東京タワーから続いてく道

昨日、東京タワーに登ってきた。銀座から歩いて約25分。御成門駅の近くで間近に333mの赤く光る鉄塔が見えてきた時、思わず映画『横道世之介』の高良健吾のように飛び跳ねてしまった。高さ250mの特別展望台は工事中だったので、150mの大展望台へ。夜景を観ているといつだって、あの小さな明かりの一つ、一つに人間の人生があることに胸を打たれる。車から放たれる小さな赤い光の一台一台に、三連休の最後の日を過ごす人がいて、みんな、どこかに行った帰り道を過ごしていたのだろう。充実したのかもしれないし、退屈したのかもしれない。ただ、2017年の11月5日は、誰にとっても、どんな過ごし方をしたとしても、一度きりのかけがえのない一日だった。


6月に簿記2級の受験を終えてから、自分の中の何かが変わっていることを実感している。それが何なのかがわからないのがもどかしいけれども、とにかく何かが変わってきている。


11月3日の金曜日に、とある方と話すために、話した時に話題に困らないようにと、その人が好きな高野秀行の『ワセダ三畳青春期』(集英社文庫、2003年)を読んだ。僕より21年早く生まれ、僕が卒業した大学の同じ学部を卒業した著者の青春が、まるで『NHKにようこそ!』の佐藤と山崎のように眩しくて、自分には学生時代にこんな青春はなかったのに、何故か妙に感情移入してしまった。不思議で不思議でならなかったから理由を考えてみたら、著者の高野さんが早稲田の3畳間で過ごした日々に相当するのは、僕にとっては2012年の9月から2015年の1月までの、精神的におかしくなって労働も勉強もせず、ただ本を読んでtwitterに打ち込んでいただけの、あの日々のことだったんだと気が付いた。ロヒプノールという強い睡眠導入剤を飲みながら、1日1冊本を読み、薬でフラフラになった頭で読んだ本のノートを取り、文芸同人誌に寄稿するための原稿を書き、時には酒を飲みながらtwitterの人と本の感想を話し合う。ある秋の日に突然、親しかった人が自殺したことをきっかけに、ハローワークに通うことを決め、働くために薬も断薬したのでそんな生活も終わってしまったけれども、25歳から27歳までの貴重な日々をそんな生活に費やしてしまった。今思えば、あれは自分の精神の治療であり、そして、遅れてきた青春だったのだろう。いつまでもあんな生活を続けられると思って買い込んだ大量の本の内の約8割は、恐らく死ぬまで読めないのだろう。『劇画毛沢東伝』と『ドラえもん』と『NHKにようこそ!』の三冊の漫画を座右に、世間からも自分からも逃げて永遠に続くと思われたあの日々は、今となっては二度と戻らない一度きりのかけがえのない日々だった。


過ぎ去ってしまったあの日々も、東京タワーから観た夜景も、同じ日にトランプ大統領の訪日だと騒いでいた人々の体験も、いつかは過去になる。それは寂しいことだけれども、同時に慰めでもある。それは荒野の叫び声。それはミッドナイトブルース。それは絵葉書に描かれた憂い顔。それは多くなる笑い声。


やっぱり何かが終わったんだろう。けれども、これは青春の終わりではないと思う。まだもう少し、恥ずかしい日々を続けなければならない。恥ずかしくなるほど真面目に生きなければならない。


来年には答えが出るだろう。東京タワーから続いていく道を、僕はもう少し歩き続けられそうだ。

 

ぼくらが旅に出る理由

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