反ユダヤ主義を克服できなかったユダヤ人国家イスラエル(パレスチナとイスラエルの戦争に関する時事解説)

はじめに

2023年10月7日、パレスチナ武装勢力の攻撃により、イスラエルパレスチナの武力衝突が始まりました。真に残念ながら双方に多数の死傷者が出ており、これ以上の犠牲者が出る前に、双方が早期に戦闘を終えることを強く望みます。

本稿は、なぜ西アジアユダヤ人の国民国家イスラエルが建国されたのか、そしてイスラエルが建国されたことが、ユダヤ人にとってどのような歪みをもたらしているのかについて論じるものです。その意味で、本稿は「パレスチナ抜きのパレスチナ問題」の解説となります。不十分であることを恥じつつ、このような方向からの時事解説は余りないと思うため、空隙を埋めることに寄与すれば望外の幸いです。

 

 

本稿の概要

イスラエルはヨーロッパのユダヤ人差別への反差別運動の結果として生まれた
・ヨーロッパのユダヤ人差別にはキリスト教、右翼陰謀論、左翼社会主義によるものがある
・現在のイスラエルはアラブ系イスラエル人を筆頭とする非ユダヤ人の法的権利を制限しているきわめて差別的な国家であり、また、戦時体制が慢性化しているため、右派政権に対して懐疑的なユダヤイスラエル人にとっても息苦しい社会となっている。
・しかし、現在のイスラエルは、ヨーロッパの右派反ユダヤ主義政権との友好関係を拡大し、これらの諸国に住むユダヤ人を事実上見捨てている。
・民族差別に対してナショナリズムを掲げ、国民国家を建設することは、差別を解決しない。むしろナショナリズムは差別や暴力、隷属を強化する。

 

1.ユダヤ人差別に反対する思想としてのシオニズム

1894年、フランスにて、ユダヤ人でフランス陸軍の将校であったアレフレド・ドレフュス大尉がスパイ容疑で逮捕されました。しかしながら逮捕の根拠は極めて薄弱であり、スパイ行為の真犯人は他にいるのではないかとの疑惑が出る中で、次第にドレフュス大尉がユダヤ人であることを理由にした不当な逮捕なのではないかとの主張が国内の左派から生じ、フランス国内を二分する大論争に発展しました。後述の通り、ヨーロッパにあっては、長らくユダヤ人は差別的な地位に置かれており、各国で自由主義的な憲法が制定され、キリスト教徒とユダヤ人の形式的な平等が実現した後も差別意識は続きました。

当時、オーストリア・ハンガリー帝国ユダヤ人ジャーナリストであった、テオドール・ヘルツルは、この事件を取材する中で、フランス国内に強く残るユダヤ人差別に強い衝撃を受けました。1789年に勃発したフランス革命により、自由・平等・友愛の人権宣言の下で、ユダヤ人を解放したフランスにあって、革命から100年以上経ってもなおユダヤ人差別が残っていることに、現在のハンガリー出身のユダヤ人、ヘルツルは驚きを隠せなかったのです。

フランス革命のような自由主義革命による各国の国民への「同化」がユダヤ人差別を解決しないと思い至ったヘルツルは、1896年2月に帝都ウィーンでユダヤ人による国民国家建設を訴える『ユダヤ人国家』を出版します。初版3000部ほどのパンフレットだったこの書物はたちまち欧州内の(中国のユダヤ人社会には影響は及ばなかったようです)ユダヤ人社会に影響を及ぼし、ユダヤ人社会内部での賛成派と反対派に分かれます。以下、ヘルツル自身が語ることを見てみましょう。

“ 私がこの書物のなかで述べるのは、きわめて古い思想である。それは、ユダヤ人国家の創設の問題である。
 世界には、反ユダヤ人の叫びがこだましている。そしてこの叫びが、まどろんでいたこの思想を呼び覚ますのだ。”
(テオドール・ヘルツル/佐藤康彦〔訳〕「ユダヤ人国家――ユダヤ人問題の現代的解決の試み」『ユダヤ人国家』法政大学出版局〈叢書・ウニベルシタス330〉、1991年5月30日初版第1刷発行、1頁より引用)

“ ところでいま、これは手間ひまかかる事柄のように思われるかもしれない。どんなに好都合の場合でも、国家創建の開始ともなれば、なお長い歳月をまたねばならないように思われるだろう。その〈←101頁102頁→〉間にユダヤ人たちは幾千もの地点でなぶり物にされ、痛めつけられ、非難され、鞭打たれ、略奪され、殴り殺されるのだ。いや、我々がこの計画の着手にかかるだけで、反ユダヤ主義は至るところでただちに鎮静するのだ。なぜならば、これは平和条約の締結なのだから。……”
(テオドール・ヘルツル/佐藤康彦〔訳〕「ユダヤ人国家――ユダヤ人問題の現代的解決の試み」『ユダヤ人国家』法政大学出版局〈叢書・ウニベルシタス330〉、1991年5月30日初版第1刷発行、101-102頁より引用)

 

ヘルツルはユダヤ人が主に欧州で差別され、迫害され、暴力の犠牲になっていることを強く受け止め、その解決策として、欧州からユダヤ人がどこかに移住してユダヤ人の国民国家を作りあげることを主張しました。ここで注意しておきたいのは、この時点ではヘルツルはユダヤ人国家の建設候補地として中東のパレスチナと南米のアルゼンチンを挙げており、彼個人としては必ずしもパレスチナにこだわる意図がなかったことと、ヘルツル自身がパレスチナやアルゼンチンに元から住んでいる人との軋轢について全く考えていなかったこと、そして、ヨーロッパを離れる身でありながら、ユダヤ人を、ヨーロッパ文明を体現する存在として捉えていたことです。ヘルツルの『ユダヤ人国家』を翻訳した佐藤康彦氏は、ヘルツルのこの姿勢について、以下のように述べています。

“ しかしなんといってもこの書の持つ最大の問題点は、パレスチナあるいはアルゼンチンについての無知と、そこに現に住む人々への配慮の欠如である。たしかに、もっぱらヨーロッパ的な教養の中で育ち、十九世紀のヨーロッパ諸国に澎湃として起こったナショナリズム思想に強い影響を受けていた一人のユダヤ知識人にたいして、これを求めるのはおそらく酷なのかもしれない。しかし、この問題は、すでに出版後まもなく何人かの親しい同志から批判されたところでもあった。……(中略)……
 いずれにしても、アラブ軽視のこの欠陥の背後には、当時のヨーロッパ知識人たちの発想の根底にあった、ヨーロッパ至上の優越感が潜んでいたことは疑いない。この書においても、聖地イエルサレムを訪れるキリスト教徒への丁重な配慮は示されても、この地にはるかに多数現に住んでいるイスラム教徒への言及はまったく見られず、民族協和――これは初めてのパレスチナ旅行ののちに書かれた長編小説『古き新国家』のなかで一層ユートピア的に展開される――の短い提唱はあっても、「ヨーロッパのために我々はその地でアジアに対する防壁の一部を作るであろうし、野蛮に対する文化の前哨の任務を果たすであろう」とヘルツルは〈←194頁195頁→〉記すのである。”
(テオドール・ヘルツル/佐藤康彦〔訳〕「訳者あとがき――ヘルツルと『ユダヤ人国家』」『ユダヤ人国家』法政大学出版局〈叢書・ウニベルシタス330〉、1991年5月30日初版第1刷発行、194-195頁より引用)

こうして、極めて楽観的な見通しの下でユダヤ人の国民国家を作りあげるシオニズム運動が始まりました。この発想は一つの民族が自らの国民国家を作りあげるべきだとするナショナリズム思想のユダヤ人版であり、この当時欧州で極めて強力な思潮であった各国のナショナリズムの影響抜きには成立しなかったでしょう。その意味でシオニズムは右翼的な思想運動であり、実際、後述するように、シオニズム運動が出来る前も出来た後も、左翼的なユダヤ人はシオニズムを選ばず、自らを解放するためにマルクス主義アナーキズムといった左翼思想を選んだのでした(尤も、後述の通りアナーキズムにせよマルクス主義にせよ、左翼社会主義思想は決して反ユダヤ主義は無縁ではなく、この点は現在の左翼人士が自己批判しなければならない点となっています)。反ユダヤ主義に対抗する思想運動は、ヨーロッパ大陸部の自由主義の中心であったフランスにあって、自由主義による同化政策が失敗したとの前提から始まる運動であるがゆえに、政治的に中央にある自由主義を乗り越えるために右に行けばシオニズムナショナリズム)に、左に行けば社会主義アナーキズムマルクス主義)となったのです。尤も、次節で述べるように、特に強い政治思想を持たずに、社会の反ユダヤ主義に内心で反対しつつ、同化政策の中で経歴を重ねた人も数多くいました。そのような人の中に、フランスのシトロエンオーストリアフロイトや名を挙げることができます。

(2023年11月5日追記:厳密にはシオニズム運動を立ち上げたのは、ロシア帝国における1881年ポグロムに対応したロシア帝国ユダヤ人であり、その中から生まれた現ウクライナオデッサのレオン・ピンスケルが書いたドイツ語の小冊子、『自力解放、ロシアの同胞への警告』(1882年)であり、執筆者は本稿執筆時にこのことを詳しく知りませんでした(参照:上田和夫『イディッシュ文化――東欧ユダヤ人のこころの遺産』三省堂、東京、1996年12月10日第1刷発行、88-89頁。)しかし、本稿では「自由主義による同化が反ユダヤ主義を克服できず破綻したこと」にユダヤ人のナショナリズム運動の元祖を見たいので、本稿全体の記述を損なうものではないと思い、この追記をするに留めます。)

 

さて、このようにして始まったシオニズム思想ですが、上述の通り、肝心のユダヤ人内部でさえ、ユダヤ人が国民国家を建設する主体である「民族」であるのか、それともフランスやイギリスなど、各国の国民の中での「少数宗教者」なのかについては一致することがありませんでした。たとえば、ユダヤ人差別が最も過酷で、現地のロシア人、ウクライナ人、ポーランド人といった主流民族による自然発生的な反ユダヤ暴動(ポグロム)が発生したロシア帝国ユダヤ人は、自らをユダヤ「民族」と捉えることが多かったのに対して、イギリス、フランス、ドイツなど、各国の国民に同化した西欧や中央では「ユダヤ教徒であるフランス人(あるいはイギリス人、ドイツ人)」であると捉える傾向が多かったと、現在の研究は示しています。一例だけ挙げると、1919年の第一次世界大戦パリ講和会議に際して、西欧の主流社会に同化したユダヤ人と、東欧のイディッシュ語〈引用者註:東欧系ユダヤ人が母語として話した言葉〉を話すユダヤ人の差異が大きすぎたため、ユダヤ人を少数民族であると規定して自治権や国会での比例代表権を要求するシオニストと、単なる宗教的マイノリティであるとする英仏の同化ユダヤ人の間で議論が噛み合いませんでした*1

このようなユダヤ人内部の緊張を孕みつつ、ユダヤ人右派であるシオニストは、東欧の旧ロシア帝国領(現在のロシア、ウクライナベラルーシポーランド等)の出身のユダヤ人が中心となり、次第に既にアラブ人が住んでいたパレスチナの地に入植地を作りあげ、現地のアラブ人との軋轢を起こすことになります。このことは、パレスチナの帰属が第一次世界大戦の結果として、1920年オスマン帝国領からイギリス領となった後にも変わりませんでした。その後、第二次世界大戦中にユダヤ人問題の「最終的解決」を目ざしたナチスファシスト枢軸によるショアー(いわゆるホロコースト)の結果、欧州各地やソ連で600万人ものユダヤ人が殺害されました。戦後、イギリス領パレスチナに入植していたユダヤ人の武装闘争の結果、1948年にユダヤ国家イスラエルが建国されます。

 

2.欧州における反ユダヤ主義の歴史 なぜ右翼のシオニズムが勝利したか

第一章ではシオニズムが、ユダヤ人差別に反対するナショナリズム思想として生まれ、拡大し、イスラエル建国に至ったことを略述しました。しかし、既述の通り、シオニズムユダヤ人内部でも右翼の運動であり、フランス革命以後の自由主義ユダヤ人差別を解決しなかったという感覚は持たれつつも、決してユダヤ人差別に反対する全てのユダヤ人を巻き込んだ訳ではありませんでした。前述の通り、左翼の社会主義運動には、ユダヤ人国家の建設によらずに人類の普遍的な解放を求める多くのユダヤ人が参加してきたのです。カール・マルクスフェルディナント・ラッサールローザ・ルクセンブルクエマ・ゴールドマン、アレクサンダー・バークマン、グスタフ・ランダウアー、レフ・トロツキー、マクシム・リトヴィノフ、マレイ・ブクチン、ノーム・チョムスキー、イマニュエル・ウォーラーステイン……ざっと列挙しましたが、この中で一人ぐらいは名前を聞いたことのある人も多いのではないでしょうか。

第二章では、シオニズム思想が勝利するに至った要因として、欧州社会内の反ユダヤ主義の歴史について概略します。その時点で生活の基盤が欧州やロシアにあったユダヤ人達が、現在住んでいる場所とその地で築いた文化や財産を投げ捨てて、遠くパレスチナに移住して国民国家を作り上げるという、一見すると不可解な思想が実現するに当たって大きな役割を果たしたのがユダヤ人差別でした。


2-1.キリスト教における反ユダヤ主義

本節を述べるについて最初に断っておきたいこととして、私はキリスト教という宗教の存在自体に反対するものではありません。キリスト教は人類史の発展の中で大きな役割を果たし、日本でも特に近代以降は学校や病院の建設に大きな役割を果たしています。また、キリスト教に限らず、全ての宗教について、それが無くなるとも思っていません。宗教を無くそうとした中国のプロレタリア文化大革命(1966年-1976年)は、社会に大きな爪痕を残したまま、結局宗教を無くすことはできませんでした。あれ以上の大きな革命が今後起きることは予想し難い上に、そういった反宗教革命が起きたとしても、中国や旧ソ連・東欧の共産圏で宗教が復活している状況には抗えないのではないかと私は考えています。どのような宗教にも長所と短所があり、佛教の輪廻転生思想が部落差別を肯定することになったとの同じような短所として、キリスト教においては反ユダヤ思考を挙げることができるでしょう。以上を断った上で、本節をご覧いただけますと幸甚です。

イギリスのユダヤ人思想史家、ノーマン・コーンは、近代的な反ユダヤ主義について以下のように述べています。

“ 中世、人々はユダヤ人を魔王の使徒悪魔崇拝者、人間の皮を被った魔物、と見なしていた。近代反ユダヤ主義の偉業の一つはこのアルカイックな迷信を一九世紀末に蘇らせたことである。……”
(ノーマン・コーン/内田樹〔訳〕『シオン賢者の議定書――ユダヤ人世界征服陰謀の神話』KKダイナミックセラーズ、東京、1986年、37頁より引用)

つまり、キリスト教世界であるヨーロッパにおけるユダヤ人の悪魔化は、既に中世に始まっていたということです。さらに、コーンは、この西洋における反ユダヤ主義の言説の誕生を、ローマ帝国の国教となる(392年)前のキリスト教神学の中で形成された考えであるとしています。

“……『テサロニケ人への第二書簡』〈引用者註:パウロによる手紙で、キリスト教の聖書を構成する書簡の一つ〉の第二章の預言によると、キリストの再臨と最後の審判の直前に反キリスト《罪の人、破滅の息子》が出現することになっている。反キリストは神として崇拝されることを要求し、彼が悪魔の力を借りて行なう奇蹟は欺かれたいと願っている者たちの心を欺くのである。反キリストは全世界を支配下に収め、キリストが再臨し、その息の一吹きで打ち砕くまで地上に君臨する。
 さて、紀元二、三世紀頃、キリスト教ユダヤ教が激しくその勢力を張り合っていた時、キリスト教神学はこの預言に新しい解釈を施した。すなわち反キリストはユダヤ人であり、したがってユダヤ人たちの上にとりわけ強烈な魅力を発揮する。ユダヤ人たちは反キリストの最も熱烈な信奉者となり、彼をメシアとして迎え容れる、というのである。それからのちどうなるのか、については神学者たちの意見は二分する。ある者は奇蹟の介入によってユダヤ人全員がキリスト教に改宗することを期待し、ある者は、ユダヤ人は最後まで反キリストに従い、キリストの再臨ののち、反キリストと共に永劫の責苦を受けるであろうと予言している。”
(ノーマン・コーン/内田樹〔訳〕『シオン賢者の議定書――ユダヤ人世界征服陰謀の神話』KKダイナミックセラーズ、東京、1986年、39頁より引用)

さて、西ローマ帝国が崩壊し(476年)、キリスト教カトリック教会がヨーロッパに侵入して来たゲルマン人の中にも受け入れられ、キリスト教ヨーロッパ世界が成立した後、イメージの中でユダヤ人は悪魔化されることになります。やがてイスラーム教徒のトルコ人によって聖地イェルサレム支配下に置かれると、1095年に時のローマ教皇ウルバヌス2世が十字軍を提唱します。十字軍については、そのイスラーム世界で行った残忍さが批判的に見られるようになりましたが、ここではヨーロッパを出発した十字軍が、まず、ヨーロッパ内部に既に暮らしていた非キリスト教徒であるユダヤ人を襲撃したことを確認します。

“ ただ、ルーアンの迫害はつぎの点で注目に値する。というのも、当時の年代記作者のひとり、ノジャンのギベールが、十字軍士がこう叫びながら迫害をはじめたと書き記しているのである。
 「われわれは東方にいる神の敵と戦おうとしているが、そのためにははるかな道程を克服しなければならない。だが、それは見当違いの骨折りというものだ。なぜなら、われわれのすぐ目の前には、神の最悪の敵、ユダヤ人がいるからだ」。
 これは、エルサレムの場所さえさだかに知らない多くの参加者にとって魅力的な叫び声と聞こえたにちがいない。たしかに、彼らにとって聖地はあまりに遠かった。手近な敵を相手にすることで神のみ旨にかなうことができるならば、それにこしたことはなかった。しかし、それ以上に〈←32頁33頁→〉重要なのは、このとき十字軍が迫害を逃れる手段としてユダヤ人に与えた選択肢がひとつしかなかったことである。キリスト教への改宗、つまり洗礼であった。洗礼を拒む者には死が待ち受けていた。
 「洗礼か死か」――そして、これがこののちユダヤ人を襲撃する民衆十字軍の合言葉となるのであった。”
(羽田功『洗礼か死か――ルター・十字軍・ユダヤ人』林道舎、埼玉県大宮市、1993年2月20日発行、32-33頁より引用)

幸か不幸か、十字軍は数世紀をかけてイスラーム勢力によって駆逐され、その後欧州内でもキリスト教への懐疑が進み、社会を科学的に再編成しようとする意図を持った1789年のフランス革命の結果、漸進的にヨーロッパ大陸部のユダヤ人が解放されていったことは、第一章で述べたとおりです。

本節で確認しておきたいことは、20世紀のナチスによるショアー(いわゆるホロコースト)によって最も醜悪な姿を見せる、思想としての反ユダヤ主義は、キリスト教世界に特異なものであるということです。パレスチナ問題は決して現在考えられているように、ユダヤ人とアラブ人の対立に起源を持つ訳ではなく、むしろキリスト教世界の反ユダヤ主義を、キリスト教世界内にいては解決することはできないというユダヤ人の諦めから生まれたのです。第二次世界大戦後の1955年に書かれた、ユダヤ人によるユダヤ人史の序言には、このことについて次のように述べられています。

“……ただ、パレスティナ以西の状況とは裏腹に、東方世界のユダヤ人たちは、イェフダー・ハレヴィが思い描いた「諸民族の病んだ心臓」、つまり、みずから怯え、また他者をも怯えさせる素因となることは決してなかった。彼らは、その苦悩と虐殺の歴史によって世界の目を見張らせることも、人間世界のいたらなさのつけを払わされることもなかったかわりに、知的あるいは経済的活動において構成員の数に釣り合わない役割を果たしたり、ずば抜けた才覚を示したり、その他何らかの特殊な役割を引き受けたり、といったようなこともなかった。要するに、東方のユダヤ人たちは多量のインクを流させることもなかったかわりに血の川を流すこともなく、ひたすら幸福な民として生き、歴史の名に値するものをとくに持たなかったのである。中国のユダヤ人は、今から一、二世代前に姿を消した。インドのユダヤ人は、ほかに幾千とある宗教諸派のなかに紛れ、農民、職人としての慎ましい生活を送っている。”
(レオン・ポリアコフ/菅野賢治訳「序言(1955年初版)」『反ユダヤ主義の歴史Ⅰ――キリストから宮廷ユダヤ人まで』筑摩書房、東京、2005年3月25日初版第1刷発行、3頁より引用)

このキリスト教における反ユダヤ主義が、ヨーロッパで最初の反教会革命であったフランス革命以後もヨーロッパ内で残存し、ユダヤ陰謀論となります。


2-2.右翼陰謀論における反ユダヤ主義

右翼によるユダヤ陰謀論については何冊も書物を書けてしまうテーマなので、概要だけ述べることにします。1789年のフランス革命と、1917年のロシア革命に関して、それがユダヤ人の陰謀だったとするものが近代的な反ユダヤ陰謀論の主なものとなります。

1797年、フランス革命の最中に、革命を嫌悪するフランスのイエズス会士オーギュスタン・バリュエル神父は『ジャコバン主義の歴史に関する覚書』という書物を刊行し、その中で、フランス革命が起きたのはフリーメーソンによる陰謀であるという説を展開します*2。この説についてノーマン・コーンは、実際の所、フリーメーソンの多くはカトリック王党派で事実無根だとしていますが、これを書いたバリュエルは1806年にフィレンツェのシモニーニ艦長と名乗る人物から、バリュエルが著書で主張するフリーメーソンは、実はユダヤ人の秘密結社なのだという書簡を送ります*3。実際には当時のフリーメーソンユダヤ人の入会を渋っていましたが、陰謀論者にとってそのような事実は余り大きな意味を持ちませんでした。

こうしてこの時に、後の陰謀論の「定番メニュー」となる、「ユダヤ人に支配されたフリーメーソンが陰謀によって革命を起こし、キリスト教世界を破壊しようとしている」という発想が初めて姿を見せることになりました。コーンは「旧制度を懐かしむ者たちは、神が手ずからお定めになったはずの社会秩序がかくも無残に壊滅したことの説明に苦慮していた。ユダヤフリーメーソン陰謀神話こそ彼らにとって最も望ましい説明を提供してくれるのである。」*4と論じていますが、恐らくそういったところでしょう。バリュエルはこの書簡の内容を大筋で受け入れ、1820年の死の間際に、自らのフリーメーソン陰謀説の中に、ユダヤ人が関与していたことを認める草稿を書いています(尤も、心境の変化なのか、死の二日前にこの草稿を自らの手で破棄しています)。

19世紀のヨーロッパは、表向きには革命によって体制下した自由主義によるユダヤ人の解放が進む中で、裏ではユダヤフリーメーソン陰謀論が徐々に拡大していった時代でした。第一章で論じたドレフュス事件も、社会の裏側に蓄積されていた反ユダヤ陰謀論が、表に出てきてしまった事件だと捉えるべきなのではないかと私は考えています。

この後、陰謀論の歴史は変わり映えのしない陰謀論を量産した後、19世紀末に決定的な文書を生み出します。当時のロシア帝国の秘密警察によって、ユダヤ陰謀論を述べた『シオン賢者の議定書』(いわゆる『プロトコル』)というパンフレットが作られ、1903年ロシア帝国で刊行されました。このパンフレットは、フランスの皇帝ナポレオン三世に反対していた人の書いたパンフレットを加工・編集して作られた極めて杜撰なものでした。内容的にもユダヤ人が世界征服を望んでおり、フランス革命はその前哨なのだとする前述のバリュエルとシモニーニのユダヤ陰謀論とほぼ変わらないものでしたが、1917年のロシア革命と、1918年7月17日のロマノフ皇帝一家の殺害により、この杜撰な文書がロシアを始め、世界中でロシア革命に反対する人々によって支持されるようになりました。ロシア革命の革命派であるボルシェヴィキメンシェヴィキアナーキストといった諸派の中に、シオニズムに反対するユダヤ人が存在したことが原因の一つとして挙げられるでしょう。ドイツでの『シオン賢者の議定書』はナチスヒトラー反ユダヤ主義を掲げて政権を奪取する弾みとなりましたし、20世紀まで反ユダヤ主義が弱かったイギリスやアメリカ合衆国でも翻訳されて読者を得ることになりました。アメリカ合衆国では、自動車王のヘンリー・フォードがこのパンフレットの宣伝に一役買うことになりました。さらに、歴史的にユダヤ人がほぼ存在せず、キリスト教によるユダヤ人迫害の文脈を持たない日本にあっても、陸軍の四王天延孝によって翻訳・刊行され、反ソ連・反共産主義・親ナチスの右翼の人々の間に影響を及ぼしています。

嘆かわしいことに、現在でもこのような反ユダヤ陰謀論はオカルト的に取り上げられ、信奉者を持ち続けています。


2-3.左翼社会主義運動(アナーキズムマルクス主義)における反ユダヤ主義

本章ではこれまでキリスト教と右翼の陰謀論の中における反ユダヤ主義について述べましたが、遺憾なことに、ユダヤ人が解放を求めて参加した左翼の社会主義運動の中にも反ユダヤ主義は存在しました。本節ではその概要を示すことにします。

19世紀のヨーロッパで、自由主義が肯定した資本主義が、市政の人々を却って経済的に不自由にしているという発想から、体制化した自由主義を批判する文脈で多様な社会主義思想が生まれました。社会主義思想の中で、覇権を競ったのはアナーキズムマルクス主義共産主義)です。概略的に言えば、アナーキズムは近代化・資本主義的工業化によって脅かされる農民・小手工業者を革命の主体と見たのに対し、マルクス主義は近代化・資本主義的工業化によって生まれる近代的産業労働者(プロレタリアート)階級を革命の主体と見ました。なお、この階級観に関しては、アナーキストマルクス主義者の知識人がそのように考えたというだけで、実際に農民・小手工業者にアナーキズムが受容されたり、労働者にマルクス主義が思想的・哲学的に受容されたりということではありませんでした。工業化が進んだドイツでマルクス主義が強く、工業化があまり進まなかったフランスやイタリアやスペインやウクライナアナーキズムが強かったのには以上のような背景があると考えられます。

“……マルクス主義者は、素朴な人びとを、すでに過ぎ去った社会進化の一段階を表わすものとして、拒絶する。彼にとって、種族民、農民、小職人などのすべては、ブルジョアジーや貴族とともに、歴史の残物の上につみ重ねられる。共産主義者の現実政策(Realpolitik)は、現在の極東におけるように、時には農民との接近(rapprochement)を求めるだろう。しかし、そのような政策の目的は、常に農民を、農業のプロレタリアに変えることである。他方、アナキストたちは、〈←23頁24頁→〉農民のなかに、非常に大きな望みを託してきた。農民は、大地に親しみ、自然に親しみ、それゆえに、彼の反応のしかたはより“アナーキック”である。バクーニンは、百姓一揆を、革命のための彼の理想である自発的な民衆蜂起の未完成な型として見た。さらに農民は、歴史的な環境によってつくられなければならなかった協同という長い伝統の継承者である。アナキストの理論家たちは、農民の社会におけるこのような傾向を是認することによって、ますます繁栄するにつれて農民社会は――歴史において知られているかぎり他のすべての発展する社会と同じく――富農、貧農、労働者たちという階級制度の確立に至る富と地位の相違を示し始めるということを忘れる傾向がある。アナキズムはアンダルシアとウクライナの貧農たちの間で力強い大衆運動となったが、それよりも富んだ農民たちのあいだでは何らの評価しうるほどの成功を得ることができなかったということは、意味が深い。市民戦争の初期において、スペインのアナキストたちによって支持された集産主義的組織を採用するようアラゴンのぶどう栽培者に強いたのは、ドゥルティと、彼の義勇軍の恐怖のみであった。”
(ジョージ・ウドコック/白井厚〔訳〕『アナキズムI――思想篇』紀伊國屋書店、1968年6月29日第1刷発行、23-24頁より引用)

さて、本節で検討すべきはカール・マルクスの『ユダヤ人問題に寄せて』と、バクーニンの論説となります。アメリカ系ユダヤ人のシオニストによれば、アナーキズムの名祖プルードンについて、「出版物の中では穏やかな調子で、死後に出版された日記の中では過激な調子で反ユダヤ主義を表現した。われわれは、この偉大な社会主義者の日記の中でナチまがいの反ユダヤ感情に出合う。」*5と表現していますが、私の能力不足のため、本節での検討は回避します。

自らもユダヤ系(親の方針で幼少期にキリスト教に改宗したドイツ系ユダヤ人の家系)であったマルクスの『ユダヤ人問題に寄せて』については、シオニストによる批判を見ることにしましょう。アメリカ系ユダヤ人のシオニストであるデニス・プレガーとジョーゼフ・テルシュキンは、次のように書いています。

“ 『ユダヤ人問題に寄せて』ではユダヤ人とユダヤ教への嫌悪に満ちており、その論旨は非常に過激であるため、時としてナチのユダヤ人憎悪を彷彿とさせる次元のものがある。マルクスは言う。
ユダヤ人が現世で崇拝するものは何か。あくどい商売である。ユダヤ人の現世の神は何か。金〈←243頁244頁→〉である。よろしい。それでは、あくどい商売と金からの解放が、つまり、実践的な真のユダヤ教からの解放が、現代での自己解放であろう」。「金はイスラエルの妬み深い神であり、その前にどのような神の存在も許されない」
 『ユダヤ人問題に寄せて』の結語でマルクスは、人間性の解放はユダヤ教の放棄であるとまで書いている。
 ユダヤ人意識をもつユダヤ人の社会主義者たちは、『ユダヤ人問題に寄せて』に書かれたマルクスの露骨な反ユダヤ主義に常に困惑してきた。この著書が出版されてから百年以上の間に、ユダヤ人の社会主義者たちは、マルクスのほとんどすべての著作物をイディッシュ語ヘブライ語に翻訳したが、マルクス唯一のもっぱらユダヤ人問題だけをとりあげた随筆については翻訳を避けた。”
(デニス・プレガー、ジョーゼフ・テルシュキン/松宮克昌〔訳〕『ユダヤ人はなぜ迫害されたか』東京、1999年10月20日初版発行、243-244頁より引用)

さらに、プレガーとテルシュキンは、マルクスユダヤ人について書いた論説がユダヤ人社会に対して否定的な影響を及ぼしたことと、マルクス主義が究極的にはユダヤ人に対してユダヤ人であることをやめること(恐らく、無神論者としてユダヤ教を放棄することを指しています)を解放だと見なしていることを批判しています。

“ 歴史家エドマンド・シルベルナーは、マルクスの反ユダヤ著作物がもたらした二つの悪影響を認めている。一つは、キリスト教徒のマルクス主義者たちにユダヤ人に対する偏見を植えつけ、それを強化したことであり、もう一つは、ユダヤマルクス主義者をユダヤ人の大衆から引き離したことである。後者の例は、一八九一年にもっとも劇的に立証された。ブリュッセルの第二回国際社会主義者会議の代表者の一人であったアブラハム・カーンがヨーロッパで高まりつつあった反ユダヤ主義を非難するよう、この会議の席上で強く求めたときである。カーンにとって衝撃であったのは、ユダヤ人および非ユダヤ人の代表者がこぞって反ユダヤ非難決議案に反対したことであった。社会主義者たちによれば、キリスト教徒やイスラム教徒、ナチを除く歴史に登場する反ユダヤ主義者たちが異口同音に繰り返してきたように、反ユダヤ主義に対する唯一の解決方法はユダヤ人はユダヤ人であることを棄て、反ユダヤ主義者(この場合は社会主義者)たちの価値観をもつことであった。……”
(デニス・プレガー、ジョーゼフ・テルシュキン/松宮克昌〔訳〕『ユダヤ人はなぜ迫害されたか』東京、1999年10月20日初版発行、246頁より引用)

アナーキストとして第一インターナショナルマルクスに対抗したバクーニンに関しては、ユダヤ人を、ロスチャイルドに代表される貪欲な銀行家として見る視点と、共産主義の元祖マルクスの思想によって動かされる集団であると見る視点が共存しています。バクーニン自身が書いた物を参照します。

“ しかして暴利をむさぼる宗派や、蛭(ひる)のような人びとや、貪欲で他に類を見ない寄生虫によって固く親密に組織されたこのユダヤ人世界は、単に国境を越えるばかりでなく、あらゆる政治的意見をも越えているが、今日ではその大部分が一方ではマルクスによって、他方ではロスチャイルド家によって思いのままに動かされている。私はロスチャイルド家の人びとがマルクスのすぐれた点を認める一方、マルクスのほうでもロスチャイルド家に対し本能的にひかれ、大いなる尊敬を払っているものと確信している。
 このことは奇妙に見えるかも知れない。共産主義と大銀行業との間にいかなる共通点がありえようか? そうなのだ! マルクス共産主義は国家による中央集権的権力を欲する。しかして国家の中央集権のあるところ、今日では必ずや国家の中央銀行がなければならず、このような銀行が存在するところ、人民の労働の上に相場をはっている寄生虫ユダヤ民族は、つねにその存在手段を見出すことであろう……”
(外川継男〔訳〕「マルクスとの個人的関係」(1871年12月)外川継男、左近毅〔編〕『バクーニン著作集 第6巻』白水社、東京、1973年9月25日発行、390頁より引用)

この種のユダヤ人観はバクーニンに限ったものではなく、19世紀のヨーロッパの左翼には共通するものでした。アナーキズムにせよマルクス主義にせよ、生産労働をする農民や小手工業者や労働者を称える社会思想であるため、どうしても銀行家に対する評価は厳しくなり、ロスチャイルド家に代表されるユダヤ人富豪からの類推で「人民の労働の上に相場をはっている寄生虫ユダヤ民族」とまで言っています。私はバクーニンから多くを学びましたが、このような反ユダヤ主義については今日、容認してはならない彼の個人的欠点だと考えています。

このように、近代的な自由主義が生み出した資本主義社会からの解放の思想であったはずの社会主義思想の二大潮流の中にも、それ以前から存在した反ユダヤ主義は形を変えて残り続けました。そして、この社会主義の思想面における反ユダヤ主義は、ロシア帝国で、実際の反ユダヤ主義運動として実践されます。ロシア帝国ウクライナ出身のシオニストであり、社会主義シオニズムを説くベール・ボロコフは、1903年キシニョフで起きた反ユダヤ暴動(ポグロム)に、ロシアの社会主義政党に組織された労働者が参加していたことについて、次のように失望を表明しています。

“「ロシア社会民主主義〈引用者註:ロシア革命の前まで、マルクス主義のことをこう呼んだ〉の永久的な恥として、これらの労働者が社会民主党の煽動にさらされてきた事を語らねばならない。……そして最後の一人に至るまで破壊に参加した労働者たちの間に革命思想を紹介した人々がユダヤ人であった、それもユダヤ系の社会革命党員と社会民主党員であったことを付け加えねばならない。すばらしい教育的プロパガンダだ! 大成功だ! 上等な結果だ!」”
(森まり子『社会主義シオニズムとアラブ問題――ベングリオンの軌跡 1905-1939』岩波書店〈岩波アカデミック叢書〉、2002年10月30日第1刷発行、19頁より重複して引用)

ボロコフは、元来、右翼的なナショナリズム思想として始まったシオニズム思想の中で、「労働シオニズム」という左派ナショナリズムの潮流を生み出した人物の中の一人でした。1948年に建国されたイスラエルの初代首相で、75万人のパレスチナ・アラブ人を強制的に追放したダヴィッド・ベングリオンは、この労働シオニズム運動の中で育った政治活動家でした。労働シオニズム運動がボロコフのように、現実の社会主義運動が反ユダヤ主義を乗り越えていないことを目にした人物によって生み出された運動であることを考えた時、この左翼による反ユダヤ主義の害悪性は自ずと理解されるものだと私は考えます。


2-4.ナチスファシスト枢軸による反ユダヤ主義

本章では欧州で生れた反ユダヤ主義の潮流を、キリスト教陰謀論、左翼社会主義運動について見てきました。第二次世界大戦中のナチスファシスト枢軸が行ったショアー(いわゆるホロコースト)が、600万人ものユダヤ人を死に追いやりながらも、決してそれだけを単独で取り出して論じることができない事件であることについて、説明することができたかと思います。むしろそれまでの雑多な反ユダヤ主義思想を寄せ集めた結果がナチスヒトラーの勝利の原因であったと言っても良いかもしれません。ノーマン・コーンはこの点について、当時のドイツでナチスに参加した人々が、個人的には反ユダヤ主義に共感しない人もいたのにも関わらず、政権を奪取したことについて非常に興味深い説明を行なっているため、長くなりますが、以下引用します。

“ 一九三二年七月に三七・三パーセントの得票率――彼が真に自由な選挙で得た最高得票率――を獲得した理由はそこにある。ヒトラーが政権に到達した時点では、ドイツが非情な反ユダヤ主義に取憑かれ、ユダヤ人の世界的陰謀の神話という催眠術をかけられ、ユダヤ人の血を渇望していた国であったという人はまずいないだろう。確かに『プロトコル』の大衆版は一〇年余で一〇万部を売ったが、例えば平和主義的な立場で書かれたレマルクの戦争小説『西部戦線異状なし』は一九二九年の発表後一年間で二五万部以上売れている。同様の《進歩主義的》な本で成功したものは他にいくつもあった。
 ナチ党党員約一〇〇万が、全員熱狂的な反ユダヤ主義者であったということもできない。一九三四年、アメリカの大胆な社会学者テオドール・エーベルはマスコミを通じて、ナチ党員に対し、党員の個人的経歴と入党の動機を自分あてに知らせてほしいという呼びかけを行なった。六〇〇人の党員がこのアンケートに回答を寄せた。驚くべきことにこのうちの六〇パーセント〈←289頁290頁→〉が反ユダヤ主義に一言も言及していない。中にはこの立場にはっきり距離を取る者もいた。ある回答者はこう書く。
「祖国、統一、超絶的な指導者、こういった話を聞くと私の心は高鳴ります。私もまたこの人たちの仲間なのだ、と実感できるからです。しかしユダヤ人の話になると私にはピンと来ないのです。入党した後も、ユダヤ人のことに論が及ぶと頭痛がしたものです」
 さらに統計的分析は、反ユダヤ感情は中産階級(自由業を含む)出身党員の半分近くに認められるが、農民及び工場労働者の間ではわずか三〇パーセントにしか認められないことを示している。この統計が示すように、もしも反ユダヤ大義を奉ずる者が党員の中の少数派にとどまっていたのだとしたら、ナチに加盟しなかったそれ以外の一般大衆の間では、反ユダヤ主義はもっと不人気だったということになる。
 しかし、いくら留保を加えたところで、一九三三年にナチに投票した一七〇〇万有権者の大部分が、自分達の隣人のユダヤ人の市民権を少なくとも部分的には剥奪することに同意した、という事実には変わりはない。またきわめて多数の狂信的反ユダヤ主義者が――例えば学生国民運動(一九三一年ナチに統合)やSA(突撃隊)のメンバー四〇万人の中に――存在したことも確かである。何十万人かの人が、エーベルに次のような回答を寄せたナチ党員と同意見であったろうことも確かである。
「世界史は、ユダヤ主義――この悪の権化――が破壊精神によって、アドルフ・ヒトラーいう所の善にして真なる理念を圧倒し続けてきた過程として読み返されぬ限り、何の意味も持たぬ所であろう。私は確信する。我らが指導者アドルフ・ヒトラーは、ドイツの救い主となり、暗黒〈←290頁291頁→〉に光明を投じるために天から遣わされたのだ、と」
 これが、五〇年間にわたるプロパガンダの、とりわけ第一次世界大戦後の一四年若者たちの上に加えられた激烈で休みない攻勢の成果である。これは恐るべき成果であった。というのは、少数派の狂信的行為と多数派の無関心とが結びついた時にすべてが――最初の反ユダヤ立法から最終的な民族皆殺しまで――可能となったからである。”
(ノーマン・コーン/内田樹〔訳〕『シオン賢者の議定書――ユダヤ人世界征服陰謀の神話』KKダイナミックセラーズ、東京、1986年、289-291頁より引用)

かくして近代を生き延びたヨーロッパの反ユダヤ主義は最悪の形で暴発し、多数のユダヤ人の死者を出したことによって、ユダヤ人国家の必要性がヨーロッパで広く認識されることになりました。しかし、その候補地となったのは、ユダヤ人が迫害されてきたヨーロッパではなく、既にアラブ人が住んでいたイギリス領パレスチナだったのです。

3.現在のイスラエル社会:差別、監視、反ユダヤ主義

前章までで述べた通り、欧州で根強く存在した反ユダヤ主義は、ナチスファシスト枢軸のショアー(いわゆるホロコースト)で道徳的な醜悪さの極みに達しました。ハンガリー出身のユダヤ人、テオドール・ヘルツルがユダヤ人差別に対抗するためにと本格化させたユダヤ人のナショナリズムであるシオニズムは、その間にも、時に内部の極右分子がナチスと協力する傾向さえ見せつつ、イギリス領パレスチナで入植地を拡大し、イギリス植民地権力やアラブ人との武装闘争を経て、1948年にイスラエルを建国しました。この時に、初代首相であり、75万人のパレスチナ・アラブ人を追放したデヴィッド・ベングリオンが、労働シオニズム運動という、シオニズム運動内の左派の潮流から出てきたことは前述の通りです。

第一章で述べた通り、テオドール・ヘルツルはシオニズムを担うユダヤ人を、ヨーロッパ文明を体現する存在として捉えていました。イスラエルは非ヨーロッパであるアラブとイスラームに対する、ヨーロッパ文明の防波堤としての役割を引き受けることになります。元来アラブ人と同じセム系の民族であるユダヤ人は西アジアの出身であり、西欧で反ユダヤ主義が「反セム主義」と呼ばれるのもそれが理由であるからですが、現在も西欧諸国がイスラエルを支援する様子を見るに、「ヨーロッパ」の境界は極めて曖昧なものだと言えるのでしょう。

さて、周囲を敵対的な国家に包囲されたイスラエルは、周辺のアラブ諸国との4度にわたる中東戦争と、2度のレバノン戦争、そして恒常的に続いているパレスチナ武装勢力との戦闘を経ても崩壊せず、今日まで生き残ることに成功しました。そして90年代の中東和平プロセスを骨抜きにして、パレスチナの領土であるヨルダン川西岸にユダヤ人入植地を拡大し、現在「世界最大の野外刑務所」と呼ばれるガザ地区と、多くの土地がユダヤイスラエル人入植地となったヨルダン川西岸地区を軍事的に包囲しながら、今も断続的に戦闘が続いています。

このような恒常的な戦争状態にあるイスラエルでは、いつしかごく普通のユダヤ系のイスラエル市民にとってでさえ、息苦しい生活が恒常化することになりました。本章では、シルヴァン・シペル/林昌宏〔訳〕、高橋和夫〔解説〕『イスラエルvs.ユダヤ人――中東版「アパルトヘイト」とハイテク軍事産業』(明石書店、2022年1月。以下、この本を『イスラエルvs.ユダヤ人』と表記します)を参照しつつ、現在の公安国家化し、「イスラエルユダヤ人にとって害悪になった」(トニー・ジャット)とまでイギリスのユダヤ人から評されるようになったイスラエルについて概観します。

3-1.国民国家と民族差別

フランス系ユダヤ人であるシルヴァン・シペルが『イスラエルvs.ユダヤ人』で描くイスラエル社会は、一言で言って非ユダヤ人への差別が日常化した社会です。それも、社会の主流にいるごく普通の一般家庭の中に差別的な考え方が蔓延している社会となっています。

“ 二〇一九年二月、ヨルダン川西岸地区にあるユダヤ人入植地カルネイ・ショムロンの学校では、親たちのグループが校長に圧力をかけ、学校で掃除を担当するパレスチナ人女性全員を解雇させた。ある親は次のような声明文を書いた。「わが子第一。人種差別主義者と呼ばれようが構わない。われわれはユダヤ人であることを誇りに思っている」。
 マカビット・アブラムソンとアヴネル・ファイングレントによる二〇〇九年のドキュメンタリー映画『戦士』には、イスラエル空軍によるガザ地区への空爆(「鋳造された鉛」作戦)を見物しながら、近くの丘でピクニックを楽しむ複数の家族が登場する。彼らは飲み食いしながら、パレスチナの建物が崩壊する光景を眺めて歓声を上げる。「おお~、われわれの空軍は素晴らしい」。”
(『イスラエルvs.ユダヤ人』、88頁より引用)

こうした社会の変化には、2018年に通過した「ユダヤ国民国家法」の影響があるとシペルは見ています。シペルが論じる通り、この「ユダヤ国民国家法」により、それまでは建前的に認められきた人口の約20%の占めるアラブ系イスラエル人の法的権利が、建前的なレベルでさえ認められなくなってしまいました。

“ ネタニヤフはこの法律の意義を次のように明快に論じた。「イスラエルはすべての国民の国家ではなく、ユダヤ人だけの国家である」。
 このような法案が初めて登場したのは二〇一一年だった。そして七年後の二〇一八年七月一九日、国会は賛成多数で「ユダヤ国民国家」法案を可決した。すなわち、「ユダヤ人という多数派と、(イスラエルの非ユダヤ系国民の九五%を占める)パレスチナ系アラブ人という少数派では、社会的な権利が異なる」と法律によって定められたのだ。
 この法案が可決されるまで、国際世論は、イスラエル占領地区の住民に課す「アパルトヘイト」に注目していた。しかし、今日ではイスラエル国民であるパレスチナ人(イスラエル人口のおよそ二〇%)でさえ、十全たる市民権を持たないのだ。……”
(『イスラエルvs.ユダヤ人』、100頁より引用)

“……イスラエルは建国以来、ナショナリティ〔国籍、民族〕とシチズンシップ〔市民権〕を区別してきた。ユダヤ人のナショナリティは「ユダヤ人」であり、市民権は「イスラエル人」だ。一方、パレスチナ人のナショ〈←101頁102頁→〉ナリティは「アラブ人」や「ドゥルーズ派」などであり、市民権はイスラエル人だ(一九九〇年まで、イスラエルが国民に発行する身分証明書にはナショナリティの記載があった)。
 この枠組みでは、ナショナリティは民族アイデンティティであり、市民権は法的アイデンティティに相当する。したがって、「ユダヤ人国家」は「正しい」民族あるいはナショナリティのもとに生まれた人(ユダヤ人)のものであって、市民権を持つすべての人のものではないのだ。
 この法律が体現する精神はシオニズムに源泉を持ち、東欧諸国の自民族中心的なナショナリズムから強い影響を受けている。もちろん「ユダヤ人の特徴」にもこの精神を見出すことができる。”
(『イスラエルvs.ユダヤ人』、101-102頁より引用)

“ 「ユダヤ国民国家」法が施行されてもイスラエル社会には大きな変化はなかった。だが、これは大きな転換点だ。それまでは人種差別に対し、たとえ効果がないとしても法に訴えることができた。これまでイスラエルは、民主国家としての体裁に配慮しながらユダヤ人国家という自民族中心主義を追求してきた。ところが今後は、イスラエルは正式に人種分離の国となった。自国のポジティブなイメージを保つためにシオニズムの影の部分を隠してきたが、「ユダヤ国民国家」法が施行され、人種差別を隠す必要がなくなったのだ。「イスラエルが民主国家でなくなっても、まったく構わない」と豪語した富豪シェルドン・アデルソンが語った通りになったのだ。
 エルサレムヘブライ大学の元教授ダヴィッド・シュルマンによると、「ユダヤ教は普遍的な人権の概念と密接なつながりを持つ」という。一七世紀後半の啓蒙時代から第二次世界大戦まで、数多くのユダヤ人がこの密接なつながりを実践してきた。彼らはさまざまな政治状況において、社会正義、人間の尊厳、そして「進歩」を具現する価値観を追求してきた。このつながりを断ち切ったのが「ユダヤ国民国家」法だった。”
(『イスラエルvs.ユダヤ人』、104頁より引用)

つまり、シオニズム運動が育ったポーランドやロシアにおけるタカ派ナショナリズム思想の影響を強く受けた思想潮流が、現在のイスラエルを非ユダヤ人(その多くは元々パレスチナに住んでいたアラブ人)にとって、法的な権利さえ異なる国家としてしまったのです。白人と黒人で法的な権利が異なった、アパルトヘイト時代の南アフリカを想起させる状態が現出しています。現在のイスラエルは、内側に対してこのような社会であることをまずご確認下さい。

3-2.相互監視国家化

さらに、慢性化する戦時体制のため、ネタニヤフ首相(在任: 1996年6月18日 - 1999年7月6日、2009年3月31日 - 2021年6月13日、2022年12月29日 -)の右翼タカ派方針に反対する意見の表出が難しくなっている社会の雰囲気があります。再びシペルの記述を参照します。

“ 数学者ダニエル・クロンベルクによると、イスラエルの生活で最も息苦しいのは、ユダヤイスラエル人の多数派がつくり出す「閉鎖的な精神性」だという。「シオニズムという言葉は、どんな状況であってもイスラエルの政策を支持することを意味するようになった。「お前はシオニストでない」と言われた時点で敵扱いされ、意見を聞いてもらえなくなる」と嘆く。イスラエルではこうした傾向は昔からあったが、一五年ほど前からさらに強まった。最悪なのは、「「あなたは人種差別主義者だ」と非難すると、相手は「そうだよ。それがどうした?」と言い返してくることだ」と嘆く。”
(『イスラエルvs.ユダヤ人』、203頁より引用)

“ 数学者コビ・スニッツは、「今日のイスラエルでは、気に入らない人物を追い払うには濡れ衣を着せればよい。密告の時代の到来だ」と悲憤する。……”
(『イスラエルvs.ユダヤ人』、205頁より引用)

“ 教育者ヤニヴ・サギーは左派の熱心なシオニストであり、ユダヤ・アラブ友好組織「ギヴァット・ハヴァイヴァ・センター」の設立者でもある。二〇一八年、サギーは家族とともに過ごしたアメリカでの長期滞在から戻ってきたとき、自分の国では安らいだ気持になれないことを痛感したという。「イスラエルでの暮らしに生まれて初めて恐怖を覚えた。この恐怖は、イランやハマスといった外部でなく、人種差別主義者やナショナリストといった内部から生じる」。”
(『イスラエルvs.ユダヤ人』、208頁より引用)

 

戦時体制が慢性化しているため、政権の敵だと見なされる思考の持ち主にとっては迂闊に物が言えない社会が出来上がったしまったとシペルは見ています。このような社会が決して住みやすい社会ではなく、周辺の独裁体制が続くアラブ諸国と比べても、言論や思想信条においてどれほど過ごしやすい社会なのかは疑問が生じるところです。

3-3.反ユダヤ主義を容認するイスラエル

上記のように、イスラエルは非ユダヤ人のみならず、ユダヤ人にとっても政府のタカ派政策に反対する人にとっては居心地の悪い社会となってきました。しかし、驚くべきことに、21世紀に入ってから、長らくイスラエルの首相であるベンヤミン・ネタニヤフは、時折行うパレスチナへの大規模な空爆や、恒常的な衝突に対応できる自国の戦時体制を維持するため、なんと、他国の反ユダヤ主義を認めるようになっているのです。とりわけ、EU内の右派政権の筆頭であるハンガリーのオルバーン政権、及び、ポーランドの「法と正義」党の政権に対しては、両政権が国内での反ユダヤ主義政策を進めているのにもかかわらず、友好関係を強化しています。長くなりますが、シペルの記述から事実関係を確認しましょう。

“ 二〇一七年七月一八日、ネタニヤフはハンガリーに赴き、オルバーンと会談した。ハンガリーに行〈←232頁233頁→〉く数日前、ネタニヤフは駐ハンガリーイスラエル大使ヨッシ・アムラニの失策を正すために介入を余儀なくされた。その経緯は次の通りだ。
 イスラエル大使はハンガリー政府に「ハンガリー生まれのユダヤアメリカ人投資家ジョージ・ソロス氏に対する批判活動は、悲痛な記憶だけでなく憎しみと恐怖を呼び起こす」という書簡を送り、明白な反ユダヤ主義に基づく批判を中止させるように申し入れていた。しかし、オルバーンはイスラエル大使の要請を一蹴した。
 ネタニヤフはこの事態をどう裁いたのか。ネタニヤフは、なんとイスラエル大使に対して「君の仕事は、自分が大使を務める国の政治に関わることではない。内政に干渉するな」と叱責したのだ。
 イスラエル外務省は広報官を通じて、「ジョージ・ソロス氏は、イスラエルの民主的に選出された政府を常に弱体化させてきた人物であり、イスラエル大使にはソロスに対する批判を和らげようとする考えはなかった」と弁解した。
 イスラエルでは、ごく一部の人々から「ネタニヤフとその側近たちは、政治的な同盟関係を築くために反ユダヤ主義者と手を組んでいる」という批判が噴出した。今回の場合は、オルバーンとの同盟関係を強化するために、オルバーンの反ユダヤ主義は不問に付された。”
(『イスラエルvs.ユダヤ人』、232-233頁より引用)

“ 二〇一八年二月、ポーランドの第一党「法と正義」党(党首ヤロスワフ・カチンスキ)は、ポーランドの国家あるいは国民がホロコーストに加担したと示唆した者を禁固刑に処す、という法案を可決させた。イスラエルはこの「記憶法」を激しく批判した。
 愛国心に溢れる「法と正義」党は、ポーランド第二次世界大戦の犠牲者に過ぎないというイメージをつくり出そうとしていた(これは、戦後のフランスにおいてド・ゴール主義者と共産党員が、レジスタンス活動にはほとんどの国民が参加していたと流布していたのに似ている)。
 ナチスの最大の犠牲者が、ユダヤ人とジプシー〈引用者註:「ジプシー」は今日では不適切とされる用語だが、原文ママ〉に次いでポーランド人だったのは確かだ。そうはいっても、ドイツ占領軍に協力したポーランドホロコーストの責任はないと言い切れるのだろうか。ましてや今日、ポーランドでは強烈な反ユダヤ主義が吹き荒れている状況だ。
 「記憶法」成立後も、ネタニヤフがポーランド政権と協力関係を維持すると、ホロコースト研究者〈←234頁235頁→〉からは非難の声が上がった。イスラエルで最も著名な歴史家イェフダ・バウアーは、「史実に対する愚かで、無知で、非道徳な裏切り」と切り捨てた。
 一方、ポーランドでは、政府がひそかに応援する反ユダヤ主義のデモが拡大した。ネタニヤフは押し黙った。また、ネタニヤフは、戦時中のリトアニアで、地元の指導者たちが黙認する中でユダヤ人の九五%が虐殺されたのに、そうした史実が捻じ曲げられていることも黙認した。
 ネタニヤフは事態を鎮静化させるため、ポーランド首相マテウシュ・モラヴィエツキとの交渉に半年を費やし、この法律の妥協案をまとめ上げた。イスラエルの歴史家から酷評されたこの妥協案の骨子は、この法律の基本的な内容を認める一方で、この時代のポーランド人にホロコーストの嫌疑をかける者を処罰しないことだった。
 二〇一九年二月、この一件は新たな展開を見せた。当時のイスラエルの外務次官イスラエル・カッツが、元イスラエル首相イツハク・シャミルが語った有名な文句「(ポーランドは)母乳とともに反ユダヤ主義を吸って成長した」を引用したのだ。
 今度は、ポーランド政府が激怒した。ポーランド首相マテウシュ・モラヴィエツキは、ネタニヤフに公式の謝罪を要求し、イスラエルで開催される予定だったイスラエルとヴィシェグラード・グループ(ポーランドハンガリーチェコスロバキア)との首脳会談への参加を取りやめた。イスラエルにとってこの首脳会談は、EUイスラエルに課す不利な規制を阻止するための主要な窓口だった。
 これはネタニヤフにとって屈辱的な敗北だった。『ハアレツ』の論説員アンシェル・プフェッファーは、「ポーランドとの一件で、ネタニヤフは歴史を弄ぶことの限界を思い知った」と記す。プ〈←235頁236頁→〉フェッファーによると、ユダヤ人虐殺に加担した事実はないとする歴史認識を推進するポーランドハンガリーリトアニアを、ネタニヤフは容認したという。
 プフェッファーは次のように解説する。
「ネタニヤフはいずれ高い代表を支払うことになる。イスラエル政府と同様、ポーランド政府も都合よく歴史を書き換えている。ようするに、両者とも自民族中心主義者なのだ。イスラエルパレスチナ人に対する犯罪を無視して歴史を書き換え、イスラエルへの批判を反ユダヤ主義というレッテルを貼って封じ込めるなら、ポーランドも同様のやり口で自分たちの過去を都合よく書き換える。こうした状況において、イスラエルポーランドの犯罪を非難する権利はあるのだろうか」。
 結局、ネタニヤフはポーランドの要求に屈して押し黙った。”
(『イスラエルvs.ユダヤ人』、234-236頁より引用)

 

このように、ネタニヤフ政権は、反ユダヤ主義のレトリックを使ってジョージ・ソロスを批判するハンガリーの右派オルバーン政権や、自国の反ユダヤ主義者のデモを密かに支援しているポーランドの右派政権との関係を、右派政権同士の繋がりを重視する立場から強化しています。そしてこのことは、テオドール・ヘルツルが、反ユダヤ主義に対抗するために立ち上げたはずのシオニズムが、今や反ユダヤ主義と闘わなくなったことを示しています。反ユダヤ主義が吹き荒れる現在のハンガリーに住むユダヤ人を、イスラエルは最早見捨てていると、シペルは論じています。

“ ネタニヤフと彼の側近、そして入植者であるウルトラ・ナショナリストにとって、反ユダヤ主義の台頭する国の指導者との同盟関係がイスラエルの強化に寄与する限り、この同盟関係の維持は、そう〈←347頁348頁→〉した国で暮らすユダヤ人の保護よりも優先される。
 基本的に、これらのシオニストは、ディアスポラユダヤ人〈引用者註:ディアスポラとは祖国を離れ、世界各地に離散して過ごす人々を指す〉がどんな目に遭おうが関心を持たない。ディアスポラユダヤ人は、再燃する反ユダヤ主義を避けたかったのならイスラエルに移住すればよかったのだ。
 つまり今後、アメリカやヨーロッパなどで反ユダヤ主義が吹き荒れ、イスラエルがそれらの国の政権と緊密な関係を持つ場合、それらの国で暮らすユダヤ人は見放されるということだ。これこそがハンガリーで起こったことだ(ネタニヤフはイスラエルの利益を守るために、現地の反ユダヤ人運動に口出しするなとイスラエル大使に命じた)。”
(『イスラエルvs.ユダヤ人』、347-348頁より引用)

さらに、このようなあり方には、「反ユダヤ主義」の定義を必要に応じて操作する思想が投影されています。ざっくりいえば、イスラエルを批判する者は「反ユダヤ主義」と扱うけれども、明確にユダヤ人を排斥していても、イスラエル政府が認めるものは「反ユダヤ主義」ではないということです。

“ イスラエルには、(イスラム教徒、アラブ人、イラン人などの)闘うべき反ユダヤ主義者がいる一方で、同じ世界観を持つという理由から共闘する反ユダヤ主義者がいる。反ユダヤ主義者をこのように都合よく切り分けるのは、イスラエルに国際的な野望があるからだ。その目的は、反シオニズムを現代の反ユダヤ主義に仕立て上げることであり、全ての国際会議で反ユダヤ主義の「新しい定義」を採用させることだ。すなわち、イスラエルに対する批判はすべて反ユダヤ主義とみなすIHRA(国際ホロコースト想起連盟)の定義だ。
 イスラエルは、反ユダヤ主義の一例として、「ユダヤ人の自決権の否定」を挙げる。ところが、イスラエル国民国家法の中核にあるのが「ユダヤ人の自決権」なのだ。これはイスラエルユダヤ人にだけ付与された権利であり、ユダヤ人以外の国民、つまり、パレスチナ人には付与されていない。ようするに、イスラエルという同じ国で暮らすユダヤ人とパレスチナ人との間にある民族的な格差とは、まさにこの点である。
 IHRAの定義に従うと、この法律を否定することは反ユダヤ主義になる。また、アダム・シャッツが指摘するように、反シオニズムを現代の反ユダヤ主義と定義すれば、「パレスチナ人、アラブ人、イスラム教徒は、ほぼ全員が反ユダヤ主義者になってしまう」。しかしながら、これこそが「この新たな定義」の狙いなのだ。”
(『イスラエルvs.ユダヤ人』、352頁より引用)

“ イスラエルに対する敵意をナチズムの復活と見なすのは、今に始まったことではない。イスラエルは、武力行使に踏み切る際も攻撃の標的を「ナチス」に仕立て上げる。”
(『イスラエルvs.ユダヤ人』、215頁より引用)

 

第一章に戻ると、ハンガリー出身のテオドール・ヘルツルは「幾千もの地点でなぶり物にされ、痛めつけられ、非難され、鞭打たれ、略奪され、殴り殺される」*6ユダヤ人のために、シオニズム運動を立ち上げたはずでした。しかし現在、ヘルツル自身が生まれたハンガリーで、反ユダヤ主義を鼓吹するオルバーン政権をイスラエルは容認し、友好関係を強化してさえいます。もしもヘルツルが現在のイスラエルを見たならば、こんなはずではなかったと嘆くのではないでしょうか。このような地点こそがユダヤ人のナショナリズムであるシオニズム運動の行き着いたところだったのです。


4.ナショナリズムは差別を解決しない

本稿のまとめに入ります。

ヨーロッパで長く続いたユダヤ人差別は自由主義革命を経てもなくならず、キリスト教陰謀論、左翼社会主義にそれぞれ潜在しました。そして、反ユダヤ主義の行き着いた先が、ナチスファシスト枢軸によるショアー(いわゆるホロコースト)での、600万人ものユダヤ人の死でした。

他方、ユダヤ人差別への対抗として立ち上げられたユダヤ人のナショナリズムであるシオニズム運動は、イスラエルを建国したものの、21世紀に入ってからは、ヨーロッパで反ユダヤ主義を鼓吹するハンガリーポーランドも右派政権との友好関係を深め、これらの社会に住むユダヤ人を事実上見捨てています。そしてその間にも、ネタニヤフ政権と懇意だったトランプ大統領アメリカ合衆国で、2018年10月にペンシルヴェニア州ピッツバーグシナゴーグユダヤ教の礼拝堂)に乱入した白人至上主義・反ユダヤ主義の過激派による銃乱射事件が発生し、11人が死亡するという正真正銘の反ユダヤ主義事件が起きていたのでした。

そもそもなぜイスラエルが欧州の反ユダヤ主義右派政権との友好関係を保ってまで、現在のタカ派軍国路線を続けているかというと、それはパレスチナを効率的に弾圧するためなのでした。

かくして、パレスチナを弾圧するために、反ユダヤ主義に対抗するというシオニズム運動の本来の目的自体が雲散霧消し、極めて差別的で監視的で不自由な軍国社会となったイスラエルが残りました。1948年のイスラエル建国後も、アメリカ合衆国を筆頭に、世界には今もディアスポラユダヤ人社会が存在しますが、こうしたイスラエルの外にあるユダヤ人社会では、注目すべき現象が起きています。ユダヤ人のイスラエル離れが進んでいるのです。シルヴァン・シペルはこの現象について、次のように書いています。

“ マイケル・ウォルツァー、ドヴ・ワックスマン、ヘンリー・シーグマンなど、アメリカのユダヤ教文化の熱心な観察者たちによると、アメリカでは、彼らが「再生ディアスポラ」と呼ぶ現象が起きているという。これはアメリカのユダヤ人の文化と経験から生じた現象であり、ユダヤ人にはユダヤ教文化への帰属を強く要求するが、イスラエルとは距離を置く、さらにはイスラエルに対して敵意を抱くという現象だ。”
(『イスラエルvs.ユダヤ人』、313頁より引用)

 

また、アメリカ系ユダヤ人の作家、ジェイコブ・バカラックは、『ニュー・リパブリック』誌2018年9月の特集号、「分断されたディアスポラ」に、「アメリカという故郷で」を発表しました(『イスラエルvs.ユダヤ人』318頁)。その中でバカラックは、イスラエルにうんざりしていること、アメリカ合衆国ユダヤ人はシオニズムを忘れるべきであること、ユダヤ人は現在住んでいるアメリカ合衆国で持続性のある本物のユダヤ人共同体を構築することを課題とすることなどを述べた上で(『イスラエルvs.ユダヤ人』318-319頁)、次のように続けます。

“ バカラックの夢は次の通りだ。「私はユダヤ人であって、イスラエルは自分には関係ない」と宣言し、また、人種差別、とくにアメリカで再燃する反ユダヤ主義に対して、イスラエルに操作されることなく闘えるようになることだ。”
(『イスラエルvs.ユダヤ人』、319-320頁より引用)

 

もはやイスラエルは、アメリカ系ユダヤ人の少なくない部分から、反ユダヤ主義に対抗する存在ではないと見られ、見限られつつあります。20世紀の間のアメリカ系ユダヤ人で明確にイスラエルに反対していたのはイマニュエル・ウォーラーステインノーム・チョムスキーのような左翼系の人物にほぼ限られていたことを考えると、これは驚くべき変化です。希望はここにあります。

最後に、以下に引用するテオドール・ヘルツルの言い分について、アナーキストである私からの意見を述べ、本稿を閉じることにします。

“ さらにこう言う人がいるかもしれない、「我々は人間たちの間に新たな差別を持ち込むべきではない。いかなる新しい国境も設けず、むしろ古い国境を解消させるのだ」と。――そう考える人は愛すべき夢〈←98頁99頁→〉想家だと私は思う。しかし、もしも祖国理念が依然として栄えるならば、彼らの骨灰は跡かたもなく吹き散らされてしまうだろう。普遍の同胞愛などは美しい夢ですらないのだ。個性的存在の至高の努力にとって必要なのは、敵なのである。”
(テオドール・ヘルツル/佐藤康彦〔訳〕「ユダヤ人国家――ユダヤ人問題の現代的解決の試み」『ユダヤ人国家』法政大学出版局〈叢書・ウニベルシタス330〉、1991年5月30日初版第1刷発行、98-99頁より引用)

上記の通り、ヘルツルは、彼のシオニズム思想を批判して「我々は人間たちの間に新たな差別を持ち込むべきではない。いかなる新しい国境も設けず、むしろ古い国境を解消させるのだ」(98頁)と述べる人を、「愛すべき夢想家」(98-99頁)だと呼びました。しかしながら繰り返し述べるように、イスラエル国家が反ユダヤ主義を掲げる他国の右派政権を公然と認めるに至った現在にあっては、ヘルツルが唾棄したこの「愛すべき夢想家」の立場こそが、ユダヤ人問題解決のための最も現実的な手段だと私は考えています。

ユダヤ人のナショナリズム思想であるシオニズムユダヤ人差別を解決せず、むしろ容認する方向に進んでしまったことは、あらゆるナショナリズムが原理的に差別を解決できないことを示しています。だからこそ、国民国家のない世界を目指すアナーキズムは、むしろ現在にあって最も現実的な社会思想となるのです。プルードンバクーニンのようなアナーキズムの先駆者に反ユダヤ主義言説があったからといって、決してアナーキズム思想を丸ごと放棄してはならないのです。


これを書いている最中、残念なことに、イスラエル軍によるパレスチナへの報復空爆のニュースが報じられました。一刻も早く停戦が実現し、ナショナリズムというもはや肯定的な意味を持たない思想のために、双方の血が流れずに済む世界が実現することを望んで已みません。今回の戦争が一刻も早く終わることを望みつつ擱筆します。

 

追記

引用した頁に誤りがあることに気がつき、その点につき修正致しました。

イスラエルvs.ユダヤ人』、344-345頁より引用と書いていた引用部につき、正しくは347-348頁より引用の誤りでした。ご迷惑をおかけしましたことをお詫び申し上げます。

また、第4章のジェイコブ・バカラックについて引用した部分が唐突だと感じたため、『イスラエルvs.ユダヤ人』から背景について加筆しました。全体の論旨については変わりはありません。

 

(以上、2023年10月18日追記)

 

 

本稿執筆後に読んだ上田和夫『イディッシュ文化――東欧ユダヤ人のこころの遺産』(三省堂、1996年)に、シオニズム運動の先駆は、ロシア帝国における1881年ポグロムをきっかけに生まれた、ヘブライ語講座やパレスチナへの移住を説く「シオンの愛運動」、および、その運動に大きな影響を与えた現ウクライナオデッサのレオン・ピンスケルが書いたドイツ語の小冊子、『自力解放、ロシアの同胞への警告』(1882年)であることが記されていました。本稿執筆者は恥ずかしながらこの事実を知らず、本稿ではテオドール・ヘルツルをシオニズム運動の元祖として扱っています。ただし、ロシアで生まれたシオニズム運動は西欧、北米、ドイツでの影響をほとんど持たず、「自由主義による同化が反ユダヤ主義を克服できず破綻したこと」に、ユダヤ人のナショナリズム運動であるシオニズムのスタートを視る視点自体は誤っていないと感じたため、第一章に以下の語句を追記することで済ませています。ご批判をいただけますと幸甚です。

(2023年11月5日追記:厳密にはシオニズム運動を立ち上げたのは、ロシア帝国における1881年ポグロムに対応したロシア帝国ユダヤ人であり、その中から生まれた現ウクライナオデッサのレオン・ピンスケルが書いたドイツ語の小冊子、『自力解放、ロシアの同胞への警告』(1882年)であり、執筆者は本稿執筆時にこのことを詳しく知りませんでした(参照:上田和夫『イディッシュ文化――東欧ユダヤ人のこころの遺産』三省堂、東京、1996年12月10日第1刷発行、88-89頁。)しかし、本稿では「自由主義による同化が反ユダヤ主義を克服できず破綻したこと」にユダヤ人のナショナリズム運動の元祖を見たいので、本稿全体の記述を損なうものではないと思い、この追記をするに留めます。)

また、本稿第三章の初稿で私は以下のように書きました。

ハンガリー出身のユダヤ人、テオドール・ヘルツルがユダヤ人差別に対抗するためとに立ち上げたユダヤ人のナショナリズムであるシオニズムは、その間にも、時にナチスと「反イギリス」で協力しつつ、イギリス領パレスチナで入植地を拡大し、イギリス植民地権力やアラブ人との武装闘争を経て、1948年にイスラエルを建国しました。

上記の記述には幾分不正確な部分があったため、以下のように書き改めます。(太字は修正箇所)

ハンガリー出身のユダヤ人、テオドール・ヘルツルがユダヤ人差別に対抗するために本格化させたユダヤ人のナショナリズムであるシオニズムは、その間にも、時に内部の極右分子がナチスと協力する傾向さえ見せつつ、イギリス領パレスチナで入植地を拡大し、イギリス植民地権力やアラブ人との武装闘争を経て、1948年にイスラエルを建国しました。

ポイントとしては、

1.上記のロシア帝国における1881年ポグロムから生まれたシオニズム運動が存在したことに留意した記述にしたこと。

2.最初の「時にナチスと『反イギリス』で協力しつつ」という書き方だと、労働シオニストや親英的なシオニストを含む全てのシオニストナチスに協力していたように読めてしまうと思い直しました。上記の記述はレヒのようなイギリス領パレスチナシオニスト内の極右が第二次世界大戦時に反イギリスでナチスに協力を申し出ていたこと(ナチス側は黙殺)を念頭に書いたのですが、それを親英分子もいたシオニスト全体に拡大するのは誤った記述であること、この書き方だとハヴァラー協定のような「反イギリス」に限らないシオニストナチスの協力を対象にできなくなってしまうことを今回読み直して感じました。ここに、このような重大な問題に関して、不正確な記述をしていたことをお詫び申し上げます。

なお、ハヴァラー協定に関しては、前田慶穂「だれがアンネを見殺しにしたのか――ホロコーストシオニズムアメリカ」広河隆一パレスチナユダヤ人問題研究会〔編〕『ユダヤ人とは何か――「ユダヤ人」1』三友社出版、東京、1985年12月15日初版第1刷発行をご参照ください。こちらのリンクより、国会図書館デジタルコレクションにて閲覧可能です。

 


(以上、2023年11月5日追記)

 

*1:野村真理『ガリツィアのユダヤ人――ポーランド人とウクライナ人のはざまで』人文書院、京都、2008年9月30日初版第1刷発行、236-237頁、注釈21より。

*2:ノーマン・コーン/内田樹〔訳〕『シオン賢者の議定書――ユダヤ人世界征服陰謀の神話』KKダイナミックセラーズ、東京、1986年、17頁。

*3:ノーマン・コーン/内田樹〔訳〕『シオン賢者の議定書――ユダヤ人世界征服陰謀の神話』KKダイナミックセラーズ、東京、1986年、18-24頁。

*4:ノーマン・コーン/内田樹〔訳〕『シオン賢者の議定書――ユダヤ人世界征服陰謀の神話』KKダイナミックセラーズ、東京、1986年、23頁より引用。

*5:デニス・プレガー、ジョーゼフ・テルシュキン/松宮克昌訳『ユダヤ人はなぜ迫害されたか』東京、1999年10月20日初版発行、248-249頁より引用。

*6:テオドール・ヘルツル/佐藤康彦〔訳〕「ユダヤ人国家――ユダヤ人問題の現代的解決の試み」『ユダヤ人国家』法政大学出版局〈叢書・ウニベルシタス330〉、1991年5月30日初版第1刷発行、102頁より引用。

【2021年再掲】近代日本に於ける思想と文学の社会性の起源についての考察――人生相渉論争を基準にした思想と文藝の存在意義について――

以下は、2013年に友人のラッコ君(twitterID: @rakkoannex)の『概念迷路』という雑誌に寄稿した「近代日本に於ける思想と文学の社会性の起源についての考察――人生相渉論争を基準にした思想と文藝の存在意義について――」の再掲となります。

 

「近代日本に於ける思想と文学の社会性の起源についての考察」再掲に当たっての弁明 - 夢現抄

 

上述の弁明の通り、アナキストとなった現在では当時とは考えが異なる部分や、ぎこちない文体など修正したい箇所が多々あるのですが、最小限の修正に止めてあります。「文科の学(純文学のみならず、歴史学、哲学、社会科学を含む明治時代までの「文学」が指していた意味です)の社会的意義存在意義とは何なのか?」というテーマについて、何かしらの考える材料となってくれれば望外の喜びです。

 

 

一.序言

 

 元来本稿は、論文として書く構想を持っていたものであった。しかし、書き進める内に、私――いうまでもなく、これは他の誰でもない私である――は、本稿を論文として書くことへ次第に違和感を覚えはじめた。フランシス・ベーコンデカルトニュートン、カントといった西洋思想史の碩学に象徴される自然科学の方法は、客体(自然)を特権的に、客体から作用されることなく認識する不動の立脚点として主体(近代的個人)を措定してきた。開国以後の本格的な西洋自然科学と共に我が国にもたらされた論文という文章の様式は、この客体を特権的に認識する主体を前提としており、従って「私」という立場に自己言及しないことが作法とされる。かくの如きである。

 

 論文になじまない文体で書く学生が多い。論文と、作文・感想文は明確に異なる。論文とは客観的な記述になっていないといけないので、「私は……と思う」というような主観的な記述は行ってはならない。

山内志朗『ぎりぎり合格への論文マニュアル』平凡社平凡社新書一〇三〉、二〇〇一年九月十九日初版第一刷、一五三頁より引用)

 

 

 私は山内氏の学者的態度に最大限の敬意を表する。しかしながら、私にはどうしても、この立場に与することができなかった。

 本稿は思想を論じる。本稿で論じる思想とは広義の思想であり、本論で述べるのは、広く詩、小説、史学、社会科学、時評などを含めた明治時代の日本国に於ける「文学」が意味していた、広漠たる文章一般である。そして、本稿がこの広義の思想を客体として論じる以上、主体として私が本稿を書くことは、微力ながらも思想の生産の一端に関わっていることは疑いのない事実である。従って「思想を論じる思想」という自己言及をせざるを得ないからである。

 ニュートン主義的な自然科学と、自然科学との対抗関係で生まれた近代社会科学、人文学では山内氏が述べたように「客観的な記述」が何よりも重視される。「価値中立性」乃至「価値自由」という訳である。社会学者の述べるところによれば、このような問題は、既に社会科学が発達した19世ドイツの新カント派の学問観にまで遡ることができるようだ。新カント派のヴィンデルバント、リッカートはニュートン流の自然科学の単純な因果関係的決定論を「法則定立科学」と呼んで、それに対して自らが主題としていた歴史や社会の複雑に入り組んだ相互関係についての科学を「個性記述科学」と呼んで両者を区別し、後者の「個性記述科学」の流れから二十世紀の大社会学マックス・ウェーバーが現れたとのことである(犬飼二〇一一年、一四〇~一四二頁)。そして、改めて確認するが、社会科学がニュートン流の自然科学の延長線上にあると位置づけようとしたドイツの新カント派の学者諸氏の論文という叙述様式がある以上、客体観測点としての主体はその地位を問われることがない。

 しかし、素朴な実感として、主体が客体を観測する動機を問われないということに対して、そして主体が主体として客体を論じる動機を自己言及しないということが、現実の社会関係の中で有り得るのだろうかという疑問が涌いてくるのである。私は物理学に於いては門外漢だが、仄聞する限りでは、実は現代の物理学に於いては観測主体が観測される客体に影響を及ぼすということがイリヤ・プリゴジーヌによる複雑性の研究によって明らかにされている(ウォーラーステイン二〇〇一年、二八六~二九一頁、三二八~三三一頁)。つまり、現代の物理学の最前線は、自然科学でありながら、これまで社会科学が拠って立ってきたニュートン主義の科学観とは異なっているのである。

以上のようなニュートン主義の自然科学と、科学が含意する価値中立性、客体からの作用を受けない主体という考え方を拒否すべく、私は本稿に於いて、中立的な立場を取らず、特定の価値観に沿った記述を行うことにした。それは、複雑性の物理学がニュートンのような観測主体と観測客体との間に一方的な関係を設定せずとも科学的真理に至るということを私が情報として知ったからであり、その限りで本稿の叙述様式は論文ではなく、評論でもなく、漠然としたものとなった。無論、本稿は科学的真理を目指す訳ではない。しかしながら、本稿で目指すのは真理であり、その点に於いて役に立たぬ物ではないと強調したいのである。それは本稿の問題設定を考える内に、今日の思想と文藝の頽廃に対し、云うべきことを云わず、為すべきことを為さぬは断じて名誉ではないと思い至ったからである。

 

 本稿は以下のような構成になっている。第二章では山路愛山と北村透谷の生涯を概略する。第三章では山路愛山と北村透谷が一八九三(明治二六)年に行った「人生相渉論争」を題材に、近代日本に於ける思想と文学の社会性の起源を考察する。第四章では小林秀雄保田與重郎の小編に、北村透谷の思考の帰結を考察する。第五章では三木清に、山路愛山の主題が持つ危険性(リスク)を考察する。第六章では、マルクス主義の理論史的展開と、毛沢東の『文芸講話』に、山路愛山流の思考の極限を見出す。第七章では内村鑑三の『後世への最大遺物』を題材に、本稿全体をまとめる。以上の考察を通じ、近代日本に於ける思想と文学の社会性の起源について考察し、併せて科学と哲学の関係を考える上での試論を提供することが本稿の目的である。

 なお、引用に際しては原則として旧字旧仮名の部分はそのまま引用し、必要に応じて一部を新字に改めたが、原文中にあった傍点部は省略した。

 また、時代柄引用文中では中国を指して「支那」という言葉が用いられており、既に一九一〇年代~一九二〇年代にかけて中国人から日本人が「支那」という言葉を用いることが両国の友好関係を阻害しているとの指摘がなされていたこと、及び一九三〇年十月に中華民国からの要請に応じて、それまで「支那共和国」と表記されていた中華民国を公文書上で「中華民国」と表記することを協定した事実を鑑みて*1、原則としてこの言葉を用いるべきではないというのが私の判断であり、「中華」や「中国」という概念の曖昧さや価値中立性を問題にして「支那」を用いるべきだと主張する意見に対しては、近代に於ける日中両国の国民感情のわだかまりを考慮して『今昔物語』や日蓮遺文、『神皇正統記』など平安時代から室町時代にかけて長らく用いられてきた「震旦」という言葉を用いるべきだと思っているが、引用文中で「支那」が用いられている際はそのままにした。

 

二.山路愛山と北村透谷の生涯

 人生相渉論争について述べる前に、まずはこの論争の主役となった山路愛山(一八六五年~一九一七年)と北村透谷(一八六八年~一八九四年)について概観しておこう。透谷、愛山は共に明治時代の人であり、我が国に於いて「近代文学」と呼ばれる文藝のジャンルを育て上げた人物である。特に透谷が「純文学」の成立に与えた影響は巨大なものがあった。

 

 愛山は、透谷よりも三年早く、一八六五(元治元)年に幕府天文方見習山路一郎の息子として江戸で生まれ、本名を彌吉といった。幼くして維新革命によって山路家が代々忠義を尽くしてきた徳川幕府が瓦解し、父山路一郎が彰義隊玉砕の後函館の榎本武揚に従って官軍に捕えられると、山路一家は七〇万石に減俸された徳川家と共に静岡に移住することを選んだ。旧賊軍の士族として故郷の江戸を離れて育ったことは、家庭を省みない父一郎との葛藤と共に愛山の人格形成に大きな影響を与えた。一八八六(明治一九)年に静岡メソジスト教会の牧師、平岩愃保から洗礼を受け、以後プロテスタントメソジスト派キリスト教徒、及び宣教師として生涯を過ごした一八八八(明治二一)年に戦前日本の論壇の大物であった徳富蘇峰の主宰する『国民新聞』に寄稿、一八九二(明治二五)年に蘇峰に誘われて民友社に入社し、以後ジャーナリストとして新聞などで編集者を務めた。翌一八九三(明治二六)年に民友社の社員として『文學界』の北村透谷と「人生相渉論争」を行っている。尤も、以下述べるように透谷と愛山は気質的にはかなり違う性質であったものの、個人としては仲が良かったとのことである。

 日露戦争に際しては自ら「帝国主義の信者」を任じて非戦論者の内村鑑三と論争を行った。一九〇五(明治三八)年には「国家社会主義者」を任じて、堺利彦ら明治社会主義者達と社会主義思想について論争を行ったが、一九一〇~一九一一(明治四三~四四)年の大逆事件によって、幸徳秋水社会主義者一二名が処刑され、社会主義の冬の時代が訪れた際は、愛山は堺に自らが主宰する『国民雑誌』や『独立評論』に誌面を提供している。透谷との論争でもそうだったが、堺との論争についても、論そのものについては批判しながらも、それぞれの人物とは実は仲が良かったことがよく分かるエピソードだと言えよう。その他愛山は史論家、警世家として『足利尊氏』(一九〇九年)、『源頼朝』(一九〇九年)、『徳川家康』(一九一五年)、『支那論』(一九一六年)、『世界の過去現在未来』(一九一七年)などを著述し、英雄伝を通して日本史を叙述することや時事評論をライフワークとしていた。一九一七(大正六)年に五四歳で病没した。

 一方、透谷は一八六八(明治元)年に小田原藩士の子として生まれ、本名を門太郎といった。母親との不仲もあって厭世家に育ち、さらに心を寄せていた自由民権運動の過激化と腐敗に絶望して運動を離れ、一八八八(明治二一)年に日本一致教会の数寄屋橋教会にて洗礼を受け、プロテスタントキリスト教徒となり、同年に結婚している。キリスト教への改宗後、日本平和会に入会して機関紙『平和』の編集者となる傍ら文学を志し、「厭世詩家と女性」(一八九二年)に於いて、「恋愛は人世の秘鑰〔ひやく〕なり、恋愛ありて後人世あり、恋愛を抽〔ぬ〕き去りたらむには人生何の色味かあらむ」と近代日本に於ける恋愛至上主義を率直に表明した。今日に至るまで、恋愛至上主義がどれだけ映画、小説、ドラマ、アニメ、漫画等々の主題を占めているかを考えれば、この一事だけで透谷の存在感の重さは疑い得ないであろう。その後透谷が一八九三年に創刊された文藝雑誌『文學界』の同人となり、この年に本章の主題となる山路愛山との「人生相渉論争」を行った。しかしながら透谷が抱えていた虚無感は止むことなく、一八九四年五月に自宅で首を吊って自決している。二七歳の若さであった。

 以上、簡単に山路愛山と北村透谷の略歴を述べたが、幾つか共通点を見出すことが可能であろう。まず、二人が旧士族として生まれ、「四民平等」を掲げた明治の御一新の世相の中で身分特権を失う原体験を経ていること、次に、各々事情は異なるものの、若くしてプロテスタント系のキリスト教徒となっていること、最後に、以上二点から推測できることとして、両者とも時代の大転換に伴う崩壊感覚を抱えていたことである。以上の伝記的事実を確認した上で、「人生相渉論争」に移ることにしよう。

 

 

三.「人生相渉論争」とは:愛山と透谷の大論争

 

 本章では、本稿最大の主題である「人生相渉論争」について述べるが、その前に少しだけ寄り道をする。雑誌や新聞紙上での「論争」が成立するには、文壇乃至論壇の存在が前提として必要だが、その文壇乃至論壇が近代日本に於いて如何に始まったかを確認しておきたいからだ。鈴木貞美は次のように述べている。

 

 明治中期まで、一般には、論壇と文壇は区分されず、広義の「文学」ないしは文章に携わる者の集まりという意味で、「文壇」と呼ばれていた。文芸雑誌『我楽多文庫』が一八八五年五月に販売開始、『都の花』(金港堂、月二回)が一八八八年一〇月に創刊。一八八九年に民友社の『国民之友』が「附録」として小説を導入、硯友社を中心に吉岡書籍店が「新著百種」のシリーズを出すなどして創作小説の社会的価値は次第に増していった。それに伴い、狭義の「文学」、言語芸術にたずさわる人が自分たちのグループを指して「文壇」ということもあったが、政治家が漢詩をつくり、政治や社会の現実に憤り、民衆啓蒙のために政治小説を書いていた時代に、格別の区分けはなされなかったと見てよい。

鈴木貞美『入門 日本近代文芸史』平凡社平凡社新書六六七〉、二〇一三年一月一五日初版第一刷、九七頁より引用)

 

 

 つまり、一八八〇年代には「文壇」と呼ばれるものはあったような、なかったような朧気なものであったということである。この事情が変わるのは一八九〇年代に入ってからであり、鈴木貞美は前掲書の中で、一八九〇(明治二三)年に行われた「浮城物語論争」を以て「人生相渉論争」の前哨としているが(鈴木二〇一三年、九八~一〇〇頁)、ここでは「浮城物語論争」には立ち入らない。

 さて、「人生相渉論争」は山路愛山が一八九三(明治二六)年一月に『国民之友』誌上に発表した、「頼襄を論ず」と題された評論を契機に、そこで表明された愛山の文学観を、透谷が同年二月に『文学界』誌上で発表した「人生に相渉るとは何の謂ぞ」で批判したことによって始まった。以下、坂本多加雄の説を参照しながら、両者の論点を確認していこう。

 北村透谷が批判した山路愛山の文学観は、江戸時代後期の日本史家であり、『日本外史』(一八二七~一八二九)の著者として著名な頼山陽(一七八一~一八三二)について論じた「頼襄を論ず」の書き出しに当たる以下の部分であった。

 

 文章即ち事業なり。文士筆を揮〔ふる〕ふ猶英雄剣を揮ふが如し。共に空を撃つが為めに非ず為す所あるが為也。万の弾丸、千の剣芒、若し世を益せずんば空の空なるのみ。華麗の辞、美妙の文、幾百巻を遺して天地間に止るも、人生に相渉〔あひわた〕らずんば是も亦空の空なるのみ。文章は事業なる故に崇むべし、吾人が頼襄[らいのぼる]を論ずる即ち渠〔かれ〕の事業を論ずる也。

山路愛山「頼襄を論ず」、北村透谷、山路愛山現代日本文學大系6 北村透谷・山路愛山集』筑摩書房、一九七七年四月二〇日初版七刷、二七六~二七七頁より引用)

 

 

 坂本多加雄はこの部分について、「一読して明らかなように、ここでの「文士」はのちの小説家という意味ではなく、むしろ「武士」に対比されているものである。すなわち「武士」が「剣」によって成し遂げる「事業」を、「文士」は「筆」によって行うのだというのである」(坂本一九九六年、二七頁より引用)と述べているが、この「文士」対「武士」という対比は、既に確認してきたように、愛山が(そして透谷も)旧幕臣(武士)の息子として生まれたということを考えれば重要な点だと言えよう。そして、この点を透谷は批判するのである。次の如くである。

 

 反動は愛山生[山路愛山]を載せて走れり。而して今や愛山生は反動を載せて走らんとす。彼は「史論」と名くる鉄槌を以て撃砕すべき目的を拡めて、頻〔しき〕りに純文学の領地を襲はんとす。反動をして反動の勢を縦〔ほしいまま〕にせしむるは余も異存なし、唯だ反動を載せて、他の反動を起さしむるまで遠く走らんとするを見る時に、反動より反動に漂ふ運命を我が文学に与ふるを悲しまざる能はず。愛山生は、文章即ち事業なる事を認めて、「頼襄論」の冒頭に宣言せり。何が故に事業なりや。愛山生は之を解いて曰く、 第一 為す所あるが為なり。 第二 世を益するが故なり。 第三 人生に相渉るが故なりと。

(中略)

愛山生が、文章即ち事業なりと宣言したるは善し、然れども文章と事業とを都会の家屋の如く、相接近したるものゝ如く言ひたるは、不可なり。敢て不可といふ。何となれば、聖浄にして犯すべからざる文学の威厳は、「事業」といふ俗界の「神」に近づけられたるを以て損ずべければなり、八百万〔やほよろ〕づの神々の中に、事業といふ神の位置は甚だ高からず。文学といふ女神は、或は老嬢〔オールドミス〕にて世を送ることあるも、卑野なる神に配することを肯〔がへ〕んぜざるべければなり。

(北村透谷「人生に相渉るとは何の謂ぞ」、北村透谷、山路愛山現代日本文學大系6 北村透谷・山路愛山集』筑摩書房、九七七年四月二〇日初版七刷、一二〇頁、一二一頁より引用)

 

 

 つまり、透谷は、愛山が頼山陽という江戸時代の歴史家を基準に「文章」を「事業」としたことに対して、「純文学の領地」から、「文学の威厳」を「事業といふ神の位置」に近づけることを拒否したのである。

 愛山はこの透谷による批判の一カ月後、同年三月に発表した「明治文学史」にて、透谷を反批判している。

 

 文章即ち事業なりとは吾人の深く信じて疑はざる所なり。事業の全躰を以て文章なりと曰〔い〕はゞ固より誤謬〔ごびう〕なるべし。然れども文章世と相渉らずんば言ふに足らざるなり。

北村透谷君なる人あり。吾人が山陽論の冒頭に書きたる文章は事業なるが故に崇むべしと曰ひしをば難じたり。然れども彼は吾人を誤解せるのみ。彼は吾人を以て夫〔か〕の宗教家若しくは詩人、哲学者が世界的〔ウヲルドリイ〕と呼べるところの事業に渉らずんば無益の文章なりと曰ひたるが如く言へり。如何なれば彼の眼斯の如く斜視する乎。彼は自らを高くし、高、壮、美、崇、恋などいふ問題は恰〔あたか〕も自己独占の所有品にして吾人の如き俗物が(彼の見て以て俗物とする)関せざる所なるが如く言へり。彼は吾人を誣〔し〕ひて吾人の思はざることを思ひたるが如く言へり。

吾人が文章は事業なりと曰ひしは文章は即ち思想の活動なるが故なり、思想一たび活動すれば世に影響するが故なり。苟〔いやしく〕も寸毫〔すんがう〕も世に影響なからんか、言換ふれば此世を一層善くし、此世を一層幸福に進むることに於て寸功なかつせば彼は詩人にも文人にも非〔あらざ〕るなり。もし「事業」てふ文字を以て唯見るべき事功となさんには、若し「世を渉る」とてふ詞を以て物質的の世に渉ることなりせば吾人の文章とは事業なりと言ひしは誤謬なるべし。然れどもキリストの事業が三年の伝業に終らざるを知らば(彼の事業は万世に亘れる精神界の事業なり)、エモルソンの言へる如く大著述家は短き伝記を有することを知らば(彼の世と渉るは書中に活きたる彼の精神に在り)、吾人が斯く言ひしは当然なることなり。

山路愛山「明治文学論」、北村透谷、山路愛山現代日本文學大系6 北村透谷・山路愛山集』筑摩書房、一九七七年四月二〇日初版七刷、二八六頁より引用)

 

 

 この「人生相渉論争」の一年後に透谷が自決するまで、私生活では愛山との交流は続くのだが、本稿ではこの論争に絞って論じる。坂本多加雄はこの「人生相渉論争」が後の日本文学史にて、北村透谷を「純文学」の擁護者と看做す見解が主流を占めたことを以下のように纏めている。

 

 透谷の言う「純文学」という言葉で、われわれは、直ちに詩歌や小説を連想する。そして、いったん、そうした連想に立つと、「純文学」が「事業」でなければならないという主張は、われわれ自身の語感からしても、いささかの違和感を覚えざるを得ないであろう。かくして、この論争の意義も自ずから明らかとなる。すなわち、愛山の主張は、わが国において形成途上にあった「純文学」の理念に対する、実利的立場からする非難であり、透谷は、それに対して、萌芽〔ほうが〕期にある「近代文学」を擁護すべく果敢な抵抗を試みたのだということである。実際、この論争に対するこのような性格づけが、その後の明治文学史上における愛山への評価を決定的にしてしまった。「小汚い実証主義をかつぎ廻った一個の俗学者」(中野重治「芥川氏のことなど」、昭和3)とか、「卑俗な実利主義者」(小田切秀雄)といった評価の仕方がそれである。これに対して、透谷は、この論争後まもなくしての自死ということもあって、その余りにも早すぎた「近代文学の理念」のゆえに、挫折せざるを得なかった悲運の文学者ということになるのである。

坂本多加雄『知識人――大正・昭和精神史断章』読売新聞社〈二〇世紀の日本一一〉、一九九六年八月、二九頁より引用)

 

 

 そしてこの通説的な山路愛山の批判者である中野重治小田切秀雄が、共に昭和期に活動したマルクス主義文学者、文藝批評家であったことに注意しよう。このように通説的解釈を確認した上で、更に坂本多加雄自身のこの論争への評価を見ることにする。

 

 ただ、ここで問題となるのは、愛山が、われわれの理解するような意味での「文学的」なセンスを備えていたかということでは必ずしもない。また、そのことが、愛山の政治的立場を考えるうえで重要な意味を持つわけでもない。むしろ考えるべきは、そこに想定された政治的な対立関係の文脈をいったん捨象して、「文章即ち事業なり」という愛山の言葉が惹起〔じゃっき〕した対立の諸相を、あくまで、両者の言説内容に照らし合わせて考察すると、そこに如何〔いか〕なる構図が浮かび上がってくるかということなのである。ここで、改めて注意しなければならないのは、透谷が、自身の言葉としては「文学」ないし「純文学」という言葉を一貫して用いていたのに対して、愛山は、「文章」、「文学」をそれぞれ区別しないままに用いていたということである。透谷における「純文学」という言葉から、われわれは通常詩歌や小説を連想するのだが、それとは異なり、愛山が念頭においていた「文学」、あるいは、「文章」とは、先の頼山陽を始め、たとえば荻生徂徠新井白石の著述であり、同時代においては、「明治文学史」で扱った田口卯吉や福沢諭吉のそれであった。すなわち、「文章即ち事業なり」という言葉は、こうした人々の「文章」あるいは、「文学」を念頭におくものだったのである。すなわち、愛山の「文学」とは、今日の詩歌や小説を指すものというよりは、より広く、歴史、哲学、経済論、政治論を包摂するものであった。言い換えれば、今日では、自然科学を意味する「理学」に対して、文科系の学問全般を指すような意味での「文学」だったのである。愛山自身は「頼襄を論ず」で、そうしたなかでも、とりわけ史学の独自の意義を強調しようとしたのだが、そもそも、愛山が念頭においていたような広い意味での「文学」は当時の一般的な「文学」の語意に即したものであった。たとえば竹越与三郎は『新日本史 中』(明治25)で、「明治十四五年ほど、文学と時代と密接なる関係を有せしものはあらず。而して此文学の首領はミル、スペンサーの両人なりき」と述べて、ミル、スペンサーを「文学者」として扱っている。この他にも、こうした例は、当時においては枚挙に暇〔いとま〕がない(参照、坂本多加雄山路愛山』昭和63)。

 もっとも、愛山自身は、上のような伝統的意味での「文学」のジャンルを念頭におきながら、そこでの「文学」についての自己の理想とするところを詩歌にも及ぼそうとした。それに対して、透谷は、わざわざ「純文学」という言葉を掲げることで、詩歌や小説が、従来の「文学」とは異なる理念に立つべきものであることを主張しようとした。すなわち、この論争は、従来は多様な分野にわたる言語作品を包摂していた「文学」の中で、詩歌や小説が分離して独自のジャンルとなり(純文学)、さらに、それが、今日のように「文学」という呼称をもっぱら独占するようになっていく過程で生じたものであった。その意味で、透谷が、近代的な意味での「文学」、すなわち、今日、われわれが言うような意味での「文学」という概念が形成されるうえで重要な役割を果たした人物であるという点は疑うまでもない。

 しかしながら、ここで問題としたいのは、愛山の小説や詩歌についての見解の妥当性ということよりも、彼が、従来の意味での「文学」に属する主要なジャンル、すなわち、史論や哲学、政治論、経済論を念頭において、「文章即ち事業なり」と述べたことの意義をどのように捉えるのかという点である。ここで、全く仮説的事態を設定して、愛山が、マルクスの「文学」を念頭において「吾人が文章は事業なりと曰ひしは文章は即ち思想の活動なるが故なり、思想一たび活動すれば世に影響するが故なり」と述べたとすれば、愛山の所論は、どのように評価されたであろうか。透谷に倣〔なら〕って、「文学のユチリチー論」であるとして直ちに斥〔しりぞ〕け得たであろうか。このような仮説的想定によって明らかになるのは、愛山と透谷の両者の論争の意義が、狭義の「近代文学史」の領域に留まらず、より広範な領域に関わっていくものであったということである。すなわちこの論争は、およそ、「知識」・「思想」が、そして、その表現の媒体となる「文章」が意義を有するとすれば、それは、果たしてどのような意味においてであるのかという、より普遍的な問題に関わるものであったということである。

坂本多加雄『知識人――大正・昭和精神史断章』読売新聞社〈二〇世紀の日本一一〉、一九九六年八月、三三~三五頁より引用)

 

 

 やや長い引用となったが、これで何故私がこの「人生相渉論争」にこだわるかが理解できるであろう。坂本が述べたように、「人生相渉論争」は「文學」という言葉が今日の詩歌、小説――透谷のいうところの純文学――に意味を狭められる過程で起きた大変重要な論争であり、なおかつ、愛山のいう「文學」(以下、この意味での文学を「広義の文学」と呼ぶ)が詩歌のみならず「より広く歴史、哲学、経済論、政治論」、つまり今日でいう社会科学を含むものであった。ちょうどこの論争が起きた一八九〇年前後に、ドイツ帝国の新カント派の学者、ヴィンデルバントやリッカートらが、ニュートンに代表される自然科学を「法則定立科学」と呼んだのに対し、彼らが自ら従事していた歴史学等々を「個性記述科学」と呼んで記述を基礎づけようとしていたことを考えるに、この論争が狭義の近代文学史を超える射程を持っていたことは、改めて強調されるべきである。今日、思想、哲学、政治論、経済論、批評、詩歌、小説などはそれぞれバラバラに細分化されて鑑賞、研究されているが、果たしてそのような専門細分化は必要なことであったのだろうか。それは、実は共通の社会で共通の事実を見聞し、その結果として表現される種々の認識をも細分化してしまい、結果として、文学畑、哲学畑、批評畑、社会科学畑とそれぞれの分野で全く核となる問題意識も話も噛みあわないという事態を生んでしまったのではないだろうか。

 話を急ぎすぎてしまった。改めて主題に戻ろう。さて、愛山と透谷には「広義の文学」と「狭義の文学」(純文学)の対立が存在し、その文学観の差が一八九三(明治二六)年の「人生相渉論争」として争われたことは既に見てきた通りである。そして、どちらがその一二〇年後の二〇一三年の現在に至るまでの間に広範な思想――愛山風に言えばこれも「文学」である――を形作ってきたかと言えば、既に引用した中野重治小田切秀雄の愛山批判に見られるように、それは透谷の「純文学」なのであった。それでは、その透谷の「純文学」の理念とはどのようなものだろうか。ここでは透谷が論争後の一八九三(明治二六)年五月に発表した「内部生命論」を検討してみよう。

 

 文芸は宗教若〔もし〕くは哲学の如く正面より生命を説くを要せざるなり、又た能はざるなり。文芸は思想と美術とを抱合したる者にして、思想ありとも美術なくんば既に文芸にあらず、美術ありとも思想なくんば既に文芸にあらず、華文妙辞のみにては文芸の上乗に達し難く、左〔さ〕りとて思想のみにては決して文芸といふこと能はざるなり。此点に於て吾人は非文学党の非文学見に同意すること能はず。先覚者は知らず、末派のポジチビズムに於て、文学をポジチーブの事業とするの余りに、清教徒の誤謬を繰返さんとするに至らんことを恐るゝなり。(中略)…読者よ、吾人が五十年の人生に重きを置かずして、人間の根本の生命を尋ぬるを責むる勿〔なか〕れ、読者よ、吾人が眼に見うる的〔てき〕の事業に心を注がずして、人間の根本の生命を暗索するものを重んぜんとするを責むる勿れ、吾人の中に或は唯心的に傾き、或は万有的に傾むくものあるを責むる勿れ、吾人は人間の根本の生命に重きを置かんとするものなり、而して吾人が不肖を顧みずして、明治文学に微力を献ぜんとするは、此範囲の中にあることを記憶せられよ。

 明治の思想は大革命を経ざるべからず、貴族的思想を打破して平民的思想を創興せざるべからず、吾人が敬愛する先輩思想家にして既に大に此般〔しはん〕の事業に鉄腕を振ひたるものあり、吾人が若少の身分を以て是より進まんとするもの、豈に彼等の既に進みたる途〔みち〕に外〔はづ〕れんや、吾人豈に人情以外に出でゝベベルの高塔を築かんとする者ならんや、若し夫れ人間の根本の生命を尋ねて、或は平民的道徳を教へ、或は社会的改良を図る者をしも、ベベルの高塔を砂丘に築くものなりと言ふを得ば、吾人も亦たベベルの高塔を築かんとする人足の一人足るを甘んぜんのみ。

 文芸は論議にあらざること、幾度言ふとも同じ事なり。論議の範囲に於て、根本の生命を伝へんとするは、論議の筆を握れる者の任なり、文芸(純文学と言ふも宜し)の範囲に於て、根本の生命を伝へんとするは、文芸に従事するものの任なり。純文学は論議をせず、故に純文学なるもの無し、と言はゞ誰か其の極端なるを笑はざらんや。論議の範囲に於て、善悪を説くは、正面に之を談ずるなり。文芸の範囲に於て善悪を説くは、裡面〔りめん〕より之を談ずるなり。

(北村透谷「内部生命論」、北村透谷、山路愛山現代日本文學大系6 北村透谷・山路愛山集』筑摩書房、一九七七年四月二〇日初版七刷、一四六頁、一四七頁より引用)

 

 

 透谷が「文芸は思想と美術を抱合したる者にして」「文芸(純文学と言ふも宜し)の範囲に於て、根本の生命を伝へんとするは、文芸に従事するものの任なり」と書いているように、明治時代に理解されていた「文学」という言葉を狭義の文学=文芸=純文学に限定した上で「宗教若しくは哲学の如く正面より生命を説くを要せざるなり、又た能はざるなり」と、宗教や哲学とは独自に、文芸=純文学=詩歌や小説が「根本の生命」を表現することを目指していたことがここから推測できる。

 この「根本の生命」(或いはこの評論のタイトルに用いられた「内部生命」というのも同義であろう)が何を意味するのかは解りづらいが、ここでは坂本多加雄に従って、「ここでの「内部生命」とは、キリスト教の「いのち」の観念に由来するものであり、先の「永遠の生命」を言い換えたものである。すなわち、この「何物」かへの「瞬間の冥契」とは、「宇宙の精神即ち神なるもの」から「人間の精神即ち内部の生命なるもの」に対して向けられた「一種の感応」であり、「インスピレーション」に他ならない。人間はこの「インスピレーション」を通して、「超自然のもの」、「万有の極致」をありありと感知し、「生命」の永遠性を自己のうちに自覚するのである」(坂本一九九六年、四四~四五頁より引用)と解釈しよう。この見地に立てば、透谷は文芸=純文学を通して、永遠の生命を目指すことをその任務としたのであり、だからこそ透谷は「文芸は思想と美術を抱合したる者」と述べたのであろう。美しさこそが永遠の生命の要求なのでる。本稿でこれ以上この主題を論じることは筆者の能力上不可能だが、自ら「厭世詩家」を任じた透谷の純文学観が、このような宗教的生命観と通じていたことは、以後愛山よりも透谷が評価されてきたという近代日本思想の情景を考えるに際して決定的に重要だと思われる。

 

 そして、愛山に透谷のこのような「永遠」に通じる志向がなかったかというと、決してそのようなことはない。前章で概観したように、両者が維新革命後の四民平等の世にあって、消滅を余儀なくされた旧支配階級=士族の出身であり、更に二人とも家族問題等々への煩悶から近い時期にキリスト教に改宗しているように、二人はかなり近い境遇にあったのである。ただし、愛山の場合、透谷と決定的に違ったのはその永遠の志向過程であった。透谷が純文学を以て直接「内部生命」乃至「根本の生命」に参じようとしたのに対し(透谷自身が認めているように、これは殆ど宗教の役割である)、愛山はどこまでも現世の「事業」を通じて永遠を志向しようとした。一八九三(明治二六)年四月に発表された「唯心的、凡神的傾向に就て」ではかくの如く述べられている。

 事業を賤〔いや〕しむこと、吾人は信ず時〔タイム〕を離れて永遠〔エタルニチー〕なし、事業を離れて修徳なしと。時は即ち永遠の一部に非ずや、事業は即ち修徳の一部に非ずや、永遠の為めに現世を賤しむ者、修徳の為めに事業を軽んずる者は是れ矛盾〔パラドツキシカル〕の論法也。昔しは朱子理気の学を以て一代の儒宗たりしかども、猶且当世の務を論ずることを忘れざりき。今日の為めにする即ち永遠の為めにする也、己れの目前に置かれたる事業を喜んで為す、是れ修徳也。所謂善人善を為す惟日も足らざる者、一日の中には一日の事ある者是也、之れを思はずして、徒〔いたづ〕らに事業を賤しみ、之を俗人の事となし、超然として物外に徜徉〔しやうやう〕せんとするに至つては抑〔そもそ〕も亦名教の賊に非ずや。

山路愛山「唯心的、凡神的傾向に就て」、北村透谷、山路愛山現代日本文學大系6 北村透谷・山路愛山集』筑摩書房、一九七七年四月二〇日初版七刷、二九五頁より引用)

 

 本章をまとめよう。一八九三(明治二六)年に山路愛山と北村透谷の間で行われた「人生相渉論争」は、それまで歴史、哲学、思想、経済論、政治論などを包括する、「理科系の学」に対して「文科系の学」を意味していた広義の「文学」が、今日理解されている詩歌、小説(狭義の文学=純文学)に範囲を限定される過程で起きた論争であり、坂本多加雄が強調したように、「文学」を表現するための文章とは如何にあるべきかという方向を決定づけたものであった。そして、透谷はこの論争の翌年に首を吊るという悲劇的な最期を遂げたが、透谷死後の日本では、透谷のいう「純文学」、つまり詩歌と小説に「文学」という言葉が代表されるようになったのであった。封建の世の消滅と共に消え行く士族出身であった愛山、透谷は共に「文学」を通じて永遠を目指していたのにもかかわらず、透谷は文学を純文学に限定して美と永遠の生命を志向し、愛山は「文士」として歴史や経済、政治など論じる広義の文学を「事業」として行うことで、英雄が史上に残るが如く永遠を志向した。この論争が繰り広げられた年に於いて、ドイツではカール・マルクスは既に死去していたが、フリードリヒ・エンゲルスは存命であり、新カント派の学者は二〇世紀の社会科学に繋がる「個性記述科学」を志向している最中であった。そして、これ以後日本ではマルクス主義文学者さえからも愛山は評価されず、透谷は誕生間もなき「純文学」を「小汚い実証主義をかつぎ廻った一個の俗学者」(中野重治)から擁護した者として評価されるという知的環境が築かれるのである。

 

 

四.透谷路線に於ける思考回避:小林秀雄保田與重郎

 

 さて、本稿の表題である「近代日本に於ける思想と文学の社会性の起源について」の考察は、以上で終了である。しかし、起源から演繹的に思考した結果がどうなるかということについて考えるのは無駄ではあるまい。以下の章では愛山流の「広義の文学」を対象に、明治時代の書生の後継者が思想と文藝、双方の領域でどのような結果を遺してきたかを考察してみよう。

 「人生相渉論争」は透谷が正しかったとその後の人びとには考えられてきた。愛山の「文章」が社会的だったというならば、透谷の「純文学」は個人的であった。そのことはどちらがどちらに優越するという話ではなく、両者の個性が表現された結果の差であり、筆者個人の好悪はともかくも、それ自体が問題にされるべきではない。しかし、思想が常に現実の社会関係の中に存在する時、それは抜き差しならぬ倫理的課題と緊張感を伴って我々の眼前に問題を提示するのだ。

 本章では一九三七(昭和一二)年七月の盧溝橋事件による日中全面戦争勃発後から大東亜戦争敗戦までの期間の小林秀雄(一九〇二~一九八三)の随筆「戦争について」と保田與重郎(一九一〇~一九八一)を検討し、彼等が透谷の系譜上に位置することと、そしてそこに思想と文学の社会性を考える重大な論点が存在することを明らかにするものである。まずは、小林秀雄から見てみよう。

 

 戰爭に對する文學者としての覺悟を、或る雑誌から問はれた。僕には戰爭に對する文學者の覺悟といふ樣な特別な覺悟を考へる事が出來ない。銃をとらねばならぬ時が來たら、喜んで國の爲に死ぬであらう。僕にはこれ以上の覺悟が考へられないし、又必要だとも思はない。一體文学者として銃をとるなどといふ事がそもそも意味をなさない。誰だつて戰ふ時は兵の身分で戰ふのである。

 文學は平和の爲にあるのであつて戰爭の爲にあるのではない。文學者は平和に對してはどんな複雜な態度でもとる事が出來るが、戰爭の渦中にあつては、たつた一つの態度しかとる事は出來ない。戰ひは勝たねばならぬ。そして戰ひは勝たねばならぬといふ樣な理論が、文學理論の何處を捜しても見附からぬ事に氣が附いたら、さつさと文學なぞ止めて了へばよいのである。

(中略)

 日本に生れたといふ事は、僕等の運命だ。誰だつて運命に關する智慧は持つてゐる。大事なのはこの智慧を着々と育てる事であつて、運命をこの智慧の犧牲にする爲にあわてる事ではない。自分一身上の問題では無力な樣な社會道德が意味がない樣に、自國民の團結を顧みない樣な國際正義は無意味である。僕は國家や民族を盲信するのではないが、歴史的必然病患者には間違つてもなりたくはないのだ。日本主義が神祕主義だとか非合理主義だといふ議論は、暇人が永遠に繰返してゐればいゝだらう。

(中略)

 目的の爲に必ずしも手段を選ばない、とは政治に不可缺の理論である。戰爭がどんなに拙劣な手段であらうとも目的は手段を救ふと考へねばならぬ。だがこの政治の理論を、文學に應用する事は斷じて出來ない。文學者の仕事は、例へば大工が家を建てる樣なものだ。手段が拙劣なら目的なぞナンセンスである。文學者たる限り文學者は徹底した平和論者である他はない。從つて戰爭といふ形で政治の理論が誇示された時に矛盾を感ずるのは當り前な事だ。僕はこの矛盾を頭のなかで片附けようとは思はない。誰が人生を矛盾なしに生きようなどといふお目出度い希望を持つものか。同胞の爲に死なねばならぬ時が來たら潔く死ぬだらう。僕はたゞの人間だ。聖者でもなければ豫言者でもない。

小林秀雄「戰爭について」『新訂小林秀雄全集第四巻 作家の顔』新潮社、一九八二年一〇月三〇日四刷、二八八頁、二八九頁、二九二頁より引用。)

 

 

 初出は当時の総合雑誌『改造』の昭和一二(一九三七)年一一月号であり、同年七月に勃発した盧溝橋事件、それに続く八月の第二次上海事変と、その後一二月の南京攻略戦(周知の通り、この時に日本軍は南京虐殺事件を引き起こした)の合間に書かれたものとして有名な――或いは悪名高い――随筆である。

 この小林秀雄の小編から、文学者が一人の帝国臣民として戦陣に赴く覚悟の潔さを読み取るか、或いは戦争の現実に直面した文学者の思考放棄を読み取るかは、いうまでもなく読者の自由である。しかし、私は後者の立場を取り、以下その立場から、論述を進めることをここで断っておく。

 といっても、ここで私が「戰爭について」を引用したのは、何も小林秀雄を倫理的に糾弾したいからではない。それはその道の専門家に任せておけば良い話である。文学が平和の為に存在するという前提も、この後の文学者によって日本軍の勇壮さを描いた多くの戦意高揚小説が書かれてきたことを考えれば疑わしい前提だが、それもこの際問わない。この小編で真に問題なのは、思想、或いは山路愛山流の広義の文学が、全く独自の領域を持っていないことにある。それも昭和を代表する文藝批評家たる小林秀雄にして、文学は平和のためにあるという自らの文学観と、喜んで国の為に死ぬであろうという国民としての実感の間の矛盾が感知されながらも、その矛盾は「僕はこの矛盾を頭のなかで片附けようとは思はない」という言葉であっさりと放置され、現実に進行する日本と中国との戦争が、思想的な格闘を経ずに肯定されてしまったことは、思想に携わる者としては問題であろう。昭和随一の批評家にして、現に感じられている矛盾と思想的に格闘するという作風が存在しないのである。

 私はこの小林秀雄の姿に、北村透谷の後継者を見るのである。つまり、悪い意味で個人的なのである。前章で論じたように、透谷は愛山が述べたような、文章が現実の事業であるべきだという文学観を拒否し、文学の範囲を純文学に限定した上で、その役割を、現実を超えた「内部生命」、「根本の生命」、「永遠の生命」を伝えることに限定した。小林秀雄が透谷流の生命観を持っていたかは私には解らないが、論点はそこではなく、文章が美や個人の人生のみの追及に至れば、「戰爭について」で小林秀雄が表明したような思考的態度に行き着くことは、必然ではなかろうか。文学の役割を愛山流の現実に作用を及ぼす「事業」ではなく、専ら個人の安心立命のための私事と捉えた時に起こることは、現実の国策の追認以外には有り得ないのではなかろうか。

 同じことは、日本浪漫派の保田與重郎にもいえる。現在も一部で高く評価されている保田與重郎はその右派的態度が問題だとされるが、小林秀雄と同様に、私の目的は保田與重郎の政治性を糾弾することにはない。問題とせねばならぬのは、保田の思考的態度である。以下大東亜戦争開戦直前に発表された「日本文學の趨勢」(初出は『北海道帝國大學新聞』第二二九号、昭和一五年二月一九日発行)及び、「志を述ぶる文學」(初出は改造社の雑誌『文藝』昭和一六年三月号)、という二つの小編を検討しよう。

 

 我々文學者の最近の愛國運動の第一のテーゼは、西洋に劣らぬ近代文學を日本語で描かうではないかといふ覺悟の示し合ひだつたのである。しかし今日、太平洋を制覇しつゝある日本の現勢を見れば(時に英國軍艦が近海に出沒するとしても)さういふ文學者の覺悟がいぢらしい位に子供つぽいと見える。しかしそれしも文學者仲間では、それが反動だといはれたのである。だが今日のリアリズムから云へば、我々の文學は西洋に劣らぬものといふ代わりに、少くとも時代を先驅すべき詩人は、西洋に勝るものの創造と生產について考へねばならない。

 今日文學界でどういふことがされてゐるかは別に問題でない。さしあたり國民が地圖の上に描ゐているものを考へるがよい。このリアリズムは、むしろ昨日や明日のロマンチシズムより壯大な筈である。

 既に云つたことだが、もし日本の艦隊が、英國艦隊を印度洋あたりで撃滅するやうな日がくれば、日本文學の世界的評判は變化するのである。だから私は――一人の詩人として云ふが、一人の詩人としての己の立場から云へば、世界文學といふやうなものは實につまらぬものと考へるのである。尤もこれは自分が日本の文學の傳統を知り、又日本の詩人としての自分を考へるからである。更に、世界文學がつまらぬといふことは、恐らく私が日本人だから云へると思ふ。

 しかし日本は事變の結果として世界文學の時代に入る可能性があるやうだ。この可能性は民衆生活のために私は希望してゐる。日本が豐になることは結構だからである。さうして事變が正當に好轉すれば、さういふ時代がくると思ふ。我々は以前より世界文學時代を希望してゐたわけであるし、民衆生活のためにもさういふものの生れる時代がきて欲しいと思ふが、一介草莽の文士としては、私は少くともさういふ世界文學に、一個の價値をも認めぬとは云はぬが、さしあたつて大して詩の天上のものと思はないのである。

保田與重郎「日本文學の趨勢」、『保田與重郎全集 第九巻』講談社、一九八六年八月二〇日第二刷、三七二~三七三頁より引用)

 

 

 さきの世界大戦ののち二十年餘りつゞいた世界文壇は、ナチの軍隊の巴里〔筆者註:フランスの首都パリ〕入城によつてすでに瓦解したのである。このことはソヴエートの作家大會の構想し得なかつた事實であることを我々は銘記せねばならない。しかしそれより早く日本軍の熱河攻略は、世界文壇を大きく振動させたのである。さうして世界文壇の瓦解は、昨今の日本文壇の崩壞過程と同一の樣式歩調である。

 ナチの今日の詩人が、すでに文學といふものをあまり大仰に思はずに下らぬ詩文章を作つてゐるやうな事實は、舊來の知識の眼で見れば殘念とも見えようが、ナチの表現が、地形を變形し、地圖を改修し、山をつくり、川を拓き、さうして數ヶ國の王國をつぶし、十九世紀文明最大の象徴であつた一共和國の思想を變革し、世界を風靡したデモクラシー思想を一掃した事實よりみれば、世界最大詩人の表現も、この表現には及び得ぬのである。ナチの詩人の貧困は、むしろ當然のことである。轉じて我國を見るなら、征旅萬里、大陸の曠野に、肉身で描かれてゐる詩の數々は、戰場詩人や從軍作家の文字の詩では及び難いものが多いのも當然である。歸還勇士の文章や從軍詩人の詩文章に感嘆するのも、大體が一端を以てまだ見ぬ、又あらはし難い詩の全貌を察するよすがとするていのものにすぎないのである。

保田與重郎「志を述ぶる文學」、『保田與重郎全集 第九巻』講談社、一九八六年八月二〇日第二刷、五六~五七頁より引用)

 

 

 一読して解るように、保田與重郎には、詩が詩として、文学が文学として固有の力を持つという考え方が希薄である。詩人が「もし日本の艦隊が、英國艦隊を印度洋あたりで撃滅するやうな日がくれば、日本文學の世界評判は變化するのである」という時、或いはナチスのフランス占領が及ぼした結果が「世界最大詩人の表現も、この表現には及び得ぬのである」という時、そこに詩や文学が現実世界とは離れた独自の力を持つという思考を感じ取ることができないのは、決して筆者だけではないであろう。無論、戦争、革命、災害、テロリズム等々の事件によって、時代思潮や思想、文学が大きく変わるということは、二〇〇一年九月一一日のテロ事件や、二〇一一年三月一一日の大地震によって我々も身近に感じてきたことであり、事実認識としては正しい。しかし、詩人が詩人の資格に於いて、詩それ自体の力が文壇に与えた影響よりも「日本軍の熱河攻略」を評価する時、それは詩の力への侮りとなるのではなかろうか。山路愛山が「文章即ち事業なり」と述べた時、そこには文字による表現が「事業」となって現実を作る、という思考態度があった。保田與重郎は現実を追認するだけである。私が理解できていないだけで、詩人としての保田與重郎は北村透谷の敷いたレールの上で、美しい修辞[レトリック]を用いながら美を表現するために格闘していたのかもしれない。或いは、保田は時代に余儀なくされただけで、内心では国策に反対していたという批判があるかもしれない。そのような批判に対しては、以下、保田と同時期に思考していた林達夫が一九四〇(昭和一五)年一月に発表した時評を引用することで応じ、本章を締めくくることにしよう。

 

 従来、一世を風靡したような思想の創始者の多くは、もとはと言えば思想的には一種の天才的アマチュアだったにほかならぬ。

 もちろん例外も少なくない。しかし彼らの大部分は、その時代の職業的思想家からは白眼視され、蔑視され、敵視され、この連中との執拗な闘争によってしだいにその共鳴者を獲得して勝利の道についたというのが定石である。だから今、たとえば職場のなかにあって事実によって眼をひらかれたアマチュア思想家がその天才の鋭鋒を現わしてくるというような場合、それこそ既成思想家群との対決は観物であろう。

 というと、私はまったくの傍観者のように思えるかも知れないが、口を緘した思想活動というのも今の世には許されてよい一つの活動形態であろう。自分の分を守ってやることだけは小さいながらやっている。ところで、黙っている人間は、たいへんだれかの気に障るという話を耳にしている。それが思想的自由の確保のための消極的手段であり、また時代に対する一種の抗議でもあると見られてもいるからだろう。

 正直に単純極まる真理の数々さえ言っていけない世の中などは、何といっても変則的な、不具的なものだと言わねばなるまい。それが世を害し、動揺させるからというならば、それならば、それは民衆の精神がいかに脆弱で、鍛えられていないかを示すだけで、その鍛錬こそが第一に着手されねばならぬ仕事になってくる。私が大の封建ぎらいのくせに、武士道とか禅とかストアとかに非常な愛着をおぼえるのは、まさにそれらのもののなかに見られるある種の精神的態度が現代にまったく欠如しており、その最も在りそうな場所にさえそれがはなはだ乏しいことを痛感しているからだ。精神の鍛え直しなくして、思想がものを言える道理はない。

林達夫「新スコラ時代」、『歴史の暮方』中央公論社〈中公文庫〉、一九七六年六月、一五~一六頁より引用)

 

 

 

五.愛山路線に於ける危険性(リスク):三木清の哲学とその実践

 

 真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。かつては民を愚昧ならしめるために学芸が最も狭き堂宇に閉鎖されたことがあった。今や知識と美とを特権階級の独占より奪い返すことはつねに進取的なる民衆の切実なる要求である。岩波文庫はこの要求に応じそれに励まされて生まれた。それは生命ある不朽の書を少数者の書斎と研究室とより解放して街頭にくまなく立たしめ民衆に伍せしめるであろう。近時大量生産予約出版の流行を見る。その広告宣伝の狂態はしばらくおくも、後代にのこすと誇称する全集がその編集に万全の用意をなしたるか。千古の典籍の翻訳企図に敬虔の態度を欠かざりしか。さらに分売を許さず読者を繋縛して数十冊を強うるがごとき、はたしてその揚言する学芸解放のゆえんなりや。吾人は天下の名士の声に和してこれを推挙するに躊躇するものである。このときにあたって、岩波書店は自己の責務のいよいよ重大なるを思い、従来の方針の徹底を期するため、すでに十数年以前より志して来た計画を慎重審議この際断然実行することにした。吾人は範をかのレクラム文庫にとり、古今東西にわたって文芸・哲学・社会科学・自然科学等種類のいかんを問わず、いやしくも万人の必読すべき真に古典的価値ある書をきわめて簡易なる形式において逐次刊行し、あらゆる人間に須要なる生活向上の資料、生活批判の原理を提供せんと欲する。この文庫は予約出版の方法を排したるがゆえに、読者は自己の欲する時に自己の欲する書物を各個に自由に選択することができる。携帯に便にして価格の低きを最主とするがゆえに、外観を顧みざるも内容に至っては厳選最も力を尽くし、従来の岩波出版物の特色をますます発揮せしめようとする。この計画たるや世間の一時の投機的なるものと異なり、永遠の事業として吾人は微力を傾倒し、あらゆる犠牲を忍んで今後永久に継続発展せしめ、もって文庫の使命を遺憾なく果たさしめることを期する。芸術を愛し知識を求むる士の自ら進んでこの挙に参加し、希望と忠言とを寄せられることは吾人の熱望するところである。その性質上経済的には最も困難多きこの事業にあえて当たらんとする吾人の志を諒として、その達成のため世の読書子とのうるわしき共同を期待する。

岩波茂雄「読書子に寄す――岩波文庫発刊に際して――」昭和二年七月

 

 戦前の日本に三木清という哲学者がいた。人は彼を西洋哲学研究者として、京都学派の一人として、西田幾多郎の愛弟子として、マルティン・ハイデッガーに師事した者として、蓑田胸喜の論敵として、「東亜協同体論」の提唱者として、戦争協力者として、悲劇の政治犯として、浄土真宗門徒として、播磨の偉人として知るかもしれない。三木清は複雑な人物であり、論者によってその評価は全く異なる。私もここで三木清の全生涯を論じようとは思わないし、第一私には不可能である。

 三木清は一八九七(明治三〇)年に播磨国兵庫県)の浄土真宗門徒の農民の家に生まれ、西田幾多郎から直接哲学を学ぶために一高から京都大学に進み、ドイツではハイデッガーマンハイムレーヴィットらの碩学から指導を受け、帰国後マルクス主義哲学を研究したものの、非合法の日本共産党からはその哲学を裏切り者扱いされ、左翼のみならず極右勢力からも目の敵にされながらも時論や出版編集や政局への参画を行った後、敗戦の一カ月後に政治犯として獄中で死亡した。その生涯から容易に予想できるように複雑で多面的な人物であったが、本章冒頭に引用した岩波文庫の巻末言「読書子に寄す」は、多少本を読む人間ならば三木清を知らない人であっても一度は目にしたことがあるのではなかろうか。岩波茂雄名義で書かれた岩波文庫の巻末言は、実は三木清がその草稿を書いたものであり、さらに言えば岩波文庫そのものを企画したのが三木清である。岩波文庫ならず、一九三八(昭和一三)年に創刊された岩波新書三木清の発案であったことをいえば、それだけで彼の大きさは誰であろうと理解できるであろう。それぞれドイツのレクラム文庫とイギリスのペンギン・ブックスをモデルに創刊された岩波文庫岩波新書が、日本の出版社の文庫、及び新書という出版形態を規定する規格となったことを思うに、そして、現在の書店や売店、そして個人の本棚から文庫や新書を取り去ればどのような情景が浮かぶかを考えれば、三木清に賛成する人も反対する人も、全く知らない人さえその恩恵は多大であろう。

 本章では三木清にとって、文章がどのように位置づけられていたかを検討する。まずは、一九三一(昭和六)年九月に発表された「軽蔑された飜訳」と題された随筆を見てみよう。

 

 

 我々は我々の書いたものを互にもっと読むようにしたいと思う。私は必ずしもそれを尊重せよというのではない。正直に云って、日本の学界の水準は西洋の学界の水準よりも低いことを認めねばならぬ。そしてものがそれの本質的な価値に相応して尊重されるのは正しいことであり、善いことである。私の求めているのは親切である。日本人は日本人の書いたものを互にもっと親切に読むようにしたいと思う。我々は互に他の人のものをもっと率直に理解し、もっと親切に批評するようにしなければならぬ。そうしてこそ我々の間に文化の共通な、広い地盤が作られ、その上に初めて我々の独自な文化が花を開くことも出来るのである。然るに我が国の学者は少くとも同国人のものをあまり読まなさ過ぎるのではないか。

 これには色々な理由があろう。しかしその一つが日本の学者の多くは自分の国の言葉を愛しないということにあるのは確かなように見える。言葉を愛することを知らない者に好い文章の書ける筈がない。悪文、拙文は我々の間では学者にとって当然なことであると思われている。あの人は学者にしては文章がうまい。などと平気で語られているのである。然るに若し言葉と思想とが離すことのできぬ内面的関係をもっているとすれば、このような事実は、少くとも一面に於いては我が国の学者に自分自身の思想を求め、形作ろうとする衝動と熱意とが欠けているということの証左でなければならぬ。ひとは自分自身の思想を求め、形作るとき、自分自身の言葉を求め、形作る。

 歴史がこのことを証明している。近代のドイツ哲学はギリシア哲学に比肩し得べき偉大な世界史的事実である。このようなドイツ哲学の発展の発端をなしたのはライプニッツであったが、彼はその当時すさまじい勢でこの国へ侵入して来たフランス語に対し、また伝統的なラテン語に対して、母国語の価値に関するいくつかの文章を書いてドイツ人に警告し、ドイツ語をラテン語に代えて学術語として使用することを主張した。彼はドイツ語で哲学上の論文を書いた最初の人に属している。そのほか、彼はローマ法をドイツ語に飜訳してしまうことの必要を力説した。またヘーゲルが自分の思想を出来るだけ純粋なドイツ語で表現することに努め、ラテン語から来た言葉をさえ避け、寧〔むし〕ろ俗語を活用しようとしたのは有名な事実である。このようにして、全くドイツ固有な言葉の意味を有するかの「ガイスト」(精神)の哲学が完成されるようになったのである。

三木清「軽蔑された飜訳」、『読書と人世』新潮社〈新潮文庫〉、一九八六年一月三〇日一九刷、一一七~一一八頁より引用)

 

 

 単に翻訳論として読めるのみならず、三木清が文章をどのように考えていたのかが小編ながらよく分かるであろう。西洋人にとっても、長らく自民族の言葉は哲学の言葉としては用いられておらず、専らそれはカトリック教会の言葉であるラテン語の役割であった。インドに於けるサンスクリット語、日本に於ける漢文の役割を、ヨーロッパではラテン語を務めてきたということを、改めて確認しておきたい。ラテン語が統一していた中世ヨーロッパ世界を民族語が打ち破るところに、近代のヨーロッパがあったのである。

 意外に思われるかもしれないが、「文章即ち事業なり」という書き出しで始まる山路愛山の「頼襄を論ず」は、その終わりの部分に頼山陽の『日本外史』を評して「独り理論的を知れるのみならず詩の如く歌の如き文字を以て之れを教へられたり」という、頼山陽の歴史書のレトリックが優れていたことを評価する一文がある。三木清が「悪文、拙文は我々の間では学者にとって当然なことであると思われている」と述べる時、この愛山の精神を引き継いでいたと見ることは可能であろう。大正デモクラシー期に教養主義の洗礼を受けて思想形成を遂げた三木清は、明治の精神を継いでいたのである。

 

 三木清にとって、思想は何よりも現実を作るものであった。

 

 このような三木哲学の位置づけを確認した上で、次に検討すべきは『哲学入門』である。一九四〇(昭和一五)年に岩波新書から刊行され、西田哲学の入門書として読まれてきた本書には、師であった後期の西田幾多郎と同様に「作ること」が人間観の基礎とされている。

 

 人間は世界から作られ、作られたものでありながら独立なものとして、逆に世界を作ってゆく。人間は形成的世界の形成的要素として、世界が世界を作ってゆく中において作ってゆくのである。我々の道徳的行為もかような世界から把握されねばならぬ。そのことは、道徳というものが従来単に主観的に理解される傾向があったのに対して、特に強調される必要がある。もちろんそれは単なる客観主義の立場に立つことではない。主体であるところの人間がそこから作られ、そこにある世界は単に客観的なものであることができぬ。世界的立場は主体を超えた主体の立場であり、かようなものとしてまた最も客観的な立場であるということができる。世界は歴史的であるが故に、世界的立場は世界史的立場である。人間のすべての行為は歴史的である、それが歴史的であるというのは、行為が出来事であるということ、行為が同時に生成の意味をもっているということ、我々の為すものでありながら我々にとって成るものの意味をもっているということである。人間は形成的世界の形成的要素として、人間の行為はすべてかくの如き意味をもっている。我々の行為は我々自身から起こると同時に世界から起こるのである。道徳的行為の問題も単なる意志の問題でなく、形成的・表現的行為の問題である。主体と主体との表現的聯関は行為的・形成的に捉えられなければならない。それを単に解釈する立場は道徳的立場ではない。道徳の立場は本来行為の立場である。主体が道徳的に表現的であるということは行為的に表現的であるということである。他の行為を喚び起こすものとして、また他の呼び掛けに行為的に応えるものとして、主体は道徳的に表現的である。主体と主体との表現的聯関は、ただ理解され解釈されるために、即に出来上がったものとしてそこにあるのでなく、絶えず新たに歴史的行為的に形成されてゆくべきものである。道徳は人と人との行為的聯関であるといっても、それはつねに物を媒介としている。物の媒介を離れて人と人との関係を考えることは抽象的である。しかもその物は単なる物でなく、却って表現的なものである。人と人とは表現的な物を媒介として結び付くのである。文化というものは一般にかくの如き性質のものである。文化というものは人間の作るものでありながら、作る主体から離れて独立なものとなり、作る主体に向かって逆に働きかける。文化は人間から作られ、逆に文化が人間を作るのである。文化は表現的なものとして超越的意味をもっている。それは私の作るものでありながら、私から離れて、もはや私のものでなく、公共的な表現的な世界に属している。人と人とは文化を媒介として結び付いている。物の形成、文化の形成を離れて人と人との行為的聯関を考えることはできぬ。

三木清『哲学入門』岩波書店岩波新書〉、一九四〇年三月二〇日初版、一九五一年五月二〇日第一七刷改版、二〇〇九年五月七日第八九刷、一八一~一八三頁より引用)

 

 マルクスの『ドイツ・イデオロギー』を思わせる内容だが、この『哲学入門』が刊行される一〇年前に、三木清が『ドイッチェ・イデオロギー』という表題で岩波文庫――三木清自身が創設した――から翻訳を出版していることを考えれば、合点がいくだろう。山路愛山が「頼襄を論ず」や「明治文学史」で文章の役割を事業、即ち現実を作ることだと捉えた時に、愛山には文章を作る人間が、どのように作られているかということは問題にされていなかった。三木清は、「文化というものは人間の作るものでありながら、作る主体から離れて独立なものとなり、作る主体に向かって逆に働きかける」と書いたとき、それまでに作られてきた文章によって自分が作られていること、そして自分が作る文章によってそれ以後の現実が作られていることを深く理解していたに違いない。

 

また、三木清が文化について書いたこの部分を、科学について考えてみるのも興味深い。通常、ニュートン主義の自然科学では、認識される客体は、認識する主体によって一方的に認識されるままである。たとえば自然科学者がとある地質を認識し、その中にどのような成分が含まれているか、鉄鉱石があるか石油があるか天然ガスがあるかレアアースがあるかということを研究する時、その地質に含まれる鉄鉱石が自然科学者を認識することはない。地面の側が見られるのは恥ずかしいから、削られると痛いからやめてくれ、と科学者に言い返すことはない。当たり前のことである。しかし、文系の学問、つまり社会科学や人文学の場合はどうだろうか。社会科学者が社会――そもそも社会がなんであるかを定義することが難しいことはこの際考えないでおく――を認識し、研究する際、社会の側が社会科学者の研究成果について、見られるのは恥ずかしからやめてくれと言い返すことは、勿論あるのだ。たとえば経済学者がある国の国民経済について研究した成果が本になって出版された際、その国の指導者がその本を読み、その研究は間違っている、おかしいと言い返すことを考えればよい。社会科学者の研究の成果によって、研究していた社会そのものが変化するということは当然であり、レーニンケインズハイエクの研究の成果が出版されたことによって、二〇世紀の社会がどれだけ変わったかを考えるだけで十分であろう。

 もしも社会が経済学、政治学社会学の研究の成果によって変化しないならば、それはその研究が真剣に検討するに値しない二流、三流のものであることの証明でしかないだろう。同じ事は人文学にも言える。筆者はとある民族学者が農村調査に出かけた時に、調査で訪れた農家に本棚に柳田國男の本があったというジョークを伝聞で聞いたことがあるが、たとえば人類学者が少数民族についてフィールドワークで研究したことを大学の教室で講義する際、その少数民族出身の学生からその調査は偏見に基づいた、誤った結果ではないかと質問されるということは、当然あるだろう。主体が一方的に客体を認識するという自然科学の約束事は、認識されることについて特に反応しない、反応できない自然については意識しないで済ますことができるが、その自然科学的な方法論を用いて具体的な社会や人間を認識する際には、そういう訳にはいかないのである。このように三木清の「文化は人間から作られ、逆に文化が人間を作るのである」という文章を読み替えれば、広く文化一般を超えて、科学についてもさらに豊かな思考ができるのではないだろうか。

 

 さて、このように「人間は世界から作られ、作られたものでありながら独立なものとして、逆に世界を作ってゆく」という人間論を持っていた三木清は、その論理的帰結から独立のものとして、世界を作る事業に参画した。つまり、政治である。時系列的には前後するが、三木清華族出身の政治家、近衛文麿公爵の政策研究会であった昭和研究会に参画し、哲学者の立場から政治の現実を作ろうとしたのである。それでは、その現実とは如何なる現実だっただろうか。

 一九三七(昭和一二)年六月四日に内閣総理大臣に任命された近衛文麿は、その首相在任中に、盧溝橋事件と中華民国との全面戦争という現実に直面した。三木清は「東亜協同体論」を提唱し、この中国との戦争を哲学者として理論的に基礎付けたのだ。元より、三木清を単に戦争協力者だというのは誤りだとの意見は存在する。私も、三木清が書いたものから判断するには、ただ単に日本の民族主義に迎合したと考えるのは誤りだと思う。しかし、以下に引用するような紀行文を読む限りでは、やはり戦争協力の言説に一定の責任を有すると考えるべきではないか。一九四〇(昭和一五)年一二月に発表された「満洲の印象」はかくの如きである。

 

 満洲国の学校では日本語を「国語」として教えている。日本語を学ぶことを満人は必ずしも嫌がっていないように見える。というのは、彼等にとって日本語の知識は経済的価値をもっており、日本語ができれば官庁などにおいても容易に就職し得るからである。しかしかような経済的意義を離れて、果して満人が日本語を真に「国語」と考えているかどうかは、疑問であろう。元来、国語というものは一つの民族と共に生長したものであり、近代における民族国家の成立が国語の成立であるとすれば、数民族から成る複合民族国家といわれる満洲国において、日本語を国語と称する意味は、従来の国語概念とは違ったものでなければならない。満洲における日本語はむしろ西洋中世のラテン語と同様に考えられるのが適当なのではなかろうか。言い換えると、それは公用語として、また学者語として取扱われるのが好いと思う。日本語が公用語として使用されることは東亜における日本の政治上の指導性に関係のあることである。そしてそれがまた学者語として使用されることは日本の文化上の卓越性に関係することである。満人や支那人で日本語を知っているということが、彼等の間で真の有識者であるということの徴表となり得るように、日本文化の真価を高めてゆくことが我々の任務でなければならぬ。

三木清満洲の印象」、内田弘編・解説『三木清 東亜協同体論集』こぶし書房〈こぶし文庫四七〉、二〇〇七年四月三〇日初版第一刷、一四四頁より引用)

 

 

 

 ここには満洲国に於ける「国語」の意味は、それまでの「国語」とは異なる意味を持たなければならないという現状認識があり、さらにこの引用部の直後に三木清は「我々日本人がまた満語を習得することが必要である」と述べている。しかしながら、三木清は、満語を公用語にするのが好いとは述べないのである。勿論、三木清が生きていた昭和戦前期には公然たる言論弾圧があり、満洲国の公用語を日本語から満語にすべきだとの意見は、恐らく公表し得なかったことであろう。同年、三木清の友人だった林達夫は、「正直に単純極まる真理の数々さえ言っていけない世の中」だと同時代を表現した。物を語るには「奴隷の言葉」で語るしかない現実があり、その現実の中で沈黙することを選んだ林達夫とは異なり、三木清は語ることを選んだ。黙る自由よりも語る自由を選んだ。しかしながら、三木清がこう書いたものを読んで、日本語を解する中国人や満洲人が納得するかと言えば、恐らくそうではあるまい。「東亜における日本の政治上の指導性」に、現実に中国と戦争を続ける日本帝国の独善を見出すのではないだろうか。山路愛山が「文章即ち事業なり」というところに即して文章で事業を展開する際、事業であるからには、過誤や過失ということも当然ある。私は前章で透谷流の文学観が、現実の国策を追認する態度を生み出してしまうのではないかということを問題にしたが、だからといって、愛山流の文学観を取る以上は、それなりの危険性(リスク)は避けられない。

 三木清は戦時中、仮釈放中に脱走した共産主義者高倉テルを匿った罪により治安維持法違反で逮捕され、敗戦後の一九四五年九月二六日に刑務所内で獄死した。もしも八月一五日の敗戦直後に、日本人民がGHQに先駆けて昭和の大獄で捕まった獄中の政治犯を助け出していれば助かった命だったかもしれなかったことを思うと、三木清の命と共に失われた思考の大きさを思うと、戦後の共産党員が三木清に対して示した侮蔑を思うと、三木清が考えていたことを真剣に検討してこなかった戦後の日本社会を思うと、私の胸裡には深い悲しみの念が涌くのである。

 

 

六.もう一つの愛山路線:マルクス=レーニン主義毛沢東思想の文学論

 

「科学的国体論者*2」を自認した里見岸雄の立正教団で法華仏教を学んだ日蓮主義者、鎌田敏輝(一九五一~)は注目すべき見解を示している。

 今日、人々の意識の中には、自衛という概念が本来生命と生命の殺戮である戦争をギリギリの水際で、かろうじて肯定し得る唯一の安息所と思っている向がある。また侵略に対して自衛とは、いわば消極的な戦争への参加のし方であろう。積極的な侵略戦争は悪であるが、消極的な自衛戦争は善であるとする考え方も人間の実践心理の中に強く根差している。

 今日、「日本国憲法」で軍備が否定されているにもかかわらず、自衛隊が国民の大多数の支持を得ているということは、憲法戦争放棄にも優先する価値観として自衛というものが容認されていることによる。同じ武力集団でも軍隊と呼称すれば人は嫌悪感を感じるが、自衛隊と称すればある種の安心を覚える。この心理も同様である。大東亜戦争を語る際、聖戦論を主張することにははばかりがあっても、自衛論なら堂々と語れるという心理にも反映している。

 しかるに自衛という概念はあくまでも相対的なものに過ぎないのではあるまいか。

 大東亜戦争は日本の自衛戦争であったという考え方は、あるいは成り立つかもしれない。しかし、同時にアメリカやソ連やイギリスや中国の立場も同じ自衛戦争の立場を貫いている。自らの領土を列強によって蹂躙し尽された中国は別として、アメリカ、とりわけ旧ソ連などは日ソ中立条約を破棄してわが北方領土を奪取した分際で、何が自衛かと人は疑うであろう。これは至極当然のことである。

翻って第二次大戦に参加した各国の国民感情に約して考えれば、彼等は皆祖国の為に戦い且つ死んだ人達ばかりであろう。あえて極言するが、アメリカが広島、長崎に原爆を投下した行為や、ソ連が日ソ中立条約を破って日本に侵攻してきたことも皆祖国の自存自衛の為にやったことであろう。殺らなければ殺られるという世界である。少くとも彼等の国民は皆そう考えている。その心情に虚偽はなかろう。

 マルクス主義では戦争は政治の一つの形態に過ぎない。だから旧ソ連では、第二次大戦を「大祖国防衛戦争」と呼んでいる。

 さらに旧ソ連の第二次大戦に対する考え方で、もう一つ見逃してはならない点は、世界の共産化へ向けての革命行動であり、一つの聖戦意識である。

 聖戦という考え方は、宗教的に見れば、自衛戦争よりも一ランク高度な戦争観である。何故ならば、自衛戦争は信仰というものがなくても成り立つ概念だが、聖戦を遂行するのは一個の信仰心であるからだ(共産主義も一個の信仰と考えれば)。

 再度言うが、自衛という概念は相対的なもので、その真理性は証明し尽せない。自衛という発想は人間の本能に根拠したもので、相手が善であれ悪であれ、自己を防衛する為に戦うのが即ち自衛である。自国が正義に根拠しておろうがおるまいが、相手が攻めてくれば戦うのが即ち自衛である。それについて象徴的な話は、蒙古襲来に際して述べられた日蓮聖人の次の言葉である。「国は亡びるとも謗法は少なくなりなん」。単なる自衛という発想を価値とはされていない。

 また、自衛についての日本側の論拠とアメリカ、ソ連、中国等のそれとを比較検証して日本の自衛論の正当性を証明し得たとしても、所詮それも程度の差にしか過ぎない。全ての戦争は侵略性と自衛性を兼ね持っているからだ。まして中国に対してはどうであったか。日本は中国と戦ったが、果してそれが中国のわが国に対する侵略の自衛戦争であったとでも言えるであろうか。

 中国の領土で戦って、日本の中国に対する自衛戦争であったと中国人民をして納得させ得る論拠はどこにあるのか。

 それ以上に、自分が自衛戦争の真理性を疑う一層根本的な点は宗教的に見て、自らの生命財産を守る為に対手の生命を殺してもよいという根拠を、自衛という概念からは導き出せないからである。それは自衛よりも高度な世界観をもってして初めて説明出来ることである。人間の生命はさながらに尊い筈だ。かと言って大東亜戦争は単なる侵略戦争でもあり得ない。

(鎌田敏輝「大乗的非戦論の構築に向けて」『日蓮信仰のスケッチ』展転社、一九九六年一一月一一日第一刷、四三~四五頁より引用)

 

 やや長い引用になったが、管見の限りでは「侵略戦争」を悪とする思考が、「自衛戦争」を善とする思考を裏で支えていること、そして「自衛」そのものが持ついかがわしさについて真摯に考えた論考を私はこれ以外には寡聞にして知らない。展転社は右派系の出版社であり、著者も政治的には右派に属する田中智学から里見岸雄へと続く日蓮主義者でありながら、法華経日蓮への信仰を基準に、普段、多くの人々が等閑にしている事柄について思考し抜くのである。日本国に於いて「宗教」という言葉が、傲慢、狂態、詐欺、暴力といった否定的なイメージで連想されるようになってから久しいが、この鎌田敏輝の思考は信仰者が時折見せる、最も崇高な誠実さを示すのに十分なものであろう。

 

 鎌田敏輝は、「中国の領土で戦って、日本の中国に対する自衛戦争であったと中国人民をして納得させ得る論拠はどこにあるのか」と重要な問題提起を行った。本章では小林秀雄が「銃をとらねばならぬ時が來たら、喜んで國の爲に死ぬであらう」との覚悟を示し、保田與重郎が「日本軍の熱河攻略は、世界文壇を大きく振動させたのである」と述べ、三木清が「東亜協同体論」でその戦争の哲学的基礎付けを行った日本と中国の戦争に際し、当時の中国人がどのように反応したかを論じる。ここでは中国共産党主席として延安から抗日戦争を指導した毛沢東の『文芸講話』(一九四二年)を検討し、「文章即ち事業なり」という愛山の主題が極限まで追求された例として、広くマルクス主義文学理論一般を射程に収めるものである。まずは、その前提として、一九世紀から二〇世紀のマルクス主義がどのような役割を果たしたのかを概観してみよう。というのも、毛沢東は一九三七年七月に発表した論文「実践論」の中でこのように述べ、自らがマルクスエンゲルスレーニンスターリンの系譜上に位置することを表明しているからである。

 

 マルクスエンゲルスレーニンスターリンがその理論をつくりだすことができたのは、その天才という条件を別にすれば、主として、かれらが身をもって当時の階級闘争と科学実験の実践に参加したからである。後者の条件なしには、いかなる天才でもなしとげえなかったことである。

 「秀才、門を出でずして、すべて天下の事を知る」という。これは技術の発達していなかったむかしでは、たんなる空言であったが、技術の発達したこんにちにおいては、このことばを現実のものとすることも可能となった。しかし、ほんとうに身をもって知っているのは、天下で実践している人であり、これらの人がその実践のなかで得た「知」が、文字と技術により、「秀才」の手に伝達され、かれははじめて間接に「天下の事を知る」ことができるのである。

(中略)

 自然科学の多くの理論が真理だとされるのは、自然科学者たちがそれらの学説をつくりあげたときだけでなく、その後の科学的実践によっても実証されたときである。マルクスレーニン主義が真理だとされるのも、マルクスエンゲルスレーニンスターリンなどが科学的にその学説を構築したときだけでなく、その後の革命的な階級闘争と民族闘争の実践においても実証されたときである。弁証法唯物論が普遍的真理であるのは、いかなる人の実践も、その枠を超えられないからである。

 人類の認識の歴史は、多くの理論が真理性において不完全なものであること、その不完全性は実践による検証を通じて正されることを教えている。多くの理論は誤ったものであり、実践による検証を通じて、その誤りが正される。実践が真理の基準であるとか、「生活、実践の観点が、認識論の第一の基本的な観点でなければならない」とかいわれる理由はここにある。スターリンのことばをかりれば、「理論は、革命的実践と結びつかなければ、対象のないものとなる。同様に、実践は、革命的理論がその道を照らさなければ、盲目的なものとなる」のである。

毛沢東「実践論」、小野川秀雄責任編集『世界の名著64 孫文毛沢東中央公論社、一九六九七月二〇日初版、三五二頁、三五九頁より引用)

 

 

 毛沢東マルクス主義を自然科学同様の科学的真理であり、マルクスエンゲルスレーニンスターリンの理論が、その後の「革命的な階級闘争と民族闘争」によって実践されたことにより、実証されたと考えている。ここで毛沢東が、マルクスレーニン主義を単にプロレタリア革命の理論であるのみならず、「民族闘争」の、民族解放運動の理論だと考えたことは、非常に重要なことなので強調しておこう。本章で検討するように、元来「階級」に基礎を置くマルクス主義と、「民族」に基礎を置く民族主義は両立し得ないものだった。ここで「民族」*3とは何かを論じることはできないが、少なくとも二〇世紀のマルクス主義理論史上に於いて、スターリンの論文『マルクス主義と民族問題』(一九一三年)が基礎的かつ重要な理論的達成だと看做されていたことは述べておこう。レーニンスターリンのこの論文について、一九一三年三月のカーメネフ宛の手紙で「コーバ(スターリン)は民族問題について大論文(『プロスヴェシチェーニェ』三回分)を書くことができた。すばらしい!ユダヤ人ブントや解党派の日和見主義者に反対し、真理のために闘わなければならない」(引用は太田一九九七年、二二〇頁より重引した)と激賞している。一〇月革命直後の人民委員会会議でスターリンボルシェヴィキの民族問題人民委員となったことは偶然ではなく、そしてスターリン民族理論が適用された結果が、ソ連少数民族政策だったのである。

 マルクス主義を科学だと看做したのは毛沢東に限らない。エンゲルスが『空想より科学へ』(一八八〇年)の中で一九世紀前半に活動したサン・シモン、シャルル・フーリエ、ロバート・オーウェンマルクス以前の社会主義者の理論を「空想的社会主義」と呼び、それに対置する形でマルクス主義を「科学的社会主義」と呼んだように、マルクスの思想体系はカント、フィヒテヘーゲルドイツ観念論哲学、フランス社会主義、イギリス古典的自由主義経済学、さらにはダーウィンの進化論を綜合した「科学」として提示され、受け止められたのである。そして、付言するならば、マルクス主義が科学だと捉えられたところに人々を惹きつけた力と、内在的な二〇世紀の実験の失敗があったのである。それでは、自然科学の如くに人類史の過程を、「歴史的必然」(エンゲルス)として「自由の王国」を実現する過程だと捉えたその「科学的社会主義」なるものの内容は如何なるものだったか。

 

 

 一八四八(弘化五)年二月二一日、ドイツ出身の亡命革命家であったマルクスエンゲルスは、共産主義社会実現の為の共産主義者の原則的立場を示した綱領的文書をロンドンで出版した。『共産党宣言』(或いは『共産主義者宣言』と呼ぶべきだと主張する論者も存在する)がそれである。この綱領的文書の出版の二日後から始まったフランス二月革命に於いて、普通選挙権を求めるフランス王国の労働者はオルレアン王朝を打倒し、三月にはその革命がオーストリア帝国プロイセン王国、イタリアのヴェネツィアにまで波及、ヨーロッパ各国の絶対主義王政防衛を目的に「神聖同盟」を提唱したオーストリア帝国メッテルニヒ宰相は失脚し、この1848年の革命の中でフランス革命以来国王に反する謀反者の思想だった自由主義が、ヨーロッパ諸王国に於いて政府公認の思想となったことを考えると『共産党宣言』出版の意味は深甚である。一八四八年にヨーロッパで起きた自由主義革命は、自由主義者社会主義者が合作して絶対主義に立ち向かうという性質の革命であったが、マルクスエンゲルスはその後将来を通じて模索した自由主義以後に達成されるであろうと見た共産主義社会(彼らの定義では「共産主義社会は社会主義を一歩進めた社会」である)を目指す際の、共産主義者の基本的見解をこの文書で示しているからである。彼らは冒頭で自らの歴史観をこのように規定する。

 

 

 今日まであらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である

マルクス・エンゲルス共産党宣言』(大内兵衛向坂逸郎訳)岩波書店岩波文庫〉、一九五一年一二月一〇日第一刷発行、一九七一年二月一六日第三三刷改版発行、二〇〇三年五月一五日第八一刷発行、三八頁より引用)

 

この認識こそはマルクス主義のアルファであり、オメガである。その上で、彼等自身が生きた時代、すなわち産業革命が進展しつつあった一八四八年を規定する。

 

 封建社会の没落から生まれた近代ブルジョア社会は、階級対立を廃止しなかった。この社会はただ、あたらしい階級を、圧政のあたらしい条件を、闘争のあたらしい形態を、旧いものとおきかえたにすぎない。

 しかしわれわれの時代、すなわちブルジョア階級の時代は、階級対立を単純にしたという特徴をもっている。全社会は敵対する二大陣営、たがいに直接対立する二大階級――ブルジョア階級とプロレタリア階級に、だんだんとわかれていく。

(前掲書、四〇頁より引用)

 

 

 マルクスエンゲルスは「ブルジョア階級は、歴史において、きわめて革命的な役割を演じた」(前掲書四二頁より引用)と自由主義の発達がヨーロッパで勃興していたブルジョワジー[産業資本家]によって担われたことを認め、更にプロレタリアートが何であるかを規定する。

 

 ブルジョア階級が封建制を打ち倒すのに用いた武器は、いまやブルジョア階級自身に向けられる。

 しかしブルジョア階級は、みずからに死をもたらす武器をきたえたばかりではない。かれらはまた、この武器を使う人々をも作り出した――近代的労働者、プロレタリアを。

(前掲書、四八頁より引用)

 

 

 つまり、マルクスとエンンゲルスの歴史観――辯証法的唯物史観、または史的唯物論と呼ばれる――にとって、封建制を打倒したブルジョワジーによって生み出されたプロレタリアートが、自らを生んだブルジョアジーを打倒するということに、歴史の辯証法を見ているのだ。そして、マルクスエンゲルスはこのプロレタリアートを特権化する。

 

 現在ブルジョア階級に対立しているすべての階級のうちで、プロレタリア階級のみがほんとうに革命的な階級である。その他の階級は、大工業が起るとともに衰退し、滅亡する。プロレタリア階級は大工業のもっとも独自な生産物である。

 中産階級、すなわち小工業者、小商人、手工業者、農民、これらはすべて、自分たち中産階級としての存在を破滅から守るために、ブルジョア階級と闘う。したがってかれらは革命的ではなく、保守的である。なおそれ以上に、かれらは反動的である。なぜなら、かれらは歴史の車輪を逆にまわそうとするからである。かれらが革命的であるばあい、それは自分の身に迫っているプロレタリア階級への移行を顧慮してのことであり、かれらの現在の利益をではなく、未来の利益を守るためであり、かれら自身の立場を捨ててプロレタリア階級の立場に立つのである。

 ルンペン・プロレタリア階級、旧社会の最下層から出てくる消極的なこの腐敗物は、プロレタリア革命によって時には運動に投げこまれるが、その全生活状態から見れば、反動的策謀によろこんで買収されがちである。

(前掲書、五三頁より引用)

 

 

 つまり、「近代的労働者、プロレタリア」以外は革命的ではないという訳だ。既に、この時点で後のマルクスレーニン主義国家が、プロレタリアート以外の全ての階級(ブルジョワジー、手工業者、小商人、農民、ルンペン・プロレタリアート)を「反革命」として弾圧するための根拠となり得る論理が含まれていることに注意されたい。これから考察するように、この『宣言』が発された後の現実の「近代的労働者、プロレタリア」は、実際には「本当に革命的な階級」とはならず、むしろエンゲルスが革命的にならないイギリスの工場労働者を「労働貴族」と呼んで批判したのが現実であったのだ。マルクスエンゲルスの誤謬は、プロレタリアートを次のように規定したことである。

 

 さらに共産主義者に対して、祖国を、国民性を廃棄しようとする、という非難が加えられている。

 労働者は祖国をもたない。かれらのもっていないものを、かれらから奪う事はできない。プロレタリア階級は、まずはじめに政治的支配を獲得し、国民的階級にまでのぼり、みずから国民とならねばならないのであるから、決してブルジョア階級の意味においてではないが、かれら自身なお国民的である。

(前掲書、六五頁より引用)

 

 

 

 

 ここで、マルクスエンゲルスは、一八四八年の時点でプロレタリアートが祖国を持っていないこと、国民的階級ではないことを規定している。彼等にとって、既存のブルジョワ自由主義国家や絶対主義国家に於いては、プロレタリアートは国民(或いは民族)共同体には包摂されておらず、だからこそ、プロレタリアートは国家と諸国民の間の分断を横断する一つの階級として団結できるし、しなければならないという論理が導かれるのである。

 一八四八年から二〇一三年に至るまでの歴史が証明したように、実際にはプロレタリアートは祖国を持っていた。近代の国民国家は義務教育と徴兵制によって、それまでごく一部の――たとえば平安朝の貴族といった――人々に共有されていたに過ぎない、国民と国家についての共同体意識を中産階級や農民、労働者に注入し、封建制のくびきを脱した人々は、「四民平等」の下で、祖国の一員として、国民国家間の「自衛戦争」に積極的に参加したのであった。マルクスエンゲルスは、このように労働者が「政治的支配を獲得し、国民的階級にまでのぼり、みずから国民とならねばならない」という過程を経ずに祖国を持ってしまい、国家を超えた国際的な「プロレタリア階級」としてではなく、「国民」(あるいは「民族」)として行動することを遂に認識できず、従ってこの「階級」と「国民」(民族)との間の矛盾をどのように処理するかということが、一九世紀から二〇世紀にかけてのマルクス主義者の基本的な問題意識となったのである。

 

 先に進もう。では、そのような特権的なプロレタリアートによって実現される共産主義社会とはどのようなものであるか。再び『共産党宣言』に戻ると、

 

 すべての所有関係はたえざる歴史的交代、歴史的変化をうけてきた。

 たとえばフランス革命は、ブルジョア的所有のために封建的所有を廃棄した。

 共産主義の特徴をなすものは、所有一般の廃棄ではなく、ブルジョア的所有の廃棄である。

 ところで近代のブルジョア私有財産は、階級対立にもとづく、すなわち一方による他方の搾取にもとづく生産物の生産ならびに取得の、最後の、もっとも完全な表現である。

 この意味において共産主義者は、その理論を、私有財産の廃止という一つの言葉に要約することができる。

(前掲書、五八頁より引用)

 

 

 ところで、賃金労働、プロレタリアの労働は、プロレタリアに財産を与えるだろうか? 決してあたえはしない。賃金労働は資本という財産を作り出す。それは賃金労働を搾取するものであり、そしてまたそれは、あたらしい賃金労働を生産してそれをふたたび搾取するという条件がなくては、みずからふえることのない財産である。今日の形の財産は、資本と賃金労働の対立のなかを動いているのである。

(前掲書、五九頁より引用)

 

 

このように、所有と賃金労働の性格を規定した上で、以下のように述べる。

 

 ブルジョア社会においては、生きた労働は、蓄積された労働をふやすための手段であるにすぎない。共産主義社会においては、蓄積された労働は、労働者の生活過程を拡げ、富まし、促進するための手段であるにすぎない。

 したがって、ブルジョア社会においては過去が現在を支配し、共産主義社会においては現在が過去を支配する。ブルジョア社会においては、資本は独立で、人格であり、これに対して活動する個人は非独立で、非人格である。

 しかもこのような関係を廃止することを、ブルジョア階級は人格と自由の廃止と叫ぶ! まさにその通りだ。なぜかとえいば、それはたしかにブルジョア的な人格、独立、自由の廃止なのだから。

(前掲書、六〇頁より引用)

 

 

 発展の進行につれて、階級差別が消滅し、すべての生産が結合された個人の手に集中されると、公的権力は政治的性格を失う。本来の意味の政治的権力とは、他の階級を抑圧するための一階級の組織された権力である。プロレタリア階級が、ブルジョア階級との闘争のうちに必然的に階級にまで結集し、革命によって支配階級となり、支配階級として強力的に古い生産諸関係を廃止するならば、この生産諸関係の廃止とともに、プロレタリア階級は、階級対立の、階級一般の存在条件を、したがって階級としての自分自身の支配を廃止する。

 階級と階級対立とをもつ旧ブルジョア社会の代りに、一つの協力体があらわれる。ここでは、ひとりひとりの自由な発展が、すべての人々の自由な発展にとっての条件である。

(前掲書、六九頁より引用)

 

 

 マルクスエンゲルスにとって国家とは、「本来の意味の政治的権力とは、他の階級を抑圧するための一階級の組織された権力である」、つまり支配階級(王侯貴族やブルジョワジー)がその他の階級(農民、プロレタリアート中産階級)を支配するための道具であると認識されており、既に見てきたように、彼らにとって階級闘争の特権的な主体であったプロレタリアートが革命を起こすことによって国家や賃金労働による搾取は廃止され、「ひとりひとりの自由な発展が、すべての人々の自由な発展にとっての条件である」「協力体」が実現されると説いた。

 実際には既にみたように、地主と産業資本家と金融資本家が連合して支配していた実際の近代自由主義国家は、単なる階級支配の道具ではなく、その国住む全ての人々(「国民」乃至「民族」)にとって自らの歴史、文化、伝統などを持ち、故に命がけで「自衛」すべきものであると捉えられた観念共同体であったし、マルクス主義者であったレーニンスターリン毛沢東は革命後、ソヴィエト社会主義共和国連邦(以下ソ連)や中華人民共和国という社会主義国家を建設したのであった。それは、単に社会主義革命が起きたぐらいでは「階級差別が消滅」することはなく、社会主義国家を建設しなければ、革命の成果を防衛できないと彼らが考えたからであり、そのような国々はマルクスエンゲルスが見通していた、すべての人々の自由な発展にとっての条件である「協力体」とは言い難い抑圧に満ちたものであったが、しかしながら現実のマルクス主義はそのようなものとして二〇世紀を形作ってきたのであった。

 

 さて、一九世紀のヨーロッパ大陸諸国は一八四八年二月に『共産党宣言』が刊行された直後の自由主義革命を経て国家そのものが自由主義的な秩序を受け入れ、自由主義憲法が保障した範囲で市民的自由を獲得したマルクス主義者は、ドイツ帝国ドイツ社会民主党オーストリア=ハンガリー帝国オーストリア社会民主労働党を中心に、以後社会民主主義*4が目指すべきは、革命であるべきか改良であるべきかを巡って論争を繰り広げてきた。「修正主義論争」と呼ばれる論争である。一九世紀を通じて、実際にはマルクスエンゲルスが見通してきた中産階級の没落と、それに伴うブルジョワジープロレタリアート階級闘争の激化ということは、少なくともヨーロッパでは起こらず、むしろプロレタリアートマルクスエンゲルスが非難した「労働貴族」として、中産階級化していったのである。そして、それゆえに「本当に革命的な階級」だと彼等が看做したプロレタリアートは、中産階級として自由主義的な枠組みの中で議会制民主主義国家の一員としての「改良」を望み、一九一四(大正三)年に第一次世界大戦が始まる直前には、議会の枠組みの中で改良を目指す「修正主義者」(エドゥアルト・ベルンシュタインら)と、あくまでも「協力体」を実現する「革命」を目指す原則的マルクス主義者(ローザ・ルクセンブルク、カール・リープクネヒトら)がドイツ社会民主党の中で対立しながら共存するという奇妙な情況が生まれ、レーニン登場以前に「マルクス主義教皇」の異名を取った理論家カール・カウツキーはこの対立に理論的な決着をつけないまま、未来の革命と当面の改良を折衷する立場を取った。

 

 このような情況を根本的に変えたのは、第一次世界大戦中にロシアのレーニン率いるロシア社会民主労働党ボルシェヴィキボルシェヴィキとは「多数派」を意味する)が引き起こしたロシア一〇月革命と、その後のソ連建設であり、二〇世紀の世界のマルクス主義者は、とりわけ非ヨーロッパにあり、当時「半植民地」や「従属国」と呼ばれていた地域の知識人は、この事件をきっかけにしてマルクス主義を研究し始めたのであった。ここで、少しだけ時系列を前後し、マルクス経済学について研究史が示すことを、太田仁樹の説にしたがって述べておこう。マルクスエンゲルスが『共産党宣言』で示した、ブルジョワジーが主導する資本主義の発達によって中産階級が没落し、プロレタリアートブルジョワジーを打倒して階級のない社会が実現されるとの見通しが科学であることを主張するためには、経済学的にその主張、つまり資本主義が経済恐慌によって崩壊すること必然性を実証する必要があった。そのために書かれたのが『資本論』である。『資本論』の第一巻は一八六七(慶應三)年一〇月に刊行され、その枠組みは以下の通りである。

 

 マルクスにおいては、資本主義の一般理論的な研究と現状分析的な研究とは分離していなかったようにおもわれる。『資本論』第1巻の「初版への序言」において、資本主義的生産様式の発展が典型的であるがゆえに、「イギリスが、私の理論的展開の主要な例証として役立つ」とマルクスがのべていること、また労働日をめぐる労使関係の生々しい叙述は、『資本論』が時間的・空間的制約を脱した、いわゆる「一般理論」にとどまるものではなく、「世界の工場」である(その意味で世界革命の中心と考えられていたであろう)イギリスの資本主義のその時点での姿を、その本質においてつかみ出したものであると考えられていたことを示唆している。

 一方、『資本論』は、19世紀中葉のイギリスを念頭において叙述されたものであるが、その論理展開は特定の時代・特定の場所にのみ妥当するものではなく、「資本主義とはそもそも一体なんであるのか」を明らかにする極めて抽象度の高い論理次元での展開をおこなった著作でもあった。

(中略)

のちの帝国主義にかんする諸議論との比較という観点から、『資本論』の理論的性格を考えるとき留意すべきもう一つの問題は、マルクスによる『資本論』の対象領域の限定である。『資本論』の描く世界は、一国民経済内部での資本の運動を「理想的平均」において示すものであるのにたいして、帝国主義論のあつかう世界は、特定の時代(第1次世界大戦前夜)における諸列強の世界経済上の対立・抗争という諸現象である。

(中略)

資本論』以後の時代の資本主義と『資本論』のズレという問題は、すでにマルクスの死後『資本論』の第2巻(1885年出版)・第3巻(1894年出版)を編集したエンゲルスには気づかれていた。エンゲルスはすでに、資本主義が『資本論』第1巻の時代とは異なった様相をしめしつつあることを感じていた。彼は、とくに『資本論』第3巻を編集するにあたって、かなりの註をほどこして、マルクスの死後、資本主義の質的な変化が進んできたことを指摘している。しかし、エンゲルスマルクスの遺稿を整理することに自らの仕事を限定し、この変化の意味を本格的に追及することはしなかった。この課題が本格的に意識されるようになったのは、ドイツ社会民主党内のいわゆる修正主義論争をつうじてであろう。

(太田仁樹『レーニンの経済学』御茶の水書房、一九八九年六月一日第一版第一刷発行、一一〇頁、一一二頁、一一四頁より引用)

 

 

 『資本論』の性格は以上のようなものであったが、既に一九世紀末には「一国民経済内部での資本の運動」を明らかにしようとした『資本論』では答えられない問題が生じており、エンゲルスにさえもそれは自覚されていたのであった。一九世紀後半の資本主義の発達の現実、即ちヨーロッパ列強によるアフリカ、アジアの植民地分割に象徴される帝国主義の進展と、産業資本主義から金融資本主義への先進工業国に於ける資本主義の質的変化に際して、新たにマルクス主義の立場からこの現象を解明する理論的必要が発生したのである。マルクス主義に於けるこの研究領域は通常古典的帝国主義論と呼ばれ、代表的な研究書としてオーストリア社会民主労働党ヒルファディングによる『金融資本論』(一九一〇年)、ドイツ社会民主党ローザ・ルクセンブルクによる『資本蓄積論』(一九一三年)、そしてロシア社会民主労働党ボルシェヴィキレーニンによる『資本主義の最高の段階としての帝国主義』(一九一七年、いわゆる『帝国主義論』)が挙げられる(太田一九八九年、二二一頁)。

 ヒルファディング、ルクセンブルクマルクス主義経済論については本稿では論じない。レーニン第一次世界大戦中の一九一七(大正六)年二月に亡命先のスイスで刊行した『帝国主義論』は、マルクス主義経済学の立場化から進行していた世界大戦を、植民地の再分割を目指す帝国主義列強諸国の衝突が、資本主義がその最高にして最後の段階に至って表れた姿だと位置づけ、「資本主義の最高の段階としての帝国主義」に対してプロレタリアートの立場から反撃すべきであることを論じた書であった。その際、レーニンには以下のような問題意識が存在した。

 

 世界経済の概観図をしめすというこの目的は、レーニンの場合たんなる経済学的関心から生じたものでは勿論ない。彼を帝国主義研究に専念させたのは、1914年の世界大戦の勃発とその後の社会主義者の態度の混乱であった。帝国主義についての理論的認識の確立こそ、社会主義者のうちに蔓延する日和見主義を克服するのに必須の課題であるとおもわれた。世界経済の概念図をしめすということも、この課題を果たすことに他ならない。

(前掲書一二六頁より引用)

 

 この『帝国主義論』に於けるレーニンの見解がどこまで実証的に妥当であるかはここでは問わない。重要なのは、当時実際にヨーロッパや北アメリカや日本の帝国主義の矛先を向けられ、「半植民地」や「従属国」と呼ばれていた国々の知識人が、レーニンのこの見解に深い共感を示したことである。帝国主義が資本主義の最高の段階であるならば、「半植民地」や「従属国」の目前で進行する欧州、米国、日本の帝国主義を打倒するには資本主義を打倒する他なく、資本主義を革命的に打倒するためには資本主義を担うブルジョワジーを、プロレタリアートの立場に組して倒さなければならないと、「半植民地」や「従属国」と呼ばれていた国々の知識人は考えたのだ。『共産党宣言』でマルクスエンゲルスが「労働者は祖国をもたない。もっていないものを、彼らから奪う事はできない」と述べた時、既に見てきたように、それはヨーロッパの労働者に関しては当てはまらなかった。しかしながら、祖国を持っていたヨーロッパの労働者が「文明化の使命」と「白人の責務」(ラドヤード・キプリング)を担う祖国の兵士として、「文明化されていない」非ヨーロッパ世界を植民地化する帝国主義戦争に加わり、その結果、実際に祖国を奪われてしまった――その祖国とはムガル帝国や大清帝国ベトナム帝国、ペルシア帝国、インドのヒンドゥー諸王朝、アフリカの諸王国のように、決して近代自由主義の観点からは自由でも平等でもなく、しばしば抑圧的であり、それゆえ近代ヨーロッパの基準からすれば「文明」ではなかった――人々の内左翼的な人々は、その実感ゆえに『共産党宣言』の原則的立場に一体化することができたのである。

 

 一九二一(大正一〇)年にバクーでボルシェヴィキが開催した東方諸民族大会は、この立場を強化した。第一次世界大戦勃発後、それまでドイツ社会民主党内の「修正主義」(改良)に反対して、革命的な立場を堅持していたローザ・ルクセンブルク、カール・リープクネヒトらは、「祖国擁護」のために社会主義者としてドイツ帝国の戦争に協力することを主張したエーベルトら主流派の「城内平和」に対して、自らのプロレタリア的立場から第一次世界大戦への協力を拒んだ。一九一八(大正七)年にロシアでボルシェヴィキが一〇月革命を引き起こした後、翌一九一九(大正八)年一月にはドイツにまで波及していた革命は、しかしローザ・ルクセンブルク、カール・リープクネヒトらの死を以て挫折したのであった。ここに、先進国に於ける革命的プロレタリアートの闘争は終焉を遂げた。一九一九年三月にボルシェヴィキは「世界革命の参謀本部」としてソ連共産党が指導するコミンテルンを結成し、その世界各国支部を通じてマルクス主義による世界革命を目指したが、もはや第一次世界大戦前にマルクス主義者の中心であったドイツ社会民主党は革命を目指さない改良主義者の政党となり、社会民主党から分離してドイツ共産党を結成したソ連派の共産主義者も、プロレタリア革命を担う力量を持たなかったのである。

 コミンテルン結成から二年を経て、ボルシェヴィキを指導していたレーニントロツキーらは、期待していたドイツ革命、そしてヨーロッパでの革命が起こらないであろうということを認め、東方諸民族大会を以て、その「世界革命の参謀本部」としての世界戦略を、高度に発達した工業国の内部におけるプロレタリア革命から、「半植民地」や「従属国」に於ける反帝国主義戦略へと変更したのである(ウォーラーステイン二〇〇一年、四四頁)。ここで、一九二二(大正一一)年にボルシェヴィキが新設したソ連共産党の初代書記長の役職に就任したヨシフ・スターリンが、一九二四(大正一三)年に発表した『レーニン主義の基礎について』で表明した見解を以て、当時のソ連共産党書記長が世界をどのように見ていたのかを確認しよう。因みに、この小冊子が刊行される四カ月前の同年一月にレーニンは死去しており、もはやここでソ連共産党書記長公式の「レーニン主義」として示されたスターリンの見解に批判を加えることはできない。

 

 レーニン主義は、帝国主義とプロレタリア革命の時代のマルクス主義である。もっと正確にいえば、レーニン主義は、一般的にプロレタリア革命の理論と戦術であり、とくにプロレタリアートの独裁の理論と戦術である。マルクスエンゲルスが活躍したのは、発展した帝国主義がまだなかった革命前(この革命とはプロレタリア革命のことであるが)の時期、プロレタリアが革命の準備をしていた時期、プロレタリア革命がまだ直接、実践的に避けられないものではなかった時期であった。ところが、マルクスエンゲルスの弟子であるレーニンが活躍したのは、発展した帝国主義の時期、プロレタリア革命が展開される時期、プロレタリア革命がすでに一国で勝利し、ブルジョア民主主義を粉砕して、プロレタリア民主主義の時代、ソヴェト時代をひらいた時期であった。

だからこそ、レーニン主義マルクス主義をいっそう発展させたものなのである。

スターリンレーニン主義の基礎』(全集刊行会訳)大月書店〈国民文庫二〇一〉、一九五二年一〇月二五日第一刷発行、一九七〇年二月二〇日第二九刷発行、九頁より引用)

 

 

 以前には、どれか一国の経済状態の見地から、プロレタリア革命の前提条件の分析をあつかうのが普通であった。だがいまでは、このあつかいかたはもはや不十分である。いまでは、すべての国、あるいは大多数の国の経済状態の見地から、すなわち世界経済の状態の見地から、問題をとりあつかう必要がある。なぜなら、個々の国と個々の国民経済とは、自足的な一単位ではなくて、世界経済と呼ばれる一つの鎖の一環に転化したからであり、また古い「文化的」資本主義は帝国主義に成長発展したが、この帝国主義は、ひとにぎりの「先進」諸国が、地球人口の大多数を金融的に隷属させ、植民地的に抑圧する全世界的体制だからである。

 以前には、個々の国に、もっと正確にいえばある発展した国に、プロレタリア革命の客観的条件が存在するかしないかを論じるのが常であった。だがいまでは、この見地はもはや不十分である。いまでは、一つの全体的なものとして世界帝国主義経済体制全体のなかに革命の客観的条件があることを論じなければならない。そのさい、この体制のなかに、工業的にはまだ十分発展していない若干の国々があることは、もしその体制全体に革命全体の機がすでに熟しているならば――いっそう正確にいえば、体制全体に革命の機がすでに熟しているのであるから――革命にとって克服できない障害とはなりえないのである。

 以前には、ある発展した国のプロレタリア革命を論じるばあいには、その対立物である個々の国の資本の戦線に対立する個々の自足的なものとしてこれを論じるのが常であった。だがいまでは、この見地はもはや不十分である。いまでは、世界プロレタリア革命を論じなければならない。なぜなら、個々の国の資本の戦線は帝国主義の世界的戦線と呼ばれる一つの鎖の一環に転化したからであり、この戦線にたいしては、すべての国の革命運動の共同戦線を対立させなければならないからである。

 以前には、その国のもっぱら内部的な発展の結果として、プロレタリア革命を見ていた。だがいまでは、この見地はもはや不十分である。いまでは、なによりもまず、帝国主義の世界体制の矛盾が発展した結果として、世界帝国主義戦線の鎖がある国で断ち切られた結果として、プロレタリア革命を見なければならない。

 革命はどこで始まるか、どこで、どの国で、資本の戦線を最初に突破しうるだろうか?

 工業がいっそう発展していて、プロレタリアートが多数をしめ、文化程度がいっそう高く、民主主義のいっそう発展したところで、と答えるのが以前には普通であった。

 レーニンの革命理論は、次のようにこれを反駁する、――そうではない、かならずしも工業がいっそう発展している等々のところだというわけではない。資本の戦線は帝国主義の鎖が他よりも弱いところで断ち切られる。なぜなら、プロレタリア革命は、世界帝国主義戦線の鎖の最も弱い個所でそれが断ち切られた結果であり、そのさい、革命を始めた国、資本の戦線を突破した国が、資本主義的にはいっそう発展していながらも、なお資本主義のわく内にとどまっていた他の国々よりも、発展の度合いの低いことがありうるからである。

 一九一七年には、帝国主義的世界戦線の鎖は、他の国々にくらべてロシアでは弱かった。だから、この鎖が断ち切られてプロレタリア革命のはけ口になったのは、そのロシアであった。なぜか? なぜならロシアでは、最大の人民革命が展開され、地主に圧迫され搾取されていた幾百万の農民というような、非常に重要な同盟軍をもっていた革命的プロレタリアートが、この革命の先頭に立ってすすんだからである。なぜなら、ロシアでは、威信をすっかり失って、全住民の憎しみの的となっていたツァーリズムのような、帝国主義のいとうべき代表者が、革命に対立していたからである。たとえロシアが、たとえば、フランスまたはドイツ、イギリスまたはアメリカよりも、資本主義的発展の度合いが低かったにせよ、鎖はロシアでは他よりも弱かったのである。

 近い将来に鎖が断ち切られるのは、どこであろうか? こんどもまた他にくらべて鎖の弱いところである。たとえば、インドで鎖が断ち切られることもないわけではない。なぜか? なぜなら、インドには若い戦闘的な革命的プロレタリアートがいて、それが民族解放運動のような同盟軍――疑いもなく大きな、疑いもなく重要な同盟軍――をもっているからである。なぜなら、そこでは、信頼を失って、インドの圧迫され搾取されている全大衆の憎しみの的となっている外国帝国主義のような、だれでも知っている敵が、革命のまえに立っているからである。(前掲書、三五~三八頁より引用)

 

 

 問題は、こうである、――圧迫された国々の革命的解放運動内部にある革命的可能性は、すでにくみつくされているのか、あるいはそうではないのか、もし、くみつくされていないのなら――これらの可能性をプロレタリア革命のために利用し、従属国・植民地を帝国主義ブルジョアジーの予備軍から革命的プロレタリアートの予備軍に、プロレタリアートの同盟軍に、転化する望みと根拠はあるか?

 レーニン主義は、この問題に肯定的に答える。すなわち、圧迫された国々の民族解放運動の内部には革命的能力があることを認め、またこれらの能力を共通の敵をうちたおすため、帝国主義をうちたおすために、利用する可能性があると考える。帝国主義発展のしくみ、帝国主義戦争とロシア革命は、この点にかんするレーニン主義の結論を完全に確証している。

 このことから、被圧迫・従属民族の民族解放運動を「大国」民族のプロレタリアートが支持する必要、しかも決然と積極的にこれを支持する必要がでてくる。

 もちろん、このことは、プロレタリアートが、いつ、どこでも、あらゆる個々の具体的なばあいに、あらゆる民族運動を支持しなければならない、ということを意味するものではない。問題になるのは、帝国主義をつよめ維持することにむけられているのではなく、帝国主義をよわめ打倒することにむけられている民族運動を支持することである。個々の圧迫された国の民族運動が、プロレタリア運動の発展の利益と衝突するばあいがある。こういうばあいには、支持が問題になりえないことは、当然である。民族の権利の問題は、孤立した自足的な問題ではなく、プロレタリア革命という一般的問題の一部分であって、全体に従属しており、全体の視覚から観察しなければならない。

(前掲書、八三~八四頁より引用)

 

 

 『共産党宣言』に於けるマルクスエンゲルスの論理は、「中産階級、すなわち小工業者、小商人、手工業者、農民」が資本主義の進展の中で没落する中で、ブルジョワジープロレタリアートに二極化し、やがてプロレタリアートブルジョワジーを打倒して国家も階級も存在しない協力体を建設するというものであったが、レーニンを経てスターリンによって体系化されたレーニン主義の中では、もはやこの「革命的プロレタリアート」は実際にブルジョワジーに雇われて工場で働く「近代的労働者」そのものではなくなっていることに注意しよう。スターリンはこう述べている。

 

 だが、新しい時代がやってくるとともに、事態は根本的に変わった。新しい時代は、諸階級が公然と衝突する時代、プロレタリアートが革命的に行動する時代、帝国主義を倒し、プロレタリアートが権力を獲得するために直接に勢力を準備する時代である。この時代は、党活動全体を新しい革命的な基調で建てなおし、権力を獲得する革命的闘争の精神にそって労働者を教育し、予備軍を準備し、これをひきつけ、隣接する国々のプロレタリアートと同盟し、植民地・従属国の解放運動と堅い結びつきをうちたてる等々の新しい任務を、プロレタリアートのまえに提出する。これらの新しい任務を、議会制度の平穏な情勢のもとで訓練された古い社会民主諸党の力で解決できると考えることは――望みのない絶望に、避けられない敗北に、自分を運命づけることである。これらの任務を肩ににないなながら、旧政党の指導のもとにとどまっていることは――完全な武装解除の状態におかれることを意味する。プロレタリアートがこういう状態にあまんじられなかったことは、証明するまでもあるまい。

 ここから、プロレタリアを権力獲得の闘争にみちびきうる大胆さをもち、革命的情勢の複雑な諸条件を判断するに十分な経験をもち、目標への途上にある、ありとあらゆる暗礁を避けてとおるだけ十分に事態に即応できる、新しい党、戦闘的な党、革命的な党の必要が生まれる。

 このような党なしには、帝国主義を倒し、プロレタリアートの独裁をかちとることなど、およそ考えられないことである。

 この新しい党こそ、レーニン主義の党である。

 この新しい党の特質は、どこにあるか?

 (一)労働者階級の前衛部隊としての党。党は、なによりもまず、労働者階級の前衛部隊でなければならない。党は労働者階級のすべてのすぐれた分子を、彼らの経験、彼らの革命的精神、プロレタリアートの事業にたいする彼らの限りない献身を、吸収しなければならない。だが、真に前衛部隊になるためには、党は、革命的理論で、運動の法則についての知識で、革命の法則についての知識で、武装しなければならない。そうでなければ、党は、プロレタリアートの闘争を指導し、プロレタリアートを率いてゆくことはできない。もし党が、労働者階級の大衆が経験し考えていることを記録するだけにとどまるなら、もし党が、自然成長的な運動のあとをのろのろとついてゆくなら、もし党が、自然成長的な運動の不活発さと政治的無関心を克服できないなら、もし党が、プロレタリアートの一時的利益以上にでることができないなら、もし党が、プロレタリアートの階級的利益の水準に大衆を引き上げることができないなら、党は真の党になることはできない。党は、労働者階級の先頭に立たねばならないし、また労働者階級よりも遠くを見なければならない。党は、プロレタリアートを率いてゆかねばならず、自然成長性のあとをのろのろとついていってはならない。「追随主義」を説く第二インタナショナル〔筆者注:ドイツ社会民主党などをはじめとする、第一次世界大戦以前の社会主義者の国際組織〕の諸党は、プロレタリアートブルジョアの手ににぎられた道具の役割におとしいれる、ブルジョア政策の先導者である。プロレタリアートの前衛部隊の見地に立ち、プロレタリアートの階級的利益を理解できる水準に大衆をたかめることのできる党だけが――このような党だけが、労働者階級を労働組合主義の道からひきはなして、彼らを独立した政治勢力に転化することができるのである。

 党は労働者階級の政治的指導者である。

(前掲書一一三頁~一一五頁より引用)

 

 

 スターリンが「もし党が、自然成長的な運動の不活発さと政治的無関心を克服できないなら」と述べていることに注意しよう。スターリンマルクスエンゲルスが『共産党宣言』で示した、「プロレタリア階級のみが本当に革命的な階級である」という認識をそのまま受け取っている訳ではない。私は本章で繰り返し、実際の労働者階級が革命的ではなかったことを述べてきたが、スターリンは的確にこの現実を認識し、労働者の「自然成長的な運動」が実は革命的ではないことを理解している。だからこそ、レーニン主義の理論に於いては「党」、つまりソ連共産党が必要不可欠なのである。「党は、プロレタリアートを率いてゆかねばならず、自然成長性のあとをのろのろとついていってはならない」と述べる時、そこには「党は、なによりもまず、労働者階級の前衛部隊でなければならない」というスターリンの党認識が反映されている。労働者階級は前衛――それはもはや、実際に工場で働く人々ではなく、インテリゲンチャであろう――に率いられた党によってはじめて、労働者階級の階級的利害を実現できるのである。プロレタリアートの「自然成長的な運動」は、革命的ではなく、したがってプロレタリアートの階級的利害を代表できないからである。

 ところで、前衛とは何であろうか。ある人物が特定の集団――この場合はプロレタリア階級――の前衛であるということは、自己言及と循環構造によってしか保証されないのではないだろうか。つまり、「私は前衛である」と自ら宣言する個人が「労働者階級の前衛部隊としての党」に入党し、「労働者階級の前衛部隊としての党」から「前衛」として認められるという手続きを取らねば、ある人物やある集団が「前衛」であるかどうかは解らないのではなかろうか。人は、封建時代の貴族のように、生まれながらにして「前衛」の血筋の下に生まれてくることはできない。ある時期に自らが前衛となる決意を固め、既に前衛を自認する党にその資格を認められることでしか前衛であることはできない。スターリン書記長と、スターリン書記長が所属するソ連共産党が前衛であるか否か、そして植民地、半植民地、従属国の民族解放運動や独立運動が前衛であるか否かは、スターリンソ連共産党によって判断されるしかない

 スターリンが『レーニン主義の基礎について』を刊行した一九二四年五月から概ね一九三〇年ころまで、「世界革命の参謀本部」を自認していたコミンテルンで専ら代表的な理論家と認識されていたのはブハーリンであり、また、同時期にはまだソ連一国で社会主義を建設できるとの「一国社会主義論」を唱えたスターリンの政敵として、「永続革命論」を唱えて既に失敗したヨーロッパでの共産主義革命の継続を唱えたトロツキーが勢力を保っていた。

 権力を握ったスターリンの命を受けて、ブハーリンは一九三八(昭和一三)年に処刑され、トロツキーは一九四〇(昭和一五)年に亡命先のメキシコで暗殺されたが、ロシア革命前からレーニンと共にボルシェヴィキを率いてきた彼等が「反革命」として粛清されねばならなかったのは、究極的にはスターリンが示したこの「前衛」規定によるのではないだろうか。

 ブハーリントロツキーといった古参ボルシェヴィキだけではなく、スターリンソ連を指導していた頃には農業集団化の際の農民弾圧、強制収容所、粛清、ソ連邦内の少数民族への弾圧、社会全体の密告社会化……と、今日多少なりとも左派的な立場に立つ者にとっては直視するのが辛いものとして、右派的な立場に立つものにとっては共産主義がどれだけ道義的に酷いものであったかを物語る証拠として、多くの犠牲者を出しながらソ連に於ける社会主義建設が進んだという歴史的事実が存在した。

 

 今日マルクスに思いを寄せる論者は、マルクスレーニンレーニンスターリンマルクススターリンの関係をいずれかの部分で切断しようとし、マルクスの理論をレーニンが、或いはスターリンが裏切ったのだと主張することがあるが、果たしてそれは正しいのだろうか。マルクスレーニンスターリンは理論上の系譜としても、論理としても一貫していたのではないか。プロレタリアートブルジョワジーに反対して革命を行わなければならず、小工業者、小商人、手工業者、農民、ルンペン・プロレタリアートといった人々は、プロレタリアートではないので真に革命的な階級ではないとのマルクスの前提は、マルクス主義者にとって揺るぎない原則だとされてきた。既に見てきたスターリンの前衛党規定は、実はレーニンの『何をなすべきか』(一九〇二年)で発表された「職業革命家によるプロレタリア階級意識の外部注入」という党組織論に由来し、この理論に従って、マルクスエンゲルスによって「真に革命的な階級である」プロレタリア階級は自然成長的には革命的ではないので、「前衛」によって指導される他なく、ある個人が「前衛」であるかどうかを判断するのは、その個人の前衛としての宣言と、前衛党によるその資格の承認だけだという自己産出する循環構造が生まれる。そして、そのような自己言及によって「革命的プロレタリアート」であることを保証された前衛が、革命的ではないとされた中産階級ブルジョワジー、民族運動を裁断する時、それはソ連中華人民共和国が示してきた歴史以外にはなり得なかったのではないか。

 再三指摘してきたように、現実の労働者は革命的ではなく、祖国を、或いは自らが祖国だと感じているものを持っている。それは当該国の人々が自らのものだと考える歴史、言語、文化といったものであり、意識無意識にせよ人はそれに規定されている。私が本稿を日本語で書いているのは、詰まる所私が日本国に日本人として生まれてからであり、私がそのようにして生まれたということ自体は合理的には実証できない。宗教や迷信の立場から、先祖の霊や前世の業が、私は日本国に日本人として生まれることを決めたと主張することは可能であろうが、それを合理的に実証することは不可能である。本章で、プロレタリア階級に革命運動の主体を見たことが、その後のスターリン主義や現実の社会主義国家の強制収容所、粛清へと繋がったのではないかと私が主張する時、それは現実の国策――たとえば戦争――を追認することを是とするものではない。そうではなく、三木清を繰り返すようだが、実は自分の意識が、歴史的に規定されているということを自覚すべきであり、そうでなければその論理的帰結として見るも無残な失敗を遂げた理論を処理した上で、猶、現在進行する具体的な現実を築き上げ得る事業、一八九三(明治二六)年に山路愛山が「文章即ち事業なり。文士筆を揮ふ猶英雄剣を揮ふが如し」と書いたような「事業」を構想することはできないのではないだろうかと、私は主張するのである。

 

 さて、以上が毛沢東に関する考察に入る前提としてのマルクスエンゲルスからレーニンスターリンに至る正統マルクス主義に関する考察を終えた。これから二〇世紀前半の中国にて、どのように毛沢東が歴史に現れたのかを概観しよう。

 

 一九一一(明治四四)年に大清帝国辛亥革命が起こり、翌一九一二(明治四五)年一月一日に革命家孫文孫中山)を臨時大総統とする中華民国が南京にて成立した。秦の始皇帝より続いた中華帝国は滅亡し、新たに共和政が建てられたのである。しかしながら、この中国革命は成功せず、迷走を続けた。孫文は一九一九(大正八)年に中国国民党を創設し、革命の指導を続けた。この中国革命には、一八四〇(天保一一)年の阿片戦争以来、ヨーロッパ列強やアメリカ、日本などに切り取られ、半植民地化されてきた中国の民族解放が含意されており、スターリンが一九二四(大正一三)年に「問題になるのは、帝国主義をつよめ維持することにむけられているのではなく、帝国主義をよわめ打倒することにむけられている民族運動を支持することである」と述べた時、「革命的プロレタリアートの前衛」、つまりソ連共産党と自らの立場から、帝国主義を弱めるために「プロレタリア革命のために利用」され得るものであり、この理論からスターリン率いるソ連は、国民党の蒋介石が一九二七(昭和二)年に上海クーデターを起こし、合作していた中国共産党を弾圧するまでは国民党を支持していたのである。中国国民党を率いていた孫文は、一九二三(大正一二)年一一月一六日付の当時の日本の逓信(郵政)大臣だった犬養毅に宛てての手紙でこう書いている。

 

 古人もいっております。「その心を得るものは、その民を得、その民を得るものは、その国を得る」(『孟子』「離婁」上)と。もし日本がロシアに勝利したときにおいて、よくこの古人の言に従っていたならば、こんにちアジア各国はみな日本に帰依していたでありましょう。イギリスが現在、アイルランドに自由を許し〔筆者註:一九二二年にイギリスは一七世紀から植民地にしていたアイルランド自治を認めた〕、エジプトに独立を許したのは、この意味であります。もし日本が翻然としてめざめ、イギリスがアイルランドを遇するように朝鮮を遇し、あやまちをふたたびせぬように心がけるならば、アジアの人心を収拾することはなお可能であります。さもなければ、アジアの人心はかならずことごとくソヴィエト・ロシアに向かっていくでありましょう。これは、けっして日本にとって幸いなことではありません。

(中略)

 現在、幸いにして先生〔筆者註:犬養毅のこと〕が入閣されました。思うに、これまでの日本の失策と列強盲従の主張とを、かならずきれいさっぱりと一掃されるでありましょうが、その眼目は中国の革命事業にあります。中国の革命は、ヨーロッパ列強がもっともきらっているものであります。といいますのも、中国革命がいったん成功いたしますならば、安南〔筆者注:ベトナムのこと〕、ビルマ、ネパール、ブータンなどの諸国、インド、アフガニスタン、アラビア、マレーなどの民族もかならず中国のあとを追い、ヨーロッパからはなれて独立するからであります。こうなっては、ヨーロッパ帝国主義と経済侵略とは必然的に失敗に帰します。このゆえにこそ中国革命は、まさしくヨーロッパ帝国主義にたいする死刑宣告の先触れなのであり、列強政府があらゆる手をつくして中国革命に反対しているのもこのためであります。

しかるに、日本政府がこれに気づかず、列強にくっついて反対しているのは、自殺行為とどこが違いましょうか。そもそも日本の(明治)維新は、じつに中国革命の原因であり、中国革命は、じつは日本の維新の結果なのであり、両者はもともと一連のものとして、アジアの復興をなしとげるものなのであります。

 両者の利害がほんらいこんなに密接不可分であるのに、日本は中国の革命にたいして、ヨーロッパに追随し、中国をきらい、中国に危害をくわえてよいものでしょうか。日本の国家百年の確固たる大計をはかるならば、かりに中国に革命が起こっていないとしても、日本はこれを提唱して革命へ導くべきであります。ソヴィエト・ロシアはこんにち、ペルシア、インドにこの態度でのぞんでおり、また昔年、先生が宮崎(滔天)にわが党との連絡を命じられましたのも、まさにそれでありました。

 中国革命がすでにはじまったばあいには、日本は全国の力を傾けてこれを援助し、中国を救うことによって自分を救う、百年まえイギリスがスペインを援助し、最近アメリカがパナマを援助したようにする、そうでなければならないのであります。

 しかるに、日本は中国の革命にたいして、(中華民国成立以来)十二年このかた、ことごとに反対行動に出て、それに失敗すると、いつわりの中立をよそおって体裁をととのえ、かつていちども徹底した自覚をもって、毅然として断固、中国革命援助をアジアの国として立つ日本の遠大な計とすることがありませんでした。これもみな、さきに先生が政府にその志を得られなかった結果であります。いま先生は政府の一員であられます。小生らは切望し、深望せざるをえません。これはひとり中国のためのみならず、また日本のためを思ってのことであります。

孫文「書簡集 犬養毅あて」、小野川秀雄責任編集『世界の名著64 孫文毛沢東中央公論社、一九六九年七月二〇日初版、二八五頁、二八八頁~二八九頁より引用)

 

 

 中国がこのような民族革命の最中にあった一九二一(大正一〇)年に、「世界革命の参謀本部」としてコミンテルンが成立した後、同年7月に上海にてコミンテルン中国支部が建党された。これが中国共産党の起源である。これ以上煩瑣になるのは控えたいので詳細な叙述は避けるが、この時の創設メンバーに毛沢東がいたことと、当初辛亥革命後の中国の混乱の中で勢力を拡大していた中国国民党と合作していたが、一九二七(昭和二)年に上海クーデターで衝突し、以後国共内戦を戦ったこと、そして毛沢東国共内戦中の一九三五(昭和一〇)年に最高指導者となったことは特筆される。スターリンについて確認したことをここで敷衍すると、一九三五年に毛沢東は中国に於ける「プロレタリアートの前衛」の最筆頭となり、同時に誰が中国の労働者階級の前衛であるかを決め、労働者階級の階級的利害から判断を下す立場となったのである。また、この翌一九三六(昭和一一)年、国民党軍の追撃から脱出する長征を完遂し、内陸部の延安に根拠地を定めたこと、一九三七(昭和一二)年に盧溝橋事件が発生し、日中戦争が始まると、再び国民党と合作し、抗日戦争を戦うに至ったことをここで記しておく。それまで中国革命の主導権を巡って中国国民党中国共産党は互いが血で血を洗う国共内戦を戦っていたのだが、この両者が一致するきっかけは――孫文が知ればさぞ悲しんだであろう――日本との戦争だったのである。一九四五(昭和二〇)年に日本が大東亜戦争に敗北し、敗戦時一〇〇万人に達した在中国日本軍が撤退すると、国民党と共産党は再び内戦に突入し、一九四九年に毛沢東率いる中国共産党が勝利、中華人民共和国を建国したのであった。

 既に引用したように、スターリンは「圧迫された国々の民族解放運動の内部には革命的能力があることを認め、またこれらの能力を共通の敵をうちたおすため、帝国主義をうちたおすために、利用する可能性があると考える」と考えており、その限りで日本帝国主義と戦っていた中国国民党中国共産党の両党を物心両面で支援していた。『毛主席語録』に採録されている、それぞれ一九三八(昭和一三)年一〇月、一一月に発表された毛沢東の時評にはこう述べられている。

 

 国際主義者である共産党員が、同時に愛国主義者でありうるか。われわれは、ありうるばかりでなく、そうあるべきだと考える。愛国主義の具体的内容は、いかなる歴史的条件にあるかによって決まる。日本侵略者やヒトラーの「愛国主義」もあれば、われわれの愛国主義もある。日本侵略者やヒトラーのいわゆる「愛国主義」にたいしては、共産党は断固反対しなければならない。日本共産党員とドイツ共産党員は、かれらの国家の戦争にたいして敗北主義者である。あらゆる方法を用いて、日本侵略者とヒトラーの戦争を敗北に終わらせることが、日本人民とドイツ人民の利益である。敗北が徹底的であればあるほどよい。……なぜならば、日本侵略者とヒトラーの戦争は、世界の人民をそこなうばかりでなく、自国の人民をもそこなっているからだ。中国の状況はちがう。中国は侵略されている国家である。したがって、中国共産党員は愛国主義と国際主義を結びつけなければならない。われわれは国際主義者であると同時に愛国主義者である。われわれのスローガンは、祖国をまもり侵略者に反対するために戦え、ということである。われわれにとって、敗北主義は罪悪であり、抗日の勝利をかちとる責務は、他人に依頼できない。なぜなら、祖国をまもるため戦ってこそ、侵略者をうちやぶることができ、民族の解放をかちとることができるからである。民族の解放をかちとってこそ、プロレタリア階級と勤労人民の解放が可能になる。中国が勝利するなら、中国を侵略している帝国主義者が打倒されるなら、それは同時に外国の人民を助けることになる。したがって、愛国主義は、民族解放戦争における国際主義の実行である。

毛沢東「民族戦争における中国共産党の地位」、竹内実訳『毛沢東語録平凡社平凡社ライブラリー一二七〉、二〇〇九年五月二二日初版第五刷、一七三~一七四頁より引用)

 

 われわれは戦争廃止論者であり、戦争は不要だ。だが、戦争を廃止するには、戦争によるほかはない。鉄砲を不要にするには、鉄砲をとるほかない。

毛沢東「戦争と戦略の問題」、竹内実訳『毛沢東語録平凡社平凡社ライブラリー一二七〉、二〇〇九年五月二二日初版第五刷、八七頁より引用)

 

 

 

 本章の冒頭にて引いた鎌田敏輝の「大乗的非戦論の構築に向けて」を改めて引用すると、そこには「聖戦という考え方は、宗教的に見れば、自衛戦争よりも一ランク高度な戦争観である。何故ならば、自衛戦争は信仰というものがなくても成り立つ概念だが、聖戦を遂行するのは一個の信仰心であるからだ(共産主義も一個の信仰と考えれば)」とあるが、鎌田流にいうならば、この場合の毛沢東の戦争観は「自衛戦争」ではなく、「宗教戦争」であろう。毛沢東が「中国が勝利するなら、中国を侵略している帝国主義者が打倒されるなら、それは同時に外国の人民を助けることになる」と述べているように、毛の立場は単に日本軍が中国に侵攻してきたから(当時の日本人にとっては「自衛戦争」であったかもしれないが)戦うといったものではなく、中国人が愛国主義を持ち、共産党と共に日本と戦うことで、「日本人民とドイツ人民の利益」を実現しようとしているというものだったからである。

 そして、この日本人民を助けるために日本帝国主義と戦うという論理は、これまでに本章で見てきた、マルクスエンゲルスレーニンスターリン共産主義のロジックを持って初めて獲得されるのである。ここに、日本と中国の戦争を考えるむずかしさがある。三度目の引証となるが、鎌田の「中国の領土で戦って、日本の中国に対する自衛戦争であったと中国人民をして納得させ得る論拠はどこにあるのか」という疑問はやはり正しいものだからである。小林秀雄は中国との戦争に際して、「一體文学者として銃をとるなどといふ事がそもそも意味をなさない。誰だつて戰ふ時は兵の身分で戰ふのである」と述べた。毛沢東は中国の勝利が外国の人民の利益だから戦うと述べた。毛沢東スターリンの系譜下にあり、その立場で、特に中華人民共和国建国後は百花斉放・百家争鳴、大躍進、プロレタリア文化大革命などの経済政策や文化政策で大失敗し、多くの中国人民を苦しめてきた。しかし、このスターリン主義から導かれる国際主義の原則がなければ、中国人民は日本帝国主義と満足に戦い得なかったであろう。日米開戦後に延安で行われた『文芸講話』(一九四二年五月)を見てみよう。

 プロレタリアートの文学・芸術は、プロレタリアートの革命事業全体の一構成部分であり、レーニンも述べているように、革命という機械全体の「歯車であり、ねじ釘である」のです。ですから、党の革命事業全体のなかで党の文芸工作の占める位置は、定められ、確立されています。それは特定の革命時期に党によって規定された革命の任務に従属します。

かかる位置づけに反対するならば、かならず二元論ないし多元論に陥り、実質的には、トロツキーのように、「政治――マルクス主義的、芸術――ブルジョワ的」となってしまうでしょう。

 われわれは、文芸の重要性を不当に強調しすぎることに賛成できませんが、同時に、文芸の重要性を過小評価することにも賛成しません。文芸は、政治に従属するものですが、逆に、政治に巨大な影響を与えるものでもあります。

革命文芸は、革命事業全体の一構成部分であり、歯車やねじ釘であっても、他のより重要な部分と比較するならば、そこには当然、重要性、緊急性、占める位置などの点で違いが生じます。けれども、それは機械全体にとって欠くべからざる歯車とねじ釘であり、革命事業全体にとって欠くべからざる一構成部分なのです。もしわれわれが、もっとも常識的な広い意味での文学・芸術すらもたないとすれば、革命運動をおしすすめることも、それに勝利することもできません。この点を認識しないならば、それは誤りです。

 なお、われわれが、文芸は政治に従属する、というばあいの政治とは、階級的政治、大衆的政治をさすのであって、いわゆる少数の政治家による政治をさすのではありません。政治とは、それが革命的なものであれ反革命的なものであれ、すべて階級と階級との闘争であって、少数の個人の行為ではありません。革命的思想闘争も革命的芸術闘争も、政治的闘争に従属しなければなりません。なぜなら、階級および大衆の要求は、政治をとおしてこそはじめて、集中的に表現されうるものだからです。

(中略)

 文芸批評には、二つの基準があります。一つは、政治的基準であり、いま一つは、芸術的基準です。

(中略)

 われわれの文芸批評は、セクト主義的であってはならず、団結抗日の大原則に立って、各種各様の政治的態度をともなった文芸作品の存在を認めるべきです。しかし、われわれの批評は、同時に、原則的立場を堅持するものであり、反民族的、反科学的、反大衆的、および反共的観点をふくむ文芸作品にたいしては、すべて、手きびしい批判と反駁をくわえなければなりません。なぜなら、これらのいわゆる「文芸」は、動機からいっても効果からみても、団結抗日を破壊するものだからです。

(中略)

 政治的基準といい、芸術的基準という、この両者の関係はどうか。政治は、けっして芸術にとってかわることはできず、世界観一般も、けっして芸術創作や芸術批評の方法にとってかわることはできません。われわれは、抽象的な絶対不変の政治的基準を否定するばかりでなく、抽象的な絶対不変の芸術的基準をも否定するものです。

(中略)

 政治的にはまるで反動的なある種の作品にも、それなりの芸術性がそなわっていることがありえます。内容が反動的で、しかも芸術性が高いような作品は、それだけ人民に害を与える力をもっているわけですから、いっそう排斥しなければなりません。およそ没落期にある搾取階級の文芸に共通する特徴は、反動的な政治内容と芸術的形式のあいだに存在する矛盾にあります。

毛沢東「文芸講話」、小野川秀雄責任編集『世界の名著64 孫文毛沢東中央公論社、一九六九七月二〇日初版、四七五~四七六頁、四七八頁、四七九頁、四八〇頁より引用)

 

 

 私は、この毛沢東に、山路愛山の「文章即ち事業なり。文士筆を揮ふ猶英雄剣を揮ふが如し」という言葉が、極端な形で表現されているのを見るのである。毛沢東は文学や芸術が固有の価値を持たないと言っているわけではない。「政治的にはまるで反動的なある種の作品にも、それなりの芸術性がそなわっていることがありえます」というように、政治的に正しくない作品にも芸術的な価値があることを認めた上で、「内容が反動的で、しかも芸術性が高いような作品は、それだけ人民に害を与える力をもっているわけですから、いっそう排斥しなければなりません」と否定するのである。文芸をプロレタリア革命のための「事業」(この事業という言葉が山路愛山の言葉と同じであることに、奇妙な感慨を覚える)として把握し、その限りで政治に従属せよと毛沢東が中国人民に迫るとき、プロレタリアート主導の政治に反対する人々の創作は存在する空間を持たない。そう考えると、私のややリベラルな感性が、流石にそれはないのではないかという気持ちを起こす。しかし、私は同時に、専門の批評家として活動した小林秀雄よりも、「日本人民とドイツ人民の利益」のために抗日戦争を辞さないと宣言した毛沢東に痛快なものを感じるのである。この毛沢東に対する私の愛着は、リベラルな政治的には正しくない感情である。遠藤誉は中華人民共和国建国後、一九六〇年代に世界人民全体のプロレタリア革命を目指して文化大革命が、結局中国人の封建意識を克服できずに迷走した果てに、一九七八年の改革開放路線採用後の現在は共産党が率先して金儲けに狂奔し、毛沢東時代には考えられなかった貧富の格差の拡大を招いたことを指摘しているが(この事情については、遠藤誉『拝金社会主義中国』筑摩書房ちくま新書八二九〉、二〇一〇年二月一〇日第一刷を参照した。)、このような現代中国の修正主義が毛沢東路線の失敗だったことを知りながらも、なお小林秀雄よりも毛沢東に愛着を感じるのだ。

 

 抗日戦争終結後も、毛沢東は日本に好意的であった。清水美和は戦後の毛沢東の対日観について以下のように述べている。

 

 毛にとって抗日戦争の勝利とは、日本に革命がおきて真に成就されるものであった。それは「帝国主義戦争を内乱へ」というマルクス・レーニン主義の戦略に基づくものであるが、日本と中国の革命を「一つのもの」と考えた孫文の影響も感じられる。

 日本革命を中国革命と不可分のものと考える毛にとっては、日本人による戦争への謝罪など大きな問題ではなく、日本人捕虜も将来の日本革命の先兵とするべく、できるだけ寛大に扱った。中国の大衆にも「日本軍国主義有罪、日本人民没有罪(日本軍国主義に罪があり、人民に罪はない)」と、歌うように教え込んで反日感情を抑制した。

清水美和『中国はなぜ「反日」になったか』文藝春秋〈文春新書三一九〉、二〇〇三年五月二〇日第一刷、六九~七〇頁より引用)

 

 日本軍による南京攻略やシンガポール攻略を提灯行列で祝い、自ら皇軍の神兵として進んで戦いながら、戦後マッカーサーGHQ史観をあっさりと受け入れて自らの戦争責任を総括せず、日本国憲法を片手に平和と民主主義音頭を踊った「日本人民」に罪がないかはさておき、抗日戦争を先頭に立って戦いながらも、なお日中両国の民族的憎悪を解消しようと努めた毛沢東の姿に、どうしても胸を打たれるものがあるのだ。

 本章に於いて、何を述べたかったのか。いまいち私自身にも整理できなかったが、要約すると、マルクス主義の失敗はマルクス自身のプロレタリア認識の失敗にあること、マルクスエンゲルスレーニンスターリンは一本線であること、マルクス主義文学論の最極端として毛沢東の『文芸講話』を読むことにより、中国の抗日戦争とプロレタリア革命という具体的な政治に、文芸が従属することは、本章までで北村透谷よりも山路愛山を評価してきた私にとっても、やはりやりすぎなのではないかということである。にも関わらず、私は日本人民を日本帝国主義から助けるために、抗日戦争を戦うのだと語った毛沢東に対して、親愛の情を感じるのだ。或いはこういうべきなのかもしれない。明治大帝の治世は大韓帝国を併合するという失政を含むものであったが、だからといって近代日本を実現した明治時代を全否定するのは誤りであるように、毛主席もその治世に於いて様々な過ちを犯したが、それでも中国の統一を為した毛主席時代を全否定するのは誤りである。人も思想も組織も国家も、その生命の中で全く過ちを犯さずに過ごすということはできない。真面目に生きていれば尚更である。私自身、ゲバラや毛主席の眼で世界を見ていた数年前の自分を、転向した現在から思い返すと赤面汗顔という他ない。私は、未来についてどのように考えるべきかは、今のところ分からないが、それがまだ私には分からないという現在の実感を表明することで、本章を終えよう。

 

七.結論:文学と人生

 

 本稿では、一八九三(明治二六)年に山路愛山と北村透谷の間で行われた「人生相渉論争」を題材に、文学がどのような役割を果たすべきか、そしてそもそも「文学」という言葉を透谷のように詩や小説などの「純文学」という言葉で理解したのは正しかったのか、それは、実は「文学」と呼ばれる人間の思考的、表現的活動の幅を狭めてしまい、結果的には目前で展開する現実の国策を文学者が追認するための論理的前提となったのではないかということを、小林秀雄保田與重郎の言説を問題意識にしながら敷衍してきた。しかしながら、「文学」という言葉を愛山のいう広義の文学として、つまり詩、小説の他哲学、思想、経済論、政治論等々を含む人間の思考の表現物一般として捉えた上で、それを「事業」だといった時、当然ながら現実への結果責任が生じざるを得ない。既に三木清マルクスエンゲルスレーニンスターリン毛沢東の理論と、その理論が政治的な現実として実現される際に含んだ失敗を考えるに、文学への態度として愛山が善く透谷が悪いということはできない。以上が、本稿で「近代日本に於ける思想と文学の社会性の起源」を考察した結果として私が述べるところである。

 

 本章では、愛山と透谷の論争から少しだけ視点をずらして、その共通点を探ってみよう。既に確認したように、愛山と透谷は同じ明治時代に「四民平等」の世の下で消えゆく士族階級の出身者として、自らの人生を如何に生きるべきかと問い、その限りで文学の役割を社会的な影響という視点から捉えたのが愛山であり、他方どこまでも文学は個人のものであると捉えたのが透谷であったというのが私の理解である。であるからこそ、対照的に見える両者に共通することは、文学が人生の問題であったということであり、ここに文学を取り払ったところで人生とは何かという書生風の問題意識を接続することが可能であろう。ここでは、二人と同時代の宗教者の立場、キリスト教徒の立場が、どのように人生を捉えたかを検討してみよう。ここでは、愛山、透谷と同じく士族出身のキリスト教徒として、近代日本のキリスト教の一潮流たる無教会派を作り出した、内村鑑三(一八六一~一九三〇)の『後世への最大遺物』という講演を検討する。透谷が首を吊ってから二カ月後の一八九四(明治二七)年七月に行われたこの講演には、当時のエリート予備軍を育てていた一高の教師でありながら、キリスト教徒として創造神を信じる良心の立場から教育勅語への最敬礼を拒否した「内村鑑三不敬事件」によって教職を辞めることを余儀なくされた後の内村の心境が吐露されており、非常に興味深い内容となっているからである。まずは本講演での内村の人生観を確認しよう。

 

 しかしながら、私にここに一つの希望がある。この世の中をズット通り過ぎて安らかに天国に往き、私の予備学校を卒業して天国なる大学校にはいってしまったならば、それでたくさんかと己れの心に問うてみると、そのときに私の心に清い欲が一つ起ってくる。すなわち私に五十年の命をくれたこの美しい地球、この美しい国、この楽しい社会、このわれわれを育ててくれた山、河、これらに私が何も遺さずには死んでしまいたくない、との希望が起ってくる。ドウゾ私は死んでからただに天国に往くばかりでなく、私はここに一つの何かを遺して往きたい。それで何もかならずしも後世の人が私を褒めたってくれいというのではない、私の名誉を遺したいというのではない、ただ私がドレほどこの地球を愛し、ドレだけこの世界を愛し、ドレだけ私の同胞を思ったかという記念物をこの世に置いて往きたいのである、すなわち英語で言うMemento〔メメント〕を残したいのである。こういう考えは美しい考えであります。

内村鑑三「後世への最大遺物」、『後世への最大遺物・デンマルク国の話』岩波書店岩波文庫〉一九四六年一〇月一〇日第一刷、一九七六年三月一六日第三〇刷改版、二〇〇七年五月二三日第八三刷、一六~一七頁より引用)

 

 

ここから理解できるように、この講演での「遺物」という言葉は、人生五十年の間に後の世に残すものである。次いで内村の文学観を確認しよう。

 

……なるほど『源氏物語』という本は美しい言葉を日本に伝えたものであるかも知れませぬ。しかし『源氏物語』が日本の士気を鼓舞することのために何をしたか。何もしないばかりでなくわれわれを女らしき意気地なしになした。あのような文学はわれわれのなかから根コソギに絶やしたい(拍手)。あのようなものが文学ならば、実にわれわれはカーライルとともに、文学というものには一度も手をつけたことがないということを世界に向って誇りたい。文学はソンナものではない。文学はわれわれがこの世界に戦争するときの道具である。今日戦争することはできないから未来において戦争しようというのが文学であります。

(前掲書、四一頁より引用)

 

 

 内村の女性観は、ここでは差し当たり問題にしない。北村透谷が首を吊ったのと同じ年に行われたこの講演では、「文学」という言葉はまだ詩や小説のみの「純文学」の意味にはなっていない。山路愛山がこの前年に「文章即ち事業なり。文士筆を揮ふ猶英雄剣を揮ふが如し」と述べたのを、内村鑑三が「文学はわれわれがこの世界に戦争するときの道具である。今日戦争することはできないから未来において戦争しようというのが文学であります」と全く同じ内容に言い換えている。内村は愛山の直系である。なお、この講演内で内村は愛山同様「文学」を「事業」と言っていることに注意しよう。そして、このような文学観を前提にした上で、しかしながらと内村は続けている。

 

 それで金も遺すことができず、事業も遺すことができない人は、かならずや文学者または学校の先生となって思想を遺して逝くことができるかというに、それはそうはいかぬ。しかしながら文学と教育とは、工業をなすということ、金を溜めるということよりも、よほどやさしいことだと思います。なぜならば独立でできることであるからです。ことに文学は独立的の事業である。今日のような学校にてはどこの学校にてもMission School〔ミッションスクール〕を始めとしてどこの官立学校にても、われわれの思想を伝えるといっても実際伝えることはできない。それゆえ学校事業は独立事業としてはずいぶん難い事業であります。しかし文学事業にいたっては社会はほとんどわれわれの自由に任せる。それゆえに多くの独立を望む人が政治界を去って宗教界に入り、宗教界を去って教育界に入り、また教育界を去ってついに文学界に入ったことは明らかな事実であります。多くのエライ人は文学に逃げ込みました。文学は独立の思想を維持する人のために、もっとも便益なる隠れ場所であろうと思います。しかしながらただ今も申し上げましたとおり、かならずしも誰にでも入ることのできる道ではない。

 ここにいたってこういう問題が出てくる。文学者にもなれず学校の先生にもなれなかったならば、それならば私は後世に何をも遺すことができないかという問題が出てくる。何かほかに事業はないか、私もたびたびそれがために失望に陥ることがある。しからば私には何も遺すものはない。事業家にもなれず、金を溜めることもできず、本を書くこともできず、ものを教えることもできない。ソウすれば私は無用の人間として、平凡の人間として消えてしまわなければならぬか。

(前掲書、五一~五二頁より引用)

 

 

 一八九〇(明治二三)年に内村は自らキリスト教の創造神を信じる立場から教育勅語への最敬礼を拒否し、その結果一高教師の地位を喪った。つまり、人生をどう過ごすかという問題に真摯に取り組み、挫折した者として、講演の聴者に語っている。そのような教育界を追われた挫折者として「しかしながら文学と教育とは、工業をなすということ、金を溜めるということよりも、よほどやさしいことだと思います」と内村が述べる時、そこでは実社会での成功よりも容易なものとして文学と教育が認識され、にも関わらず「かならずしも誰にでも入ることのできる道ではない」と、その難しさを論じているのである。

 当然ながら、文学は難しい。和歌や詩を作れば必ずその出来の善し悪しが評価され、小説や評論、さらに「広義の文学」である経済論や政治論に於いても、その出来が問題となるのは当然である。批評とは、そのように表現された作品の中が、どのように善く、どのように悪いかを明らかにする知的営為であるが、自分の作品が批評によって悪く言われれば、それが正しい批評であったとしても、納得しがたいのは当然であろう。思想と文学には才能と、物を継続して考える胆力、精神力が必要であり、残念ながらそれは誰にでもできることではない。『源氏物語』を否定する内村は、いま私の述べたような意味では文学の価値を定義していないが、要するに機根が大切だという点では同様である。以上を認識した上で、一人の挫折者として内村はこう問題を提起するのである「事業家にもなれず、金を溜めることもできず、本を書くこともできず、ものを教えることもできない。ソウすれば私は無用の人間として、平凡の人間として消えてしまわなければならぬか」。

 

 この講演の前年に行われた「人生相渉論争」では、文学がどのような役割を持つのかということが論争の争点であり、透谷は「美」を、愛山は「事業」をその価値基準として評価した。内村は文学を「事業」として捉える点では愛山と同じだが、かつて奉職していた教育界を追われ、文学を誰にでもできることではないと捉える際に、透谷と愛山にとっては問題とならなかった「平凡の人間」がどう生きるかということが改めて問題となってくるのである。思えば、文学が事業であることを否定した透谷も、自らの人生を通して近代的な恋愛至上主義という観念と、そのための純文学という概念を遺すという事業を成し遂げたのであった。当人は意図していなかっただろうが、三木清が述べたように、「人間のすべての行為は歴史的である、それが歴史的であるというのは、行為が出来事であるということ、行為が同時に生成の意味をもっているということ、我々の為すものでありながら我々にとって成るものの意味をもっているということである」。これを第二次世界大戦後のマルクス主義者に倣って「疎外」とはいうまい。それは、人間が言語によって社会生活を送る限り、意図せずとも、たとえ否定しようとも、前提となってしまうのだ。この問題ついて、内村はどのような解答を出したか。内村の解答はかくの如きである。

 

 しかれども私はそれよりモット大きい、今度は前の三つと違いまして誰にも遺すことのできる最大遺物があると思う。それは実に最大遺物であります。

(中略)

 それならば最大遺物とは何であるか。私が考えてみますに人間が後世に遺すことのできる、ソウしてこれは誰にも遺すことのできるところの遺物で、利益ばかりあって害のない遺物がある。それは何であるかならば勇ましい高尚なる生涯であると思います。これが本当の遺物ではないかと思う。他の遺物は誰にも遺すことのできる遺物ではないと思います。

(前掲書、五三頁、五四頁より引用)

 

 

 内村は、金も事業も文学も教育も遺すことができない、「平凡の人間」が遺せる最大遺物として、「勇ましい高尚なる生涯」を挙げるのだ。そうして内村が模範にする人間は二宮尊徳であり、果たして誰もが二宮尊徳のように生きられるかというと私からは疑問なのだが、ここに一つの近代日本の人生論の型ができたと言えるのではないだろうか。内村は本講演を以下のようにして締めくくっている。

 

……われわれに後世に遺すものは何もなくとも、われわれに後世の人にこれぞというて覚えられるべきものはなにもなくとも、アノ人はこの世の中に生きている間は真面目なる生涯を送った人であるといわれるだけのことを後世の人に遺したいと思います。(拍手喝采

(前掲書、六九頁より引用)

 

 

 内村鑑三キリスト教徒として講演しているが、五十年の人生の中で果たして普通の人間に何ができるのかという問いと、結局は真面目に生きることしかないという内村の答えは、とくに宗教の信仰者ではなくとも、一つの類型としての普遍性を持つであろう。別に目新しいことではなく、ごくごく普通の、常識的な結論である。しかしながら、普通であり、常識的であるということは見失われやすい。どれだけダダイストや破滅論者を気取ろうとも、真剣にそれをやり抜こうとする限りは、真面目さが必要であろう。この極々平凡な結論を以て、本稿を終えることにする。

 

 

八.参考文献

 本文中で引用したものを含め、本稿の執筆に際して特に参考にした文献を列挙する。

 

現代社会に関する知見を得たもの

山下範久『現代帝国論――人類史のグローバリゼーション』日本放送出版協会NHKブックス一一二四〉、二〇〇八年一一月二五日第一刷発行〔アントニオ・ネグリマイケル・ハートの〈帝国〉を軸に、二〇〇〇年代の問題意識を整理しなおしたもの。私の現代社会認識の基礎になっている。〕。

科学認識に関する知見を得たもの

・イマニュエル・ウォーラーステイン『新しい学――21世紀の脱=社会科学』山下範久訳、藤原書店、二〇〇一年三月二五日初版第一刷発行。

・イマニュエル・ウォーラーステイン『脱商品化の時代――アメリカン・パワーの衰退と来るべき世界』山下範久訳、藤原書店、二〇〇四年九月三〇日初版第一刷発行。

・イマニュエル・ウォーラーステイン『ヨーロッパ的普遍主義――近代世界システムにおける構造的暴力と権力の修辞学』山下範久訳、明石書店、二〇〇八年八月一二日初版第一刷発行。二〇〇九年三月二五日初版第二刷発行。

・犬飼裕一『方法論的個人主義の行方――自己言及社会』勁草書房、二〇一一年三月三〇日第一版第一刷発行。

 

マルクス主義に関するもの

・太田仁樹『レーニンの経済学』御茶の水書房、一九八九年六月一日第一版第一刷発行。

・太田仁樹「第五章レーニン」丸山敬一編『民族問題:現代のアポリア』ナカニシヤ出版、一九九七年四月二五日初版第一刷発行、一九七~二一八頁。

・太田仁樹「第六章スターリン」丸山敬一編『民族問題:現代のアポリア』ナカニシヤ出版、一九九七年四月二五日初版第一刷発行、一九七~二一八頁。

・太田仁樹「マルクス主義理論史研究の課題 (XIV) ――マルクス、修正主義論争、ボリシェヴィズム――」『岡山大学経済学会雑誌』三七(一)、二〇〇五年六月一〇日、八九~一〇二頁〔太田仁樹氏のマルクス主義研究からは大きな影響を受けたが、とりわけ大きな影響の受けたのはこの論文であり、本稿でのマルクス主義概論、マルクスレーニンスターリンを一本線で見る視点も、この研究に負っている。なお、岡山大学のウェブサイトにて氏の他の論文と共に閲覧可能である。 http://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/metadata/12421。〕。

 

日本思想史に関するもの

・内山弘『三木清――個性者の構想力』御茶の水書房、二〇〇四年八月一六日

第一版第一刷発行〔三木清を強く愛する学者による研究書。擁護バイアスが強いが、三木がドイツで師事したハイデガー九鬼周造など、三木清が生きた同時代の哲学者と三木哲学の関わりが比較されており、大いに参考になった。〕。

坂本多加雄山路愛山』日本歴史学会編、吉川弘文館人物叢書 新装版〉、一九八八年九月一〇日第一版第一刷発行。

坂本多加雄『知識人――大正・昭和精神史断章』読売新聞社〈二〇世紀の日本一一〉、一九九六年八月。

・永野基綱『三木清清水書院〈人と思想一一七〉、二〇〇九年四月二〇日第一刷発行。

・鷲田田小彌太『昭和の思想家67人』PHP研究所PHP新書四七四〉、二〇〇七年八月二四日第一版第一刷〔戦前昭和の日本思想、とりわけ日本マルクス主義研究に多大な示唆を受けた。ただ、戦後思想と戦後新宗教に弱いのが難点。〕

 

中国に関するもの

于紅「第二次幣原外交期における中国の国号呼称問題――「支那共和国」から「中華民国」へ(研究)」『お茶の水史学』四六、二〇〇二年一一月、七九~一〇八頁〔ciniiより閲覧可能http://ci.nii.ac.jp/naid/110005944261〕。

・遠藤誉『拝金社会主義中国』筑摩書房ちくま新書八二九〉、二〇一〇年二月一〇日第一刷発行。

清水美和『中国はなぜ「反日」になったか』文藝春秋〈文春新書三一九〉、二〇〇三年五月二〇日第一刷発行。

 

 

九.謝辞

 以上のように、本稿では明治時代の二人の書生の論争と、近代日本の中国との戦争を軸に、その後の日本の思想家と、現実に存在したマルクス主義マルクスエンゲルスレーニンスターリン毛沢東主義を検討してきました。このような試みに何の意味があるかを問われれば、本論中で再三繰り返してきましたように、それは哲学、歴史学、経済論、政治論などを含む、「文科の学」を意味していた明治時代の「文学」が、詩やその小説のみを意味する「純文学」となった後に、見落としてしまったことが余りにも多いのではないかという、今日の論壇や文学の世界をチラリと見た時に感じる筆者の素朴な疑問が筆者だけのものではないだろうという希望と、「科学」という制度によってバラバラに区分された文章による表現そのもののジャンルを再統合するための視座を提供したいという野望に応じるため、と答える他ありません。その試みがどれだけ成功したかについては読者の判断に任せるしかなく、また本書で私が検討した個々の論者――とりわけ北村透谷、小林秀雄保田與重郎――の支持者にとっては納得いかない点が多々あるかと思います。分不相応を承知で、これまでに筆者が読んできたものと考えてきたことを表現した結果であり、相当に無理をしつつも山路愛山が言ったように、一人の文士として剣を揮うが如きに文字を重ねてきました。当初愛山と透谷の先駆者として扱う予定だった日本仏教の祖師達、法然親鸞蓮如日蓮について、また内村鑑三の章で扱う予定だった『徒然草』は結局検討できず、読み返してみると散漫で繰り返しが多く、引用ばかりであり、また逆に説明不足でよく解らない部分や今気付いていない誤謬も多々あるかと思います。このように苦しい作品となりましたが、もしも本稿が現在の混沌とした思想界、文學界、精神界や読者諸氏の人生について再考するのに裨益することがあれば、身に余る喜びであり、もしも私に思うことがあれば、透谷が愛山にしたように手心のある批判を下されば幸いです。

 私事ばかりになりますが、去年、私が高校の頃から信奉していたある世界観から決定的な転向を遂げるに際し、昭和の大獄で捕まった人々――宇都宮徳間や太宰治が私の模範です――が書いたように、転向宣言を書こうとし、精神と体調に変調を来して書けずじまいだったということがありました。長らく書こう、書こうと思っていた主題だったのですが、不精ゆえ今回、土塊氏に書いてくれと言われなければ恐らく死ぬまで書かず仕舞いだったでしょう。発表の機会を下さった編集者の土塊氏並びに、本稿を書くに際して多大な学恩を受けた先達諸氏、とりわけイマニュエル・ウォーラーステイン氏の社会科学論、太田仁樹氏のマルクスレーニン主義研究、山下範久氏の現代社会論、坂本多加雄氏と鷲田小彌太氏の近代日本思想史研究、そして物心両面で資料収集に御協力下さった市立図書館の職員の皆様と電網[インターネット]界の知己諸氏、とりわけ研究書を寄贈下さった佐間凛氏及び煙人計画氏と、本稿を校正下さった西田ゆたか氏にこの場を借りて感謝を捧げます。本当にありがとうございました。

 

二〇一三(平成二五)年六月二四日

 

追記:引用文中の誤字脱字の訂正のお知らせ(二〇二三年八月二十八日)

この度、本稿における引用文を確認していたところ、マルクスエンゲルスの『共産党宣言』(岩波文庫)と、鎌田敏輝氏の「大乗的非戦論の構築に向けて」につきまして、引用文に不正確な部分が存在したことが判明しました。本日、その部分を訂正すると共に、以下に誤りの部分を記します。『共産党宣言』訳者の大内兵衛向坂逸郎の両氏、および、「大乗的非戦論の構築に向けて」著者の鎌田敏輝氏に不正確な引用についてのお詫びを申し上げます。

 

マルクスエンゲルス大内兵衛向坂逸郎〔訳〕『共産党宣言岩波書店岩波文庫〉1971年2月16日第33刷改訳発行。

誤 その他の階級は、大工業が起こるとともに衰退し、滅亡する。

正 その他の階級は、大工業が起るとともに衰退し、滅亡する。


鎌田敏輝「大乗的非戦論の構築に向けて」『日蓮信仰のスケッチ』展転社、1996年11月11日第1刷発行。

誤 あえて極言するが、アメリカが広島、長崎に原爆を投下した行為や、ソ連が日ソ中立条約を破って日本に侵攻してきたことも皆祖国の皆祖国の自存自衛の為にやったことであろう。

正 あえて極言するが、アメリカが広島、長崎に原爆を投下した行為や、ソ連が日ソ中立条約を破って日本に侵攻してきたことも皆祖国の自存自衛の為にやったことであろう。

誤 再度言うが、自衛という概念は相対的なもので、その真理性は証明し尽せない。自衛という発想は人間の本能に根拠したもので、相手が善であれ悪であれ、自己を防衛する為に戦うのが即ち自衛である。それについて象徴的な話は、蒙古襲来に際して述べられた日蓮聖人の次の言葉である。「国は亡びるとも謗法は少なくなりなん」。単なる自衛という発想を価値とはされていない。

正 再度言うが、自衛という概念は相対的なもので、その真理性は証明し尽せない。自衛という発想は人間の本能に根拠したもので、相手が善であれ悪であれ、自己を防衛する為に戦うのが即ち自衛である。自国が正義に根拠しておろうがおるまいが、相手が攻めてくれば戦うのが即ち自衛である。それについて象徴的な話は、蒙古襲来に際して述べられた日蓮聖人の次の言葉である。「国は亡びるとも謗法は少なくなりなん」。単なる自衛という発想を価値とはされていない。

*1:この経緯については参考文献に挙げた論文、于紅「第二次幣原外交期における中国の国号呼称問題――「支那共和国」から「中華民国」へ」を参照のこと。ciniiで閲覧可能である。

*2: 国体論とは、天皇についての議論を意味する戦前の用語である。里見岸雄はそれまでの観念的、宗教的な国体論を空想的国体論と呼び、対して自らの国体論を科学的国体論と呼んだ。

*3: あるいは「国民」、「国家」とも訳し分けられる。いずれも英語でのnationの訳語である。

*4: 一九世紀後半からロシア革命まで、「社会民主主義者」とは共産主義者マルクス主義者を意味しており、レーニンスターリンも革命前は自らの立場を示すのにこの言葉を用いている。

「近代日本に於ける思想と文学の社会性の起源についての考察」再掲に当たっての弁明

2013年に友人のラッコ君(twitterID: @rakkoannex)、に「根源」というテーマで何か書いてくれと言われ、『概念迷路』という雑誌に「近代日本に於ける思想と文学の社会性の起源についての考察――人生相渉論争を基準にした思想と文藝の存在意義について――」という論文のようなエッセイを書きました。

 

 

当時私は25歳、宝達揉由(ほうだつモミュ)を名乗り、大学を出て無職、先の目標もない、メンタルも完全に病んでいるという中で、そろそろ真剣に社会復帰をしなければならないということと、そのために自分が20代前半まで抱きながらもその暴力性ゆえに離れることにしたマルクスレーニン主義毛沢東思想との訣別を言葉にして残さなければならないと考えていたところだったので、ラッコ君のお誘いを受けて渡りに船とばかりこのテーマで物を書くことにしました。以下は2013年に書いた本稿について、その後思想的な変化を遂げた2021年の私が感じたことについての弁明となります。

 

「近代日本に於ける思想と文学の社会性の起源についての考察」の最後の方にて、私は以下のように記述しました。

 

“明治大帝の治世は大韓帝国を併合するという失政を含むものであったが、だからといって近代日本を実現した明治時代を全否定するのは誤りであるように、毛主席もその治世に於いて様々な過ちを犯したが、それでも中国の統一を為した毛主席時代を全否定するのは誤りである。”

 

白状すると、当時の私には、明治国家による朝鮮と台湾への侵略政策をどう考えるかについての定見がありませんでした。また、これは現在も考えが変わらない点なのですが、「思えば明治以後今日までの外交交渉に於て対外硬論は必ず民間から出ていることも示唆的である」(丸山眞男超国家主義の論理と真理」『丸山眞男セレクション』平凡社、2010年、77頁より引用)ということに思いを馳せると、1873年明治6年)の「征韓論」政変の際に強硬に「征韓論」の実践を唱えた不平士族達やこれに続いた後の自由民権壮士達(大井憲太郎や中江兆民など)と、少なくとも慎重派ではあった木戸孝允大久保利通といった明治政府の最高指導者達を比べた際に、どちらが「より小さな悪」であったかは、一方が国家権力の最高指導者であり、他方がそれに反対する不平士族や自由民権壮士であったという属性からは直ちに引き出すことができないものだと考えています。

 

参考までに挙げると、自由民権運動の理論的指導者であり、現在も誤って「小国主義」の理論家として知られる中江兆民は、1891年4月に発表した「凡派の豪傑非凡派の豪傑」という政論を発表しています。この政論で中江兆民は、

 

“南洲翁は非凡派の豪傑なり、曩きに翁の志伸び、数万精鋭の兵を率いて、朝鮮に入り、更に深く入らしめしならば、亜細亜の大勢今如何、南洲翁非凡の業を打消して、翁の八千子弟をして禹域の蛟龍と成らしめずして、内地の蝘蜒と為らしめて、我日本を凡殺して、今日の日本をして今日の如くならしめたるは誰れの罪否功ぞや、農、工、商、会社、国会、政党、新聞記事、詩、文、官、民、善事、悪事、日本国、都て是れ造化陶鋳の物、都て是れ凡、都て是れ庸、都て是れ聖人、都て是れ燐、都て是れ窒素、都て是れ蛆虫、糞塵、幻影、泡沫”

 

(中江兆民「凡派の豪傑非凡派の豪傑」『自由平等経綸』1891年4月15日に発表されたものを小林瑞乃『中江兆民の国家構想――資本主義と民衆・アジア』明石書店、2008年9月30日初版第1刷発行、116頁より重引)

 

 

と述べて、西郷隆盛の曩き(さき)の「征韓論」が実施されていたら今のアジアが如何に良くなっていたかという文脈から、征韓論を阻止した木戸孝允大久保利通らの政府要人を非難しています。ここから読み取るに、自由民権運動の理論的指導者にして、侵略される朝鮮王朝の人々への視点が全く存在しなかった点においては、明治政府の指導者とほとんど変わりがなかったことは明らかでしょう。中江兆民は後に大逆事件で処刑される日本初のアナキスト幸徳秋水の師でしたが、幸徳が伝えるほど優れた人物であったかについては改めての検討が必要だと私は感じています。

 

“ もしバクーニンが強調したように、国家が「悪」の領域であるならば、政治的手腕の「技法」は本質的に、より小さな悪とより大きな悪のどちらかを選ぶという領域であり、倫理的な正と不正にかかわる領域ではない。”

(マレイ・ブクチン/藤堂麻理子、戸田清、萩原なつ子訳『エコロジーと社会』白水社、東京、1996年7月10日発行[原著1990年]、213頁より引用。)

 

果して自由民権運動は明治国家の指導者と比較した際に、より小さな悪であったのでしょうか。自由民権運動および日本の自由主義運動が結局のところ、日本帝国主義を肯定する点において大日本帝国とほとんど変わらないのならば、我々は自由主義よりももっと根本的な反帝国主義の発想を、外来思想の受け売りではなく、江戸時代までの我々自身の思想から学ばねばならないのではないでしょうか。そしてそれは今日にあっては、近代自由主義社会を通過しなければ未来に社会主義社会を実現できないとするマルクス主義よりも、アナキズムに近いものだと私は考えています。

 

そしてもう一点、ここで私が明治天皇のことを「明治大帝」と書いた理由について少しだけ触れることにします。現在、成田空港となっている千葉県の三里塚の地には、元々、明治時代に天皇家により宮内省下総御料牧場が作られており、戦後の高度経済成長の中で中村寅太運輸大臣自民党の川島正次郎氏により下総御料牧場を移転させ、440万町歩(132万坪)の土地を空港の建設用地とする案が出されました(吉田司『宗教ニッポン狂騒曲』文藝春秋、1990年9月25日第1刷、19-20頁より)。最初期の成田空港建設反対闘争は、この御料牧場を空港に変えようという「世が世なら不敬罪ものの悪知恵」(吉田司)を提出した政府自民党案に対する農民の反対運動であり、勢いそれは愛国的・尊皇的なものになったのです。吉田司は当時80歳を超えていた空港反対同盟老人決死隊の隊長、菅沢一利についてこのように書いています。

 

“「蒼生の安寧と幸福を旨とせられる天皇陛下の御仁徳にすがり奉り、不敬を憚らず冀わくは政府をして新国際空港建設地選定を再調査せしめ賜らんことを」

 

 昭和天皇への上奏文をたずさえて、菅沢以下代表十五名が宮内庁への直訴を敢行したのは、一九六八年四月、奇しくも明治百年目の桜が皇居の庭に咲きにおい始めた頃のことである。

 その日宇佐美宮内庁長官は不在。代って瓜生次長が会談し、「用地内で一人でも反対者のあるときは、政府公団といえども、牧場内に一歩も足を踏み入れさせない」との“固い約束”を取り交わしたという。更に翌年の七月には五十六人の老人決死隊が、「明治大帝偉業達成せし発祥の地・下総御料牧場の存続を訴える」という横断幕を張って、真夏の太陽の照りつける二重橋前に坐りこんだ。結果はどうなったか?

 三里塚闘争を二十五年にわたって支援しつづけ、今は現地でラッキョウ工場を経営している佐山忠(46)は、当時の想い出をこう語る。

「政府決定をくつがえせるのは天皇さんしかいないと思って、爺さんたちは天皇のところに行くんだよ。そら、戦後の天皇に政府決定を変更させる力なんかあるわけないよ。だけど理屈じゃないんだ。菅沢さんたちはホントにそう信じ込んでいたんだよ。おまけに瓜生のヤツが、『みなさんの気持は良くわかる』とか、『必ずお上に伝える』とか返事したもんで、爺さんたちはすっかり良い気分になる。それが、どうだ。二回目に行った時には手の裏を返したような扱いだった。

 夏の暑っつい中をバス一台で行ったんだよ。皇居の内にも入れないんだよ。そこで仕方ねえから皇居前で坐り込んでたら、宮内庁の方も困りはてたわけ。また瓜生のヤツが出てきて、『御料牧場は栃木県の高根沢に移転します』ナンテ、ぬかしやがったんだ。爺さんたちは、それでダァーッと落胆しちまってな……。

 だって、三里塚の年寄りはみんな御料牧場を自分たちの土地同様に思って育ててきたんだ。皇室が秋のきのこ刈りしたり狩したりする林野の管理も、馬や牛や豚飼ってハム作ったり、羊の肉を皇室の台所に送り届けたりするのも、全部近くの百姓たちの労働奉仕で成りたっていたんじゃないか。安い賃金で、文句も言わず精一杯奉仕してきたのは、そら、みんな牧場を愛していたからなんだ。

 八十歳の菅沢さんが機動隊とぶつかって逮捕された時、なんて言ってたと思う? 

『明治大帝になりかわって、征伐するッ』って叫びながら、機動隊に『天誅!』の糞を、肥桶の糞ぶっかけながら、一人突っ込んで行ったんだぜ。そういうね、日本で最後の、最良の天皇の赤子たちを、天皇家は見棄てたんだよ。裏切ったんだ」”

吉田司『宗教ニッポン狂騒曲』文藝春秋、1990年9月25日第1刷、23-24頁より引用)

 

 

右翼思想家の北一輝には「明治大皇帝は生れながらなる奈翁(引用者註:ナポレオン)なりき」と論じた著作があるそうです(私は北一輝著作集第2巻146頁のその文言がある箇所を引用で知り、直接参照したのではないのですが、非常に示唆的なので言及します)。日本マルクス主義史にあって最高の理論家である講座派の山田盛太郎が『日本資本主義分析』(岩波書店、1934年)を書いた時に、戦前日本の農民が大日本帝国のあり方(その植民地確保=侵略政策も含めて)を支持する理由として、「家長的家族制度」と共に「ナポレオン的観念」(山田盛太郎『日本資本主義分析』)の存在を挙げていましたが、当時も今も明治天皇をナポレオンと対比する発想を表現する際に、この「明治大帝」という表現が的確かと私は考えています。明治天皇が「明治大帝」として見られていた時代があり、それが民衆の世界でも生きていたからこそ、大日本帝国において天皇制に反対することは困難を極めた。福永操氏も『共産党員の転向と天皇制』(三一書房、1978年)で似たようなことを述べていましたが、この点が余り左翼運動圏の人々にもそうでない人々にも認識されていないのではないか。だからこそ、当時私は、「明治大帝」という表記を用いたのでした。

 

 

 

ただ、今になって心残りな点として、この書き方だと私自身が「明治大帝」を肯定しているような書き方だと読めてしまうと再読して感じました。そういう書き方になった理由について、当時の私は、反対派への凄惨な粛清や対外強硬論を重ねつつも、国民国家を実現した明治時代の日本と毛沢東時代の中国について、両者ともに一定の成功を見ていたからだと言えます。現在の私は、日本にせよ中国にせよ、あのような対内的対外的な犠牲を出す形での国民国家形成は誤りであり、取り得べき路線ではなかったのではないかと思うようになりましたが、この文章を書いた際にはまだそこまで強くそうは思えていませんでした。また、本格的に日本思想史の本を読み始めてからは、それまで朝鮮や中国に対する侵略政策の思想家だと認識していた吉田松陰や、近代の国体論・天皇崇拝の源流となったのだとばかり思っていた平田派の国学者の中の生田万、相楽総三、青山半蔵といった人々にこそ、世直しを裏切られた江戸時代の人々の願望が反映されていたのではないかと思いを抱くようになったのです。もしそれが正しい形で実現していれば、明治国家とは異なる形での近代日本を実現し得たでしょうし、21世紀初頭を生きる我々が次の時代の理想を目指す際の参照点になるとも考えています。ただ、今も私はそれをまとめることはできていません。吉田松陰や平田派国学者の著作は反天皇制反日帝国主義、そして自由と正義の文脈から読み直すことができると私は考えており、それは今日の日本アナキズム思想の一つのテーマになり得ると考えていますが、残念ながら今の私には荷が重いテーマとなっています。

 

 

 

また、一点だけ発見できた事実についての訂正があります。マルクス主義労働貴族論について論じた部分で当時の私は、

 

「むしろマルクスエンゲルスが革命的にならないイギリスの工場労働者を「労働貴族」と呼んで批判したのが現実であったのだ。」

 

と書きましたが、この点は私の調査不足であり、マルクス労働貴族論についての本格的な展開を行っておりませんでした。したがって、この部分は以下のように訂正しなければなりません。

 

「むしろエンゲルスが革命的にならないイギリスの工場労働者を「労働貴族」と呼んで批判したのが現実であったのだ。」

 

 

以上、長い前置きとなりましたが今回のブログへのアップロードに際して、上記の労働貴族論の部分に関する修正と、引用時にミスをして旧字を新字に直して引用していた箇所の修正以外は、全て当時のまま掲載することにしました。上述の明治時代の日本と毛沢東時代の中国を対比しつつ、両者に一定の成功を見る部分や、初期マルクスについて何もわからずにただ書かなければならないという思いで書いた三木清についての記述や、日本の帝国主義思想に対する甘めの筆致や、全体を通してぎこちない文体など、個人的に書き改めたい部分は山のようにあるのですが、それを改めるともはや2013年に25歳でこの文章で書いた時に言いたかったことが根本的に変わってしまう気がするため、当時のまま残すことにします。この文章の背景になっているのは保守派の学者、坂本多加雄氏の日本近代思想史研究と、レーニンの研究者、太田仁樹氏のマルクス主義思想史研究ですが、山路愛山毛沢東を繋げるという25歳の自分の無理のある試みの中に、この両者を総合しつつ、山路愛山の如くに日中関係を「中国脅威論」以外のあり方で捉えて現実を文章で作り上げようとする努力を見てもらえたら、それに勝る喜びはありません。

 

いずれ思想的に変化した部分について、しっかりと言語化できる日が来ることを望みつつ。

アンドレ・レスール/小倉正史『アナキズムの美学――破壊と構築:絶えざる美の奔流』現代企画室、1994年10月25日初版第1刷。

19世紀から20世紀後半までのアナキスト革命家やアナキズムに関係のある芸術家の芸術思想史を追い、アナキズム美学思想史を論じた書となっている。ただし原著が1973年なので、「俺は反キリストでアナキストだ」と歌ったセックス・ピストルズのロンドン・パンク運動については論じられていない。本書の章立ては以下の通りとなる。

 

・第一章「社会主義の美学」

・第二章「未知のものと既知の者――プルードントルストイ

・第三章「芸術と反逆――バクーニンヴァーグナー

・第四章「芸術とアナキズム運動」

・第五章「美的都市から労働都市へ――ソレルとベルトのアナルコ・マルクシズム思想」

・第六章「個人主義アナーキーと創造性」

・第七章「現代の理論と実践」

・第八章「政治的美学と美的政治運動の収斂――アメリカ合衆国の場合」

・結論

 

本書ではアナキスト革命家やアナキズムに賛同する芸術家の美術論が多数紹介されているが、そもそもマルクス主義のような体系的な科学ではないアナキズムから、あえて共通項をとり出すならば、「民衆自身による創作」と「過去へのノスタルジー」になるのではないかと感じた次第である。

 

“ アナキズムの美学は、さらに絶対自由思想のさまざまな潮流の多元性を反映し、個人主義的なものとして、個人の創造力と高次の独創性を称揚する。集産主義的あるいは共産主義的なものとしての美学は、共同体もしくは民衆の創造能力を賞讃する。

 だが、プルードンバクーニンの未知のものに対する崇拝から影響を受けて、芸術史の中に前例のない新しい芸術を要求するものであれ、あるいは、民衆芸術もしくはアルカイック芸術の復興を勧告するものであれ。アナキズムの美学は、二千年のヨーロッパ文化に対する現代における最大の攻撃の火蓋を切る。

 手短かにその主要な特徴を引き出して見よう。

 アナキズムの理論家は、芸術を一つの試みと見なす。したがって彼は、あたえられ(←10頁11頁)た芸術と創造する芸術を対置する。彼は各個人のうちに創造的芸術家を見ようとする(そして芸術を職業と生活の手段とする芸術家のうちに過去の時代の象徴を見ようとする)傾向がある。こうしてアナキズムの理論家は、もう一度、個人の至上権、あるいは、むしろ、人間の創造への譲渡不能な権利を主張するのである。

 反権威主義者としての彼は、《偉大な人》とその歴史的役割に対して有罪宣告を下す。そしてまた、《大芸術家》、《ユニークな芸術家》、《天才的創造者》に対しても同じである。傑作の師、美術館と音楽会場の廃棄を彼は宣言する。自発的な、時と場との関連による《状況芸術》(プルードン)のために彼は戦う。創造の行為が作品自体よりも重要である。彼は社会的行動の領域から芸術の分野に直接行動の概念を移し換えて、芸術家の参加を促す。意味深いのは、芸術と生活を隔てるあらゆるものの破壊を望んでいることである。

 ともかく、アナキストの哲学者は、諸芸術の総合に関するロマン主義の理論を自己のものとし、芸術に対して美的であると同時に政治的・社会的な次元をあたえようとする。芸術は民衆の、そして民衆のための芸術にとどまらず、民衆による芸術であるべきであると考える。

 アナキストはしたがって、芸術に対して、政治的、社会的ないし宗教的な使命を強制的に委ねるという強引な芸当に成功するとともに、メタモルフォーズの機会に向けて、永遠性に向けて、芸術を開放する。歴史の束縛から解放されて、芸術は自由に展開するであろう。もはやいかなる規則も芸術を制限することはなくなるから(確かに、←11頁12頁→芸術をその始原的無垢の状態に立ち戻らせようとする絶対自由主義の流れは存在する。この流れは現代の《対抗文化》のシーンにおいても、そして特に《ロック》と《ポップ》の音楽活動においても見いだされる)。”

(本書10-12頁より引用)

 

 

“ 社会主義美学思想の二つの活発な流派、アナキズム美学とマルクシズム美学との間には、二つの基本的意図の水準において類似がある。文学と芸術の創造の社会的基盤を暴き出すことと、芸術の社会的(革命的)役割を明らかにすることが、その二つの基本的意図である。それらの一般的特徴――アナキズム美学とマルクシズム美学が過去と現在のすべての政治的美学と共有するもの――の彼方では、すべての点で二つの美学は別れる。

 まず最初に発端である。芸術の解釈に整合性をあたえる唯一のものである感受性から出発しながら、ゴドウィン、プルードンバクーニンは、彼ら自身で、アナキズムの創造に対するヴィジョンの、必然的に概略的な、輪郭を描いている。

 マルクシズム美学は、固有の感受性に根拠を持たない。弁証法的ないし史的唯物論(←176頁177頁→)の法則(あるいは人間と芸術家の疎外についての青年マルクスのテーゼ)を美学の領域に適用することによって、マルクシズム美学は、マルクスエンゲルスの死の半世紀後に現れる。この美学は、《科学的社会主義》の創始者たちが文化についての決定論的ヴィジョンと彼らの個人的趣味(そしてそれに由来する《不等発展の法則》)とを調停できなかった失敗を知らないわけではないが、しかし、マルクスエンゲルスの文学と芸術についての考察の最初の与件を単純化することによってしか、テーゼの整合性を得ていない。

 アナキズム美学は、断固として、未来に、未知のものに向かう。そうすることによって、現代文化の開花に強力に貢献する。――マルクシズム美学は、視線を遠くには向けない。《現実》を《教える》か解釈するに留める。マルクシズム美学は、実在する作品を社会の経済的・社会的・政治的状況と関係づけることによって、それの社会的意義を引き出す。

 マルクシズム美学は、本質的に批判的な働きによって、文化の修正に貢献する。この美学が敵対的な立場を取るのは、ブルジョワ文化――文化の独占の上に基礎を置く階級分化――に対して、個人主義の哲学に対して、そして特に、いかなる社会的実現もしない少数派の美的文化に対してである。この美学は、倦むこともなく、著作家や芸術家に、その社会的責任を喚起する。彼らに対して、現代の重要な社会的・政治的・哲学的議論に加わるように促す。彼らが《闘技場の中に降りる》ように、参加するように、督促するのである。(←177頁178頁→)

 アナキズム美学は、芸術的創造と社会的創造の二つのうちに、対になった反抗的人間の実現を見る。芸術家が伝統の重圧から解放されるように力づけることによって、この美学は芸術家のうちで際立った解放的役割を果たすが、また、なによりも、創造的役割を果たす。絶えず新しくされた創造の方法を探求するように、芸術家に勧めるのである。

 マルクシズム美学は、レアリスムの伝統の擁護者として現れる。アナキズム美学は、破壊的精神の擁護者である。そして、未来――ユートピア――を凝視しているために、アナキズム美学は、異端的信念の自由な表現に向けての、現代の芸術家の熱望をよりよく表わすものであろう。”

(本書176-178頁より引用)

 

 

本書は概ね上記の二つの引用部に沿って、各思想家の美術思想を概略するが、細かく見ていくとやはりそこに収まらない部分が出てくる。例えば、「アナキズム美学は、断固として、未来に、未知のものに向かう」(本書177頁)とあるが、プルードンにとっては、「革命は、未知のものの漸進的な実現(そこから彼の運動への崇拝が由来する)であると同時に、人類の過去の中にすでに存在していた社会的形式の再創造である」(本書32頁より引用)なのであり、つまりプルードンの見ている未来は過去なのである。島崎藤村は小説『夜明け前』で、「復古は更生であり、革新である」と述べ、平田派国学者明治維新革命に見た物が、「古き古」でも「新しき新」でもなく、「新しき古」であったことを提起し、そうであったがために矢野玄道のような平田派国学者は早くも1871年には明治新政府から追放されたが、プルードンが見ている未来は平田派国学者の夢見たこの「新しき古」なのであり、マルクス主義者のような科学に統制された未来ではない。その点は補記しなければならないと感じた次第である。また、アナキストは一般に権威を否定するため、芸術上の天才をも否定してきたとされる旨が本書には述べられている。「反権威主義者としての彼は、《偉大な人》とその歴史的役割に対して有罪宣告を下す」(本書10頁)ということになる。しかし、本書ではバクーニンベートーヴェンの「第九交響曲」への傾倒から、天才の存在を肯定したことについても述べられている(本書50頁、59頁)。

 

“ 「すべては過ぎ去り、すべては滅びるだろうが、『第九交響曲』は残るだろう」。これは、ミハエル・バクーニンが死の何日か前に言った言葉である。”(本書50頁より引用)

 

というわけで、本書はアナキズム美学が決して一筋縄ではまとめられない多様性や矛盾を有していることを確認しながら、しかしアナキズム美学としてまとめられ得るものが何であったのかを追った思想史となっている。恐らく本書でアナキズム美学の題材として論じられているプルードンバクーニンヴァーグナートルストイクロポトキンカミーユピサロ、ソレル、ベルト、マラルメオスカー・ワイルドジョン・ケージ(141-145頁)といった個々の人々について詳細に研究したことがある人にとっては、本書の傾向性に対して反論を行うことが可能なのではないかと私は思うものの、それでもこのような形でアナキズムの芸術思想を知ることができるのは非常に有益であろう。

 

 

最後になるが、本書でのアナキズム美学の特徴付けから、「悪名路上群像図」などで知られる天明屋尚氏はひょっとしたらアナキズム美学の体現者なのではないかと少し感じた。

【読書録】韓国アナキストの伝記から見える現代韓国の日本観:国民文化研究所、草場里見訳『韓国独立運動家鴎波白貞基――あるアナーキストの生涯』明石書店、2014年1月31日初版第1刷発行。

日本統治時代の韓国のアナキスト、白貞基の伝記。無国家の社会を目指すアナキストを、植民地支配からの国民国家の独立を目指す「独立運動家」と呼ぶのは正しくない気もするが、刊行した韓国の国民文化研究所は金九らと並ぶ大韓民国の独立指導者の一人と認識している模様である。本訳書では割愛されているが、韓国語の原書(2004年6月5日刊行)では、伝記に入る前に国民文化研究所の李文昌前会長による100頁にも及ぶ「アナーキズムとは何か?」というアナキズム史の概説が、第一部として掲載されているとのことであり(5頁、341頁)、「国民」(nation)を名乗る施設が熱心にアナキストを自国の独立運動家として讃えるというそのこと自体が、韓国に於けるアナキズムの立場を想像させてくれて興味深い。尤も、私自身はこのような民族アナキズム(national anarchism)には必ずしも反対ではない。「日本」のアナキスト大杉栄、「台湾」のアナキスト王詩琅、「韓国」のアナキスト「白貞基」、「ウクライナ」のアナキスト、ネストル・マフノ、「ウルグアイ」のアナキストホセ・ムヒカといった具合に、「日本」、「台湾」、「韓国」、「ウクライナ」、「ウルグアイ」といった民族(nation)を抜きに、アナキズムを考えることは困難極まりないからである。世界各国のアナキストの行動や思想には、出身国の民族性が色濃く反映されており、民族性を抜きにした思想の化け物としてアナキストを捉えるのは不可能である。究極的な目標として無政府の世を目指し、そのための方法論にマルクス主義者のような中央集権的な組織論を持たなければ、動機が民族にあろうともアナキストである。ただ、大韓民国では「国民」(nation)という言葉を名乗る組織が、究極的な目標としては国民国家を否定するアナキストである白貞基を「義士」と呼んで讃えているのが、微笑ましいというだけのことである。

 

前置きが長くなったが、本伝記の主人公たる鴎波白貞基は、極めてその生涯を再構成することが難しい人物である。

 

“……鴎波の一生を通して彼が言った言葉、彼が残した物、それに彼について語ったものがほとんど失われたようであるが、そのため今日彼を知っている者は多いが、また、彼が具体的にどういう人物であったのかは知られていない。”(本書48頁より引用)

 

“ 鴎波が残した物が二つある。一つは『世界大思想全集』(日本語版)であり、もう一つは彼が書いた手紙である。ところが実際には現在は手紙だけが残っており、唯一の遺品になった。”(本書78頁より引用)

 

“ 独立宣言書の成立過程や泰和館・パゴダ公園の独立宣言式に関与した人物は天道教キリスト教の信者、そして学生たちであった。また、独立宣言書が全国に配布されるに伴って、全国的に万歳デモが起こるが、これもまた大部分の主導者は宗教人や学生、またはそれに準ずる知識人たちに限定されていた。この点で鴎波は徹底して疎外された人物だった。学校に通ったこともなく、宗教人でもなく、いわゆる至近距離の人物中にもそのような者がいなかったようである。そうかといって、ちゃんとした儒生でもなかった。農民にもなれないごく普通の人間でありながら、独り、内面でだけ生きていく道理を磨いていたものとみられる。鴎波の一生で彼は一度も武装団体を組織して将となったり、独立軍の小さい部隊長または政治団体の部署長の肩書きも持ったことがない。そのうえ二四歳以前の四、五年間の行跡はたどる方法さえない。成年になり何らかの仕事でもしただろうが、彼はひとりぼっちになって潜んでいた人のようにまだ具体的に世に現れたことはなかった。また、彼を指導してくれる師匠さえ探せずにいた。”(本書69頁より引用)

 

 

アナキズムに関する体系的な思想を書き残したわけでもなく、自伝があるわけでもない。本書は中国にいた韓国人アナキスト団体の文献や、金九のような韓国独立指導者の自伝、日本のアナキズム新聞やその他の警察史料の中で浮かび上がった白貞基の姿を一つの線にしたものであり、その点でどこまで正確な伝記なのかは不明である。第一次上海事件の直後の1933年3月17日に日本の駐中華民国公使有吉明を暗殺しようとして未遂に終わり、日本の長崎の刑務所内で獄死したことと、その事件を以て死後金九により抗日烈士の一人として遇されたことだけが白貞基について唯一確実に判明していることであり、1921年に渡日した際に日本で大杉栄と近藤憲二の『労働運動』を読んでアナキストになったこと(71-73頁)や、上海の病院に入院していた1929年~1930年頃に日本人女性との恋愛未遂があったこと(156-159頁)が伝えられているが、これらのエピソードがどこまで確実な出来事なのかは不明である。

 

ただ、そのような不明なことの多い白貞基が、本書を書いた現在の韓国の左派民族主義者から

 

“ 未だに強者が弱者を、富者が貧者を抑圧し、力ある者本位の偽の和解、偽装平和を掲げる現象をよく目にする。さらには正義は強者のものであり、道徳は富者の保身策として悪用されているのを目にする。白義士は生前そのような不義、不道徳な一切の悪徳と闘い、東アジア人民の苦痛を克服するため、身を殺し仁を成したのである。そのすべてのことを一つにまとめて表したものがまさに六・三亭義挙(引用者註:有吉公使暗殺未遂事件)なのである。弱者を抑圧し相手を買収して個人の栄達と国家利己主義への盲従を誇示する背徳漢を撃滅したのである。その最後の身命をなげうって仁道のために尽くす義挙によって、鴎波白貞基義士は人類歴史に足跡を残す偉人になったのである。”(本書44頁より引用)

 

と、論語の一説を引合いにして顕彰されているということが、現在の韓国の非共産主義左派の歴史への向き合い方を物語っていると感じられ、アナキストを自称している私にとっても、とても興味深い読書経験であった。

 

最後に、本書から見える「日本」について述べたい。本書は様々なところに「日本」が顔を出す。それも、抗日テロリストであるアナキストの生涯を描いた伝記なのにもかかわらず、単に否定的な側面だけではなくである。白貞基が何をしていたかがわからない期間について、「一九二一年から二三年まで鴎波が日本に滞在したものと推定し」(本書70頁より引用)、その期間で大杉栄と近藤憲二の『労働運動』を読んでアナキストになり、1929年~1930年にかけての上海での入院中に日本人女性と恋仲になりかけ、白貞基が所属した上海の韓国人アナキストグループには日本人アナキスト(267-269頁)も存在したという事実が紹介され、「大杉栄など日本の良心的知識人」(本書29頁より引用)、「朝鮮植民地政策を公然と反対した大杉栄」(本書85頁より引用)と、大杉栄に対する評価は極めて高い。これらのエピソードを紹介する本書の筆致から、韓国の左派民族主義者が決して日本人を本質的には憎んでいないことを知ることができるのは、本書の大きな意義だと私は思う。

 

“ 日本は一八九四年八月、黄海の豊島沖で清国海軍を奇襲し日清戦争を引き起こしたように、今度も仁川沖でロシアの艦艇を奇襲することによって日露戦争の戦端を開いた。このような奇襲攻撃は日本軍の常套手段として満州事変、日中戦争真珠湾奇襲攻撃へと続けられていった。黄海上の海軍の勝利に続いて、朝鮮半島をわが物顔に通過し遼東半島に入った日本陸軍は、旅順を占領するとともに、すぐに旅順口虐殺事件を敢行した。抵抗力のない旅順口の住民を無差別に虐殺した野蛮な侵略行為に驚愕した欧米列強は、当時日本との不平等条約改定交渉を一斉に中断する措置をとったが、戦争を止めさせようとする努力まではしなかった。

 アジア最強国として君臨しようとする軍国日本は、日本軍内部では口を開けば必ず武士道精神をあがめ敬ったが、対外的には奇襲攻撃や抵抗しない者をむやみに虐殺する反武士道行為を思うがまま(←21頁22頁→)に行った。そのため伝統的な武士道精神を自ら踏みにじったのである。軍国日本にとってはただ力で欧米列強に追い付くという一念だけだった。この目的のためいかなる犠牲、いかなる対価を払ってでもひたすら邁進したのである。”(本書21-22頁より引用)

 

 

とあるように、「伝統的な武士道精神を自ら踏みにじった」ことが日本帝国主義の蛮行を批判する原理となっていることに私は驚いた。日本儒教史でもそうだったように、儒教の正統である朱子学では、「武」よりも「文」が優位にあるため、そこからは決して「武士道精神」を讃える発想は出てこない。にもかかわらず、朱子学の国韓国の民族主義者が、朝鮮にも中国にも存在しなかった「武士道」に、正しく用いられれば日本が野蛮な侵略行為に至らなかっただけの精神的な価値を認めているのである。日本のアナキストは武士道を学ぶべきなのかもしれない。今日の日本でアナキストを自称する人は、是非とも隣国の民族主義者から大杉栄がどのようにして知られているかを知るためにも本書をご一読いただきたい。

ナロードニキとしての国学者?:【読書録】伊東多三郎『草莽の国学(増補版)』名著出版〈名著選書2〉、1982年3月25日発行。

伊東多三郎『草莽の国学(増補版)』名著出版〈名著選書2〉、1982年3月25日発行。

 

1945年1月に原著が刊行された本の増補版復刊。「草莽の国学とは、庶民の国学の意味である。庶民生活に弘まった国学、之である」(本書1頁より引用)という書き出しから始まる通り、18世紀~19世紀前半の日本の庶民が如何に国学を受容したかについての古典的な研究となっている。

 

“ 今日、国学研究はいたって盛んである。名論卓説は少なくない。その中に伍して、草莽の国学の研究は、果してどれほどの意義を認められるべきものであるか。之に就て、先ず自分の立場を反省(←1頁2頁→)して見よう。私は名もなき民の一人である。この感慨は私の境遇と家の状態及び父祖の生活から、自ずから湧いてくる絶対的なるものである。この感慨を以て歴史の研究に従う時、庶民として封建制度の下積みとなり、しかも不屈の勤労精神を以て国史の発展の基礎を培って来た父祖の辛苦の生活に心を馳せ、庶民生活の歴史に厳粛なるものを感ぜざるを得ぬ。私が庶民生活の伝統を研究したいと思い立ち、その一端として草莽の国学を選んだのは、かかる已むに已まれぬ気持からである。”(本書1-2頁より引用)

 

と著者が述べる已むに已まれぬ気持が、本書執筆の動機となっている。だから、本書で重視されるのは本居宣長国学ではなく、むしろ平田篤胤国学であり、篤胤の門人たちが農村に土着しつつ復古神道を説いた姿である。

“ 第一は、国学史の立場から庶民生活との関係を考える場合であって、平田学発達の地盤が武士社会又は大都市の町人社会よりも、むしろ地方の郷村社会に開拓された為に、自ずからその学風の特徴が形成された事実が注意の的となる。篤胤は古道宣揚には幕府諸大名の支持を得る必要がある(←6頁7頁→)と考え、頻りに権門勢家に向って勢力拡張運動を続けたのであるが、殆ど酬いられる所はなかった。江戸・京都・大坂、この近世文化の三大中心地にも、或は性格を異にする他の学派の既成勢力が蔓り、或は国学を受入れる地盤が薄くして、期待のごとくを伸すことができなかった。この為に、勢い未開拓の郷村社会、特に東国方面に勢力を扶植したのであるが、恰もこれ等の地方では、新田開発、産業の勃興等に依って、郷村社会の指導層の擡頭が著しく、その文化が高まりつつあったので、比較的容易に此処に根を張ることができたのである。篤胤及び銕胤が屢々地方を旅行し、また地方の門人と音信を交わしているのは、この為である。篤胤の大部の著者の中には、これ等の門人に行った講義の筆記が少なくないし、又、その出版には、これ等の門人の助成を仰ぐ所が多かった。この関係が平田学の性格に影響を及ぼしていることは否定できぬ。これは鈴屋の学が、宣長の晩年より太平・内遠の時代に亙って、紀州藩の保護の下にあった環境と対蹠的意義を持つものと思う。気吹舎の学風が書斎的よりも、むしろ街頭的であり、文学的よりも神道的であったことは、ただ篤胤個人の性格にのみ由来するものでないことは、確かであろう。”(本書6-7頁より引用)

 

ということで、本書で強調されるのは、日本全国の農村に平田国学が受容されたという社会史的な事実であり、思想そのものについては余り強くは描かれていない。その点で近い時期に描かれたマルクス主義羽仁五郎国学論「国学の誕生」、「国学の限界」(ともに1936年)とは、かなり色彩を異にしている。戦後の、特に1970年代以降の研究水準からすれば、本書の内容はありふれた、既知の事実かもしれない。本書が古典となっているということの証明でもあるが、裏を返せば、わざわざ古典を読んでみようとは思わない読者にとっては、本書は手に取る必要もないかもしれない。

 

本書は戦時中に刊行されたこともあって、国体観念についてやかましいところがある。平田篤胤皇国史観のイデオローグとだけで見ているわけではないが、篤胤とその門人たちの、大国主命を幽冥界の主催者とする幽冥論についてはほとんど触れられていない。ある意味では平田篤胤にとって、天皇の支配する顕界よりも大切であった幽冥界について触れられていないのは、幽冥論を強調する今日の国学研究からすれば奇妙に見えるほどである。ただ、国学者たちが、天皇の神聖を説いた背景には、以下のような事情があったことも書かないと、不公正であると考える故、引用する。1837年生まれの下総の国学者鈴木雅之の『民生要論』の著者による要約の一部である。

 

“ 盗賊・姦淫・博奕・収賄・贈賄各々適宜に断罪する。武士が召使や人民を手討ちにするのは、戦国の暴虐無道の悪習で、天神の心に背き、天皇を軽んずるものにして、甚だ非道の行いであるから、殺人の罪を以て罰するべきである。何故なら人民は皆、天皇の公民にして、大名の私民ではないからである。”(本書51頁より引用)

 

最後に、少しだけ私見を述べる。農村での国学者の活動に焦点を当てる本書を読んで、田国学の運動は、実はほぼ同時期のロシアのナロードニキ運動に当たるのではないかと思った。無論、プルードンバクーニンアナキズムの影響を受けて生まれ、テロリズムに傾斜した帝政ロシアナロードニキ運動と、基本的には本書で描かれているような学者による農村更生運動であった徳川幕府末期の国学運動には大きな隔たりがあるが、「インテリゲンチアが民衆(ナロード)の中へ入っていく」という点だけ取り出せば、共通点が存在するのではないか。似たような問題意識から始まりながら、ナロードニキの思想は地主に受け入れられなかったけれども、国学思想は地主に受け入れられたという点が決定的な違いだったという、そんな仮説を立ててみよう。

 

上に引用した通り、明治維新革命後に天皇制国家が成立する前にあっては、京都にいる天皇の存在は、国学者のような知識人にとって、武士の暴虐無道を掣肘する思想原理であった。大正・昭和の社会主義者アナキスト共産主義者マルクス主義者)も、農村青年社や三里塚のような例外を除き、ナロードニキのインテリゲンチアでありながらついに日本の農村部に浸透することができなかったが、江戸時代のナロードニキたる国学者たちがどのような気持で天皇を掲げたかを想像すれば、社会主義者が民衆の中に入る、ヴ・ナロードへの道筋も、見えるのではないかと、私は想像したいのである。

 

〈メモ〉

平田篤胤の門人がいなかったのは、全国66国の内で隠岐国だけ(6頁)。

・1837年生まれの下総の国学者鈴木雅之の『民生要論』によれば、幕末の神主・禰宜は大抵貧困だったとのこと(36頁)。この記述から、江戸兵営国家に保護されていた佛教の僧侶と、そんなものはなかった神道禰宜の差異を読み取ることができるのではないか。

駿河における平田篤胤の門人には一向宗長徳寺最勝という、1813年(文化10年)に入門した浄土真宗の僧侶がいた(92頁)。神祇不拝で阿弥陀如来による救済を説く真宗の僧侶が、大国主命が幽冥界を主宰するという平田学を受容した経緯はいかなるものだったのであろう。

【読書録】外川継男訳『バクーニン著作集3――鞭のゲルマン帝国と社会革命』白水社、1973年12月20日発行。

“……万人に逆らって発言したり、行動するためには、大きな、まじめな信念に裏打ちされていなければならない。だがエゴイストや破廉恥な人間や卑怯者には、この勇気はない。”

(「神と国家I」本書218頁より引用)

 

本書にはバクーニンの『鞭のゲルマン帝国と社会革命』が収録されている。『鞭のゲルマン帝国と社会革命』は様々な論文から構成されるが、なんといっても白眉は「神と国家I」、「神と国家II」であろう。「神と国家II」は猪木正道勝田吉太郎編『世界の名著42――プルードン バクーニン クロポトキン』(中央公論社、1967年11月20日初版発行)に「神と国家」として収録されているが、行論で述べる通り、本書に収録された「神と国家I」と合わせて読むことで、バクーニンの反宗教論と達成と限界に触れることができる。

 

1870年9月から1872年12月頃にまでかけて書かれた諸論文から成る『鞭のゲルマン帝国と社会革命』は普仏戦争に敗北した直後のフランスとドイツの関係についての時事論で満ちており、本書の一章となっている「反マルクス論」(本書352-433頁)も、究極的にはカール・マルクスプロイセンの国家利益に奉仕しているということを理由にしており、しかもそれはマルクスの思想の誤読(例えば本書406頁にはマルクスが人民国家の建設を目指しているということを批判の根拠にしているが、「ゴータ綱領批判」に明らかな通りそのような事実はない)からもたらされているのである。

 

では、本書を読む価値はないのかというとそんなことはない。絶筆となった『国家制度とアナーキイ』に繋がる、マルクス主義の労働者至上主義、知識人至上主義、科学絶対主義批判の萌芽は既に本書に収録された諸論文でも見られ、20世紀のマルクス主義運動の一番の弱点を既にこの時点で的確に衝いているからである。たとえば労働者至上主義批判は以下のようになる。

 

“ 農民、少なくとも圧倒的多数の農民は、たとえフランスにおいて土地を所有するようになっても、それでもなお自分の腕で生活の糧を得ていることに変わりはない。われわれはこのことを忘れないようにしよう。この点こそ、彼らとブルジョア階級とが根本的に違うところであって、圧倒的大部分のブルジョア階級は、人民大衆の労働を営利的に搾取して暮らしているのである。しかしてこの点こそが、立場や思想上の相違にもかかわらず、農民と都市の労働者とを結びつけるものである。立場上の(←52頁53頁→)相違という点では、都市の労働者はきわめて不利であり、また思想上の原則の相違は、不幸にしてあまりにもしばしば両者のあいだに誤解を生んでいるが、それにもかかわらず、両者は結びついているのである。

 とくに農民と都市の労働者を隔てているものは、もとよりあまり根拠のあることではないが、労働者がしばしば誤って誇示するある種の知的貴族性である。確かに労働者のほうが学問もあり、彼らの知識や思想はより発達している。このわずかな学問的優位の名で、ときによると労働者が農民を見下げたり、侮蔑的な態度を示すことがある。かつて私は別の論文でも注意したことがあるが、労働者は大きな誤りを犯している。なぜならブルジョアのほうが労働者よりも、はるかに学問もあり発達していることは明らかだから、ブルジョアには労働者を侮辱する権利があるということになってしまう。しかしてブルジョアは、人もよく知るごとく、きまってそのことを鼻にかけて威張るのである。”

(「社会革命か軍事独裁か」1870年9月29日、本書52-53頁より引用)

 

“ 私は経済的および社会的平等を断固支持する者である。なぜならかかる平等をぬきにしては、自由も正義も、人間的尊厳も、道徳も、個人の幸福も、さらには国家の繁栄も、しょせん偽りにすぎなくなることを知っているからである。しかし私は人間にとって第一の条件たる自由の支持者であるとはいえ、この平等が、コミューンのなかで自由に設立され連合した生産組合の集団的所有と労働の自発的組織化によって、この世に打ち建てられるべきであり、国家の後見的な上からの行為によってではなく、同様に自発的なコミューンの連合によって実現されなければならないと考えている。

 社会主義者もしくは革命的集産主義者と、国家の絶対的なイニシアチブの支持者である権威主義共産主義者とを特に区別する点はこのところである。双方の目的は同じである。両方とももっぱら集(←147頁148頁→)団的労働組織に立脚する新しい社会秩序の創設を望んでいる。そして時勢の力によってもこのような集団的労働が、労働手段の集団的利用の上に、万人に平等な経済的条件を伴って、必ずや各人に、また全員に課せられるであろうと考えている。

 ただ共産主義者のほうが、労働者階級、とりわけブルジョア急進主義の助けを借りた都市のプロレタリアートの政治力が組織され、発達することによって、この目的が達成されると考えるのに対し、あらゆる混合物やまぎらわしいものの敵である革命的社会主義者のほうは、反対に都市だけでなく農村をも含めた勤労者大衆の、政治的に非ずして社会的な力、したがって反政治的な力が組織され、発達することによってのみ、この目的に達し得ると考えているのである。さらにこの場合、労働者のみならず、そこには自らのすべての過去の絆をたち切って、率直に労働者大衆に加わり彼らの綱領を全面的に受け容れようとする上流階級の善意の人たちも含まれている。

 ここからして二つの異なった方法が生まれる。共産主義者が国家の政治権力を奪取するために、労働者の力が組織化されなければならないと考えるのに対し、革命的社会主義者のほうは、国家の破壊――もしもっと上品な言葉をお望みならば清算と言ってもよいが――のために自らを組織するのである。共産主義者が権威の原理と実践の信奉者であるのに対し、革命的社会主義者は自由のなかにしか信頼をおいていない。双方とも迷信を廃し、信仰に代わる科学を擁護するものであるが、前者がそれを押しつけんとするのに対し、後者のほうはそれを広めようと努力する。なぜなら人々が納得した上で、自分自身の運動によって、自分たちの真の利益に従って、自由に、自発的に、下から上へと自らを組織し連合することを望んでいるからであって、あらかじめ決められている計画や、すぐれた知性が無知なる大衆に押しつけた企画に従ったりすることには反対だからである。(←148頁149頁→)

 革命的社会主義者は、人民大衆の本能的希求や現実的要求のなかに、人類を幸福にすべく努力していると称しながらあれほど多くの試みに失敗してきた学者先生や人類の後見人の深遠なる知性よりも、はるかに多くの実際的な理性や精神が存在するものと考えている。革命的社会主義者は彼ら学者たちとは反対に、人類がないがいあいだ、あまりにもながいあいだ支配されるままになってきたし、人類の不幸の源泉があれこれの統治形態にあるのではなく、いかなるものであれ統治そのものの原理と事実のなかにあると考える。

 ドイツ学派によって科学的に発展され、一部はアメリカとイギリスの社会主義者によって受け容れられてきた共産主義と、ラテン諸国のプロレタリアートによって受容され、広く発展され、徹底的に押し進められてきたプルードン主義*とのあいだには、もはやすでに歴史的となった食い違いがある。

   *これは本質的に反政治的なスラヴ民族の本能によっても、同様に受け容れられてきたし、今後ともさらに受容されることであろう。

 革命的社会主義は、つい先頃パリ・コミューンのなかでその最初の目覚ましい、実践的な試みとなって現れた。”

(「パリ・コミューンと国家の概念」本書147-149頁より引用)

 

ロシア革命、中国革命、キューバ革命などの20世紀の社会主義革命は、マルクスエンゲルスが『共産党宣言』の中で小ブルジョア的だと非難した農民階級が主力となって達成されたが、マルクス主義にとっては外在的である農村部の農民の反政治的なエネルギーにバクーニンが着目していた点は重視されなければならない。

 

“ 現在ブルジョア階級に対立しているすべての階級のうちで、プロレタリア階級のみがほんとうに革命的な階級である。その他の階級は、大工業が起るとともに衰退し、滅亡する。プロレタリア階級は大工業のもっとも独自な生産物である。

中産階級、すなわち小工業者、小商人、手工業者、農民、これらはすべて、自分たち中産階級としての存在を破滅から守るために、ブルジョア階級と闘う。したがってかれらは革命的ではなく、保守的である。なおそれ以上に、かれらは反動的である。なぜなら、かれらは歴史の車輪を逆にまわそうとするからである。かれらが革命的であるばあい、それは自分の身に迫っているプロレタリア階級への移行を顧慮してのことであり、かれらの現在の利益をではなく、未来の利益を守るためであり、かれら自身の立場を捨ててプロレタリア階級の立場に立つのである。

ルンペン・プロレタリア階級、旧社会の最下層から出てくる消極的なこの腐敗物は、プロレタリア革命によって時には運動に投げこまれるが、その全生活状態から見れば、反動的策謀によろこんで買収されがちである。

マルクスエンゲルス/大内兵衛向坂逸郎訳『共産党宣言岩波書店岩波文庫〉1971年改訳、53頁より引用)

 

 

共産党宣言』ではこのような形で、近代的産業労働者=プロレタリア階級の革命性が強調されているが、19世紀から20世紀にかけて先進資本主義国の先頭を走るアメリカ合衆国労働組合=組織労働者は、組合員の利益のために反移民的姿勢を採用し、国政選挙に当たっては共和党ロナルド・レーガンのような真正の保守主義の候補を支持してきたことを考えるに、現実のプロレタリア階級は決して革命的な社会階級ではない。労働者階級は決して革命的な階級ではないのに、マルクス主義の教義のせいで社会運動はあたかも労働者階級を革命的な社会階級だと見誤ってきた。ソ連や中国ではプロレタリア革命が達成された後、革命に貢献した農民階級は都市部の労働者への食糧供給のため、或いは工業化のための原資を供出させられるために、「プロレタリア階級の革命的前衛党(共産党)」によって搾取されてきたが、農民を尊重するバクーニンの思想は、マルクス主義の労働者偏重に潜んでいた罠について、示唆を与えるものだと私は思う。

 

また、本書の白眉である「神と国家I」、「神と国家II」にはバクーニンの反宗教論・唯物論が展開されている。結論から言えば、バクーニンの反宗教論は半分だけの正しさであり、バクーニンの思想の他の部分を参照する限り、むしろ宗教、というよりも観念論を究極的には否定できないのではないかと私は考える。以下に述べる通りである。

 

“ 私は今日なお宗教的信仰が大衆に及ぼす力の主要な実際上の理由を述べてきた。これら神秘的傾向は、大衆にあっては、精神の迷いというよりは、むしろふかい心の不満を示すものである。それは悲惨な存在の窮屈さ、平板さ、苦しさ、恥ずかしさに対する人間の本能的な激しい抗議なのである。この病に対しては、ただ一つの薬しかないということも私は語った。即ち社会革命だけであると。”

(「神と国家I」本書194頁より引用)

 

バクーニン唯物論・反宗教論の最大の弱点はここだと私は思う。神を信じる人々は決して不満や、或はご利益のみを求めて信仰を行っているわけはない。バクーニンの反宗教論の根拠を以下に引用しよう。

 

“ キリスト教はまさしく、他のいかなる宗教にもまして、もっとも深い意味で宗教である。なぜならそれは、神のために人間が悲惨になり、奴隷と化し、無に帰するという、あらゆる宗教的体系の本質、エッセンスそのものをこの上なく暴露し、示しているからである。

 神がすべてであるから、現実世界と人間はなにものでもない。神が真理、正義、善、美、力、生命であって、人間は虚偽、不正、悪、醜、無力、死である。神が主人であって、人間は奴隷である。人間は自分自身では正義も真理も永遠の生命も見出すことはできないのだから、神の啓示によってそれらに到達する以外にない。しかし啓示を告げる者は、自分が神によって霊感をさずけられた黙示者、メシア、予言者、聖職者、立法者であると称した。そしてひとたびこれらの人間が、神自身によって人類を救済の道へ導くべく選ばれたところの地上における神の代理であり、人類の聖なる教師であると認められるや、彼らは必ず絶対的権力を行使するようになった。すべての人間は彼らに対し、無制(←195頁196頁→)限の、受け身の服従を義務づけられる。なぜなら神の理性に抵抗する人間の理性だとか、神の正義に逆らう地上の正義などは絶対に存在しないからである。神の奴隷である人間は、国家が教会によって聖別されるかぎり、教会と国家の奴隷でなければならない。この点こそキリスト教が、古代の東方の宗教を含めて、他の現に存する、あるいはかつて存在したあらゆる宗教にまして、よりよく理解したところであった。ところで古代当方の宗教が一部の特権的な人々しか包摂しなかったのに対し、キリスト教は全人類を包含していると主張している。またこの点こそキリスト教の全宗派のなかで、ひとりローマン・カトリシズムだけが、きびしい一貫性をもって宣言し、実現したところでもあった。それゆえにこそキリスト教は絶対的な宗教であり、最後の宗教なのである。またそれゆえにこそ教皇のローマ教会だけが、一貫した、正統的な、神の教会なのである。

したがって宗教的形而上学者や観念論者、あるいは哲学者、政治家、詩人たちにお気には召さないであろうが、神の観念は、人間の理性と正義の放棄を暗に意味する。それは人間の自由の決定的な否定であり、理論上からも実際上からも、必然的に、人間の隷属に帰着するのである。”

(「神と国家I」本書195-196頁より引用)

 

バクーニンの反宗教論を要約すると、理論的には全知全能で絶対的な神が存在するならば、個々の人間はそのような絶対者の前では無に等しく、無に等しいからこそ神の正義、神の理性の前で人間の正義、人間の理性は沈黙を余儀なくされる。さらに、そのような絶対的な神の代理人を称する宗教者は絶対的な神に代わって、個々の人間に対して絶対的な権力を行使し、実践的にも人間は隷属を余儀なくされる。かくして一度絶対的な神の存在を認めれば、そこからは理論的にも実践的にも人間の自由は否定される。だから人間の自由のため、神の存在を認める宗教に反対しなければならない。と、こういうことになる。

 

宗教の社会的機能の要約としてはバクーニンの主張は正しい。バクーニンキリスト教を例としているが、日本でも江戸時代の本願寺教団が、親鸞の血統と法主を生き佛とする宗教的な権威を背景に、北陸や三河のような浄土真宗門徒の多い地方で、絶対的な権力を行使してきたことをご存知の方も多いであろう。そこに人間的な自由が全く存在しなかったのは事実である。にもかかわらず、先述した通り、バクーニンの正しさは半分の正しさでしかない。

 

21世紀に入った現在にあっても日本佛教が葬式佛教として生き延びていることが象徴するように、宗教の機能として最たるものは、生きている人間と死んだ人間の関係を仲介することである。復古神道の大成者である平田篤胤が、学問上の師である本居宣長の「貴きも賤しきも、善も悪も、死ぬればみな、此の夜見の国に往」(『古事記伝』)という見解に逆らって、「死んだ人間は黄泉の国には行かず、大国主命の支配する幽冥界に行く」との説を唱えたのは、ひとえに自らの死んだ妻、織瀬が『古事記』の黄泉の国のような暗くて汚い世界に行く訳がないと信じたからであった。北陸や三河真宗門徒が戦国時代以来、本願寺法主の精神的専制を通じて阿弥陀如来を信じ続けたのも、既にこの世には存在しない自らの家や上祖、そして地域に連なる人々との繋がりを、阿弥陀如来を信じることを通じて保ち続けようとしたからであった。

 

バクーニンは本書の別の論文で、

 

“ 自由についての唯物論的、現実主義的、集産主義的定義は以下のごとくであるが、これは観念論者(←316頁317頁→)の自由の定義とは完全に対立するものである。すなわち人間は社会のなかにあって、社会全体の集団的行為によって、はじめて人間となり、自らの人間性の意識と実現にまで達し得る。人間が外的自然の束縛から自らを解放するのは、もっぱら集団的もしくは社会的労働によるのであって、これだけが地上を人類の発達にとって好ましい住居に変えることができある。しかし物質的解放がなければ、だれにとっても知的・道徳的解放はあり得ない。人間は自分自身の自然の束縛から自らを解放するのは、すなわち自己の肉体の本能や衝動を次第により発達する精神の命令に従わせることができるのは、教育と訓練によってである。しかし教育も訓練もきわめて社会的なものである。なぜなら人間は社会の外にあるかぎり、永久に野獣か聖人のままにとどまっていることだろう。だが野獣であっても聖人であっても、その意味することはほとんど同じである。最後に、孤立した人間は自由の意識を持つことができない。人間にとって自由であるということは、他人によって、自己を取り巻くすべての人によって自由なものとして認められ、考えられ、扱われることを意味する。したがって、自由はけっして孤独な事実ではなく、相互反射であり、相互の排除どころか反対に結合を意味する。あらゆる個人の自由とは、すべての自由な人間、自分と同じ兄弟たちの意識のなかに、自己の人間性や人間的権利が反映すること以外のなにものでもない。”

(「神と国家II」本書316-317頁より引用)

“……自由は社会によってのみ、また各人と万人のもっとも緊密な連帯と平等のなかでのみ実現するものである。”

(「神と国家II」本書320頁より引用)

 

と述べ、観念論者=自由主義者が唱える、生まれつき自由な個人が存在するという発想を真っ向から否定し、むしろ社会こそが個人に自由を実現するのだと説いている。

 

この社会を個人の自由の前提条件として尊重するバクーニンの発想をもう一歩進めるならば、バクーニンの反宗教論には一定の修正が必要なのではないか。つまり、人間の社会は、現に生存している成員だけではなく、既に死んだ人々も過去の成員として記憶しているからであり、前述の通り、その際に生者と死者を仲介する観念の装置が、神や如来だからである。平田篤胤大国主命を信仰したのも、真宗門徒阿弥陀如来を尊崇したのも、出雲大社本願寺を尊崇したかったからではなく、自らの属する社会の過去の成員としての身近な死者を、自らの生の中で位置付けたいという欲求が存在したからであった。現在の科学であっても、科学的な認識の中で死んだ人間を現世に位置付ける方法はない以上、その欲求を満たすためにどうやっても神やと佛といった観念装置が必要になってしまう。そして人々が宗教を求める原点がここにある以上、これを否定するのは道徳的に良いことではない。

 

このような修正を施した上で、現実の絶対的な神の存在を背景とする教会や神社や寺院などの教団組織が、人々を搾取し隷属に追いやってきたという事実を正しく認識し、自由のための反逆を説くことについては、バクーニンは正しい。バクーニンの言う通り、絶対的な神の存在の前では人間は無に等しく、自由を奪われてしまうが、にもかかわらず、社会の中に既に死んだ過去の成員を位置付けるためには、神や如来といった観念装置が必要であり、だからこそ人々は宗教を信じることを止めないのである。今日、バクーニンの後を継ぎ、社会の中で真に自由であろうとする者は、この点を決して忘れてはならない。アナキストは自由を社会の中で実現しなければならないからこそ、社会そのものを根底から破壊するような方法で反宗教闘争を推進してはならない。死んだ家族の冥福のために、日々祈りを捧げる人々を決して侮辱してはならない。アナキストが闘わなければならない相手はそのような祈りを侮蔑することで自らの富を為し、国家と権力に奉仕してきた教団であり、聖職者である。

 

“……しかし永久に隷属され、統治され、搾取され続けてきた大衆において、政治意識を構成するものは一体なんであるのか?それはたった一つ、聖なる反逆以外には絶対にあり得ない。それこそはあらゆる自由の母であり、自由の現実的実践の基本的な歴史的条件たる、反逆を組織し勝利させる伝統的技術、反逆の伝統なのである。”

(「反マルクス論」、本書392頁より引用)

 

バクーニンは述べているが、浄土真宗起爆剤となった戦国時代の一向一揆平田国学復古神道起爆剤となった天保年間の生田万の乱といった反逆の伝統を思うに、宗教は人々に自由を目指す聖なる反逆の精神的な支えとなることもある。バクーニンの反宗教論はこの観点からも見直されなければならない。

 

 

本書に収録された論文の中に見られるバクーニンの権威、とりわけの科学の権威についての見解は非常に興味深いので長くなるが引用する。バクーニンは決して科学を否定するわけではないが、科学によって社会を改造できると称したマルクスエンゲルスレーニンスターリンといった「科学的社会主義者」たちほどには科学の社会的機能について信頼を置いてはいなかった。バクーニンの科学への認識は、原発やインターネットといった科学の産物とどのような距離を取るべきか悩みつつ、だからといって反ワクチン運動やあからさまなオカルトに与するわけにはいかないと感じるアナキストではない人びとにも重要な示唆を与えると私は信じている。

 

“ それならば私はいかなる権威をも排斥するということになるのだろうか?このような考えは私の意図するところではさらさらない。それが長靴にかんしてだったら私は靴屋の権威に一任しようし、(←205頁206頁→)家や運河や鉄道のことであれば、建築家や技師の権威と相談もしよう。このような専門的な知識についてだったら、それぞれの学者にたずねるだろう。しかし私は靴屋や建築家や技師が押しつけるがままになっていることはない。私は彼らの言うことに自由に耳を傾け、彼らの知恵や性格や知識にふさわしい尊敬は払いながらも、私が批判し、検討する、争うべからざる権利は留保しておく。私はたった一人の専門的権威に相談するだけでは満足せず、何人かの人に相談しよう。そして彼らの意見を比較したうえで、もっとも正しいと思われるものを採用するだろう。だがどれほど特殊な問題でも、絶対に誤りを犯すことのない権威などといったものはけっして認めない。したがってある個人の誠実さや正直さに対し、いかに尊敬を払っていようとも、だれについても絶対の信頼は持っていない。このような信頼は私の理性や、私の自由や、私の企ての成功にとってさえ致命的になるかも知れないし、私を愚かな奴隷に変え、他人の意志と利害の道具に転化するかも知れないからだ。

 もし私が専門家の権威の前に屈し、ある程度、また私にとって必要と思われる期間、彼らの指示や指令にさえ喜んで従うと公言するとしたら、それはこの権威が何人によっても、人間によっても神によっても、押しつけられたものではないからである。もしそうでなかったら、私は嫌悪とともに彼らを拒否し、彼らの忠告も、彼らの指令も、彼らのサービスも追い払うことだろう。私の自由と尊厳を引きかえにして、彼らが私に与える多くの嘘で固めた人間的真理の断片の代金を支払わされるようになるのは確かだからである。

私が専門家の権威の前に頭を下げるのは、私自身の理性によってそれが押しつけられたからである。私は人間の科学の確かな発展や詳細のなかで、きわめてわずかな部分しか理解してないことを意識している。どれほど偉大な知性でもすべてを理解するには十分であるまい。ここからして、科学に(←206頁207頁→)おいても産業においても、労働の分化と協同が必要になってくる。もらったりやったりするのが、人間の生活なのである。一人一人が指導的権威であり、一人一人が指導されるのである。したがって固定化した、不断の権威などというものはけっしてない。一時的で、とりわけ自発的な、お互い同士の権威と服従の絶えざる交代があるだけだ。

これと同じ理由から、私は固定化した、不断の、普遍的な権威というものを認めることができない。なぜなら、すべての科学、社会生活のあらゆる分野を、すみずみまでくまなく理解し得るような――このような理解なくしては科学の生活への応用はけっして可能ではないが――すべてを包括する人間は絶対にいないからである。もしもこのような普遍性がただ一人の人間のなかに実現されているとしたら、そしてその人間がそれを利用して自分の権威を押しつけようとしたら、彼を社会から追放すべきである。なぜなら彼の権威は必ずやすべての者を隷従と愚鈍におとしめるだろうからだ。私は今日まで社会がそうしてきたように、天才を虐待すべきだとは思わない。しかし彼らをあまりにもふとらしたり、とくになんらかの特権や排他的権威を与えるべきだとも思わない。それには三つの理由がある。第一にぺてん師を天才と間違えることがしばしばあるからだ。第二には特権の制度によって、真の天才がぺてん師に変わり、モラルを失って愚かになることがあるからだ。最後にこのような制度が暴君を生み出すからである。

 ここで要約しよう。われわれが科学の絶対的権威を認めるのは、科学がもっぱら物質的世界と社会的世界――これら二つは事実上、同一の自然界を構成しているにすぎないのだが――の物質的・知的・精神的生活に固有の自然法則を、できるかぎり体系的に、かつよく考えて、内心で再現することを目的としているからにほかならない。このように合理的で人間の自由にかなっているがゆえになに(←207頁208頁→)よりも正統な権威以外、われわれは他のすべての権威が、偽れる、勝手な、専横な、有害なものであることを宣言する。

 われわれは科学の絶対的権威は認めるが、科学の代表者たちの無謬性や普遍性は拒否する。……”

(「神と国家I」本書205-208頁より引用)

 

最後に、バクーニンが教育と権威の関係について述べた箇所を引用することにする。アナキストであることを志す人間にとって、権威が必要不可欠となる児童の教育について、古典の中にどのような意見があるのかを参照することは、決して無駄なことではないと思う。

 

 

“……はたしてすべての教会の聖職者は、自分の監督下の教区民のために自己を犠牲にするどころか、一部は自分自身の個人的情熱を満足させるために、一部は全能の教会に奉仕するために、つねに教区民を犠牲に供し、搾取し、羊の群れの状態に保ってきたではなかっただろうか?同じ条件、同じ原因からはつねに同じ結果が生まれる。したがって国家によって(←215頁216頁→)うやうやしく霊感を授けられ、免許状を与えられた近代の学校の教師たちも、同じようになろう。ある者はそれと知らずに、他の者は完全に理由を知りながら、必ずや彼らは国家の力と特権階級の利益のために人民が犠牲となる協議を教えるようになることだろう。

 それでは社会からあらゆる教育を排除し、すべての学校を廃止しなければならないだろうか?けっしてそうではない。できるかぎり大衆のあいだに教育を広め、神の栄光に捧げられたすべての教会、すべての寺院を、人間解放の学校に変革すべきである。しかしまずはじめに次のことを了解し合っておこう。人間の平等と人間の自由の尊重に立脚して創設された、通常の社会における、厳密な意味での学校は、児童のためにのみ存在すべきであって、成人のためではない。そしてそれらが隷属ではなくて解放の学校となるためには、なによりもこの永遠にして絶対的な隷属の主たる神の虚構を排除しなければならない。児童の教育はすべて、信仰の発達の上ではなく、理性の科学的発展の上に、敬虔と服従の発達の上ではなく、個人の尊厳と独立の発達の上に、真理と正義の崇拝の上に、そしてなによりもいたるところにおいて神の崇拝に取って代わる人間尊重の上にこそ打ち建てられるべきである。児童の教育における権威の原理は、自然な出発点となるものである。いまだ知能が十分に発達していない年少の児童に向けられる時、それは適法でもあれば自然でもある。しかしすべての物事の発展においてと同様に、教育の発展の場合も、次々と出発点が否定されることが予想される。したがって教育が進むにつれて、この原理は弱められ、増大する自由に取って代わられなければならない。

 教育の最終目的は、他人の自由を尊重し愛する自由な人間となることにあるのだから、すべて合理的な教育は、結局のところ、自由のために権威を次第に削減すべきである。したがってまだろくに言葉もしゃべれぬ年少の児童に対する最初の教育課程にあっては、ほとんど自由は完全に欠如し、最大(←216頁217頁→)の権威が存在するが、最終課程においては、最大の自由が与えられ、権威の動物的ないし神的原理の痕跡はすべて完全に消え去らなければならぬ。

 成年に達した、あるいは成年を過ぎた大人に向けられた権威の原理は、醜悪なものであり、人間性の明らかな否定、隷従と知的・道徳的堕落の源泉となる。しかし不幸にして家父長的政府は人民大衆をあまりにもひどい無知の中に放置してきたので、人民の子供だけでなく、人民自身のためにも学校を建てることが必要となろう。だがこれらの学校からは、権威の原理のいささかの適用も表現も除去されなければならない。それはもはや学校ではなく、人民のアカデミーであり、そこではもう生徒や先生は問題にならず、人民は必要と思うところを自由に学ぶとともに、今度は教師が知らない多くのことを、自分たちの経験から教えるようになるだろう。したがってそれは相互教育であり、教育ある若者と人民とのあいだの知的な友愛の行為となろう。

 人民と成人にとっての真の学校とは、生活にほかならない。われわれが尊敬することのできる唯一の、自然でもあれば合理的でもある偉大で強力な権威とは、社会の全成員の相互の尊敬の上に築かれたところの、集団的、公共的精神の権威であろう。これこそまったく神的に非ざる、まったく人間的な権威である。しかしてわれわれはこの権威が人間を隷属させるどころか解放するものであることを確信するがゆえに、心からその前に頭を下げる。この権威は教会と国家によって作られたあらゆる神的、神学的、形而上学的、政治的、法律的権威よりも千倍も強いものである。それが現在の刑法や看守や死刑執行人よりもはるかに強力になるであろうことは確信してよい。”

(「神と国家I」本書215-217頁より引用)