またしばらくtwitterから消えます

ようやく年始から計画していた花見を無事に終えられました。良い機会なのでまたしばらくtwitterから消えます。例によって一月ほどで戻ってくるので、またその時は相手してくれたら嬉しいです。

 

以下、理由を記しておきます。

 

第一に、今に限ったことではないのですが、最近特に、何につけても人の目や意見を気に掛けるようになってしまって気が休まらなくなってしまいました。自分の考えたことや感じたことが、自分自身の意識が世の中の平均からは大きくずれているということを考慮しても、常にこれでいいのかを気にすることに疲れてしまっているのですね。とあるニュースについて意見を持ってtwitterで感情を昂らせて憤ったり、喜んだりしても、インターネットの大河を流れる一滴の水にすぎないのに、それでも自分とは異なる意見の持ち主のことを考えてしまうと自分の感情は確実に揺さぶられ、疲弊している。それならば異なる意見の持ち主のことなど考えなければ良いのではないか、という意見もあるわけですが、それに慣れてしまうとあっという間に独善的な人間になることは間違いないわけで。そうはなりたくないから、というのがまず一点。

 

次に問題なのは、現実の自分とtwitter上の自分のギャップが日々開いていることです。かつて発狂した後、症状が落ち着いた現在は障害者雇用で働きつつ、今の雇用形態や年収の低さを打開するために資格の勉強をしている発達障害者でしかない現実の日常生活の自分と、ラッサール、幸徳秋水大杉栄神山茂夫社会主義者の系譜に続き、理想としては大日本帝国が為してきた国家悪と対決しようと思いつつ、自分のできる限りで街頭で赤旗を掲げたりプロパガンダを行っている赤色戦士であるtwitter上の自分の間にあるギャップが日々開き続けているのが、少しまずいように思えてきたのです。どちらも自分であり、自分が主義主張を掲げ、その実現者として自らを鍛えることなしに生きていけないタイプの人間であることは嫌というほど意識していますが、現状は観念が肥大化しすぎており、しかもそれが何となく受容されてしまっているのはまずい。私は結局のところレーニンのような職業革命家にはなれなかった人間であり、今後もそうなることはないのだからこそ、労働者たる生活者として地に足をつけながら。ギリギリのところでラディカルな社会主義者であり続けなければならないのに、今のままだと自分がなりたくなかった独善的な活動家になってしまいそうなのが
怖い。これが二点目です。

 

最後に、思ったことや感じたことをその場で吐き出せてしまうということ自体が、根本的にまずいような気がしてならないのです。もちろん、自分なりの基準は存在し、それをクリアした上でツイートするように心がけてはいるのですが、モヤモヤした感情をモヤモヤしたまま公開していると、それ自体が自傷行為のように自分の精神衛生を追い込んでいるのではないか。もう少し思ったことを言わないことこそが、今の自分にとっての自愛なのではないか。今年、2018年は自分にとっての転機となるであろう一年なのに、今やるべきことを疎かにしてまでSNSにかまけていいのか。

 

というわけで、少し人のことを気にせず自分のことに専念するために、またしばらくtwitterから消えます。アカウントを残しているとつい覗き込んでしまうので、削除しておきます。4月の後半に戻ってくるはずです。当ブログと読書メーターhttps://bookmeter.com/users/563612)は続けているので御用があればそちらまでお願いします。それでは。