東京タワーから続いてく道

昨日、東京タワーに登ってきた。銀座から歩いて約25分。御成門駅の近くで間近に333mの赤く光る鉄塔が見えてきた時、思わず映画『横道世之介』の高良健吾のように飛び跳ねてしまった。高さ250mの特別展望台は工事中だったので、150mの大展望台へ。夜景を観ているといつだって、あの小さな明かりの一つ、一つに人間の人生があることに胸を打たれる。車から放たれる小さな赤い光の一台一台に、三連休の最後の日を過ごす人がいて、みんな、どこかに行った帰り道を過ごしていたのだろう。充実したのかもしれないし、退屈したのかもしれない。ただ、2017年の11月5日は、誰にとっても、どんな過ごし方をしたとしても、一度きりのかけがえのない一日だった。


6月に簿記2級の受験を終えてから、自分の中の何かが変わっていることを実感している。それが何なのかがわからないのがもどかしいけれども、とにかく何かが変わってきている。


11月3日の金曜日に、とある方と話すために、話した時に話題に困らないようにと、その人が好きな高野秀行の『ワセダ三畳青春期』(集英社文庫、2003年)を読んだ。僕より21年早く生まれ、僕が卒業した大学の同じ学部を卒業した著者の青春が、まるで『NHKにようこそ!』の佐藤と山崎のように眩しくて、自分には学生時代にこんな青春はなかったのに、何故か妙に感情移入してしまった。不思議で不思議でならなかったから理由を考えてみたら、著者の高野さんが早稲田の3畳間で過ごした日々に相当するのは、僕にとっては2012年の9月から2015年の1月までの、精神的におかしくなって労働も勉強もせず、ただ本を読んでtwitterに打ち込んでいただけの、あの日々のことだったんだと気が付いた。ロヒプノールという強い睡眠導入剤を飲みながら、1日1冊本を読み、薬でフラフラになった頭で読んだ本のノートを取り、文芸同人誌に寄稿するための原稿を書き、時には酒を飲みながらtwitterの人と本の感想を話し合う。ある秋の日に突然、親しかった人が自殺したことをきっかけに、ハローワークに通うことを決め、働くために薬も断薬したのでそんな生活も終わってしまったけれども、25歳から27歳までの貴重な日々をそんな生活に費やしてしまった。今思えば、あれは自分の精神の治療であり、そして、遅れてきた青春だったのだろう。いつまでもあんな生活を続けられると思って買い込んだ大量の本の内の約8割は、恐らく死ぬまで読めないのだろう。『劇画毛沢東伝』と『ドラえもん』と『NHKにようこそ!』の三冊の漫画を座右に、世間からも自分からも逃げて永遠に続くと思われたあの日々は、今となっては二度と戻らない一度きりのかけがえのない日々だった。


過ぎ去ってしまったあの日々も、東京タワーから観た夜景も、同じ日にトランプ大統領の訪日だと騒いでいた人々の体験も、いつかは過去になる。それは寂しいことだけれども、同時に慰めでもある。それは荒野の叫び声。それはミッドナイトブルース。それは絵葉書に描かれた憂い顔。それは多くなる笑い声。


やっぱり何かが終わったんだろう。けれども、これは青春の終わりではないと思う。まだもう少し、恥ずかしい日々を続けなければならない。恥ずかしくなるほど真面目に生きなければならない。


来年には答えが出るだろう。東京タワーから続いていく道を、僕はもう少し歩き続けられそうだ。

 

ぼくらが旅に出る理由

ぼくらが旅に出る理由

 

エキタスの「上げろ最低賃金デモ」についての雑感

 本日、4月15日(土)、エキタスが主催する「上げろ最低賃金デモ」に参加するので、参加に当たって思ったことを少しだけまとめてみました。

 

 なお、私自身はエキタスの一員でも、その他の政党、政治団体、社会運動体などの構成要因でもないため、以下述べることは全て私個人の責任で述べることであり、今回のデモの運営者の思想とは無関係であることをここに記します。また、私自身はマルクス主義者ではないこと(社会民主主義者です)も明記しておきます。

 

 

 1867年(慶應3年)にロンドンに亡命中のカール・マルクスは、労働運動について次のように述べました。

 

“ 資本は集積された社会的な力であるのに、労働者が処理できるのは、自分の労働力だけである。したがって、資本と労働のあいだの契約は、けっして公正な条件にもとづいて結ばれることはありえない。それは、一方の側に物質的生活手段と労働手段の所有があり、反対の側に生きた生産力がある一社会の立場からみてさえ、公正ではありえない。労働者のもつ唯一の社会的な力は、その人数である。しかし、人数の力は不団結によって挫(くじ)かれる。労働者の不団結は、労働者自身のあいだの避けられない競争によって生みだされ、長く維持される。

 最初、労働組合は、この競争をなくすかすくなくとも制限して、せめてたんなる奴隷よりはましな状態に労働者を引き上げるような契約条件をたたかいとろうという労働者の自然発生的な試みから生まれた。だから、労働組合の当面の目的は、日常の必要をみたすこと、資本のたえまない侵害を防止する手段となることに、限られていた。一言で言えば、賃金と労働時間の問題に限られていた。……”

(「中央評議会代議員への指示」『マルクスエンゲルス全集 第16巻』大月書店、東京、1968年10月30日第4刷発行、195頁より引用)

 

 

 

 日本社会で労働をしたことがある人ならば誰でもわかるように、現在、働く人々の労働条件は日常的に侵害されています。特に政治に関心がなく、左翼なんて大嫌いだという人であっても、アルバイトでさえ過労死、サービス残業、休日出勤、雇い止めといった言葉に象徴される、生きるために低賃金高時間労働を行わなければならない職場の事実を全く何も問題だと思わない人は、まず少数派でしょう。

 

 

 マルクスが述べるように、原初的な労働運動は、19世紀半ばの労働者が自らを資本のたんなる奴隷よりはましな状態に引き上げるため、賃金と労働時間の問題に当面の要求を限定する形で、自然発生的に誕生しました。それから、19世紀後半に労働者階級の政党(社会民主党)が誕生し、20世紀にソ連や中国など、労働者階級の革命的前衛党(共産党)が指導する社会主義国が誕生すると、労働運動は労働者の利益を代表することをアイデンティティとする政党や国家の政治方針に規定され、その指導の枠組みの中で活動することを、成立の経緯上余儀なくされる局面が多くなったのです。各国の社会民主党共産党社会主義国による各国の労働運動の指導。これについては勿論、良い面も多々あったのですが、反面で、労働運動を党利党略や国策に引き回す結果をも生み出しました。我々が生きる1991年にソ連が崩壊した後の世界は、この党や国家による引き回しを受動的に支持してきた労働運動が、その功罪を思想的に総括しなければならなくなった局面で、何をなすべきかについての指針が打ち出せなくなった結果、資本の浸透を許すことに成功してしまった時代です。

 

 恐らく、このような状況だからこそ、労働運動は初心に戻り、労働者階級の革命的前衛を称する党や国家による引き回しが起こる以前の「賃金と労働時間の問題」(マルクス)を主題にすることによって、自らの再生を遂げなければならないのでしょう。

 

 私は共産党員でも社民党員でも新左翼諸党派の一員でも労働組合員でさえもありませんが、今回のエキタスのデモに「たんなる奴隷よりはましな状態に労働者を引き上げるような契約条件をたたかいとろうという労働者の自然発生的な試み」(マルクス)を発見することを望み、参加を決めました。

 

 

 皆さんも予定が合えば私達と新宿を歩きましょう。

 

 万国の労働者、団結せよ!

 

aequitas1500.deci.jp

書評:橋本伸也、沢山美果子〔編〕『保護と遺棄の子ども史』昭和堂、京都、2014年6月20日初版第1刷発行。

 昨年のクリスマス期間にtwitterAmazonウィッシュリストを公開したところ、なんとF氏より

 

*橋本伸也、沢山美果子〔編〕『保護と遺棄の子ども史』昭和堂、京都、2014年6月20日初版第1刷発行。

 

 

*田澤佳子『俳句とスペインの詩人たち:マチャード、ヒメネス、ロルカとカタルーニャの詩人』思文閣出版、京都、2015年12月15日

 

の2冊を御贈りいただけました。

 

 全く有り難いばかりで言葉もないのですが、感謝の意を込めて今日、遅ればせながらいただいた本の内、『保護と遺棄のこども史』の方を簡単に書評することします。

 

 

 “本書は、日本史、ヨーロッパ史、イスラム史、法制史など多様な分野の研究者が、出生以前の胎児や出生直後の乳児も含めた子どもの「保護と遺棄」のあり方を歴史的に読み解くという主題に取り組んだ論文集である”(沢山美香子「あとがき」313頁より)と編者によって述べられている通り、本書は学際的ながらも近世~20世紀前半の子どもに対する視線が、世界中で「保護」と「遺棄」の双方を揺れ動いてきたことを明らかにしているものである。こう書くとわかりづらいが、たとえば親に遺棄された孤児を保護するはずのロシアの児童養護施設が、現実には保護の役割を果たせずにあり、また、そのような施設から孤児を引き受けた養父母によっても、残念ながら常に適切な保護が実現されるという訳ではないという例が橋本伸也による本書の「序」では挙げられているが、このように”「保護」と「遺棄」とが情況に応じて継起的・連続的に入れ替わったり、そもそも同じコインの二つの面であったりすること」(橋本伸也「序」9頁)という複雑な現象を指しているとのことである。

 

以下、参考までに目次を挙げると

*橋本伸也「序」(1-22頁)

第Ⅰ部「問題群と研究動向」

*沢山美果子「第1章 保護と遺棄の問題水域と可能性」(25-45頁)

*岩下誠「【視点と論点①】福祉国家・戦争・グローバル化――一九〇年代以降の子ども史研究を再考する」(46-56頁)

*金澤周作「【視点と論点②】チャリティとポリス――近代イギリスにおける奇妙な関係」(57-64頁)

第Ⅱ部「「捨て子」の救済と保護・養育」

*沢山美果子「第2章 乳からみた近世日本の捨て子の養育」(67-99頁)

*中村勝美「第3章 近代イギリスにおける子どもの保護と養育」(100-128頁)

*岡部造史「第4章 統治権力としての児童保護――フランス近現代史の事例から」(129-152頁)

*江口布由子「第5章 近現代オーストリアにおける子どもの遺棄と保護」(153-179頁)

第Ⅲ部「「保護と遺棄」の射程と広がり」

*三成美保「第6章「保護/遺棄」の法的基準とその変化――ドイツを中心に」(183-214頁位)

*山崎和美「第7章 慈善行為と孤児の救済――近代イランの女性による教育活動」(215-241頁)

*中野智世「第8章 「瓦礫の子どもたち」・「故郷を失った若者たち」――占領下ドイツにおける児童保護」(242-268頁)

*北村陽子「【視点と論点③】両次世界大戦期ドイツの戦争障害者をめぐる保護と教育」(269-275頁)

*高岡裕之「第9章 戦時期日本における「児童保護」の変容――人口政策との関連を中心に」(276-305頁)

*河合隆平「【視点と論点④】総力戦体制下における障害児家族の保育と育児」(306-312頁)

*沢山美果子「あとがき」(313-315頁)

 

 となっている。一読してわかるように、本書で私が馴染み深い日本の子ども史を扱ったのは第2章の沢山論文と第9章の高岡論文しかなく、また、時代的には18世紀~20世紀の事例が主な研究対象となっているものの、岩下論文がフィリイップ・アリエスの『〈子供〉の誕生』によって子ども史研究が如何に変化したかを論じているように、全体的に研究史に踏み込んだ、この学問領域に強く関心のある人々向けの本となっている。

 

 無論、第9章の高岡論文で1938年の厚生省創設を陸軍の意向とみる従来の見解に対して、内務省主導説が紹介される(280頁)など、個々、新たに得た知見は多々あれども、それについて書き記すと膨大かつ煩瑣な記述となってしまうので、ここではこのような書物を、特に学者でも教育行政に携わる行政官でもない人間が読むことの意義について少しだけ考えてみたい。

 

 先ほど少し触れた岩下誠氏はアリエスの『〈子供〉の誕生』によって生まれた日本の教育言説について、興味深いことを述べているので引用しよう。岩下氏は80年代以降の日本の家族や学校についてしばしばマスメディア上で喧伝される危機のイメージを念頭に、以下のように述べている。

 

“ 問題は、アリエス路線の子ども史研究が、このようなマスコミ主導の危機イメージを歴史的、実証的に検証するというよりもむしろ、そうしたイメージに無批判に追従し、いたずらに危機を煽るような文脈で利用されたということである。八〇年代におそらくは自覚的に選択されたのであろうこの戦略は、しかし同時代に政策レベルで進行していた新自由主義への転換を認識できなかったばかりか、現在に至っても、危機を煽って改革を唱える新自由主義(と新保守主義)への対抗軸となりえず、むしろ――意図せざる結果であろうが――それに棹差すような役割すら演じてしまっている。アリエスに依拠した「子どもの解放」という八〇年代的な課題設定は、学問的な基盤を失っているだけでなく、新自由主義新保守主義へと回収されることによって、国内的にもグローバルにも政治的に無力化している。……”

(本書所収、岩下誠「【視点と論点①】福祉国家・戦争・グローバル化――一九九〇年代以降の子ども史研究を再考する」54-55頁より引用)

 

 つまり、日本にあってアリエスは新自由主義(「聖域なき構造改革!」)の伴走者として機能してしまったということなのだけれども、恐らくは導入者たちが意図していなかったこの輸入学問の政治的効果を考える際に、同じく輸入学問でありながらも、結局は総力戦遂行の知的部門と化してしまった1935年~1945年までの日本マルクス主義の影を見ることは不可能ではないし、また、学者が自信を持って饒舌に語る発想が、必ずしも市民にとって利益となる訳ではないということを私は本書で知ることができた。

 

 おそらくは、「危機を煽って改革を唱える」人々(いつの時代も決して少なくはない)に対して、本書の各論文が示した事実の力によって冷静さを保つ術を得ることこそが、本書のような極めて専門性の高い文献を私の如き一市民が読むことの意義なのではないか。そのようなことを考えるための、私にとって誠に有意義な時間をこの文献と共に下さったF氏に感謝を捧げつつ、本稿を閉じたい。ありがとうございました。

第一回現代詩朗読会「病人としての宮澤賢治――誰にだって言いたくないことはある」レジュメ

概要

著名な文化人から文科省、学校の先生、ヒッピーまで、今日宮澤賢治を称えない人は存在しないのではないかと思われるような立場の詩人、宮澤賢治。多くの人は農業の聖者、エコロジーの元祖としての賢治を語るが、賢治はそこに収まらない悲哀を抱き続けた存在ではなかったか。賢治「褒め殺し」的な風潮に異を唱え、病人としての、修羅としての賢治から、新たな賢治像を提供しようとする試み。

 

使用するテキスト

*宮澤賢治『精選 名著復刻全集 近代文学館 春と修羅 関根書店版』日本近代文学館ほるぷ出版、1972年5月1日発行。――テキストA

*天沢退二郎〔編〕『新編 宮沢賢治詩集』新潮社〈新潮文庫〉2013年2月25日45刷。――テキストB

*宮沢賢治『新編 銀河鉄道の夜』新潮社〈新潮文庫〉2005年6月10日37刷。――テキストC

*丸山照雄〔編〕『近代日蓮論』朝日新聞社〈朝日選書192〉1981年10月20日発行。――テキストD

 

朗読する作品

  1. 「肺炎」、発表年月日不明、pp.393-394
  2. 「保坂嘉内あて(封書)」、1921年(大正10年)1月中旬、pp.111-112
  3. 「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」、1925年(大正14年)7月19日、pp.218-222。
  4. 「『春と修羅』序」、1924年(大正13年)1月20日、pp.3-8。
  5. 「恋と病熱」、1922年(大正11年)3月20日、p.11。
  6. 「イーハトブの氷霧」、1923年(大正12年)11月22日、p.298。
  7. 「冬と銀河ステーション」、1923年(大正12年)12月10日、pp.299-301。
  8. サキノハカといふ黒い花といっしょに」、1927年?、pp.278-279。
  9. 「何といはれても」、1927年(昭和2年)5月3日、pp.277-278。
  10. 「境内」、発表年月日不明、pp.311-316。
  11. よだかの星」、1934年(昭和9年)発表、pp.31-39。
  12. 「夜」、1929年(昭和4年)4月28日、pp.325-326。
  13. 雨ニモマケズ」、1931年(昭和6年)11月3日、pp.118-122。

 

宮沢賢治略年表

*1896年(明治29年)

**8月27日 - 花巻の古着商、宮澤政次郎と宮澤イチの長男として岩手県花巻町に生まれる。イチは岩手の地方資本家、「花巻財閥」こと宮澤善治の娘。父政次郎の浄土真宗真宗大谷派東本願寺)への傾倒から、真宗近代教学の導師、暁烏敏の影響を受けた環境で真宗門徒として育てられる。

*1909年(明治42年)13歳

**4月 - 盛岡中学校入学。

*1913年(大正3年)17歳

** – 岩手軽便鉄道(現JR東日本釜石線)営業開始。

*1914年(大正3年)18歳

**3月 – 盛岡中学校卒業。

*1915年(大正4年)19歳

**4月 – 盛岡高等農林学校入学。

*1917年(大正6年)21歳

**7月 – 友人の保阪嘉内らと同人誌『アザリア』を開始。

*1918年(大正7年)22歳

**3月 – 盛岡高等農林学校卒業。

**6月 - 肋膜炎と診断される。以後肺結核を抱えて生きていくことになる。

*1919年(大正8年)23歳

**2月 – 妹の肺結核が判明する。

*1920年大正9年)24歳

**10家の宗旨であった浄土真宗から自発的に改宗し、日蓮主義宗教団体、国柱会に入信する。以後生涯一信徒として過ごす。賢治とほぼ同時期に国柱会に入信した陸軍軍人に、同じく東北の山形県出身の石原莞爾が存在し、石原莞爾は後に満洲事変の首謀者となり、国柱会日蓮主義の強い影響の下に『世界最終戦争論』(1940年/昭和15年)を発表する。

*1921年(大正10年)25歳

**1月 - 友人の保坂嘉内に国柱会への入信を薦める手紙を送る。

**12月 – 稗貫農学校(1923年に岩手県立花巻農学校へと改編)教師となる。

*1922年(大正11年)26歳

**3月20日「恋と病熱」

**11月 - 妹トシが肺炎で死去。

*1923年(大正12年)27歳

**11月22日 - 「イーハトブの氷霧」。

**12月10日 - 「冬と銀河ステーション」。

*1924年(大正13年)28歳

**1月20日 - 「『春と修羅』序」。

**4月 - 生前刊行した唯一の詩集、『心象スケッチ 春と修羅』を自費出版。初版1000部。父が株で成功したことで経済的に余裕があったことが要因の一つ。ダダイストアナーキスト辻潤に激賞される。

**12月 -生前刊行した唯一の短編小説集、『イーハトーブ童話 注文の多い料理店』を自費出版。初版1000部。

*1925年(大正14年)29歳

**7月19日 - 「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」。

*1926年(大正15年/昭和元年)30歳

**3月 - 花巻農学校を辞職。以後農耕生活に入る。

**8月 - 羅須地人協会結成。

*1927年(昭和2年)31歳

**サキノハカといふ黒い花といっしょに」。

**5月3日 - 「何といはれても」。

**このころ、羅須地人協会に通ってきた高瀬露に結婚を言い寄られるが、ハンセン病であることを理由(そのような事実はないので断るための口実)に断る。

*1928年(昭和3年)32歳

**12月 - 肋膜炎の再発。療養生活に入る。

*1929年(昭和4年)33歳

**4月28日 - 「夜」

*1931年(昭和6年)35歳

**7月 – 草野心平が「宮澤賢治論」を発表。

**9月18日 - 満洲事変勃発。以後、非常時の掛け声とともに右傾ムードが高まる。

**肺結核の再発。

**11月3日 - 雨ニモマケズ

*1933年(昭和9年)37歳

**9月21日 - 死去。父に残した遺言は、「国訳の妙法蓮華経を一千部つくってください」であった。

*1934年(昭和9年)

**よだかの星」発表。

ツイキャス告知(第一回現代詩朗読会)

はじめに

 詩が欠けている。ポエムは満ちているが詩が欠けている。――日頃、そんなことを思いながら現代日本語詩集をたまに朗読している者として、ある日、この朗読をインターネットで配信してみたら面白いのではないかと考えてみました。

 

 現代詩朗読会では著作権の消滅した詩人の作品を、当時の世相や伝記的事実を交えつつ朗読していく予定です。第一回は宮澤賢治です。

 

 ひょっとしたら、私の配信を通して普段耳にしない現代詩を耳から聴く機会が生まれ、詩との新たな出会いが可能になるかもしれない。もしもそんな機会を作り上げることが出来れば望外の喜びです。

 

 

 

 

 

 以下、第一回現代詩朗読会「病人としての宮澤賢治――誰にだって言いたくないことはある」の概要です。

 

 

概要

 著名な文化人から文科省、学校の先生、ヒッピーまで、今日宮澤賢治を称えない人は存在しないのではないかと思われるような立場の詩人、宮澤賢治。多くの人は農業の聖者、エコロジーの元祖としての賢治を語るが、賢治はそこに収まらない悲哀を抱き続けた存在ではなかったか。賢治「褒め殺し」的な風潮に異を唱え、病人としての、修羅としての賢治から、新たな賢治像を提供しようとする試み。

 

(詳細はまた後日)

クリスマスを私に

“彼らは、クリスマスに喧嘩をするなんて恥ずかしいことだ、と言った。そのとおりだ! 本当に、そうなのである!”

ディケンズ/中川敏訳『クリスマス・キャロル集英社集英社文庫〉、2010年11月13日第15刷、93頁)

 

クリスマスが今年もやってくる

  いよいよ2016年も終わりが見えてきました。毎年この時期になるとあのビッグイベントが近づいてきます。そう、クリスマス!

 

 恋人いない歴=年齢の非モテなのにこのイベントは結構好きなのです。何が良いかと言うと何よりもまずこの時期に街が明るくなるのが良い。例年この時期に街からクリスマス向けの飾り付けがなければどんなに侘しい街並みになることか。加えてこの季節は私の好きな山下達郎が一年で一番メジャーな場面で流れます。タツローが何をした人かは知らなくても「クリスマス・イブ」のことは知っているという人は多いはず。

 

 ただ、キリスト教文化圏ではない(イエス・キリストの生誕を特別に祝う動機のない)日本で今日商業的に祝われるクリスマスは、恋人のいないワープアおじさんにとってやや居場所のないイベントであることもまた事実。というわけで、今回はそのお話をしましょう。

 

子供たちのクリスマスから、恋人たちのクリスマス

 クリスマスは原義的にはイエス・キリストの誕生日*1なので、もちろん明治以後に来日した外来の記念日です。丁髷結ったサムライが今日のようにクリスマスを祝ってる姿をイメージできる人は、まだ今は少ないでしょう(あと50年ぐらいしたら出てくるかも)。

 

 それなのにそもそもなんで今、日本でこんなにクリスマスが祝われてるのでしょう?釈迦牟尼世尊の誕生日である4月8日*2はクリスマスほど祝われないのになんでこんなに?

 

 この件について、堀井憲一郎氏が興味深い調査をしているので少し参照してみましょう。

 

“ 日本のクリスマスは、1983年に始まった。

 僕たちが子供のころ、1960年代はクリスマスは圧倒的に子供のものだった。クリスマスプレゼントをもらって、クリスマスケーキを食べて、クリスマスソングを歌って、それからお正月の準備を始める。

 おとなは正月のことで手いっぱいで、クリスマスまでかまっていられなかった。片手間で子供向けのクリスマスをやってくれただけだった。ひょっとしたら、日本のどこかではまだそういう「クリスマスは片手間」な地域が残ってるかもしれない。江戸時代の日本の香りを残してる地域。どこかにあって欲しいとおもう。”

堀井憲一郎『若者殺しの時代』講談社講談社現代新書1837〉、東京、2006年4月20日第一刷発行、38頁より引用)

 

 信じ難いことかもしれませんが、今日、日本で祝われているクリスマスの風景は実はつい最近始まった歴史の浅いものなのです。今回本稿を書くに当たって、怠惰ゆえに私は日本のクリスマス史を参照することはなかったのですが、恐らく1850年代の開国以後のキリスト教の解禁から堀井氏が幼かった頃の1960年代までおよそ100年かけて人々の間に「お正月の前にお祝いする欧米=キリスト教世界からやってきたイベント」として定着していたクリスマスは、日本クリスマス史を全て通しても、「子供向けの舶来のお祭り」だった時期の方が、たぶん圧倒的に今の「恋人たちのクリスマス」の期間よりも長いのではないか。

 

 ついでなので、まだクリスマスが子供の物だった1960年代から10年後の1970年代のクリスマスの光景も、堀井氏の記述を通して眺めてみましょう。

 

“ クリスマス・デートの記事は1970年代から始まっていた。

 

 1970年アンアン「2人だけのクリスマス」

 1972年アンアン「クリスマスに二人で行きたい店」

 1974年女性セブン「彼を獲得する今年最後のチャンス。クリスマスイブ愛の演出方法」

 1977年ヤングレディ「ふたりのためのイブの絵本」

 1977年ノンノ「クリスマスの贈り物、愛する人へ心を込めて」

 1979年ヤングレディ「二人きりの車内[カールーム]にキャンドルをともして……恋を語らう」

 

 男性誌も含めて、1970年代のいろんな雑誌をかたっぱしから探して、見つかったクリスマス記事はこの六つだった。十年間で六つしかないのだ。たぶん本当はもう少しあるだろうけど、僕にはこの六つしか見つけられなかった。男性誌には載ってなかった。見つけられなかった。いまだったら11月のある一日に出された雑誌だけで、この十年分のクリスマスの記事を越えてしまうとおもう。

 1970年代のクリスマス記事を読んでいると、世の中に、まだ恋人たちのクリスマスの場所が用意されていないことがわかる。まだそういう商売が出てきてないのだ。だから若い人たちは、自分で工夫して、ロマンチックな夜にするしかない。雑誌は、その創意工夫を提案してくれているのだ。いま読むと、想像しにくい風景だ。

 それはたとえばこういうことだ。

 7月14日はフランス革命記念日だ。これを祝って、フランス革命記念らしい飾りつけをして、フランス革命記念らしい食事を食べ、フランス革命記念らしいお祝いの品の交換をやろう、それも恋人同士でやろう、二人っきりでロマンチックにやろう、といま、僕がおもいついたとする。でも7月13日の夜にセンチュリーハイアットに行こうと六本木ヒルズに行こうと椿山荘に行こうと、どこに行こうとも、誰に[原文ママ]何もそんなお祝いセットは用意してくれていない。僕が自分で工夫して調達して演出して、祝うしかない。

 1970年代の〝恋人たちのクリスマス〝はそれと似たような状況だったのだ。”

堀井憲一郎『若者殺しの時代』講談社講談社現代新書1837〉、東京、2006年4月20日第一刷発行、43-44頁より引用)

 

 ひょっとしたら1970年代ならば、クリスマスよりもフランス革命記念日を祝う方が、『ベルサイユのばら』(池田理代子、1972年-1973年連載)で育った女学生がいた分、まだロマンチックに祝うことができたのかもしれませんが、それはさておき、当時週刊文春のライターであった堀井氏が70年代の雑誌記事を総当たりして6本しかクリスマス記事を発見できなかったという事実は、70年代はまだクリスマスが「恋人たちのクリスマス」にはなっていなかったことの証左でしょう。

 

 堀井氏によれば、子供が親からプレゼントを貰う日であり、正月よりも優先順位の低かったそれまでのクリスマスが、現在我々の良く知るクリスマスへと変わる転換点になるのは1983年12月の『an・an』の「クリスマス特集 今夜こそ彼の心[ハート]をつかまえる!」であるとのことです。それについては本稿では割愛します。詳しくは引用元の『若者殺しの時代』を読んでほしいのですが、「恋人たちのクリスマス」は要するにバブル経済の産物だということ書かれてるので興味のある方は是非ご一読下さいませ。因みにこの恋人たちのクリスマス=1983年12月誕生説を採用すると、1980年10月の時点で「恋人はサンタクロース」を録音していたユーミンは時代を三年先取ってたことになります。やっぱりユーミンは凄いなあ。冒頭で少し触れた山下達郎の「クリスマス・イブ」がシングルカットされたのは1983年12月14日なのでタツローは時流にピッタリだったようです。

 

 クリスマスを私に

 さて、以上、「恋人たちのクリスマス」の成り立ちについて述べてきました。80年代に生まれた恋人たちのクリスマスは、私の如き恋人のいないワープアおじさんにとって地味に過ごしづらい(自分が世の中の非主流派であることを意識させられるため)イベントであることは事実なのですが、冒頭で述べたように結構好きなイベントではあります。私がクリスマスを楽しむ方法はないものか。

 

 19世紀イギリスの文豪、ディケンズの小説『クリスマス・キャロル』(1843年)の中でのクリスマスは、自分を振り返り善きキリスト教徒としての道徳性を取り戻す日とされていました。これなどは「恋人たちのクリスマス」に対抗し得る本来のクリスマスの在り方のように思えますが、残念ながら私はキリスト教徒ではなかった。キリスト教徒でない者が、キリスト教徒に相応しい道徳を生きているかを自問自答するのは難しいのでこれは却下。佛教徒がディケンズの小説のような体験をしたいのならば、世尊の誕生日の4月8日にやるべきなのでしょう。きっと。

 

 それならばいっそ、異教の祭りをやめてしまえ!と仰る向き*3もあるかもしれませんが、私はこのイベント自体は結構好きなのでこれも却下。大体これだけ定着してしまったイベントを強権で廃止するとなれば、その混乱が巨大になるのは目に見えます。

 

 となると自分で楽しみ方を考える他ありませんが、どうにもこれが思い浮かびません。私の今年のクリスマスの予定はまだありませんが、私や私と同様の人々が、社会の主流派を僻むことも妬むこともなく、尊厳を持って過ごせるようなクリスマスの過ごし方をできればいいと思ってます。私のように、恋人はいないし友人もほとんどいない。社会的にも孤立している。キリスト教徒ではなく今後キリスト教徒になる予定もないけれども、このイベントが結構好きで、かつ、「恋人たちのクリスマス」から排除されてしまう人々にも楽しめるクリスマス文化がこれからできて欲しいと切に願っています。

 

 としんみり落とすのも寂しいですし、折角なので大瀧詠一の「クリスマス音頭」でも踊りましょか♪あ、ソレ♪

 


大滝詠一「クリスマス音頭」

 

 

 

若者殺しの時代 (講談社現代新書)

若者殺しの時代 (講談社現代新書)

 

 

 

クリスマス・キャロル (集英社文庫)

クリスマス・キャロル (集英社文庫)

 

 

*1:乱暴にまとめた上に本当に12月25日なのかについても異説がありますが、立ち入ると面倒なので今回は割愛。

*2:同上。

*3:本城靖久氏の著書『セネガルのお雇日本人』(中公文庫、1983年)には、人口の9割以上がイスラーム教徒の西アフリカのセネガル共和国でも、クリスマスにはデパートでプレゼントを選ぶ習慣が根付きはじめており、著者の友人でイスラーム教徒である内務省の役人がその風潮をけしからんと嘆いている様子が描かれています(184-186頁)。クリスマスは本来の文脈だったキリスト教の祝祭日であることから切り離されて、資本主義の発達と並走して世界のどこであっても体験されるグローバルな文化と化しており、それゆえに世界のどこででも反対されるイベントになっているのかもしれません。

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夢の終わり、夢のはじまり――開設の辞に代えて

 最近、人と逢う夢を見る。懐かしい顔ぶれ、遭いたくて逢えなかった人、一度も逢ったことのない人。実に多くの人と夢の中で出会い、何かを話していたのだけれども、目が覚めた時には何を話したかなどはすっかり忘れてしまって、ただただ夢で逢ったことだけを憶えている。

 

 夢を見たあとで決まって思うことがある。私は夢で出逢った人の顔と、話した内容をすぐに忘れてしまうのだけれども、できれば憶えておきたいし、思い出したいのだ。けれども、何も憶えていられないことは幸いなことなのかもしれない。思い出すべてが残るよりも思い出の輪郭だけが残る方が、甘美なことなのかもしれない。少なくとも、記憶が時折もたらす残酷さには欠けるだろう。

 

 夢について憶えておきたい、思い出したいということの他にも、好きな夢を見たいというもっと積極的な願いもある。もちろん、自分の個人的な願望が実現する日の夢を見たい――勉強していた資格試験に合格したり、長らく音信不通だった友人と再び連絡を取ったり――ということもあるのだけれども、そんな私的な願望のみならず、もっと人々が集団的に見ようとしていた夢だって存在する。そう。ユートピアのことだ。こういうことである。

 

 

“ 絶対的平等主義民俗学ユートピアの一つの特徴である。その他に、食べるための労働からの解放(全員がいつも十分食べられる)、過重労働からの解放や、資源を共有する、同質の共同体などの特徴も挙げられる。このようなユートピアの特徴を総合的に描くシンボルが「富の国」(「パエゼ・ディ・クッカーニャ」)である。このシンボルは少なくとも中世から西ヨーロッパに普及されてきた。今でもイタリア各地の祭りでは、「アルベロ・デッラ・クッカーニャ」(「富の木」)と呼ばれる柱が使われている。その柱の頂上には「富」を表す多くの食べ物がぶら下がり、柱全体には油や脂肪が塗ってある。祭りに参加する若者たちはこの柱に登って「富」を取ろうとする。この柱は生命の樹木や豊穣のシンボリズムを表現するものだが、一方では、「クッカーニャ」の国も表している。その国では富は誰もが取れる自然なものである。言うまでもなく、この「クッカーニャの国」は地上の楽園の神話にも強い関係をもつ。

 ここで一つ指摘したいのは、このようなクッカーニャの国の民俗学的、庶民的なユートピアは、一八〇〇~一九〇〇年代の近代の社会運動や、政治ユートピアと直接結びついていることである。特に社会主義共産主義は明らかに、中世・ルネサンスの逆転の世界や富の国の理想を実際に建設しようとしていた。教養のあまりないイタリア共産党の多くの党員にとって、ソ連はまさにクッカーニャの国であった。五〇~六〇年代に彼ら/彼女たちに聞くと、ソ連ではみな必要なだけ仕事して、残りの時間は自由に趣味や安息に使える。みな平等で、国家が必要を満たしてくれる、という神話的な話がよく聞かれた。この人たちにとってソ連は現実の国というよりも、神話的な存在であった。それはまさに、何百年も前から希望をもって抱き続けた夢がついに実現したようなものだった。ソ連の崩壊は、この人たちにとってはほんとうに悲劇的なことだった。それは一つの夢がダメになっただけではなく、夢をもつことが自体が不可能になったことを意味したのだ。”

(ファビオ・ランベッリ『イタリア的――「南」の魅力』講談社講談社選書メチエ337〉、東京、2005年8月10日第1刷発行、201-202頁より引用)

 

 10代半ばから20代後半にかけてかつて抱いていた夢から私が離れてしまった――のかそれとも夢の方が私から離れてしまったのかは、私にはわからないけれども――後、私はこのイタリアの人たちと同じ夢を見ることはもはやできなくなってしまった。先に挙げた引用文中で夢想されているソ連が行ったことについて多くの――現在多くの人はソ連ユートピアとしてよりもむしろ、一党独裁、大粛清、強制収容所、環境破壊、民族文化や宗教への弾圧といったネガティヴな言葉で想像することだろう――否定論が存在することは、もちろん私だって承知している。それどころか、なお厄介なことに、ソ連の行った種々の蛮行は、実はマルクスの思い描いたユートピアを実現するために行われた、という事実がこの複雑さに拍車をかけるのだ。こんな風に。

 

“ 社会的流動のもう一つの主要な原因は粛清であった。責任ある職から誰かを解任した場合、その代わりが必要となった。これまで粛清の犠牲者数をめぐっては、主として統計学上の専門的な観点から、激しい論争が繰り広げられてきた。すべての推計は部分的あるいは不完全な統計に基づいており、それゆえ注意して扱われなければならない。推計は数十万人からおよそ一五〇〇万人にまでわたり、抑圧の規模をめぐって意見はしばしば鋭く対立した。この問題は公文書館史料が一部公開されたことで完全に決着がついたわけではないが、それでもその史料のおかげで、実際の人数は数十万よりははるかに高く、一五〇〇万よりもかなり低かったという点で意見の一致を見たようである。それは五〇〇万近くの数であったかもしれない。ともあれ、犠牲者が相当な数にのぼり、すべての家族が直接影響を受けたことは明白である。犠牲となった者の割合は、政治であれ(ただしスターリンの直接の側近は例外であった)経済であれ、あるいは社会、軍事、文化であれ、各分野で高い職位に就いている人々の間でとりわけ高かった[32,33,67,128,175]。たとえば政治エリートの中では、フルシチョフNikita S.Khrushchev)によれば、党中央委員会〔委員と候補〕の七〇%が逮捕され銃殺された[96:37]。その結果、一九三〇年代末までにソ連のエリートは、どの主要国のエリートよりも年齢が若く、低い社会的階層からの出身者となった。一九三九年、政治局員の平均年齢は五〇・三歳で、党中央委員は四三・七歳、人民委員会会議(内閣)メンバー〔原文は閣僚会議(内閣)幹部会メンバーだが、人民委員会会議が閣僚会議に改名され幹部会が設けられたのは第二次大戦後である〕は四二・二歳であった[17:89]。一〇月革命の目的はプロレタリアートを権力の座に就けることであった。そしてソ連では一九三九年までに、権力ある地位のほとんどが労働者階級か農民を社会的出自とする人々によって占められるに至った。このような高い社会的流動性をもたらした社会革命は、重要度の点で一九一七年の政治革命に匹敵する。一九八〇年代に至るまでソ連を率いたのは、この時昇進した人々であった。”

(グレイム・ギル/内田健二訳『スターリニズム岩波書店〈ヨーロッパ史入門〉、東京、2004年11月19日第1刷発行、39-40頁より引用)

 

 全く恐ろしいことに、イタリアの、いや、ヨーロッパ中のふつうの人々*1が中世・ルネサンスの昔から思い描いていた「富の国」の「食べるための労働からの解放(全員がいつも十分食べられる)、過重労働からの解放や、資源を共有する、同質の共同体」という理想像が20世紀に実現するに当たって、20世紀の人々は誰も富裕な人間を政治的テロリズムによってまとめて粛清し、空いた椅子に人々が座るというやり方(スターリン主義と呼ばれる)以外を思い描くことができなかったのだ*2。しかしながら、ソヴィエトと共産主義の名の下に行われた数多の蛮行の事実を承知しつつもなお私は、20世紀の半ばにあって全世界の人々が、その名の下に人類史上初めて生まれた時の宗教や民族や性別を超えて共通の夢を思い描くことができたことは、決して忘れてはならない偉業だったと思っている。付け加えるならば、今日多くの人がまともに集団的なユートピアの夢を見ようとしなくなった原因は、この恐ろしい結末を正視する勇気を持てないからではないかと、一度実現しかけて無残に挫折した夢の何が間違っており、何が正しかったかを自分のこととして意識しようとする勇気を持てないからではないかと、私の如き者は感じるのである。

 

 それでは、夢は如何にあるべきか。実現した時に悪夢になることを恐れ、日々を刹那的に生きていくことが正しいのか。徐々に縮小していく現実の圧迫の中で、夢など見ずにただただ自分の取り分さえ確保できればいいのか。

 

 そうではないだろう、と私は答える。夢ならば、もはや逢えないと思っていた人と再会することも、物理法則を捻じ曲げて不可能を可能にすることもできる。逢いたかった人と夢で逢えた、楽しかった思い出の輪郭が、つらい毎日を生きるための気力になることだってある。そのような夢を人々が共に見る方法は再建しなければならない。そうでないと、やはりこの現実が人々を侵食する日々に、誰もが耐えられなくなると私は感じるのだ。1930年代の日本の共産主義者の赤いユートピアの夢の挫折と転向が、1940年代前半の大東亜共栄圏の夢を準備してしまったように。私は長じて赤いユートピアの夢を挫折したけれども、それでも、自分の身の回りで起きることだけに自己を没入して生きて行くことはできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 前置きが長くなりましたが、当ブログの目標は座標が喪われ、夢をもつこと自体が不可能になってしまった現在にあって再び夢を見るために、何をなさなければならないのかについて、試行錯誤していくことです。中年の入り口に立ち、もはや若くない私がこれから日々感じたことや行ったことを綴る中で、御見苦しい点や至らない点が多々あるかと思いますが、御笑覧いただければ幸いです。

 

2016年12月11日

寶達辺彌由

*1:漠然と王侯貴族や大商人や高位聖職者を除いた人々だと考えて欲しい。

*2:この件についてスターリンが間違っていただけでレーニンとトロツキーは間違っていないと主張する新左翼の人々が今も存在するが、両者が「戦時共産主義」の過程で農民から食料徴発を苛酷に実施したことやクロンシュタットのアナーキスト無政府主義者)水兵の反乱を残酷に弾圧したことを思うに、農民や他党派に関する赤色テロルの質において私はレーニンとトロツキースターリンを区別する必要を感じない。三人ともボルシェヴィキ以外の政治党派に情け容赦ないテロリズムを行使した点で変わるところはないように思われる。