twitterのアカウントを消してわかったこと

昨年から今年にかけての私は、twitterに依存しすぎだったので、自分からtwitterを取り除いたら何が残るのかを見定めるために4週間、アカウントを削除して過ごす実験を行った。

結局、わかったことは簡単なことで、自分はやはり今のこの日常生活を飛び出して行くことはできなかったし、たぶんこれからもできないだろうけれども、自分の生活の中で少し無理をしつつ、日々を精一杯生き抜かなければならない、ということだった。

 


4週間の間に世の中は動いている。米朝首脳会談の決定、つまり極東での妥協を選ぶと共に強硬化する、イラン・イスラーム共和国を睨んだアメリカ合衆国の中東政策と、その一環としての米英フランス軍によるシリア爆撃。私はアサド大統領のシリア軍による反体制的シリア人民への化学兵器使用のニュースを見ながらも、イラク戦争のことを考えながらこの空爆に釈然としないものを感じつつ、結局のところ、駐日米大使館の前で赤旗を掲げながら反米・反シリア空爆を主張するというようなことは遂に行わなかった。たぶん、これからも行わないだろう。特にシリアに関する知識を持たない、むしろ無知と言っても良い私が今のところ言い得ることとしては、一刻も早くシリアの人々が殺し合わずとも済むようになる日が来て欲しいということと、空爆は恐らくそのような条件を作ることを遠ざけるだろうということしかない。


マルクス主義者の職業革命家であったレーニンは、社会民主主義者の理想について1902年に、

“……一言でいえば、どの労働組合の書記でも、「雇い主と政府とにたいする経済闘争」をおこなっているし、またおこなうことを助けている。ところで、こういうことはまだ社会民主主義ではないこと、社会民主主義者の理想は、労働組合の書記ではなくて、どこでおこなわれたものであろうと、またはどういう層または階級にかかわるものであろうと、ありとあらゆる専横と圧制の現われに反応することができ、これらすべての現われを、警察の暴力と資本主義的搾取とについての一つの絵図にまとめあげることができ、一つひとつの瑣事を利用して、自分の社会主義的信念と自分の民主主義的諸要求を万人の前で叙述し、プロレタリアートの解放闘争の世界史的意義を万人に説明することのできる人民の護民官でなければならないということは、どんなに力説しても力説し足りない。”
(ヴェ・イ・レーニン/村田陽一訳『なにをなすべきか?』大月書店〈国民文庫110〉、1971年7月30日第1刷発行、1990年6月28日第40刷発行、122頁より引用。傍点省略。)

と述べているが、私は「自分の社会主義的信念と自分の民主主義的諸要求を万人の前で叙述し、プロレタリアートの解放闘争の世界史的意義を万人に説明することのできる人民の護民官」には、やはり遂になれなかった。複雑極まりないシリアの情勢について学び、学んだことをわかりやすく一つの絵図にまとめあげ、シリア人民の平和と利益にとって何が重要なのかを示しながら米英フランスの帝国主義と対決することよりも、私には自分の勉強時間や読書時間や睡眠時間を確保することの方が重要だったのだ。

私は社会主義者だがもはやマルクス主義者ではないし、今後も決して、レーニンのような職業革命家になることはないだろう。自分が職業革命家になってやっていけるとは思えないし、そう思えないという事は、つまり自分は職業革命家になりたくないのだ。

 

以上のようにこの4週間で私は自分のことが良くわかった。私は普通の、大義よりも私生活の方が大切な凡庸な人間である。ただ、SNSから影響を受けない地点で過ごす自分が良くも悪くも自分が今まで思っていたよりは普通の人間であると思い知った後も、やはり自分の人間としての尊厳の根底には赤色戦士としての意地(残念ながら「誇り」と言えるほど立派なことは行えていない)があった。


というのも、既にこのブログに書いてきたようなこと、ざっくり言ってしまうと「大逆事件以後の日本に於いて社会主義者であるということについての知的道徳的な意義の再評価」及び「スターリン主義を繰り返す訳にはいかないが、にもかかわらず、スターリン主義の総本山であったソ連が崩壊した後の世界にあって、国際共産主義運動の挙げた成果(1930年代の人民戦線と、第二次世界大戦中のナチスファシスト枢軸占領下のフランス、イタリア、中東欧諸国のレジスタンスやパルチザン、日本の神山茂夫らによる非転向闘争、1949年の中華人民共和国成立など)が、やはりスターリン主義によるものであったという事実についての思想的決算」、この二点についての言及は、「人民の護民官」にはなれない、なりたくない私が行えることであり、今後の人生にあって行うべきことだろうと、自分の底を知った後も感じるのだ。私はラッサールやレーニンや幸徳秋水大杉栄神山茂夫のような一流の職業革命家には遠く及ばないが、週末革命家としてはまだ行うべきことがある。それで十分だろう。


今後、どこまでできるかはわからないけれども、生活の中で生活を優先しつつ、少しだけ無理をしてやっていこう。日々を生き抜こう。

最後に、私の好きな小説と演説から引用することで、本稿を閉じることにする。

 

 

" パーヴェルは頭からしずかに帽子をぬいだ。そして悲しみ、大きな悲しみが彼の心をみたした。
人間にあって最も貴重なもの――それは生命である。それは人間に一度だけあたえられる。あてもなくすぎた年月だったと胸をいためることのないように、いやしい、そしてくだらない過去だったという恥に身をやくことのないように、この生命を生きぬかなければならない。死にのぞんで、全生涯が、そしてすべての力が世界で最も美しいこと――すなわち人類の解放のためのたたかいにささげられたと言いうるように生きなければならない。そして生きることをいそがなければならない。ばかげた病気や、あるいはなにか悲劇的な偶然のできごとが生命を中断させてしまうかもしれないからだ。
このような考えにとらわれて、コルチャーギンはなつかしい墓地を去った。"
(N.オストロフスキー/金子幸彦訳『鋼鉄はいかに鍛えられたか 下巻』岩波書店岩波文庫、1955年12月5日第1刷発行、1978年3月20日第23刷発行、102頁より引用)


“ 諸君、幸徳君らは時の政府に謀叛人と見なされて殺された。が、謀叛を恐れてはならぬ。謀叛人を恐れてはならぬ。みずから謀叛人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀叛である。「身を殺して魂を殺すあたわざる者を恐るるなかれ。」肉体の死は何でもない。恐るべきは霊魂の死である。人が教えられたる信条のままに執着し、言わせらるるごとく言い、させらるるごとくふるまい、型から鋳出した人形のごとく形式的に生活の安を偸んで(ぬすんで)、一切の自立自信、自化自発を失う時、すなわちこれ霊魂の死である。われらは生きねばならぬ。生きるために謀叛しなければならぬ。古人はいうた、いかなる真理にも停滞するな、停滞すれば墓となると。人生は解脱(げだつ)の連続である。いかに愛着するところのものでも脱ぎ棄てねばならぬ時がある。それは形式残って生命去った時である。「死にし者は死にし者に葬らせ」墓は常に後にしなければならぬ。幸徳らは謀叛して死んだ。死んでもはや復活した。墓は空虚だ。いつまでも墓にすがりついてはならぬ。「もし汝の右目なんじを礙(つまず)かさば抽(ぬき)出(だ)してこれをすてよ。」愛別、離苦、打克たねばならぬ。われらは苦痛を忍んで解脱せねばならぬ。繰り返していう、諸君、われわれは生きねばならぬ。生きるために常に謀叛しなければならぬ。自己に対して、また周囲に対して。
 諸君、幸徳君らは乱臣賊子として絞台の露と消えた。その行動について不満があるとしても、誰か志士としてその動機を疑い得る。西郷も逆賊であった。しかし今日となって見れば、逆賊でないこと西郷のごとき者があるか。幸徳らも誤って乱臣賊子となった。しかし百年の公論は必ずその事を惜しんでその志を悲しむであろう。要するに人格の問題である。諸君、われわれは人格を研くことを怠ってはならぬ。”
徳富蘆花「謀叛論」小田切秀雄編集『現代日本思想大系17 ヒューマニズム』、筑摩書房、1964年3月15日発行、133-134頁より引用)

 

『serial experiments lain』を観終えた

道すがら散りかふ花を雪とみてやすらふごとにこの日暮らしつ

                       (金槐和歌集65)

 

 

風が吹く。雲が流れる。永遠に続くかのような夕暮れ時の中、まるで雪の如くに桜が舞い落ちる。

 

今日は半年ぶりにジョギングをしてきた。根っから体力がない人間なので、1.5kmほどでヘトヘトになる。自分に体力がないことを意識するのは悲しいが、少し走るだけでも何も考えられないほど消耗できるのは、その間だけでも何も考えなくてもよい時間を持てるということでもある。きっと幸せなことなのだろう。


昨日、Chaykaさんが『ガサラキ』と共に激賞していた『serial experiments lain』を視聴し終えた。具合が悪い時に見る夢といった趣で、正直なところストーリーはよくわからなかったが、最終話の「記憶にない人間は、最初からいないも同じ」(概要)というメッセージには思うところがあった。今まで関りのあった人達の中で、僕はどれだけの人に記憶されているのだろうか。50年経った後、どれだけの人が僕のことを憶えているだろうか。そういえばというか、今までずっとリアルワールドでは人の記憶に残らないように振る舞いつつ、逃げるようにインターネットで思い思いに過ごしてきたんだった。それではまずいと思いつつも、肉体を持った現実の自分とインターネット上の情報としての自分を上手く統合できない。きっと、今でさえ現実の自分を認識している人よりも、情報としての自分を認識している人が多いのではないか。どうにかセルフイメージと現実の自分と情報の自分を、もう少し統合したい。

先週このブログに書いたように、twitterのアカウントを一旦、削除したのも、情報の自分が肥大化しすぎているのがまずいと思ったからだ。急進的かつ革命的ではありたいけど、自分は革命戦士でも職業革命家でもない。一回の社会主義者に過ぎない。もしそのことを忘れてしまえば、今に誰の胸にも訴えられない言葉しか出せなくなるだろう。気を付けないと。


もしも現在立てている計画が、全て順調に進めば、今年は年始から年末まで実家で過ごす最後の一年になる。

今日で2017年度が終わる。物心ついたころからずっと自分の存在が、自分が生きていることが、何か汚いことのような気がして罪悪感を抱いていたが、残った時間を自分にしてはよくやったと、死ぬ前に自分に言える程度に頑張ろうとそう決めたんだから、新年度も頑張ろう。

 

 

塔を組み堂をつくるも人の嘆き懺悔にまさる功徳やはある
                      (金槐和歌集616)

 

またしばらくtwitterから消えます

ようやく年始から計画していた花見を無事に終えられました。良い機会なのでまたしばらくtwitterから消えます。例によって一月ほどで戻ってくるので、またその時は相手してくれたら嬉しいです。

 

以下、理由を記しておきます。

 

第一に、今に限ったことではないのですが、最近特に、何につけても人の目や意見を気に掛けるようになってしまって気が休まらなくなってしまいました。自分の考えたことや感じたことが、自分自身の意識が世の中の平均からは大きくずれているということを考慮しても、常にこれでいいのかを気にすることに疲れてしまっているのですね。とあるニュースについて意見を持ってtwitterで感情を昂らせて憤ったり、喜んだりしても、インターネットの大河を流れる一滴の水にすぎないのに、それでも自分とは異なる意見の持ち主のことを考えてしまうと自分の感情は確実に揺さぶられ、疲弊している。それならば異なる意見の持ち主のことなど考えなければ良いのではないか、という意見もあるわけですが、それに慣れてしまうとあっという間に独善的な人間になることは間違いないわけで。そうはなりたくないから、というのがまず一点。

 

次に問題なのは、現実の自分とtwitter上の自分のギャップが日々開いていることです。かつて発狂した後、症状が落ち着いた現在は障害者雇用で働きつつ、今の雇用形態や年収の低さを打開するために資格の勉強をしている発達障害者でしかない現実の日常生活の自分と、ラッサール、幸徳秋水大杉栄神山茂夫社会主義者の系譜に続き、理想としては大日本帝国が為してきた国家悪と対決しようと思いつつ、自分のできる限りで街頭で赤旗を掲げたりプロパガンダを行っている赤色戦士であるtwitter上の自分の間にあるギャップが日々開き続けているのが、少しまずいように思えてきたのです。どちらも自分であり、自分が主義主張を掲げ、その実現者として自らを鍛えることなしに生きていけないタイプの人間であることは嫌というほど意識していますが、現状は観念が肥大化しすぎており、しかもそれが何となく受容されてしまっているのはまずい。私は結局のところレーニンのような職業革命家にはなれなかった人間であり、今後もそうなることはないのだからこそ、労働者たる生活者として地に足をつけながら。ギリギリのところでラディカルな社会主義者であり続けなければならないのに、今のままだと自分がなりたくなかった独善的な活動家になってしまいそうなのが
怖い。これが二点目です。

 

最後に、思ったことや感じたことをその場で吐き出せてしまうということ自体が、根本的にまずいような気がしてならないのです。もちろん、自分なりの基準は存在し、それをクリアした上でツイートするように心がけてはいるのですが、モヤモヤした感情をモヤモヤしたまま公開していると、それ自体が自傷行為のように自分の精神衛生を追い込んでいるのではないか。もう少し思ったことを言わないことこそが、今の自分にとっての自愛なのではないか。今年、2018年は自分にとっての転機となるであろう一年なのに、今やるべきことを疎かにしてまでSNSにかまけていいのか。

 

というわけで、少し人のことを気にせず自分のことに専念するために、またしばらくtwitterから消えます。アカウントを残しているとつい覗き込んでしまうので、削除しておきます。4月の後半に戻ってくるはずです。当ブログと読書メーターhttps://bookmeter.com/users/563612)は続けているので御用があればそちらまでお願いします。それでは。

太宰治、高村光太郎、神山茂夫:76年前の日米開戦の日の涙を振り返って

 今日、2017年12月8日は1941年12月8日の日米開戦から、実に76年目である。あの日本海軍の攻撃機によって星条旗が破れ、巨艦が沈んだ12月8日の朝から、一人の人間が一生を終えられるほどの時間が経ってしまった。今日は少し、このことについて振り返ることにしよう。

 

 太宰治は日米開戦から2か月後に、妻である津島美智子氏の視点を借りて書いた小説『十二月八日』を発表している。この日より一年半ほど前に『走れメロス』を書き上げていた太宰は、1941年12月8日をこのように記していた。

 


“ 十二月八日。早朝、蒲団の中で、朝の仕度に気がせきながら、園子(今年六月生まれの女児)に乳をやってると、どこかのラジオが、はっきり聞こえてきた。
 「大本営陸海軍部発表。帝国陸海軍は今八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」
 しめ切った雨戸のすきまから、まっくらな私の部屋に、光の差し込むように強くあざやかに聞こえた。二度、朗々と繰り返した。それを、じっと聞いているうちに、私の人間は変わってしまった。強い光線を受けて、からだが透明になるような感じ。あるいは、聖霊の息吹きを受けて、つめたい花びらをいちまい胸の中に宿したような気持ち。日本も、けさから、ちがう日本になったのだ。”
(中略)
 台所で後かたづけをしながら、いろいろ考えた。目色、毛色が違うという事が、之程までに敵愾心を起こさせるものか。滅茶苦茶に、ぶん殴りたい。支那を相手の時とは、まるで気持ちがちがうのだ。本当に、此の美しい日本の土を、けだものみたいに無神経なアメリカの兵隊どもが、のそのそ歩き回るなど、考えただけでもたまらない。此の神聖な土を、一歩でも踏んだら、お前たちの足が腐るでしょう。お前たちには、その資格が無いのです。日本の綺麗な兵隊さん、どうか、彼等を滅っちゃくちゃに、やっつけて下さい。これからは私たちの家庭も、いろいろ物が足りなくて、ひどく困る事もあるでしょうが、御心配は要りません。私たちは平気です。いやだなあ、という気持ちは、少しも怒らない。こんな辛い時勢に生まれて、などと悔やむ気がない。かえって、こういう世に生まれて生甲斐をさえ感ぜられる。こういう世に生まれて、よかった、と思う。ああ、誰かと、うんと戦争の話をしたい。やりましたわね、いよいよはじまったのねえ、なんて。”


太宰治「十二月八日」『昭和戦争文学全集4:太平洋開戦――12月8日――』昭和戦争文学全集編集委員会編、集英社、1964年8月30日発行[初出1941年2月]、193-194頁、196頁より引用)

 

 戦後の学校教育やマスメディアによる記憶継承の過程では上手く伝えられなかったことではあるが、76年前の今日、多くの人々は対米英開戦を心の底から祝っていた。日米開戦の10年前に当たる1931年の満洲事変勃発以来、中国(当時は中国国民党蒋介石総統指導する中華民国)とのいつ終わるとも知れぬ戦争の泥沼の中から、中国を背後で軍事的・経済的に支援していた米英に対して宣戦布告したことによって、それまでの亜細亜人同士の戦争を黄色人種対白色人種にスライドさせて視る視点が、軍人、政治家、宗教家、右翼活動家といった大日本帝国のイデオローグのみならず、実業家や知識人、文学者、芸術家、そして民衆に至るまで、億兆心ヲ一ニシテ共有されたのである。本稿の目的はそのことを糾弾することではない。ただ、事実として、1941年の12月8日を多くの人々が歓喜の中で祝っていたことと、戦後のある時期に戦時中に集団で戦争に熱狂していたことが忘れ去られてしまい、戦争末期の空襲その他による被害者としての記憶ばかりが残ったという事実は、忘れられるべきではなかったと私は考えている。

 太宰治の『十二月八日』に戻ろう。「私」の一人称でこの小説の主人公となっている津島美智子氏が実際にこのように感じていたのかは不明であるが、少なくともこの小説を書いた時の太宰治が、日米開戦の報を聞いて、ある程度は「こういう世に生まれて、よかった、と思う」ような気持ちで12月8日を記憶していたとは言えるのではないか。

 多くの人が様々な理由から日米開戦に歓喜していたが、太宰治が「強い光線を受けて、からだが透明になるような感じ。あるいは、聖霊の息吹きを受けて、つめたい花びらをいちまい胸の中に宿したような気持ち。日本も、けさから、ちがう日本になったのだ」と書いたように開戦を捉える感覚。より正確に言えば、日米開戦によって自分と日本何かが共に変わったとして、その変化を新鮮に受け止める感覚は、時代感覚に鋭敏であるべき文学者にあって、書き記すべき感覚であったようだ。詩人、高村光太郎は同日をこのように振り返っている。

 

“ 今度の第二回中央協力会議開会の当日は実に感激に満ちた記念すべき日となった。ちょうど対米英宣戦布告大詔渙発の日となったのである。
(中略)
 世界は一新せられた。時代はたった今大きく区切られた。昨日は遠い昔のようである。現在そのものは高められ確然たる軌道に乗り、純一深遠な意味を帯び、光を発し、いくらでもゆけるものとなった。
 この刻々の瞬間こそ後の世から見れば歴史転換の急曲線を描いている時間だなと思った。時間の重量を感じた。十二時近くなると、控室に箱弁と茶とが配られた。箸をとろうとすると又アナウンスの声が聞こえる。急いで議場に行ってみると、ハワイ真珠湾襲撃の戦果が報ぜられていた。戦艦二隻轟沈というような思いもかけぬ捷報が、少し息をはずませたアナウンサーの声によって響きわたると、思わずなみ居る人達から拍手が起こる。私は不覚にも落涙した。国運を双肩に担った海軍将兵のそれまでの決意と労苦とを思った時には悲壮な感動で身ぶるいが出たが、ひるがえってこの捷報を聴かせたもうた時の陛下のみこころを恐察し奉った刹那、胸がこみ上げて来て我にもあらず涙が流れた。”


高村光太郎「十二月八日の記」『昭和戦争文学全集4:太平洋開戦――12月8日――』昭和戦争文学全集編集委員会編、集英社、1964年8月30日発行[初出1941年1月]、230頁、231頁より引用)

 

 高村光太郎太宰治よりも衒いなく、開戦の詔勅を読み上げた際の昭和天皇の心中を察して涙を流してまで、76年前のこの日、日米開戦の報と、それに続く真珠湾攻撃の戦果を喜んでいる。既に述べたように、太宰治高村光太郎に限らず、当時「非国民」ではなかった大日本帝国の大多数の国民にとって、この感覚は共であった。いや、明治時代末の大逆事件以来、「非国民」であった社会主義者からでさえ、明治以来の社会主義者で労農派マルクス主義者の指導者だった山川均は、同じく明治以来の社会主義の同志、荒畑寒村に対して、「対米戦争に参加したい」と洩らしたとのエピソードが伝わっているほどだ*1

さて、詩人である高村光太郎東京市内の中央協力会議の会場で開戦の報を聞き、感激の涙を流していたのと正に同じ頃、東京市内の警視庁の留置場の中にも涙を流している男がいた。先立つこと7箇月前のメーデーの日に第二次日本共産党再建運動の指導者として、治安維持法で検挙された革命家、神山茂夫である。とは言っても、もちろん光太郎の流していた歓喜の涙ではない。自身の革命家としての力が及ばず、日米開戦に至ったことに対する、痛恨の涙である。

 

“ 野村吉三郎大将、来栖大使の渡米につづく太平洋戦争開戦の報――「米英と戦闘状態に入れり」という発表も、私はここできいた。予測していたことではあったが、このニュースは私の心を真暗にした。いまとなっては誰もが知っているように、それは、国際的な規模での「民主主義」陣営にたいする、日・独・伊等侵略陣営の攻撃の一環として発動された不正義の侵略戦争であり、日本民族を破滅のどん底に叩きこむものだった。

 おもえば、一九三六年末、いろいろの条件の組みあわせと、獄外の同志のもとめに応じ、敵をあざむくために恥を忍んで偽装転向して出獄以来、中国への侵略戦争に反対し革命運動と党の再建のために全力をあげてきた私たちではあった。が、いま、力足らず、敵の手にとらわれて破滅的な戦争開始の報を、看守の好意によってきかされる不甲斐なさ! われわれの力がつよく、せめて労働者階級と青年たちの目だけでも開かせ、もっと強くこの戦争に反対することができていたならと、胸は痛んだ。明日の運命をも知らずに宮城にむかう大群衆の足音、天地をゆすぶるような万歳の声、人びとの心をかりたてるような軍歌と軍楽隊のとどろきが地下室の留置場までひびいてくるのを、なすすべもなくじっときいているくやしさ。にじみでる涙もおさえきれなかった。”


神山茂夫「獄中・太平洋戦史」『わが遺書』現代評論社、1975年2月25日初版[初出1954年6月]、209頁より引用)

 

 

 太宰治が「いやだなあ、という気持ちは、少しも怒らない。こんな辛い時勢に生まれて、などと悔やむ気がない」と感じた日、高村光太郎が「世界は一新せられた。時代はたった今大きく区切られた。昨日は遠い昔のようである」と感涙に浸っていた日、警視庁の留置場に囚われていた神山茂夫は、自らの革命運動がこうなる前に、当時の日本にあって有効な反戦運動を作れなかったことを悔やみ、悔し泣きに涙を流していたのであった。

 1945年8月15日以後を生きている我々は、76年前の12月8日に対するこの獄に囚われていた共産主義者の革命家の認識が、近代日本文学の小説と詩にあって、それぞれ最高峰にいた文学者の認識を超えていたことを知っている。戦時下で続く自らの治安維持法違反の裁判に際し「ケチな小細工をせず、サッパリと新法を適用して死刑にしてみろ、と嘲笑しながら無罪を主張した」*2神山茂夫は、戦争末期の連日米軍の空襲が続く日々の中で、日本の敗戦の必至と即時の無条件降伏を法廷で訴えながら、遂に1945年8月15日を迎えたのだった。

 

“ この日も、法廷ではなく、裁判長の部屋にとおされた。私が入ってゆくと裁判長はすぐたちあがった。彼はキラキラ光る目でじっと私の目をみつめていた。やがて口をひらいて「神山、さっきのラジオきいたか」とたずねた。私はぶっきら棒に「きくわけがないじゃないか。きかせないためにこそ、いれてあるんじゃないか」とこたえた。「そうか……じゃあ言うが……日本は負けちゃったんだ……お前の言うとおりになっちゃったんだ……さっきラジオで天皇陛下が自分で放送されたのだ」とおしころした声でいいながら目にいっぱいの涙をたたえた。”


神山茂夫「獄中・太平洋戦史」『わが遺書』現代評論社、1975年2月25日初版[初出1954年8月15日]、232頁より引用)

 

 開戦時に革命家として被告人席にあった神山茂夫が流した悔し涙は、敗戦時には被告人と正対していた裁判長の流すものとなったのだ。

 世に正しいことほど強いものはない。仮に一時敗北しようとも、汚辱にまみれ、失意の日々を過ごすことになろうとも、その行いが真に正しい行いならば、時を超えてその旗印を拾い上げ、後に続く者が必ず現れる。

 神山茂夫がその生涯を通して、共産主義についてマルクスエンゲルス、レーニン、スターリンの言葉を引用しながら書いたことは、今日、その大部分を投げ捨ててしまっても良いと私は考えている。しかし、共産主義の崩壊後にあって、日本の社会主義者が新たな社会主義運動の構築のためにマルクス主義を放棄したとしても、決して、かつての日にマルクス主義者だけが持ち得たこの姿勢だけは放棄してはならない。神山茂夫の涙の後に続こう。日本にあって、反戦と人民の正義の赤旗を掲げることができるのは、大逆事件の後も、76年前の12月8日も、そして今日にあってさえも、社会主義者だけなのだ。

 私は、できることなら牢獄に入りたくはないが、もし自らの抱く主義主張のためにそうなる日が来たら、自分は神山茂夫の悔し涙に続く者だと、そう胸を張りたい。

 

*1:残念ながら今回この稿を書き上げるまでに、この件についての荒畑寒村の著述が掲載された『世界』昭和33年6月号を私は入手することができなかった。苦肉の策ではあるが、典拠とした判沢弘『土着の思想』紀伊國屋書店、1994年1月25日第1刷発行、81頁より、判沢氏の記述を引くことにする。”…山川が、第一次日本共産党創立ならびに解党に際しての役割と責任を自認しようとしない点、あるいは、太平洋戦争の初期、彼が荒畑に「対米戦争に参加したい」と洩らした心の機微などについて、戦後黙秘して語らない点、荒畑は不信の言を吐いている。(雑誌「世界」昭和三十三年六月号)”

*2:「歴史の審判――八・一五前後の法廷記録――」『神山茂夫著作集 第四巻』三一書房、1975年7月31日第一版第一刷発行、11頁。

東京タワーから続いてく道

昨日、東京タワーに登ってきた。銀座から歩いて約25分。御成門駅の近くで間近に333mの赤く光る鉄塔が見えてきた時、思わず映画『横道世之介』の高良健吾のように飛び跳ねてしまった。高さ250mの特別展望台は工事中だったので、150mの大展望台へ。夜景を観ているといつだって、あの小さな明かりの一つ、一つに人間の人生があることに胸を打たれる。車から放たれる小さな赤い光の一台一台に、三連休の最後の日を過ごす人がいて、みんな、どこかに行った帰り道を過ごしていたのだろう。充実したのかもしれないし、退屈したのかもしれない。ただ、2017年の11月5日は、誰にとっても、どんな過ごし方をしたとしても、一度きりのかけがえのない一日だった。


6月に簿記2級の受験を終えてから、自分の中の何かが変わっていることを実感している。それが何なのかがわからないのがもどかしいけれども、とにかく何かが変わってきている。


11月3日の金曜日に、とある方と話すために、話した時に話題に困らないようにと、その人が好きな高野秀行の『ワセダ三畳青春期』(集英社文庫、2003年)を読んだ。僕より21年早く生まれ、僕が卒業した大学の同じ学部を卒業した著者の青春が、まるで『NHKにようこそ!』の佐藤と山崎のように眩しくて、自分には学生時代にこんな青春はなかったのに、何故か妙に感情移入してしまった。不思議で不思議でならなかったから理由を考えてみたら、著者の高野さんが早稲田の3畳間で過ごした日々に相当するのは、僕にとっては2012年の9月から2015年の1月までの、精神的におかしくなって労働も勉強もせず、ただ本を読んでtwitterに打ち込んでいただけの、あの日々のことだったんだと気が付いた。ロヒプノールという強い睡眠導入剤を飲みながら、1日1冊本を読み、薬でフラフラになった頭で読んだ本のノートを取り、文芸同人誌に寄稿するための原稿を書き、時には酒を飲みながらtwitterの人と本の感想を話し合う。ある秋の日に突然、親しかった人が自殺したことをきっかけに、ハローワークに通うことを決め、働くために薬も断薬したのでそんな生活も終わってしまったけれども、25歳から27歳までの貴重な日々をそんな生活に費やしてしまった。今思えば、あれは自分の精神の治療であり、そして、遅れてきた青春だったのだろう。いつまでもあんな生活を続けられると思って買い込んだ大量の本の内の約8割は、恐らく死ぬまで読めないのだろう。『劇画毛沢東伝』と『ドラえもん』と『NHKにようこそ!』の三冊の漫画を座右に、世間からも自分からも逃げて永遠に続くと思われたあの日々は、今となっては二度と戻らない一度きりのかけがえのない日々だった。


過ぎ去ってしまったあの日々も、東京タワーから観た夜景も、同じ日にトランプ大統領の訪日だと騒いでいた人々の体験も、いつかは過去になる。それは寂しいことだけれども、同時に慰めでもある。それは荒野の叫び声。それはミッドナイトブルース。それは絵葉書に描かれた憂い顔。それは多くなる笑い声。


やっぱり何かが終わったんだろう。けれども、これは青春の終わりではないと思う。まだもう少し、恥ずかしい日々を続けなければならない。恥ずかしくなるほど真面目に生きなければならない。


来年には答えが出るだろう。東京タワーから続いていく道を、僕はもう少し歩き続けられそうだ。

 

ぼくらが旅に出る理由

ぼくらが旅に出る理由

 

エキタスの「上げろ最低賃金デモ」についての雑感

 本日、4月15日(土)、エキタスが主催する「上げろ最低賃金デモ」に参加するので、参加に当たって思ったことを少しだけまとめてみました。

 

 なお、私自身はエキタスの一員でも、その他の政党、政治団体、社会運動体などの構成要因でもないため、以下述べることは全て私個人の責任で述べることであり、今回のデモの運営者の思想とは無関係であることをここに記します。また、私自身はマルクス主義者ではないこと(社会民主主義者です)も明記しておきます。

 

 

 1867年(慶應3年)にロンドンに亡命中のカール・マルクスは、労働運動について次のように述べました。

 

“ 資本は集積された社会的な力であるのに、労働者が処理できるのは、自分の労働力だけである。したがって、資本と労働のあいだの契約は、けっして公正な条件にもとづいて結ばれることはありえない。それは、一方の側に物質的生活手段と労働手段の所有があり、反対の側に生きた生産力がある一社会の立場からみてさえ、公正ではありえない。労働者のもつ唯一の社会的な力は、その人数である。しかし、人数の力は不団結によって挫(くじ)かれる。労働者の不団結は、労働者自身のあいだの避けられない競争によって生みだされ、長く維持される。

 最初、労働組合は、この競争をなくすかすくなくとも制限して、せめてたんなる奴隷よりはましな状態に労働者を引き上げるような契約条件をたたかいとろうという労働者の自然発生的な試みから生まれた。だから、労働組合の当面の目的は、日常の必要をみたすこと、資本のたえまない侵害を防止する手段となることに、限られていた。一言で言えば、賃金と労働時間の問題に限られていた。……”

(「中央評議会代議員への指示」『マルクスエンゲルス全集 第16巻』大月書店、東京、1968年10月30日第4刷発行、195頁より引用)

 

 

 

 日本社会で労働をしたことがある人ならば誰でもわかるように、現在、働く人々の労働条件は日常的に侵害されています。特に政治に関心がなく、左翼なんて大嫌いだという人であっても、アルバイトでさえ過労死、サービス残業、休日出勤、雇い止めといった言葉に象徴される、生きるために低賃金高時間労働を行わなければならない職場の事実を全く何も問題だと思わない人は、まず少数派でしょう。

 

 

 マルクスが述べるように、原初的な労働運動は、19世紀半ばの労働者が自らを資本のたんなる奴隷よりはましな状態に引き上げるため、賃金と労働時間の問題に当面の要求を限定する形で、自然発生的に誕生しました。それから、19世紀後半に労働者階級の政党(社会民主党)が誕生し、20世紀にソ連や中国など、労働者階級の革命的前衛党(共産党)が指導する社会主義国が誕生すると、労働運動は労働者の利益を代表することをアイデンティティとする政党や国家の政治方針に規定され、その指導の枠組みの中で活動することを、成立の経緯上余儀なくされる局面が多くなったのです。各国の社会民主党共産党社会主義国による各国の労働運動の指導。これについては勿論、良い面も多々あったのですが、反面で、労働運動を党利党略や国策に引き回す結果をも生み出しました。我々が生きる1991年にソ連が崩壊した後の世界は、この党や国家による引き回しを受動的に支持してきた労働運動が、その功罪を思想的に総括しなければならなくなった局面で、何をなすべきかについての指針が打ち出せなくなった結果、資本の浸透を許すことに成功してしまった時代です。

 

 恐らく、このような状況だからこそ、労働運動は初心に戻り、労働者階級の革命的前衛を称する党や国家による引き回しが起こる以前の「賃金と労働時間の問題」(マルクス)を主題にすることによって、自らの再生を遂げなければならないのでしょう。

 

 私は共産党員でも社民党員でも新左翼諸党派の一員でも労働組合員でさえもありませんが、今回のエキタスのデモに「たんなる奴隷よりはましな状態に労働者を引き上げるような契約条件をたたかいとろうという労働者の自然発生的な試み」(マルクス)を発見することを望み、参加を決めました。

 

 

 皆さんも予定が合えば私達と新宿を歩きましょう。

 

 万国の労働者、団結せよ!

 

aequitas1500.deci.jp

書評:橋本伸也、沢山美果子〔編〕『保護と遺棄の子ども史』昭和堂、京都、2014年6月20日初版第1刷発行。

 昨年のクリスマス期間にtwitterAmazonウィッシュリストを公開したところ、なんとF氏より

 

*橋本伸也、沢山美果子〔編〕『保護と遺棄の子ども史』昭和堂、京都、2014年6月20日初版第1刷発行。

 

 

*田澤佳子『俳句とスペインの詩人たち:マチャード、ヒメネス、ロルカとカタルーニャの詩人』思文閣出版、京都、2015年12月15日

 

の2冊を御贈りいただけました。

 

 全く有り難いばかりで言葉もないのですが、感謝の意を込めて今日、遅ればせながらいただいた本の内、『保護と遺棄のこども史』の方を簡単に書評することします。

 

 

 “本書は、日本史、ヨーロッパ史、イスラム史、法制史など多様な分野の研究者が、出生以前の胎児や出生直後の乳児も含めた子どもの「保護と遺棄」のあり方を歴史的に読み解くという主題に取り組んだ論文集である”(沢山美香子「あとがき」313頁より)と編者によって述べられている通り、本書は学際的ながらも近世~20世紀前半の子どもに対する視線が、世界中で「保護」と「遺棄」の双方を揺れ動いてきたことを明らかにしているものである。こう書くとわかりづらいが、たとえば親に遺棄された孤児を保護するはずのロシアの児童養護施設が、現実には保護の役割を果たせずにあり、また、そのような施設から孤児を引き受けた養父母によっても、残念ながら常に適切な保護が実現されるという訳ではないという例が橋本伸也による本書の「序」では挙げられているが、このように”「保護」と「遺棄」とが情況に応じて継起的・連続的に入れ替わったり、そもそも同じコインの二つの面であったりすること」(橋本伸也「序」9頁)という複雑な現象を指しているとのことである。

 

以下、参考までに目次を挙げると

*橋本伸也「序」(1-22頁)

第Ⅰ部「問題群と研究動向」

*沢山美果子「第1章 保護と遺棄の問題水域と可能性」(25-45頁)

*岩下誠「【視点と論点①】福祉国家・戦争・グローバル化――一九〇年代以降の子ども史研究を再考する」(46-56頁)

*金澤周作「【視点と論点②】チャリティとポリス――近代イギリスにおける奇妙な関係」(57-64頁)

第Ⅱ部「「捨て子」の救済と保護・養育」

*沢山美果子「第2章 乳からみた近世日本の捨て子の養育」(67-99頁)

*中村勝美「第3章 近代イギリスにおける子どもの保護と養育」(100-128頁)

*岡部造史「第4章 統治権力としての児童保護――フランス近現代史の事例から」(129-152頁)

*江口布由子「第5章 近現代オーストリアにおける子どもの遺棄と保護」(153-179頁)

第Ⅲ部「「保護と遺棄」の射程と広がり」

*三成美保「第6章「保護/遺棄」の法的基準とその変化――ドイツを中心に」(183-214頁位)

*山崎和美「第7章 慈善行為と孤児の救済――近代イランの女性による教育活動」(215-241頁)

*中野智世「第8章 「瓦礫の子どもたち」・「故郷を失った若者たち」――占領下ドイツにおける児童保護」(242-268頁)

*北村陽子「【視点と論点③】両次世界大戦期ドイツの戦争障害者をめぐる保護と教育」(269-275頁)

*高岡裕之「第9章 戦時期日本における「児童保護」の変容――人口政策との関連を中心に」(276-305頁)

*河合隆平「【視点と論点④】総力戦体制下における障害児家族の保育と育児」(306-312頁)

*沢山美果子「あとがき」(313-315頁)

 

 となっている。一読してわかるように、本書で私が馴染み深い日本の子ども史を扱ったのは第2章の沢山論文と第9章の高岡論文しかなく、また、時代的には18世紀~20世紀の事例が主な研究対象となっているものの、岩下論文がフィリイップ・アリエスの『〈子供〉の誕生』によって子ども史研究が如何に変化したかを論じているように、全体的に研究史に踏み込んだ、この学問領域に強く関心のある人々向けの本となっている。

 

 無論、第9章の高岡論文で1938年の厚生省創設を陸軍の意向とみる従来の見解に対して、内務省主導説が紹介される(280頁)など、個々、新たに得た知見は多々あれども、それについて書き記すと膨大かつ煩瑣な記述となってしまうので、ここではこのような書物を、特に学者でも教育行政に携わる行政官でもない人間が読むことの意義について少しだけ考えてみたい。

 

 先ほど少し触れた岩下誠氏はアリエスの『〈子供〉の誕生』によって生まれた日本の教育言説について、興味深いことを述べているので引用しよう。岩下氏は80年代以降の日本の家族や学校についてしばしばマスメディア上で喧伝される危機のイメージを念頭に、以下のように述べている。

 

“ 問題は、アリエス路線の子ども史研究が、このようなマスコミ主導の危機イメージを歴史的、実証的に検証するというよりもむしろ、そうしたイメージに無批判に追従し、いたずらに危機を煽るような文脈で利用されたということである。八〇年代におそらくは自覚的に選択されたのであろうこの戦略は、しかし同時代に政策レベルで進行していた新自由主義への転換を認識できなかったばかりか、現在に至っても、危機を煽って改革を唱える新自由主義(と新保守主義)への対抗軸となりえず、むしろ――意図せざる結果であろうが――それに棹差すような役割すら演じてしまっている。アリエスに依拠した「子どもの解放」という八〇年代的な課題設定は、学問的な基盤を失っているだけでなく、新自由主義新保守主義へと回収されることによって、国内的にもグローバルにも政治的に無力化している。……”

(本書所収、岩下誠「【視点と論点①】福祉国家・戦争・グローバル化――一九九〇年代以降の子ども史研究を再考する」54-55頁より引用)

 

 つまり、日本にあってアリエスは新自由主義(「聖域なき構造改革!」)の伴走者として機能してしまったということなのだけれども、恐らくは導入者たちが意図していなかったこの輸入学問の政治的効果を考える際に、同じく輸入学問でありながらも、結局は総力戦遂行の知的部門と化してしまった1935年~1945年までの日本マルクス主義の影を見ることは不可能ではないし、また、学者が自信を持って饒舌に語る発想が、必ずしも市民にとって利益となる訳ではないということを私は本書で知ることができた。

 

 おそらくは、「危機を煽って改革を唱える」人々(いつの時代も決して少なくはない)に対して、本書の各論文が示した事実の力によって冷静さを保つ術を得ることこそが、本書のような極めて専門性の高い文献を私の如き一市民が読むことの意義なのではないか。そのようなことを考えるための、私にとって誠に有意義な時間をこの文献と共に下さったF氏に感謝を捧げつつ、本稿を閉じたい。ありがとうございました。