チリ・クーデター45周年に際して:アジェンデは生きている

45年前の今日、1973年9月11日に南米南部のチリ共和国にて軍事クーデターが発生した。本稿ではこのクーデターについて多くを述べることは避けるが、代議制民主主義の要件を全て満たした上で大統領となり、「マルクス主義の古典によって予見されてはいるが、これまでにけっして具体化されたことのない、複数政党制の道」*1を通じてチリの社会主義化を実現しようとしたサルバドール・アジェンデ大統領以下2700人*2の政権支持者がアメリカ合衆国のCIAによって後援されたチリ共和国軍により殺害され、ピノチェト将軍を首班とする軍事政権が成立したことだけをここでは確認する。

アジェンデは45年前に死んだ。その間、アジェンデが実現しようと夢見た社会主義の理想はソ連の崩壊や中国の資本主義化の進展により見る影もなく衰微した。しかしながら、北方の巨大な帝国の政治的・経済的支配に立ち向かった末にアジェンデが殉じた理想には、2018年の今日であっても、1945年以来同じ巨大な帝国に半ば支配されている国に生きる者にとって、決して無視できないものが含まれていると私は考えている。以下に、短いながらも、アジェンデが大統領在職中の1971年6月に書いた小編を引用することで、アジェンデが何のために闘い、何のために死んだのかを考えるための材料として本稿の読者に提供する、

“ 私は北アメリカの読者に、あらゆる偏見に打ち勝って、私の言葉に虚心に耳を傾けてくださるよう、お願いします。チリ社会主義が何を意図しているかを十分に把握するためには、わが国の人民の真の性格を客観的に理解することが必要です。なぜなら、わが国の人民の渇望は、あれほどしばしば無視されあるいは裏切られてきはしましたが、明らかに正当なものであるからです。歴史的感覚をもってわれわれが繁栄した人間らしい国の建設を要求するなら、わが国の社会の不平等は存在し続けることはできません。現在まで実施されてきた諸計画は、国民所得の不公平な分配の生み出した大きな不均衡の是正には成功しませんでした。チリの改良主義は、少数者の安逸な生活と多数者の窮乏を許してきた社会の悪弊を根絶することができませんでした。もっと大胆で普通の人間に立った方法を探求した結果、われわれは、社会主義に、チリ社会主義に、行き着かざるをえなかったのです。なるほど、いくつかの哲学理論や、偉大な思想家たちの命題や、他の諸国の実例が、われわれの行動を大いに鼓舞し、われわれの綱領を作成するうえでいくらか助けになっています。けれども、そうしたものは一つとして絶対的原理として受け入れてはいません。われわれは人民の渇望の正当性を信じています。なぜなら、われわれは、われわれの毎日のパンを供給する仕事で腰の曲った農民の側に立っているからです。その手でつくり出した富をわれわれに与えてくれる労働者たちの側に立っているからです。事務員たち、兵士たち、知識人たち、学生たち、自分の努力と犠牲によって生産した富を享受する不可譲の権利をもっているすべての人々の側に立っているからです。
 北アメリカの読者は、チリのことはほとんど知らないかもしれません。知っているとしても、それはおそらく、わが国が遠くて地理的に特異だということで、わが国が自由の伝統や革命的精神をもっていることではないでしょう。おそらく、特権的地位を維持しようとする諸グループがつくり上げた歪んだ像を通して知っているのです。一つの国の像を意識的に歪める人々がそうするのは、彼らが、人民諸階級の生活水準の向上を可能にする変革が差し迫った必要であることを認めるのではなくて、冷戦の遺産を利用して自分の利益を守ろうとしているからでしょう。
 私は若いときからずっと、偏見と時代遅れの政治機構を永遠に葬り去るために闘ってきました。私は運命の命ずるところにしたがって、この民主主義革命の先頭に立つことになりましたが、この闘争のなかでは、民主主義という言葉は、本質的に反民主主義的で反動的な政治態度を蔽い隠すためにむやみやたらと使われる場合に比べて、はるかにより広大な意味をもっています。私がこの責任を引き受けたのは、ためらうことなく社会正義と政治指導との目標を追求する、誇り高い、活力に満ちた、主権者である人民から、それを要請されたからです。チリ人民は、国の内部だけでなく外部からも困難な障害が待ち受けていることを知っています。利己主義に目のくらんだ国内・国外のわれわれの敵には、理解できないことですが、あるいは理解しようとする気さえないことですが、ひとたび革命が働く人々の積極的参加の産み出した強力な創造的神秘に染まれば、革命はもはや押しもどすことのできないものとなります。いかなる障害があろうとも、すべて乗り越えて行くでしょう。”
サルバドル・アジェンデ「サルバドル・アジェンデによる後記」レジス・ドブレ/代久二訳『銃なき革命・チリの道:アジェンデ大統領との論争的対話』風媒社、1973年3月5日第1刷発行、193-195頁より引用。
 

同志大統領サルバドール・アジェンデは45年前に死んだ。しかし、アジェンデが殉じた理想は、この世界にアジェンデが立ち向かった問題が問題として存在する限りは決して死ぬことはない。霊魂の不滅を信じなかった唯物論者であるアジェンデは、しかし今も生きている。その生涯を記憶する人間がこの世界に存在する限り、アジェンデは生き続ける。ピノチェトの銃弾でも、戦車の砲撃でも、戦闘機の爆撃でも、決して殺すことはできない。真に偉大な人格は、決して打ち破られることはないからだ。

 

チリ万歳!人民万歳!労働者万歳!同志大統領サルバドール・アジェンデ万歳!

*1:サルバドル・アジェンデ「サルバドル・アジェンデの最初の国会教書」レジス・ドブレ/代久二訳『銃なき革命・チリの道:アジェンデ大統領との論争的対話』風媒社、1973年3月5日第1刷発行、200頁より引用。

*2:中川文雄、松下洋、遅野井茂雄『ラテン・アメリカ現代史II:アンデス・ラプラタ地域』 山川出版社〈世界現代史34〉、東京、1985年1月15日1版1刷発行、230-231頁。

自己批判

中学2年生から3年生の時、インターネット上の極右言動に影響されて、左派系市民団体の方の個人サイトの掲示板に罵詈雑言を連ねたり、2ちゃんねるのハングル板で在日韓国朝鮮人の方々に対し、差別用語を使ってヘイトスピーチを行っていたことがある。ltu今思えば全くバカで、私の言動に不快な思いをなされた方々に申し訳ないという他ないが、先日、たまたまそのことを思い出し、私はこの件について謝罪も自己批判も行っていないことに気が付いた。

本稿では、1987年度生まれの広汎性発達障害者の恥多き半生を、満18歳まで振り返る。赦してもらえるとは思わないが、少なくとも高校2年で赤化してから現在まで続く私の立場上、「若気の至り」ということで済ませてはならぬことである。

事を行ってから15年以上経つが、今も私の脳裏に恥ずかしい、申し訳ない記憶としてこびりついている以上、やはりこれは書かなければならぬことなのだろう。

書くのが余りにも遅くなってしまったが、これを書いて公開しなければ、現在の自分の在り方が虚飾になると思ったので、あえて書くことにした。

恥多き、情けない人間の半生を書くことにも、しっかり書けばこのような人間にはならぬという反面教師としての役割があるだろう。告白というものは、それがどのような内容であっても、言う側も聴く側もいたたまれなくなるものだが、お付き合いいただけると幸甚である。

 

1.出生から幼稚園卒業まで(1987年~1994年3月)

 私は1987年に石川県北部、能登地方にて、母方の祖母が傾倒していた真如苑の三世信者として生まれた。いつだったか、長じてやたら仏教的な名前が付いているのはそのためだと知り、自分が普通の名前に生まれなかった理由に憎しみ半ばに納得した記憶がある。戦時中、村の素封家の家庭から食糧難を理由に小地主の家に嫁いだ直後、敗戦後の農地改革で窮乏した祖母が真如苑に救いを求めたと知ったのは随分後のことであった。ちなみに、私の生まれた1987年度(元号で言えば昭和62年度)は全員が全員、昭和生まれの最後の年である。私の一つ下の1988年度生まれから昭和63年、昭和64年、平成元年となり、平成生まれが現れるのだ。敗戦後もけじめをつけることなくダラダラ続いた日本史上最長の元号である昭和の最後に生まれた私もう三十路になってしまった。

母親の里帰り出産により私は能登で生まれたが、育ったのは神奈川県の工業都市であった。後述の事情で明らかにするように、私は育った町が憎くてならなかった。しかし憎しみつつも結局期間工になったりせずに実家に戻ってきてしまった辺り、どこかで依存しているのであろう。

私の最初の記憶は、母親に連れられた幼稚園から母親が去っていくのを泣きながら悲しんだことである。1991年に出身市内の幼稚園に入園した私にとって、幼稚園生活はただつらいものであった。よく、通園バスから降りた後、些細なことで同級生から家の近くの空き地で殴られ、やり返せなかったのが悔しかったのを今も憶えている。手も足も出なくても歯は出るので、相手にたまに噛みついて怯ませていたのだが、よく喧嘩してる相手の母親に残った歯型のことを責められ、自分は殴られ蹴られてるのになぜ自分ばかり、と理不尽に思ったのだった。母親に公文式に通わされたのもこの頃だった。やりたくもない算数や数学の範囲をこなすのは苦痛でならなかった。習わされたピアノは満足に弾けず、朝のポンキッキーズから流れてくる山下達郎の「パレード」と、父親が好きだった松任谷由実の歌を聴くことと、黎明期のスーパーファミコンのゲームをするのが僅かな慰めの期間だった。

 

2.小学生時代(1994年4月~2000年3月)

1994年に小学校に入学した後も、つらい日々は変わらなかった。理由は憶えていないけれども、小学1年から2年にかけては、昼休みや放課後にほぼ毎日同級生と喧嘩し、負けていたのであった。体格が悪いのでパンチが通らず、そのまま殴られ蹴られて床に臥し、惨めな思いをするのである。情けで入れてもらったクラスのドッヂボールでも、球技がからきしダメだったのでいつも身をかわすことしかできずに悔しかった記憶がある。発達障害者に協調性運動障害なる体を動かすことが著しく不得手な症状が伴うことがあるのを知ったのは、成人した後、つい最近のことだった。

小学2年の頃、床に落ちたご飯粒を食べたとの廉で(当時実際に私がそうしたのかは覚えていないが、気付いたらそういうことにされていた)、「不潔」というあだ名が付き、クラスの大多数から攻撃されていたが、そんな中で印象的だったのはサッカーをしていたY君である。理由を覚えていない中でY君と喧嘩になった時、みぞおちに入った彼のパンチを崩れそうになりながら堪えたことがきっかけで、彼と仲良くなったのだ。男というのはちょろいものなので、自分がバカにしていた相手が意外とやるとわかったら、急に仲良くなれるのだ。

彼と仲良くなったことで殴られ蹴られる日々はとりあえず終わったが、幼稚園時代からの延長で、親も教師も大人は基本的に助けてくれないし、周りは自分に対して敵対的であり、嫌な思いをしないために頼りになるのは力だけだという、現在まで続く私の人間観が形成されたのはこの時期だったと思う。

3年に上がり、1~2年次からクラスが替わったのを契機に、私はクラス内の強者に媚びることを憶えた。親からよく言われていた「協調性」なるものの自分なりの発露は、強者のご機嫌を取り、調子よく振舞うことであった。今思うと情けない限りだが、3~4年時はこれで上手くいったのだ。

さて、書いてきたように私は運動のできない小学生であった。当時、嫌な思いをしながら小学校から帰ってきた後は碌に上達しない習い事(水泳、絵画、公文式)やスーファミに続いて出てきた初代プレイステーションのゲームだったのだが、それに加えて好きだったのは本であり、特に図書室は心の慰めになったのだった。

小学4年、満年齢で言えば10歳になる歳に図書室で『はだしのゲン』を読んだことは、恐らく現在まで続く私の出発点なのだろう。当時、日本の近現代史についてもこの国の統治機構についても天皇制についてもよく知らないまま、『はだしのゲン』から得た戦争の悲惨さ、敗戦直後の人間の醜さは今も憶えているが、ある日、作中の著者の言葉から、両親に「昭和天皇は戦争責任者だ」という旨のことを述べたら、父親からひどく怒られたのである。曰く「昭和天皇は、マッカーサーに対して自分はどうなってもいいから国民を助けてくれ」と言ったのだと。結局それがどうなったのかは覚えていないが、今にして思えば無謀と言うか、自分でも内容をよく理解できていないことを鵜呑みにして突っ走るという、後述する中学時代の、後悔することになる私の気質の表れの初めがこれである。

その後、小学5年時のクラス替えで、『スターウォーズ』に傾倒していたA君と仲良くなった。確か彼に薦められて、当時はまだ存在したVHSで『スターウォーズ』を観たところ、SFの機械の面白さと、ストームトル-パーの放つ軍事的な魅力にやられてしまった。書いてみるとつくづく影響されやすい気質である。

A君の他、S君、H君と意気投合した結果、小学5年~6年の間は特に嫌な目に遭うこともなく、天パーでメガネのカッコ悪い奴という位置付けながらも楽しく過ごすことが出来た。よくA君の家で、4人でNINTENDO64の『007ゴールデンアイ』や初代『スマッシュブラザーズ』で遊んでいた1999年~2000年頃が、現在までの自分の人生で最も幸福な時期であった。

こうして、今から振り返れば恥多き時代となる中学時代の舞台装置、つまりスクールカースト低位の者が持つ弱肉強食的な発想と、『はだしのゲン』の政治思想、『スターウォーズ』からのミリタリー趣味という三要素を揃えて、私は2000年3月に小学校を卒業した。


2.中学時代(2000年4月~2003年3月)

私の出身市内の中学校は、基本的に荒れている。それが何に由来するのかはわからないが、少なくとも運動ができなかったり、腕っぷしが弱かったり、容姿に魅力のない人間にとっては過ごしやすい空間ではない。2000年には既に80年代終わり~90年代半ばの校内暴力や暴走族ブームは一段落し、さらに私の通っていた中学校は比較的マシな方であったが、やはりそのどれにも恵まれない私にとっては辛い空間であった。

この時期は私の人生で最も恥多き時期であった。

元々運動、とりわけ球技ができない私は、親に運動部に入るように言われたのをきっかけに、球技ではない運動部であること、『るろうに剣心』へのちょっとした憧れ、そしてなんとなくA君がいるという理由で経験者でもないのに剣道部に入ったのだが、これは私の人生で最大の決断ミスであった。剣道ができなかっただけではなく、一個上のヤクザの息子に目を付けられ、当初仲が良かった同級生からは次第に無視されるようになり、後輩からはバカにされ、と散々な日々を過ごすことになったのだが、途中でやめるのは逃げることだと愚かにも自分に言い聞かせて泣きながら部活に出続けた結果、中学を卒業する頃には完全に精神的におかしくなってしまっていた。

更に、中学1年の終業式直前の、確か通学路にミミズが干からびていた7月初頭、同級生の女子が、文脈的に恐らく私のことを指して「キモイ」と言っているのを耳にしてしまったのは、性に関心を持つこの時期の男子にとっては大きな痛手であった。ご存知のようにその当時から今に至るまでずっと、私は容姿にも同性からの格付け(スクールカースト)にも特に魅力のない、陰気な人間なのであるが、そういう言葉で自分のことを表現されるのは、小学校で殴られなれていた私の身にも痛く感じた。その日から夏休みが始まるまで、毎日、「キモイってなんだろう。どこをどうすれば自分はキモくなくなるのだろう」と暗澹たる気持ちで考えながら過ごしていたことは、30を過ぎた今も忘れない。

このように、基本的にうだつの上がらない日々を過ごしていた私は、自分の「キモさ」と対決しようと思ってできず、自分の気持ち悪さを自分で認めながら過ごすという、情けない日々を送ることになるのだが(その種の卑屈さが剣道部で孤立した原因だろう)、キモい人間はどうしたらいいのかわからずに、さらに事態を悪化させてしまうことがある。これまでなら私はただ気持ち悪いというだけで、見ている人々からはともかく、少なくとも自分の行いを恥じる筋合いはなかったのだが、そこで私は思い出すのも恥ずかしく、情けなく、申し訳ない方向に進んでしまうのであった。


前述した小学生時代『スターウォーズ』を薦めてくれた同じ剣道部のA君は、中学に入ってから米軍の現用装備を買い揃えるミリタリーオタクになっていた。A君のみならず、中学時代はゲーム『メタルギアソリッド』や『バイオハザード』などの影響もあったのだろう、同学年の内、10数人程が東京マルイの電動エアガンを所有していた。何故かサバイバルゲームに私も誘われて、O君にMP5クルツを貸してもらって近所の里山電動ガンでの銃撃戦をしていたのだが、小学生の頃には特に軍事的なものや銃器に憧れることがなかった自分にもここら辺で自分のミリタリー趣味に火が付いたのだと思う。A君のように米軍の現用装備を買い揃えたり、O君その他のように高価な電動ガンを買う事もなかったが、その代わり私は読書で軍事知識を満たす方向に進んでしまったのである。2000年代初頭には、小林よしのりの『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』(小学館、1998年)が家の近くの文教堂に平積みされていたが、私は手を出して、購入してしまった。『戦争論』を購入してしまった。

大東亜戦争」の日本の正義を説く小林よしのりの漫画本は、せいぜい『はだしのゲン』と、小学校の社会科でしか戦争のことを知らない13歳の少年の頭を席捲するには十分であった。「日本は正しいことをした!」、「反日マスコミの描く虚像から偉大な栄光の日本軍を取り戻せ!」今にして思えば恥ずかしい限りだが、うだつの上がらない日々を過ごす私の頭の中は、あっという間にそんなことでいっぱいになってしまった。

ミリタリー趣味を隠さなくなったある日、折しも、母親から祖父の烏帽子親の自伝を手渡された。戦時中に陸軍士官学校を卒業した後、公職追放を経て警察予備隊に志願し、一等陸佐で退役した能登地方の名望家である縁者の自伝である。今にしてみれば中国侵略の当事者であり、戦後は逆コース反動一直線の、私が決して負けてはならない敵なのだが、小林よしのりに影響されていた、「大東亜戦争」の日本の大義を信じ込んでいた当時の私にとっては、紛れもなく身近な英雄であった。体が弱いくせに大人になったら自衛隊に入りたいなどと抜かしていたのはこの頃である。日頃の自分の卑小さの中で勇壮に死ぬことへの憧れがあったのだと思う。

さて、私が過ごした2000年から2002年は、西鉄バスジャック事件(2000年5月13日)の「ネオむぎ茶」のように、インターネットで匿名掲示2ちゃんねる(現5ちゃんねる)が、まだ禍々しいアンダーグラウンドなオーラを放っていた時期であった。どのようなきっかけは憶えていないが、中学時代に我が家にやってきたインターネットから、私は2ちゃんねるに接続し、光人社NF文庫の軍記物語を読む傍ら、軍事板を眺めるようになっていたのであった。13歳の浅はかな子供にとっては、年長のミリオタの知識は輝かしく思えた。たちまち私はミリオタの世界の虜になってしまったのである。中学生の終わりごろにはどこからか軍歌のCDを入手し、今後はもう二度としないであろう最初で最後の靖国神社参拝を済ませたのだった。

それで済めばまだ良かったのに、私は「自衛隊の敵=日本の敵=反日市民団体」という安直な思考から、当時軍事板内にあった極右系のスレッドに貼られていたリンクから、左派系市民団体の方のウェブサイトに飛び、中学生の思いつく限りの呪詛を書き連ねた。今も私は「戦争の被害者としての民衆」像を維持してきた戦後左翼に余り好意的な感情は持っていないが、そんなことは全く関係なく気分を著しく害するいい迷惑だったであろう。「ネット珍走団」としての2ちゃんねらーに便乗する、どうしようもない中学生だった。今はサイト名さえ思い出せないが、その方には本当に申し訳なく思う。

さらに、あろうことか、普段見ていた軍事板が荒れていたその勢いのまま嫌韓厨の巣窟、ハングル板に一時入り浸り、中学生の全期間の総計で恐らく15~20レスほどの、見るに堪えない、文字にするのも憚られる差別用語を用いた在日韓国朝鮮人の方々に対するヘイトスピーチを行ったのだ。当時、私はあさはかだった。日本帝国主義の朝鮮植民地支配と、それによってもたらされた朝鮮民族の苦難の歴史がどのようなものだったのかも(当時は私は「植民地近代化論」の下、日本が朝鮮にインフラを整備してやったんだからありがたく思えと、日本が「親日派」と結んでその条件を整備するためにどれだけの朝鮮人民が民族的抵抗の中で殺害され、日本人に農地を奪われたかについての認識を欠いており、日本の朝鮮統治を特に悪いと思っていなかった)、何故日本の在日韓国朝鮮人が存在するのか、国家や社会からどんな差別を受けてきたかということについて知ろうともせず、「なんとなく気にくわないし、みんなが言ってるから反日なんだろう」というほどのレッテル貼りの上で、パチンコ利権やヤクザがどうのというあやふやなネット知識を背景に私は酷いことを言っていたのだ。2002年、私が中学3年生だった当時、2ちゃんねるでは、日韓共催W杯は、英語名が「KOREA-JAPAN」と、アルファベット順だとKよりも先にJが来るのに「JAPAN-KOREA」ではないのはけしからん、という小学生のイチャモンのようなやっかみで溢れていた。さらに、日本代表がベスト16で敗退した後も、ホームタウンディシジョンで試合を優位に進める韓国代表へのやっかみが、神奈川の公立中学の同級生のサッカーファンの間にもあった。そんな風潮の中で、私は差別用語を用いて、在日韓国朝鮮人の方々に対して酷いことを言ってしまった。当時は差別用語を使うことによるタブー破りに何かしらの快感を感じていたのだが、今思えば自分の浅はかな欲望を満たすために酷いことを言ってしまって本当に申し訳ない。

インターネットの世界だけでなかった。当時の私は、「力のない人間はいじめられ、ひどい目に遭うのはやむを得ない」というこれまた救いようのない哲学を抱いていた。ひどい目に遭って惨めな思いをしていた自分のことが嫌いだったのだろう。同学年には、最も性格の悪い女性と男性からいじめの標的にされていた同級生としてSさんとI君が存在したが、私はI君に関しては私は自分が標的にされるのが怖かったので避け、Sさんには対しては、主犯格にこそならなかったものの陰口を言っていた。当かったので時の私にとってそれは標的になっていた二人に対する「現実主義的」(この場合「弱肉強食」を意味する)な態度だったが、今思えばただ人間として卑しいだけである。

中学3年の夏に剣道部を引退し、自分のストレスが緩和されると、2ちゃんねる外の個人サイトにネット珍走団として突撃することも、ハングル板を見てヘイトスピーチをすることもなくなった。自分のしていたことを悪く思ったのではなくただ飽きたというだけの理由であった。そして、それでも軍事板は見続けていた。ミリオタとしての知識を更新することは、「安全保障のわからない一般人」に対して優越感を保つ手っ取り早い手段であったがために、手放せなかったのだ。『海上護衛戦』を読んで粋がっていたのはこの頃である。

こうして、中学を出る頃には、私は自分に対する無力感、絶望感を埋めわせるようなミリタリーや極右「嫌韓」思想の知識で満たした、卑しい人間に成ってしまっていた。中学2年の時、2001年の9月11日の塾から帰った日の晩に、飛行機がニューヨークのツインタワーに衝突するのを久米宏氏がキャスターをしていたニュースステーションで見たものの、不思議と、そのことについて当時は特に何も感じなかった。みんな何を大騒ぎしているのだろうと不思議でならなかった。今思えば、その頃には私の感覚はマヒしていたのだろう。

高校入学への準備を済ませていた中学卒業後の春休み、米英軍がイラクに侵攻するニュースの中で、私の恥多き中学時代は終わった。


3.高校時代(2003年4月~2006年3月)

時のイラク情報相がバグダード市内を進撃する米英軍の戦車はハリウッドの立体映像だと述べるニュースの中、私は出身市内の県立高校に進学した。当時、2ちゃんねる軍事板を見ていたはずなのに、私はリアルタイムでのイラク戦争についてほとんど何も憶えていない。漠然とサダム・フセインが独裁者として、自国のイラク人に対して酷いことを行っていたということは知っていたので、悪い独裁者がいなくなるのなら良いじゃないかというこれまた単純な理由と、ニュースで戦争が見られるという全く不謹慎な理由で賛成していたが、すぐに終わるだろうと思っていた戦争が、「ゼロ年代」を通して続くことになるとは、当時の私は予想もしていなかった。

高校の入学式では部活の顧問となる教師が「まるで米英軍の進撃がテレビゲームのようで、(本物の戦争が)そんな風に見られてしまうのはまずいのですが~」と言っていたことを記憶しているが、友人とその是非について話したことも、当時の私ならやっていそうな匿名掲示板で反対派を叩くということをやっていた記憶もない。僅かにA君と、高1で手に入れたばかりの携帯電話のメール機能で、イラクへの自衛隊派遣のことについて話したことは憶えている。イラク行きは心配だが北海道の部隊なら大丈夫か、とそんな話に相槌を打ったのだった。そういえば、A君は大学卒業後、幹部自衛官になったと風の便りで聞いた。

さて、そんな中で入学した高校だったが、私は既に中学の3年間で燃え尽きえていた。勉強には身が入らず、何となく山岳部に入ったもののそれも身が入らず、ということで、成績は急降下していた。自分の未来について何の展望も描けなかったのだから当然である。ただ、それでも、中学よりは過ごしやすかったので、開放感からか2ちゃんねるにレスを付けることはほとんどなくなった。高3まで軍事板を見続けていた記憶はあるが、段々どうでも良くなったというか、後述する自分自身の思想の変化により、あのミリオタの放つ雰囲気が嫌になっていったのだ。

高校1年、2003年4月から2004年3月までの間は、私の人生の中で、小学5年~6年(1998年4月~2000年3月)と並び、数少ない心安らかな時期だった。イラクでの激動は確実に存在したが、高校1年の私には中学から脱出できたことよりも些細なことだった。

人生で、恐らく最初で最後の恋愛めいたことをしたのも、この高校1年の頃だった。高校に入ってからメガネをコンタクトに変えて縮毛矯正をかけると、何故か何かの縁で別のクラスの女子のIさんと親しくなったのだ。最初、何が何だかわからないままメールのやり取りをしたり、一緒に帰ったりする内に、高1の最初の夏休み前に電話で告白されたのだった。当時全くそんな心当たりがなく、特に自分が好きでもない上に、中学以来自分に自信に持てない少年だった私はそれを断ってしまった。今思えばもったいないことをしたと思う。男というのは身勝手なもので、自分で断ってしまうと途端に意識しだしてしまうのだ。猛烈に彼女のことを意識し、気付いたら猛アタックをかけていた。その試みは割と上手く行き、高1の春休みは毎日5時間近く、何を話すでもなく電話で話していたと思う。その時に告白しておけば良かったのだが、当時も今も私はバカだったので、かけひきを仕掛けるつもりでタイミングを逸らしてしまった。彼女は傷付いたのだろう。高2の初めに同じ部活の私の友人のS君と彼女は付き合いだしたのだった。

痛恨だった。バカなことをせずに、春休みの内に素直に好きだと言っておけば良かったのだ。しかし時すでに遅し。IさんともS君とも疎遠になり、さらに共通の友人を何人か失う展開となった。全部私がかけひきめいたことをしたのが悪かったので自業自得だったのだが、よっぽどショックだったのか高2は始業から夏休みまでの記憶がない。

高1のプチリア充期にも確か、まだ2ちゃんは見ていた気がするが、なんだかんだで高校1年の時は結構楽しかったのでインターネットが生活のメインになるということはなかった。しかし、高2で失恋した後はそんなことを言ってられなくなった。好きな人も、親友も、失ってしまったのだ。それも自分のミスのせいで。

その後、中学時代以来、自分が「キモい」存在だとの意識はあったので、確か高2の半ばか高3頃から「モテない男性板」に入り浸るようになっていったのを憶えている。「俺たちは敗残者だよな」という澱んだオーラに充ちていた喪板は、しかし、ままならない現実に比べれば天国のような快適な空間であった。今よく考えれば一瞬、最大瞬間風速で、彼女の中学時代の元カレに似ているという理由でモテていたのだったが、当時はそんなことを考える余裕はなかった。それだけ切羽詰まっていたのだった。

そんなある日、相談に乗ってもらった部活の先輩から村上龍の『五分後の世界』(幻冬舎、1994年)を貸してもらったのだった。『五分後の世界』については特に大きな感想はなかったものの、これをきっかけに村上龍のエッセイを読み始め、私は村上龍社会主義国キューバを称える文章を目にするのである。これが、現在まで続く直接の私の左傾の起源である。当時、私は逃げ出したかった。ままならない家庭からも、学校からも、友人からも、受験からも、育った町からも、全てから逃げ出したかった。しかし、私には勇気がなかった。そこで観念的に、町田のブックオフで手に入れたサルサのCDを聴くことで、村上龍が讃えるキューバ音楽の世界に亡命したのだ。部活の友人達と喧嘩別れしてから満足に音楽など聴いていなかった私にとって、キューバ音楽は、とりわけコンピレーションアルバム『¡Sabroso! Havana Hits』の世界は全く未知の世界で、世の中に自分の知らないこんな世界があったのだと、少しだけこの世界から脱出できた気がしたのだった。

それからだった。キューバを知るためにフィデル・カストロチェ・ゲバラの伝記を読み、冷戦終結以後もキューバ社会主義体制を維持していること、親子世襲で人民を飢えさせている「北朝鮮」(本来は正式名称で朝鮮民主主義人民共和国と呼ぶべきだが、2000年代前半の、とりわけ2002年9月17日の小泉首相金正日国防委員長の間の日朝首脳会談で、拉致被害者の死亡が伝わった後の日本のメディアの対朝感情は最悪だった。この発表があった中学3年生の時期にはもうハングル板は見なくなっていた時期であり、差別用語こそは使わなかったものの、2ちゃんねるのニュース速報板に「ふざけるな北朝鮮」といった旨のことを書いたことを憶えているため、この文脈ではこう書く)とはまた違うという意見、そして、何より経済制裁の中で窮乏しながらもアメリカと対決しているという事実が、私の胸を捉えたのだった。

前述したように、中学の頃、韓国と、在日韓国朝鮮人の方々に対して、匿名掲示板でコソコソと酷いことを言っていた私は、その思想的な総括と反省をすることなく、朝鮮近現代史を真剣に学ぶこともないまま、しかし、2ちゃんねるで見るようなヘイトスピーチからは距離を置くようになっていた。きっかけは、高1の頃好きだったIさんの女友達のKさんが、1個上の高校の軽音楽部の先輩で、在日韓国人であることをカミングアウトしていた人を知ったからであった。話したことがあるわけでもなく、かつ、いかにも軽音部いけ好かないリア充といった趣でモテていたので気にくわなかったが、彼が体育祭のブロック誌に、本名と共に、自分の気になる事の1位と2位に韓国と北朝鮮を挙げていたことは、とりわけ当時の日本では不人気であった北朝鮮を挙げていたことは、今も憶えている。当たり前だが、在日韓国朝鮮人の皆様は、サンドバッグではなく、実在する血と肉を持った、生きた人間なのである。恥ずかしながら高1まで私はそのことに思い至らず、中学時代に自分が行っていたことを自己批判することはなかったものの、その人を遠くから知ったことで、私はインターネット上のヘイトスピーチに何か違うという感情を抱いたのだった。また、窪塚洋介主演の『GO』(行定勲監督、2001年)を、高1の時周りで窪塚洋介が流行っていたという理由で、前評判をよく知らずに観たことも、私の中の偏見を解消するきっかけだった。映画の中でジョンイルが殺されてしまう部分はいくら何でもやりすぎじゃないかと高校生ながらに思ったが(生かしておいた方が展開的にはすっきりしそうである)、警官が窪塚に対し、昔付き合って在日韓国朝鮮人の女性の話をする部分などで、そんなことは日常的に多々あるのだろうなと、そう思ったのだった。


高2の秋は転機だった。高校に入り、たまに軍事板を見るぐらいでほとんど軍事関連の知識のアップデートも行わず、小林よしのりの『戦争論』に続く『ゴー宣』シリーズもめっきり読まなくなっていた中で、中学時代から続く思想的な混乱をどうにかしなければならないと、そう思ったのだ。

私が『戦争論』に共感したのは、反戦的な主流なマスメディアではほとんど触れられない欧米帝国主義に対抗する存在として日本の正義を描いたからであった。しかし、日本はアメリカとだけ戦争していたのではない。アメリカと戦争する前に中国と戦争していた。それなのに、アメリカと戦争したことだけを以て、大日本帝国を欧米帝国主義と対決したと讃えてしまって良いのだろうか。中国の領土で中国人と戦い――当時私は認めたくなかったが――多くの中国人に犠牲を出しながら、白人の帝国主義と対決したことを誇るのは、何か無理があるのではないか。一方で、キューバは、革命の輸出こそ行っていたものの、自分達と近いよその国に攻め込んだことはなかった。キューバを援助していたソ連(当時の私には悪の全体主義収容所国家であった)の崩壊後も孤立無援で(厳密には1999年に成立したベネズエラの故チャベス大統領政権が石油の供与を開始していたのだが、当時の私はそんなことを知る由もなかった)、北朝鮮のように核兵器を作らずにアメリカに対抗していた社会主義国であった。正義は大日本帝国ではなく、キューバにあった。

一方、高校入学当時、すぐに終わると思っていたイラク戦争は泥沼化していた。前にも書いた通り、2003年当時の私は、非道な独裁者、サダム・フセインが倒れればすぐに民主化してイラクも良くなるだろうと漠然とブッシュJrと小泉路線を支持したまま、イラクのことに興味を失っていた。事態は全くそんなことはなく、独裁者を倒して自由民主主義を植え付けるという発想自体が、アメリカ型民主主義が輸出可能であるという発想自体をアメリカ帝国主義イデオロギーだと批判しなければならなかったのだと、私は朧気ながら考えるようになっていた。そこで崩壊したソ連や収容所国家である北朝鮮チベット人その他の少数民族を弾圧する中国(当時の2ちゃんねる軍事板での中国はそのように扱われていたと思う)をアメリカ型自由民主主義の対抗国として挙げることはできなかったが、そう、私には村上龍に教えてもらったキューバがあった。

そんな中で2004年の夏か秋のある日、たまたまはてなダイアリーで、当時メディアや2ちゃんねるでは散々にバッシングされていた高遠菜穂子さんらイラク日本人人質事件についての記事を読む機会があった。「高遠菜穂子さんは散々なバッシングを受けたが、戦争による被害が止まないイラクに、手弁当でボランティアに駆け付けた弱きを助ける「侍」は、今の日本では高遠さんだけなのではないか」という趣旨の記事だった。私の社会についての準拠点は、中学以来2ちゃんねるであり、とりわけ軍事板の「リアリズム」ミリオタと、ニュース速報板の極論であったが、私はここで、メディアの建前ではなく、しっかりと自分で物を考えて発言する人を初めて知ったのだ。


私は赤化した。学生時代に読むことになる、マルクスエンゲルス、レーニン、トロツキー毛沢東スターリンといったマルクス主義の基本文献を読むこともなく(『共産党宣言』は薄かったので読んでいたが、当時は読んで何を思ったのかを憶えていない。理解できなかったのであろう)、帝国軍人から陸上自衛官への逆コースを歩んだ自分の縁者やその他親戚達の中国やアジア諸国を侵略したことの責任問題からの逃避、自分が中学時代に行っていたヘイトスピーチや、それを支える朝鮮近現代史への無理解などはそのままに、私は左傾した。当時はトロツキーについてほとんど知ることもなく、収容所に支えられたスターリン主義に反抗するとの名目で「トロツキスト」を名乗りつつ、実のところ穏健なスターリン主義国そのものであるキューバに憧れを抱く左翼となったのだ(私が詩人エベルト・パディーリャに対する「パディーリャ事件」のような思想弾圧事件や、キューバアンゴラ派遣軍司令官だったアルナルド・オチョア将軍の粛清などの、カストロが起こしたについて知ったのは19歳の時である。今よりももっとずっとナイーヴだったため、村上龍は嘘吐きだと憤慨した記憶がある)。そのことについて特に宣言などを残すことはなかったので、それがいつだったかを特定することはできない。その決意も、同じ部活で、高2で失恋した後の私の面倒を見てくれた、今でも親友のN君に話しただけだ。そこには、ソ連崩壊後の日本にあって、とにかく嫌われ者の代名詞でしかなかった左翼になることで、自分自身が嫌われているのではなく、自分の属性が嫌われているのだと思いたいというニヒルな動機もあった。ただ、高2の終わりごろ、17歳の時に、今まで敵そのものであった左翼に私はなったのだ。

当時の私は、本稿でこう書いているように何かに書いて自己批判することはなかったが、中学時代までの自分の情けない、卑しい、人間として恥ずかしい在り方を、丸ごと葬り去りたかったのだと今なら言える。

その後、高3の私は、世界史の老教員のS先生から授業時間を借りてキューバ革命について同学年の生徒の前でアジテーションをするなど、活動家の真似事のようなことをしながら、受験を終えたのだった。

高校時代、私は自分の進路については全く何も考えていなかった。ただ、自分が何故生きているのか、何故、今の世の中はこんなにもわからないことだらけなのか、どうすればこの思想的混乱から抜け出せるのだろうか。大学では真面目にそのことを考えたい。頼りにならない親の言う通りに工学部に入ってエンジニアになる人生なんか真っ平だ。私は文学部を第一志望にした。今思えば革命家志望なのだから法学部に志願すれば良かったのに、当時の私には就職に役立つ勉強など死んでもするものかという若さで充ち溢れていたのだった。その決断は、4年後、就職を控えて大いに後悔する決断であり、高1で理科と数学の勉強から燃え尽きてドロップアウトしてしまったことは今も後悔しているが、1年ぐらいなら浪人してでも国立大を受けておけば良かったと今にしてみれば思うが、ろくろく勉強もしなかったのにとりあえず現役で第一志望だった都内の私大の文学部に受かったのだった。こうして2006年3月に私は高校を卒業した。


4.現在

大学時代と大学卒業後のことについて、私はまだ何も書けない。ただ言えることとして、大学1年の時のゼミで思想的混乱に決着を付けないまま持論を打ってゼミ生に迷惑をかけたこと(こちらは後に当事者二人に謝罪した)、大学1年の頃の上級生から嫌韓的な言辞が出てきた時に、自分の中学時代を総括しないまま引いてしまったことを憶えている。

その後も思想的混乱を総括するための努力は一向に身を結ばず、ようやく自分で自分のことが納得できるようになったのは、2017年、実に去年、29歳の時であったことを書くのみである。17歳で、それまでの自分を全否定すべく赤化した私は、しかし、ソ連崩壊で失敗したマルクス主義の遺産とどう向き合うべきか、日本の近現代史をどう解釈すべきか、現在の問題をどうすべきかなどの諸問題について、残念ながら納得いく結論を出せないまま、ズルズルとここまで来てしまった。ただ、最初はニヒルな動機も含めて、嫌われ者の左翼になれば自分が嫌われていると思わずに済むというそんな動機も含めての左傾だったのが、10年以上同じことを続けていれば、それが自分の人格になってくるということは、大きな発見だった。


今回、私が本稿を書くことにしたのは、懺悔のためであり、自己批判のためであった。中学時代、卑しかった自分が行ったネット珍走団行為やヘイトスピーチは、謝って赦してもらえるような性質のことではないだろう。今後も、自分はバカであの時酷いことを言ってしまったと、悔やみ続けると思う。ただ、私が17歳の時から、思想的混乱と精神の崩壊が重なった25歳から26歳の一時を除いて、ずっと自らを左翼だと自称しているのは、ただ、あの時の自分の卑しさが嫌で、それが訣別したい醜い自分だったとの思いがあるからだということは、あの時酷いことを言ってしまった皆様に、赦してもらえずとも、いけしゃあしゃあと何様だと言われようとも是非とも書いておきたかったのだ。これは、今の私がこうなっているのは、自分なりのケジメのつけ方なのだと。

大学時代以来、私は「スタ」崩れなので、「トロ」が主流の日本左翼の中では傍流であり、そもそも日共には批判的なので、今後も私が日本左翼の中で主流となることはないであろう。組織的な才覚はないので労働組合や協同組合で上手くやっていけるとも思えない。大学院に進むことを諦めてしまったので、アカデミズムの中で過ごすこともできない。元来広汎性発達障害者なので、労働者として上手くやっていくこともできない(ライン工をしてみたら、ラインの速さに戸惑うようなスペックである)。

私生活でも、高校1年の時に一度だけあった恋愛の機会は、自分自身のバカさゆえに逃してしまった。その上、これだけ一般社会の主流的な発想から距離が出来てしまったとなると、今後人並みの幸せを手に入れることは難しいだろう。そもそも私のような恥多き人間が幸せになってもいいのだろうか?そんな資格があるのだろうか?という疑問もある。

ただ、それでも、私はそれなりに、現在の観念的に左翼であること以外に特に何もない自分に満足している。もし、中学時代のようなことをずっと続けていたらと思うと。もし、思想や日本の近現代史に関する疑問を持つことなく無事に理系のエンジニアになった後に、嫌韓その他の排外的民族主義を鼓吹する文物に触れてしまったらと思うと。もし、自分の出自その他を嫌がることもなく、敗戦後、マッカーサー元帥を恨みながら真如苑に心の救済を求め続けるような在り方を、自分も辿ってしまったらと思うと。

私は、これまで何も達成できなかったし、恐らくこれからも大したことはできないだろうけれども、その都度その都度、自分が納得するまであれこれと考え続けてきたことは、決して無駄ではなかったと思っている。客観的に見ればフラフラしているようにしか見えないだろうし、そしてそれは私が私の生を恥多き生と呼ばなければならない理由でもあるのだが、安全地帯にいて何も悩むこともなく、ただその時その時の勝者や主流派の言うことに安全な距離を置きながら賛同し、寄らば大樹と人込みに紛れるよりも、自分で自分に納得する一人の異端者でありたい。

幸いなことに、私の身近にはずっと人がいた。しかし、これから誰もいなくなって、本当に一人になるかもしれない。それでもいい。一人になっても、私は今の世の中と敵対していたい。無条件降伏だけはしたくない。

脛に傷のある変節漢が何を大真面目に正論を語るかと思われた方もいるだろう。あなたの仰る通り、私は変節漢だ。ただ、残念ながら、私の能力では、こういう形でしか私が嫌で嫌でならないこの時代と対抗することが出来なかった。もっと器用に、もっと利口にやれれば良かったのだが、私は根っからバカで頭が悪いから、その時その時に感情の赴くまま失敗して、そこから学ぶことしかできなかったし、これからもきっとそうなのだろう。

私はようやくここまで来れた。中学時代の、恥多く、卑しい日々を、自己批判し、それを公開することができた。もう私は、二度と転向することはないだろう。


かつて私の言動、行動で不愉快な、腸の煮えたぎるような思いをさせてしまった全ての方々にこの場を借りてお詫び申し上げることで、本稿を閉めくくることにします。本当に、すみませんでした。 

日本古典文化の不継承と民衆の戦争責任について

“これまで日本の左翼全体に支配的であったのは、一方に戦争の被害者としての民衆があり、他方に被害者から委託をうけて加害者を追求する正義の味方としての左翼陣営があるという代行制の構図であった。既成左翼の形骸化や平和宣伝のマンネリ化の主因はこの代行図式の虚構性にあった。”
(高橋彦博『左翼知識人の理論責任』窓社、1993年7月5日第1版第1刷発行、54頁より引用)

 

1.はじめに
金槐和歌集』が好きだ。祖父の北条時政に兄である二代将軍、頼家が粛清されたことにより、やむを得ず三代鎌倉将軍に就任するも、結局、数え28歳、満26歳の若さで甥の公暁に暗殺されてしまった悲運の将軍の、どうしようもなく深い孤独が歌のそこかしこから伝わってきて、そうか、孤独な青年は800年前にもいたのだなと、そんなことを感じられるのは『金槐和歌集』だけだから。


左翼である私がそう言うと、保守派の人士からは奇異に見えるらしく、保守に転向しろというようなことを言われることがある。全くそんなつもりはないのだが、どうやらその方には、現在の保守派を名乗る人々の多くが特に和歌に興味を示していない中、社会主義者である私が『金槐和歌集』に興味を示すという状況そのものが不健全に見えるらしい。

なるほど。言われてみればそうかもしれない。治安関係者や保守派の政治家、ビジネスパーソン、文化人、活動家といった人々の中で、日本の古典文化に親しい人として私に思い浮かぶのは、竹下正彦退役陸将と旧田中派細川護熙元総理ぐらいである。あえて田中角栄元首相の漢詩については述べないが、この印象にさして大きな間違いはないのではないか。

ふと、そんなことを考えていたある日、そういえばとばかりに日蓮宗の僧侶で宗教評論家であった丸山照雄師が、生前、1995年に哲学者の桑田禮彰氏との対談でこんなことを述べていたことを思い出した。長くなるが以下に引用する。


“丸山 ちょっと話があと戻りするみたいですけれども、文化の伝達の基礎単位は、私は家族だと思うんです。その家族が解体している。文化伝承が途絶えているというところから、家族の解体の実態というものが、また見えてくるんです。確かに、日本という言葉もあるし、日本という国もあるように錯覚していますけれども、実態としては、はっきり言えば、社会に蓄積された文化が日々刻刻と伝承されていく、あるいはそれが再生産されていくというところで、はじめて日本という社会が成り立っているわけです。ところが、その再生構造が見えないし、意識化がされていない。問題は伝統社会ではなくて近代社会ですから、意識化してなければならないんです。再生というのは、単に自然に生まれるものではなくて、意識的に再生していかなければならない。それが途絶えてしまった。
 文化伝承が途絶えているということは、社会的に言えば、ふつうは教育機関がまず頭に浮かぶわけですが、教育機関でいままでいかなる文化をどのようにして伝承するかということは、ほとんど論議の外だったんです。まったく議論されていない。教育の文化伝承機能というものが、戦後五〇年間、時間だけは経ちましたけれども、まったくそういう意味では、混乱したまま、方向性を見いだすこともできず、問題を自覚することもできず、そのまま放置されてきてしまった。ものすごい危機だと思うんです。これがイスラム社会とか、キリスト教文化の強い社会では、社会が放っておいても、宗教がその再生構造を担います。日本のように宗教の社会的な力の弱いところでは、文化伝承と再生構造というのは、まったく機能停止してしまうんです。
 いまの日本人は一人ひとりを見ると、アイデンティティを喪失してしまった人たちである。あなたは日本人ですよと言われても、きょとんとしてしまって、どこから自分は日本人として自覚していいのか、手掛かりもない。外国の人がいろいろいて、たとえばアメリカ人ではないし、中国人でもないし、朝鮮人でもないから、たぶんそれ以外の人であろうというふうな、そういう対他的な関係でしか、自己認識できてないと思うんです。また、困ったことに、世界から見れば、日本という一つの地域社会に、その地域性のなかに、独自な文化を形成し、創造し、伝承してきたんだということを考えることをいさぎよしとしないで、常にコスモポリタンな位置に自分を置きたがる日本の知識人の傾向がそれに拍車をかけている。これは本当に限度ぎりぎりのところまできてしまって、敗戦後五〇年というこの区切りで、もう一度、問題の深刻さの自覚化が起こらないと、日本列島は沈没しないかもしれませんけれども、日本という社会は沈没してしまいますね。もうすでに沈没しかかっていると私は思うんです。
 そういうたいへん重要なところにさしかかっていて、そこでいまの戦争責任の問題は、一つの非常に重大な試験紙みたいなところがある。「いちいち謝罪することはいかがなものか」というふうな、文部大臣の発言がありました。彼はあの戦争を行った世代にもっとも近い世代、私よりも一つか二つ下ですから、若干、戦争体験がある世代です。一番、戦争を行った世代に近いところにいる人間です。実際に戦争を行った人たち、日本社会のリーダーであった人たちはとくに、本心、戦争の責任のなかに入ってないんです。悪いことをしたなんて思ってないです。不可避的に日本は戦わざるをえないような環境に置かれて、侵略もし、そこで殺戮もせざるをえなかったんだ、と言うわけです。むしろ責任はアメリカ、ヨーロッパにあって、自分たちは、自分の国が生き延びるために不可避の戦争をやったんだと思っているんです。だから「いかがなものか」という言葉が常に出てくるわけです。いかにも、かつての国際的な日本の置かれた地位、立場を弁護し、擁護しているように見えるんだけれど、おっしゃるとおり、文化の伝承は同時に責任の伝承でもあるべきなのに、そこを断ち切ってしまうんです。戦争の実態を明らかにせずに、棚上げにしたいという願望から、すべての文化の再生構造を断ち切ってきた。ナショナルな立場、あるいは国家主義的な立場のように見える彼らが、じつは自己否定をしてきてしまった。そういう構造のなかにあるんじゃないかと思うんです。”
丸山照雄・桑田禮彰『対峙の倫理――日本の現在を生きる』藤原書店、東京、1996年2月29日初版第1刷発行、123-126頁より引用)

論旨を損なわないために長い引用になってしまったことをお赦し願いたい。私自身は文化伝達の基礎単位が家族であるかについては若干の疑問を持っているが、「文化の伝承は同時に責任の伝承でもあるべきなのに、そこを断ち切ってしまうんです。戦争の実態を明らかにせずに、棚上げにしたいという願望から、すべての文化の再生構造を断ち切ってきた。ナショナルな立場、あるいは国家主義的な立場のように見える彼らが、じつは自己否定をしてきてしまった」という丸山師の言葉は、不気味なまでの正確さで今日の状況を見通していたのではないか。


今回、私はこのことについて、長年の自分が考えてきたことを整理するため、本稿を書くことにした。ただ、当然ながら、今日の状況を築き上げたのは戦後の保守政治エリートだけではない。本稿は、この丸山師の言葉に沿って、文化の継承の前提となる責任の継承がいかに伝承されなかったかを改めて確認するものである。

 

2.前提

具体的な論述に入る前に、まず、先の戦争(十五年戦争)に於ける日本の戦争責任を問題にするに際し、それは具体的に誰の責任なのかについて定めておきたい。

本稿では戦時中の日本人を軍部、知識人、天皇、民衆の4類型に分類することにする。当然ながらもっと多くの類型が存在するのだが、話を簡単にするために、政財界人は軍部に、文学者や宗教家や革命家などは知識人に、その他はすべて民衆にという雑な分類で話を進めることにする。

まず軍部について。実際に戦争計画を立案して戦争を遂行したこの人達の戦争責任を疑える人は、どのような立場であれ存在しないであろう。戦後の戦犯裁判で処刑されなかった旧帝国軍人は、戦後「昭和の武人」として自衛隊に勤めたり、政界や実業界で活躍したり、一部は左翼知識人となったりとさまざまな道を歩んだが、概ね戦時中も戦後も自ら行った戦争による責任を感じつつ生きたとまとめられるであろう。もちろんそれが良かった悪かったかについてはまた別の話であるが、本稿では省略する。

次に知識人について。知識人については統一した行動があったわけではないが、大学知識人からは、三木清鈴木成高高坂正顕西谷啓治高山岩男のような論壇で活躍していた京都学派の人たちのような人々が、「東亜協同体」や「近代の超克」を掲げる立場から、日本の戦争に大義を作る知的活動をしていたことは周知であろう。京都学派のみならず、日米開戦まで強く反軍部と反共産主義を同時に主張していた「戦闘的自由主義者」こと東大教授の河合栄治郎中華民国(中国)との戦争やアメリカ合衆国との戦争については、自分なりの立場から肯定していたし、講座派マルクス主義者の主要人物であった平野義太郎は、転向後、日米戦争中には大アジア主義を唱えて戦争を翼賛していたのであった。大学知識人ではなかった文学者やジャーナリストや批評家ら言論人に関しても、個人主義原理を徹底することで国家的な見地から自由になれた永井荷風以外のほぼすべての文学者は、程度の差はあれ文学報国会や言論報国会の会員として翼賛の筆を取っていたことを忘れてはならない。もちろん、自由主義知識人の中には戦時中にあえて何も書かなかった林達夫や、あるいは検閲のギリギリのラインで反政府的な論陣を張っていた石橋湛山清沢洌といった人々が存在したし、マルクス主義知識人の中にも唯物論研究会の創設者の一人であり、敗戦直前に刑務所で獄死した戸坂潤のように、マルクス主義者としての筋を通した人士も存在した。また、大学知識人や文学者、ジャーナリスト、批評家以外からも、共産主義者の革命家の中には以前当ブログで論じた(註)神山茂夫のように獄中非転向を通した人がおり、概ねが大日本帝国を翼賛していた宗教家の中にも宗教的な信念から時の政府に反対していた浄土宗の林霊法、真宗大谷派東本願寺の竹中彰元、天理本道(ほんみち)の大西愛治郎、創価教育学会の牧口常三郎灯台社の明石順三、ホーリネスの人々といった人々が存在したが、残念ながら、戦時中に於いては孤立した少数者でしかなかった。知識人については、例外的な少数者以外の大多数は戦争に協力し、さらに民衆が戦争に協力するための理論を作り出したことに関する責任があったとまとめられるであろう。なお、この件について興味がある方は北河賢三『戦争と知識人』(山川出版社、2003年)や米原謙『日本政治思想』(ミネルヴァ書房、2007年)をご覧いただきたい。

三番目に天皇について。昭和天皇の戦争責任について、古今、多くの人々が正否双方の立場から論を提出している。本稿を書いている筆者は、昭和天皇自身が十五年戦争についてどのような意見を持っていたにせよ、自ら帝国陸海軍大元帥の資格で開戦の詔勅を発したことによる形式的な責任は免れ得ないと考えているが、本稿では以下の理由により、これ以上は深入りしない。

なお、以下の引用文で挙げられるページ数は、高橋彦博氏が論じている「第二〇回・現代史シンポジウム」(1989年開催)の報告となった『現代史における戦争責任』(青木書店、1990年)の頁数である。

“ 八〇年代の前半まで、日本人として加害責任を自覚する声をあげると、加害者という言葉に対する強い反発が返ってくる状況があった(一三三ページ)。八〇年代の後半ごろから、加害者としての責任を明らかにしようとする動きが「大衆のなかからあらわれてきた」のであった。そこで加害責任論が戦争責任論の「新しい展開」の仕方として注目されることになった(一三七ページ)。なぜ八〇年代の後半ごろから加害責任が自覚されるようになったのか、その経過の分析は今後の検討課題として残されているが、もはや戦争責任が被害体験の視点からのみ追及されることがなくなっている、そのような戦争責任論の今日的到達点が、今回のシンポジウムにおける第一の確認事項になっていると見てよいであろう。
 ところで日本人の加害体験は、ある特異な立場に置かれているのである。ドイツの場合には、戦後の領土問題で被害者の立場が自覚されるとしても、被害を追求する相手がソ連でありポーランドであって、ドイツ国民の加害責任が鋭く問われている相手と同一であった(六六ページ)。したがって、ドイツの場合には、被害者意識の発言が屈折せざるをえない事情があった。ところが、日本の場合、被曝や被爆の害をこうむった相手はアメリカであると設定されていて、加害責任が自認されるとしても、害を加えた相手は主に中国や東南アジアの人びとであるので、日本では、被害者意識を「誰恥じることなく、臆面もなく口に出せる」のであった(六六ページ)。日本において被害体験の露出にドイツの場合におけるような抑制要因のないことが、かつての加害についての無自覚を放置し、かつての加害者(引用者註:ここは「被害者」が正しいのではないかと思われるが、原文の儘とした)にたいする形を変えた新たな加害の再生産を加える臆面のなさを生みだす構造になっているのである。日本の戦争責任問題における被害体験と加害体験の二重構造の所在が、今回のシンポジウムにおける第二の確認事項になっているとみてよいであろう*。

*オーストリアは、ナチス・ドイツの被害者であるが、同時にナチスの共犯者としてバルカンの諸民族にたいする加害者であった。被害と加害の二重構造においてワルトハイム問題におけるオーストリア国民の対応が引き出されていたとする解明がなされている。望田幸男『ナチス追及――ドイツの戦後』講談社現代新書、一九九〇年(八四ページ)。望田氏のこの本は、平和運動はその原点を被害体験に置くだけでなく、「加害の罪」を正面に据えるところから出発すべきではないかとする問題意識によってまとめられている(同書「あとがき」)。

 ただし、ここであえてつけ加えれば、次のような検討課題が浮上している。戦争責任を加害体験の自覚を含めてとらえ直す立場は、戦争責任を「他者の戦争責任」として理解するのではなく「自分の責任」として「自覚」し「反省」する立場であった(二七ページ)。ところが、日本人の加害責任が自覚されにくい構造として被害と加害の二重構造があるだけでなく、その二重構造が被害者と加害者の分離となって人的に固定している実態がある。たとえば、戦後処理として「アジアにおける日本の戦争責任」が不問に付された経過が分析されても(四一ページ)、その分析結果は、同じく戦後処理として責任が問われなかった天皇の責任追及へ直結されることになる(五一ページ)。そして、その瞬間、日本人一般の側における「自分の責任」を主体的に問う視点が忽然として消え去るのである。せっかくの加害責任論は、天皇の戦争責任追及に収斂されてしまうのである。これは、天皇制批判者によって作り出される天皇制の魔術と言えよう。天皇制批判者に強くある代行主義の容認は、民衆の主体性確立を求めない――それがこの魔術の中味である。”
(高橋彦博『左翼知識人の理論責任』窓社、1993年7月5日第1版第1刷発行、7-9頁より引用)

 

少なくとも日本では1945年から1990年代まで、先の戦争に於ける民衆の加害責任を論じようとしていた人々は(もちろん、それは親世代の加害行為を問うという苦しい行為である)、しかし天皇制批判者であるが故に、民衆の戦争責任を天皇の戦争責任論に直結させてしまうことで、民衆固有の戦争責任をそれとして追及することができなかったのである。高橋彦博氏が「天皇制批判者によって作り出される天皇制の魔術」と呼ぶこの現象に足を取られないためにも、本稿では天皇の戦争責任については、それがあると思いつつも深くは論じないことにする。


最後に残ったのは民衆である。民衆の戦争責任については、次節で詳しく述べることにする。

 

3.民衆の戦争責任

冒頭部にて高橋彦博氏の言葉を引用したように、戦後左翼は、日本の民衆を「戦争の被害者」として位置づけることにより、自らをその被害者の委託を受けて戦争の責任者である軍部や天皇と戦う存在であるとする代行主義の図式を作り上げてしまった。前節で見たように、この知的風土の中では、民衆の戦争責任は論点として稀薄にならざるを得ない。しかしながら、日本の民衆は、実際にはさまざまな動機から、自ら「大東亜戦争」を「聖戦」として戦ったのである。その構図を追う事には多少の精神的な痛みを伴うが、臆さず追うことにしたい。

何故日本の民衆は「聖戦」を戦い得たのか。それはこれから私が追っていくところであるが、私の考えを述べると、当時大多数が農民であった日本の民衆は戦地にあっては故郷の村落共同体のため、銃後にあっては戦争の勝利がもたらすであろう物質的な利益を得るため、ということがその理由としてあったと言えると思う。前者の地元の村落共同体のために戦うということは、サッカーのサポーターが自分の出身地のクラブに寄せる熱情が、国家に寄せられる姿を想像すればわかりやすいだろうし、後者の戦争の勝利による物質的な利益については、各国が国威発揚と資源の獲得のために植民地争奪の帝国主義戦争を繰り広げていた19世紀の世界を思えば、それを支持した人々の心情の想像は難しくないであろう。そして、それぞれを媒介していたのが天皇制であり、とりわけその装置の一つとしての靖国神社であった。

前者について、説得的な議論を概観するため、まずは、三里塚水俣に分け入り、その内部矛盾を描いたノンフィクション作家の吉田司氏と、東北学の赤坂憲雄氏の対談を見ることにしよう。

“赤坂――吉田さんは『東北学』第六号に寄せられたエッセイで、「ハレ」と「ケ」の理論を、日本人の戦争観に援用できないかと書かれていますね。
吉田――民俗学の「ハレ」と「ケ」の論理を、近代や現代に援用して語ることができるような気がするんですよ。僕は近代天皇制は、結局、民衆を「ハレ」の舞台に引きずり上げたと思うんだ。建て前としては四民平等でしょう。靖国神社って侵略神社だっていわれるけれど、あれ、侵略神社かね。ホントは四民平等神社じゃないの。明治に入って士農工商がとりあえず解消された。みんな平等だよとなった。みんな名字帯刀を許されてサムライとなった。そういうことだよね。だけど、サムライって軍人だよ。みんなが晴れて軍人になれる、それが近代における平等だったといっていい。結局は「お前らを晴れて名誉な身分のサムライに取り立ててやったんだから、お国のために殺してこい、名誉のために死んでこい」っていうのが近代日本の戦争の論理だった。『葉隠』の「武士道とは死ぬことと見つけたり」なんてサムライ精神が庶民思想としてすり替えられ、そしてその霊が納められる舞台が靖国だった。
近代天皇制は国家のために死ねといった。そういわれているよね。これも実はあやしいんじゃないかな。あれ、実は共同体のために死ねといっていたんじゃないか。現実的には日本人はそんな情念で戦ったんだ。両親や兄弟姉妹や、ふるさとの山河を思って死ぬというのはそういうことですよ、お国のために死ぬということが共同体のために死ぬということと二重構造になっていた。そんな民衆の情念を、近代天皇制や国家が支えた。だからこそ日本の民衆は戦争に加担してしまったんだ。そういうことだったと思うんですよ。
共同体の「ハレ」の日はなんといってもお祭りですよね。神の前で歌い踊る。その時みんな仮面をかぶるわけですよ。仮面をかぶると固有名詞がなくなっちゃうんだよね。日本の村落共同体には固有名詞がなかったなんて学者たちはいっている。ところが村のなかに入るとよく分かるように、みんないろんな歴史を持っている。ちゃんと屋号を持っている。それぞれの位置を持っている。無名なんかじゃない。みんな有名ですよ。有名だからこそみんなで記憶を持ち合っている。三代四代前まで、お互いの家の悪業を知り合っている。「火事出した」とか「不倫した」とか「お縄付き」だとか「犬神筋」だとか、「血統」だとか――そのご先祖の死んだ父や母の”罪と罰”をみんな背負って村の共同体の中で暮らしている。相互監視し合っている。村ってのはそういう記憶バンクなんです。僕は”大地のコンピュータ”って呼んでますが、そのアナログ時代の情報コンピュータに蓄積された「村の記憶」罪業帳が、村人の個人主義をギリギリ縛り上げてきたんです。だから抵抗できない。だから村が成立する。
ところが「ハレ」の日っていうのは仮面をかぶるとだれだか分かんないんだよね、もう。有名性がなくなっちゃうわけですよ。神の力が共同体を支配する記憶を一瞬であれ消すんだよ。神の名のもとに、全てが解除される。”村のコンピュータが機能しない日”(笑)。この時だけは有名の個人の責任から解き放たれる。共同体の隠し持つ非常に無秩序なパワーが解放される。そうすると、祭の夜にはなにをやってもいいことになる。セックスだってフリーだとかさ。乱行でもなんでもしたって構わないわけですよ、もう。アナーキーな無礼講でたいがいのことが許される。そして、祭が終わったらなにごともなかったかのように日常が再開され、コンピュータが動き出す。祭の夜だけは、ディオニソスで、だれがなにをやったかは問われない。これを日本人は戦場でやっちゃったんじゃないか。村々の神社で仮面をかぶって踊る。終わったら日常生活に戻る。「ハレ」の日の自分と「ケ」の日の自分は別人格だ。この論理が戦場にも持ち込まれたような気がしてならないんです。
軍人という、いわば”晴れの日”の武士の原理を持った民衆として〈天照大神〉の神の名のもとに召喚された。聖なる鬼の仮面をかぶって神兵となった。確かに戦地でひどいことをしたけれど、それは日常生活における自分がやったことではない。アマテラスの仮面をかぶった別人格がやったことだ。そして、死んだ時には靖国神社に神として祀られる。神さまの命によって行われた聖なる戦い、つまり「ハレ」の戦争に向かった自分と、戦争に負けて、つまり祭が終わって日常生活に戻った「ケ」の自分は、別人格である。だから「ケ」に戻った時「俺たちのせいじゃない」ってなっちゃったんだよ。この論理のすりかえが戦後の「民衆に戦争責任はない」なんておかしな理屈の基盤にあるんじゃないか。この論理でいけば、民衆は無責任でいいんだ。国家は共同体の持つこのディオニソス的な闇の力を動員したんだといっていい。近代天皇制は民衆の闇の力をアジアの昼日中に引っ張り出したんだ。”
吉田司赤坂憲雄「東北よ、近代を語れ!」初出2002年7月、『吉田司対談集――聖賤記』パロル舎、2003年4月20日第1刷発行、407-410頁より引用)

吉田司氏が「両親や兄弟姉妹や、ふるさとの山河を思って死ぬというのはそういうことですよ、お国のために死ぬということが共同体のために死ぬということと二重構造になっていた。そんな民衆の情念を、近代天皇制や国家が支えた」と論じているように、日本の民衆は、自分たちを生み育てた共同体、つまりムラのために戦うということと、天皇のために戦うということをオーバーラップさせていた。だからこそ、明治以来、江戸時代まで武士の下で特に戦闘に関する訓練を受けてこなかった日本の民衆は、あれだけ強固な兵隊となり得たという説明は、説得的であるように私には思える。


といっても、共同体の、つまり村の人間関係を背負うということだけで人間が強く戦えるとは思い難い。恐らく、次に引用する物質的要素=物欲主義が、民衆の中で自分でもどちらが建前でどちらが本音なのかがわからなくなってしまうほどに強固に国家のスローガン「尽忠報国」、「滅私奉公」、「忠君愛国」、「欲しがりません、勝つまでは」(つまり、勝てば欲しがってもいいのだ!)と結びついていたからこそ、特に大きな民衆内部の抵抗が生じることなく、国家は戦争を継続できたのではないか。つまり、こういうことである。

“……日本人の戦争協力の根拠は、知識人の場合はいざ知らず、少なくとも大衆(その基本的な部分は農民)のレベルにおいては決して建前にあったのではない。というより、上からの建前(国益論)は庶民レベルのエゴイズムによって強引につつみこまれ、食いつくされたといってよい。いま、そのような庶民的国益論を象徴する一つの会話を引き合いにだそう。
 それは、橘孝三郎の『日本愛国革新本義』のなかに紹介されている、彼が車中で立ち聞きしたという「純朴そのものな村の年寄りの一団」の会話の一節であるが、満州事変直後のある雰囲気を彷彿させるものがある。
 「どうせなついでに早く日米戦争でもおっぱじまればいいのに。」「ほんとにそうだ。そうすりゃ、一景気来るかもしらんからな、ところでどうだいこんなありさまで勝てると思うかよ。何しろアメリカは大きいぞ。」「いやそりゃどうかわからん。しかし日本の軍隊はなんちゅうても強いからのう。」「そりゃ世界一にきまってる。しかし、兵隊は世界一強いにしても、第一軍資金がつづくまい。」「うむ……」「千本桜でなくとも、とかく戦というものは腹がへってはかなわないぞ。」「うむ、そりゃそうだ。だがどうせまけたって構ったものじゃねえ、一戦争のるかそるかやっつけることだ。勝てば勿論こっちのものだ、思う存分金をひったくる、まけたってアメリカならそんなにひどいこともやるまい、かえってアメリカの属国になりゃ楽になるかもしれんぞ。」
 ここには、日本の農民のむきだしの本音が表出していて、ひとをある感懐にさそわずにおかない。単純明快、傍若無人というほかないであろう。知識人橘孝三郎は、「この純朴な老人の言を聞いて全く自失せざるをえなかった」(『日本愛国革新本義』)。
 そして、かかる農民的エゴイズムは、自覚的な対象化された理念として自己選択されたのではなく、むしろ自生的な価値感にとどまるものであったから、侵略主義のどのような建前をもその固有の価値感から受け入れ、受け入れた以上は、それにもとづく自己運動が展開されるという関係がなりたったと思われる。かくて尽忠報国や滅私奉公のスローガンは、その裏面にべったりと庶民的物欲の論理を付着せしめたものとしてたちあらわれてきた。そして、大衆意識のレベルにおいては、この滅私奉公の建前と、かくされた(ある場合は、おのれじしんにたいしてさえ、かくされた)物欲主義の価値とは、殆ど何の内部緊張も伴なうことなく並存しえていたといってよい。しかも、私見では、この滅私奉公主義と物欲主義のちがいは、たんなる建前と本音の乖離といった近代的概念をもっては把握しきれぬもので、日本の大衆は、つねに上からの建前を自己の本音で色あげして、それを受け入れて来たといえると思う。たとえば、戦争中、領土の拡張ということに異常な関心を寄せていた人びとが、日本軍の進攻に応じて地図を赤くぬりつぶしていたのは、私どもの記憶に新しいが、こういう所作こそが、聖戦の建前にかくれた物欲主義の代位的表現だったのであり、そこでは、建前と本音の明確の区別すらつけがたかったといえるであろう。
 だが、建前と本音が明確にふりわけられて現れることもあった。そして、これもまた、つねに庶民的エゴイズムの論理に規制されていたといえるのである。たとえば、近所の息子に召集が来ると、家の内では、「手がなくなって気の毒に」とか、「いい気味だ」とか話しあうのに、外にでては、「お芽出とうございます」と挨拶する。また、息子を召集されたほうはされたほうで、うちうちでは「困った困った」といっていても、一歩家をでると、「うちの息子も、今度、晴れて御奉公することになりました」などといわざるをえない。しかも、日本の大衆は、全くなんの緊張も、葛藤もなく、こういう使い分けを当然のこととしてやっていたのである。
 そして、注意されなければならぬのは、こういう意識構造からは、戦争の被害(息子をとられる、というような)にたいして、家をこえて連帯をつくりだすなどということは、殆ど不可能なのである。日本の国体ナショナリズムは、国家――部落――家という縦断的支配の原理によって、大衆の横断的連帯の動機をたちきり、これをよく戦争協力に動員しえたといえるであろう。”
(津田道夫『日本ナショナリズム論』盛田書店、1968年9月30日初版発行61-63頁より引用)

戦時中、日独伊三国同盟により日本の同盟国であった、ファシスタ党の独裁者ムッソリーニが率いるファシスト・イタリアでは、1943年に戦局が不利になる中で、ソ連から秘密裏に帰国した共産主義者の知識人革命家に先導された民衆内部から反戦・反体制の罷業(ストライキ)や抵抗運動(レジスタンス)が作りだされ、最終的にはムッソリーニ自身がイタリア人のレジスタンスによって処刑されるという形で戦争が終結した。以下にその概略を引用する。
“ 政府を苦境に追い込んだのは内紛だけではなかった。内紛はむしろその結果であったのだが、ファシズムの崩壊にもっとも貢献したのは、労働者階級の英雄的な抗争であった。そしてこの抗争を指導した共産党であった。北伊に党指導部が確立されたのは前章にのべたとおりである、組織は徐々に回復され、いたるところに細胞がつくられていった。争議は断続的に突発するようになった。このころファッショ警察にも、戦争忌避の感情、それゆえまた戦争遂行の政府の政策を批判する感情もあって、かなりのゆるみがみられ、政治犯にたいする追及も以前より緩和されるようになっていた。スペイン戦争ころにすでにそうであった。スペインでは反ファシストは例外なく銃殺されたが、イタリアでは最悪でも終身刑だと伝えられたし、じじつそのとおりであった。このような状況も手伝って、北伊の労働者の抗争は、ドイツ軍の占領までは、かなり公然と展開することができたのである。
 一九四三年三月五日にトリーノのフィアット・ミラフィオーリ工場に開始された罷業は、一週間のあいだにトリーノの全工場に波及し、二週間目には全ピエモンテ州に波及した。ファシズム支配いらい、ファシズム政府がみた最初の最大罷業であった。しかもそれが政治的性格をもっていたことも特徴的であった。三月二〇日から二七日にかけて、ミラノを中心としてロムバルディーア州がこの波におそわれ、つづいてジェノヴァもまきこまれた。トリーノ、ミラノ、ジェノヴァはイタリアの三大工業都市である。これが活動を停止したことは、全イタリアの経済活動をまひさせたのを意味する。国内に潜入したウムベルト・マッソーラが直接指導した四三年三月の北伊総罷業は、ファッショ政府の死命を制する第一歩であった。この争議でファッショ民兵の一部が労働者に同調し、警察が労働者の検束に同意しなかった事態を想起すれば、情勢がすでに政府にきわめて不利に傾いていたことを理解できるだろう。政府は屈服して譲歩した。
 四三年の大罷業を遂行した労働者階級は、四四年三月一日ふたたび北伊全土にわたって総罷業を敢行した。それは文字どおりの総罷業であり、イタリア最大の新聞『コルリエーレ・デッラ・セーラ』紙も三日間は発行不能となり、交通機関の不通とあいまって、政府活動はもとより、市民生活もまったく混乱におとしいれられた。第一回目の罷業がファッショ政府の打倒に寄与したとすれば、第二回目のこれは、新ファシスト共和政府のもとでおこなわれたそれであって、この新政府と、その背後にあったドイツ軍に、大きな打撃を与えることに成功した。これはゲリラ戦を展開していた抵抗運動の勝利を確実にするものであった。
(中略)
 抵抗運動は、それに参加した市民に、ファシズムを自己の手で倒したという自信をあたえ、この運動の成功が統一戦線にあったことを教えた。またファシズム打倒の目標は、ふたたびファシズムを出現させてはならぬという観念を、再確認させるものであり、それはファシズムとむすんだ王政を、戦後に駆逐する動機ともなった。抵抗運動は、その性格自体から、またその発展過程においても、民主主義への道をひらくものであった。新生イタリアは、このようにして、抵抗運動がその出発点となった。
(山崎功『パルミーロ・トリアッティ――その生涯と業績』合同出版、1965年8月12日第1刷発行、1978年6月20日改装第1刷発行、172-173頁、174-175頁より引用)

空襲や食料不足による闇取引の一般化などの民衆のモラルの低下は、戦争末期には当局も認識する問題となっていたが、それでも同時期のイタリアで起きたような自覚的な革命的祖国敗北主義に基づいた反戦・反体制のストライキレジスタンスは、戦時中の日本では遂に発生しなかった。神山茂夫を筆頭とするその任務を達成しえた日本の前衛的共産主義者反戦運動を理由に獄中にあったが、恐らくは彼等が獄外にあっても、当時の日本の民衆の天皇信仰の強さからすれば、天皇制に反対する共産主義者の指導を受け入れて戦争終結のための反乱を起こし得たかについては疑問である。そのような中で、日本は昭和天皇の「御聖断」を待つことで「終戦」を迎えたのであった。ここに、私は、日本の民衆に固有の戦争責任を、様々な理由から積極的であれ消極的であれ、戦争を望んでいた日本の民衆の姿を見るのである。

 


4.欺瞞の日々
以上のような経緯で1945年8月15日を迎えた日本人には、建国以来の敗戦という難事に際し、満洲事変に歓喜し、南京陥落やシンガポール陥落を提灯行列で祝い、真珠湾攻撃を歓呼で迎え、アッツ島玉砕の報に涙し、ニミッツマッカーサーを地獄に逆落としするという戦時歌謡を歌い、空襲の不安の中で本土決戦の準備をしていた昨日までの自分たちの姿を、自分たち自身で納得できるように自分に説明する必要が生じた。

 恐らく、このことについて、知識人の中で最も嘘がなかったのは、戦前日本共産党シンパの自由主義者として過ごし、日米開戦後はあえて何も書かないこと*1で言論による戦争翼賛を行わなかった林達夫であろう。林達夫は1950年8月に発表した文章で、自らの1945年8月15日について次のように述べている。

“ あの戦争そのものについても私は一般とは少しく別な解釈をもつ人間であるが、そして私は決してその戦争を是認しているわけではないが、しかし戦争に敗れるということの暗い恐ろしさを、世界史に生きた先例の数々は私に前もって教えてくれていた。だから勝目のあるとも思われぬあの戦争に、それかといって事もなげに人々の言ったようにおいそれと負けることにも、私は堪えられない理不尽な思いに駆られていたのである。私はあの八月十五日の全面降伏の報をきいたとき、文字通り滂沱(ぼうだ)として涙をとどめ得なかった。わが身のどこにそんなにもたくさんの涙がひそんでいるかと思われるほど、あとからあとから涙がこぼれ落ちた。恐らくそれまでの半生に私の流した涙の全量にも匹敵する量であったであろう。複雑な、しかも単純な遣り場のない無念さであった。私の心眼は日本の全過去と全未来とをありありと見てとってしまったのである。「日本よ、さらば」、それが私の感慨であり、心の心棒がそのとき音もなく真二つに折れてしまった。
 嫌悪に充ち満ちた古い日本ではあったが、さてこれが永遠の訣別となると、惻隠(そくいん)の情のやみ難きもののあることは、コスモポリタンの我ながら驚いた人情の自然である。何かいたわってやりたいような心のこる気持で、私はその日その日を送っていたが、かかる心に映るぎすぎすとうわずった、跳ね上がった言論の横行しはじめたことがどんなにやり切れなかったことだろう
(中略)
 あの八月十五日の晩、私はドーデの『月曜物語』のなかにある「最後の授業」を読んでそこでまたこんどは嗚咽したことを思い出す。戦前、戦中、私は或る大学でアメリカ合衆国史を講じていて、当時としては公平至極に歪曲しないアメリカのすがたの闡明(せんめい)に努めたものだが、その日以来私はぴったりアメリカについて語ることをやめてしまった。もはや私如きものの出る幕ではなくなったからである。日本のアメリカ化は必至なものに思われた。新しき日本とはアメリカ化される日本のことであろう――そういうこれからの日本に私は何の興味も期待も持つことはできなかった。私は良かれ悪かれ昔気質の明治の子である。西洋に追いつき、追い越すということが、志ある我々「洋学派」の気概であった。「洋服乞食」に成り下がることは、私の矜持が許さない。「黙秘」も文筆家の一つの語り方というものであろう。事アメリカに関する限り、私は頑強に黙秘戦術をとろうと思った。コンフォルミスムには、由来私は無縁な人間であったのだ。”
林達夫「新しき幕開き」『共産主義的人間』中央公論新社、1973年12月10日初版、1999年9月25日16版、106-108頁より引用)

戦争をイデオロギーによらずに、自らの強靭な個人主義精神によって最後まで翼賛せずに乗り切った永井荷風は8月15日の日記に「S君夫婦、今日正午ラヂオの放送、日米戦争突然停止せし由を公表したりと言ふ。あたかも好し、日暮染物屋(そめものや)の婆、鶏肉葡萄酒を持来る、休戦の祝宴を張り皆々酔うて寝に就きぬ」(磯田光一編『団腸亭日乗(下)』岩波文庫、274頁)と書くことが出来たが、やはりこれは戦争に反対して獄中にあった政治犯や宗教家と同様に例外的な少数者の感想なのであって、「私はあの八月十五日の全面降伏の報をきいたとき、文字通り滂沱(ぼうだ)として涙をとどめ得なかった」という林達夫のような姿こそが、敗戦時の日本の知識人の平均的な実感だったと考えて差し支えないだろう*2

さて、知識人はこのように自らの経験を文字にして意識的に書くことが出来た。それでは、自らの意識を特に自覚して残すことがなかった民衆についてはどうであろうか。先に引用した1929年生まれの津田道夫は、敗戦当時まだ10代の旧制中学生だった自分の経験に照らして、民衆の敗戦経験が書かれて来なかったという困難を自覚しつつ、戦時中の隣組のオバさんと、軍国教師であった自分の父親が、敗戦を境に変わってしまったことを題材にして、このように記している。

“……だが、わたしには、書かれて来た経験の底に、また語られて来た経験の底に、決して語られることのなかった日本の平均的な大衆の巨大な経験が横たわっていて、それが書かれて来た経験を白々しいものに仕立てあげているように思えてならない。わたしが、日本の大衆の敗戦体験という場合には、もっぱらそれを指すのである。
 だが、この巨大なる経験は、書かれることも、自覚的に語りつがれることもなかった。とすれば、わたしには、何を素材にそれを構成することができるのか。やはり同時代を生きてきたものとしてのわたしの生活体験の諸断片以外にないのであろう。いま、それらのいくつか、それがかの巨大なる経験を構成するための典型的な事実素材ともなりうると想定されるいくつかを摘記してみる。たとえば、こういうことだ。うちの隣組に、かなりおしゃべり好きのオバさんがいて、あるとき母がちょっとばかり具合が悪く、防空訓練か何かをサボってねていたことがあるが、そのとき眼をむいて怒っていたそのオバさんが、敗戦の直後、アメリカの余剰のトウモロコシ粉が配給になって、それをわが家の縁先で各戸毎の南京袋に分け入れていたさい、「マッカーサーさまさまネ」といったものである。わたしは、別に怒りとか悲しみとかいうものを覚えたのではないが、しかし、いささかヘンだな、という感懐に襲われたことは確かだ。件のオバさんは、それを何の自嘲もまじえずにいった。それは、例のおしゃべりのなかに挟み込まれた一言にすぎず、勿論、だれも気にとめはしなかった。そんなことを、今思い出せるのも、居合わせたうちでわたし一人くらいなものだろう。
 だが、わたしには、こういう「マッカーサーさまさまネ」というような日常会話が、当時の日本の大衆の共通の思想(ことわっておくが、表現されざる無定型の大衆の思想も思想である)のある局面を表白していると思えてならない。
 それにしても、このオバさんのマッカーサー的観念の基礎は、いったい何だったのであろうか。それを速断する前に、もう一人の証人にご登場願おう。当時、町の高等女学校の国漢の教師をしていた父である。
 父の日記から
 昨年の七月であったと思う。今年七五才の父が四万温泉に湯治にいっていた留守に、実家の二階――そこは物置のようになっている――にあがり込んでガサガサやっているうち、父の日記の山が発見された。わたしは、父がずっと欠かさずA5版のノートッブックに日記をつけていたのを、子供の頃から見て知っていた。そのノートの表紙に、父はかならず「文選爛秀才半」(文選ただれて秀才半ばす)というキャッチフレーズを書きつけていたのも、この言葉を引いてよく説教された経験からして知っていた。しかし、内容を読むのははじめてであった。そして、一つの奇妙な発見をしたのである。
 父は、戦時中の日記に、かなり綿密に戦況の推移・大本営発表の戦果の一覧表などを作ってかきつけていた。勿論、新聞からの書きうつしであろう。そして、重要な事項については、傍線が付されるとか、かこみがほどこされていて、また、校長や同僚の先生がたの時局知らずの態度にたいする批判などもあって、その日記は、それとして戦争日記として読めた。ところが、まったく奇妙に思えるのは、それほど丹念に戦局の推移などを書きとめていた父の日記の様子が、敗戦とともにガラリと変わってしまうのだ。すなわち、敗戦の翌日から社会的な問題については一切ふれず、まったく家庭生活の日常の記述だけになってしまう。社会問題には、ふれぬことを生活信条としてしまったかのようだ。それは、頑(かたく)なとさえ感得されるのである。
 それにしても、父の日記のこの急変の意味はどこにあったろう。わたしには、ある推断ができるのである。父は、埼玉県児玉郡の某寒村に水呑百姓(父の表現でもあった)の次男として生まれ、小学校高等科をでただけで、何度かの検定を通って公立中等学校(旧制)の教諭になった。典型的な教学大系と価値を身につけた”模範的な”教師であったと思う。その父は、空襲が激しくなると、真夜中でも警報を聞いて学校にかけつけていた。
 田舎町で、食糧不足の折でもあり、三月ともなれば受験生の親たちが、何かの手づるで紹介されては、米や卵をもって”よろしく”とたのみにくるのであった。そんなとき父は絶対に品物を受けとろうとはしなかった。それがわが家の生活規律にもなっていて、母なども受験期になると父の留守へのつけとどけにたいして、とくに神経質になっていたようだ。ところが、である。父は、敗戦の翌年からは、それを何でも受けとるようになってしまった。いまから考えれば、食糧事情がいっそう悪化していたといえるのであろう。が、わたしには何となく不安に思えて、受けとってしまっていいの? ときいたことがある。これに対する父の答えは、”どうにかなるかと思って頑張ったが、結局、どうにもなりゃしないじゃないか”ということだった。父はまた、ほかの連中(ほかの先生がた)だってどんどん受け取ってる、ということもいっていた。そして、この変化は、その日記における変化とそのまま対応しているのである。
 ダマサレタ論と一億総懺悔論
”どうにかなるかと思って頑張ったが、結局、どうにもなりゃしないじゃないか”――いま思えば、この言葉で父は、あの戦争中の頑張り主義が、その背後に庶民のエゴイズムをべったりと付着させていた、政治観念にもとづく自己欺瞞にほかならなかったことを告白してくれたのである。その政治観念の根拠(聖戦)が終りを告げられたとき、そこにはむきだしの物欲の論理が発現せざるをえない。先の隣組オバさんのマッカーサー的観念の基礎も、実は、日本の大衆のエゴイズム以外でなかったと思う。
敗戦は日本の大衆のエゴイズムをむきだしの形で解き放った。しかし、ひとびとは、昨日までの自分のありかたを説明しなければならなかった。自分自身にたいして、自分で説明しなければならなかったのである。そのとき、日本の大衆は”軍部にだまされた”という以外になかった。日本の大衆の間に、あの頃”だまされた”という実感とも自己欺瞞ともつかぬ合言葉が氾濫して行ったはずである。そして、この合言葉は、昨日までのおのれのありかたにたいする説明であるとともに、そのまま、きょうのおのれのありかた――むきだしの物欲主義を合理化する言葉としても還帰して行った。
 しばらくすると、どこそこの誰さんが復員して来たといううわさが聞かれるようになったが、それはかならず、あそこの息子は内地にいたから毛布を何枚もちかえったそうだ、という形のうわさであった。その頃、負けぶとりという言葉もきかれ、あまりもちかえったので、夜かえってきたのだそうだ、というようなこともいわれた。
 それにしても、この大衆レベルにおける「ダマサレタ」論は、支配者側の説明言葉としては「一億総懺悔」という形をとってあらわれた。まさに支配者の側におけるナショナリズム不在論の原型といえるが、それは、いうまでもなく敗戦直後、日本支配階級の代弁人として登場した東久邇宮稔仁が、組閣後第一回の記者会見でいいだしたスローガンで、これが責任回避の論理=頬被りの論理の極めて端的な表白であったのはいうまでもない。だが、自己合理化=自己欺瞞の論理としての「ダマサレタ」論と、責任回避の論理としての「一億総懺悔」論は、同質のエゴイズムの大衆レベルと支配者レベルの双方における二つの発現形態にすぎなかったのである。”
(津田道夫『日本ナショナリズム論』盛田書店、1968年9月30日初版発行、23-27頁より引用)

そう、民衆は故郷のムラのために、あるいは戦争の勝利の後に得られるであろう物質的利益のために、必死になって「聖戦」を戦っていた自分の姿を、戦争に負けた後は「軍部に騙された」ことにして、自らの戦時中の行いを自らに説明することにしたのである。

このことについて、恐らく民衆の中からは決して出てこない、敗戦1年後の民衆の在り方を最も正確に表現したのは坂口安吾であろう。坂口安吾は1946年12月に「続堕落論」にてこのように述べている。

 

“ 昨年八月十五日、天皇の名によって終戦となり、天皇によって救われたと人々は言うけれども、日本歴史の証するところを見れば、常に天皇とはかかる非常の処理に対して日本歴史のあみだした独創的な作品であり、方策であり、奥の手であり、軍部はこの奥の手を本能的に知っており、我々国民またこの奥の手を本能的に待ちかまえており、かくて軍部日本人合作の大詰めの一幕が八月十五日となった。
 たえがたきを忍び、忍びがたきを忍んで、朕(ちん)の命令に服してくれという。すると国民は泣いて、ほかならぬ陛下の命令だから、忍びがたいけれども忍んで負けよう、と言う。嘘(うそ)をつけ!嘘をつけ! 嘘をつけ!
 我ら国民は戦争をやめたくて仕方がなかったのではないか。竹槍(たけやり)をしごいて戦車に立ちむかい、土人形のごとくにバタバタ死ぬのが厭(いや)でたまらなかったのではないか。戦争の終わることを最も切に欲していた。そのくせ、それが言えないのだ。そして大義名分といい、また、天皇の命令という。忍びがたきを忍ぶという。何というカラクリだろう。惨めともまたなさけない歴史的大欺瞞(ぎまん)ではないか。しかも我らはその欺瞞を知らぬ。天皇の停戦命令がなければ、実際戦車に体当たりをし、厭々(いやいや)ながら勇壮に土人形となってバタバタ死んだのだ。最も天皇を冒涜する軍人が天皇を崇拝するがごとくに、我々国民はさのみ天皇を崇拝しないが、天皇を利用することには狎(な)れており、そのみずからの狡猾(こうかつ)さ、大義名分というずるい看板をさとらずに、天皇の尊厳の御利益を謳歌している。何たるカラクリ、また、狡猾さであろうか。我々はこの歴史的カラクリに憑かれ、そして、人間の、人性の、正しい姿を失ったのである。”
坂口安吾「続堕落論」『堕落論角川書店、1957年5月30日初版発行、1968年11月25日18版発行、1999年5月10日改版73版発行、108頁より引用)

 

「我ら国民は戦争をやめたくて仕方がなかったのではないか」という安吾の言葉は、確かに戦争末期の民衆と知識人に共通した心性でもあったであろう。しかし、空襲下の食糧難の中であれ、反戦運動で捕まった革命家、神山茂夫を裁いていた裁判長が涙を流しながら「お前の言う通りになってしまった」と述べていた時の心情や、大学知識人である林達夫が全面降伏の報に滂沱として涙を流しながら「日本よ、さらば」と敗戦を悲しんでいたその心情は、玉音放送が流された直後に皇居前広場にて涙ながらに額づいていた民衆の姿とも通じるものがあったと、私は考えている。だからこそ、一方で戦争を止めたいと思いながらも、同時にこの戦争に必ず勝たねばならないと思い、勝つべきだと思っていたからこそ全面降伏の報に涙を流して敗戦を悲しんだ民衆の姿も、また真実であったであろう。しかし、ここでその時の自分たちの姿と感情に「嘘をつけ!嘘をつけ!嘘をつけ!」と繰り返す坂口安吾は、そして安吾が代弁していた民衆は、こう述べることで自らに嘘をついてしまった。自分たちはあの時実は、敗北してでも戦争を止めたかったのだ、いや、実は敗戦を望んでいたのだという嘘をつくことで、戦時中の自分たちが何故、如何にして、戦争に協力してきたかについて考えることを止め、自らを被害者としての立場に置いてしまったのだ。やはりこれは、安吾が言ったのとは別の意味で歴史的大欺瞞であった。「我らはその欺瞞を知らぬ」と安吾は言ったが、知らないのも当然である。当時、まだその欺瞞は、存在しなかったのだから。

そして、このような欺瞞に満ちた敗戦直後の民衆の姿を説明する知識人の新星が現れる。戦後民主主義のチャンピオン、丸山眞男氏である。時系列的には前後するが、1946年5月に発表された論文、「超国家主義の論理と心理」では、恐らく戦後初めて民衆の戦争責任について論じた、注目すべき部分が存在するので、以下に見ることにする。

 

“ さて又、こうした自由なる主体的意識が存せず各人が行動の制約を自らの良心のうちに持たずして、より上級の者(従って究極的価値に近いもの)の存在によって規定されていることからして、独裁観念にかわって抑圧の移譲による精神的均衡の保持とでもいうべき現象が発生する。上からの圧迫感を下への恣意の発揮によって順次に移譲して行く事によって全体のバランスが維持されている体系である。これこそ近代日本が封建社会から受け継いだ最も大きな「遺産」の一つということが出来よう。(中略)更にわれわれは、今次の戦争に於ける、中国や比(フィ)律(リ)賓(ピン)での日本軍の暴虐な振舞についても、その責任の所在はともかく、直接の下手人は一般兵隊であったという痛ましい事実から目を蔽ってはならぬ。国内では「卑しい」人民であり、営内では二等兵でも、一たび外地に赴けば、皇軍として究極的価値に連なる事によって限りなき優越的地位に立つ。市民生活に於て、また軍隊生活に於て、圧迫を移譲すべき場所を持たない大衆が、一たび優越的な地位に立つとき、己れにのしかかっていた全重圧から一挙に解放されんとする爆発的な衝動に駆り立てられたのは怪しむに足りない。彼らの蛮行はそうした乱舞の悲しい記念碑ではなかったか(勿論(もちろん)戦争末期の敗戦心理や復讎(ふくしゅう)観念に出た暴行は又別の問題である)。”
丸山眞男杉田敦編「超国家主義の論理と心理」『丸山眞男セレクション』平凡社、2010年4月9日初版第1刷、76-77頁より引用。)

一見、この説明はわかりやすく思える。江戸時代以来の封建遺制が近代に入っても残ってしまった日本では、「上からの圧迫感を下への恣意の発揮によって順次に移譲して行く事」がすべての組織に共通して現れ、とりわけ軍隊では、「圧迫を移譲すべき場所を持たない大衆が、一たび優越的な地位に立つとき、己れにのしかかっていた全重圧から一挙に解放されんとする爆発的な衝動に駆り立てられた」、だから日本軍は残虐行為を起こしたのか、と。

注意したいのは、この丸山眞男氏の説明では、前節で見てきたように、故郷のムラへの愛郷心や、戦争の勝利の際に手に入るであろう物質的な利益などの様々な理由により戦争に協力し――少なくとも反対せずに――戦った民衆の姿が見えてこないことである。この件について、「続堕落論」と「超国家主義の論理と心理」の、私が今引用した部分について論じた鷲田小彌太氏の説明は説得的であるので、ここに引用する。なお、本稿での坂口安吾丸山眞男氏を対比するという発想は、完全に鷲田小彌太氏のものであるゆえ、ここに氏に対する謝意を表する。

 

“ ここに書き記されている「一般兵隊」、「卑しい」人民は、安吾のいうように自己欺瞞的に生きた国民のイメージとは、およそ正反対のものである。あるいは自己欺瞞的に生きた国民とはつながりをもたない。私的領域に生きる国民のイメージは徹底的に排除され、国家に一元化された、「『国体』のあやつり人形」(吉本隆明丸山真男論」『一橋新聞』昭37)にしかすぎない。そして、この点にこそ丸山を戦後民主主義のチャンピオンとして押し出した理由も存在するのである。戦争被害者としての国民というイメージである。価値観の転換とは、我々はだまされた、という「建前」の論理に収斂されてゆくからである。さらにいえば、「建前」の論理をこととした知識人たちの絶大な免罪符として通用するからである。この点でいえば、戦後の価値観の転換を「内面化」しえず、「民主主義」国家になったのだから、「民主主義」がヨイノダとする常態を生み出した責任の一端は、丸山にもあることがよく分かる。”
鷲田小彌太『昭和の思想家67人』PHP研究所、2007年8月24日第1版第1刷発行、289頁より引用。)

既に述べたように「安吾のいうように自己欺瞞的に生きた国民のイメージ」については、私は鷲田小彌太氏とは異なる意見を持つものであるが、丸山眞男氏について論じたことについては、これが正しいのではないかと思う。結局、この有名な丸山眞男氏の論文は、執筆者の意図がどこにあったかはさておき、「軍部に騙された(ことにした)民衆」を、「戦争の被害者としての民衆」として、知識人の世界から承認する効力を持ってしまったのではないか。本稿の筆者に、丸山政治学政治学上の達成や弟子の学者達に対する影響などを述べる能力はない。しかしながら、鷲田小彌太氏のいう「価値観の転換とは、我々はだまされた、という「建前」の論理に収斂されてゆくからである」という方面からの丸山眞男の読み方は、我々の祖父母世代が戦争中に行ってしまったことを考えるうえで、大きな欺瞞を生み出し、肯定する影響力を、それも負の影響力を、現在にあっても持ってしまっているのではないか。少なくとも、私はそう考えている。


5.喪われた機会

以上のように、敗戦後、早くも1946年中には「騙された民衆」は「被害者としての民衆」となることで、民衆をして自らの戦時中の姿に向き合わせることを阻害する回路が築き上げられ、その後、左翼知識人は天皇の戦争責任追及に代位させる形で、この問題をやり過ごすことを学んでしまった。高橋彦博氏が言う通り、この問題が意識され始めたのは実に1980年代以降のことであるが、2018年の今日にあってもやはりこの問題は一般の言論界にあっても、日常生活の中でも十分に意識されてはいないであろう。私が本稿を書くに至った理由の一つである。

しかしながら、民衆が自らについた嘘が、自己欺瞞自己欺瞞である限り、ある場面に於いて、それがふと表出することもある。本節では、再びノンフィクション作家の吉田司氏と東北学の赤坂憲雄氏に登場を願い、東北学の赤坂憲雄氏が聞き書きの中で東北の農民から聞いた話と、1945年に山形で生まれた吉田司氏が、幼少期に自らの周囲で見聞したことについて述べてもらうことにする。気が重くなる語りだが、心して御覧いただきたい。


“赤坂――いわゆる「ハレ」と「ケ」の理論がどこまで通用するのかは分からないけれど、吉田さんの今の話、非常にリアルだと思います。確かに日本人は仮面を脱いで戦後を始めた。聞き書きをしていても、同じような感覚におそわれる瞬間があります。戦争体験の話になると、みんないつでも被害者なんですよ。国家権力の犠牲者として戦争体験を語るわけです。ところが、ふっと違う顔がのぞく瞬間があるんです。自分がいかにアジアの人々に酷いことをしたか。殺したか。女を犯したか。戦場では狂気が支配していた、自分の行為も仕方なかった、そのなかを自分たちは生き延びたんだみたいなことがぽつりと語られる。
吉田――その「狂気」も問題なんですよ。あの時は「狂気」に支配されていた。「正気」に戻った今は、反省している。そんな感覚でしょう。だけど、戦争って「狂気」なんかじゃないですよ。戦争というのは、数千年か数万年か知らないけれど、人間が延々と繰り返してきた行為です。その意味で戦争は「狂気」なんかじゃない。人間の持つ「正気」のひとつの側面ですよ。戦争を「狂気」といってしまった瞬間、すべての個人責任が終わってしまう。あれは「狂気」のなせるわざだったから、人殺しの責任は問われない。むしろ自分たちもまた軍国ニッポンの犠牲者だった、これでお終い。ここでもまた民衆の戦争責任が問われないシステムができあがっている。
赤坂――もうひとつ、銃後の問題もあります。東北のある村で聞き書きしていたときのことです。戦時中に一〇代だった男の話を聞いていた。戦時下のセックスの話題になりました。夜になると夫を戦地に送り出した村の女たちが、その少年を家に誘ったというんですよ。家から家へ渡り歩いてセックスしていたという。これもまた銃後の女たちのひとつの現実だった。祭りの夜の性のありかたと重ね合わせれば、どうやら「ハレ」の感覚は、戦地だけではなく銃後にもあったのかもしれません。
吉田――だから、戦争が終わった時に、戦後が始まったときに、われわれはやらねばならぬことをやっていないんですよ。最初にやらなければならなかったのは、戦地から生還した夫と銃後の妻の対話だったと思うんだよね。夫が妻に「お前、俺の留守中に村の男となにやってた」と尋ねる。妻は夫に「あんたは戦地でなにしてたんだ。どれくらい人間を殺したんだ。強姦はしたのか」と問い詰める。まあ、ものすごい図式だけれど「われわれはいったいなにをやってしまったんだろう」と考える、こんな共同体の基盤をなす夫婦の会話があれば、日本の戦後は違ったものになっていたんじゃないかな。そりゃつらくてしんどいだろうけど、仮面をとっかえひっかえすることなく、こんな会話から戦後が始まっていれば……。
赤坂――戦場から男たちが戻ってくる。そして、銃後を守った女たちと再会する。おそらくその時に絶対になかったのが、今、吉田さんが言われた会話だったんじゃないでしょうか。ここをきちんと言葉にしていたら、たぶんまったく違うかたちのわれわれの戦後があったかもしれない。そう思いますね。
吉田――ものすごい例になっちゃったけど、別に夫婦やセックスの話だけじゃなくって、インテリも含めて日本人はだれもこれをやらなかったんだよ。フランスでは、戦後「ナチへの協力者」問題をめぐって、”民衆の戦争責任”が問われているが、日本じゃ吉本隆明らが「庶民に戦争責任なし」ナンチャッテるからね(笑)。結局、敗戦期に日本人が戦争責任を負わなかったことにおいて、戦後をみんな駄目にしてしまったんだ。そして、こんな話をいちばんしなければならなかったのは、東北人だったと思うんですよ。「暗黒の飢餓農民」のシンボルとしての東北人が、まずは口火を切るべきだった。東北人はそれくらいの責任を近代に対して負うべきです。
関連してもうひとつ。みんなある時期から「チャンコロ(中国人の蔑称)を何人ぶっ殺した!」とか大威張りする武勇談を話さなくなったでしょう。僕が子どものころ、近所の大人たちは酒を飲んでは自分たちが戦地でいかに勇敢に戦ったか、あるいは戦争がどんなにおもしろくて楽しかったか、盛んに話していましたよ。そりゃあそうですよ。「暗黒の飢餓農村」に閉塞していた連中が徒党を組んで、初めて命がけで海外旅行したようなものだ。それも勝者として乗り込んでいったんだ。おもしろくないわけがない。ところが、みんなある時期からぴたっと話さなくなった。
赤坂――そういえばそうですね。
吉田――結局、日本は悪いことをしたんだ、「反省」しなくちゃ「謝罪」しなくちゃならないんだ、どうやら日本人は戦争責任を感じなくちゃならないらしいぞとなった時に「あ、俺たちが話してきたのはヤバいことだったかもしれない」と気がついて、ぴたりと口をつぐむようになった。これがまた間違いのもとだった。戦争がおもしろかった。楽しかった。そこから始まる思想があったはずなんですよ。「おもしろかった」あの戦争はいったいなんだったのか。「楽しい」と感じた自分はなんだったのか。これを問い詰め分析することで、日本人にとっての戦争や、あるいは日本の近代の素顔を顕在化できる可能性があった。ところが日本人は「反省」や「謝罪」や、さっきの「狂気」なんて便利な言葉のかげに隠れてしまった。あれ、エクスキューズですよ。ホンネを隠して「反省」や「謝罪」をしたところで、「狂気」を語られたところで、実はあまり意味がない。そんな「反省」や「謝罪」や「狂気」から、新しい思想なんて生まれるわけがない。日本人はここでもチャンスを失ってしまった。”
吉田司赤坂憲雄「東北よ、近代を語れ!」初出2002年7月、『吉田司対談集――聖賤記』パロル舎、2003年4月20日第1刷発行、410-413頁より引用)

吉田司氏は東北出身なので、自らが見聞した東北人の戦争責任について語っているが、事情は日本の他地域でも同じである。吉田司氏の2歳と年下に当たる、1947年東京出身のコメディアンにして映画監督のビートたけし北野武)氏は、自らの小学生時代について、このような回想を漏らしている。

“ おいらが子供の頃なんか、戦争帰りの先生なんかもいて、「銃剣でこう突いて敵を殺したんだ」なんて自慢までしてた。
 ところが今は、授業中に「ナイフで人を殺すには、こんなふうにやんなきゃいけない。簡単なことじゃないんだ」なんてやっただけでも、新聞で叩かれるご時世。”
ビートたけし『悪口の技術』新潮社〈新潮文庫〉、2005年2月1日発行、2006年9月5日7刷発行、173頁より引用)

吉田司氏は恐らく55年体制の成立が、人々が口をつぐみ始めたきっかけなのではないかと考えているようだが、幼き日の吉田司氏が聞いた「チャンコロを何人ぶっ殺した!」という「武勇談」、またはビートたけし氏が聞いた「銃剣でこう突いて敵を殺したんだ」という「自慢話」は、かつての皇軍兵士が戦時中の自らの行為を「反省」することなく、率直に表現したものである。

個々の戦場のミクロな局面での面白半分に繰り広げられたこのような「武勇談」や「自慢話」の果てに、アジア各地に1900万人*3もの死体の山を築き上げてしまった日本の民衆は、決して単なる戦争の被害者ではなかった。皇軍兵士がやってしまったことは、今更元に戻らない。人は誰しも生きている間に過ちを犯すものであり、また、第二次世界大戦中の日本軍以外の交戦国軍にあっても、このような各国の民衆の戦争責任(敵国の軍民を殺害した下出人としての加害責任)を否定できる国家は存在しないであろう。しかし、日本の民衆が戦後左翼知識人と共に、自らの加害を、戦争による被害者の仮面を纏うことで回避してきたことついては、これについては、今からでも問題としなければならない。吉田司氏が述べているように、戦地から帰ってきた夫と妻の、お互いがこの戦争の中でどんなことをしてしまったのだろうという対話は、楽しかった戦争とは何だったのかと、殺戮を面白かったと感じた自分は何だったのかと、その体験を問い詰めることは、津田道夫の隣組にいた戦時中の防空訓練を張り切る愛国婦人が、敗戦直後に「マッカーサーさまさまネ」と漏らして俄仕立ての民主主義者になる前に、絶対に行っておかねばならぬことであった。それを行うことで、自らがどんな恐ろしい暴力を実践してしまったかを直視する作業が、絶対に必要であった。そして、戦後左翼にとっては「被害者としての民衆」像を維持することが実像から遠く離れた虚像であり、虚像からは決して真に迫った言葉は決して出てこないということを、もっと戦後の早い内に自覚しなければならなかった。しかしながら、既に見てきたように戦後の展開はそうはならなかった。

恐らく、戦後日本にあって、戦時中の自分達が「軍部に騙された」とすることを潔しとしなかった人物で、最も大きな影響力を持ったのは、戦前、獄中で共産主義者から天皇主義に転向した保守主義者の林房雄氏であろう。林房雄氏は1963年-1965年にかけて『中央公論』誌上で連載した『大東亜戦争肯定論』の中で次にように述べている。

“……私は「東京裁判」そのものを認めない。いかなる意味でも認めない。あれは戦勝者の戦敗者に対する復讐であり、即ち戦争そのものの継続であって、「正義」にも「人道」にも「文明」にも関係ない。明らかに、これらの輝かしい理念の公然たる蹂躙であって、戦争史にも前例のない捕虜虐殺であった。
かかる恥知らずの「裁判」に対しては、私は全被告とともに、全日本国民とともに叫びたい。「われわれは有罪である。天皇とともに有罪である!」と。
自分は絶対に戦わなかった、ただの戦争被害者だと自信する人々は、もちろんこの抗議に加わらなくてもいい。あの戦争の後に生まれた若い世代にも責任はない。だが、私は私なりに戦った。天皇もまた天皇として戦った。日本国民は天皇とともに戦い、天皇は国民とともに戦ったのだ。
「太平洋戦争」だけではない。日清・日露・日支戦争をふくむ「東亜百年戦争」を明治・大正・昭和の三天皇は宣戦の詔勅に署名し、自ら大元帥の軍装と資格において戦った。男系の皇族もすべて軍人として戦った。「東京裁判」用語とは全く別の意味で「戦争責任」は天皇にも皇族にもある。これは弁護の余地も弁護の必要もない事実だ。”
林房雄大東亜戦争肯定論 上』三樹書房〈やまと文庫4〉1984年8月15日発行、125-126頁より引用。)

戦争末期の現実の過程の中で、ポツダム宣言の「一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰加ヘラルヘシ」という条文に基づいて行われた東京裁判を回避するために日本が取り得た選択肢としては、ポツダム宣言を拒否し、本土決戦を行う以外のものは存在しなかった故に、本土決戦の断行を主張せずに昭和天皇による「御聖断」を認める立場の人間が「東京裁判」そのものを認めないと主張することは意味をなさない*4。この立場は戦後の日本にあっては少数派であり、そしてそれゆえの限界が存在するにもかかわらず、この林房雄氏の断言には、「被害者としての民衆」像を維持することで民衆の戦争責任に触れてこなかった戦後左翼、および、昭和天皇が「自ら大元帥の軍装と資格において戦った」ことについての戦争責任を認めてこなかった戦後保守・戦後右翼の双方にとって重要な意味を有している。林房雄氏は「日本国民は天皇とともに戦い、天皇は国民とともに戦ったのだ」と述べることで、戦後の左右・保革双方が見逃してきた、戦時中確かに実感されていたであろう昭和天皇と日本国民の共同責任の存在を明らかにすることに成功したのだ。「大東亜戦争」を肯定するか否定するかの立場にかかわらず(勿論私は否定する)、この忘れ去られていた前提を提出したことについての林房雄の貢献は大きい。この「天皇と日本国民の共同責任の存在」という保守主義者が提出した前提が、戦後の保守エリートに維持されていれば、恐らく、戦後の歴史はもっと異なるものとなっていたであろう。だが、我々が知っての通り、やはりそうはならなかった。現内閣総理大臣である安倍晋三氏は、著書の中でこのように述べている。

“ 「君が代」が天皇制を連想させるという人がいるが、この「君」は、日本国の象徴としての天皇である。日本では天皇を縦糸にして歴史という長大なタペストリーが織られてきたのは事実だ。ほんの一時期を言挙げして、どんな意味があるのか。素直に読んで、この歌詞のどこに軍国主義の思想が感じられるのか。”
安倍晋三『新しい国へ――美しい国へ 完全版』文藝春秋、2013年1月20日第1刷発行、88頁より引用)

保守エリートは、せっかく林房雄が『大東亜戦争肯定論』の中で戦時中から引き揚げてきた”「太平洋戦争」だけではない。日清・日露・日支戦争をふくむ「東亜百年戦争」を明治・大正・昭和の三天皇は宣戦の詔勅に署名し、自ら大元帥の軍装と資格において戦った”「武装せる天皇」像を、「ほんの一時期を言挙げして、どんな意味があるのか」という一言で、その意味について考えることなく、したがってその意味が我々に我々自身の歴史に対してどのような責任の持ち方を迫るのかについても考えることもなく、ただその価値を称揚することを選んでしまった。敗戦直後に坂口安吾のと同様に、「天皇の尊厳の御利益を謳歌している」(「続堕落論」)のだ。

冒頭に戻ると、丸山照雄師の、「文化の伝承は同時に責任の伝承でもあるべきなのに、そこを断ち切ってしまうんです。戦争の実態を明らかにせずに、棚上げにしたいという願望から、すべての文化の再生構造を断ち切ってきた。ナショナルな立場、あるいは国家主義的な立場のように見える彼らが、じつは自己否定をしてきてしまった」という言葉は、正に保守派が林房雄の『大東亜戦争肯定論』の前提を真底から受け止めなかった立場から、そして左翼も「被害者としての民衆」像を便利に使ってきた立場から、戦争責任を曖昧にし、その結果責任の伝承を断ち切ることで文化の伝承を断ち切ってしまったというこの事実に正確に対応するのである。

 

6.個人主義原理の確立のために

“……あの昭和天皇が死去した時も、今更ながら「天皇が明確な責任をとらなかったから、国民の戦争責任もあいまいなものになった」ナンテ、国民論議が巻き起こった。馬鹿言っちゃいけない。戦時中、日本人はひとつのパルチザン、ひとつの反天皇ゲリラ、ひとつの自由主義亡命政府すら残せなかったじゃないか。全員大政翼賛と愛国婦人の戦争協力者じゃなかったか。そのために戦後は、自国民が自国民を審(さば)く道が閉されたのだ。民衆一人ひとりが責任を問い合う土壌のないところで、ドーシテ天皇の責任を真底から審き得たろう。戦後ももう四十五年もたったのだ、いいかげんに戦争責任を天皇と国家にあずける「ダマされ史観」から脱皮してはどうか。一億一心の天皇教=日本的集団主義を近代市民の個人原理で克服することこそ、アジアに対する責任のとり方ではないのだろうか。”
吉田司『宗教ニッポン狂騒曲』文藝春秋、1990年9月25日第1刷、199-200頁より引用)


以上、私は本稿で主に民衆の戦争責任について述べてきたが、それは、1970年代から1980年代に主張された古めかしい極左の血債論を再び持ち出し、加害責任に無自覚なものを罪の意識によって道徳的に恫喝したいからではなく、「騙された民衆」、「被害者としての民衆」という戦時下の民衆像がどれだけ真実から程遠いかを明らかにし、また、このような欺瞞的な虚像を維持することは、どのような立場からであれ有害な影響しか持っていないかということを主張したいからであった。そのような意味で、本稿は保守派のための戦争責任論にもなっていると、私は自負している。私はこれからも戦争に反対するが、もし本稿を読んだ保守人士の中で、前の戦争は間違っていなかったしこれからも積極的に次の戦争に備えるべきだという方がおられたら、その際には勝っても負けても自分は体制に騙された被害者などとは言わないで欲しいと私は思っている。戦争によって必ず生じる敵国の犠牲者や自国の犠牲者について、自らが君が代を歌いながら天皇と共に戦った結果であるという事実から、前の戦争の後のようには逃げないで欲しいということである。

その上で、私が言い得ることとしては、結局のところ日本にあっては個人主義原理が未確立であったし、今もそうだからまず個人主義原理を育てなければならない、ということである。戦時中の民衆が自らを被害者の位置に置けたのは、吉田司氏が述べるような夫婦の会話が存在せず、個人が個人として自分がやったことについて考える機会も意志も持たなかったからであり、多くのマルクス主義者が転向する中で神山茂夫永井荷風が戦時中にあれだけの時局と戦争への反対を行い得たのは、結局のところイデオロギーではなく、彼らの個人としての資質が国家権力や民衆の集団主義よりも強力だったからであろう。ニュースで伝わるシリアやパレスチナの悲惨な様子について、これから加害者にも被害者にもならないために、私を含めた左翼人士は戦争には反対しなければならないと思っているが、そのためには、まずは社会主義や護憲論その他のイデオロギーに先立つ強力な個人主義原理を育てねばならない。

そして、日本にあって個人主義原理を確立するためには、『万葉集』の時代から「世間」のわずらわしさやしがらみの中で個人が埋没する姿を苦闘と共に描き出してきた日本古典に学ばねばならないと、私は思う。孤独と意識が一人で感じなければならない意識である限り、それは限りなく個人原理の成立に近いところにあるが、源実朝の孤独が何故ヨーロッパで発達したような個人原理には行き着かなかったかを探る必要があるということであり、戦争責任を背負わなかったことで継承されなかった日本古典は我々が継承すべきだということである。つまりはこういうことだ。


“ 日本文化は、敗戦後の五十余年の間、自前の価値意識を形成するための努力をまったく行ってこなかった。古い日本の文化は、すべて戦争に動員され、あるいは戦争を必然させる働きをしたものであって、否定し去るべきものであると、批判にさらされてきた。たしかに伝統文化は「天皇帝国主義体制」を形づくるために総動員され、天皇制国家に簒奪(さんだつ)しつくされた。その奪われたものを取り返すのではなく、破壊にまかせることをもって善しとした。それが「占領者」の意図であったかどうかは別として、この国の文化はまぎれもなくアメリカナイズされていった。
 歴史も伝統もない入植国家、寄せ集めの植民国家の文化を真似して自滅するほど愚かなことはない。取り返しのつかない半世紀ではあるが、今からでも二重の意味で喪失したものを取り戻さねばならないのである。ひとつは近代百年の間に天皇制国家に奪われたもの、もうひとつは敗戦後半世紀、アメリカの経済的・軍事的支配下に置かれて喪失したものである。”
丸山照雄『危機の時代と宗教』法蔵館、2002年7月10日初版第1刷発行、22-23頁より引用)

私自身は丸山師とは異なり、アメリカ合衆国の文化に反対する論拠を、「歴史も伝統もない入植国家、寄せ集めの植民国家の文化」だからではなく、それが21世紀初頭に於いて世界最大の帝国主義国の覇権を支える装置であるからこそ反対しなければならないと考えており、アメリカ合衆国の文化にも素晴らしい、見倣うべきものは沢山あると思っているが、「今からでも二重の意味で喪失したものを取り戻さねばならない」という主張には賛成である。恐らく、その過程を経ずして、日本にあって真に実のある個人主義原理を育てることはできないだろうし、それができない限り、また、自分たちが熱狂した戦争を、終わった後に騙されたことにするという欺瞞は今後も繰り返されるであろう。

人が自らの過ちから学ぶことができる存在だと信じる限り、この課題は意識されねばならない。

 

塔を組み 堂をつくるも 人の嘆き 懺悔にまさる 功徳やはある
源実朝金槐和歌集』616

 

 

*1:註厳密には1942年9月に『図書』誌に「拉芬陀」(ラヴェンダー)という時局に無関係な小編を発表しているが、些末なので論じないことにする。

*2:引用こそしないが、左翼系のプロレタリア文学批評家の平野謙も8月15日にラジオのない鉱山の寮で敗戦の報を聞き、涙したと回想している。

*3:この1900万人という数字は、吉田裕氏の著書からである。

“ 次に、外国人の戦没者数をみてみよう。アジア・太平洋戦域におけるアメリカ軍の戦士者数は九万二〇〇〇名から一〇万名、ソ連軍のそれは、張(ちょう)鼓(こ)峰(ほう)事件、ノモンハン事件、対日参戦以降の戦死者をあわせて二万二六九四名、イギリス軍=二万九九六八名、オランダ軍=二万七六〇〇名(民間人を含む)である(読売新聞戦争責任検証委員会編『検証 戦争責任Ⅱ』)。
 交戦国だった中国や日本の占領下にあったアジアの各地域の人的被害は、もっと深刻である。しかし、これについては、正確な統計資料が残されていないため、各国政府の公式発表などを基にしたおおまかな見積もりにならざるをえない。そのような見積りの一つとして、中国軍と中国民衆の死者=一〇〇〇万名以上、朝鮮の死者=約二〇万名、フィリピン=約一一一万名、台湾=約三万名、マレーシア・シンガポール=約一〇万名、その他、ベトナムインドネシアなどをあわせて、総計で一九〇〇万名以上という数字をあげておきたい(小田部雄次ほか『キーワード 日本の戦争犯罪』)。いずれにせよ、日本が戦った戦争の最大の犠牲者が、アジアの民衆であったことは間違いない。”
(吉田裕『アジア・太平洋戦争――シリーズ 日本近現代史⑥』岩波書店、2007年8月21日第1刷発行、2013年6月14日第9刷発行、220-221頁より引用)

*4:実際にこのように述べて、ポツダム宣言による戦犯裁判阻止を求めて本土決戦を訴えた人物に、佛教系保守団体明朗会の日比和一会長が存在する。少し長いが、日比和一氏の本土決戦断行論は、私が目にした本土決戦論の中で最も説得的な主張だと思う故、その真意を明らかにすべく、以下引用する。日比会長は敗戦後の8月23日に会員ら11人と共に、皇居前広場で集団自決した。

“ 終戦近い八月七日頃私は船員戦斗隊の結成会議に参加のため任地函館から久方ぶりに上京した時、日比さんと最後の会見をしたのを覚えている。その時の日比会長の話の大要は次の通りであつた。
「戦局は全く我れに不利である。終戦はあまり遠くはないだろう。然し米国はデモクラシーの国であるから、与論が今日の日本とは比較にならない程強い。これを利用して一寸でも有利に戦争を止めなければならない。然るに今日では、東郷外相、米内海相等の腰ぬけ共が無条件降伏を考え始めている。
 然し阿南陸相は自分等と同意見なので、これが又陸軍全体の考えでもあるので心配はない。国体護持の線だけは絶対護らねばならない。
 天皇陛下が自ら終戦を宣言されることは憲法が示す内閣の責任制からもあり得ない。閣内不一致の場合は必ず総辞職をすべきで、閣内不一致のまま天皇陛下の御裁断をあおぐような無責任な内閣の行為は絶対に許されないだろう。
 自分等や阿南陸相はあらゆる手段をもつて世界の与論に訴え、有利な媾和(原文儘)をしなければならないと考えている。それで今考えている媾和条件として、
一、 国体は護持する
二、 武装は解除する。
三、 外国軍隊による国内進駐はみとめられない。
四、 ポツダム宣言にいう戦争裁判は日本自身にて行う。
 以上のようなもので、特に武装解除の一条だけで米国は必ずこれに応ずるだろう。
 それでも米国に容れられないとすれば、米国は侵略国である、仮りに日本本土を侵略上陸することになつても、日本は五百万の犠牲者を出すかも知れないが、百万の米兵を完全に殺すことが出来ると世界に向かつて主張すべきである。兎に角無条件降伏は何時でもできることであると自分は考えている。
 「東条英機やその内閣の革新派官僚が日本国体をこんな姿にまでしてしまつたことを微力防ぎ得なかつたことは全く臣子として申訳ないことである」と
 以上が私に語られた日比さんの最後の言葉であつた。”
(伊藤七三「日々和一さんを憶う」『明朗会十二烈士を忍ぶ』日々和一居士第十七回忌法要会編、日々和一居士第十七回忌法要会、1961年、110-111頁より引用)

twitterのアカウントを消してわかったこと

昨年から今年にかけての私は、twitterに依存しすぎだったので、自分からtwitterを取り除いたら何が残るのかを見定めるために4週間、アカウントを削除して過ごす実験を行った。

結局、わかったことは簡単なことで、自分はやはり今のこの日常生活を飛び出して行くことはできなかったし、たぶんこれからもできないだろうけれども、自分の生活の中で少し無理をしつつ、日々を精一杯生き抜かなければならない、ということだった。

 


4週間の間に世の中は動いている。米朝首脳会談の決定、つまり極東での妥協を選ぶと共に強硬化する、イラン・イスラーム共和国を睨んだアメリカ合衆国の中東政策と、その一環としての米英フランス軍によるシリア爆撃。私はアサド大統領のシリア軍による反体制的シリア人民への化学兵器使用のニュースを見ながらも、イラク戦争のことを考えながらこの空爆に釈然としないものを感じつつ、結局のところ、駐日米大使館の前で赤旗を掲げながら反米・反シリア空爆を主張するというようなことは遂に行わなかった。たぶん、これからも行わないだろう。特にシリアに関する知識を持たない、むしろ無知と言っても良い私が今のところ言い得ることとしては、一刻も早くシリアの人々が殺し合わずとも済むようになる日が来て欲しいということと、空爆は恐らくそのような条件を作ることを遠ざけるだろうということしかない。


マルクス主義者の職業革命家であったレーニンは、社会民主主義者の理想について1902年に、

“……一言でいえば、どの労働組合の書記でも、「雇い主と政府とにたいする経済闘争」をおこなっているし、またおこなうことを助けている。ところで、こういうことはまだ社会民主主義ではないこと、社会民主主義者の理想は、労働組合の書記ではなくて、どこでおこなわれたものであろうと、またはどういう層または階級にかかわるものであろうと、ありとあらゆる専横と圧制の現われに反応することができ、これらすべての現われを、警察の暴力と資本主義的搾取とについての一つの絵図にまとめあげることができ、一つひとつの瑣事を利用して、自分の社会主義的信念と自分の民主主義的諸要求を万人の前で叙述し、プロレタリアートの解放闘争の世界史的意義を万人に説明することのできる人民の護民官でなければならないということは、どんなに力説しても力説し足りない。”
(ヴェ・イ・レーニン/村田陽一訳『なにをなすべきか?』大月書店〈国民文庫110〉、1971年7月30日第1刷発行、1990年6月28日第40刷発行、122頁より引用。傍点省略。)

と述べているが、私は「自分の社会主義的信念と自分の民主主義的諸要求を万人の前で叙述し、プロレタリアートの解放闘争の世界史的意義を万人に説明することのできる人民の護民官」には、やはり遂になれなかった。複雑極まりないシリアの情勢について学び、学んだことをわかりやすく一つの絵図にまとめあげ、シリア人民の平和と利益にとって何が重要なのかを示しながら米英フランスの帝国主義と対決することよりも、私には自分の勉強時間や読書時間や睡眠時間を確保することの方が重要だったのだ。

私は社会主義者だがもはやマルクス主義者ではないし、今後も決して、レーニンのような職業革命家になることはないだろう。自分が職業革命家になってやっていけるとは思えないし、そう思えないという事は、つまり自分は職業革命家になりたくないのだ。

 

以上のようにこの4週間で私は自分のことが良くわかった。私は普通の、大義よりも私生活の方が大切な凡庸な人間である。ただ、SNSから影響を受けない地点で過ごす自分が良くも悪くも自分が今まで思っていたよりは普通の人間であると思い知った後も、やはり自分の人間としての尊厳の根底には赤色戦士としての意地(残念ながら「誇り」と言えるほど立派なことは行えていない)があった。


というのも、既にこのブログに書いてきたようなこと、ざっくり言ってしまうと「大逆事件以後の日本に於いて社会主義者であるということについての知的道徳的な意義の再評価」及び「スターリン主義を繰り返す訳にはいかないが、にもかかわらず、スターリン主義の総本山であったソ連が崩壊した後の世界にあって、国際共産主義運動の挙げた成果(1930年代の人民戦線と、第二次世界大戦中のナチスファシスト枢軸占領下のフランス、イタリア、中東欧諸国のレジスタンスやパルチザン、日本の神山茂夫らによる非転向闘争、1949年の中華人民共和国成立など)が、やはりスターリン主義によるものであったという事実についての思想的決算」、この二点についての言及は、「人民の護民官」にはなれない、なりたくない私が行えることであり、今後の人生にあって行うべきことだろうと、自分の底を知った後も感じるのだ。私はラッサールやレーニンや幸徳秋水大杉栄神山茂夫のような一流の職業革命家には遠く及ばないが、週末革命家としてはまだ行うべきことがある。それで十分だろう。


今後、どこまでできるかはわからないけれども、生活の中で生活を優先しつつ、少しだけ無理をしてやっていこう。日々を生き抜こう。

最後に、私の好きな小説と演説から引用することで、本稿を閉じることにする。

 

 

" パーヴェルは頭からしずかに帽子をぬいだ。そして悲しみ、大きな悲しみが彼の心をみたした。
人間にあって最も貴重なもの――それは生命である。それは人間に一度だけあたえられる。あてもなくすぎた年月だったと胸をいためることのないように、いやしい、そしてくだらない過去だったという恥に身をやくことのないように、この生命を生きぬかなければならない。死にのぞんで、全生涯が、そしてすべての力が世界で最も美しいこと――すなわち人類の解放のためのたたかいにささげられたと言いうるように生きなければならない。そして生きることをいそがなければならない。ばかげた病気や、あるいはなにか悲劇的な偶然のできごとが生命を中断させてしまうかもしれないからだ。
このような考えにとらわれて、コルチャーギンはなつかしい墓地を去った。"
(N.オストロフスキー/金子幸彦訳『鋼鉄はいかに鍛えられたか 下巻』岩波書店岩波文庫、1955年12月5日第1刷発行、1978年3月20日第23刷発行、102頁より引用)


“ 諸君、幸徳君らは時の政府に謀叛人と見なされて殺された。が、謀叛を恐れてはならぬ。謀叛人を恐れてはならぬ。みずから謀叛人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀叛である。「身を殺して魂を殺すあたわざる者を恐るるなかれ。」肉体の死は何でもない。恐るべきは霊魂の死である。人が教えられたる信条のままに執着し、言わせらるるごとく言い、させらるるごとくふるまい、型から鋳出した人形のごとく形式的に生活の安を偸んで(ぬすんで)、一切の自立自信、自化自発を失う時、すなわちこれ霊魂の死である。われらは生きねばならぬ。生きるために謀叛しなければならぬ。古人はいうた、いかなる真理にも停滞するな、停滞すれば墓となると。人生は解脱(げだつ)の連続である。いかに愛着するところのものでも脱ぎ棄てねばならぬ時がある。それは形式残って生命去った時である。「死にし者は死にし者に葬らせ」墓は常に後にしなければならぬ。幸徳らは謀叛して死んだ。死んでもはや復活した。墓は空虚だ。いつまでも墓にすがりついてはならぬ。「もし汝の右目なんじを礙(つまず)かさば抽(ぬき)出(だ)してこれをすてよ。」愛別、離苦、打克たねばならぬ。われらは苦痛を忍んで解脱せねばならぬ。繰り返していう、諸君、われわれは生きねばならぬ。生きるために常に謀叛しなければならぬ。自己に対して、また周囲に対して。
 諸君、幸徳君らは乱臣賊子として絞台の露と消えた。その行動について不満があるとしても、誰か志士としてその動機を疑い得る。西郷も逆賊であった。しかし今日となって見れば、逆賊でないこと西郷のごとき者があるか。幸徳らも誤って乱臣賊子となった。しかし百年の公論は必ずその事を惜しんでその志を悲しむであろう。要するに人格の問題である。諸君、われわれは人格を研くことを怠ってはならぬ。”
徳富蘆花「謀叛論」小田切秀雄編集『現代日本思想大系17 ヒューマニズム』、筑摩書房、1964年3月15日発行、133-134頁より引用)

 

『serial experiments lain』を観終えた

道すがら散りかふ花を雪とみてやすらふごとにこの日暮らしつ

                       (金槐和歌集65)

 

 

風が吹く。雲が流れる。永遠に続くかのような夕暮れ時の中、まるで雪の如くに桜が舞い落ちる。

 

今日は半年ぶりにジョギングをしてきた。根っから体力がない人間なので、1.5kmほどでヘトヘトになる。自分に体力がないことを意識するのは悲しいが、少し走るだけでも何も考えられないほど消耗できるのは、その間だけでも何も考えなくてもよい時間を持てるということでもある。きっと幸せなことなのだろう。


昨日、Chaykaさんが『ガサラキ』と共に激賞していた『serial experiments lain』を視聴し終えた。具合が悪い時に見る夢といった趣で、正直なところストーリーはよくわからなかったが、最終話の「記憶にない人間は、最初からいないも同じ」(概要)というメッセージには思うところがあった。今まで関りのあった人達の中で、僕はどれだけの人に記憶されているのだろうか。50年経った後、どれだけの人が僕のことを憶えているだろうか。そういえばというか、今までずっとリアルワールドでは人の記憶に残らないように振る舞いつつ、逃げるようにインターネットで思い思いに過ごしてきたんだった。それではまずいと思いつつも、肉体を持った現実の自分とインターネット上の情報としての自分を上手く統合できない。きっと、今でさえ現実の自分を認識している人よりも、情報としての自分を認識している人が多いのではないか。どうにかセルフイメージと現実の自分と情報の自分を、もう少し統合したい。

先週このブログに書いたように、twitterのアカウントを一旦、削除したのも、情報の自分が肥大化しすぎているのがまずいと思ったからだ。急進的かつ革命的ではありたいけど、自分は革命戦士でも職業革命家でもない。一回の社会主義者に過ぎない。もしそのことを忘れてしまえば、今に誰の胸にも訴えられない言葉しか出せなくなるだろう。気を付けないと。


もしも現在立てている計画が、全て順調に進めば、今年は年始から年末まで実家で過ごす最後の一年になる。

今日で2017年度が終わる。物心ついたころからずっと自分の存在が、自分が生きていることが、何か汚いことのような気がして罪悪感を抱いていたが、残った時間を自分にしてはよくやったと、死ぬ前に自分に言える程度に頑張ろうとそう決めたんだから、新年度も頑張ろう。

 

 

塔を組み堂をつくるも人の嘆き懺悔にまさる功徳やはある
                      (金槐和歌集616)

 

またしばらくtwitterから消えます

ようやく年始から計画していた花見を無事に終えられました。良い機会なのでまたしばらくtwitterから消えます。例によって一月ほどで戻ってくるので、またその時は相手してくれたら嬉しいです。

 

以下、理由を記しておきます。

 

第一に、今に限ったことではないのですが、最近特に、何につけても人の目や意見を気に掛けるようになってしまって気が休まらなくなってしまいました。自分の考えたことや感じたことが、自分自身の意識が世の中の平均からは大きくずれているということを考慮しても、常にこれでいいのかを気にすることに疲れてしまっているのですね。とあるニュースについて意見を持ってtwitterで感情を昂らせて憤ったり、喜んだりしても、インターネットの大河を流れる一滴の水にすぎないのに、それでも自分とは異なる意見の持ち主のことを考えてしまうと自分の感情は確実に揺さぶられ、疲弊している。それならば異なる意見の持ち主のことなど考えなければ良いのではないか、という意見もあるわけですが、それに慣れてしまうとあっという間に独善的な人間になることは間違いないわけで。そうはなりたくないから、というのがまず一点。

 

次に問題なのは、現実の自分とtwitter上の自分のギャップが日々開いていることです。かつて発狂した後、症状が落ち着いた現在は障害者雇用で働きつつ、今の雇用形態や年収の低さを打開するために資格の勉強をしている発達障害者でしかない現実の日常生活の自分と、ラッサール、幸徳秋水大杉栄神山茂夫社会主義者の系譜に続き、理想としては大日本帝国が為してきた国家悪と対決しようと思いつつ、自分のできる限りで街頭で赤旗を掲げたりプロパガンダを行っている赤色戦士であるtwitter上の自分の間にあるギャップが日々開き続けているのが、少しまずいように思えてきたのです。どちらも自分であり、自分が主義主張を掲げ、その実現者として自らを鍛えることなしに生きていけないタイプの人間であることは嫌というほど意識していますが、現状は観念が肥大化しすぎており、しかもそれが何となく受容されてしまっているのはまずい。私は結局のところレーニンのような職業革命家にはなれなかった人間であり、今後もそうなることはないのだからこそ、労働者たる生活者として地に足をつけながら。ギリギリのところでラディカルな社会主義者であり続けなければならないのに、今のままだと自分がなりたくなかった独善的な活動家になってしまいそうなのが
怖い。これが二点目です。

 

最後に、思ったことや感じたことをその場で吐き出せてしまうということ自体が、根本的にまずいような気がしてならないのです。もちろん、自分なりの基準は存在し、それをクリアした上でツイートするように心がけてはいるのですが、モヤモヤした感情をモヤモヤしたまま公開していると、それ自体が自傷行為のように自分の精神衛生を追い込んでいるのではないか。もう少し思ったことを言わないことこそが、今の自分にとっての自愛なのではないか。今年、2018年は自分にとっての転機となるであろう一年なのに、今やるべきことを疎かにしてまでSNSにかまけていいのか。

 

というわけで、少し人のことを気にせず自分のことに専念するために、またしばらくtwitterから消えます。アカウントを残しているとつい覗き込んでしまうので、削除しておきます。4月の後半に戻ってくるはずです。当ブログと読書メーターhttps://bookmeter.com/users/563612)は続けているので御用があればそちらまでお願いします。それでは。

太宰治、高村光太郎、神山茂夫:76年前の日米開戦の日の涙を振り返って

 今日、2017年12月8日は1941年12月8日の日米開戦から、実に76年目である。あの日本海軍の攻撃機によって星条旗が破れ、巨艦が沈んだ12月8日の朝から、一人の人間が一生を終えられるほどの時間が経ってしまった。今日は少し、このことについて振り返ることにしよう。

 

 太宰治は日米開戦から2か月後に、妻である津島美智子氏の視点を借りて書いた小説『十二月八日』を発表している。この日より一年半ほど前に『走れメロス』を書き上げていた太宰は、1941年12月8日をこのように記していた。

 


“ 十二月八日。早朝、蒲団の中で、朝の仕度に気がせきながら、園子(今年六月生まれの女児)に乳をやってると、どこかのラジオが、はっきり聞こえてきた。
 「大本営陸海軍部発表。帝国陸海軍は今八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」
 しめ切った雨戸のすきまから、まっくらな私の部屋に、光の差し込むように強くあざやかに聞こえた。二度、朗々と繰り返した。それを、じっと聞いているうちに、私の人間は変わってしまった。強い光線を受けて、からだが透明になるような感じ。あるいは、聖霊の息吹きを受けて、つめたい花びらをいちまい胸の中に宿したような気持ち。日本も、けさから、ちがう日本になったのだ。”
(中略)
 台所で後かたづけをしながら、いろいろ考えた。目色、毛色が違うという事が、之程までに敵愾心を起こさせるものか。滅茶苦茶に、ぶん殴りたい。支那を相手の時とは、まるで気持ちがちがうのだ。本当に、此の美しい日本の土を、けだものみたいに無神経なアメリカの兵隊どもが、のそのそ歩き回るなど、考えただけでもたまらない。此の神聖な土を、一歩でも踏んだら、お前たちの足が腐るでしょう。お前たちには、その資格が無いのです。日本の綺麗な兵隊さん、どうか、彼等を滅っちゃくちゃに、やっつけて下さい。これからは私たちの家庭も、いろいろ物が足りなくて、ひどく困る事もあるでしょうが、御心配は要りません。私たちは平気です。いやだなあ、という気持ちは、少しも怒らない。こんな辛い時勢に生まれて、などと悔やむ気がない。かえって、こういう世に生まれて生甲斐をさえ感ぜられる。こういう世に生まれて、よかった、と思う。ああ、誰かと、うんと戦争の話をしたい。やりましたわね、いよいよはじまったのねえ、なんて。”


太宰治「十二月八日」『昭和戦争文学全集4:太平洋開戦――12月8日――』昭和戦争文学全集編集委員会編、集英社、1964年8月30日発行[初出1941年2月]、193-194頁、196頁より引用)

 

 戦後の学校教育やマスメディアによる記憶継承の過程では上手く伝えられなかったことではあるが、76年前の今日、多くの人々は対米英開戦を心の底から祝っていた。日米開戦の10年前に当たる1931年の満洲事変勃発以来、中国(当時は中国国民党蒋介石総統指導する中華民国)とのいつ終わるとも知れぬ戦争の泥沼の中から、中国を背後で軍事的・経済的に支援していた米英に対して宣戦布告したことによって、それまでの亜細亜人同士の戦争を黄色人種対白色人種にスライドさせて視る視点が、軍人、政治家、宗教家、右翼活動家といった大日本帝国のイデオローグのみならず、実業家や知識人、文学者、芸術家、そして民衆に至るまで、億兆心ヲ一ニシテ共有されたのである。本稿の目的はそのことを糾弾することではない。ただ、事実として、1941年の12月8日を多くの人々が歓喜の中で祝っていたことと、戦後のある時期に戦時中に集団で戦争に熱狂していたことが忘れ去られてしまい、戦争末期の空襲その他による被害者としての記憶ばかりが残ったという事実は、忘れられるべきではなかったと私は考えている。

 太宰治の『十二月八日』に戻ろう。「私」の一人称でこの小説の主人公となっている津島美智子氏が実際にこのように感じていたのかは不明であるが、少なくともこの小説を書いた時の太宰治が、日米開戦の報を聞いて、ある程度は「こういう世に生まれて、よかった、と思う」ような気持ちで12月8日を記憶していたとは言えるのではないか。

 多くの人が様々な理由から日米開戦に歓喜していたが、太宰治が「強い光線を受けて、からだが透明になるような感じ。あるいは、聖霊の息吹きを受けて、つめたい花びらをいちまい胸の中に宿したような気持ち。日本も、けさから、ちがう日本になったのだ」と書いたように開戦を捉える感覚。より正確に言えば、日米開戦によって自分と日本何かが共に変わったとして、その変化を新鮮に受け止める感覚は、時代感覚に鋭敏であるべき文学者にあって、書き記すべき感覚であったようだ。詩人、高村光太郎は同日をこのように振り返っている。

 

“ 今度の第二回中央協力会議開会の当日は実に感激に満ちた記念すべき日となった。ちょうど対米英宣戦布告大詔渙発の日となったのである。
(中略)
 世界は一新せられた。時代はたった今大きく区切られた。昨日は遠い昔のようである。現在そのものは高められ確然たる軌道に乗り、純一深遠な意味を帯び、光を発し、いくらでもゆけるものとなった。
 この刻々の瞬間こそ後の世から見れば歴史転換の急曲線を描いている時間だなと思った。時間の重量を感じた。十二時近くなると、控室に箱弁と茶とが配られた。箸をとろうとすると又アナウンスの声が聞こえる。急いで議場に行ってみると、ハワイ真珠湾襲撃の戦果が報ぜられていた。戦艦二隻轟沈というような思いもかけぬ捷報が、少し息をはずませたアナウンサーの声によって響きわたると、思わずなみ居る人達から拍手が起こる。私は不覚にも落涙した。国運を双肩に担った海軍将兵のそれまでの決意と労苦とを思った時には悲壮な感動で身ぶるいが出たが、ひるがえってこの捷報を聴かせたもうた時の陛下のみこころを恐察し奉った刹那、胸がこみ上げて来て我にもあらず涙が流れた。”


高村光太郎「十二月八日の記」『昭和戦争文学全集4:太平洋開戦――12月8日――』昭和戦争文学全集編集委員会編、集英社、1964年8月30日発行[初出1941年1月]、230頁、231頁より引用)

 

 高村光太郎太宰治よりも衒いなく、開戦の詔勅を読み上げた際の昭和天皇の心中を察して涙を流してまで、76年前のこの日、日米開戦の報と、それに続く真珠湾攻撃の戦果を喜んでいる。既に述べたように、太宰治高村光太郎に限らず、当時「非国民」ではなかった大日本帝国の大多数の国民にとって、この感覚は共であった。いや、明治時代末の大逆事件以来、「非国民」であった社会主義者からでさえ、明治以来の社会主義者で労農派マルクス主義者の指導者だった山川均は、同じく明治以来の社会主義の同志、荒畑寒村に対して、「対米戦争に参加したい」と洩らしたとのエピソードが伝わっているほどだ*1

さて、詩人である高村光太郎東京市内の中央協力会議の会場で開戦の報を聞き、感激の涙を流していたのと正に同じ頃、東京市内の警視庁の留置場の中にも涙を流している男がいた。先立つこと7箇月前のメーデーの日に第二次日本共産党再建運動の指導者として、治安維持法で検挙された革命家、神山茂夫である。とは言っても、もちろん光太郎の流していた歓喜の涙ではない。自身の革命家としての力が及ばず、日米開戦に至ったことに対する、痛恨の涙である。

 

“ 野村吉三郎大将、来栖大使の渡米につづく太平洋戦争開戦の報――「米英と戦闘状態に入れり」という発表も、私はここできいた。予測していたことではあったが、このニュースは私の心を真暗にした。いまとなっては誰もが知っているように、それは、国際的な規模での「民主主義」陣営にたいする、日・独・伊等侵略陣営の攻撃の一環として発動された不正義の侵略戦争であり、日本民族を破滅のどん底に叩きこむものだった。

 おもえば、一九三六年末、いろいろの条件の組みあわせと、獄外の同志のもとめに応じ、敵をあざむくために恥を忍んで偽装転向して出獄以来、中国への侵略戦争に反対し革命運動と党の再建のために全力をあげてきた私たちではあった。が、いま、力足らず、敵の手にとらわれて破滅的な戦争開始の報を、看守の好意によってきかされる不甲斐なさ! われわれの力がつよく、せめて労働者階級と青年たちの目だけでも開かせ、もっと強くこの戦争に反対することができていたならと、胸は痛んだ。明日の運命をも知らずに宮城にむかう大群衆の足音、天地をゆすぶるような万歳の声、人びとの心をかりたてるような軍歌と軍楽隊のとどろきが地下室の留置場までひびいてくるのを、なすすべもなくじっときいているくやしさ。にじみでる涙もおさえきれなかった。”


神山茂夫「獄中・太平洋戦史」『わが遺書』現代評論社、1975年2月25日初版[初出1954年6月]、209頁より引用)

 

 

 太宰治が「いやだなあ、という気持ちは、少しも怒らない。こんな辛い時勢に生まれて、などと悔やむ気がない」と感じた日、高村光太郎が「世界は一新せられた。時代はたった今大きく区切られた。昨日は遠い昔のようである」と感涙に浸っていた日、警視庁の留置場に囚われていた神山茂夫は、自らの革命運動がこうなる前に、当時の日本にあって有効な反戦運動を作れなかったことを悔やみ、悔し泣きに涙を流していたのであった。

 1945年8月15日以後を生きている我々は、76年前の12月8日に対するこの獄に囚われていた共産主義者の革命家の認識が、近代日本文学の小説と詩にあって、それぞれ最高峰にいた文学者の認識を超えていたことを知っている。戦時下で続く自らの治安維持法違反の裁判に際し「ケチな小細工をせず、サッパリと新法を適用して死刑にしてみろ、と嘲笑しながら無罪を主張した」*2神山茂夫は、戦争末期の連日米軍の空襲が続く日々の中で、日本の敗戦の必至と即時の無条件降伏を法廷で訴えながら、遂に1945年8月15日を迎えたのだった。

 

“ この日も、法廷ではなく、裁判長の部屋にとおされた。私が入ってゆくと裁判長はすぐたちあがった。彼はキラキラ光る目でじっと私の目をみつめていた。やがて口をひらいて「神山、さっきのラジオきいたか」とたずねた。私はぶっきら棒に「きくわけがないじゃないか。きかせないためにこそ、いれてあるんじゃないか」とこたえた。「そうか……じゃあ言うが……日本は負けちゃったんだ……お前の言うとおりになっちゃったんだ……さっきラジオで天皇陛下が自分で放送されたのだ」とおしころした声でいいながら目にいっぱいの涙をたたえた。”


神山茂夫「獄中・太平洋戦史」『わが遺書』現代評論社、1975年2月25日初版[初出1954年8月15日]、232頁より引用)

 

 開戦時に革命家として被告人席にあった神山茂夫が流した悔し涙は、敗戦時には被告人と正対していた裁判長の流すものとなったのだ。

 世に正しいことほど強いものはない。仮に一時敗北しようとも、汚辱にまみれ、失意の日々を過ごすことになろうとも、その行いが真に正しい行いならば、時を超えてその旗印を拾い上げ、後に続く者が必ず現れる。

 神山茂夫がその生涯を通して、共産主義についてマルクスエンゲルス、レーニン、スターリンの言葉を引用しながら書いたことは、今日、その大部分を投げ捨ててしまっても良いと私は考えている。しかし、共産主義の崩壊後にあって、日本の社会主義者が新たな社会主義運動の構築のためにマルクス主義を放棄したとしても、決して、かつての日にマルクス主義者だけが持ち得たこの姿勢だけは放棄してはならない。神山茂夫の涙の後に続こう。日本にあって、反戦と人民の正義の赤旗を掲げることができるのは、大逆事件の後も、76年前の12月8日も、そして今日にあってさえも、社会主義者だけなのだ。

 私は、できることなら牢獄に入りたくはないが、もし自らの抱く主義主張のためにそうなる日が来たら、自分は神山茂夫の悔し涙に続く者だと、そう胸を張りたい。

 

*1:残念ながら今回この稿を書き上げるまでに、この件についての荒畑寒村の著述が掲載された『世界』昭和33年6月号を私は入手することができなかった。苦肉の策ではあるが、典拠とした判沢弘『土着の思想』紀伊國屋書店、1994年1月25日第1刷発行、81頁より、判沢氏の記述を引くことにする。”…山川が、第一次日本共産党創立ならびに解党に際しての役割と責任を自認しようとしない点、あるいは、太平洋戦争の初期、彼が荒畑に「対米戦争に参加したい」と洩らした心の機微などについて、戦後黙秘して語らない点、荒畑は不信の言を吐いている。(雑誌「世界」昭和三十三年六月号)”

*2:「歴史の審判――八・一五前後の法廷記録――」『神山茂夫著作集 第四巻』三一書房、1975年7月31日第一版第一刷発行、11頁。