太宰治、高村光太郎、神山茂夫:76年前の日米開戦の日の涙を振り返って

 今日、2017年12月8日は1941年12月8日の日米開戦から、実に76年目である。あの日本海軍の攻撃機によって星条旗が破れ、巨艦が沈んだ12月8日の朝から、一人の人間が一生を終えられるほどの時間が経ってしまった。今日は少し、このことについて振り返ることにしよう。

 

 太宰治は日米開戦から2か月後に、妻である津島美智子氏の視点を借りて書いた小説『十二月八日』を発表している。この日より一年半ほど前に『走れメロス』を書き上げていた太宰は、1941年12月8日をこのように記していた。

 


“ 十二月八日。早朝、蒲団の中で、朝の仕度に気がせきながら、園子(今年六月生まれの女児)に乳をやってると、どこかのラジオが、はっきり聞こえてきた。
 「大本営陸海軍部発表。帝国陸海軍は今八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」
 しめ切った雨戸のすきまから、まっくらな私の部屋に、光の差し込むように強くあざやかに聞こえた。二度、朗々と繰り返した。それを、じっと聞いているうちに、私の人間は変わってしまった。強い光線を受けて、からだが透明になるような感じ。あるいは、聖霊の息吹きを受けて、つめたい花びらをいちまい胸の中に宿したような気持ち。日本も、けさから、ちがう日本になったのだ。”
(中略)
 台所で後かたづけをしながら、いろいろ考えた。目色、毛色が違うという事が、之程までに敵愾心を起こさせるものか。滅茶苦茶に、ぶん殴りたい。支那を相手の時とは、まるで気持ちがちがうのだ。本当に、此の美しい日本の土を、けだものみたいに無神経なアメリカの兵隊どもが、のそのそ歩き回るなど、考えただけでもたまらない。此の神聖な土を、一歩でも踏んだら、お前たちの足が腐るでしょう。お前たちには、その資格が無いのです。日本の綺麗な兵隊さん、どうか、彼等を滅っちゃくちゃに、やっつけて下さい。これからは私たちの家庭も、いろいろ物が足りなくて、ひどく困る事もあるでしょうが、御心配は要りません。私たちは平気です。いやだなあ、という気持ちは、少しも怒らない。こんな辛い時勢に生まれて、などと悔やむ気がない。かえって、こういう世に生まれて生甲斐をさえ感ぜられる。こういう世に生まれて、よかった、と思う。ああ、誰かと、うんと戦争の話をしたい。やりましたわね、いよいよはじまったのねえ、なんて。”


太宰治「十二月八日」『昭和戦争文学全集4:太平洋開戦――12月8日――』昭和戦争文学全集編集委員会編、集英社、1964年8月30日発行[初出1941年2月]、193-194頁、196頁より引用)

 

 戦後の学校教育やマスメディアによる記憶継承の過程では上手く伝えられなかったことではあるが、76年前の今日、多くの人々は対米英開戦を心の底から祝っていた。日米開戦の10年前に当たる1931年の満洲事変勃発以来、中国(当時は中国国民党蒋介石総統指導する中華民国)とのいつ終わるとも知れぬ戦争の泥沼の中から、中国を背後で軍事的・経済的に支援していた米英に対して宣戦布告したことによって、それまでの亜細亜人同士の戦争を黄色人種対白色人種にスライドさせて視る視点が、軍人、政治家、宗教家、右翼活動家といった大日本帝国のイデオローグのみならず、実業家や知識人、文学者、芸術家、そして民衆に至るまで、億兆心ヲ一ニシテ共有されたのである。本稿の目的はそのことを糾弾することではない。ただ、事実として、1941年の12月8日を多くの人々が歓喜の中で祝っていたことと、戦後のある時期に戦時中に集団で戦争に熱狂していたことが忘れ去られてしまい、戦争末期の空襲その他による被害者としての記憶ばかりが残ったという事実は、忘れられるべきではなかったと私は考えている。

 太宰治の『十二月八日』に戻ろう。「私」の一人称でこの小説の主人公となっている津島美智子氏が実際にこのように感じていたのかは不明であるが、少なくともこの小説を書いた時の太宰治が、日米開戦の報を聞いて、ある程度は「こういう世に生まれて、よかった、と思う」ような気持ちで12月8日を記憶していたとは言えるのではないか。

 多くの人が様々な理由から日米開戦に歓喜していたが、太宰治が「強い光線を受けて、からだが透明になるような感じ。あるいは、聖霊の息吹きを受けて、つめたい花びらをいちまい胸の中に宿したような気持ち。日本も、けさから、ちがう日本になったのだ」と書いたように開戦を捉える感覚。より正確に言えば、日米開戦によって自分と日本何かが共に変わったとして、その変化を新鮮に受け止める感覚は、時代感覚に鋭敏であるべき文学者にあって、書き記すべき感覚であったようだ。詩人、高村光太郎は同日をこのように振り返っている。

 

“ 今度の第二回中央協力会議開会の当日は実に感激に満ちた記念すべき日となった。ちょうど対米英宣戦布告大詔渙発の日となったのである。
(中略)
 世界は一新せられた。時代はたった今大きく区切られた。昨日は遠い昔のようである。現在そのものは高められ確然たる軌道に乗り、純一深遠な意味を帯び、光を発し、いくらでもゆけるものとなった。
 この刻々の瞬間こそ後の世から見れば歴史転換の急曲線を描いている時間だなと思った。時間の重量を感じた。十二時近くなると、控室に箱弁と茶とが配られた。箸をとろうとすると又アナウンスの声が聞こえる。急いで議場に行ってみると、ハワイ真珠湾襲撃の戦果が報ぜられていた。戦艦二隻轟沈というような思いもかけぬ捷報が、少し息をはずませたアナウンサーの声によって響きわたると、思わずなみ居る人達から拍手が起こる。私は不覚にも落涙した。国運を双肩に担った海軍将兵のそれまでの決意と労苦とを思った時には悲壮な感動で身ぶるいが出たが、ひるがえってこの捷報を聴かせたもうた時の陛下のみこころを恐察し奉った刹那、胸がこみ上げて来て我にもあらず涙が流れた。”


高村光太郎「十二月八日の記」『昭和戦争文学全集4:太平洋開戦――12月8日――』昭和戦争文学全集編集委員会編、集英社、1964年8月30日発行[初出1941年1月]、230頁、231頁より引用)

 

 高村光太郎太宰治よりも衒いなく、開戦の詔勅を読み上げた際の昭和天皇の心中を察して涙を流してまで、76年前のこの日、日米開戦の報と、それに続く真珠湾攻撃の戦果を喜んでいる。既に述べたように、太宰治高村光太郎に限らず、当時「非国民」ではなかった大日本帝国の大多数の国民にとって、この感覚は共であった。いや、明治時代末の大逆事件以来、「非国民」であった社会主義者からでさえ、明治以来の社会主義者で労農派マルクス主義者の指導者だった山川均は、同じく明治以来の社会主義の同志、荒畑寒村に対して、「対米戦争に参加したい」と洩らしたとのエピソードが伝わっているほどだ*1

さて、詩人である高村光太郎東京市内の中央協力会議の会場で開戦の報を聞き、感激の涙を流していたのと正に同じ頃、東京市内の警視庁の留置場の中にも涙を流している男がいた。先立つこと7箇月前のメーデーの日に第二次日本共産党再建運動の指導者として、治安維持法で検挙された革命家、神山茂夫である。とは言っても、もちろん光太郎の流していた歓喜の涙ではない。自身の革命家としての力が及ばず、日米開戦に至ったことに対する、痛恨の涙である。

 

“ 野村吉三郎大将、来栖大使の渡米につづく太平洋戦争開戦の報――「米英と戦闘状態に入れり」という発表も、私はここできいた。予測していたことではあったが、このニュースは私の心を真暗にした。いまとなっては誰もが知っているように、それは、国際的な規模での「民主主義」陣営にたいする、日・独・伊等侵略陣営の攻撃の一環として発動された不正義の侵略戦争であり、日本民族を破滅のどん底に叩きこむものだった。

 おもえば、一九三六年末、いろいろの条件の組みあわせと、獄外の同志のもとめに応じ、敵をあざむくために恥を忍んで偽装転向して出獄以来、中国への侵略戦争に反対し革命運動と党の再建のために全力をあげてきた私たちではあった。が、いま、力足らず、敵の手にとらわれて破滅的な戦争開始の報を、看守の好意によってきかされる不甲斐なさ! われわれの力がつよく、せめて労働者階級と青年たちの目だけでも開かせ、もっと強くこの戦争に反対することができていたならと、胸は痛んだ。明日の運命をも知らずに宮城にむかう大群衆の足音、天地をゆすぶるような万歳の声、人びとの心をかりたてるような軍歌と軍楽隊のとどろきが地下室の留置場までひびいてくるのを、なすすべもなくじっときいているくやしさ。にじみでる涙もおさえきれなかった。”


神山茂夫「獄中・太平洋戦史」『わが遺書』現代評論社、1975年2月25日初版[初出1954年6月]、209頁より引用)

 

 

 太宰治が「いやだなあ、という気持ちは、少しも怒らない。こんな辛い時勢に生まれて、などと悔やむ気がない」と感じた日、高村光太郎が「世界は一新せられた。時代はたった今大きく区切られた。昨日は遠い昔のようである」と感涙に浸っていた日、警視庁の留置場に囚われていた神山茂夫は、自らの革命運動がこうなる前に、当時の日本にあって有効な反戦運動を作れなかったことを悔やみ、悔し泣きに涙を流していたのであった。

 1945年8月15日以後を生きている我々は、76年前の12月8日に対するこの獄に囚われていた共産主義者の革命家の認識が、近代日本文学の小説と詩にあって、それぞれ最高峰にいた文学者の認識を超えていたことを知っている。戦時下で続く自らの治安維持法違反の裁判に際し「ケチな小細工をせず、サッパリと新法を適用して死刑にしてみろ、と嘲笑しながら無罪を主張した」*2神山茂夫は、戦争末期の連日米軍の空襲が続く日々の中で、日本の敗戦の必至と即時の無条件降伏を法廷で訴えながら、遂に1945年8月15日を迎えたのだった。

 

“ この日も、法廷ではなく、裁判長の部屋にとおされた。私が入ってゆくと裁判長はすぐたちあがった。彼はキラキラ光る目でじっと私の目をみつめていた。やがて口をひらいて「神山、さっきのラジオきいたか」とたずねた。私はぶっきら棒に「きくわけがないじゃないか。きかせないためにこそ、いれてあるんじゃないか」とこたえた。「そうか……じゃあ言うが……日本は負けちゃったんだ……お前の言うとおりになっちゃったんだ……さっきラジオで天皇陛下が自分で放送されたのだ」とおしころした声でいいながら目にいっぱいの涙をたたえた。”


神山茂夫「獄中・太平洋戦史」『わが遺書』現代評論社、1975年2月25日初版[初出1954年8月15日]、232頁より引用)

 

 開戦時に革命家として被告人席にあった神山茂夫が流した悔し涙は、敗戦時には被告人と正対していた裁判長の流すものとなったのだ。

 世に正しいことほど強いものはない。仮に一時敗北しようとも、汚辱にまみれ、失意の日々を過ごすことになろうとも、その行いが真に正しい行いならば、時を超えてその旗印を拾い上げ、後に続く者が必ず現れる。

 神山茂夫がその生涯を通して、共産主義についてマルクスエンゲルス、レーニン、スターリンの言葉を引用しながら書いたことは、今日、その大部分を投げ捨ててしまっても良いと私は考えている。しかし、共産主義の崩壊後にあって、日本の社会主義者が新たな社会主義運動の構築のためにマルクス主義を放棄したとしても、決して、かつての日にマルクス主義者だけが持ち得たこの姿勢だけは放棄してはならない。神山茂夫の涙の後に続こう。日本にあって、反戦と人民の正義の赤旗を掲げることができるのは、大逆事件の後も、76年前の12月8日も、そして今日にあってさえも、社会主義者だけなのだ。

 私は、できることなら牢獄に入りたくはないが、もし自らの抱く主義主張のためにそうなる日が来たら、自分は神山茂夫の悔し涙に続く者だと、そう胸を張りたい。

 

*1:残念ながら今回この稿を書き上げるまでに、この件についての荒畑寒村の著述が掲載された『世界』昭和33年6月号を私は入手することができなかった。苦肉の策ではあるが、典拠とした判沢弘『土着の思想』紀伊國屋書店、1994年1月25日第1刷発行、81頁より、判沢氏の記述を引くことにする。”…山川が、第一次日本共産党創立ならびに解党に際しての役割と責任を自認しようとしない点、あるいは、太平洋戦争の初期、彼が荒畑に「対米戦争に参加したい」と洩らした心の機微などについて、戦後黙秘して語らない点、荒畑は不信の言を吐いている。(雑誌「世界」昭和三十三年六月号)”

*2:「歴史の審判――八・一五前後の法廷記録――」『神山茂夫著作集 第四巻』三一書房、1975年7月31日第一版第一刷発行、11頁。

東京タワーから続いてく道

昨日、東京タワーに登ってきた。銀座から歩いて約25分。御成門駅の近くで間近に333mの赤く光る鉄塔が見えてきた時、思わず映画『横道世之介』の高良健吾のように飛び跳ねてしまった。高さ250mの特別展望台は工事中だったので、150mの大展望台へ。夜景を観ているといつだって、あの小さな明かりの一つ、一つに人間の人生があることに胸を打たれる。車から放たれる小さな赤い光の一台一台に、三連休の最後の日を過ごす人がいて、みんな、どこかに行った帰り道を過ごしていたのだろう。充実したのかもしれないし、退屈したのかもしれない。ただ、2017年の11月5日は、誰にとっても、どんな過ごし方をしたとしても、一度きりのかけがえのない一日だった。


6月に簿記2級の受験を終えてから、自分の中の何かが変わっていることを実感している。それが何なのかがわからないのがもどかしいけれども、とにかく何かが変わってきている。


11月3日の金曜日に、とある方と話すために、話した時に話題に困らないようにと、その人が好きな高野秀行の『ワセダ三畳青春期』(集英社文庫、2003年)を読んだ。僕より21年早く生まれ、僕が卒業した大学の同じ学部を卒業した著者の青春が、まるで『NHKにようこそ!』の佐藤と山崎のように眩しくて、自分には学生時代にこんな青春はなかったのに、何故か妙に感情移入してしまった。不思議で不思議でならなかったから理由を考えてみたら、著者の高野さんが早稲田の3畳間で過ごした日々に相当するのは、僕にとっては2012年の9月から2015年の1月までの、精神的におかしくなって労働も勉強もせず、ただ本を読んでtwitterに打ち込んでいただけの、あの日々のことだったんだと気が付いた。ロヒプノールという強い睡眠導入剤を飲みながら、1日1冊本を読み、薬でフラフラになった頭で読んだ本のノートを取り、文芸同人誌に寄稿するための原稿を書き、時には酒を飲みながらtwitterの人と本の感想を話し合う。ある秋の日に突然、親しかった人が自殺したことをきっかけに、ハローワークに通うことを決め、働くために薬も断薬したのでそんな生活も終わってしまったけれども、25歳から27歳までの貴重な日々をそんな生活に費やしてしまった。今思えば、あれは自分の精神の治療であり、そして、遅れてきた青春だったのだろう。いつまでもあんな生活を続けられると思って買い込んだ大量の本の内の約8割は、恐らく死ぬまで読めないのだろう。『劇画毛沢東伝』と『ドラえもん』と『NHKにようこそ!』の三冊の漫画を座右に、世間からも自分からも逃げて永遠に続くと思われたあの日々は、今となっては二度と戻らない一度きりのかけがえのない日々だった。


過ぎ去ってしまったあの日々も、東京タワーから観た夜景も、同じ日にトランプ大統領の訪日だと騒いでいた人々の体験も、いつかは過去になる。それは寂しいことだけれども、同時に慰めでもある。それは荒野の叫び声。それはミッドナイトブルース。それは絵葉書に描かれた憂い顔。それは多くなる笑い声。


やっぱり何かが終わったんだろう。けれども、これは青春の終わりではないと思う。まだもう少し、恥ずかしい日々を続けなければならない。恥ずかしくなるほど真面目に生きなければならない。


来年には答えが出るだろう。東京タワーから続いていく道を、僕はもう少し歩き続けられそうだ。

 

ぼくらが旅に出る理由

ぼくらが旅に出る理由

 

エキタスの「上げろ最低賃金デモ」についての雑感

 本日、4月15日(土)、エキタスが主催する「上げろ最低賃金デモ」に参加するので、参加に当たって思ったことを少しだけまとめてみました。

 

 なお、私自身はエキタスの一員でも、その他の政党、政治団体、社会運動体などの構成要因でもないため、以下述べることは全て私個人の責任で述べることであり、今回のデモの運営者の思想とは無関係であることをここに記します。また、私自身はマルクス主義者ではないこと(社会民主主義者です)も明記しておきます。

 

 

 1867年(慶應3年)にロンドンに亡命中のカール・マルクスは、労働運動について次のように述べました。

 

“ 資本は集積された社会的な力であるのに、労働者が処理できるのは、自分の労働力だけである。したがって、資本と労働のあいだの契約は、けっして公正な条件にもとづいて結ばれることはありえない。それは、一方の側に物質的生活手段と労働手段の所有があり、反対の側に生きた生産力がある一社会の立場からみてさえ、公正ではありえない。労働者のもつ唯一の社会的な力は、その人数である。しかし、人数の力は不団結によって挫(くじ)かれる。労働者の不団結は、労働者自身のあいだの避けられない競争によって生みだされ、長く維持される。

 最初、労働組合は、この競争をなくすかすくなくとも制限して、せめてたんなる奴隷よりはましな状態に労働者を引き上げるような契約条件をたたかいとろうという労働者の自然発生的な試みから生まれた。だから、労働組合の当面の目的は、日常の必要をみたすこと、資本のたえまない侵害を防止する手段となることに、限られていた。一言で言えば、賃金と労働時間の問題に限られていた。……”

(「中央評議会代議員への指示」『マルクスエンゲルス全集 第16巻』大月書店、東京、1968年10月30日第4刷発行、195頁より引用)

 

 

 

 日本社会で労働をしたことがある人ならば誰でもわかるように、現在、働く人々の労働条件は日常的に侵害されています。特に政治に関心がなく、左翼なんて大嫌いだという人であっても、アルバイトでさえ過労死、サービス残業、休日出勤、雇い止めといった言葉に象徴される、生きるために低賃金高時間労働を行わなければならない職場の事実を全く何も問題だと思わない人は、まず少数派でしょう。

 

 

 マルクスが述べるように、原初的な労働運動は、19世紀半ばの労働者が自らを資本のたんなる奴隷よりはましな状態に引き上げるため、賃金と労働時間の問題に当面の要求を限定する形で、自然発生的に誕生しました。それから、19世紀後半に労働者階級の政党(社会民主党)が誕生し、20世紀にソ連や中国など、労働者階級の革命的前衛党(共産党)が指導する社会主義国が誕生すると、労働運動は労働者の利益を代表することをアイデンティティとする政党や国家の政治方針に規定され、その指導の枠組みの中で活動することを、成立の経緯上余儀なくされる局面が多くなったのです。各国の社会民主党共産党社会主義国による各国の労働運動の指導。これについては勿論、良い面も多々あったのですが、反面で、労働運動を党利党略や国策に引き回す結果をも生み出しました。我々が生きる1991年にソ連が崩壊した後の世界は、この党や国家による引き回しを受動的に支持してきた労働運動が、その功罪を思想的に総括しなければならなくなった局面で、何をなすべきかについての指針が打ち出せなくなった結果、資本の浸透を許すことに成功してしまった時代です。

 

 恐らく、このような状況だからこそ、労働運動は初心に戻り、労働者階級の革命的前衛を称する党や国家による引き回しが起こる以前の「賃金と労働時間の問題」(マルクス)を主題にすることによって、自らの再生を遂げなければならないのでしょう。

 

 私は共産党員でも社民党員でも新左翼諸党派の一員でも労働組合員でさえもありませんが、今回のエキタスのデモに「たんなる奴隷よりはましな状態に労働者を引き上げるような契約条件をたたかいとろうという労働者の自然発生的な試み」(マルクス)を発見することを望み、参加を決めました。

 

 

 皆さんも予定が合えば私達と新宿を歩きましょう。

 

 万国の労働者、団結せよ!

 

aequitas1500.deci.jp

書評:橋本伸也、沢山美果子〔編〕『保護と遺棄の子ども史』昭和堂、京都、2014年6月20日初版第1刷発行。

 昨年のクリスマス期間にtwitterAmazonウィッシュリストを公開したところ、なんとF氏より

 

*橋本伸也、沢山美果子〔編〕『保護と遺棄の子ども史』昭和堂、京都、2014年6月20日初版第1刷発行。

 

 

*田澤佳子『俳句とスペインの詩人たち:マチャード、ヒメネス、ロルカとカタルーニャの詩人』思文閣出版、京都、2015年12月15日

 

の2冊を御贈りいただけました。

 

 全く有り難いばかりで言葉もないのですが、感謝の意を込めて今日、遅ればせながらいただいた本の内、『保護と遺棄のこども史』の方を簡単に書評することします。

 

 

 “本書は、日本史、ヨーロッパ史、イスラム史、法制史など多様な分野の研究者が、出生以前の胎児や出生直後の乳児も含めた子どもの「保護と遺棄」のあり方を歴史的に読み解くという主題に取り組んだ論文集である”(沢山美香子「あとがき」313頁より)と編者によって述べられている通り、本書は学際的ながらも近世~20世紀前半の子どもに対する視線が、世界中で「保護」と「遺棄」の双方を揺れ動いてきたことを明らかにしているものである。こう書くとわかりづらいが、たとえば親に遺棄された孤児を保護するはずのロシアの児童養護施設が、現実には保護の役割を果たせずにあり、また、そのような施設から孤児を引き受けた養父母によっても、残念ながら常に適切な保護が実現されるという訳ではないという例が橋本伸也による本書の「序」では挙げられているが、このように”「保護」と「遺棄」とが情況に応じて継起的・連続的に入れ替わったり、そもそも同じコインの二つの面であったりすること」(橋本伸也「序」9頁)という複雑な現象を指しているとのことである。

 

以下、参考までに目次を挙げると

*橋本伸也「序」(1-22頁)

第Ⅰ部「問題群と研究動向」

*沢山美果子「第1章 保護と遺棄の問題水域と可能性」(25-45頁)

*岩下誠「【視点と論点①】福祉国家・戦争・グローバル化――一九〇年代以降の子ども史研究を再考する」(46-56頁)

*金澤周作「【視点と論点②】チャリティとポリス――近代イギリスにおける奇妙な関係」(57-64頁)

第Ⅱ部「「捨て子」の救済と保護・養育」

*沢山美果子「第2章 乳からみた近世日本の捨て子の養育」(67-99頁)

*中村勝美「第3章 近代イギリスにおける子どもの保護と養育」(100-128頁)

*岡部造史「第4章 統治権力としての児童保護――フランス近現代史の事例から」(129-152頁)

*江口布由子「第5章 近現代オーストリアにおける子どもの遺棄と保護」(153-179頁)

第Ⅲ部「「保護と遺棄」の射程と広がり」

*三成美保「第6章「保護/遺棄」の法的基準とその変化――ドイツを中心に」(183-214頁位)

*山崎和美「第7章 慈善行為と孤児の救済――近代イランの女性による教育活動」(215-241頁)

*中野智世「第8章 「瓦礫の子どもたち」・「故郷を失った若者たち」――占領下ドイツにおける児童保護」(242-268頁)

*北村陽子「【視点と論点③】両次世界大戦期ドイツの戦争障害者をめぐる保護と教育」(269-275頁)

*高岡裕之「第9章 戦時期日本における「児童保護」の変容――人口政策との関連を中心に」(276-305頁)

*河合隆平「【視点と論点④】総力戦体制下における障害児家族の保育と育児」(306-312頁)

*沢山美果子「あとがき」(313-315頁)

 

 となっている。一読してわかるように、本書で私が馴染み深い日本の子ども史を扱ったのは第2章の沢山論文と第9章の高岡論文しかなく、また、時代的には18世紀~20世紀の事例が主な研究対象となっているものの、岩下論文がフィリイップ・アリエスの『〈子供〉の誕生』によって子ども史研究が如何に変化したかを論じているように、全体的に研究史に踏み込んだ、この学問領域に強く関心のある人々向けの本となっている。

 

 無論、第9章の高岡論文で1938年の厚生省創設を陸軍の意向とみる従来の見解に対して、内務省主導説が紹介される(280頁)など、個々、新たに得た知見は多々あれども、それについて書き記すと膨大かつ煩瑣な記述となってしまうので、ここではこのような書物を、特に学者でも教育行政に携わる行政官でもない人間が読むことの意義について少しだけ考えてみたい。

 

 先ほど少し触れた岩下誠氏はアリエスの『〈子供〉の誕生』によって生まれた日本の教育言説について、興味深いことを述べているので引用しよう。岩下氏は80年代以降の日本の家族や学校についてしばしばマスメディア上で喧伝される危機のイメージを念頭に、以下のように述べている。

 

“ 問題は、アリエス路線の子ども史研究が、このようなマスコミ主導の危機イメージを歴史的、実証的に検証するというよりもむしろ、そうしたイメージに無批判に追従し、いたずらに危機を煽るような文脈で利用されたということである。八〇年代におそらくは自覚的に選択されたのであろうこの戦略は、しかし同時代に政策レベルで進行していた新自由主義への転換を認識できなかったばかりか、現在に至っても、危機を煽って改革を唱える新自由主義(と新保守主義)への対抗軸となりえず、むしろ――意図せざる結果であろうが――それに棹差すような役割すら演じてしまっている。アリエスに依拠した「子どもの解放」という八〇年代的な課題設定は、学問的な基盤を失っているだけでなく、新自由主義新保守主義へと回収されることによって、国内的にもグローバルにも政治的に無力化している。……”

(本書所収、岩下誠「【視点と論点①】福祉国家・戦争・グローバル化――一九九〇年代以降の子ども史研究を再考する」54-55頁より引用)

 

 つまり、日本にあってアリエスは新自由主義(「聖域なき構造改革!」)の伴走者として機能してしまったということなのだけれども、恐らくは導入者たちが意図していなかったこの輸入学問の政治的効果を考える際に、同じく輸入学問でありながらも、結局は総力戦遂行の知的部門と化してしまった1935年~1945年までの日本マルクス主義の影を見ることは不可能ではないし、また、学者が自信を持って饒舌に語る発想が、必ずしも市民にとって利益となる訳ではないということを私は本書で知ることができた。

 

 おそらくは、「危機を煽って改革を唱える」人々(いつの時代も決して少なくはない)に対して、本書の各論文が示した事実の力によって冷静さを保つ術を得ることこそが、本書のような極めて専門性の高い文献を私の如き一市民が読むことの意義なのではないか。そのようなことを考えるための、私にとって誠に有意義な時間をこの文献と共に下さったF氏に感謝を捧げつつ、本稿を閉じたい。ありがとうございました。

第一回現代詩朗読会「病人としての宮澤賢治――誰にだって言いたくないことはある」レジュメ

概要

著名な文化人から文科省、学校の先生、ヒッピーまで、今日宮澤賢治を称えない人は存在しないのではないかと思われるような立場の詩人、宮澤賢治。多くの人は農業の聖者、エコロジーの元祖としての賢治を語るが、賢治はそこに収まらない悲哀を抱き続けた存在ではなかったか。賢治「褒め殺し」的な風潮に異を唱え、病人としての、修羅としての賢治から、新たな賢治像を提供しようとする試み。

 

使用するテキスト

*宮澤賢治『精選 名著復刻全集 近代文学館 春と修羅 関根書店版』日本近代文学館ほるぷ出版、1972年5月1日発行。――テキストA

*天沢退二郎〔編〕『新編 宮沢賢治詩集』新潮社〈新潮文庫〉2013年2月25日45刷。――テキストB

*宮沢賢治『新編 銀河鉄道の夜』新潮社〈新潮文庫〉2005年6月10日37刷。――テキストC

*丸山照雄〔編〕『近代日蓮論』朝日新聞社〈朝日選書192〉1981年10月20日発行。――テキストD

 

朗読する作品

  1. 「肺炎」、発表年月日不明、pp.393-394
  2. 「保坂嘉内あて(封書)」、1921年(大正10年)1月中旬、pp.111-112
  3. 「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」、1925年(大正14年)7月19日、pp.218-222。
  4. 「『春と修羅』序」、1924年(大正13年)1月20日、pp.3-8。
  5. 「恋と病熱」、1922年(大正11年)3月20日、p.11。
  6. 「イーハトブの氷霧」、1923年(大正12年)11月22日、p.298。
  7. 「冬と銀河ステーション」、1923年(大正12年)12月10日、pp.299-301。
  8. サキノハカといふ黒い花といっしょに」、1927年?、pp.278-279。
  9. 「何といはれても」、1927年(昭和2年)5月3日、pp.277-278。
  10. 「境内」、発表年月日不明、pp.311-316。
  11. よだかの星」、1934年(昭和9年)発表、pp.31-39。
  12. 「夜」、1929年(昭和4年)4月28日、pp.325-326。
  13. 雨ニモマケズ」、1931年(昭和6年)11月3日、pp.118-122。

 

宮沢賢治略年表

*1896年(明治29年)

**8月27日 - 花巻の古着商、宮澤政次郎と宮澤イチの長男として岩手県花巻町に生まれる。イチは岩手の地方資本家、「花巻財閥」こと宮澤善治の娘。父政次郎の浄土真宗真宗大谷派東本願寺)への傾倒から、真宗近代教学の導師、暁烏敏の影響を受けた環境で真宗門徒として育てられる。

*1909年(明治42年)13歳

**4月 - 盛岡中学校入学。

*1913年(大正3年)17歳

** – 岩手軽便鉄道(現JR東日本釜石線)営業開始。

*1914年(大正3年)18歳

**3月 – 盛岡中学校卒業。

*1915年(大正4年)19歳

**4月 – 盛岡高等農林学校入学。

*1917年(大正6年)21歳

**7月 – 友人の保阪嘉内らと同人誌『アザリア』を開始。

*1918年(大正7年)22歳

**3月 – 盛岡高等農林学校卒業。

**6月 - 肋膜炎と診断される。以後肺結核を抱えて生きていくことになる。

*1919年(大正8年)23歳

**2月 – 妹の肺結核が判明する。

*1920年大正9年)24歳

**10家の宗旨であった浄土真宗から自発的に改宗し、日蓮主義宗教団体、国柱会に入信する。以後生涯一信徒として過ごす。賢治とほぼ同時期に国柱会に入信した陸軍軍人に、同じく東北の山形県出身の石原莞爾が存在し、石原莞爾は後に満洲事変の首謀者となり、国柱会日蓮主義の強い影響の下に『世界最終戦争論』(1940年/昭和15年)を発表する。

*1921年(大正10年)25歳

**1月 - 友人の保坂嘉内に国柱会への入信を薦める手紙を送る。

**12月 – 稗貫農学校(1923年に岩手県立花巻農学校へと改編)教師となる。

*1922年(大正11年)26歳

**3月20日「恋と病熱」

**11月 - 妹トシが肺炎で死去。

*1923年(大正12年)27歳

**11月22日 - 「イーハトブの氷霧」。

**12月10日 - 「冬と銀河ステーション」。

*1924年(大正13年)28歳

**1月20日 - 「『春と修羅』序」。

**4月 - 生前刊行した唯一の詩集、『心象スケッチ 春と修羅』を自費出版。初版1000部。父が株で成功したことで経済的に余裕があったことが要因の一つ。ダダイストアナーキスト辻潤に激賞される。

**12月 -生前刊行した唯一の短編小説集、『イーハトーブ童話 注文の多い料理店』を自費出版。初版1000部。

*1925年(大正14年)29歳

**7月19日 - 「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」。

*1926年(大正15年/昭和元年)30歳

**3月 - 花巻農学校を辞職。以後農耕生活に入る。

**8月 - 羅須地人協会結成。

*1927年(昭和2年)31歳

**サキノハカといふ黒い花といっしょに」。

**5月3日 - 「何といはれても」。

**このころ、羅須地人協会に通ってきた高瀬露に結婚を言い寄られるが、ハンセン病であることを理由(そのような事実はないので断るための口実)に断る。

*1928年(昭和3年)32歳

**12月 - 肋膜炎の再発。療養生活に入る。

*1929年(昭和4年)33歳

**4月28日 - 「夜」

*1931年(昭和6年)35歳

**7月 – 草野心平が「宮澤賢治論」を発表。

**9月18日 - 満洲事変勃発。以後、非常時の掛け声とともに右傾ムードが高まる。

**肺結核の再発。

**11月3日 - 雨ニモマケズ

*1933年(昭和9年)37歳

**9月21日 - 死去。父に残した遺言は、「国訳の妙法蓮華経を一千部つくってください」であった。

*1934年(昭和9年)

**よだかの星」発表。

ツイキャス告知(第一回現代詩朗読会)

はじめに

 詩が欠けている。ポエムは満ちているが詩が欠けている。――日頃、そんなことを思いながら現代日本語詩集をたまに朗読している者として、ある日、この朗読をインターネットで配信してみたら面白いのではないかと考えてみました。

 

 現代詩朗読会では著作権の消滅した詩人の作品を、当時の世相や伝記的事実を交えつつ朗読していく予定です。第一回は宮澤賢治です。

 

 ひょっとしたら、私の配信を通して普段耳にしない現代詩を耳から聴く機会が生まれ、詩との新たな出会いが可能になるかもしれない。もしもそんな機会を作り上げることが出来れば望外の喜びです。

 

 

 

 

 

 以下、第一回現代詩朗読会「病人としての宮澤賢治――誰にだって言いたくないことはある」の概要です。

 

 

概要

 著名な文化人から文科省、学校の先生、ヒッピーまで、今日宮澤賢治を称えない人は存在しないのではないかと思われるような立場の詩人、宮澤賢治。多くの人は農業の聖者、エコロジーの元祖としての賢治を語るが、賢治はそこに収まらない悲哀を抱き続けた存在ではなかったか。賢治「褒め殺し」的な風潮に異を唱え、病人としての、修羅としての賢治から、新たな賢治像を提供しようとする試み。

 

(詳細はまた後日)

クリスマスを私に

“彼らは、クリスマスに喧嘩をするなんて恥ずかしいことだ、と言った。そのとおりだ! 本当に、そうなのである!”

ディケンズ/中川敏訳『クリスマス・キャロル集英社集英社文庫〉、2010年11月13日第15刷、93頁)

 

クリスマスが今年もやってくる

  いよいよ2016年も終わりが見えてきました。毎年この時期になるとあのビッグイベントが近づいてきます。そう、クリスマス!

 

 恋人いない歴=年齢の非モテなのにこのイベントは結構好きなのです。何が良いかと言うと何よりもまずこの時期に街が明るくなるのが良い。例年この時期に街からクリスマス向けの飾り付けがなければどんなに侘しい街並みになることか。加えてこの季節は私の好きな山下達郎が一年で一番メジャーな場面で流れます。タツローが何をした人かは知らなくても「クリスマス・イブ」のことは知っているという人は多いはず。

 

 ただ、キリスト教文化圏ではない(イエス・キリストの生誕を特別に祝う動機のない)日本で今日商業的に祝われるクリスマスは、恋人のいないワープアおじさんにとってやや居場所のないイベントであることもまた事実。というわけで、今回はそのお話をしましょう。

 

子供たちのクリスマスから、恋人たちのクリスマス

 クリスマスは原義的にはイエス・キリストの誕生日*1なので、もちろん明治以後に来日した外来の記念日です。丁髷結ったサムライが今日のようにクリスマスを祝ってる姿をイメージできる人は、まだ今は少ないでしょう(あと50年ぐらいしたら出てくるかも)。

 

 それなのにそもそもなんで今、日本でこんなにクリスマスが祝われてるのでしょう?釈迦牟尼世尊の誕生日である4月8日*2はクリスマスほど祝われないのになんでこんなに?

 

 この件について、堀井憲一郎氏が興味深い調査をしているので少し参照してみましょう。

 

“ 日本のクリスマスは、1983年に始まった。

 僕たちが子供のころ、1960年代はクリスマスは圧倒的に子供のものだった。クリスマスプレゼントをもらって、クリスマスケーキを食べて、クリスマスソングを歌って、それからお正月の準備を始める。

 おとなは正月のことで手いっぱいで、クリスマスまでかまっていられなかった。片手間で子供向けのクリスマスをやってくれただけだった。ひょっとしたら、日本のどこかではまだそういう「クリスマスは片手間」な地域が残ってるかもしれない。江戸時代の日本の香りを残してる地域。どこかにあって欲しいとおもう。”

堀井憲一郎『若者殺しの時代』講談社講談社現代新書1837〉、東京、2006年4月20日第一刷発行、38頁より引用)

 

 信じ難いことかもしれませんが、今日、日本で祝われているクリスマスの風景は実はつい最近始まった歴史の浅いものなのです。今回本稿を書くに当たって、怠惰ゆえに私は日本のクリスマス史を参照することはなかったのですが、恐らく1850年代の開国以後のキリスト教の解禁から堀井氏が幼かった頃の1960年代までおよそ100年かけて人々の間に「お正月の前にお祝いする欧米=キリスト教世界からやってきたイベント」として定着していたクリスマスは、日本クリスマス史を全て通しても、「子供向けの舶来のお祭り」だった時期の方が、たぶん圧倒的に今の「恋人たちのクリスマス」の期間よりも長いのではないか。

 

 ついでなので、まだクリスマスが子供の物だった1960年代から10年後の1970年代のクリスマスの光景も、堀井氏の記述を通して眺めてみましょう。

 

“ クリスマス・デートの記事は1970年代から始まっていた。

 

 1970年アンアン「2人だけのクリスマス」

 1972年アンアン「クリスマスに二人で行きたい店」

 1974年女性セブン「彼を獲得する今年最後のチャンス。クリスマスイブ愛の演出方法」

 1977年ヤングレディ「ふたりのためのイブの絵本」

 1977年ノンノ「クリスマスの贈り物、愛する人へ心を込めて」

 1979年ヤングレディ「二人きりの車内[カールーム]にキャンドルをともして……恋を語らう」

 

 男性誌も含めて、1970年代のいろんな雑誌をかたっぱしから探して、見つかったクリスマス記事はこの六つだった。十年間で六つしかないのだ。たぶん本当はもう少しあるだろうけど、僕にはこの六つしか見つけられなかった。男性誌には載ってなかった。見つけられなかった。いまだったら11月のある一日に出された雑誌だけで、この十年分のクリスマスの記事を越えてしまうとおもう。

 1970年代のクリスマス記事を読んでいると、世の中に、まだ恋人たちのクリスマスの場所が用意されていないことがわかる。まだそういう商売が出てきてないのだ。だから若い人たちは、自分で工夫して、ロマンチックな夜にするしかない。雑誌は、その創意工夫を提案してくれているのだ。いま読むと、想像しにくい風景だ。

 それはたとえばこういうことだ。

 7月14日はフランス革命記念日だ。これを祝って、フランス革命記念らしい飾りつけをして、フランス革命記念らしい食事を食べ、フランス革命記念らしいお祝いの品の交換をやろう、それも恋人同士でやろう、二人っきりでロマンチックにやろう、といま、僕がおもいついたとする。でも7月13日の夜にセンチュリーハイアットに行こうと六本木ヒルズに行こうと椿山荘に行こうと、どこに行こうとも、誰に[原文ママ]何もそんなお祝いセットは用意してくれていない。僕が自分で工夫して調達して演出して、祝うしかない。

 1970年代の〝恋人たちのクリスマス〝はそれと似たような状況だったのだ。”

堀井憲一郎『若者殺しの時代』講談社講談社現代新書1837〉、東京、2006年4月20日第一刷発行、43-44頁より引用)

 

 ひょっとしたら1970年代ならば、クリスマスよりもフランス革命記念日を祝う方が、『ベルサイユのばら』(池田理代子、1972年-1973年連載)で育った女学生がいた分、まだロマンチックに祝うことができたのかもしれませんが、それはさておき、当時週刊文春のライターであった堀井氏が70年代の雑誌記事を総当たりして6本しかクリスマス記事を発見できなかったという事実は、70年代はまだクリスマスが「恋人たちのクリスマス」にはなっていなかったことの証左でしょう。

 

 堀井氏によれば、子供が親からプレゼントを貰う日であり、正月よりも優先順位の低かったそれまでのクリスマスが、現在我々の良く知るクリスマスへと変わる転換点になるのは1983年12月の『an・an』の「クリスマス特集 今夜こそ彼の心[ハート]をつかまえる!」であるとのことです。それについては本稿では割愛します。詳しくは引用元の『若者殺しの時代』を読んでほしいのですが、「恋人たちのクリスマス」は要するにバブル経済の産物だということ書かれてるので興味のある方は是非ご一読下さいませ。因みにこの恋人たちのクリスマス=1983年12月誕生説を採用すると、1980年10月の時点で「恋人はサンタクロース」を録音していたユーミンは時代を三年先取ってたことになります。やっぱりユーミンは凄いなあ。冒頭で少し触れた山下達郎の「クリスマス・イブ」がシングルカットされたのは1983年12月14日なのでタツローは時流にピッタリだったようです。

 

 クリスマスを私に

 さて、以上、「恋人たちのクリスマス」の成り立ちについて述べてきました。80年代に生まれた恋人たちのクリスマスは、私の如き恋人のいないワープアおじさんにとって地味に過ごしづらい(自分が世の中の非主流派であることを意識させられるため)イベントであることは事実なのですが、冒頭で述べたように結構好きなイベントではあります。私がクリスマスを楽しむ方法はないものか。

 

 19世紀イギリスの文豪、ディケンズの小説『クリスマス・キャロル』(1843年)の中でのクリスマスは、自分を振り返り善きキリスト教徒としての道徳性を取り戻す日とされていました。これなどは「恋人たちのクリスマス」に対抗し得る本来のクリスマスの在り方のように思えますが、残念ながら私はキリスト教徒ではなかった。キリスト教徒でない者が、キリスト教徒に相応しい道徳を生きているかを自問自答するのは難しいのでこれは却下。佛教徒がディケンズの小説のような体験をしたいのならば、世尊の誕生日の4月8日にやるべきなのでしょう。きっと。

 

 それならばいっそ、異教の祭りをやめてしまえ!と仰る向き*3もあるかもしれませんが、私はこのイベント自体は結構好きなのでこれも却下。大体これだけ定着してしまったイベントを強権で廃止するとなれば、その混乱が巨大になるのは目に見えます。

 

 となると自分で楽しみ方を考える他ありませんが、どうにもこれが思い浮かびません。私の今年のクリスマスの予定はまだありませんが、私や私と同様の人々が、社会の主流派を僻むことも妬むこともなく、尊厳を持って過ごせるようなクリスマスの過ごし方をできればいいと思ってます。私のように、恋人はいないし友人もほとんどいない。社会的にも孤立している。キリスト教徒ではなく今後キリスト教徒になる予定もないけれども、このイベントが結構好きで、かつ、「恋人たちのクリスマス」から排除されてしまう人々にも楽しめるクリスマス文化がこれからできて欲しいと切に願っています。

 

 としんみり落とすのも寂しいですし、折角なので大瀧詠一の「クリスマス音頭」でも踊りましょか♪あ、ソレ♪

 


大滝詠一「クリスマス音頭」

 

 

 

若者殺しの時代 (講談社現代新書)

若者殺しの時代 (講談社現代新書)

 

 

 

クリスマス・キャロル (集英社文庫)

クリスマス・キャロル (集英社文庫)

 

 

*1:乱暴にまとめた上に本当に12月25日なのかについても異説がありますが、立ち入ると面倒なので今回は割愛。

*2:同上。

*3:本城靖久氏の著書『セネガルのお雇日本人』(中公文庫、1983年)には、人口の9割以上がイスラーム教徒の西アフリカのセネガル共和国でも、クリスマスにはデパートでプレゼントを選ぶ習慣が根付きはじめており、著者の友人でイスラーム教徒である内務省の役人がその風潮をけしからんと嘆いている様子が描かれています(184-186頁)。クリスマスは本来の文脈だったキリスト教の祝祭日であることから切り離されて、資本主義の発達と並走して世界のどこであっても体験されるグローバルな文化と化しており、それゆえに世界のどこででも反対されるイベントになっているのかもしれません。

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