書評:橋本伸也、沢山美果子〔編〕『保護と遺棄の子ども史』昭和堂、京都、2014年6月20日初版第1刷発行。

 昨年のクリスマス期間にtwitterAmazonウィッシュリストを公開したところ、なんとF氏より

 

*橋本伸也、沢山美果子〔編〕『保護と遺棄の子ども史』昭和堂、京都、2014年6月20日初版第1刷発行。

 

 

*田澤佳子『俳句とスペインの詩人たち:マチャード、ヒメネス、ロルカとカタルーニャの詩人』思文閣出版、京都、2015年12月15日

 

の2冊を御贈りいただけました。

 

 全く有り難いばかりで言葉もないのですが、感謝の意を込めて今日、遅ればせながらいただいた本の内、『保護と遺棄のこども史』の方を簡単に書評することします。

 

 

 “本書は、日本史、ヨーロッパ史、イスラム史、法制史など多様な分野の研究者が、出生以前の胎児や出生直後の乳児も含めた子どもの「保護と遺棄」のあり方を歴史的に読み解くという主題に取り組んだ論文集である”(沢山美香子「あとがき」313頁より)と編者によって述べられている通り、本書は学際的ながらも近世~20世紀前半の子どもに対する視線が、世界中で「保護」と「遺棄」の双方を揺れ動いてきたことを明らかにしているものである。こう書くとわかりづらいが、たとえば親に遺棄された孤児を保護するはずのロシアの児童養護施設が、現実には保護の役割を果たせずにあり、また、そのような施設から孤児を引き受けた養父母によっても、残念ながら常に適切な保護が実現されるという訳ではないという例が橋本伸也による本書の「序」では挙げられているが、このように”「保護」と「遺棄」とが情況に応じて継起的・連続的に入れ替わったり、そもそも同じコインの二つの面であったりすること」(橋本伸也「序」9頁)という複雑な現象を指しているとのことである。

 

以下、参考までに目次を挙げると

*橋本伸也「序」(1-22頁)

第Ⅰ部「問題群と研究動向」

*沢山美果子「第1章 保護と遺棄の問題水域と可能性」(25-45頁)

*岩下誠「【視点と論点①】福祉国家・戦争・グローバル化――一九〇年代以降の子ども史研究を再考する」(46-56頁)

*金澤周作「【視点と論点②】チャリティとポリス――近代イギリスにおける奇妙な関係」(57-64頁)

第Ⅱ部「「捨て子」の救済と保護・養育」

*沢山美果子「第2章 乳からみた近世日本の捨て子の養育」(67-99頁)

*中村勝美「第3章 近代イギリスにおける子どもの保護と養育」(100-128頁)

*岡部造史「第4章 統治権力としての児童保護――フランス近現代史の事例から」(129-152頁)

*江口布由子「第5章 近現代オーストリアにおける子どもの遺棄と保護」(153-179頁)

第Ⅲ部「「保護と遺棄」の射程と広がり」

*三成美保「第6章「保護/遺棄」の法的基準とその変化――ドイツを中心に」(183-214頁位)

*山崎和美「第7章 慈善行為と孤児の救済――近代イランの女性による教育活動」(215-241頁)

*中野智世「第8章 「瓦礫の子どもたち」・「故郷を失った若者たち」――占領下ドイツにおける児童保護」(242-268頁)

*北村陽子「【視点と論点③】両次世界大戦期ドイツの戦争障害者をめぐる保護と教育」(269-275頁)

*高岡裕之「第9章 戦時期日本における「児童保護」の変容――人口政策との関連を中心に」(276-305頁)

*河合隆平「【視点と論点④】総力戦体制下における障害児家族の保育と育児」(306-312頁)

*沢山美果子「あとがき」(313-315頁)

 

 となっている。一読してわかるように、本書で私が馴染み深い日本の子ども史を扱ったのは第2章の沢山論文と第9章の高岡論文しかなく、また、時代的には18世紀~20世紀の事例が主な研究対象となっているものの、岩下論文がフィリイップ・アリエスの『〈子供〉の誕生』によって子ども史研究が如何に変化したかを論じているように、全体的に研究史に踏み込んだ、この学問領域に強く関心のある人々向けの本となっている。

 

 無論、第9章の高岡論文で1938年の厚生省創設を陸軍の意向とみる従来の見解に対して、内務省主導説が紹介される(280頁)など、個々、新たに得た知見は多々あれども、それについて書き記すと膨大かつ煩瑣な記述となってしまうので、ここではこのような書物を、特に学者でも教育行政に携わる行政官でもない人間が読むことの意義について少しだけ考えてみたい。

 

 先ほど少し触れた岩下誠氏はアリエスの『〈子供〉の誕生』によって生まれた日本の教育言説について、興味深いことを述べているので引用しよう。岩下氏は80年代以降の日本の家族や学校についてしばしばマスメディア上で喧伝される危機のイメージを念頭に、以下のように述べている。

 

“ 問題は、アリエス路線の子ども史研究が、このようなマスコミ主導の危機イメージを歴史的、実証的に検証するというよりもむしろ、そうしたイメージに無批判に追従し、いたずらに危機を煽るような文脈で利用されたということである。八〇年代におそらくは自覚的に選択されたのであろうこの戦略は、しかし同時代に政策レベルで進行していた新自由主義への転換を認識できなかったばかりか、現在に至っても、危機を煽って改革を唱える新自由主義(と新保守主義)への対抗軸となりえず、むしろ――意図せざる結果であろうが――それに棹差すような役割すら演じてしまっている。アリエスに依拠した「子どもの解放」という八〇年代的な課題設定は、学問的な基盤を失っているだけでなく、新自由主義新保守主義へと回収されることによって、国内的にもグローバルにも政治的に無力化している。……”

(本書所収、岩下誠「【視点と論点①】福祉国家・戦争・グローバル化――一九九〇年代以降の子ども史研究を再考する」54-55頁より引用)

 

 つまり、日本にあってアリエスは新自由主義(「聖域なき構造改革!」)の伴走者として機能してしまったということなのだけれども、恐らくは導入者たちが意図していなかったこの輸入学問の政治的効果を考える際に、同じく輸入学問でありながらも、結局は総力戦遂行の知的部門と化してしまった1935年~1945年までの日本マルクス主義の影を見ることは不可能ではないし、また、学者が自信を持って饒舌に語る発想が、必ずしも市民にとって利益となる訳ではないということを私は本書で知ることができた。

 

 おそらくは、「危機を煽って改革を唱える」人々(いつの時代も決して少なくはない)に対して、本書の各論文が示した事実の力によって冷静さを保つ術を得ることこそが、本書のような極めて専門性の高い文献を私の如き一市民が読むことの意義なのではないか。そのようなことを考えるための、私にとって誠に有意義な時間をこの文献と共に下さったF氏に感謝を捧げつつ、本稿を閉じたい。ありがとうございました。