twitterのアカウントを消してわかったこと

昨年から今年にかけての私は、twitterに依存しすぎだったので、自分からtwitterを取り除いたら何が残るのかを見定めるために4週間、アカウントを削除して過ごす実験を行った。

結局、わかったことは簡単なことで、自分はやはり今のこの日常生活を飛び出して行くことはできなかったし、たぶんこれからもできないだろうけれども、自分の生活の中で少し無理をしつつ、日々を精一杯生き抜かなければならない、ということだった。

 


4週間の間に世の中は動いている。米朝首脳会談の決定、つまり極東での妥協を選ぶと共に強硬化する、イラン・イスラーム共和国を睨んだアメリカ合衆国の中東政策と、その一環としての米英フランス軍によるシリア爆撃。私はアサド大統領のシリア軍による反体制的シリア人民への化学兵器使用のニュースを見ながらも、イラク戦争のことを考えながらこの空爆に釈然としないものを感じつつ、結局のところ、駐日米大使館の前で赤旗を掲げながら反米・反シリア空爆を主張するというようなことは遂に行わなかった。たぶん、これからも行わないだろう。特にシリアに関する知識を持たない、むしろ無知と言っても良い私が今のところ言い得ることとしては、一刻も早くシリアの人々が殺し合わずとも済むようになる日が来て欲しいということと、空爆は恐らくそのような条件を作ることを遠ざけるだろうということしかない。


マルクス主義者の職業革命家であったレーニンは、社会民主主義者の理想について1902年に、

“……一言でいえば、どの労働組合の書記でも、「雇い主と政府とにたいする経済闘争」をおこなっているし、またおこなうことを助けている。ところで、こういうことはまだ社会民主主義ではないこと、社会民主主義者の理想は、労働組合の書記ではなくて、どこでおこなわれたものであろうと、またはどういう層または階級にかかわるものであろうと、ありとあらゆる専横と圧制の現われに反応することができ、これらすべての現われを、警察の暴力と資本主義的搾取とについての一つの絵図にまとめあげることができ、一つひとつの瑣事を利用して、自分の社会主義的信念と自分の民主主義的諸要求を万人の前で叙述し、プロレタリアートの解放闘争の世界史的意義を万人に説明することのできる人民の護民官でなければならないということは、どんなに力説しても力説し足りない。”
(ヴェ・イ・レーニン/村田陽一訳『なにをなすべきか?』大月書店〈国民文庫110〉、1971年7月30日第1刷発行、1990年6月28日第40刷発行、122頁より引用。傍点省略。)

と述べているが、私は「自分の社会主義的信念と自分の民主主義的諸要求を万人の前で叙述し、プロレタリアートの解放闘争の世界史的意義を万人に説明することのできる人民の護民官」には、やはり遂になれなかった。複雑極まりないシリアの情勢について学び、学んだことをわかりやすく一つの絵図にまとめあげ、シリア人民の平和と利益にとって何が重要なのかを示しながら米英フランスの帝国主義と対決することよりも、私には自分の勉強時間や読書時間や睡眠時間を確保することの方が重要だったのだ。

私は社会主義者だがもはやマルクス主義者ではないし、今後も決して、レーニンのような職業革命家になることはないだろう。自分が職業革命家になってやっていけるとは思えないし、そう思えないという事は、つまり自分は職業革命家になりたくないのだ。

 

以上のようにこの4週間で私は自分のことが良くわかった。私は普通の、大義よりも私生活の方が大切な凡庸な人間である。ただ、SNSから影響を受けない地点で過ごす自分が良くも悪くも自分が今まで思っていたよりは普通の人間であると思い知った後も、やはり自分の人間としての尊厳の根底には赤色戦士としての意地(残念ながら「誇り」と言えるほど立派なことは行えていない)があった。


というのも、既にこのブログに書いてきたようなこと、ざっくり言ってしまうと「大逆事件以後の日本に於いて社会主義者であるということについての知的道徳的な意義の再評価」及び「スターリン主義を繰り返す訳にはいかないが、にもかかわらず、スターリン主義の総本山であったソ連が崩壊した後の世界にあって、国際共産主義運動の挙げた成果(1930年代の人民戦線と、第二次世界大戦中のナチスファシスト枢軸占領下のフランス、イタリア、中東欧諸国のレジスタンスやパルチザン、日本の神山茂夫らによる非転向闘争、1949年の中華人民共和国成立など)が、やはりスターリン主義によるものであったという事実についての思想的決算」、この二点についての言及は、「人民の護民官」にはなれない、なりたくない私が行えることであり、今後の人生にあって行うべきことだろうと、自分の底を知った後も感じるのだ。私はラッサールやレーニンや幸徳秋水大杉栄神山茂夫のような一流の職業革命家には遠く及ばないが、週末革命家としてはまだ行うべきことがある。それで十分だろう。


今後、どこまでできるかはわからないけれども、生活の中で生活を優先しつつ、少しだけ無理をしてやっていこう。日々を生き抜こう。

最後に、私の好きな小説と演説から引用することで、本稿を閉じることにする。

 

 

" パーヴェルは頭からしずかに帽子をぬいだ。そして悲しみ、大きな悲しみが彼の心をみたした。
人間にあって最も貴重なもの――それは生命である。それは人間に一度だけあたえられる。あてもなくすぎた年月だったと胸をいためることのないように、いやしい、そしてくだらない過去だったという恥に身をやくことのないように、この生命を生きぬかなければならない。死にのぞんで、全生涯が、そしてすべての力が世界で最も美しいこと――すなわち人類の解放のためのたたかいにささげられたと言いうるように生きなければならない。そして生きることをいそがなければならない。ばかげた病気や、あるいはなにか悲劇的な偶然のできごとが生命を中断させてしまうかもしれないからだ。
このような考えにとらわれて、コルチャーギンはなつかしい墓地を去った。"
(N.オストロフスキー/金子幸彦訳『鋼鉄はいかに鍛えられたか 下巻』岩波書店岩波文庫、1955年12月5日第1刷発行、1978年3月20日第23刷発行、102頁より引用)


“ 諸君、幸徳君らは時の政府に謀叛人と見なされて殺された。が、謀叛を恐れてはならぬ。謀叛人を恐れてはならぬ。みずから謀叛人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀叛である。「身を殺して魂を殺すあたわざる者を恐るるなかれ。」肉体の死は何でもない。恐るべきは霊魂の死である。人が教えられたる信条のままに執着し、言わせらるるごとく言い、させらるるごとくふるまい、型から鋳出した人形のごとく形式的に生活の安を偸んで(ぬすんで)、一切の自立自信、自化自発を失う時、すなわちこれ霊魂の死である。われらは生きねばならぬ。生きるために謀叛しなければならぬ。古人はいうた、いかなる真理にも停滞するな、停滞すれば墓となると。人生は解脱(げだつ)の連続である。いかに愛着するところのものでも脱ぎ棄てねばならぬ時がある。それは形式残って生命去った時である。「死にし者は死にし者に葬らせ」墓は常に後にしなければならぬ。幸徳らは謀叛して死んだ。死んでもはや復活した。墓は空虚だ。いつまでも墓にすがりついてはならぬ。「もし汝の右目なんじを礙(つまず)かさば抽(ぬき)出(だ)してこれをすてよ。」愛別、離苦、打克たねばならぬ。われらは苦痛を忍んで解脱せねばならぬ。繰り返していう、諸君、われわれは生きねばならぬ。生きるために常に謀叛しなければならぬ。自己に対して、また周囲に対して。
 諸君、幸徳君らは乱臣賊子として絞台の露と消えた。その行動について不満があるとしても、誰か志士としてその動機を疑い得る。西郷も逆賊であった。しかし今日となって見れば、逆賊でないこと西郷のごとき者があるか。幸徳らも誤って乱臣賊子となった。しかし百年の公論は必ずその事を惜しんでその志を悲しむであろう。要するに人格の問題である。諸君、われわれは人格を研くことを怠ってはならぬ。”
徳富蘆花「謀叛論」小田切秀雄編集『現代日本思想大系17 ヒューマニズム』、筑摩書房、1964年3月15日発行、133-134頁より引用)