第一回現代詩朗読会「病人としての宮澤賢治――誰にだって言いたくないことはある」レジュメ
概要
著名な文化人から文科省、学校の先生、ヒッピーまで、今日宮澤賢治を称えない人は存在しないのではないかと思われるような立場の詩人、宮澤賢治。多くの人は農業の聖者、エコロジーの元祖としての賢治を語るが、賢治はそこに収まらない悲哀を抱き続けた存在ではなかったか。賢治「褒め殺し」的な風潮に異を唱え、病人としての、修羅としての賢治から、新たな賢治像を提供しようとする試み。
使用するテキスト
*宮澤賢治『精選 名著復刻全集 近代文学館 春と修羅 関根書店版』日本近代文学館、ほるぷ出版、1972年5月1日発行。――テキストA
*天沢退二郎〔編〕『新編 宮沢賢治詩集』新潮社〈新潮文庫〉2013年2月25日45刷。――テキストB
*宮沢賢治『新編 銀河鉄道の夜』新潮社〈新潮文庫〉2005年6月10日37刷。――テキストC
*丸山照雄〔編〕『近代日蓮論』朝日新聞社〈朝日選書192〉1981年10月20日発行。――テキストD
朗読する作品
- 「肺炎」、発表年月日不明、pp.393-394
- 「保坂嘉内あて(封書)」、1921年(大正10年)1月中旬、pp.111-112
- 「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」、1925年(大正14年)7月19日、pp.218-222。
- 「『春と修羅』序」、1924年(大正13年)1月20日、pp.3-8。
- 「恋と病熱」、1922年(大正11年)3月20日、p.11。
- 「イーハトブの氷霧」、1923年(大正12年)11月22日、p.298。
- 「冬と銀河ステーション」、1923年(大正12年)12月10日、pp.299-301。
- 「サキノハカといふ黒い花といっしょに」、1927年?、pp.278-279。
- 「何といはれても」、1927年(昭和2年)5月3日、pp.277-278。
- 「境内」、発表年月日不明、pp.311-316。
- 「よだかの星」、1934年(昭和9年)発表、pp.31-39。
- 「夜」、1929年(昭和4年)4月28日、pp.325-326。
- 「雨ニモマケズ」、1931年(昭和6年)11月3日、pp.118-122。
宮沢賢治略年表
*1896年(明治29年)
**8月27日 - 花巻の古着商、宮澤政次郎と宮澤イチの長男として岩手県花巻町に生まれる。イチは岩手の地方資本家、「花巻財閥」こと宮澤善治の娘。父政次郎の浄土真宗(真宗大谷派東本願寺)への傾倒から、真宗近代教学の導師、暁烏敏の影響を受けた環境で真宗門徒として育てられる。
*1909年(明治42年)13歳
**4月 - 盛岡中学校入学。
*1913年(大正3年)17歳
*1914年(大正3年)18歳
**3月 – 盛岡中学校卒業。
*1915年(大正4年)19歳
**4月 – 盛岡高等農林学校入学。
*1917年(大正6年)21歳
**7月 – 友人の保阪嘉内らと同人誌『アザリア』を開始。
*1918年(大正7年)22歳
**3月 – 盛岡高等農林学校卒業。
**6月 - 肋膜炎と診断される。以後肺結核を抱えて生きていくことになる。
*1919年(大正8年)23歳
**2月 – 妹の肺結核が判明する。
**10月 – 家の宗旨であった浄土真宗から自発的に改宗し、日蓮主義宗教団体、国柱会に入信する。以後生涯一信徒として過ごす。賢治とほぼ同時期に国柱会に入信した陸軍軍人に、同じく東北の山形県出身の石原莞爾が存在し、石原莞爾は後に満洲事変の首謀者となり、国柱会の日蓮主義の強い影響の下に『世界最終戦争論』(1940年/昭和15年)を発表する。
*1921年(大正10年)25歳
**1月 - 友人の保坂嘉内に国柱会への入信を薦める手紙を送る。
**12月 – 稗貫農学校(1923年に岩手県立花巻農学校へと改編)教師となる。
*1922年(大正11年)26歳
**3月20日「恋と病熱」
**11月 - 妹トシが肺炎で死去。
*1923年(大正12年)27歳
**11月22日 - 「イーハトブの氷霧」。
**12月10日 - 「冬と銀河ステーション」。
*1924年(大正13年)28歳
**1月20日 - 「『春と修羅』序」。
**4月 - 生前刊行した唯一の詩集、『心象スケッチ 春と修羅』を自費出版。初版1000部。父が株で成功したことで経済的に余裕があったことが要因の一つ。ダダイスト・アナーキストの辻潤に激賞される。
**12月 -生前刊行した唯一の短編小説集、『イーハトーブ童話 注文の多い料理店』を自費出版。初版1000部。
*1925年(大正14年)29歳
**7月19日 - 「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」。
*1926年(大正15年/昭和元年)30歳
**3月 - 花巻農学校を辞職。以後農耕生活に入る。
**8月 - 羅須地人協会結成。
*1927年(昭和2年)31歳
**「サキノハカといふ黒い花といっしょに」。
**5月3日 - 「何といはれても」。
**このころ、羅須地人協会に通ってきた高瀬露に結婚を言い寄られるが、ハンセン病であることを理由(そのような事実はないので断るための口実)に断る。
*1928年(昭和3年)32歳
**12月 - 肋膜炎の再発。療養生活に入る。
*1929年(昭和4年)33歳
**4月28日 - 「夜」
*1931年(昭和6年)35歳
**9月18日 - 満洲事変勃発。以後、非常時の掛け声とともに右傾ムードが高まる。
**肺結核の再発。
**11月3日 - 「雨ニモマケズ」
*1933年(昭和9年)37歳
**9月21日 - 死去。父に残した遺言は、「国訳の妙法蓮華経を一千部つくってください」であった。
*1934年(昭和9年)
**「よだかの星」発表。