私の感慨であり、心の心棒がそのとき音もなく真二つに折れてしまった。
 嫌悪に充ち満ちた古い日本ではあったが、さてこれが永遠の訣別となると、惻隠(そくいん)の情のやみ難きもののあることは、コスモポリタンの我ながら驚いた人情の自然である。何かいたわってやりたいような心のこる気持で、私はその日その日を送っていたが、かかる心に映るぎすぎすとうわずった、跳ね上がった言論の横行しはじめたことがどんなにやり切れなかったことだろう
(中略)
 あの八月十五日の晩、私はドーデの『月曜物語』のなかにある「最後の授業」を読んでそこでまたこんどは嗚咽したことを思い出す。戦前、戦中、私は或る大学でアメリカ合衆国史を講じていて、当時としては公平至極に歪曲しないアメリカのすがたの闡明(せんめい)に努めたものだが、その日以来私はぴったりアメリカについて語ることをやめてしまった。もはや私如きものの出る幕ではなくなったからである。日本のアメリカ化は必至なものに思われた。新しき日本とはアメリカ化される日本のことであろう――そういうこれからの日本に私は何の興味も期待も持つことはできなかった。私は良かれ悪かれ昔気質の明治の子である。西洋に追いつき、追い越すということが、志ある我々「洋学派」の気概であった。「洋服乞食」に成り下がることは、私の矜持が許さない。「黙秘」も文筆家の一つの語り方というものであろう。事アメリカに関する限り、私は頑強に黙秘戦術をとろうと思った。コンフォルミスムには、由来私は無縁な人間であったのだ。”
林達夫「新しき幕開き」『共産主義的人間』中央公論新社、1973年12月10日初版、1999年9月25日16版、106-108頁より引用)

戦争をイデオロギーによらずに、自らの強靭な個人主義精神によって最後まで翼賛せずに乗り切った永井荷風は8月15日の日記に「S君夫婦、今日正午ラヂオの放送、日米戦争突然停止せし由を公表したりと言ふ。あたかも好し、日暮染物屋(そめものや)の婆、鶏肉葡萄酒を持来る、休戦の祝宴を張り皆々酔うて寝に就きぬ」(磯田光一編『団腸亭日乗(下)』岩波文庫、274頁)と書くことが出来たが、やはりこれは戦争に反対して獄中にあった政治犯や宗教家と同様に例外的な少数者の感想なのであって、「私はあの八月十五日の全面降伏の報をきいたとき、文字通り滂沱(ぼうだ)として涙をとどめ得なかった」という林達夫のような姿こそが、敗戦時の日本の知識人の平均的な実感だったと考えて差し支えないだろう*2

さて、知識人はこのように自らの経験を文字にして意識的に書くことが出来た。それでは、自らの意識を特に自覚して残すことがなかった民衆についてはどうであろうか。先に引用した1929年生まれの津田道夫は、敗戦当時まだ10代の旧制中学生だった自分の経験に照らして、民衆の敗戦経験が書かれて来なかったという困難を自覚しつつ、戦時中の隣組のオバさんと、軍国教師であった自分の父親が、敗戦を境に変わってしまったことを題材にして、このように記している。

“……だが、わたしには、書かれて来た経験の底に、また語られて来た経験の底に、決して語られることのなかった日本の平均的な大衆の巨大な経験が横たわっていて、それが書かれて来た経験を白々しいものに仕立てあげているように思えてならない。わたしが、日本の大衆の敗戦体験という場合には、もっぱらそれを指すのである。
 だが、この巨大なる経験は、書かれることも、自覚的に語りつがれることもなかった。とすれば、わたしには、何を素材にそれを構成することができるのか。やはり同時代を生きてきたものとしてのわたしの生活体験の諸断片以外にないのであろう。いま、それらのいくつか、それがかの巨大なる経験を構成するための典型的な事実素材ともなりうると想定されるいくつかを摘記してみる。たとえば、こういうことだ。うちの隣組に、かなりおしゃべり好きのオバさんがいて、あるとき母がちょっとばかり具合が悪く、防空訓練か何かをサボってねていたことがあるが、そのとき眼をむいて怒っていたそのオバさんが、敗戦の直後、アメリカの余剰のトウモロコシ粉が配給になって、それをわが家の縁先で各戸毎の南京袋に分け入れていたさい、「マッカーサーさまさまネ」といったものである。わたしは、別に怒りとか悲しみとかいうものを覚えたのではないが、しかし、いささかヘンだな、という感懐に襲われたことは確かだ。件のオバさんは、それを何の自嘲もまじえずにいった。それは、例のおしゃべりのなかに挟み込まれた一言にすぎず、勿論、だれも気にとめはしなかった。そんなことを、今思い出せるのも、居合わせたうちでわたし一人くらいなものだろう。
 だが、わたしには、こういう「マッカーサーさまさまネ」というような日常会話が、当時の日本の大衆の共通の思想(ことわっておくが、表現されざる無定型の大衆の思想も思想である)のある局面を表白していると思えてならない。
 それにしても、このオバさんのマッカーサー的観念の基礎は、いったい何だったのであろうか。それを速断する前に、もう一人の証人にご登場願おう。当時、町の高等女学校の国漢の教師をしていた父である。
 父の日記から
 昨年の七月であったと思う。今年七五才の父が四万温泉に湯治にいっていた留守に、実家の二階――そこは物置のようになっている――にあがり込んでガサガサやっているうち、父の日記の山が発見された。わたしは、父がずっと欠かさずA5版のノートッブックに日記をつけていたのを、子供の頃から見て知っていた。そのノートの表紙に、父はかならず「文選爛秀才半」(文選ただれて秀才半ばす)というキャッチフレーズを書きつけていたのも、この言葉を引いてよく説教された経験からして知っていた。しかし、内容を読むのははじめてであった。そして、一つの奇妙な発見をしたのである。
 父は、戦時中の日記に、かなり綿密に戦況の推移・大本営発表の戦果の一覧表などを作ってかきつけていた。勿論、新聞からの書きうつしであろう。そして、重要な事項については、傍線が付されるとか、かこみがほどこされていて、また、校長や同僚の先生がたの時局知らずの態度にたいする批判などもあって、その日記は、それとして戦争日記として読めた。ところが、まったく奇妙に思えるのは、それほど丹念に戦局の推移などを書きとめていた父の日記の様子が、敗戦とともにガラリと変わってしまうのだ。すなわち、敗戦の翌日から社会的な問題については一切ふれず、まったく家庭生活の日常の記述だけになってしまう。社会問題には、ふれぬことを生活信条としてしまったかのようだ。それは、頑(かたく)なとさえ感得されるのである。
 それにしても、父の日記のこの急変の意味はどこにあったろう。わたしには、ある推断ができるのである。父は、埼玉県児玉郡の某寒村に水呑百姓(父の表現でもあった)の次男として生まれ、小学校高等科をでただけで、何度かの検定を通って公立中等学校(旧制)の教諭になった。典型的な教学大系と価値を身につけた”模範的な”教師であったと思う。その父は、空襲が激しくなると、真夜中でも警報を聞いて学校にかけつけていた。
 田舎町で、食糧不足の折でもあり、三月ともなれば受験生の親たちが、何かの手づるで紹介されては、米や卵をもって”よろしく”とたのみにくるのであった。そんなとき父は絶対に品物を受けとろうとはしなかった。それがわが家の生活規律にもなっていて、母なども受験期になると父の留守へのつけとどけにたいして、とくに神経質になっていたようだ。ところが、である。父は、敗戦の翌年からは、それを何でも受けとるようになってしまった。いまから考えれば、食糧事情がいっそう悪化していたといえるのであろう。が、わたしには何となく不安に思えて、受けとってしまっていいの? ときいたことがある。これに対する父の答えは、”どうにかなるかと思って頑張ったが、結局、どうにもなりゃしないじゃないか”ということだった。父はまた、ほかの連中(ほかの先生がた)だってどんどん受け取ってる、ということもいっていた。そして、この変化は、その日記における変化とそのまま対応しているのである。
 ダマサレタ論と一億総懺悔論
”どうにかなるかと思って頑張ったが、結局、どうにもなりゃしないじゃないか”――いま思えば、この言葉で父は、あの戦争中の頑張り主義が、その背後に庶民のエゴイズムをべったりと付着させていた、政治観念にもとづく自己欺瞞にほかならなかったことを告白してくれたのである。その政治観念の根拠(聖戦)が終りを告げられたとき、そこにはむきだしの物欲の論理が発現せざるをえない。先の隣組オバさんのマッカーサー的観念の基礎も、実は、日本の大衆のエゴイズム以外でなかったと思う。
敗戦は日本の大衆のエゴイズムをむきだしの形で解き放った。しかし、ひとびとは、昨日までの自分のありかたを説明しなければならなかった。自分自身にたいして、自分で説明しなければならなかったのである。そのとき、日本の大衆は”軍部にだまされた”という以外になかった。日本の大衆の間に、あの頃”だまされた”という実感とも自己欺瞞ともつかぬ合言葉が氾濫して行ったはずである。そして、この合言葉は、昨日までのおのれのありかたにたいする説明であるとともに、そのまま、きょうのおのれのありかた――むきだしの物欲主義を合理化する言葉としても還帰して行った。
 しばらくすると、どこそこの誰さんが復員して来たといううわさが聞かれるようになったが、それはかならず、あそこの息子は内地にいたから毛布を何枚もちかえったそうだ、という形のうわさであった。その頃、負けぶとりという言葉もきかれ、あまりもちかえったので、夜かえってきたのだそうだ、というようなこともいわれた。
 それにしても、この大衆レベルにおける「ダマサレタ」論は、支配者側の説明言葉としては「一億総懺悔」という形をとってあらわれた。まさに支配者の側におけるナショナリズム不在論の原型といえるが、それは、いうまでもなく敗戦直後、日本支配階級の代弁人として登場した東久邇宮稔仁が、組閣後第一回の記者会見でいいだしたスローガンで、これが責任回避の論理=頬被りの論理の極めて端的な表白であったのはいうまでもない。だが、自己合理化=自己欺瞞の論理としての「ダマサレタ」論と、責任回避の論理としての「一億総懺悔」論は、同質のエゴイズムの大衆レベルと支配者レベルの双方における二つの発現形態にすぎなかったのである。”
(津田道夫『日本ナショナリズム論』盛田書店、1968年9月30日初版発行、23-27頁より引用)

そう、民衆は故郷のムラのために、あるいは戦争の勝利の後に得られるであろう物質的利益のために、必死になって「聖戦」を戦っていた自分の姿を、戦争に負けた後は「軍部に騙された」ことにして、自らの戦時中の行いを自らに説明することにしたのである。

このことについて、恐らく民衆の中からは決して出てこない、敗戦1年後の民衆の在り方を最も正確に表現したのは坂口安吾であろう。坂口安吾は1946年12月に「続堕落論」にてこのように述べている。

 

“ 昨年八月十五日、天皇の名によって終戦となり、天皇によって救われたと人々は言うけれども、日本歴史の証するところを見れば、常に天皇とはかかる非常の処理に対して日本歴史のあみだした独創的な作品であり、方策であり、奥の手であり、軍部はこの奥の手を本能的に知っており、我々国民またこの奥の手を本能的に待ちかまえており、かくて軍部日本人合作の大詰めの一幕が八月十五日となった。
 たえがたきを忍び、忍びがたきを忍んで、朕(ちん)の命令に服してくれという。すると国民は泣いて、ほかならぬ陛下の命令だから、忍びがたいけれども忍んで負けよう、と言う。嘘(うそ)をつけ!嘘をつけ! 嘘をつけ!
 我ら国民は戦争をやめたくて仕方がなかったのではないか。竹槍(たけやり)をしごいて戦車に立ちむかい、土人形のごとくにバタバタ死ぬのが厭(いや)でたまらなかったのではないか。戦争の終わることを最も切に欲していた。そのくせ、それが言えないのだ。そして大義名分といい、また、天皇の命令という。忍びがたきを忍ぶという。何というカラクリだろう。惨めともまたなさけない歴史的大欺瞞(ぎまん)ではないか。しかも我らはその欺瞞を知らぬ。天皇の停戦命令がなければ、実際戦車に体当たりをし、厭々(いやいや)ながら勇壮に土人形となってバタバタ死んだのだ。最も天皇を冒涜する軍人が天皇を崇拝するがごとくに、我々国民はさのみ天皇を崇拝しないが、天皇を利用することには狎(な)れており、そのみずからの狡猾(こうかつ)さ、大義名分というずるい看板をさとらずに、天皇の尊厳の御利益を謳歌している。何たるカラクリ、また、狡猾さであろうか。我々はこの歴史的カラクリに憑かれ、そして、人間の、人性の、正しい姿を失ったのである。”
坂口安吾「続堕落論」『堕落論角川書店、1957年5月30日初版発行、1968年11月25日18版発行、1999年5月10日改版73版発行、108頁より引用)

 

「我ら国民は戦争をやめたくて仕方がなかったのではないか」という安吾の言葉は、確かに戦争末期の民衆と知識人に共通した心性でもあったであろう。しかし、空襲下の食糧難の中であれ、反戦運動で捕まった革命家、神山茂夫を裁いていた裁判長が涙を流しながら「お前の言う通りになってしまった」と述べていた時の心情や、大学知識人である林達夫が全面降伏の報に滂沱として涙を流しながら「日本よ、さらば」と敗戦を悲しんでいたその心情は、玉音放送が流された直後に皇居前広場にて涙ながらに額づいていた民衆の姿とも通じるものがあったと、私は考えている。だからこそ、一方で戦争を止めたいと思いながらも、同時にこの戦争に必ず勝たねばならないと思い、勝つべきだと思っていたからこそ全面降伏の報に涙を流して敗戦を悲しんだ民衆の姿も、また真実であったであろう。しかし、ここでその時の自分たちの姿と感情に「嘘をつけ!嘘をつけ!嘘をつけ!」と繰り返す坂口安吾は、そして安吾が代弁していた民衆は、こう述べることで自らに嘘をついてしまった。自分たちはあの時実は、敗北してでも戦争を止めたかったのだ、いや、実は敗戦を望んでいたのだという嘘をつくことで、戦時中の自分たちが何故、如何にして、戦争に協力してきたかについて考えることを止め、自らを被害者としての立場に置いてしまったのだ。やはりこれは、安吾が言ったのとは別の意味で歴史的大欺瞞であった。「我らはその欺瞞を知らぬ」と安吾は言ったが、知らないのも当然である。当時、まだその欺瞞は、存在しなかったのだから。

そして、このような欺瞞に満ちた敗戦直後の民衆の姿を説明する知識人の新星が現れる。戦後民主主義のチャンピオン、丸山眞男氏である。時系列的には前後するが、1946年5月に発表された論文、「超国家主義の論理と心理」では、恐らく戦後初めて民衆の戦争責任について論じた、注目すべき部分が存在するので、以下に見ることにする。

 

“ さて又、こうした自由なる主体的意識が存せず各人が行動の制約を自らの良心のうちに持たずして、より上級の者(従って究極的価値に近いもの)の存在によって規定されていることからして、独裁観念にかわって抑圧の移譲による精神的均衡の保持とでもいうべき現象が発生する。上からの圧迫感を下への恣意の発揮によって順次に移譲して行く事によって全体のバランスが維持されている体系である。これこそ近代日本が封建社会から受け継いだ最も大きな「遺産」の一つということが出来よう。(中略)更にわれわれは、今次の戦争に於ける、中国や比(フィ)律(リ)賓(ピン)での日本軍の暴虐な振舞についても、その責任の所在はともかく、直接の下手人は一般兵隊であったという痛ましい事実から目を蔽ってはならぬ。国内では「卑しい」人民であり、営内では二等兵でも、一たび外地に赴けば、皇軍として究極的価値に連なる事によって限りなき優越的地位に立つ。市民生活に於て、また軍隊生活に於て、圧迫を移譲すべき場所を持たない大衆が、一たび優越的な地位に立つとき、己れにのしかかっていた全重圧から一挙に解放されんとする爆発的な衝動に駆り立てられたのは怪しむに足りない。彼らの蛮行はそうした乱舞の悲しい記念碑ではなかったか(勿論(もちろん)戦争末期の敗戦心理や復讎(ふくしゅう)観念に出た暴行は又別の問題である)。”
丸山眞男杉田敦編「超国家主義の論理と心理」『丸山眞男セレクション』平凡社、2010年4月9日初版第1刷、76-77頁より引用。)

一見、この説明はわかりやすく思える。江戸時代以来の封建遺制が近代に入っても残ってしまった日本では、「上からの圧迫感を下への恣意の発揮によって順次に移譲して行く事」がすべての組織に共通して現れ、とりわけ軍隊では、「圧迫を移譲すべき場所を持たない大衆が、一たび優越的な地位に立つとき、己れにのしかかっていた全重圧から一挙に解放されんとする爆発的な衝動に駆り立てられた」、だから日本軍は残虐行為を起こしたのか、と。

注意したいのは、この丸山眞男氏の説明では、前節で見てきたように、故郷のムラへの愛郷心や、戦争の勝利の際に手に入るであろう物質的な利益などの様々な理由により戦争に協力し――少なくとも反対せずに――戦った民衆の姿が見えてこないことである。この件について、「続堕落論」と「超国家主義の論理と心理」の、私が今引用した部分について論じた鷲田小彌太氏の説明は説得的であるので、ここに引用する。なお、本稿での坂口安吾丸山眞男氏を対比するという発想は、完全に鷲田小彌太氏のものであるゆえ、ここに氏に対する謝意を表する。

 

“ ここに書き記されている「一般兵隊」、「卑しい」人民は、安吾のいうように自己欺瞞的に生きた国民のイメージとは、およそ正反対のものである。あるいは自己欺瞞的に生きた国民とはつながりをもたない。私的領域に生きる国民のイメージは徹底的に排除され、国家に一元化された、「『国体』のあやつり人形」(吉本隆明丸山真男論」『一橋新聞』昭37)にしかすぎない。そして、この点にこそ丸山を戦後民主主義のチャンピオンとして押し出した理由も存在するのである。戦争被害者としての国民というイメージである。価値観の転換とは、我々はだまされた、という「建前」の論理に収斂されてゆくからである。さらにいえば、「建前」の論理をこととした知識人たちの絶大な免罪符として通用するからである。この点でいえば、戦後の価値観の転換を「内面化」しえず、「民主主義」国家になったのだから、「民主主義」がヨイノダとする常態を生み出した責任の一端は、丸山にもあることがよく分かる。”
鷲田小彌太『昭和の思想家67人』PHP研究所、2007年8月24日第1版第1刷発行、289頁より引用。)

既に述べたように「安吾のいうように自己欺瞞的に生きた国民のイメージ」については、私は鷲田小彌太氏とは異なる意見を持つものであるが、丸山眞男氏について論じたことについては、これが正しいのではないかと思う。結局、この有名な丸山眞男氏の論文は、執筆者の意図がどこにあったかはさておき、「軍部に騙された(ことにした)民衆」を、「戦争の被害者としての民衆」として、知識人の世界から承認する効力を持ってしまったのではないか。本稿の筆者に、丸山政治学政治学上の達成や弟子の学者達に対する影響などを述べる能力はない。しかしながら、鷲田小彌太氏のいう「価値観の転換とは、我々はだまされた、という「建前」の論理に収斂されてゆくからである」という方面からの丸山眞男の読み方は、我々の祖父母世代が戦争中に行ってしまったことを考えるうえで、大きな欺瞞を生み出し、肯定する影響力を、それも負の影響力を、現在にあっても持ってしまっているのではないか。少なくとも、私はそう考えている。


5.喪われた機会

以上のように、敗戦後、早くも1946年中には「騙された民衆」は「被害者としての民衆」となることで、民衆をして自らの戦時中の姿に向き合わせることを阻害する回路が築き上げられ、その後、左翼知識人は天皇の戦争責任追及に代位させる形で、この問題をやり過ごすことを学んでしまった。高橋彦博氏が言う通り、この問題が意識され始めたのは実に1980年代以降のことであるが、2018年の今日にあってもやはりこの問題は一般の言論界にあっても、日常生活の中でも十分に意識されてはいないであろう。私が本稿を書くに至った理由の一つである。

しかしながら、民衆が自らについた嘘が、自己欺瞞自己欺瞞である限り、ある場面に於いて、それがふと表出することもある。本節では、再びノンフィクション作家の吉田司氏と東北学の赤坂憲雄氏に登場を願い、東北学の赤坂憲雄氏が聞き書きの中で東北の農民から聞いた話と、1945年に山形で生まれた吉田司氏が、幼少期に自らの周囲で見聞したことについて述べてもらうことにする。気が重くなる語りだが、心して御覧いただきたい。


“赤坂――いわゆる「ハレ」と「ケ」の理論がどこまで通用するのかは分からないけれど、吉田さんの今の話、非常にリアルだと思います。確かに日本人は仮面を脱いで戦後を始めた。聞き書きをしていても、同じような感覚におそわれる瞬間があります。戦争体験の話になると、みんないつでも被害者なんですよ。国家権力の犠牲者として戦争体験を語るわけです。ところが、ふっと違う顔がのぞく瞬間があるんです。自分がいかにアジアの人々に酷いことをしたか。殺したか。女を犯したか。戦場では狂気が支配していた、自分の行為も仕方なかった、そのなかを自分たちは生き延びたんだみたいなことがぽつりと語られる。
吉田――その「狂気」も問題なんですよ。あの時は「狂気」に支配されていた。「正気」に戻った今は、反省している。そんな感覚でしょう。だけど、戦争って「狂気」なんかじゃないですよ。戦争というのは、数千年か数万年か知らないけれど、人間が延々と繰り返してきた行為です。その意味で戦争は「狂気」なんかじゃない。人間の持つ「正気」のひとつの側面ですよ。戦争を「狂気」といってしまった瞬間、すべての個人責任が終わってしまう。あれは「狂気」のなせるわざだったから、人殺しの責任は問われない。むしろ自分たちもまた軍国ニッポンの犠牲者だった、これでお終い。ここでもまた民衆の戦争責任が問われないシステムができあがっている。
赤坂――もうひとつ、銃後の問題もあります。東北のある村で聞き書きしていたときのことです。戦時中に一〇代だった男の話を聞いていた。戦時下のセックスの話題になりました。夜になると夫を戦地に送り出した村の女たちが、その少年を家に誘ったというんですよ。家から家へ渡り歩いてセックスしていたという。これもまた銃後の女たちのひとつの現実だった。祭りの夜の性のありかたと重ね合わせれば、どうやら「ハレ」の感覚は、戦地だけではなく銃後にもあったのかもしれません。
吉田――だから、戦争が終わった時に、戦後が始まったときに、われわれはやらねばならぬことをやっていないんですよ。最初にやらなければならなかったのは、戦地から生還した夫と銃後の妻の対話だったと思うんだよね。夫が妻に「お前、俺の留守中に村の男となにやってた」と尋ねる。妻は夫に「あんたは戦地でなにしてたんだ。どれくらい人間を殺したんだ。強姦はしたのか」と問い詰める。まあ、ものすごい図式だけれど「われわれはいったいなにをやってしまったんだろう」と考える、こんな共同体の基盤をなす夫婦の会話があれば、日本の戦後は違ったものになっていたんじゃないかな。そりゃつらくてしんどいだろうけど、仮面をとっかえひっかえすることなく、こんな会話から戦後が始まっていれば……。
赤坂――戦場から男たちが戻ってくる。そして、銃後を守った女たちと再会する。おそらくその時に絶対になかったのが、今、吉田さんが言われた会話だったんじゃないでしょうか。ここをきちんと言葉にしていたら、たぶんまったく違うかたちのわれわれの戦後があったかもしれない。そう思いますね。
吉田――ものすごい例になっちゃったけど、別に夫婦やセックスの話だけじゃなくって、インテリも含めて日本人はだれもこれをやらなかったんだよ。フランスでは、戦後「ナチへの協力者」問題をめぐって、”民衆の戦争責任”が問われているが、日本じゃ吉本隆明らが「庶民に戦争責任なし」ナンチャッテるからね(笑)。結局、敗戦期に日本人が戦争責任を負わなかったことにおいて、戦後をみんな駄目にしてしまったんだ。そして、こんな話をいちばんしなければならなかったのは、東北人だったと思うんですよ。「暗黒の飢餓農民」のシンボルとしての東北人が、まずは口火を切るべきだった。東北人はそれくらいの責任を近代に対して負うべきです。
関連してもうひとつ。みんなある時期から「チャンコロ(中国人の蔑称)を何人ぶっ殺した!」とか大威張りする武勇談を話さなくなったでしょう。僕が子どものころ、近所の大人たちは酒を飲んでは自分たちが戦地でいかに勇敢に戦ったか、あるいは戦争がどんなにおもしろくて楽しかったか、盛んに話していましたよ。そりゃあそうですよ。「暗黒の飢餓農村」に閉塞していた連中が徒党を組んで、初めて命がけで海外旅行したようなものだ。それも勝者として乗り込んでいったんだ。おもしろくないわけがない。ところが、みんなある時期からぴたっと話さなくなった。
赤坂――そういえばそうですね。
吉田――結局、日本は悪いことをしたんだ、「反省」しなくちゃ「謝罪」しなくちゃならないんだ、どうやら日本人は戦争責任を感じなくちゃならないらしいぞとなった時に「あ、俺たちが話してきたのはヤバいことだったかもしれない」と気がついて、ぴたりと口をつぐむようになった。これがまた間違いのもとだった。戦争がおもしろかった。楽しかった。そこから始まる思想があったはずなんですよ。「おもしろかった」あの戦争はいったいなんだったのか。「楽しい」と感じた自分はなんだったのか。これを問い詰め分析することで、日本人にとっての戦争や、あるいは日本の近代の素顔を顕在化できる可能性があった。ところが日本人は「反省」や「謝罪」や、さっきの「狂気」なんて便利な言葉のかげに隠れてしまった。あれ、エクスキューズですよ。ホンネを隠して「反省」や「謝罪」をしたところで、「狂気」を語られたところで、実はあまり意味がない。そんな「反省」や「謝罪」や「狂気」から、新しい思想なんて生まれるわけがない。日本人はここでもチャンスを失ってしまった。”
吉田司赤坂憲雄「東北よ、近代を語れ!」初出2002年7月、『吉田司対談集――聖賤記』パロル舎、2003年4月20日第1刷発行、410-413頁より引用)

吉田司氏は東北出身なので、自らが見聞した東北人の戦争責任について語っているが、事情は日本の他地域でも同じである。吉田司氏の2歳と年下に当たる、1947年東京出身のコメディアンにして映画監督のビートたけし北野武)氏は、自らの小学生時代について、このような回想を漏らしている。

“ おいらが子供の頃なんか、戦争帰りの先生なんかもいて、「銃剣でこう突いて敵を殺したんだ」なんて自慢までしてた。
 ところが今は、授業中に「ナイフで人を殺すには、こんなふうにやんなきゃいけない。簡単なことじゃないんだ」なんてやっただけでも、新聞で叩かれるご時世。”
ビートたけし『悪口の技術』新潮社〈新潮文庫〉、2005年2月1日発行、2006年9月5日7刷発行、173頁より引用)

吉田司氏は恐らく55年体制の成立が、人々が口をつぐみ始めたきっかけなのではないかと考えているようだが、幼き日の吉田司氏が聞いた「チャンコロを何人ぶっ殺した!」という「武勇談」、またはビートたけし氏が聞いた「銃剣でこう突いて敵を殺したんだ」という「自慢話」は、かつての皇軍兵士が戦時中の自らの行為を「反省」することなく、率直に表現したものである。

個々の戦場のミクロな局面での面白半分に繰り広げられたこのような「武勇談」や「自慢話」の果てに、アジア各地に1900万人*3もの死体の山を築き上げてしまった日本の民衆は、決して単なる戦争の被害者ではなかった。皇軍兵士がやってしまったことは、今更元に戻らない。人は誰しも生きている間に過ちを犯すものであり、また、第二次世界大戦中の日本軍以外の交戦国軍にあっても、このような各国の民衆の戦争責任(敵国の軍民を殺害した下出人としての加害責任)を否定できる国家は存在しないであろう。しかし、日本の民衆が戦後左翼知識人と共に、自らの加害を、戦争による被害者の仮面を纏うことで回避してきたことついては、これについては、今からでも問題としなければならない。吉田司氏が述べているように、戦地から帰ってきた夫と妻の、お互いがこの戦争の中でどんなことをしてしまったのだろうという対話は、楽しかった戦争とは何だったのかと、殺戮を面白かったと感じた自分は何だったのかと、その体験を問い詰めることは、津田道夫の隣組にいた戦時中の防空訓練を張り切る愛国婦人が、敗戦直後に「マッカーサーさまさまネ」と漏らして俄仕立ての民主主義者になる前に、絶対に行っておかねばならぬことであった。それを行うことで、自らがどんな恐ろしい暴力を実践してしまったかを直視する作業が、絶対に必要であった。そして、戦後左翼にとっては「被害者としての民衆」像を維持することが実像から遠く離れた虚像であり、虚像からは決して真に迫った言葉は決して出てこないということを、もっと戦後の早い内に自覚しなければならなかった。しかしながら、既に見てきたように戦後の展開はそうはならなかった。

恐らく、戦後日本にあって、戦時中の自分達が「軍部に騙された」とすることを潔しとしなかった人物で、最も大きな影響力を持ったのは、戦前、獄中で共産主義者から天皇主義に転向した保守主義者の林房雄氏であろう。林房雄氏は1963年-1965年にかけて『中央公論』誌上で連載した『大東亜戦争肯定論』の中で次にように述べている。

“……私は「東京裁判」そのものを認めない。いかなる意味でも認めない。あれは戦勝者の戦敗者に対する復讐であり、即ち戦争そのものの継続であって、「正義」にも「人道」にも「文明」にも関係ない。明らかに、これらの輝かしい理念の公然たる蹂躙であって、戦争史にも前例のない捕虜虐殺であった。
かかる恥知らずの「裁判」に対しては、私は全被告とともに、全日本国民とともに叫びたい。「われわれは有罪である。天皇とともに有罪である!」と。
自分は絶対に戦わなかった、ただの戦争被害者だと自信する人々は、もちろんこの抗議に加わらなくてもいい。あの戦争の後に生まれた若い世代にも責任はない。だが、私は私なりに戦った。天皇もまた天皇として戦った。日本国民は天皇とともに戦い、天皇は国民とともに戦ったのだ。
「太平洋戦争」だけではない。日清・日露・日支戦争をふくむ「東亜百年戦争」を明治・大正・昭和の三天皇は宣戦の詔勅に署名し、自ら大元帥の軍装と資格において戦った。男系の皇族もすべて軍人として戦った。「東京裁判」用語とは全く別の意味で「戦争責任」は天皇にも皇族にもある。これは弁護の余地も弁護の必要もない事実だ。”
林房雄大東亜戦争肯定論 上』三樹書房〈やまと文庫4〉1984年8月15日発行、125-126頁より引用。)

戦争末期の現実の過程の中で、ポツダム宣言の「一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰加ヘラルヘシ」という条文に基づいて行われた東京裁判を回避するために日本が取り得た選択肢としては、ポツダム宣言を拒否し、本土決戦を行う以外のものは存在しなかった故に、本土決戦の断行を主張せずに昭和天皇による「御聖断」を認める立場の人間が「東京裁判」そのものを認めないと主張することは意味をなさない*4。この立場は戦後の日本にあっては少数派であり、そしてそれゆえの限界が存在するにもかかわらず、この林房雄氏の断言には、「被害者としての民衆」像を維持することで民衆の戦争責任に触れてこなかった戦後左翼、および、昭和天皇が「自ら大元帥の軍装と資格において戦った」ことについての戦争責任を認めてこなかった戦後保守・戦後右翼の双方にとって重要な意味を有している。林房雄氏は「日本国民は天皇とともに戦い、天皇は国民とともに戦ったのだ」と述べることで、戦後の左右・保革双方が見逃してきた、戦時中確かに実感されていたであろう昭和天皇と日本国民の共同責任の存在を明らかにすることに成功したのだ。「大東亜戦争」を肯定するか否定するかの立場にかかわらず(勿論私は否定する)、この忘れ去られていた前提を提出したことについての林房雄の貢献は大きい。この「天皇と日本国民の共同責任の存在」という保守主義者が提出した前提が、戦後の保守エリートに維持されていれば、恐らく、戦後の歴史はもっと異なるものとなっていたであろう。だが、我々が知っての通り、やはりそうはならなかった。現内閣総理大臣である安倍晋三氏は、著書の中でこのように述べている。

“ 「君が代」が天皇制を連想させるという人がいるが、この「君」は、日本国の象徴としての天皇である。日本では天皇を縦糸にして歴史という長大なタペストリーが織られてきたのは事実だ。ほんの一時期を言挙げして、どんな意味があるのか。素直に読んで、この歌詞のどこに軍国主義の思想が感じられるのか。”
安倍晋三『新しい国へ――美しい国へ 完全版』文藝春秋、2013年1月20日第1刷発行、88頁より引用)

保守エリートは、せっかく林房雄が『大東亜戦争肯定論』の中で戦時中から引き揚げてきた”「太平洋戦争」だけではない。日清・日露・日支戦争をふくむ「東亜百年戦争」を明治・大正・昭和の三天皇は宣戦の詔勅に署名し、自ら大元帥の軍装と資格において戦った”「武装せる天皇」像を、「ほんの一時期を言挙げして、どんな意味があるのか」という一言で、その意味について考えることなく、したがってその意味が我々に我々自身の歴史に対してどのような責任の持ち方を迫るのかについても考えることもなく、ただその価値を称揚することを選んでしまった。敗戦直後に坂口安吾のと同様に、「天皇の尊厳の御利益を謳歌している」(「続堕落論」)のだ。

冒頭に戻ると、丸山照雄師の、「文化の伝承は同時に責任の伝承でもあるべきなのに、そこを断ち切ってしまうんです。戦争の実態を明らかにせずに、棚上げにしたいという願望から、すべての文化の再生構造を断ち切ってきた。ナショナルな立場、あるいは国家主義的な立場のように見える彼らが、じつは自己否定をしてきてしまった」という言葉は、正に保守派が林房雄の『大東亜戦争肯定論』の前提を真底から受け止めなかった立場から、そして左翼も「被害者としての民衆」像を便利に使ってきた立場から、戦争責任を曖昧にし、その結果責任の伝承を断ち切ることで文化の伝承を断ち切ってしまったというこの事実に正確に対応するのである。

 

6.個人主義原理の確立のために

“……あの昭和天皇が死去した時も、今更ながら「天皇が明確な責任をとらなかったから、国民の戦争責任もあいまいなものになった」ナンテ、国民論議が巻き起こった。馬鹿言っちゃいけない。戦時中、日本人はひとつのパルチザン、ひとつの反天皇ゲリラ、ひとつの自由主義亡命政府すら残せなかったじゃないか。全員大政翼賛と愛国婦人の戦争協力者じゃなかったか。そのために戦後は、自国民が自国民を審(さば)く道が閉されたのだ。民衆一人ひとりが責任を問い合う土壌のないところで、ドーシテ天皇の責任を真底から審き得たろう。戦後ももう四十五年もたったのだ、いいかげんに戦争責任を天皇と国家にあずける「ダマされ史観」から脱皮してはどうか。一億一心の天皇教=日本的集団主義を近代市民の個人原理で克服することこそ、アジアに対する責任のとり方ではないのだろうか。”
吉田司『宗教ニッポン狂騒曲』文藝春秋、1990年9月25日第1刷、199-200頁より引用)


以上、私は本稿で主に民衆の戦争責任について述べてきたが、それは、1970年代から1980年代に主張された古めかしい極左の血債論を再び持ち出し、加害責任に無自覚なものを罪の意識によって道徳的に恫喝したいからではなく、「騙された民衆」、「被害者としての民衆」という戦時下の民衆像がどれだけ真実から程遠いかを明らかにし、また、このような欺瞞的な虚像を維持することは、どのような立場からであれ有害な影響しか持っていないかということを主張したいからであった。そのような意味で、本稿は保守派のための戦争責任論にもなっていると、私は自負している。私はこれからも戦争に反対するが、もし本稿を読んだ保守人士の中で、前の戦争は間違っていなかったしこれからも積極的に次の戦争に備えるべきだという方がおられたら、その際には勝っても負けても自分は体制に騙された被害者などとは言わないで欲しいと私は思っている。戦争によって必ず生じる敵国の犠牲者や自国の犠牲者について、自らが君が代を歌いながら天皇と共に戦った結果であるという事実から、前の戦争の後のようには逃げないで欲しいということである。

その上で、私が言い得ることとしては、結局のところ日本にあっては個人主義原理が未確立であったし、今もそうだからまず個人主義原理を育てなければならない、ということである。戦時中の民衆が自らを被害者の位置に置けたのは、吉田司氏が述べるような夫婦の会話が存在せず、個人が個人として自分がやったことについて考える機会も意志も持たなかったからであり、多くのマルクス主義者が転向する中で神山茂夫永井荷風が戦時中にあれだけの時局と戦争への反対を行い得たのは、結局のところイデオロギーではなく、彼らの個人としての資質が国家権力や民衆の集団主義よりも強力だったからであろう。ニュースで伝わるシリアやパレスチナの悲惨な様子について、これから加害者にも被害者にもならないために、私を含めた左翼人士は戦争には反対しなければならないと思っているが、そのためには、まずは社会主義や護憲論その他のイデオロギーに先立つ強力な個人主義原理を育てねばならない。

そして、日本にあって個人主義原理を確立するためには、『万葉集』の時代から「世間」のわずらわしさやしがらみの中で個人が埋没する姿を苦闘と共に描き出してきた日本古典に学ばねばならないと、私は思う。孤独と意識が一人で感じなければならない意識である限り、それは限りなく個人原理の成立に近いところにあるが、源実朝の孤独が何故ヨーロッパで発達したような個人原理には行き着かなかったかを探る必要があるということであり、戦争責任を背負わなかったことで継承されなかった日本古典は我々が継承すべきだということである。つまりはこういうことだ。


“ 日本文化は、敗戦後の五十余年の間、自前の価値意識を形成するための努力をまったく行ってこなかった。古い日本の文化は、すべて戦争に動員され、あるいは戦争を必然させる働きをしたものであって、否定し去るべきものであると、批判にさらされてきた。たしかに伝統文化は「天皇帝国主義体制」を形づくるために総動員され、天皇制国家に簒奪(さんだつ)しつくされた。その奪われたものを取り返すのではなく、破壊にまかせることをもって善しとした。それが「占領者」の意図であったかどうかは別として、この国の文化はまぎれもなくアメリカナイズされていった。
 歴史も伝統もない入植国家、寄せ集めの植民国家の文化を真似して自滅するほど愚かなことはない。取り返しのつかない半世紀ではあるが、今からでも二重の意味で喪失したものを取り戻さねばならないのである。ひとつは近代百年の間に天皇制国家に奪われたもの、もうひとつは敗戦後半世紀、アメリカの経済的・軍事的支配下に置かれて喪失したものである。”
丸山照雄『危機の時代と宗教』法蔵館、2002年7月10日初版第1刷発行、22-23頁より引用)

私自身は丸山師とは異なり、アメリカ合衆国の文化に反対する論拠を、「歴史も伝統もない入植国家、寄せ集めの植民国家の文化」だからではなく、それが21世紀初頭に於いて世界最大の帝国主義国の覇権を支える装置であるからこそ反対しなければならないと考えており、アメリカ合衆国の文化にも素晴らしい、見倣うべきものは沢山あると思っているが、「今からでも二重の意味で喪失したものを取り戻さねばならない」という主張には賛成である。恐らく、その過程を経ずして、日本にあって真に実のある個人主義原理を育てることはできないだろうし、それができない限り、また、自分たちが熱狂した戦争を、終わった後に騙されたことにするという欺瞞は今後も繰り返されるであろう。

人が自らの過ちから学ぶことができる存在だと信じる限り、この課題は意識されねばならない。

 

塔を組み 堂をつくるも 人の嘆き 懺悔にまさる 功徳やはある
源実朝金槐和歌集』616

 

 

*1:註厳密には1942年9月に『図書』誌に「拉芬陀」(ラヴェンダー)という時局に無関係な小編を発表しているが、些末なので論じないことにする。

*2:引用こそしないが、左翼系のプロレタリア文学批評家の平野謙も8月15日にラジオのない鉱山の寮で敗戦の報を聞き、涙したと回想している。

*3:この1900万人という数字は、吉田裕氏の著書からである。

“ 次に、外国人の戦没者数をみてみよう。アジア・太平洋戦域におけるアメリカ軍の戦士者数は九万二〇〇〇名から一〇万名、ソ連軍のそれは、張(ちょう)鼓(こ)峰(ほう)事件、ノモンハン事件、対日参戦以降の戦死者をあわせて二万二六九四名、イギリス軍=二万九九六八名、オランダ軍=二万七六〇〇名(民間人を含む)である(読売新聞戦争責任検証委員会編『検証 戦争責任Ⅱ』)。
 交戦国だった中国や日本の占領下にあったアジアの各地域の人的被害は、もっと深刻である。しかし、これについては、正確な統計資料が残されていないため、各国政府の公式発表などを基にしたおおまかな見積もりにならざるをえない。そのような見積りの一つとして、中国軍と中国民衆の死者=一〇〇〇万名以上、朝鮮の死者=約二〇万名、フィリピン=約一一一万名、台湾=約三万名、マレーシア・シンガポール=約一〇万名、その他、ベトナムインドネシアなどをあわせて、総計で一九〇〇万名以上という数字をあげておきたい(小田部雄次ほか『キーワード 日本の戦争犯罪』)。いずれにせよ、日本が戦った戦争の最大の犠牲者が、アジアの民衆であったことは間違いない。”
(吉田裕『アジア・太平洋戦争――シリーズ 日本近現代史⑥』岩波書店、2007年8月21日第1刷発行、2013年6月14日第9刷発行、220-221頁より引用)

*4:実際にこのように述べて、ポツダム宣言による戦犯裁判阻止を求めて本土決戦を訴えた人物に、佛教系保守団体明朗会の日比和一会長が存在する。少し長いが、日比和一氏の本土決戦断行論は、私が目にした本土決戦論の中で最も説得的な主張だと思う故、その真意を明らかにすべく、以下引用する。日比会長は敗戦後の8月23日に会員ら11人と共に、皇居前広場で集団自決した。

“ 終戦近い八月七日頃私は船員戦斗隊の結成会議に参加のため任地函館から久方ぶりに上京した時、日比さんと最後の会見をしたのを覚えている。その時の日比会長の話の大要は次の通りであつた。
「戦局は全く我れに不利である。終戦はあまり遠くはないだろう。然し米国はデモクラシーの国であるから、与論が今日の日本とは比較にならない程強い。これを利用して一寸でも有利に戦争を止めなければならない。然るに今日では、東郷外相、米内海相等の腰ぬけ共が無条件降伏を考え始めている。
 然し阿南陸相は自分等と同意見なので、これが又陸軍全体の考えでもあるので心配はない。国体護持の線だけは絶対護らねばならない。
 天皇陛下が自ら終戦を宣言されることは憲法が示す内閣の責任制からもあり得ない。閣内不一致の場合は必ず総辞職をすべきで、閣内不一致のまま天皇陛下の御裁断をあおぐような無責任な内閣の行為は絶対に許されないだろう。
 自分等や阿南陸相はあらゆる手段をもつて世界の与論に訴え、有利な媾和(原文儘)をしなければならないと考えている。それで今考えている媾和条件として、
一、 国体は護持する
二、 武装は解除する。
三、 外国軍隊による国内進駐はみとめられない。
四、 ポツダム宣言にいう戦争裁判は日本自身にて行う。
 以上のようなもので、特に武装解除の一条だけで米国は必ずこれに応ずるだろう。
 それでも米国に容れられないとすれば、米国は侵略国である、仮りに日本本土を侵略上陸することになつても、日本は五百万の犠牲者を出すかも知れないが、百万の米兵を完全に殺すことが出来ると世界に向かつて主張すべきである。兎に角無条件降伏は何時でもできることであると自分は考えている。
 「東条英機やその内閣の革新派官僚が日本国体をこんな姿にまでしてしまつたことを微力防ぎ得なかつたことは全く臣子として申訳ないことである」と
 以上が私に語られた日比さんの最後の言葉であつた。”
(伊藤七三「日々和一さんを憶う」『明朗会十二烈士を忍ぶ』日々和一居士第十七回忌法要会編、日々和一居士第十七回忌法要会、1961年、110-111頁より引用)